詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブレイクを読む

2006-03-17 21:50:44 | 詩集
 ブレイクのことばは、あたりまえだが町田康のことばとは違う。違うけれども、やはり私は魅了される。

 ブレイク全著作集(名古屋大学出版会)のなかの「次に彼女は青白い欲望を生んだ」の次の行。

如何に美しくとも私の顔に霊感を与えるのは妬みなのだ、

 「妬み」ということばには不思議な肉体感覚がある。私たちは、それを肉体をとおして知っている。そのために、そのことばがこころに響く。
 しかし、このことばの運動は、ちょっと複雑である。なにかしら肉体の中にある矛盾をくぐりぬけてきている。たとえていえば善と悪が拮抗している、美と醜が拮抗している。
 その激しい対立運動としての「詩」である。



知識のくらい獄舎の中で汚されるまではかつて光より美しかった理性だ。

 「知識」と「理性」は普通は対立しない。しかしブレイクは対立するものとして描き出す。
 こうしたことばを読むと、ブレイクはひとつひとつのことばを他者として見ていた、という感じがする。
 ことばを、私は、自分と一体のものと感じている。
 ところがブレイクはそんなふうに感じていないのではないか。
 ことばは自分とは違うところにある。たとえブレイクがことばを書いても、それはブレイク自身の支配を超えている。
 他人(他者)についていえば、どんなに理解しているつもりでも「私」にはわからないものがある。他者の「肉体」が隠している何かがある。ふいに出現してきて「私」の想像を裏切るものがある。
 ブレイクは、ことばをそんなふうに見ていないか。
 「知識の……」という行は、そんなことを考えさせる。
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町田康詩集

2006-03-17 21:34:47 | 詩集
 町田康詩集(ハルキ文庫)を手にして、偶然開いたページの詩は「ロビンの盛り塩」。これがおもしろい。

 米が無い。米が無いので水ばかり飲んでおった。起きていても腹ががぶがぶするばかりでせつないので寝てしまった。夕方、ふと目をさますと妻はどこかに小遣いを隠し持っておったのか、鰻を誂えて食っているではないか。「おい、ちょっと呉れ」「ちょっと呉れ」呉れやがらぬ。口をきかぬのだ。返事をせんのだ。ああ、嫌になってしまった。空の丼を見つめているとからだ中に寂寥感が広がってきて涙が溢れてきた。どうしようもなくなって家を出てどこをどう歩いたか、我にかえるとロビンというの喫茶店の前に立っていた。この家の娘は気が狂っていて、店先に切り花を挿して日がな水をやっている。ここの盛り塩はいつも水で流れてぐしゃぐしゃになっている。

 リズムがとてもいい。特に「おい、ちっと呉れ」から「ああ、嫌になってしまった。」までがすばらしい。男女のいがみあい(?)の呼吸が、そのままリズムになっている。

 こうした作品を読むと、詩にかぎらず文学というのは肉体のリズムをことばにしたものだという気がしてくる。誰もがもっている肉体のリズム、感情のリズム。町田は、ことばを肉体をくぐらせて動かす。
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ブレイクを読む

2006-03-16 23:03:20 | 詩集
 「サムソン」のなかの次のことば。

今や夜が、地獄に落とされた霊たちの真昼が、

 「夜」と「真昼」が強烈に出会う。「地獄に落とされた霊」は現代では存在しないが、「夜」と「真昼」の出会いは現代にも存在する。「地獄に落とされた霊」のかわりに、ふいに何かが頭をよぎる。凶悪な殺人者の行為、ではなく、なぜそうしたことを侵してしまうのかわからない平凡な人間の、突然の殺人のようなものが。
 「闇」ではなく、「真昼」にこそ、何かが隠れている。
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ウラジミール・ナボコフ「完璧」

2006-03-15 15:09:41 | その他(音楽、小説etc)
 ナボコフ短篇全集Ⅱ(作品社)。

 ナボコフは動きの描写が繊細・精密で美しい。たとえば「完璧」。

(列車が)カーヴにさしかかると、半円状に曲がった前方の車輛と、下に降ろされた窓枠に肘をついた人たちの頭が見えた。それから列車はふたたび真っ直ぐになり、汽笛を時々鳴らし、両肘をせっせと動かしながら、ブナの森を進んでいった。(38ページ)

 「半円状に曲がった前方の車輛」がすばらしい。主人公が列車の後方の車輛に乗っていることがすぐわかる。何の描写もしていないが、主人公が、多くの乗客同様窓枠に肘をついて、同じ姿の乗客を見ている。列車という大勢の人を載せる乗り物。その乗り物のなかで主人公が主人公でありながら乗客にまぎれていく。それは主人公が、やはりひとりの人間であるにすぎないということの間接的な証明でもある。列車はしかしそんな主人公の思いなど気にしない。まわりのブナの森も気にしない。非情である。だからこそ、人間のごくありふれた姿(窓枠に肘をついて外を眺める姿)がリアルに浮き上がる。

月が手さぐりで洗面台のところまで着くと、そこで角ばったコップのある一面だけを特に選び出し、それから壁を這っていった。(39ページ)

 「手さぐりで」が「詩」である。このことばによって部屋の明かりが完全に消されていることがわかる。「コップのある一面」というのもすばらしい表現だ。「手さぐり」に呼応しているのだが、まるで月の光の動きが主人公のこころの動きに思えてしまう。「ある一面」----それが求めている一面かどうか、そして実はけっして触れ得ない一面がどこかにある、ということを暗示している。

 ストーリーはどうでもよくなる。書きながら私はすでにどんな話だったか思い出せない。しかし、今引用した2か所、さらに引用しなかった何か所かの文章は記憶に残り続ける。そして、列車の病者に出会うたびにナボコフのことを思い出すのだ。
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林嗣夫「駐車場で」

2006-03-14 11:55:30 | 詩集
 林嗣夫「駐車場で」(「兆」129)は「小詩集 花ものがたり」の「23」。

駐車場のふちに
金木犀の若木が並んでいて
いまちょうど花盛りだ

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに進め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏み込んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した
その時である
目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

花をつけた金木犀、といったが
金木犀でなくてもよかったかもしれない
花でなくても
たとえば
駐車場のふちに並べられた木箱、
でもよかったのではないか
それをめがけてまっすぐに近づき
触れるか触れないかの位置にぐい、ぐいと接近して止める
その迫り方によっては
木箱は一瞬
花となってにおいたつのではないか

 本当に花が変身したのか。
 私には林自身が変身した、という風に感じられる。金木犀への接近の仕方を林は丁寧に描写している。

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに進め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏み込んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した

 「めがけ(る)」「まっすぐ」「手前」「ちょっとブレーキを踏む」「すこしゆるめる」「ぐい、ぐい」。このなにげない動きのなかで、林は一個の肉体になる。「踏み込んだ足」という肉体の意識。「接近」を深く意識して、「接近」を確実なものにする。そして、その「接近」に対する反応をまつ。
 まるでセックスである。
 「停車した/その時」とは「接近」をやめた瞬間にほかならない。
 今度は金木犀が動きだす。「なまめく」。
 これは確かに金木犀の「変身」であるが、その「なまめき」は静かで確実な「接近」をした林の肉体がとらえた「なまめき」である。「なまめき」は林自身の肉体のなかで起きている。「めがけ(る)」「まっすぐ」「手前」「ちょっとブレーキを踏む」「すこしゆるめる」「ぐい、ぐい」という一連の動きこそ「なまめき」そのものだろう。

 あらゆる存在は、接近の仕方次第でかわる。すべての存在は接近の仕方次第で、「なまめき」「花となってにおいたつ」。そうであるなら「変身」すべきは「私」であろう。接近の仕方を間違えばにおいたっている花さえもしぼむだろう。

おもむろにドアを開け
車から降りる
花の香りがしっかりとわたしをつつむ

 この一体感。一体感のしあわせ。このとき林は林であって林ではない。林でありながら同時ににおいたつ金木犀である。

 ほら、セックスそのものでしょ?

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小松弘愛「せんだく」

2006-03-13 21:11:12 | 詩集
 小松弘愛「せんだく」(「兆」129)を読む。

 坂本龍馬が姉・乙女にあてた手紙の一語をめぐって詩が展開する。竜馬の手紙というのは

……日本(ニッポン)を今一度せんたく(洗濯)
いたし申候……

 この「せんたく」が実は洗濯ではなく、「せんだく」(高知方言で「衣服のつぎはぎ。衣類の修理」ではないのか、というのが小松の見立てである。
 坂本乙女の墓の前に立ち、小松は問いかける。

乙女さん
あなたは あの手紙をもらって
「日本を今一度せんたく……」
の件(くだり)まで読み進めたとき
 汚れがひどくなってきた日本を洗っている姿
 破れ目が大きくなってきた日本を修理している姿
どちらの姿を思い浮かべましたか

乙女さんは
大柄の体をゆすって笑いながら
あれは
龍馬がこれからやろうとしている
日本という国の大修理と思って読みました

 ああ、いい呼吸だなあ、と思う。

 ひとつのことば、ひとつの発見。あるいは誤解かもしれない。どちらでもいい。ここには発見とか、誤解とかを超えた願いがある。「せんたく」を「せんだく」と読み、それを「修理」ととらえたとき、小松は小松ではなく坂本龍馬になる。それも大上段に振りかぶって坂本龍馬になるのではなく、するりと坂本龍馬の内部に入り込んだ感じで変身する。

 この呼吸がとても自然なので、私も坂本龍馬になった気分にひたれる。乙女の墓で乙女と対話した気分になれる。

 最後の余韻というか、余白もすばらしい。

乙女さんと別れ
わたしは
見晴らしのきく所まで登って
十月の風邪に吹かれたあと
 山頂で真っ青な空を見上げればどんな嘘でも許されそうで

歌のようなものを作りながら
山道を降りてきた。

 こういう作品に出会うと、ああ、きょうはいい一日だった、と晴々する。ありがとう。
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小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』

2006-03-12 22:07:39 | 詩集
 小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波書店)を読む。

 どのエッセイにも「複数の道」がある。
 ひとつの題材がひとつの題材のまま語られるのではなく、ある題材を語り始めて、それが類似の別の題材を呼び込む。そこに一貫したテーマがあるというより、なんとなく複数の道が描かれることで、ひとつの「感覚の街」が描かれるという感じだ。
 「道について」で小池は生まれ育った江東区について語っている。区画整理された街だ。その街の道について、つぎのように書いている。

碁盤の目のなかに暮らしていたころ、わたしはひとつの道を歩きながら、同時に、その道の裏側に、平行して走る道があることを知っていた。ひとつの道がもうひとつの道と、どのようにつながっているのかを知っていた。

 この感覚が、あらゆるエッセイを通じて、その基盤にある。
 また、次のようにも書いている。

 自分の身体を何十倍にもふくらませたもの、それが暮らしている町の実感であり、同時にまた、自分が町を構成している細胞のかけらのひとつであることを、無意識のうちに感じている。

 碁盤の目で構成された街。碁盤の目のように広がっていく街。小池の街。たしかに小池のエッセイはそうした具合にできている。
 私はしかしこの感覚が好きではない。何かなじめないものを感じる。「ひとつの道がもうひとつの道と、どのようにつながっているのかを知っていた。」というときの小池の感覚が、あまりに「頭脳的」に感じられる。地図を広げ、碁盤の目を俯瞰しているように感じられる。肉体的には感じられない。「平行して走る道」というのは、俯瞰して見れば平行した道があるということとは違うのと私は感じてしまう。
 左の歩道(つまり右の歩道ではなく)をいくとコンビニがあり、そこには必ず漫画本を読んでいるお兄ちゃんがいる、というようなことが私には「平行して走る道」に感じられる。歩いていくとき、そんなことはどうでもいいのだが、なぜか思い出してしまう、気にかかる、そういう「存在」こそが「平行して走る道」(街の背後の道)ではないかという気がするからだ。
 肉体ではなく、頭脳で整理された「小池ワールド」を散歩してしまった、という気持ちになってしまうのだ。
 エッセイのなかにいくつかの詩人の作品が引用されているが、それは「肉体」というより、頭脳で整理・分類されたもののように感じられてしまう。碁盤の目で区切られた場所に整然と存在しているように感じられてしまう。その作品をここで引用したかったわけではないのに、なぜか引用してしまったというような感じがない。はじめから、今書いていることの南隣りにはその作品につづく道があると知って書いている感じがしてしまう。

 たとえば「鹿を追いかけて」。
 小池は鹿の目を「混沌のままに残されている」と書いている。そして、それを具体的に説明するために、山奥の温泉場で出会った鹿について書く。

鹿の視線は、わたしを選別するようなものではなかった。わたしを見ているのに、わたしを選ばない。むしろ、わたしの輪郭をとかし、わたしを世界のなかへとかしこみそこへ送り戻すような視線。

 これはたいへん美しいことばだ。思わず傍線を引いて読み返してしまう。「混沌」とはたしかにある存在の輪郭をとかし、世界のなかへとかしこみ、そこへひきもどすことだ。そしてそこから生成がはじまる。一期一会の生成がはじまり、あたらしいわたしが再生する。
 ところが、そうした小池の再生が、その実感のありようが、「碁盤の目」のなかに引き戻されてしまう。
 小池は、彼女自身のすばらしい体験を、村野四郎の「鹿」と重ね合わせてしまう。
 この結果、たしかに「小池ワールド」は碁盤の目のように整然とできあがるのだが、私としては、あれっ、そんなふうに碁盤の目の地図にしてしまっていいのかな、という疑問が浮かんでしまう。
 鹿と向き合ったあと、小池は次のように書いていた。

 そういう視線に見つめられたことで、わたしもまた、わたしでありながらわたしを解き、鹿を通して、鹿の向こうの大きな「森」と対峙していたのかもしれない。

 その「森」をこそ書いてほしかったと思う。森の中で小池は道に迷うだろう。道をうしなうだろう。しかし、小池には小池という肉体がある。道をうしなっても歩いていれば自然に道はできる。そしてその道は「碁盤の目」(俯瞰)ではとらえられなかった思いがけないものと出会うはずだ。そしてそのときこそ、自分の歩いた道がどことつながっていたかがわかるのではないだろうか。

 「花たちの誘惑」で、小池は菊を育てている隣家のことを書いている。見事な花がある朝、首から切り落とされていた。

彼の心中を推し量って、わたしは、ぞっとしたり、かわいそうに思ったり、でも、心の奥ではちょっといい気味だと思ったりした。

 こんなふうに「心の奥」を見つめることができるのだから、その内部へ内部へと踏み込んで行ってほしいと願わずにはいられない。「碁盤の目」のように、私のこころには「ぞっとしたり」「かわいそう」という気持ちと「平行して」「ちょっといい気味と思う」こころがあると書かれただけでは、なんだかなあ、という気持ちになってしまう。
 せっかく違う場所へ出たのなら、その場所をもっともっと押し広げてほしいと思うのだ。

*

 詩の感想について、ふたつのことを思った。石原吉郎「フェルナンデス」について、小池は書いている。

この詩を読むと、自分が活字を読んでいるという気がしなくて、目を開けていても目を使わず、ただ、くぼみを手で触っているという感じがしてくる。

 ああ、いいなあ、こういう感想を書いてみたいなあ、と思う。

 ギュンター・グラスの「黒雲の下で卵をあたためる」については、次のように書く。

 黒い雲とめんどりを見守っているのは詩人ばかりではなく、すべてこの詩の読み手たちでもあるのが、見つめる者の姿が描かれたことで、この詩を読む者はいつのまにか、この光景を見ている自分自身をも、遠くから見つめているような気持ちになってくる。見ている自分を含む、この世界全体を眺め渡す目は、いったい誰のものなのか。黒い雲の目? それとも神の目? 自分が読んでいるのに、わたしは次第に、そのことからも自由になっていく。いったい、誰がこの詩を読んでいるのか? と。

 あ、これは、どういう感覚だろうか。
 私はグラスの詩を読んだとき、まったく違う気持ちになった。鶏になった。自分以外には関心がない。石灰を食べ、卵を抱いている。何が起ころうと、そんなことなど気にしない。自分を見つめている詩人がいるなんて、どうでもいいことだ。関心は石灰と卵。それだけだ。
 世界全体を眺め渡すことなど無意味だ。ただ石灰と卵だけが事実であり、世界だ。そして、その世界である「卵」、そのなかで起きていることなど、起きてみなければわからない。その卵がどの道につながっているかなど、卵が孵化してみなければわからない。だから抱き続ける。それだけだ。そう信じて卵を抱いている鶏の「度胸」が美しい。

 世界は「眺め渡す」ものではない、「碁盤の目」に閉じ込めるものではない、ただひたすら目の前にあるものと向き合うだけなのではないか。向き合いながら、たとえば「フェルナンデス」の詩を読んだときのように、読んだことさえ忘れ「触覚」になってしまうことではないのか、と思う。

*

 私にとっては、共感できる部分と、まったく共感できない部分が、それこそ碁盤の目の道のように平行して走っているエッセイ集だった。


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ウラジミール・ナボコフ「音楽」

2006-03-11 23:39:52 | その他(音楽、小説etc)
 ウラジミール・ナボコフ「音楽」(「短篇全集Ⅱ」作品社)の書き出しに部分におもしろい文章が出てくる。

 鏡に映ったヴィクトル・イヴァノヴィチの姿が、ネクタイの結び目を直した。

 鏡のなかの像がかってにネクタイの結び目を直すということはありえない。ヴィクトル・イヴァノヴィチが鏡を見ながらネクタイを直すのである。
 これだけならきどった文章というべきかもしれない。
 しかし、この、一種の鏡を見ているような錯覚に読者を引き込む文章は、その後の作品に呼応している。
 ヴィクトル・イヴァノヴィチは常に作品のなかで、まるで鏡に映った自分をみつめるように、そして鏡のなかの像が動いて、それが彼自身を支配しているかのように、つまり、ある「像」が先行し、その像にあわせて彼が動いているかのような印象をあたえる。

 短篇の文章の醍醐味を味わった。
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橋場仁奈「ボール」

2006-03-11 23:26:47 | 詩集
 橋場仁奈「ボール」(「まどえふ」第6号)を読む。
 草むらに転がっているボールについて書いた作品。2連目がおもしろい。

黒と黄色の
小さい、まるい、縞々の、
ひろうと掌のなかで
ふむふむと蠢く(息、息をする、
草むらの、草むらで(ふむふむ、
ゆうこ、と書かれている(黒いマジックで、
ゆうこ、とゆうこが書いたのかゆうこの母が
ゆうこ、と書いたのかいえいえ母はそんなことをするはずもなく
ゆうこはゆうこ、とじぶんでじぶんに書いて
転がっている
草むら、の

 リズム、文章の息の長さの伸び縮みが楽しい。2連目以降の、ボールを探す少女とボールの想いのやりとりもリズムと息の伸び縮みにひかれて、ぐいぐい読まされる。とても気持ちがいい。
 最後の方の「ゆうこ、は」で始まる8行はとてもすばらしい。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」では、読者自身も「ゆうこ」(私)になってしまう。
 ところが、この詩はそこで終わらない。

そうして
かすかな希望をとどけたい
私たちの(さびしい、
影を映して

 余韻をもたせるために書いたのかもしれない。しかし、これでは余韻が死んでしまう。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」で終わっていたら、とてもいい作品になったと思う。

 詩は、書いたあと、前半と後半を叩ききった方が印象がくっきりすることかある。
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堀江敏幸『河岸忘日抄』(3)

2006-03-09 14:54:38 | 詩集
 「並列の夢」ということばが72ページに出てくる。電池の「並列」である。直列だと電力が大きくなり電球が明るくなる。しかし並列だと電池を何個つかおうと明るさはかわならない。その並列である。

 堀江の作品の特徴は、この「並列の夢」に象徴されている。ある存在がかわらずにあること。しかし、その奥にあるものはひとつではない。ささやかな光を支える複数の存在。複数のエネルギー。それは積み重なって巨大になるわけでもいな。互いにぶつかりあい、エネルギーを消耗してしまうこともない。

 堀江は、そうした状態に「詩」を感じているのだと思う。
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杉原美那子「雪」

2006-03-09 14:41:36 | 詩集
 杉原美那子「雪」(「笛」235号)を読む。書き出しがたいへん魅力的だ。

凍みついた雪の朝 指を切った

夜の間中
白いタイルの上で飛び跳ねる熱帯魚を
見凝めつづけていた
シャッターチャンスを狙う つめたい目で

水が必要だと気がついた時
目が覚めた
薄氷が張ったように 胸が痛んだ

 現実と夢が交錯する。その交錯がとても自然でリアルだ。
 指を切った「今」、杉原が見つめているのは何だろうか。血の滴りだろうか。血の色に似た熱帯魚の苦痛だろうか。それとも熱帯魚のために水が必要だと気がついたことだろうか。あるいは、それが夢だと気付いたときの胸のひんやりした冷たさだろうか。
 おそらくその全部が融合している。
 指先からしたたる赤い血が夢の熱帯魚のように飛び跳ねている。それをまるでシャッターチャンスを狙うかのように見つめている。なぜ? 気がついたとき、胸がしんしんと冷える。

 この作品には、まだまだつづきがあるのだが引用しない。詩はここで終わっている。あとの部分は、美しい現実と夢の融合、肉体の苦悩と愉悦の融合を、なんとか説明しようとして、あじけない散文になっている。
 「薄氷が張ったように 胸が痛んだ」という痛みが、散文の説明によって台無しになっている。
 なぜ杉原が熱帯魚がタイルの上で飛び跳ねる夢を見たのか、熱帯魚は何を象徴し、タイルは何を意味するのか、というようなことは書かなくていいことだ。すでに血(死)、雪は書かれている。それで十分だ。もし書くとするなら、それは1行ですませるべきである。

 「詩」は往々にして、付加された散文によって消えてしまう。

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小紋章子『明日への想い』

2006-03-08 23:03:42 | 詩集
 小紋章子『明日への想い』(私家版)を読む。
 「明日への想い 一」の第2連。とても美しい。

鏡をみた
母によく似てる
ますます似てくる
明後日は母に
会いにいくのだから
鏡の中に
父の顔をさがそう

 なぜ父の顔(父に似た部分)を探すのか。理由は書いていない。書いていないから私は勝手に想像する。小紋は母の子であると同時に父の子である。二人がであってはじめて小紋が誕生した。そのことを母に思い出させてやりたいのだろう。いわば幸せな青春時代を、母に思い出させてやりたいのだろう。
 そしてそれは同時に小紋自身にとっても、何か楽しい記憶に重なることなのだ。父を思い出すこと。父の思い出を生きること。その思い出を母と共有すること。

 この作品の4連目には不思議な行がある。

画面にトランプ
の絵をかいた
スペードに赤を
ぬった
ただそれだけ

 スペードは普通黒である。赤いのはハートかダイヤである。赤いスペードを見たとき、人は形からスペードと判断するだろうか。赤い色からスペードではないと思うだろうか。そしてハートやダイヤを想像するだろうか。
 この行は、不思議と、先に引用した2連目を思い起こさせる。
 小紋の顔。小紋自身は「母によく似てる」と書いているが、同時にそのなかに「父の顔」もあると判断している。赤いスペードのなかにはスペードとスペードではありえないものが共存している。スペードが母で赤が父だとすれば、小紋は赤いスペードである。スペードが父であり赤が母だとしても、小紋は赤いスペードである。

 人は人と出会って生きていく。「私」はそうした出会いのなかで形作られる。「スペード」もあれば「赤」もある。私のなかには、そうしたものが共存している。そしてそれは表に出てきたとき「赤いスペード」となる。それは奇妙な存在かもしれない。しかし、それを奇妙と思うのは、よほど融通性のない人間である。頭で論理を追いかけることだけに時間をついやしている人間である。
 「赤いスペード」を見たとき、人はそれを「赤いスペード」だと思うだけである。あ、この人はスペードを赤くぬりたかったのだと思うだけである。そうしたいならそうするしかない。そう思うだけである。だれにだって、スペードを赤くぬってみたいときがあるだろう。あるいは、青に、緑に、黄色に、白に。なんだかわからないけれど、人間には、そうしたあいまいな気分というものがある。

 小紋の詩集には、そうした人間のあいまいな気分というものを平然と受け入れている広がりがある。
 窮屈なところがない。

 私は不勉強でまったく知らないのだが、小紋は画家でもあるらしい。詩集の表紙は彼女自身の描いた絵である。この絵が詩と同じようにおもしろい。余白がある。描きたい形と色が、描きたい部分だけ描かれている。あとは余白である。余白の方が絵全体で占める割合が多い。
 先に引用した「母に似た顔」の連のように、見るものが勝手に想像すればいい、と思っているのだ。小紋がかきたいのは十分にかいた。あとは見るものが自分の感性のなかで形を描き、色を塗る。そうすることでひとつの作品が共有されるのだ。

 自分自身を開いた状態にし、そこへ読者(鑑賞者)を受け入れ、遊ばせてくるレ広がりをもった詩集である。
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多和田葉子「傘の死体とわたしの妻」

2006-03-06 15:20:21 | 詩集
 多和田葉子「傘の死体とわたしの妻」を読む。(「現代詩手帖」3月号)連作の9回目。「手作り人工受精」。

よく洗われてないんで べたべた
べた い
た べたい
いちごも たい
へんね

 書き出しの、このリズムがおもしろい。「べたべた」と「たべたい」のゆきつもどりつ、ことば遊びが、遊びながら、きちんと散文の論理をつくっていく。散文の論理の上に立って、その散文をゆるくゆるくほぐし、隙間に猥雑なものまぎれこませる。セックスをまぎれこませていく。
 こうした詩を読むと、つくづくセックス(肉体)というものには個性がない。というか、セックスに関することは、どんなささいなほのめかし、はぐらかしであっても、全部、意識にとどくという不思議さに出会う。いや、ほんとうはセックスには個人差があるのだが、実際に肉体が動く動きには限界があって、どんなに個性的な動きであっても、他人の肉体と重なり合う。重なり合ってしまい、そんなセックスなんて知らない、というようなものには出会えない。たとえば次のような行は、どうしたってフンガー・セックス以外の何ものをも想像させない。

どこまでがイチゴでどこまでが人間
腕の枝先ふるえ
あせると とろとろ落ちるばかりの ジャム
きつく くつき
ぬり指で

うまく月の部屋に入ってくれな
子宮の家主をワレと呼ぶなら
ひび
を おのずから望む
われもの が われ

 わかりきったもの、知っている世界をたどるだけなのだが、知っているからこそ、引きずられるように読んでしまう。
 多和田の作品の特徴はここにあると思う。
 多くの詩人は読者の知らない世界、詩人自身の真実世界を描こうとする。読者の知らない世界を描こうとする。ところが多和田はそうではなく、誰もが知っている世界を描こうとする。知っていることだけを描く。誰もが知っていることだけが、知っていることばだけが読者に(相手に)届くということを熟知している。セックスについて、それがどんな行為か、誰もが知っている。性器を、たとえばどんなふうに呼ぶか、たとえば「月の部屋」は月経に通じること、「われ(め)」「ひび」「われもの」が女性性器に通じることは、誰もが知っている。ただし、そうしたことばを多和田のように組み合わせてセックスを描くという方法は誰もが知っているわけではない。多和田だけが知っている。
 「詩」とは表現の仕方なのである。書き方なのである。書かれた事実や存在ではないのだ。

 すでに人間の行為は書きつくされている。ギリシャ悲劇の時代から作家たちは「書くものはもう何もない」と訴えている。しかし、延々と文学はつづく。なぜか。書き方はひとつではないからだ。

 多和田は「書く」ということを強く意識している。その意識のなかに「詩」がある。書かれた内容ではなく、書き方に個性がある。書き方というのは空気のようなものであって、これがと指し示すことができない。しかし、その文体を読めば、作者の署名がなくても、あ、これは誰それの作品だとわかる。
 多和田は、そうした強靱な文体をもった詩人である。
 文体の特徴をあげれば、先に書いたことと重複するが、誰もが知っていることばをつかう。誰もが知っている「秘密」「ほのめかし」つまり「俗な隠語」をするりとすり抜けるようにしてつかうことで、人間の肉体の曖昧さを利用する。あくまで肉体にそってことばを動かすということだろうか。

 これはきのう触れた河津聖恵のことばの動きと対比すればわかりやすいかもしれない。

みられない ききとれない かぞえられない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。
                            (河津聖恵「雪」)

 河津は「裸体」ということばをつかっているが、そのことばに触発されて、具体的な裸体を想像できる人間がどれだけいるだろうか。河津の「裸体」は抽象的であり、頭の中にのみ存在するものにすぎない。河津は肉体ではなく、精神の動きを「共有」する人にのみ向けて、ことばを発している。
 多和田のことば、たとえば「月の部屋」「ひび」「われもの」などは、それが裸体とは書いていないが、そう書けば読者は女の体を思い浮かべるということを熟知している。人間は肉体をいろいろな呼び方で呼ぶことを知っている。肉体は人間にとっては「キーワード」のように、意識しないまま、自分になじませているものだということを熟知している。
 ただし、人間は基本的に自分の体しか実感できない。だからほんの少しずつほんとうは違っているかもしれない。私と他人との間には微妙なずれがあるかもしれない。そうしたずれを刺激するようにして、多和田はことばを動かす。駄洒落、隠語、俗語……そうしたうごめきに身をまかせ、うごめきそのものになってみせる。それが多和田の文体だと思う。
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河津聖恵「雪」

2006-03-05 15:44:07 | 詩集
 河津聖恵「雪」(「現代詩手帖」3月号)を読む。河津のことばの動きには、何か長い長い遠回りをするようなものがある。遠回りすることが河津の「詩」なのかもしれない。遠回りとは、そして、想像し、想像を、ことばで検証することである。

庭で手のひらは天候をかんじている。
やがて雪が
灰白の空から翼のある時刻のように舞い降りてくるだろう。
目をとじてごらん、目にみえないものがみえるから----
誰だろう、背中から私を長い爪でつつむ者がいる。
まるで冬そのもののように。

 庭に出ている。寒い。手のひらが雪でも降りそうな寒さを感じている。そこへ声が聞こえてくる。「やがて雪が/灰白の空から翼のある時刻のように舞い降りてくるだろう。/目をとじてごらん、目にみえないものがみえるから----」。目をつむれば、そして想像すれば、その想像世界へ、現実には見えない雪が降ってくる、とその声は告げる。
 そのあとの行が複雑である。

誰だろう、背中から私を長い爪でつつむ者がいる。

 この「長い爪をもつ者」は想像のなかへ降ってくる雪よりももっと想像力を必要とする。誰なのか、何なのか、おそらく河津以外の誰にもわからないだろう。しかし、河津には説明不要なくらいそれが何であるかはわかっている。わかりすぎているから説明できない。手のひらが感じる寒さ、それが雪が近いと感じさせる寒さであるということを、ほかのことばで言い換えることができないのと同じように言い換え不能な何かがここにある。こうした言い換え不能なことばこそ、詩人にとっての「キーワード」である。
 わからないものはわからないままにして、先を読む。
 河津はこの声にしたがって河津は瞼を閉じて、幻の雪を見つめる。

その声はひさしぶりに瞼をとじさせる
(ほのおのようなものを見過ぎてしまったか)
ひとひら、ひとひら、いまだ降ってはいないものが
不思議な光りとともにほどかれてくる。
いくひら、私のたましいは受け止められたか。
あるいは通過させられるか。
一から十数えると、いつもふいにわからなくなる。
それでもうろたえなくていい。
私の背後にいる者が、数えられなかった端数を、数えているから。
それらは私の知らないあおさをまとっている。

 前半は目をとじて雪を想像している描写。とてもわかりやすい。しかし、

私の背後にいる者が、数えられなかった端数を、数えているから。

が再びわからない。だが、この「私の背後にいる者」こそ「背中から私を長い爪でつつむ者」である。彼(彼女)は、降ってくる雪のすべての数を数えることができる存在である。そうしたものがある(いる)ことによって、河津の想像はささえられている。河津は安心して雪について想像することができる。

 第3連で、その存在は、別のことばで描写される。ようやく、河津によって説明される。

長い爪を持つ者は
永遠の氷と擦れてきらめくありえない数を知っている。
雪は私のなかで大小の鳥となって滑空をはじめる。
胸の孤独の白さから冷たいはばたきが誕生し、また誕生する。
長い爪をもつ者の耳で
それらは誕生のよろこびと
消滅の恐怖に
甲高く鳴き うちふるえているのだ。

 しかし説明といっても、これでは何も説明していることにはならない。いや、もっとわかりにくくなるといった方がいいかもしれない。

長い爪をもつ者の耳で

と、ふいに「耳」が出てくる。目をつむって幻の雪を見る。幻の雪は鳥となって空を滑空する。感性の融合(視覚、聴覚の融合)は肉体にひそむいのちを奥深くから
つかみだし、何かを有無を言わせずに納得させるのが普通だが、ここでは逆に働く。「耳」の登場によって、世界が肉体から「頭脳」のなかへ引き返してしまう感じがする。(たぶん、この「頭脳」のなかへ引き返していく感じが河津の詩をわかりにくく、あるいは繊細すぎるもののように感じさせるのだと思う。)
 河津がこの連で明らかにしているのは「長い爪をもつ者」が雪を視覚、聴覚を統合した形で知っているということと、河津はそうしたことを知っているというふたつのことがらである。
 「長い爪をもつ者」は想像の産物かもしれない。しかし、それを河津は想像の産物、想像力の世界にのみ存在するということも知っている。想像したものを、想像したものであると知っている。この、何でもないような、しかし、冷徹な「頭脳」が河津のことばの動きをいつも制御しているように感じられる。
 想像したものを単に想像世界として提出するのではなく、それが想像世界手あるということを意識する河津自身も、その場に立ち会わせる。そのために遠回りが生じるのかもしれない。

頬に雪粒があたり
目をゆっくりとひらく。
長い爪のある者はふいに背中から離れていく。
雪の数の端数の彼方へみずからもともに梳られて。
だから数えきれない現実の雪を
恐れることはない。
木の株は少し橙に染まり、土は黒く濡れて。
長い爪のような枝々は陰翳の凄みをまし
みられない ききとれない かぞえきれこない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。

 ふいに「現実」が登場する。「長い爪のような枝々」が突然あらわれる。このことばに注意して、過去の行を読み返せば、「長い爪をもつ者」とは木々になるだろう。裸の木々。それは河津の知らない天候、自然を知っている。(雪を大小の鳥の滑空と河津が表現するのも、鳥と木々が縁続きにあるからだろう。)だが、ほんとうに、「長い爪をもつ者」は木々だろうか。河津が庭にたたずみ手のひらで雪が降るかもしれないと感じているときに背後に揺れていた木々だろうか。
 違う。あるいは、ほんとうだ。どちらでもある。
 「長い爪のある者はふいに背中から離れていく」一方、「長い爪のような枝々は陰翳の凄みをま」す。

みられない ききとれない かぞえきれこない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。

 「覆うようにさらけだしていく」とは矛盾である。そして、この矛盾こそが「詩」である。
 それは想像力の世界を描きながら、同時にそれが想像力の世界であると告げるやり方である。
 これは逆の言い方をした方がいいかもしれない。現実を描きながら、それが現実であると意識することは、その現実と信じているものが実は想像力に汚染されている危険があると意識しなければならないと告げることと同義である、と。

 河津は想像力の世界も現実の世界も信じてはいない。というか、そうしたものがことばでとらえられるとは信じていないのだろう。信じることができるとしたら、ことばは想像を描きながらそれを想像にすぎないと意識する運動をことばで検証することができるし、また現実を描きながらそれが想像力に汚染されたものであるかどうかを意識する運動をことばで検証することもできるということだろう。

 河津の詩は、ときにとても複雑な姿をとる。





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堀江敏幸『河岸忘日抄』(2)

2006-03-04 22:13:49 | 詩集
 堀江敏幸『河岸忘日抄』は詩で書かれた散文である。

カウンター用スツール----座面、合成皮革、黒、二脚。冷蔵庫----ジーメンス社、小型、白、使用済み。冷凍庫----ジーメンス社、白、使用済み。ガスレンジ----炉ジェール社、三つ口、ブタンガス使用。(略)(35ページ)

 たとえば、その品物の羅列。それはなんの変哲もない備品の羅列のようでいて、それを超える何かだ。生き方をつたえる実質だ。「使用済み」ということばさえ、静かで深い時間をたたえている。具体性をおろそかにしないというのは、その存在とともにある時間をおろそかにしないということだ。存在が語るどんな小さな囁きも聞き逃さない、ということだ。
 備品のリストがつくりだす、静かで確実な存在。そうした静けさと確かさ、それがこの作品の基調である。
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