詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎「旅にて 田原に」

2006-03-03 20:20:50 | 詩集
 高橋睦郎「旅にて 田原に」(「現代詩手帖」1月号)を読む。

 「現代詩手帖」3月号をめくっていたら谷川俊太郎、田原、和合亮一が鼎談している。その三人の名前を見て、私は「あっ」と叫んだ。ふいに高橋睦郎の詩を思い出したのだ。「田原に」とは場所ではなく人の名前だったのだ。田原の作品に対する感想はすでに書いたが、高橋の作品を読んだときは「田原に」がその人とは思い浮かばなかったのである。田原に中国人で日本語でも詩を書いている。「ああ、そうか」と私自身の中で納得のいくものがあった。田原の詩には何か巨大な空間(強靱な視力)があって、それは日本の風土ではなく、中国の広大な風土に根ざしているのだった。

 高橋の「旅にて」を読んだときも広大な大地がまず目に浮かんだ。

大地が土だけで出来ていることを
ここに来て あらためて知った
土だけの大地の上に 土だけの道
男が 大きな麻袋を肩に 歩いていく
彼の後ろにも 前にも 土の大地だけ
家らしいものは 何も見えないから
とりあえず 男はただ歩いているだけ
            (「1」の書き出し)

 遠近感を拒絶した(遠近感をつかむことができない)大地。土だけ。その荒々しい空間が印象的で、私は「田原」を地名だと錯覚したのだが、実際は人だった。
 田原の作品は広大な大地、日本にはない遠近感をもった空間か描かれているが、高橋も、田原の作品に、まずそうしたものを感じたのかもしれない。だから「大地」から書き始めたのだろう。
 ところで、作品のなかの「男」は田原だろうか。この詩は田原のことを描いた作品だろうか。

 田原なのだろうが、その存在の描き方が興味深い。「2」は次の8行で構成されている。(「地名」と思って読んでいた「田原」が人を指していることがわかり、まったく新しい世界が見えてきた。)

小蠅が来る
私が死ぬものだということを 嗅ぎつけて
私が生きていることは 刻刻に死に近づいていること
私が息をしなくなっても しばらくは離れないだろう
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼は もうそこにはいない
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間のもっとも親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)を持つ者よ

 「私」とはだれだろうか。高橋だろうか。田だろうか。田にかさねあわせた高橋、あるいは高橋にかさねあわせた田だろうか。どちらにしろ、もし高橋と田がであわなかったら存在し得なかった人間である。二人が出会うことで立ち上がってきた存在である。
 そして、その存在、あるいは出会いは「死」を、つまり生きているとは何かということを考えろ、と迫る。ふいにやってきた「蠅」は、「詩」であり、ことばである。

 田原の新しい詩は高橋のそれまでの作品に死をもたらす。何か違ったことばの運動があること、その運動を高橋は知らなかったということを強く感じさせる。そして、そうした印象は高橋の作品のことばを、その根っこを墓掘り人のようにあばくのだ。(「墓は 暴(あば)かれなければならない」という行が「5」にでてくる。)高橋のことばの再点検迫るのだ。その刺激が高橋のことばの運動のスピードを加速させる。この作品のなかの高橋のことばは、最近の詩のなかでは、とりわけ若々しい印象がある。

だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼は もうそこにはいない

 これは、残酷なことだろうか。冷酷なことだろうか。残酷でも冷酷でもない。とても美しい理想である。残酷も冷酷も通り越して、ただ事実を事実として語ることばの若さ、ことばの自身がみなぎっている。それは輝きをはなちながら、「死」を踏み台にして華麗に飛び立つ。

新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間のもっとも親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)を持つ者よ

 「蠅」(詩人のことば、詩)は命がむき出しになった状態、生々しい死とのみ一緒に生きる。瀕死の命、その絶叫とのみ共存する。
 生と死、その矛盾した生存のありようが一瞬だけ融合する瞬間がある。そこに「詩」がある。ことばの飛翔、「詩」だけに許された絶唱がある。
 高橋は、田原のことばによって、そのことをあらためて認識したのだろう。認識させられたのだろう。

 生と死の融合。それは性と死の融合でもある。高橋が「4」以降、性を描き、「墓」を描き、性と生が「死」(生の絶頂)で「生存の恥ずかしさ」(「7」)という抒情に融合することを描くのは、そう証左である。「いのちの絶唱」などというのは、かなり恥ずかしい。恥ずかしいけれど、そのなかにしか愉悦はない。

 ああ、すごい。
 何か猛烈なラブレターを読まされた気持ちになるが、こんな強烈なラブレターをもらったら、とまどってしまうだろうなあ。こんなすごいラブレターをぬけぬけと(?)書いてしまうのはすごいものだなあ。

 そして、このラブレターの最後「12」は、とても美しい。

ナン造りは小麦粉を捏ね
肉屋は肉塊に鉞(まさかり)を揮(ふる)い
陶工は轆轤(ろくろ)を蹴り
織師(おりし)は杼(ひ)を走らせ
さて 詩人は何をする?
彼はだんまりを決め込む
言葉に そう簡単に来られても
困るので

 はじめてあった詩人(田原)との融合(性交)を夢見ながら、それが実現してしまったらどうしようと、高橋はひとりで困惑しているのである。まるで初々しい少年、初恋にとまどう思春期の少年のようだ。
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入沢康夫「山あひのプラットホームの思ひ出」

2006-03-02 13:21:57 | 詩集
 入沢康夫「山あひのプラットホームの思ひ出」(「現代詩手帖」3月号)を読む。

 「連載詩・偽記憶」の4回目。「偽記憶」とは何だろうか。「偽」とは何だろうか。入沢の連作は、そのことを問題にしている。そして、この「偽」という問題は、入沢にとって、ことばの運動と事実の差異のことのように思われる。ある事実がある。それを描写することばがある。ことばは事実を描写しているうちに事実を離れてしまうことがある。ことばが事実を通り越してしまう。そのことばがたどりついた先から「事実」を振り返ると、それまで「事実」と思い込んでいたものと違うものが見えてしまう。

列車が来るまでには あと三十分あまり 待ちくたびれた私は コスモスが一むら揺れるプラットホームの端に向かつて 歩いて行つた

ところが どうだらう 行つても行つても 端まで行き着けないのだつた 歩くにつれてプラットホームもぐんぐん伸びて行く もうその先端は見えないほど

をかしい もう帰らうと振り返れば なんとそこは田舎の宵祭の参道で ゆかた掛けの大人や子どもでいつぱい 石畳の両側にはアセチレン燈を灯した夜店の屋台がぎつしり 下駄や木履の音 人々のざわめき そして私はその群衆の中に同級生の少女の顔を見かけたやうに思ふ

その少女が去年死んだあの子だと気付いたとき 巨きな巨きな蟷螂の赤茶けた鎌のやうなものが人閃きし すべてのざわめきがたちまち遠ざかり 私は佇(た)つてゐる 元のプラットホームの端の近くに 向うで手を振ってゐる姉「もうすぐ来るよ汽車が」

 「歩く」とは「書く」(ことばを動かす)ということに似ている。歩くとき、目的地が歩くこともあれば、歩くことそのものが目的となる場合がある。書くも同じ。目的地があって、それに向かってことばを動かしていくこともあれば、書くこと(ことばを動かすこと)自体が目的となる場合もある。面倒なのは、歩くにしろ、書くにしろ、目的地がありながら目的地を忘れ、歩く、書くに熱中してしまうことがある。そして、どの場合も、ふと現実に引き返す瞬間がある。歩く、書くという行為を永遠につづけることはできない。その瞬間。
 「振り返れば」。
 思いもかけなかったものが「見える」。見てしまう。
 この瞬間を楽しいと感じるか。なんとも感じないか。そこに「詩」の分かれ目がある。入沢は、ことばの運動に身を任せる。ことばが行く先をどこまでも追いかけていく。ことばが「現実」(事実)をはなれ、ことば自体の世界を獲得するまで追いかけていく。あるいは、ことばが向こうからやってくるまでことばを追いかける。入沢にとっては(そして多くの詩人にとってもそうだろうと思うが)、新しいことばが自分へ向かって、特定できないどこからかやってくる瞬間が「詩」に出会う瞬間だ。
 この作品の場合、「もう帰らうと振り返れば」に先行する「をかしい」がそれだ。
 「をかしい」。それは自分の想像していたことと違う。何かが、自分の知らない何かが向こうから立ち現れてくる。その瞬間が「詩」である。そういう意味では、「詩」は恐怖につながる。自分の知らないものに、自分ひとりで立ち向かわなければならない。どこからともなく立ち現れてきた「ことば」に対して、それまでのことばは、どう運動することができるか。

 この作品では「振り返れば」「思ふ」「気付いた」ということばが働いている。ことばの運動、予想外のことばを招き寄せてしまったあと、この作品では入沢のことばは「振り返れば」「思ふ」「気付いた」と、先へ進むのではなく、後戻りする。元いた場所へ戻る。
 「記憶」とは、ある場所から見つめなおした過去である。入沢のことばは、いわば元いた場所へ戻って、彼が体験したものを振り返っているから、それを総称して「記憶」と言うのだろう。

 そして、それには「偽」ということばが付いている。
 なぜ「偽」なのか。
 それは、実は、ことばがそれ自体で動いて行って、その運動が招き寄せたもの、それこそが「本物」であるべきだという思いがあるからではないのか。

 この作品に限らず、この連作の詩には、何か「記憶」を遠くから描写するような印象がある。「偽」と判断して、ゆっくりと身構えているような印象がある。それは、本当は、ここに書かれている「記憶」の向こう側、ことばがもっともっと自分自身の運動に身を任せて突き進んだ先にこそ「本物」があるという意識があるからではないだろうか。

 ことばはどこまで自由に突き進むことができるか。ことばは、いったい何を招き寄せることができるか。そうした「恐怖」としての「詩」。それをどこかで、なつかしがっている、あるいは取り戻そうとしている、そのもがき、苦悩のようなものを、最近の入沢の作品に感じる。
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江代充「留め置く所」

2006-03-01 23:26:44 | 詩集
 江代充「留め置く所」(「現代詩手帖」3月号)を読む。

 江代のことば運びには「行き止まり」という感じがある。ことばが1行目から2行目へつづいているのか、すんなりとは読めないところがある。それは1行のなかに、何かことばを先へ先へとは進めるのとは違った動きがあるからだ。

夜遅くテアトルの館外から路上近くへでて
その日主立った話の筋を家族とめぐり
徒歩で早目に歩きはじめた道の先には

 この書き出しの3行、とりわけ1行目の不思議さ。テアトルとは劇場だろう。劇場は「館」だろう(ビルかもしれないが)。「館外」から「路上近く」へ「でる」とはどいうことだろうか。なぜ、テアトルから路上へ出て、ではないのだろうか。
なぜ、「テアトル」「館外」「路上近く」とひとつのことばを少し逆戻りするようにして、あるいは重複するようにして、ことばが進むだろう。
 2行目も「主立った話の筋」が奇妙である。芝居をみて話し合うとしたら「主立った話の筋」だろうか。私には、どうも話の細部こそ人が話し合うにふさわしいものに思える。主立った筋など話さなくても了解済みのものだろう。なぜ江代のことばは、ことばを逆にたどるように動くのだろう。
 3行目。「徒歩で早目に歩きはじめた」も普通つかうことばではないだろう。「徒歩で」がまったく余分だろう。「徒歩で」と言ったあと、なぜ「歩きはじめた」と言わなければならないのか。

 ことばで先へ先へと進むのではなく、進んだ先で、その一歩を行き止まりにしてしまう。立ち止まって、「今」をみつめなおす。さらに「今」の奥の、人間のいのちのうごめきをさぐりだす----そうしたことをするためではないだろうか。


夜遅くテアトルの館外から路上近くへでて
その日主立った話の筋を家族とめぐり
徒歩で早目に歩きはじめた道の先には
家からとおく
坂の上の橋の途上から
向こう岸に立つ川端の赤いポストが見えた
図柄をおおう山のなかに
もとからほそい木木の列がうかび
ちかくの道に家族を知らぬ一組の男女もいて
口と口の間に
五月雨の柄の付いた
サクランボの熟れた木の実を挟んでいる
ねむりにつく前に
一方の口のなかへそれが差し込まれると
あのほそい柄のとれた果実の窪みが
相手の舌先にもまだ感じ取れた
そのあと崖の下の民家の夢をみるが
そこはそこで行き止まりで
低い単独の真木にしか見えない
夫婦(めおと)槇というのもあった

 ことばの重複、後戻りする形、重複することで時間を立ち止まらせる具合の反復。たとえば「サクランボの熟れた木の実」というのは、やはり異常である。「サクランボの熟れた実」あるいは「熟れたサクランボ」が普通の言い方だろう。江代はなぜこうしたごつごつしたことば運びをするのか。
 繰り返しになるが、立ち止まるためである。行を「行き止まり」にしておいて、その行全体をじっくりながめまわすためである。
 そのとき「主立った話の筋」とはまったく違ったもの、けっして「話の筋」にならなかった細部がよみがえる。(主立った話の筋をめぐって話すのは、その筋が隠している細部を発見するためかもしれない。)

 この作品で一番不思議な行は「相手の舌先にもまだ感じ取れた」ということばである。
 「冬の日」(「現代詩手帖」1月号)について触れたとき、江代の作品では人称があいまいになると指摘した。ここでも同じことがいえる。「相手の舌先」が感じているかどうかは、本当は、「私」にはわからない。けれど、私たちの肉体は不思議なもので、わからないはずの相手の肉体が感じていることを感じてしまう。不思議な融合がある。感覚の共有がある。
 そして、この感覚の共有は、不思議なことに江代の場合、人間を孤独から解放するのではなく、逆に孤独を深めるような感じである。感覚の共有が、私と誰かが同じ人間であるという印象を呼び起こすのではなく、同じ感覚をもっていてもけっして人間は重なり合わないという印象を深める。

 そして、またややこしいことに、この孤独が、人を(読者を)ひきつける力となっている。

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