監督 青山真治 出演 浅野忠信、石田えり、宮崎あおい、板谷由夏、中村嘉葎雄、オダギリジョー
浅野忠信が北九州の街をさまよい歩く。私は北九州市に住んだことがあるのでそんなふうに感じるのかもしれないが、若戸大橋や昭和館(映画館)など馴染みの風景がスクリーンに映し出されても、浅野忠信のさまよう感じが強烈すぎて、見慣れているはずの街がまるて違って見えてくる。浅野忠信のさまよいにあわせて、街そのものがさまよっているかんじがするのだ。
最初の方のシーンで空中から関門大橋などを、北九州とわかる風景が映し出されるが、そのシーンは、ぷつん、ぷつんと画面が切れる。スムーズにつながっていない。何度も撮り直し、つないだような奇妙な印象がある。へたくそな撮影、と思ってしまいそうだが、そうではないのだ。これは意図的にぷつん、ぷつんなのだ。さまようというのは視線がずるずるずるっとずれてゆくのではなく、連続性をなくして、飛び飛びにつながってゆくことなのだ。ぷつん、ぷつんと切れたシーンそのままに、視線が、意識が飛び飛びに動いてゆく。連続性がないから、きちんと引き返せない。きちんと方向を定められない。それがさまよいである。
浅野忠信が女とキスしセックスするシーンも同じである。きちんとつなげればきちんとした映像になるはずなのに、わざとずらしている。浅野忠信が女との関係でもさまよっていることがわかる。
浅野忠信がたどりつくのは、そうした「さまよう」人々が集まっている運送会社である。そこに浅野忠信の母、石田えりがいて、石田えりのために浅野忠信はさまよっていたということがわかる。ふたりが出会い、さまようことと、さまよわないこと、男と女の違いが、平然と、まるごと、そこに投げ出される。このふたりのシーンには度肝を抜かれる。人間はこんなに違うものか、と驚かされる。浅野忠信はさまよい、視線も、ことばも、ぷつん、ぷつん。一方の石田えりは、すべてをずるずるとままのみにし、吸収してしまう。浅野忠信はそこから抜け出したいのだが、抜け出せない。浅野忠信は石田えりのなかでもさまよいつづけるのである。さまようことに苛立ち、石田えりに当たり散らすが、何をしても石田えりの「内部」にとどまりつづける。まるで、赤ん坊が母親の胎内で子宮の壁を蹴っている感じである。男がさまようといっても、それは女から見れば、たかだかそういうものなんだ、と言っているようでもある。
石田えりのせりふに、「いくつになっても子どもは子ども」という、よく母親が口にすることばがでてくるが、この子どもというのは、幼いというよりも、いつまでたっても子宮のなかにいる、子宮のなかにいて、子宮の壁を蹴っているということだろうと思ってしまう。私はこれまでそんなふうに考えたことがないので、びっくりしてしまった。いつまでもいつまでも、女は、子どもが子宮の壁をけった記憶で子どもを意識しつづけているのである。そして、子宮の壁をけっていることも(けっていたことも)知らないで、いい気なものだ、特に男の子どもはいい気なものだと感じている。
母親ならば子宮の壁を蹴られるのは仕方がない。それが子どもの生きるということだから、と女はすべてを受け入れる。大切なのは、その子宮を蹴る力で世界へ飛び出してくることだ、そこで生き続けることだ、とすべてを受け入れる。社会一般に言う悪も善も関係ないのである。
そして、そこに女の哀しみがある。
そしてそれは、女の哀しみというより、人間の、生きる哀しみでもある。悪も善も受け入れて、そのなかでさまよい、さまようことでまっすぐに歩く--矛盾したことばでしかいえない、強い真実がそこにある。
そういう哀しみを、石田えりは、「ほほえみ」で演じている。石田えりの「ほほえみ」と浅野忠信のさまよい、そして、その脇をぐっとおさえる中村嘉葎雄の演技を見るだけでも、この映画を見る価値がある。見なければならない絶対的な真実がある。
この秋に、見逃してはならない傑作中の傑作の一本である。
浅野忠信が北九州の街をさまよい歩く。私は北九州市に住んだことがあるのでそんなふうに感じるのかもしれないが、若戸大橋や昭和館(映画館)など馴染みの風景がスクリーンに映し出されても、浅野忠信のさまよう感じが強烈すぎて、見慣れているはずの街がまるて違って見えてくる。浅野忠信のさまよいにあわせて、街そのものがさまよっているかんじがするのだ。
最初の方のシーンで空中から関門大橋などを、北九州とわかる風景が映し出されるが、そのシーンは、ぷつん、ぷつんと画面が切れる。スムーズにつながっていない。何度も撮り直し、つないだような奇妙な印象がある。へたくそな撮影、と思ってしまいそうだが、そうではないのだ。これは意図的にぷつん、ぷつんなのだ。さまようというのは視線がずるずるずるっとずれてゆくのではなく、連続性をなくして、飛び飛びにつながってゆくことなのだ。ぷつん、ぷつんと切れたシーンそのままに、視線が、意識が飛び飛びに動いてゆく。連続性がないから、きちんと引き返せない。きちんと方向を定められない。それがさまよいである。
浅野忠信が女とキスしセックスするシーンも同じである。きちんとつなげればきちんとした映像になるはずなのに、わざとずらしている。浅野忠信が女との関係でもさまよっていることがわかる。
浅野忠信がたどりつくのは、そうした「さまよう」人々が集まっている運送会社である。そこに浅野忠信の母、石田えりがいて、石田えりのために浅野忠信はさまよっていたということがわかる。ふたりが出会い、さまようことと、さまよわないこと、男と女の違いが、平然と、まるごと、そこに投げ出される。このふたりのシーンには度肝を抜かれる。人間はこんなに違うものか、と驚かされる。浅野忠信はさまよい、視線も、ことばも、ぷつん、ぷつん。一方の石田えりは、すべてをずるずるとままのみにし、吸収してしまう。浅野忠信はそこから抜け出したいのだが、抜け出せない。浅野忠信は石田えりのなかでもさまよいつづけるのである。さまようことに苛立ち、石田えりに当たり散らすが、何をしても石田えりの「内部」にとどまりつづける。まるで、赤ん坊が母親の胎内で子宮の壁を蹴っている感じである。男がさまようといっても、それは女から見れば、たかだかそういうものなんだ、と言っているようでもある。
石田えりのせりふに、「いくつになっても子どもは子ども」という、よく母親が口にすることばがでてくるが、この子どもというのは、幼いというよりも、いつまでたっても子宮のなかにいる、子宮のなかにいて、子宮の壁を蹴っているということだろうと思ってしまう。私はこれまでそんなふうに考えたことがないので、びっくりしてしまった。いつまでもいつまでも、女は、子どもが子宮の壁をけった記憶で子どもを意識しつづけているのである。そして、子宮の壁をけっていることも(けっていたことも)知らないで、いい気なものだ、特に男の子どもはいい気なものだと感じている。
母親ならば子宮の壁を蹴られるのは仕方がない。それが子どもの生きるということだから、と女はすべてを受け入れる。大切なのは、その子宮を蹴る力で世界へ飛び出してくることだ、そこで生き続けることだ、とすべてを受け入れる。社会一般に言う悪も善も関係ないのである。
そして、そこに女の哀しみがある。
そしてそれは、女の哀しみというより、人間の、生きる哀しみでもある。悪も善も受け入れて、そのなかでさまよい、さまようことでまっすぐに歩く--矛盾したことばでしかいえない、強い真実がそこにある。
そういう哀しみを、石田えりは、「ほほえみ」で演じている。石田えりの「ほほえみ」と浅野忠信のさまよい、そして、その脇をぐっとおさえる中村嘉葎雄の演技を見るだけでも、この映画を見る価値がある。見なければならない絶対的な真実がある。
この秋に、見逃してはならない傑作中の傑作の一本である。