連作である。その冒頭の「薔薇と複眼」がいい。
「百足の如く」という常套句が、ここでは不思議な魅力を発揮している。「そっと」という副詞も同じである。「耳を貸さぬ」「通過した」も同じである。ここには何も新しいものがない。そして、その新しいことがないということが、「永山則夫」を特別な人間ではなく、「ありふれた」人間として呼び出すからである。
この冒頭の1連は、「永山則夫」ではなく、「永山則夫」を目撃した囚人(山岡が彼の視線を仮託した架空の人物)の視点のありようを浮かび上がらせるものだが、そういう「ありふれた」ことば、常套句をつかう人間から、「永山則夫」を描くとき、そこには「ありふれた」人間としての「永山則夫」が浮かび上がる。
いったん「ありふれた」人間として呼び出し、その「ありふれた」ところから、「ありふれてはない」特別な人間、ひとりの人間としての「永山則夫」へ山岡は接近して行く。「百足の如く」ではなく、何かオリジナルな比喩がつかわれていたら、そこには最初から「永山則夫」を特別な人間として見つめることになる。特別な人間、特別な意識を明らかにするためには、特別比喩というのは、あまり効果がない。読者を身構えさせてしまうからである。
仕掛けに満ちた魅力的な書き出しである。
「ふいに/こめかみを掠める/朱色の蜻蛉」という手垢にまみれた抒情がとても美しい。不思議に安心感を誘う。この常套句の羅列で、どこまで「永山則夫」に迫れるか。いつ、この常套句が、オリジナルにとってかわるか。その瞬間を期待しながら、作品を読み続けた。
そして最後の「夜想曲の処刑」。
とても快調である。「弘前行きの電車が何か言いたげに走ってゆく」の「何か言いたげに」という常套句がとてもいい。クライマックスは、いつでも「何か言いたげ」なものへと接近していくことから始まる。いよいよ佳境に入るのだ、という予感を誘うのに最適の常套句である。「時が漂白されて忘却の手を振っている」も、何かわくわくするような常套句である。「読んだことがあるぞ」という期待感があふれてくる。デジャ・ヴを誘うものがある。
「永山則夫」という特別な人間は、デジャ・ヴのなかでこそ、鮮やかに輝く存在なのだと思う。つまり、私たちの意識の奥(隠し続けいてる何か、否定し続けている何か--それがあることを知っているけれど、否定している何か)を照らしだし、その瞬間に生き返る存在だと思う。
ところが。
同じように「常套句」のままである。山岡は「常套句」を抜け出したつもりかもしれないけれど、抒情にまみれ切った「夜想曲」(わざわざ「ノクターン」というルビまでついている)でつまずき、「噴出するトランスフォームの解禁!」と瓦解する。
「百足の如く」という、だれもが知り尽くしている比喩(常套句--「百足競走」といえば、小学生にもわかる「比喩」、常套句を利用した比喩である)から、「夜想曲(ノクターン)」という古くさい叙情詩の「常套句」をくぐり、「噴出するトランスフォームの解禁」という最新の(?)「常套句」へ。この移動(トランスフォーム、と言い換えるべきか)はとてもつまらない。小学生にもわかる比喩「百足」、小学生にもわかる抒情「朱色の蜻蛉」から、古くさい文学青年好みの「夜想曲(ノクターン)」を経て、小学生ややるくさい文学青年(文学老人)にはわからない(あるいは現代の最先端の小学生にだけはわかりやすすぎる)「噴出するトランスフォームの解禁!」への移動。
「難解」という「現代詩」のばかげた「常套句」的批判を誘うだけの移動。「最先端」という「常套句」を誘うだけの無意味な比喩。
実際、ここには「難解」、「最先端」という刺激は、存在していない。とても、つまらない。なぜ、こんなふうに突然、ことばをつまらなくして、作品を閉じることができるのか。山岡の意図がわからない。
列を乱さぬよう
百足の如く行進した
肩越しに未決拘留二年目のヤクザから
そっと
日本赤軍派最高幹部・森恒夫が首を吊った窓を
教えられても
耳を貸さぬ関節になって
看守の前を
通過した
「百足の如く」という常套句が、ここでは不思議な魅力を発揮している。「そっと」という副詞も同じである。「耳を貸さぬ」「通過した」も同じである。ここには何も新しいものがない。そして、その新しいことがないということが、「永山則夫」を特別な人間ではなく、「ありふれた」人間として呼び出すからである。
この冒頭の1連は、「永山則夫」ではなく、「永山則夫」を目撃した囚人(山岡が彼の視線を仮託した架空の人物)の視点のありようを浮かび上がらせるものだが、そういう「ありふれた」ことば、常套句をつかう人間から、「永山則夫」を描くとき、そこには「ありふれた」人間としての「永山則夫」が浮かび上がる。
いったん「ありふれた」人間として呼び出し、その「ありふれた」ところから、「ありふれてはない」特別な人間、ひとりの人間としての「永山則夫」へ山岡は接近して行く。「百足の如く」ではなく、何かオリジナルな比喩がつかわれていたら、そこには最初から「永山則夫」を特別な人間として見つめることになる。特別な人間、特別な意識を明らかにするためには、特別比喩というのは、あまり効果がない。読者を身構えさせてしまうからである。
仕掛けに満ちた魅力的な書き出しである。
金網の向こうを
座り観音の態で通りすぎてゆくのは
連続射殺魔永山則夫ではないか
看守に両腕を掴まれ
飛ぶように運ばれてゆく
顔は髭で覆われてはいるが
すぐわかる
似合わないからすぐわかる
それがゼロ番区から来た男との最初で最後の出会いで
あった
ふいに
こめかみを掠める
朱色の蜻蛉
-嘆く前に 憎め-
茶色の複眼の中を毒づきながら
「四人殺し」で生き返った
幽霊少年が
書物の中に消えてゆく
「ふいに/こめかみを掠める/朱色の蜻蛉」という手垢にまみれた抒情がとても美しい。不思議に安心感を誘う。この常套句の羅列で、どこまで「永山則夫」に迫れるか。いつ、この常套句が、オリジナルにとってかわるか。その瞬間を期待しながら、作品を読み続けた。
そして最後の「夜想曲の処刑」。
二〇〇七年八月三日
立ち尽くす駐車場は石ころの海
拾い上げ
投げればとどく線路を
弘前行きの電車が何か言いたげに走ってゆく
吸いつくような太陽の光を受けて
拳を握る
ここは
四十年前にきみが住んだアパート跡
時が漂白されて忘却の手を振っている
とても快調である。「弘前行きの電車が何か言いたげに走ってゆく」の「何か言いたげに」という常套句がとてもいい。クライマックスは、いつでも「何か言いたげ」なものへと接近していくことから始まる。いよいよ佳境に入るのだ、という予感を誘うのに最適の常套句である。「時が漂白されて忘却の手を振っている」も、何かわくわくするような常套句である。「読んだことがあるぞ」という期待感があふれてくる。デジャ・ヴを誘うものがある。
「永山則夫」という特別な人間は、デジャ・ヴのなかでこそ、鮮やかに輝く存在なのだと思う。つまり、私たちの意識の奥(隠し続けいてる何か、否定し続けている何か--それがあることを知っているけれど、否定している何か)を照らしだし、その瞬間に生き返る存在だと思う。
ところが。
岩木山に雲がかかり
北津軽郡・板柳駅にまた新しい電車がたどりつく
ここから
きみは
帰らない夜想曲(ノクターン)になった
ある日
恋さえ知らぬおとなしい鯉が
竜になろうとするように
噴出するトランスフォームの解禁!
同じように「常套句」のままである。山岡は「常套句」を抜け出したつもりかもしれないけれど、抒情にまみれ切った「夜想曲」(わざわざ「ノクターン」というルビまでついている)でつまずき、「噴出するトランスフォームの解禁!」と瓦解する。
「百足の如く」という、だれもが知り尽くしている比喩(常套句--「百足競走」といえば、小学生にもわかる「比喩」、常套句を利用した比喩である)から、「夜想曲(ノクターン)」という古くさい叙情詩の「常套句」をくぐり、「噴出するトランスフォームの解禁」という最新の(?)「常套句」へ。この移動(トランスフォーム、と言い換えるべきか)はとてもつまらない。小学生にもわかる比喩「百足」、小学生にもわかる抒情「朱色の蜻蛉」から、古くさい文学青年好みの「夜想曲(ノクターン)」を経て、小学生ややるくさい文学青年(文学老人)にはわからない(あるいは現代の最先端の小学生にだけはわかりやすすぎる)「噴出するトランスフォームの解禁!」への移動。
「難解」という「現代詩」のばかげた「常套句」的批判を誘うだけの移動。「最先端」という「常套句」を誘うだけの無意味な比喩。
実際、ここには「難解」、「最先端」という刺激は、存在していない。とても、つまらない。なぜ、こんなふうに突然、ことばをつまらなくして、作品を閉じることができるのか。山岡の意図がわからない。