詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山岡遊「永山則夫」

2008-02-17 08:43:34 | 詩(雑誌・同人誌)
 連作である。その冒頭の「薔薇と複眼」がいい。

列を乱さぬよう
百足の如く行進した
肩越しに未決拘留二年目のヤクザから
そっと
日本赤軍派最高幹部・森恒夫が首を吊った窓を
教えられても
耳を貸さぬ関節になって
看守の前を
通過した

 「百足の如く」という常套句が、ここでは不思議な魅力を発揮している。「そっと」という副詞も同じである。「耳を貸さぬ」「通過した」も同じである。ここには何も新しいものがない。そして、その新しいことがないということが、「永山則夫」を特別な人間ではなく、「ありふれた」人間として呼び出すからである。
 この冒頭の1連は、「永山則夫」ではなく、「永山則夫」を目撃した囚人(山岡が彼の視線を仮託した架空の人物)の視点のありようを浮かび上がらせるものだが、そういう「ありふれた」ことば、常套句をつかう人間から、「永山則夫」を描くとき、そこには「ありふれた」人間としての「永山則夫」が浮かび上がる。
 いったん「ありふれた」人間として呼び出し、その「ありふれた」ところから、「ありふれてはない」特別な人間、ひとりの人間としての「永山則夫」へ山岡は接近して行く。「百足の如く」ではなく、何かオリジナルな比喩がつかわれていたら、そこには最初から「永山則夫」を特別な人間として見つめることになる。特別な人間、特別な意識を明らかにするためには、特別比喩というのは、あまり効果がない。読者を身構えさせてしまうからである。
 仕掛けに満ちた魅力的な書き出しである。

金網の向こうを
座り観音の態で通りすぎてゆくのは
連続射殺魔永山則夫ではないか
看守に両腕を掴まれ
飛ぶように運ばれてゆく
顔は髭で覆われてはいるが
すぐわかる
似合わないからすぐわかる
それがゼロ番区から来た男との最初で最後の出会いで
あった
ふいに
こめかみを掠める
朱色の蜻蛉
-嘆く前に 憎め-
茶色の複眼の中を毒づきながら
「四人殺し」で生き返った
幽霊少年が
書物の中に消えてゆく

 「ふいに/こめかみを掠める/朱色の蜻蛉」という手垢にまみれた抒情がとても美しい。不思議に安心感を誘う。この常套句の羅列で、どこまで「永山則夫」に迫れるか。いつ、この常套句が、オリジナルにとってかわるか。その瞬間を期待しながら、作品を読み続けた。
 そして最後の「夜想曲の処刑」。

二〇〇七年八月三日
立ち尽くす駐車場は石ころの海
拾い上げ
投げればとどく線路を
弘前行きの電車が何か言いたげに走ってゆく
吸いつくような太陽の光を受けて
拳を握る
ここは
四十年前にきみが住んだアパート跡
時が漂白されて忘却の手を振っている

 とても快調である。「弘前行きの電車が何か言いたげに走ってゆく」の「何か言いたげに」という常套句がとてもいい。クライマックスは、いつでも「何か言いたげ」なものへと接近していくことから始まる。いよいよ佳境に入るのだ、という予感を誘うのに最適の常套句である。「時が漂白されて忘却の手を振っている」も、何かわくわくするような常套句である。「読んだことがあるぞ」という期待感があふれてくる。デジャ・ヴを誘うものがある。
 「永山則夫」という特別な人間は、デジャ・ヴのなかでこそ、鮮やかに輝く存在なのだと思う。つまり、私たちの意識の奥(隠し続けいてる何か、否定し続けている何か--それがあることを知っているけれど、否定している何か)を照らしだし、その瞬間に生き返る存在だと思う。
 ところが。

岩木山に雲がかかり
北津軽郡・板柳駅にまた新しい電車がたどりつく
ここから
きみは
帰らない夜想曲(ノクターン)になった
ある日
恋さえ知らぬおとなしい鯉が
竜になろうとするように
噴出するトランスフォームの解禁!

 同じように「常套句」のままである。山岡は「常套句」を抜け出したつもりかもしれないけれど、抒情にまみれ切った「夜想曲」(わざわざ「ノクターン」というルビまでついている)でつまずき、「噴出するトランスフォームの解禁!」と瓦解する。
 「百足の如く」という、だれもが知り尽くしている比喩(常套句--「百足競走」といえば、小学生にもわかる「比喩」、常套句を利用した比喩である)から、「夜想曲(ノクターン)」という古くさい叙情詩の「常套句」をくぐり、「噴出するトランスフォームの解禁」という最新の(?)「常套句」へ。この移動(トランスフォーム、と言い換えるべきか)はとてもつまらない。小学生にもわかる比喩「百足」、小学生にもわかる抒情「朱色の蜻蛉」から、古くさい文学青年好みの「夜想曲(ノクターン)」を経て、小学生ややるくさい文学青年(文学老人)にはわからない(あるいは現代の最先端の小学生にだけはわかりやすすぎる)「噴出するトランスフォームの解禁!」への移動。
 「難解」という「現代詩」のばかげた「常套句」的批判を誘うだけの移動。「最先端」という「常套句」を誘うだけの無意味な比喩。
 実際、ここには「難解」、「最先端」という刺激は、存在していない。とても、つまらない。なぜ、こんなふうに突然、ことばをつまらなくして、作品を閉じることができるのか。山岡の意図がわからない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒井愛子『イエスをめぐる女たち』

2008-02-16 01:23:14 | 詩集
イエスをめぐる女たち―詩集
荒井 愛子
思潮社、2007年11月30日発行

このアイテムの詳細を見る

 タイトルからもわかることだが、この詩集は「キリスト教」(あるいは「聖書」)と深く関係している。私はキリスト教徒ではない。「聖書」も少し読んだけれど通読したことはない。知識として知っていることはあるけれど、「キリスト教」も「聖書」も、私は理解しているわけではない。納得してるわけではない。だから私の感想はとんちんかんかもしれない。「キリスト教」「聖書」とは無関係に、ただ感じたことを書いておく。
 この詩集はとても読みやすい。たとえば冒頭の「愛」。

少年は はじめ やさしく数えた
少年は つぎに ていねいに数えた
少年は さらに けんめいに数えた
けれど やはり どうしても

羊の数は九九匹 一匹足りなかった
くらかった さびしかった けわしかった
岩山を 少年は はだしで 急いで
必死に 笛吹きながら探した
一匹の羊を
夜の闇におびえ
夜の寒さにこごえ
とりのこされたかなしさにふるえて
いるであろうその羊のこころをたずね
一心に祈りながら
神への道をひた走りに走った
そうして 少年の瞳にしたものは
やはり 神はいるのであった
しっかりと かよわな羊をだきとめ
あたたかく頬ずりされる
愛そのものの神が
     (「一匹の羊」は原文は「一匹の半」となっているが、誤植だろう)

 どこかで聞いたような感じの羊と少年、少年と神の関係が書かれている。「聞いたような」という感じをいだくのは、たぶん「羊」のせいだろう。「愛」ということばのせいだろうと思う。どちらも「キリスト教」「聖書」に関係している。
 そう思いながらも、

一匹の羊を
夜の闇におびえ
夜の寒さにこごえ
とりのこされたかなしさにふるえて
いるであろうその羊のこころをたずね

 という5行にはっとする。ここでは、羊と少年が重なって見えるからである。「夜の闇におびえ」からつづく3行は、読み通すと羊の描写だとわかるけれど、読んでいる最中は少年の姿にも見えるからである。きのう触れた塚本一期「モアイのこと」ではないけれど、少年と羊が一体になっているからである。そういう一体感に詩のはじまりの何かがある。そういうことに気がつき、はっとするのである。はっとして、同時に、美しい描写だなあ、と感心して読み返してしまう。

 この詩集に問題(?)があるとすれば、そういう美しい行を含みながらも(含みながらも、というのはちょっと変な言い方だけれど)、それがとても読みやすい、読みやすすぎるということである。
 「マタイ・忠実」という作品には、次の2行がある。

あの方は声をかけてくだされた
あわれみをかけてくだされた

 「かけてくだされた」ということばが繰り返されている。たぶん「繰り返す」(反復)が荒井の詩の、表面にはあらわれていない「思想」なのだと思う。荒井の本質なのだと思う。そしてまた、「聖書」のことばも何度も何度も繰り返されることで、現在の方に知なっているのだと思う。--宗教のことばは繰り返されることで真実になる。そのことを荒井は、いわば無意識に実践しているのかもしれない。
 この繰り返しは、「愛」にも何度もつかわれている。第一連の「数えた」の繰り返し、そして、「くらかった さびしかった けわしかった」という畳みかけも、一種の繰り返しである。
 あることを何度も何度も繰り返す。反復する。そうするうちに、その運動のもっているムダな部分が自然にとりのぞかれる。もっとも小さいエネルギーで動いていく方法を肉体として獲得する。もちろんこれは思想が肉体化するということだから、とてもいいことではある。
 ただし、そうした思想が、まったくオリジナルなものではなく、「キリスト教」や「聖書」と一緒に結びついてしまうと、それは詩としては、あまりおもしろくない。
 荒井が大切にしているものを「おもしろくない」と言ってしまうと、荒井を傷つけることになるかもしれないが、私には「おもしろくない」としか言いようがない。別なことばで言い換えるならば、「現代詩」を読んでいる、という気持ちにならないのである。
 「キリスト教」や「聖書」という「流通」している言語と結びつくのではなく、まだことばとして定着していない、何かもっと不透明なもの、まだだれも解明していないものと結びついたことばを読みたい、という気持ちになるのである。
 私は「キリスト教」も「聖書」も知らないけれど、知らないはずのそれらが、きっと荒井の書いていることばどおりに構成されているだろうという印象が、ちょっと困るのである。
 キリスト教徒や荒井には、この「困る」がわからないかもしれない。
 私は、宗教として、詩を読みたいとは思わない。宗教とは無関係に、ただ、新しく生まれ変わろうとすることば--文学のことばを読みたいのである。
 こういう欲求を荒井の向けていいものかどうか、実は、私は判断しかねているのでもあるけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塚本一期「モアイのこと」「初詣の道」

2008-02-15 11:24:46 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]

思潮社

このアイテムの詳細を見る


 「新人作品」欄の2篇。作品を選んでいる蜂飼耳がすでに書いていることだが、次の部分がおもしろい。「モアイ」の2連目。

モアイがいるところは
草が生えていて
島で
ごつごつしていて 海が
すごくずっと遠くまで見えるのを見たことがあって
モアイは並んで岸から
すごく遠い目をして海を見てたんじゃないかな
帰りたいところがあるような顔をしているように見えたと思う

 「モアイ」と塚本が重なり合う。何かを見ること、何かを書くことは、その何かと一体になってしまうこと。自分が自分でなくなってしまうこと。そして、自分が自分でなくなることが、自分に「なる」ことでもある。それは「存在」としてそこに「ある」ということではなくて、「生きる」ということでもある。「なりつづける」ことでもある。
 「帰りたいところがあるような顔をしているように見えた」とき、塚本の顔は、私には「帰りたいところがあるような顔をしているように見え」る。塚本に会ったことは、もちろん、ない。ないけれど、そんな顔が思い浮かぶ。
 ここに書かれているのは実は「顔」ではなく、感情である。顔ではなく、感情が見える。(表情の「情」は感情の「情」でもある。)感情が見えるから、たとえ会ったことのない塚本であっても、その顔が見えたように感じてしまうのである。私たちはいつでも「顔」をみるふりをして、ほんとうは表情、つまり感情をみている。
 塚本も、同じように「モアイ」の顔ではなく、感情をみている。
 ただし、塚本は、その「感情」というものにおぼれない。そこからさらに先へ(?)とすすむ。もっと混沌したもの、というか、「感情」のように「流通」するものではなくて、「流通」以前の根源へと向かう。つまり、感情がもっとむき出しになって(?)、「感じ」にかわる。
 「情」になってしまうと、それはべたべたした抒情(ここにも「情」が登場する)にまみれる。
 作品の3連目。

すごく大きいよな
だから
草の感じとか
赤い岩とか
モアイの顔があって
モアイの顔に触るとすごくいいよな
そこにはビルがないよな そして
お金もないから
そこでひび割れた岩とか風とかも元気で
かなしそうなモアイだけ人間がいたっていう感じがするだろう

 「感じ」。「草の感じ」の「感じ」。
 私は、この3連目の「草の感じ」の「感じ」という表現が、この詩のなかではいちばん好きだ。
 「モアイ」と一体になったあとの、塚本が塚本ではなくなったあとの、はじめて見る風景。まだ描写にならない何かを含んでいる「感じ」。「草の感じ」の「感じ」には、そういうものが含まれている。草の何を描写していいか、まだわからない。わからないけれど、わかっている。何かが塚本にだけはわかっていて、それを伝えようとして「感じ」というむき出しの表現になってしまうのだ。
 「感じ」は、いわゆる「文学的表現」になりえていない。「草の感じ」ときいただけで、あ、塚本の作品だとわかるひとはいないだろう。「感じ」ということばだけを取り出して、それが塚本独自のもの、と主張しても誰にも伝わらないだろう。「感じ」ということばはだれでもがつかっている。どこにも塚本が「刻印」されていない。--しかし、ほんとうは、深く深く塚本が刻印されている。その刻印を証明する方法を私たちが持たない(それを私が証明できない)だけのことである。
 こういうことば、作者独自のことば(そのことばがなければ作品が成り立たないことば)、しかもそれが作者独自のものであると証明できないようなことばが、私は好きだ。そのことばをじっと見つめていると、そこから証明できないけれど作者の「思想」が浮かび上がってくる。「思想」が生まれてきているのがわかる。そういうことばが。

 この「草の感じ」の「感じ」は最終行で、大転換する。

かなしそうなモアイだけ人間がいたっていう感じがするだろう

 この「感じ」はだれのもの?
 たちどまって、うなって、七転八倒してしまうのだ。私は。
 何かを見て、その対象と一体になる。一体になることで、自己を超越する。そのあとで生まれてくる「感じ」。それは、まだだれも感じたことのない「感じ」なのだ。塚本は「モアイ」の「感じ」のように書いているけれど(文法上はそんなふうに読むことができるけれど)、そんなふうに考えることを、私の心は私に許さない。
 七転八倒する--と書いたのは、そういう意味である。もう、まるごと、その1行を受け入れることしかできない。
 書き換え不能な絶対言語としての「感じ」。そういうものが、ここにはある。



 「初詣の道」の書き出しの2行、特に冒頭の「じゃあ、」が不思議で、とてもおもしろい。私にはとうてい書くことができない何かがある。そういうものの前では、ただ脱帽し、そのことばをまるごと受け入れるだけである。

じゃあ、おれは、眠くなりました。
あと、爪をかみました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』(その2)

2008-02-14 09:14:33 | 詩集
ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店、2008年01月16日発行

このアイテムの詳細を見る


 1篇、とても不思議な詩がある。不思議というのは、これまで私の意識してこなかった小池がいる、ということである。「歴史」。広島原爆資料館を訪問したときの作品だろうか。小池がこうした作品を書くということは、私は想像していなかった。それが私が不思議に感じた理由である。
 しかし、この「不思議」は5連目ですぐに消える。小池が、あいかわらず、ここにいる。ことばのなかに、小池がいる。最初に感じた不思議を吹き飛ばす強烈な小池が、この作品のなかから立ち上がってくる。

炭の母
真っ黒に焼けただれた炭の母
それはどこから眺めてみても
途中というものの姿だった

 「途中」。このことばに私は衝撃を受ける。そして、その衝撃は、いつも小池の詩に感じる衝撃と同じである。だれもがつかうことば。しかし、小池がつかったとたん、まったく新しくなることば。そういうものが、このことばのなかにある。
 原爆の直撃にあい、炭化した母親。彼女は死んでいる。死は、いわば人間の最後である。完結である。そこから先はない。しかし、そうした人間を見て、それを「途中」という状態に引き戻す。--ここに小池のことばの力が凝縮している。
 突然の、不可抗力の死。それは、たとえば「母」にはやり残したことがある、だから「途中」だ、というのではない。そういう意味も含まれるだろうけれど、小池がここで書いているのはそういう「精神的」なものではない。
 「途中」ということばに先立ち「眺め」るという動詞がある。そのとき動いているのは「頭」ではなく、肉体、肉眼である。肉眼が「途中」ということばを、流通することばの奥底から引っ張り上げてくるのである。「姿」ということばとともに。「途中の姿」。それは、肉眼が見たものなのだ。「頭」で考えたものではなく、肉眼が、小池の肉体がとらえた「事実」なのだ。
 この「事実」がことばを重ねることで「真実」になる。

生きていることは そのように
いつも途中のことなのだから
そして死は
途中の、いきなりの、截断なのだから

 稚拙に(?)繰り返される「途中」。小池は、小池自身で「途中」ということばをすくい上げながら、そのことばにとまどっている。何がいいたいのだろう。肉眼は何かをつかんできた。しかし、その何かはことばにならない。ことばにならずに、抵抗している。ことばにされてたまるか、と抵抗している。それは、原爆投下によって死んで行った「母」の抵抗かもしれない。「私を見て、この女は何か言おうとしている。ことばにされてたまるもんか」と「母」が抵抗しているようにも感じられる。まだ、誰にも触れられていないものが、語られていないものが、そこで抵抗しているのである。
 この強烈な抵抗にあいながら、小池はことばを探す。まさぐる。そのときの、肉体のうごめきが、「途中」が繰り返される連のなかに凝縮している。
 小池は、ここからむりやり動いてゆく。なんとしても「途中」を明確にしようと、うごめく。つづく2連は強烈である。

終わりというものはあるのかしら
かたちをまとい この世に一度でも現れたものにとって

死んだ、けれど
死んでいない

 「かたちをまとい この世に一度でも現れたもの」というのは、具体的には、小池が見た「母」なのだが、同時にそれは深いところで小池自身のことばをも指し示している。「途中」ということば--「途中」ということばになってこの世にあらわれたもの、それは「終わり」というものを手に入れることができない。
 常に動いてゆく。動き続けるしかない。

死んだ、けれど
死んでいない

 このことばを発したときから、小池は「母」となって生きはじめる。どう生きていいかわからない生を生きはじめる。「途中」を引き継ぐのではない。「途中」として「生まれる」のである。
 もちろん、これは簡単なことではない。
 「途中」として「生まれ」なければならない、ということを小池はつかみとるが、「途中」として「生まれる」ことはできない。
 この詩が感動的なのは、そのできないことを、できない、と明確に書いてあるからである。「途中」というものに出会った。そこで死について考えた。何かを感じた。でも、それは「死んだ、けれど/死んでいない」というような矛盾の形でしかいえないものなのだ。それも長々しく書いたために矛盾してしまうようなもの(論理の衰弱による矛盾ではなく)、最小限のことばのなかに出現してくる矛盾である。

燃え上がっている眼球だけが
それらをまるごと記憶しています
炭の母は わたし
炭の赤ん坊も
二〇〇五年
だからわたしに
まだ現代は始まっていません

 小池は「炭の母は わたし」というところまでたどりついた。しかし、それはやはり「途中」なのだ。生まれる「途中」なのだ。「わたしに/まだ現代は始まっていません」というしかない「途中」なのだ。あるいは、小池はそんな具合にして「途中」そのものになるのかもしれない。「途中」として「生まれる」のかもしれない。いや、「途中」として「生まれた」のである。--そして、「途中」として「生まれ」ながら、それでもなお「現代は始まっていません」というしかないのはなぜか。永遠に「途中」だからである。
 小池の初期の詩集に「永遠に来ないバス」という作品があるが、そんなふうに永遠に「途中」であることが小池の「思想」なのである。永遠に「途中」でありつづけ、その「途中」を小池自身の肉体で体験し、そこからことばが動きはじめるのを待つのである。始まらない何かを、それでも始まると信じて待つのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』

2008-02-13 10:58:43 | 詩集
ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店、2008年01月16日発行

このアイテムの詳細を見る


 今回の詩集には知らないひとが突然登場する。たとえば、「箱」。その冒頭。


空き箱


深さ
この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。

 この「金原時男」が誰なのか、何者なのか、さっぱりわからない。わからないことを利用して、小池は、そこに「わかる」ものを書き込んでゆく。しかし、「わかる」といっても、本当は「わからない」ものである。「わからない」にもかかわらず、「金原時男」という「わからない」ものがあるので、それに比べると、なんだか「わかった」ような気持ちにさせられるのである。

この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。

 「金原時男」が誰で何をしているか「わからない」。「金原時男」が「わからない」にもかかわらず、「金原時男」が「深さ」と「とりわけ大切なものだ」と感じていることは「わかる」。
 この「わからない」と「わかる」の関係がおもしろい。人間は誰でも「わからない」ものには関心がない。「わかる」ものの方へ動いてゆく。
 詩のつづき。

あまりに浅いと何も入らない。しかし深すぎても、ものがおぼれる。

 「深さ」を重視する「金原時男」。その理由。「あまりに浅いと何も入らない」。これは誰もが経験することである。だから「わかる」。完全に「わかる」。疑問の余地がない。そんなふうに安心させておいて、

しかし深すぎても、ものがおぼれる。

 これはなんとなくわかったような、わからないような感じである。なぜか。「おぼれる」ということばは普通はこういうときにつかわないからである。水に溺れる。「溺れる」という字にはサンズイがある。水に関係している。「箱」の「深さ」は水には関係がない。だから、ここで「おぼれる」ということばをつかうのは本当は正しくはないかもしれない。正しくはないかもしれないが、その正しくはないかもしれないことが、奇妙に切実に響いてくる。「論理」(頭の思考)としてではなく、肉体のなかにある何かをひっぱりだす。ああ、そうなんだ、深い箱の底で「もの」は「おぼれている」のだ、と思ってしまう。「もの」になってしまったような、不思議な気持ちになる。「もの」の気持ちを「金原時男」はよくわかっている。「もの」のことまで、人間のように感じることができる人間なのだ--と納得してしまう。
 さらに作品は追い打ちをかける。

「箱の底にものをいれ、その底からものを引き上げる、そのとき、腕が感知する、
ある距離感が大切なんだ」
 
 なぜ、「金原時男」が「深さ」を大切にしているか、完全に「わかった」という気持ちにさせられる。
 しかし、ここには不思議なことがある。
 「おぼれる」というなにげないことば、だれもが知っていることばを起点にして、ことばが大胆に変わっている。「感知する」。こういうことばを、普通は、口語ではつかわない。「感じる」と声にする。しかし、小池は「感知する」と書く。「感じる」ではないのである。「感じる」だけでは、そこには「頭」が入ってこない。「知」が侵入してくることで「頭」が動きはじめる。
 肉体をかきわけ、「おぼれる」というあいまいな(辞書にある定義、流通しているでの定義ではとらえられない感じ)ところをくぐり、そのあとで「感知」という肉体と「頭」が一緒になった世界へ戻る。
 こういうことを経験すると、人間は(読者)はなんとなく安心する。ただ「わけのわからない」どこか、肉体の奥にひそめんでいることばにならない世界(ことばにすることをやめてしまうことで納得している世界)へどこまでも入っていくのではなく、なんとなく「現実」に戻った感じ、冷静になった感じがするのである。
 「距離感」も同じである。ほっとする。普通のことばにもどった、普通のことが書いてあるんだ、という気持ちになるからである。

 ところが。

 実は、まったく「わからない」ままなのである。「わかった」と安心させながら、小池は「わからない」ものの内部へ内部へと入っていく。「頭」で「わかった」と安心させて、さらに「あいまい」なもの、ことばにならない世界へとじわりと進んでゆく。そのために、いったん安心させただけなのである。

時男は空き箱を見ると、ぞくっとする。
若いころからの癖なので直らない。

 「時男」が「ぞくっとする」対象が、たとえば「若い女」だったら、それはなんでもないことかもしれない。そこからどんなタイプの女がいいか、というような話をすることもできる。たとえば、「金原時男」と知り合いだったと仮定してのことだが。
 ところが「空き箱」となると、おそらく誰も「金原時男」と会話できない。話で盛り上がることができない。そんな感覚があるということすら「わからない」。(納得できない。)「わからない」のに、その「わからなさ」に直面する前に、「おぼれる」を肉体と「頭」で理解してしまったために、これから先は、「わかっている」こととして「金原時男」についてゆくしかない。小池のことばについてゆくしかない。

 「わからなさ」こそが、小池がこの詩集で追い続けているものである。
 「わからない」ものをどんなふうに一瞬でもいいから「わかる」ように書くか。「わかる」と錯覚させて、不可思議な世界へ入っていくか。「わからない」まま、人間は、そういうものをどうやって把握し直すか。--そういうことが「おぼれる」の一語に凝縮している。



あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。

 この1行は、「おぼれる」ということばだけでも詩になっているが、(詩とは、既成のことばを耕し直し、新しくすることだが)、これを2行にわけて書かなかったところが、小池のこの詩の、もうひとつの特徴をあらわしている。
 「おぼれる」を目立たせたいなら、この1行は2行に分けた方がいい。しかし、小池は2行には分けない。あくまで、「あまりに浅いと何も入らない」という意識とつなげて書く。その意識をひきずったまま「おぼれる」ということばを登場させる。この、ひとつづき、一連の動きがあるからこそ「おぼれる」がすーっと読者の体のなかへ入ってくる。2行に分かれていれば、印象が強くなる分だけ、そこでつまずくということがあるかもしれない。「おぼれる」? なぜ、そんなことばをつかう? そう思ってしまうかもしれない。1行としてひとつづきになっているために、疑問をさしはさむ時間がないのである。
 特に、それまでの1行1行が「箱/空き箱/縦/横/深さ」という具合に、とても短く簡単に理解できるために、そのスピードのなかで「あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。」を一気に読んでしまう。
 読者を誘い込む工夫がしっかりと重ねられている。
 ことばを自在に制御しながら、「わかる」「わからない」を行き来し、「わからない」の深部へ読者を引き込む。しかも、非常におだやかに。夢中になってしまう詩集である。



もう一冊小池昌代の作品を読むなら。

タタド
小池 昌代
新潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上未映子「乳と卵」

2008-02-12 11:51:31 | その他(音楽、小説etc)
文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

文藝春秋

このアイテムの詳細を見る


 魅力的な文章が随所に出てくる。思わず傍線を引いてしまったのは次の部分。

 饅頭と一緒に出されたスープの統制の碗は少し欠けており、あ、あぶないかも、とわたしは思ったのやけど、それを知らずにそこから飲んだ緑子の唇がぷつっと小さくひっかかって点として破れることを想像してしまう、今日まだ一言も口をきかない緑子の唇のなかには、真っ赤な血がぎゅっとつまっていてうねっていて集められ、薄い粘膜一枚でそこにたっぷりと留められてある、針の本当の先端で刺したぐらいの微小な穴から、スープの中に血が一滴、二滴と落ちて、しかし緑子はそれには気づかず、白いスープのゆるい底に丸い血は溶けることなくそのまま滑り沈んでいくのに、やっぱりそれに気づかずにその陶器の中身の全部を自分ですべて飲み干してしまう。

 現実の細部をていねいに描くことばをそのまま「想像」が引き継いでゆく。そして、その現実は「想像」のなかでいっそう濃密な細部を手に入れる。「想像」が頭の中だけで完結するのではなく、頭の中から体の中、肉体の内部へと侵入してゆき、肉体として目の前にあらわれる。
 この感じを、「あ、あぶないかも、とわたしは思ったのやけど、」という関西弁(大阪弁)を組み込むことで、肉体の感じをいっそう強める。関西弁(大阪弁)でも頭でことばを動かすことにかわりはないだろうけれど、関西弁(大阪弁)の口語のままの呼吸でことばが動いてゆくとき、そこには頭(頭でっかち)という感じが消える。あくまで自分の肉体になじんだことばが、肉体を引きずって動いてゆく感じがする。
 「緑子の唇のなかには、」以後が特におもしろい。丸く膨らんだ赤い血の玉が見えるようだ。「想像」ではなく、まるで実際に目撃したものを描いているかのように感じられる。
 ことばが肉体のなかを動いてゆくので、必然的に、ことばが現実になってしまう。肉体を持ってしまうのかもしれない。
 「想像」と現実の境目が、「わたしは思ったのやけど」という関西弁(大阪弁)によって越境されてしまう。現実と「想像」を越境するのに、関西弁(大阪弁)が巧みにつかわれているのである。
 このあとの文章が、またすばらしい。

 濡れた、その薄い唇が合わさるすきまに赤い丸の輪郭がちゅるっと消えて、消えて、消えて、とやってると、どんがらがっがんという派手に爆発する音が聞こえて、それに重なるようにオルゴールのなんか繊細な音も聴こえて、それは中華料理屋の店員がいきなりテレビをつけたためでもあり、そのテレビは神棚のような変色した頼りない木星の備えつけの台にはみ出ながら置かれてあり、(略)

 「想像」としか思えない「どんがらがっがんという派手に爆発する音が聞こえて、それに重なるようにオルゴールのなんか繊細な音も聴こえて、」が、実は「現実」の音であることが知らされる。そして、そこからその現実が呼び起こす不安(省略したが、引用文のあとにはテレビが落ちるのではないか、という現実の「想像」)が描かれる。その屈折の分岐点にも「とやってると、」という口語が巧みに、すばやく挿入されている。「とやっていると」がもし「想像していると」だと、この文章は一気に色あせるだろう。リアリティーをなくすだろう。口語(あるいは関西弁、大阪弁)が引き起こすリアリティーを利用しながら、川上は、現実と「想像」、「想像」と現実を軽々と越境する。そして、そういう越境こそが肉体のなかに(あるいは肉体とともに)ある現実なのだと告げる。

 この文体は、そして「標準語」の文体への挑戦でもある。

 あの人な、云うで、『子どもが出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもいないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』って、嘘くさい標準語でな、このままをゆうてん。

 「嘘くさい標準語」。「標準語」は肉体を持たない。そして肉体を持たないということは、実は、頭を持たないということに等しい。それはただ架空を動いてゆくだけである。実際の人間の肉体のなかを動いてはゆかない。肉体をなかを動いてゆかないから「嘘くさい」のである。
 その「嘘くささ」を川上は、前後を関西弁(大阪弁)で挟み込むことによって強調している。ことばとは論理ではない。論理を越境するなにかなのである。

 現実と「想像」を軽々と越境し、往復する文体。--これが川上の作り上げたものである。この文体で、次に何を書くのか。どんなふうに流通していることばの「枠」を越境するのか。それが楽しみだ。
 また、このことばの「越境」は「小説」というよりも、「詩」の仕事に近い。いまここにあることばへの批判・批評とともに「詩」の言語はつかわれる。(いまあることばへの批判・批評をふくまないことばは「詩」ではない、という意味である。川上は「小説」という形式を仮ながら、大胆な「詩」、現代詩の実験をしているのだとも思った。
 詩を書いているひと、詩人こそが読むべき作品である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二月花形歌舞伎(博多座)

2008-02-11 21:32:27 | その他(音楽、小説etc)
二月花形歌舞伎(博多座、2月11日昼の部)

 「義経千本桜」(渡海屋銀平実は新中納言知盛 獅童、女房実は典侍の局 七之助、義経 亀治郎、弁慶 男女蔵)
 動きがとても若々しい。若い役者なのだからあたりまえなのかもしれないが、ちょっと面白みに欠ける。クライマックスの獅童の宙返りなど、軽々としていて、潔い死といえばいえるのかもしれないけれど、さっぱりしすぎていて役者の肉体を見ているという感じがしない。役者にしかできない動き、ああ、美しいという感じが私にはしない。
 獅童の声は、私にはどうもなじめない。
 七之助の声は潤いがあっていいなあ、と思う。女房のときのせりふまわしか特に耳に心地よく響いた。芝居は役者の声にまず引きつけられる。声のいい役者はいいものだ。

 「高杯」(次郎冠者 勘太郎、高足売 七之助、太郎冠者 國矢、大名 亀鶴)
 とても楽しかった。勘太郎、七之助のやりとりが、どうせ芝居、という軽い感じで、とても明るい。明るいから、意気投合して、次々に脱線していく感じがのびやかになる。高下駄のタップダンスへの移行が、すでにこの軽み、明るさ、意気投合(他人を巻き込んでゆく感じ)にあらわれていて、ほんとうに楽しい。
 もちろん勘太郎の高下駄タップダンスも楽しい。体が若いからリズムが軽快である。奇妙ないい方にあるかもしれないが、次郎冠者の無知(高杯を知らないこと)と、肉体の限界を知らないこと(肉体そのものに限界があることへの無知)が、若さというもののなかで融合し、「無知」をバネに「芸能」の枠を逸脱してゆく--歌舞伎なのに、流行のタップを取り入れていく、という精神が、勘太郎の若い肉体のなかではつらつと輝いている感じがする。
 タップの「音」、その足さばきも楽しいが、タップでありながらタップを逸脱する瞬間、脱げた高下駄を踏み外す動きのしなやかな軽みが、これも「お遊び」ですよ、芸で見せているだけなんですよ、という感じでうれしい。タップの下駄を踏み外すことで、その瞬間に、歌舞伎の伝統の足さばきを見せるところが楽しい。
 芝居というのは、そこで役者の肉体が動いて、その動きが観客の肉体の奥に眠っている肉体の感覚を呼び覚ます瞬間に輝くものだと私は思っているが、この高下駄の踏み外しの動きなどが、それにあたる。
 「春」を先取りした楽しさ、桜の季節には桜の下でタップダンスもいいかも、などと思った。

 「団子売」(杵造 愛之助、お臼 亀治郎)
 私は歌舞伎の伝統や、そこで演じられていることについてほとんど知らず、ただ単にそこで役者が動いているということだけを見ているのだが、この「団子売」は私には奇妙に見えた。役者の肉体の若さが、どうも「夫婦」のやりとりの感じにそぐわない。私の感じでは、もう何年も夫婦をやってきた男と女が、ちょっと浮かれて(年を忘れて)、若い男女の口説きあいやってみせる--という印象があるのだが、若い役者が演じると、ほんとうは年をとっているのだけれど、若い男女のふりをする(若い男女のまねをする)という感じ、セックスへの誘い、という感じがしない。若い男女をまねるというワンクッションがない。口説いているという感じが、ちょっとしないのである。私だけの印象かもしれないが。亀次郎のつやっぽさが熟年のつやっぽさ(男のいたずら心を受け入れる余裕)のようには感じられず、若い男を誘っているという感じの色気に見えてしまう。
 これはほんとうはどういう作品なのだろう、と、ふと感じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻和人「聖なる印」

2008-02-10 13:11:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「聖なる印」(モーアシビ」12、2008年01月20日発行)
 ジョギング中に野球場のマウンドに犬の糞を見つける。そのとき思ったことを、思った順序で書いている。

生乾きのまだ新しいフン
ということは飼い主が犬をここへ連れてきたのはぼくが来るほんのちょっと前だ
恐らくここで飼い主さんは
華麗なフォームで一球をシュッ
そして隣でワンちゃんも一球(笑)ということですな
マウンド近くに立ってノビをする
高揚した飼い主さんの鼓動と呼吸のバイブレーションが伝わってきて
ちょっといい気分だぞ
あ、朝日が昇ってきた

静寂に包まれたソレ
真っ赤な光に照らし出された
グラウンドの真ん中のソレは
聖なる土地の聖なる印なり

いなくなった者たちが残した謎のメッセージ
広い空間にぼおっう浮かび上がっている
いくら想像してもメッセージの真意に到達できない
それはすばらしいこと
到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていくからだ

 「バイブレーション」ということばをつかわずにバイブレーションを伝えるのが詩である--というような批判をしてみたい気持ちにもなるけれど、この詩の場合は、そういう既成のことばがとても有効である。「そして隣でワンちゃんも一球(笑)ということですな」の(笑)も同じだが、こうしたことばは辻が何事かを自分自身のことばで探り当てようとはしていない基本的な態度(思想)をうまくあらわしている。
 自分自身のことばではなく、既成のことばのうえに乗って、そのスピードのよさ(流通性のよさ)に酔って動いていく。
 たからこそ、

聖なる土地の聖なる印なり

 の唐突な文語「なり」も出てくる。こんなことばは谷村新司くらいしかつかわないと思うけれど、こんなふうに軽々と自分自身のことば(日常の口語)を捨ててしまって、気分が軽くなるというのはいいここかもしれない。(辻の気分のよさは「なり」を含む4行の連に集約している。ことばはどんどん凝縮するから、1行が他の連に比べて一気に短くなっている。スピードが出ているのである。)
 このとき「広い空間にぼおっう浮かび上がっている」のは、詩に書かれているような「いなくなった者たちが残した謎のメッセージ」ではなく、辻の高揚感である。ハイな気分だけである。どれくらいハイになってしまっているかというと、

それはすばらしいこと

 と辻がたどりついた結論(?)を「すばらしい」と自画自賛するしかないくらいハイになってしまっている。
 そして、そのハイな気分のなかで、突然、正気(?)の人間のように「哲学」を叫ぶ。

到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていくからだ

 傑作である。
 (笑)「バイブレーション」というような俗な(?)口語から、文語「なり」を経て、緻密な散文意識が逆説の形でつかんでしまう「哲学」までの、動きの変化が傑作である。そのスピードが傑作である。「到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていく」というような「哲学」はバタイユが何百ページも書いたあとに錯覚として浮かび上がってくることばかと思っていたが、意外と短い思考のなかでも誕生するらしい。笑ってしまった。うれしくて、笑いが止まらなくなってしまった。
 あとは、この高揚をどこまで持続し、もう一度何かに飛躍できるかどうかが重要なのだと思うけれど、その「もう一度」の部分がおもしろくない。だから、引用はここまで。特に最後の1連はがかっりするので読まないことをおすすめします。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リドリー・スコット監督「アメリカン・ギャングスター」

2008-02-09 08:46:20 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 ラッセル・クロウ、デンゼル・ワシントン

 1970年代のアメリカの感じが懐かしい感じで表現されている。まだ個人が個人として生きていた時代というものが。
 ラッセル・クロウ(刑事)もデンゼル・ワシントン(ギャング)も組織に属している。一方は警察の中の麻薬取り締まりチームのトップ(と言っていいだろう)。一方は麻薬組織のトップ。このふたりはトップであり、組織をかかえているのだが、この組織自体が、他の巨大組織のなかにあっては、やはり「個」なのである。組織さえも「個」であった時代があるのだ。「個」が存在するから、巨大組織を再構築できる。そういう「夢」がここには折り込まれている。
 監督の描きたいものはとてもよくわかる。70年代をまるごとスクリーンに再現する。なつかしさ--ひとのぬくもり、ひとが個人として存在するとき生まれるなつかしさ。それを体現するふたりの主役もいい感じである。
 ところが映画自体はたいへんな欠点をかかえていて、盛り上がらない。
 ふたりは、互いに相手を知らない。デンゼル・ワシントンの方はもともと地下組織のトップであり、身を隠している。警察にリストアップされていない。その悪役をラッセル・クロウが捜し当て、追い詰めるというのだから、ふたりが出合うシーンというのは非常にかぎられている。デンゼル・ワシントンはラッセル・クロウが自分を追い詰めている相手だとはまったく知らない。ラッセル・クロウが自分を追いかけていることに気がついていない。
 ドラマはいつでもひととひととの出合いからはじまる。出合いがないシーンの連続、出合うことで互いが変わっていくというシーンがないかぎり、ドラマは盛り上がらない。これは最初からわかっていることでもある。
 だからこそ、リドリー・スコットは、ふたりのシーン、ふたりが属する世界(警察、家族、ファミリー)を交互に描く。ふたりの家庭の問題(夫婦間、親子間、兄弟間)を重ね合わせるようにして次々にからませる。これは新手の群像劇でもあるのだ。アルトマンがやったような、群像劇、群像をとおしての70年代の再現なのだ。--そういう手法が、途中から完全に見えてしまう。なんとかして、ドラマを盛り上げようとしていることもわかる。
 しかし、こういうことはわかってしまうようでは映画は失敗作である。見ていて、途中で、あ、このふたり、結局最後にしか出会わないのだな、と私は思ってしまった。そして実際に、最後しか出会わない。
 とてもつまらない。ストーリーが見えるというよりも、映像が見えてしまうのである。けっして出会うことがなかったふたりだから、そのふたりが出会っても、そこには暴力(肉体の暴力、アクション)はありえない。肉体同士のアクションというのは、相手の肉体を知っていてはじめて成り立つ。デンゼル・ワシントンがラッセル・クロウに対して暴力的に反撃しないのは、デンゼル・ワシントンがラッセル・クロウを、肉体としてまったく知らないからでもある。

 書けば書くほど、つまらない気持ちがつのる。「フレンチ・コネクション」がただただなつかしい。「ゴッドファーザー」がただただなつかしい。と、書けば、この映画を解体してしまうことになるかもしれない。この映画は、実は「フレンチ・コネクション」と「ゴッド・ファーザー」をあわせて1本にしようとした「駄作」なのである。1+1=2にはならない。映画では、1+1=0.5 がせいぜいなのである。
 --あ、ここでも1970年代への郷愁が、ふいに、やってくる。「1」(個)が「1」として輝いていた時代がなつかしくなる。



ラッセル・クロウを見るなら、次の2本。


L.A.コンフィデンシャル

日本ヘラルド映画(PCH)

このアイテムの詳細を見る

インサイダー

ポニーキャニオン

このアイテムの詳細を見る


デンゼル・ワシントンを見るなら。

モ’・ベター・ブルース (ユニバーサル・セレクション2008年第1弾) 【初回生産限定】

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

このアイテムの詳細を見る

マルコムX

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

砂川公子『櫂の音』

2008-02-08 00:34:47 | 詩集
 砂川公子『櫂の音』(能登印刷出版部、2007年11月15日発行)
 「櫂の音」の冒頭。

柄のない櫂に漕がれて
一艘の丸木舟が
ひたっひたっと
耳の空に現れる
とおい昔は水だったんだと
どこかなつかしい韻(ひび)きを連れて
ここちよく肉へ肉へと打ってくる
まだひとではなかったころの
水の記憶として
その櫂は出土したのだった

 「耳の空」がとても不思議である。しかし、これが「耳の海」だったら、私は感動したかどうかわからない。出土した櫂、柄のない櫂を見る。そのとき音が聞こえる。「ひたっひたっ」。それはもちろん現実の音ではない。いわば「空耳」である。だが、それが「空耳」だから「耳の空」に感動したのではない。そうではなく、(そういう語呂合わせではあく)、耳がそこに存在しないとき聞く音--その空気の振動が、そのまま「空」を呼びお寄せる。そのことに感動した。丸木船は水の上をやってくるのではなく、あくまで空中(そら)に浮かんでやってくる。その、一種のありえないこと姿が、より世界をリアルに感じさせる。船が空を、あたかも水を渡るように渡ってきても、何も不思議はない。その船は、「幻」という現実だからだ。というよりも、空を渡ってくることによって、その非現実によって、現実を覚醒させる。より強く、水を、海を呼び寄せる。
 「まだひとでなかったころの」という1行が、また、すばらしい。
 「ひと」が「ひと」ではないように、空も空ではない。海も海ではない。それらは溶け合って、まだ何にもなっていない。混沌のなかで、何かになろうとしている。まだ、そこにないものになろうとしている。ある一本の木が「櫂」になろうとする。その動きに合わせて、丸木は丸木船になる。そして、空は空になる。水(海)は海になる。海が海になりきってしまうまでのあいだ、船は空を渡ってもかまわないのだ。
 何もかもが、何かになる。ひとはひとになる。ひとはひとではなかった「ころ」があるのだ。この「ころ」という響きもとても美しい。幅がある。そのはばを丸く、やわらかく、球(宇宙のまるさに通じる)もののように指し示す「ころ」。そのなかですべての変化が起きる。
 肉体は(ひとは)、そういうもの、まだ何かになってしまっていないものと触れ合いながら、その瞬間瞬間に、何かになる。それを砂川は呼吸する。「空気」(これは「空」につながるものだ)を呼吸する。そうして、何かがはじまる。
 「耳の空」の「空」は、そういものともつながっている。

今朝は空が
 肩の辺りまで下りてきている
        (「キリンの朝」)

 この「空」も「空」そのものというよりは「空気」のひろがりそのもののことであるように私には感じられる。「空気」そのものとなって、「空気」という意識になって、ひとを、ひとでなかったころに連れ戻す。なんだか自分が自分でなくなる。(この詩では「キリン」になってしまう。)そういう変化の中に、常に、砂川の場合は「空気」(空)が関係している。
 「猫のポーズ」の書き出し。

あかり障子いちまい 隔つむこうが彼岸
会いたい時は 猫になる
   (四つん這い
     吸う息で
     胸をひらき
     ない尾を ぴんと立て
     眼を 空に返す

 これはヨガのポーズのことなのかもしれないが、その、呼吸(息を吸う--空気を、空を、体のなかにいれること)が、ここでも砂川をひとではないようにする。ひとがひとではなかったころ、にいったん戻って、そこから「ねこ」になってゆく。
 空気を取り込む、というのは、空気を通ってということと同じことなのかもしれない。すべてのものを区別なく受け入れる空気。その空気を吸い込み、空気そのものになって、それからひとにも、猫にも、櫂にも、丸木舟にもなるのである。
 「櫂の音」は「耳の海」ではなく、「耳の空」に現れなければならない理由は、ここにある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脇川郁也『ビーキアホゥ』

2008-02-07 09:08:33 | 詩集
ビーキアホゥ―詩集
脇川 郁也
書肆侃侃房、2007年11月30日発行

このアイテムの詳細を見る

 読んだあと、しばらく考え込んでしまった。ことばを読んだ、という感じがしないのである。詩集は前半と後半と、2種類の詩で構成されている。前半は死んだひとのことがかいてある。後半はそうではない。というようなことがぼんやりわかるが、こういう感想はもちろん詩の感想にすらなっていない。ことばがすり抜けて行ってしまうのだ。
 すり抜けていくか。たぶん脇川は驚くかもしれないが、

父や兄を亡くして
ぼくらはあんなに泣いたのに
           (「後回し」)

しばらくして妹は亡くなった
           (「妹の亡霊」)

 この行の中に出てくる「亡くして」「亡くなった」が象徴的なのだが、私には脇川のことばが非常に遠いのだ。書いてあることはわかる。ことばに対して「ていねい」な態度をもっていることもわかる。しかし、その「ていねい」さが非常に遠い。脇川は私とはまったく違ったことばを生きている、という感じがしてしまう。
 私は父や兄、妹に対しては「亡くして」「亡くなった」ということば出てこない。「死んだ」ということばしか出てこない。「亡くなった」というと他人になってしまう。それも、どちらかというと親密ではない他人だ。親友の肉親が死亡したときならば、最初は絶対に「死んだ」である。そして、あとから「亡くなった」とことばがかわってゆく。「死んだ」ということばの強さ、衝撃が、「亡くなった」では、私の場合、完全に消えてしまうのである。
 脇川のことばには「親密感」というものが欠如している。そのために「ていねい」に感じられる。それは、別なことばで言えば「よそよそしい」ということである。脇川の詩は、どれもていねいである。しかし、よそよそしい。だから、私をすり抜けて行く。
 他人にこころを許さないひとでも犬には親密なひとがいるものだが、脇川は飼っている犬にさえよそよそしい。いや、犬さえが、脇川のよそよそしさを感じ取って、体をすりよせてくることがないようだ。

犬は芝生に伏せたまま
ぼくの身体がつくる影のあたりで
さかんに臭いをかいでいる
       (「夜の桜に」)

 さらに象徴的なのが詩集のタイトルともなっている「ビーキアホゥ」という作品だ。ニューヨークで道を訪ねる。男がそれにこたえてくれる。その様子をことばにしたものだ。そのなかほど。

拙い英語でひとしきり話していると
早めにホテルに戻ったほうがいい、と男がいう
ああ、そうだね
ありがとう、と返して別れた

蛾のいった最後のことばだけが
ぼくの耳に残った
「ビーキアホゥ」
日本では聞き慣れぬことばのように思った

中学校で学んだ程度の語学力で
地球のヘソのようなこの街にやって来た
小柄な東洋人に
彼は何に気をつけろ、といったのか

 「蛾」とは脇川の質問にこたえてくれた男である。「ビーキアホゥ」は脇川が聞き取った「be careful」をカタカナ表記したものだ。
 ことばは、単にそのことばの持っている「意味」以外のものを含む。「気をつけて」はたしかに「気をつけて」なのだろうが、そこにどんな「感じ」がこめられていたかは、脇川にしかわからない。
 脇川は、その音のニュアンスを詩には書き留めていない。それは脇川が「気をつけて」という「日本語化」した「意味」しか聞き取っていないということかもしれない。それがどんなニュアンスを持っているか、それを聞き取っていないということ、「生活」のことばとして聞き取っていないということかもしれない。
 少し脱線して「日本語」で説明すると。
 たとえば飛行機に乗って帰る知人と別れるとき「それじゃ、気をつけて」は「さよなら」とほぼ同じである。飛行機に乗ってしまえば、客が「気をつける」べきことなど、ほとんどない。何もできない。それでも私たちはしばしば「気をつけて」という。「無事に到着することを祈っています」というようなニュアンスもあるかもしれないが、それははじめての飛行機の旅だとか、事故かあった直後のときのニュアンスであって、普通は「さよなら」であり、あるときは「さあ、はやくさっさと帰れよ」でさえあるのだ。
 ニュアンスが聞き取れない(いまのことばでいえば、「空気が読めない」)のは、脇川と男のあいだに「親密感」がないからである。親密なものを感じる力が脇川には欠けているのではないか。そんなことすら思った。よそよそしさが引き起こす「空気」も脇川は感じることがないのかもしれない。

 脱線した部分で、少し書いたのだが、私が想像するに、男は「気をつけて」というニュアンスで「be careful」と言ったわけではないだろう。「おれは本を読んでいるんだ。酔っぱらいと話しているひまはない。さっさと帰れよ。おれになんかかまうなよ」と言ったのである。英語が通じる相手なら、そうはっきり言うだろう。英語があまり通じないと判断したから、誰でもわかることばで、簡単に言っただけなのである。

 ことばは「親密感」といっしょにある。親密であるひとに対してと、親密ではないひとに対して言うときでは、同じことばでも「辞書に書いてある意味」とは違う「意味を超える感情・ニュアンス」があるのだ。同じ「おれは本を読んでいるんだ。酔っぱらいと話しているひまはない。さっさと帰れよ。おれになんかかまうなよ」であっても、知らないひとにいうときと、知っているひとに言うときでは、声の調子も違えばニュアンスも違う。漢詩には、酒を持って訪ねてきた友人に「おれは酔ったからねる、あんたらはもう帰れ」と親しみをこめて言う詩さえあるではないか。
 ことばをもっと親密なものとして書いてもらいたい、と思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

左子真由美「花とノートブック」ほか

2008-02-06 10:39:09 | 詩(雑誌・同人誌)
 左子真由美「花とノートブック」ほか(「イリヤ」2、2008年01月31日発行)
 左子真由美の作品が4篇発表されている。どの作品も読んで耳にやさしいように書かれている。繰り返しが耳にここちよい。ことばには繰り返すことによって、意味がつよくなる。感情が強くなる。「花とノートブック」は、意味・感情が強くなり、同時に意味・感情が別のものになるまでを描いている。(4篇のなかでは、この作品が、繰り返しがいちばん効果的に働いていると思う。)

男は
ノートブック
女は
そのなかに
挟まれた花

好きな女のために
死ねるよ


そのノートブックには
書いてある

夕暮れには
時々
開くのです

春と夏と
秋と冬があって
始まりと
終わりもある
そのノートブックを
そうして
読み返します
なんどでも

好きな女のために
死ねるよ


書いてある
そのページを

 「好きな女のために/死ねるよ」は最初は男が書いたことば。そして後の方は女が思い出していることば。女はことばだけではなく、そのときの「感情」を思い出している。男の感情というよりも、そのことばを聞いたときの女自身の感情を。それは、もう手がとどかない。男の感情ではなく、女自身の感情に手がとどかない。あの幸福・愉悦はそこに存在せず、存在したということだけが記憶として残っている。
 女はこのとき、「ノートブック」である。男が「ノートブック」だったはずだが、いまは女が「ノートブック」になっている。「好きな女のために/死ねるよ」ということばが、男のものから女のもの(女の記憶、女の肉体のなかに存在するもの)にかわった瞬間、「ノートブック」も男から女にかわったのである。かわった、というより「なる」。「なろう」とする意志がここにある。
 このふたつの変化が、とても自然に書かれている。その自然さゆえに、この詩は「歌謡曲」(演歌)を少しだけ超えている。その「少し」という部分が左子のことばの動きの魅力だ。「ノートブック」という、ちょっと気取ったことばも、この場合、効果的だ。そこには、私がいままでの私ではない私に「なる」ための背伸びがある。その背伸びが美しい。女の背伸びはいつも美しいと思う。(たとえば「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びである。)

 ただ、こうした作品が「現代詩」かと問われると、私はちょっと返事に困る。
 どのことばも共有され、流通しすぎている。流通しすぎていて、もはやそれが流通しているということさえ忘れ去られようとしている。別なことばで言えば、こういう表現は、すでに表現として誰もつかわなくなっている。
 誰もつかわなくなった表現をもういちど掘り起こす--というのなら、それはそれでとてもすばらしいことだと思うけれど、左子がそういうことを狙っているのかどうかは、実は、よくわからない。

 佐古祐二の作品も同じである。ことばが裏切らない。流通していることばの意味を裏切らない。そして、その裏切りのなさが、佐古までくると、俗に落ちる。詩ではなくなってしまう。こうしたことを書いても「詩はどこにあるか」という点から言えば何も明らかにしたことにならない。「詩はここにはない」ということになってしまうのだが、あまりにも俗すぎるので、そのことを指摘しておく。
 「もうながいこと、ぼくはおまえと」の1連目。

もうながいこと、ぼくはおまえと何していない。何することの意味などないことは、先刻承知しているが、ぼくはおまえと何することの熱さをおぼえている。おまえのまなじりにあふれてくるものの意味を問うことはしない。ぼくはもとよりおまえ自身がそれを知らないのだから。ああ、不意に燃えさかるものを、ぼくはおまえにそそぎたい。堅く屹立したものをおまえの海が包みこむとき、ぼくは、アンドロメダのはるか彼方を想っている。
   (谷内注・「ああ」は原文は「あ」と「送り文字」)

 詩は、あることばを言い換えることで成立するではない。こうした隠蔽は、セックス、性向、性器、ペニス、ヴァギナ、ちんぽ、おまんこ、ザーメン、子宮というようなことばをつかわないことよりもはるかに下品である。文学は隠蔽でもないし、「きれい」を装うことでもない。いままで存在しなかった美をつくりだすことである。「アンドロメダのはるかかなた」はひとがことばをつかいはじめたときから存在している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(その2)

2008-02-05 11:02:04 | 詩集
  阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(その2)(書肆山田、2008年02月10日発行)
 阿部嘉昭の声は清潔である。ことは「文体」が清潔である、ということでもある。「文体」が鍛えられている。書き込まれ、書き込むことによって、無駄がそぎ落とされ、息がすっとすばやく動く。息継ぎに無駄がないのだ。
 詩集のタイトルになった「昨日知った、あらゆる声で」。

私は殊更小さな実を選んで啄む
黒炭の沈んだ腸にそれで星が数滴光る
私は殊更長い点滅を選んで見耽る
明日ハ自我ヲ暗渠ニ音信セネバナラヌ

 この文体の基礎には漢文がある。漢文の口調、漢詩の呼吸がある。私は漢文を習ったことがないので、つぎに書くのは文法的に間違っているのだが、阿部の作品の第1連を漢文風に(?)してみると、七言絶句(?)になる。

殊更私選啄小実
黒炭沈腸星数滴
殊更私選見長光
明日私音信暗渠

 2行目の「光る」を3行目の「点滅」のかわりにつかってみた。そのことばは互いに互いのことばを呼吸し合っている。
 1行目と3行目は、いわば対句である。向き合っている。この構造も漢詩の構造である。ことばが互いに呼吸し合うことで、そこに遠心と求心、凝縮と開放が生まれ、その呼吸のリズムが宇宙的にひろがる。そういう漢詩の呼吸が、ここにはある。
 「小さな実」と「星」、「小さな」と「長い」、「星」と「点滅」、「黒炭」と「暗渠」、「腸」と「暗渠」--そういうことばの呼吸が、むりなく互いにまじりあい、それ自身の言語の枠を破ってひろがって行く。詩が、その瞬間にはじまる。
 どの行もすばらしいが、私は特に2行目が好きだ。

黒炭の沈んだ腸にそれで星が数滴光る

 腸、内臓の闇を「黒炭」が強調するとき、その「黒」は夜空の黒そのものとなり、自然に「星」を呼び込む。「数個」ではなく「数滴」と数えるときの単位をかえてあるのも、とてもすばらしい。単位をかえるだけで、そこには突然の出合いが生じる。多くのひとが定義しているように、詩とはありえないものの突然の出合いのことであるが、そういう出合いを、こういう単位に隠して表現できるのは鍛えられた文体だからである。その「数滴」には1行目の「小さな実」の果汁のイメージもある。果実は小さくても、小さいなりに果汁を持っている。それが啄ばまれ、砕かれ、のどを通り、腸にたどりつく。その、小さな滴り。これは、やがて「暗渠」にもつながっていく。
 あらゆることばが独立しながら、なお別なことばのなかへと侵入し、そこで鮮やかによみがえる。

 散文というのは(私は森鴎外を思い浮かべるのだが)、ことばは次々に新しいことばへ乗り移っていって運動するのだが、詩は、そうではなくて、互いに呼吸し合うのだ。散文は、1行目からはじまり最終行へとつづく運動だが、詩は最終行までゆかなくてもいい。どこで中断しても詩なのだ。ことばが呼吸し合い、そこから宇宙がひろがるときが詩なのである。
 と、書きながら、実は私はほかのことも考えている。感じている。
 阿部のことばは、「漢詩」のほかに「散文」の要素に鍛えられているところがある。「散文」を書くことで身につけた筋肉のようなもの、一点に止まるだけではなく、一点からはじまりどこかへ動いていってしまう。いや、動いて行くことができる。そういう力を持っている。
 阿部の書く詩は1連だけを取り出して詩として味わうことができるが、その濃密なことばの運動は1連では終わらず、永遠と思えるくらい長くつづくのである。最初に七言絶句と書いたが、それは絶句ではなく、とても長い。
 しかし、長いけれども、だらだらしない。
 ことばとことばは互いに呼吸し、侵入し合うが、それはもたれあわない。深く呼吸し、互いに自分の呼吸を新しくしたら、もう、さっさとそのことばを捨ててしまう。そういう未練のなさというか、さっぱりしたものが阿部のことばにはある。ことばを大切にする一方、ことばを捨てることに対して阿部は平気である。このさっぱりした感じが、阿部の文体を清潔にしている。

 詩集の最後に阿部の略歴、というか、これまで書いてきた本のタイトルが並んでいる。申し訳ないが、私は一冊も読んだことがない。読んだことがないが、そのタイトルを実ながら感じたのは、あ、阿部はちゃんと「散文」をくぐってきたのだ、ということだ。散文を書くときの呼吸と詩を書くときの呼吸、あるいは散文でつかう筋肉と詩でつかう筋肉、散文でつかうのどと詩でつかうのど、さらには散文でつかう耳と詩でつかう耳は違ったものである。そういうことを阿部は体得した上で、詩を書いている。阿部のことばの基礎には散文があって、それが現在の詩の流通している不純物(--とはいっても、それが不純物であることが一方で魅力なのでもあるけれど)を洗い落としているのである。
 散文、それも漢文で鍛えられた散文意識と詩の融合が阿部のことばの特徴なのかもしれない。この文章の途中で、私は、ふと森鴎外の名前を書いてしまったが、どこかで森鴎外のような鍛えられた文体につうじるものが阿部のことばにはあるのだろうと思う。

僕はこんな日常や感情でできています―サブカルチャー日記
阿部 嘉昭
晶文社

このアイテムの詳細を見る

日本映画の21世紀がはじまる―2001‐2005スーパーレビュー
阿部 嘉昭
キネマ旬報社

このアイテムの詳細を見る


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』

2008-02-04 02:13:07 | 詩集
 阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田、2008年02月10日発行)
 驚くべき清潔な声である。「地声」というものが阿部嘉昭にあるのかどうかわからない。「地声」を持たない人間というものは存在しないだろうから、この清潔さは鍛練の果ての清潔さだと思う。そして、その「地声」を排除するという鍛練は、同時に洗練された声に自在な運動、軽やかな躍動をもたらしている。あまりの清潔さゆえに、そこでは「意味」が不在になっている。「歌」で言えば「スキャット」である。
 たとえば冒頭の「五月の義」。

哲学後は 沢へと下りた、
山並が自らの下部を抱き込んでいる
眺望の平たい「展け」、
時間への明澄な緩衝帯に
いっとき二人の疲れた徘徊を沿わせた。
透き通る山女の行き交いをさしぐんで視る。
「低くあるもの」がそうして身に馴染む

 山の裾の方を男と女が歩いている--というようなイメージを思い浮かべることができるはできるが、そういうものはスキャットを聴いてもなんとなく、これは恋の歌だな、悲しみの歌だなと勝手に感じる類のものだ。ここで阿部が試みているのは、忍び込んでくる意味は意味としてことばの宿命として、そこから遠く遠くただひたすらことばに、あるいも文字になろうとすることである。純粋なことば(音)になり、文字になることなどほんとうはできないのかもしれないが、そういうものを目指すことで、(意味を拒否することで)、読者を軽やかに遊ばせるということである。
 昨日読んだ森川雅美のことばが暴走を目指しながら肉体によって暴走しきれないのに対し、阿部のことばは暴走は目指さないのに、その肉体を洗い流した清潔さ、軽やかさによって飛翔するのである。飛翔といっても、高く高く舞い上がるのではなく、自然に浮いてしまうのである。ちょうどひとが走っているとき、その両足がほとんど大地に触れていないのと同じように。大地をけって疾走する。そのときの、大地にそったかろやかな飛翔、足運び。もちろんそこには肉体があるだが、超人的な肉体はすでに肉体ではない。鍛えられ、普通のひとの肉体を超越したものである。
 たとえば、

山並が自らの下部を抱き込んでいる

 この行の「下部」ということばの美しさ。どこまでもひろがる不思議な概念の自由さ。意味の枠を取り払いながら、一方で枠を取り払っていますよ、と知らせるユーモア。私自身が書いたものでもないのに、まるで私がそのことばを書いたかのように、私は舞い上がってしまった。こんなきれいな「声」が「下部」といっしょに存在することを知らなかった。
 3行目の「平たい」、5行目の「沿わせた」も同じである。どのことばも私は知っている。知らないことばではない。それなのに、それは新しい。阿部が鍛え上げたことばである。既知のことばを洗い清め、既知を感じさせながら、なお新鮮である。
 それは、疲れた脳髄を新鮮にする。脳の血栓を溶かして、その流れを新しくする。
 6行目の「視る」も、また同じである。「視る」と書いて「みる」と読ませる(のだと思う、私は「みる」と読んだ)ことは阿部以外のひともやっている(と思う。例を探してみなくてもいいだろうと思う)。しかし「さしぐんで」と同時に「視る」と書いたひとはいるだろうか。わからない。そのわからないことが、私には新鮮なのである。「さしぐんで」と「視る」が直接触れ合った形で存在するのを目で読むとき、網膜が洗われる感じがするのだ。その網膜を洗っていく力は、阿部がことばを鍛えたときの力なのである。こういう力に触れたとき、(再び同じことを書いてしまうのだが)、それは私が書いたものではないにもかかわらず、ちょっと自慢したくなる。「ほら、かっこいいだろう。美しいだろう。わかるかな?」といいたくなってしまう。
 実際、美しい。かっこいい。詩のことばは、こんなふうであるべきなのだ。

 阿部の詩がすばらしいのは、そうしたことば、行が、瞬間的にどこかにあらわれるというだけではなく、それが持続することだ。だからこそ鍛えられたことば、という印象を残すのである。阿部が、こうしたことばを獲得するまでに、どれだけ多くのことばをくぐってきたかを感じさせ、同時にしかし、その「苦労(?)」を感じさせないという軽やかさがいいのである。
 2連目。

あすまでに大量の弁別、
あすまでに大量の墨刑。
(墨刑は、私には記述を謂う)
足許を完膚なきまでにすくわれながら
沢水の黒みゆく末路をおもう
茶沢、森沢、馬沢。また、友散沢。
世界下部の通底を 五月の義とした

 「謂う」が美しい。「おもう」のひらがな表記が美しい。(漢字だと、たぶん美しくはない。)そして、何と読むのかわからないが「茶沢、森沢、馬沢。また、友散沢。」の、読めなくてもぜんぜん気にならない美しさ。ほんとうにこれは「スキャット」である。絵で言えば「抽象画」である。そこに音がある。色がある。音があり、色があれば、どうしたってその音、色に付随する「意味」は存在するのだが、阿部のことばは「意味」を拒否し、音になり、文字になる。

 かっこいい。悔しくなるくらいかっこいい。今月読むべき1冊である。絶対に。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ステファン・ルツォヴィッキー監督「ヒトラーの贋札」

2008-02-03 14:53:35 | 映画
監督 ステファン・ルツォヴィッキー 出演 カール・マルコヴィクス、アウグスト・ディール、デーヴィト・シュトリーゾフ、アウグスト・ツィルナーマルティン・ブラムバッハ

 ていねいなていねいな画面づくりだ。
 冒頭の、主役の背広の、背番号(?)を縫い付けていた部分だけ色変わりしているところなどに、この映画の誠実さがあらわれている。主人公は第二次大戦中、ナチスにとらえられていた。そして、贋札をつくることでいのちをつないできた。背広の背番号のぬいつけのあとは、彼がアウシュビッツにいたことを象徴している。そして、その象徴が、単に主人公の悲劇を象徴するだけではなく、彼のこころも象徴している。そんなふうに展開して行く映画の、導入にふさわしい、静かで落ち着いた映像である。
 背番号に隠されていた部分だけ、背広は、もとの生地のままの色をしている。なまなましく、なまめかしく、そのことが逆に悲劇を具体的に語っているのだが、そのふいにあらわれた生地の色のように、いつまでもいつまでも、昔のままの色が、こころのなかにもある。
 その、こころの生地のことが、この映画の主題である。
 主人公たちはヒトラーの命令で贋札をつくっている。贋札を流通させることでアメリカ経済を破綻させるというのがヒトラーの作戦である。その作戦に従事しているかぎり主人公たちは生きていることができる。しかし、自分たちがそうやって生きるということはヒトラーに加担することであり、同胞の死に加担することでもある。いのちか、正義か。極限の状況の中で主人公たちは揺れる。絶望だけが深まる。
 そして、絶望しながらも、やはりいまそこに生きているいのちのために、仲間のために、できる限りのことをする。仲間が結核に感染し、苦しんでいればなんとか薬を手に入れようとする。偽ドルを完成させたくないという思いで仕事をしない男に対しても、強要はしない。彼の判断をあくまでも尊重する。ただ生きたいというだけではなく、生きながら、生きることでなんとかそれぞれの意思を明らかにしたいと思う。ひとそれぞれの意思を裏切るようなことはしたくないと思う。最低限、仲間を裏切らないという正義を守ろうとする。ひととひととのつながりを守りたいと思う。絶望しながらも、彼らは、仲間に対してすこしずつやさしくなっていく。--そういうこころの動きを、私は、こころの生地と呼ぶ。
 色彩を抑えた画面がとても効果的だ。収容所なのだから派手な色がなくて当然といえば当然なのだが、主人公たちの無彩色の服の色がとてもいい。室内の無彩色の、光と影がとてもいい。否定され、殺されたいくつもの色の内側で、その暗い色の内側で、人間の肉体がかなしくいのちを燃やし続けているのだ。そういう炎を浮かび上がらせる色だといってもいい。(ティム・バートン監督の「スウィニー・トッド」の作為的な暗い色とはまったく違う。)
 主役のカール・マルコヴィクスはマックス・フォン・シドーにちょっと似ている。はじめてみるが(何かに出ているかもしれないが、意識したのははじめてである)、秘めた力を感じさせる。冷静、沈着、ときには冷酷にさえ見えるが、その肉体の中で絶望の炎が燃えている。熱い熱い涙となって、流れもする。彼のなかにある不思議な光が、ひとをひきつける。贋札づくりを命じるナチスの指揮官さえもひきつける。指揮官のこころさえも裸にさせる。
 この映画につかわれている色彩は少ない。数少ない色のなかにある色の変化、たとえば冒頭の背番号で隠されていた部分と日にさらされ続けた部分の色の違いのような、微妙な変化--それを見るための映画である。こころの、微妙ないろの変化を見るための映画である。舞台がかぎられ芝居のような映画でもあるが、この微妙な色の変化は、たしかに映画でしか伝えられないものを持っている。
 2008年の正月映画にはおもしろいものがなかったが、ようやく映画らしい映画が登場した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする