詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『指の別れ』

2008-05-17 00:24:49 | 詩集
 進一男『指の別れ』(本多企画、2008年05月01日発行)
 「あとがき」によれば親指に腫瘍ができて、手術をしたとある。そのころに書いた作品を集めて一冊にしている。ことばに、そのときの思いが色濃く反映している。「生きていた薔薇」が私は好きである。

生きていた薔薇よ
幾月か私は病院に通いそして入院した
死ぬ程の目にあっていたわけではないが
それなりにそれなりの苦痛を味わわされた
その間私は自分のこと以外のことを忘れていた
もちろん愛していた鉢植えの薔薇のことも

薔薇よ
その間薔薇はどうしていたのだろうか
雨ざらし陽ざらしのなかでもがいていたか
優しい人がいて手入れして貰っていたか
私が退院してきた時に驚くべきことには
もとのように大輪とは言えないまでも
薄い朱色の美しい薔薇が咲いていた

 1連目の5行目「自分のこと以外のことを忘れていた」という率直さがいい。そして、いまは自分のこと以外についても思いが行くようになっている。それが現在だけではなく、過去、未来とつながっている。3連目がそのことを明確に語っている。

生きて
生きてきた薔薇
更に生きていくであろう薔薇よ

 入院をし、一瞬の死の恐怖も感じ、それが進の「時間」感覚をくっきりとさせた。そして、そこから祈りが生まれる。薔薇を描いて、実は、進自身の命への祈りを書いている。「更に」に強い感情があふれている。「あろう」という未来形を、なんとしてでも実現させようとする「更に」。
 「更に」は確かにこんな具合につかうべきことばなのだ。
 「現代詩」の「現代」とは、今流通している言語に対してどれだけ「現代」を拮抗させるか、つまり批評的な言語として洗い直すかということを基準にすると批評がしやすい。批評的な言語であるほど「現代詩」であると言える。
 この作品では、「祈り」が「更に」ことばを批評している。無意識につかうのではなく、「祈り」をこめてつかう。そういう批評の仕方もあるのだ。
 進はこの過去-現在-未来を「私は何をするか」でもう一度書いている。薔薇に託さず、進自身の意識を掘り下げようと試みている。

私は何をしたか 私は何をするか 私は何をするであろうか

 その結果。

私は何をしているかと問う時 私は何もしていないと答えるより外はないのである 毎日がそうである 今日も明日も次の日もそして次の日も 全く同じことであると言わねばならないのである

しかし不思議なことと言えば不思議なことでもあろうが 毎日々々同じことを繰り返しているうちに 白い紙の上に言葉が書き綴られているのである

 意識は動く。意識はことばになる。それが生きることである。進は生をしっかりと確認している。生を確認するために詩を書いている。「生きていた薔薇」にも、この作品にも、「祈り」と「感謝」がこめられている。
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ジョー・ライト監督「つぐない」

2008-05-17 00:08:54 | 映画
監督 ジョー・ライト 出演 キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ヴァネッサ・レッドグレーヴ

 この映画には、いくつか不思議な映像がある。
 ひとつは、キーラ・ナイトレイがこわれた花瓶の一部を噴水のある池に飛び込んで拾い上げるシーン。なぜか2回繰り返される。ただし、その2回はまったく同じではない。私の見間違えかもしれないが、1度目は濡れた下着を通してキーラ・ナイトレイの恥毛が見える。2度目は見えない。
 もうひとつは、ジェームズ・マカヴォイがキーラ・ナイトレイにあてた手紙を、シアーシャ・ローナンが読むシーン。部屋の中央、天井から光が降ってきている。その中央までシアーシャ・ローナンがつつつっと走り、ぴたっと停まる。そして手紙を読む。映画の人物の動きと言うよりは舞台の上での動きである。舞台なら美しく見えるが、映画のなかでは違和感がある。リアリティーがない。
 なぜ、こんな不思議なシーンがあるんだろう。
 ほかにもキーラ・ナイトレイの手とジェームズ・マカヴォイの手がそっと確かめるようにふれあうシーン、キーラ・ナイトレイがジェームズ・マカヴォイに「帰って来て」と耳元でささやくシーンなど、わざとメロドラマ風に撮ったシーンがある。
 なぜだろう。
 疑問は、最後になって解ける。
 この映画は実際にあったことを、作家が小説にした。実際にあったことと、小説に書かれた世界が映画のなかで繰り返されているのである。実際にあったことと、小説に書かれたことは少し違う。実際にあったことそのままでは、主人公たちが救われない。主人公たちに、せめて小説のなかだけでも幸福な時間を与えたい--そう思って作家が脚色したのである。
 少し文学的すぎるというか、構造がメタ映画になっており、私はこういう作品は嫌いなのだが、この映画に限って言えば、とてもいい印象を持った。最後の最後になって、あ、こういう美のあらわし方があるのか、と正直驚いてしまった。
 そして、この最後の最後を支えるバネッサ・レッドグレープの演技に感激してしまった。バネッサ・レッドグレープは「ジュリア」でのジェーン・フォンダとの再会シーンがすばらしいが、それと同じように、「眠りにつく前に」のメリル・ストリープとの再会のシーン、そしてこの「つぐない」でのテレビインタビューのシーンもすごい。ほとんど動きのない演技なのに、ひきこまれる。ことばを語るときの表情の一つ一つが真実になっている。ほんとうに名優だ、とつくづく思った。バネッサ・レッドグレープの声と顔によって、彼女が登場するまでのシーンが全部、もう一度、記憶のなかに甦る。まるでバネッサ・レッドグレープが過去を思い出しているそのままのように。そして、そのとき「つぐない」という意味がくっきりと浮かび上がるのだ。

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山佐木進『絵馬』(ワニ・プロダクション、2008年04月25日発行)

2008-05-16 00:07:12 | 詩集
 山佐木進『絵馬』(ワニ・プロダクション、2008年04月25日発行)
 山佐木進『絵馬』に1篇、おもしろい詩がある。「同行二人」。

え っと
ひと文字
ひらがなになって流れている
ちぎれ雲

地の上の
どんな秘めごとを見てしまったのか
あるいは
ききそびれた誰のささやきが
横切っていったのか

岬の歯ぐきに
白い言葉の泡を散らかしている波よ
山陰本線単線電車から
海の方向へ
夏の背中が降りて行く

 夏の風景がスケッチされている。ちぎれ雲を「え」の字に見立てた。それだけといえばそれだけのことなのかもしれない。それでも、私はおもしろいと思った。「ひらがなになって流れている」の「ひらがな」のていねいさが、いいなあ、と思う。見えたものを、ただそのまま見えるままにしておくのではなく、定着させるための工夫--そういうていねいさがある。
 そのていねいさは、2連目では少しありきたりである。「秘めごと」「ささやき」というのは、「え」ほどの新鮮さがない。
 3連目の「岬の歯ぐき」はおもしろいと思う。ここに「肉体」が出てきたので、そのあとの「夏の背中」が単なる比喩ではなく、リアルなものになっている。「夏の背中」などというものは現実にはないのだけれど、「歯ぐき」につられて、そのないものが見えてくる。そのないものを見えるようにする、ということばの動きが「え」と通い合って、気持ちがいい。
 山陰(ちょっと広すぎて、どこなのだろう)へ行って、ちぎれ雲が「え」の字になって流れていくのを見てみたい。そういう気持ちになった。





風土記―詩集
山佐木 進
草原舎

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鈴木志郎康「位置として、柔らかな風」

2008-05-15 01:39:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴木志郎康「位置として、柔らかな風」(「モーアシビ」13、2008年04月30日発行)
 鈴木志郎康の想像力は粘着力がある。
 きのう読んだ大橋政人の想像力は「手」という肉体と関係していたが、鈴木の場合は「目」である。目は直接他人には触れない。他人に触れるのは「視線」である。目を他人にくっつけてしまうと、何も見えない。目と他人との間には「距離」がある。そして、この「距離」は、伸び縮みする。変な言い方になるが、大橋の伸ばした「手」には「手」の玄海がある。簡単に言えば、普通「手」を伸ばして触れることができるのはせいぜい1メートル先である。ところが「目」というか、「視線」は「距離」を超えてしまう。1メートル先のものも2メートル先のものも、さらには10メートル先のものにも簡単に触れることができる。それだけではなく、「距離」の間に障害物があっても「想像」することで、障害を取り除き、「距離」をゼロに、さらにはゼロを通り越してマイナス(?)の部分、他者の内部にも触れることができる。
 この「距離」の伸び縮みを担っているのが「ことば」である。
 「目」が「視線」が、自己(鈴木)と他者の「距離」を自在に伸び縮みさせて、そこに、誰も書かなかった世界を繰り広げるのが鈴木の詩である。

 この作品では、鈴木は、電車の中に座っており、前の座席に女性の姿をみつめる。

前の座席の若い女性を見ている。
女の胸元の、小さな宝石の飾りに視線を止める。
白いブラウスの襟が僅かに開いて、
グレーの柔らかいカーディガンに黒いコート。
膝の上に金具のついた黒い革のバッグ。
女は白いマスクをして目をつむっている。
容貌は見えない。
わたしは、彼女の華奢な女の裸体を想像する。
降り曲がった腹部から乳房へと想像が伸びる。

 鈴木は「目」にこだわる。「見える」ものを次々と細かく数え上げていく。このとき、「目」と対象の「距離」はまだ一定である。
 ところが「見えない」もの(この詩では「容貌」、顔の細部、目鼻だち、のことだろう)にぶつかると、「目」の動き、「視線」の動きが急に変化する。それにともなって「距離」も変わる。
 鈴木の「目」は、その「肉眼」は「肉弾」では見えないものを「見る」。見はじめる。
 それを鈴木は「想像」と呼ぶ。そして、その「想像」の特徴は「伸びる」ということにある。「降り曲がった(谷内注・「折れ曲がった」の誤植だろうか)腹部から乳房へと想像が伸びる。」という行に、はっきりと「伸びる」ということばがつかわれている。鈴木の「想像」は「伸びる」のである。延長・拡張。想像力による「自己拡張」が鈴木のことばの特徴である。(これは、またあとで触れる)そして、この「伸びる」は「視線」なのだが、その「視線」は「肉眼」ではなく、「ことば」によって成り立っている。「ことば」が「視線」となって動くこと、それが鈴木の「想像」である。
 「想像」が、たとえば「映像」ではなく、あくまで「ことば」であるからこそ、次の行が成立する。

意識として、
花粉症なんだな、と想像を言葉で回避する。

 この2行は、鈴木以外の誰にも書けない行である。
 「女の裸体」。それは「目」(視線)の対象である。鈴木は「女の裸体」を「目」(肉眼)で見ているのではないと気がついている。「肉眼」ではなく「意識」の「目」として見ていることに気がついている。だから、「意識」を形作っている(「意識」を見えるものにする)ことばを動かすことで、「意識の目」を裸体からそらしてしまう。「花粉症」ということばで「意識の目」(想像)を別な方向へ動かしてしまう。その対象からの視線の動きを、鈴木は、ここでは「回避」と呼んでいる。いったん近づき、裸体にまで触れた視線が突然裸体から遠ざかる。この「距離」の伸び縮み--その操作に、ことばがからんでいる。ことばで、距離が伸び縮みするのである。

 「肉眼」から出発した「想像」は「ことば」として明確になり、「想像」が「ことば・意識」であることをしっかり認識した上で、さらに動く。逸脱しはじめる。

意識として、
花粉症なんだな、と想像を言葉で回避する。
あの先の尖ったローヒールの靴を細かく運んで、
どこへ行くのだろう。
その「どこ」が不明。突然、不明にわたしは脱線して、
特殊意識として、
わたしは、その女性とわたしの身体が入れ替わる空想をはじめる。

 肉眼は「マスク」によって視線をさえぎられ、見えないもの(不明の顔)に触れることで「女の裸」へと逸脱したが、次は、「ことば(意識)」の視線(想像力)が「どこ」という「不明」のものにぶつかり、さらに逸脱する。目的地を「想像」することを通り越して(逸脱して、超越して)、あるいは目的地を「女」になりかわって明確に「想像」するために、「身体」そのものへと逆に凝縮する。「距離」を縮めてしまう。「意識(ことば)」を「身体」に還元し、もう一度「想像」しはじめようとする。
 「目」と「目のつくりだす距離」は「ことば」によって、伸び縮みし、現実にはありえないものへと変質する。この変質が、鈴木にとっての詩である。
 この変質の、変質を、変質と感じさせないようにおさえつけている(?)のが

その「どこ」が不明。

 の「その」である。指示代名詞。ぐいとつかんで、対象を放さない。ここから鈴木の粘着力が出てくる。鈴木の想像力の粘着性が生まれる。
 「その」という粘着力、それが呼び寄せることばによって、鈴木は「自己拡張」をはじめる。
 「女性とわたしの身体が入れ替わる」と鈴木は書いているが、実際は、「女性の身体」と「わたしの身体」、さらには「わたしの意識」と「女性の意識」(これは、またあとで触れる)を二重に生きる。「入れ替わり」は便宜上のことばであって、実際にそこでおこなわれていることは、鈴木自身を粘着力で「女性」とぴったり重ねるということである。鈴木を「女性」の領分(領域)まで拡大することである。
 これから先、ことばはでは、その自己拡張をどこまで続けることができるか、という世界へ進んで行く。

しかし、それにしても、
わたしと交代で
わたしの身体に入れ替わった女性は驚いて、
困るだろうな。
突然、白髪の杖を突いた老人にナッテシマッテ。

 女性の「身体」だけではなく、女性の「意識」にまで自己拡張をつづける。そして女性の「意識」にまで自己拡張をした瞬間に、ふっと、鈴木と女性は分離する。
 ここにほんとうは、この詩というか、鈴木のことばの一番のおもしろさがある。
 肉体はそれぞれ分離している。それは互いに触れることはできてもけっして「一体」にはならない。二人の「肉体」の一致・融合ということはありえない。逆に「意識」のばあいは「融合・一体」ということはあり得る。それなのに「意識」を分岐点にして、鈴木の場合、人間は別れて行く。意識は全体に融合しないのである。意識・ことばはあくまで「個人」のものである。絶対に、他人とは一体にならない。どんなにことばを積み重ねてみても、ことばはあくまで個人に属する。
 これは、別の言い方をすれば、どんな「空想」(想像)をしようが、それがことばであるかぎり「個人」のものであるから、何を、どんなふうに考えたっていい、ということである。「個人的」であればあるほど、それは「ことば」である、ということである。
 「極私的」ということばが鈴木の「代名詞」のようにつかわれたことがあるが、「極私的」とは、そういうものであろう。「個人的」であることによって、ことばが完成する。ことばは詩になる。それが鈴木の世界だ。




胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田

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大橋政人『歯をみがく人たち』

2008-05-14 08:33:14 | 詩集
 大橋政人『歯をみがく人たち』(ノイエス朝日、2008年05月01日発行)
 大橋の詩は過剰な想像力を拒否している。想像力が過剰に動いたあとは、それをしっかりと修正し、平穏へともどってくる。たとえば「命座」。

私たち
一人一人の命というのは
夜空の星の
一つ一つみたいだ

まっ暗で
恐ろしいだけの
宇宙という広がりの中に生まれて

右も左も
前も後ろも
上も下もわからず
かぼそい光を発している

さみしいので
互いに手を伸ばす

みんな
無闇に手を伸ばす

手と手を
やっとつなぎ合って
鳥とか
犬とか
熊とか
何かの形
のようなものをつくろうとするが

どの形にも
どこか
無理がある

コジツケ
みたいだ

 想像力を「コジツケ」と呼んで拒絶する。
 想像力が、ことばが、どこまで動いて行けるか追求する「現代詩」とは違っている。かといって、大橋に想像力がないのかといえば、そうではない。「私たち/一人一人の命というのは/夜空の星の/一つ一つみたいだ」という比喩は想像力が産み出したものだし、その比喩の射程(ことばが動いて行ける距離)をことばで追い求める2連目以下はことばの可能性、想像力の可能性を追求しているということもできる。
 大橋は、ただし、そういう追求におぼれない。どこかで想像力を追い求めすぎると人間が人間でなくなる、と考えているのかもしれない。
 6連目に「つなぎ合って」ということばがある。大橋のキーワードは、たぶん、この「つなぎ合って」(つなぐ)である。想像力とは、何かと何かをつなげることだが、そのつなぎ合いにはある一定の「尺度」が必要である。何でも「想像力」でつなげればいい、というものではない。
 この詩のなかでは、大橋は「手」を「つなぐ」ものとして取り上げている。「肉体」である。「肉体」でつなぎ合うものは信じることができる。けれど、その「つなぎ合って」が「手」を離れ、空想になると「コジツケ」と感じる、ということだろう。
 「肉体」の及ぶ範囲に想像力を限定し、そこから人間をみつめていくのである。それが大橋の詩である。

 「つなぐ」を中心に大橋の作品を見ていくと、もう一つの特徴が見えてくる。大橋の「思想」が見えてくる。「下から上へ」は独り暮らしの男が、電気をつけたり消したりしながら1階の部屋から2階の寝室へ移動し、眠るまでを描いている。
 その最後の部分。

家の中に
男一人だけの日の夜は
明るさと暗さが断崖のようになっているので
ていねいに電気をつなげていく

一つ消し
一つつけて
人間とともに
明かりが下から上へと動いていくのが
外からも見えるかもしれない

 「ていねいに電気をつなげていく」の「ていねいに」が大橋の「思想」である。手順を整えて、つなぎ目をしっかりさせる。絶対に「つなぎ合って」が崩れないように、無理な(コジツケめいた)ことをしない。その「ていねいさ」は男の内部でのことである。大橋の内部でのことである。
 しかし、その「ていねい」がほんとうにていねいであれば、それは内部にとどまらない。「外からも見える」ものにかわる。「ていねい」は見えるのである。ここに大橋の、日常に対する祈りと願いが結晶している。

 こういう思想、「ていねい」な思想は、現代には不向きかもしれない。誰にも通じずに、ていねいさだけが、何もできずに漂うことになるかもしれない。それは悲しいことかな? そうでもないかもしれない。それでいいのだ、と大橋は、ていねいさが漂ってしまうことを受け入れている。
 そのことを象徴するのが「春」である。全行、引用する。

春には毎年
先を越されてばかり

どっちから来るのか
わかっていれば
遠くまで
出迎えに行くことだってできる

あしたとか
あさってとか
その次の午前九時とか
いつと言ってくれれば
心の準備の一つや二つ
あろうというものだが

春は
いつだって断りなし
気がついたら
もうここに来ている

気がついたときは
すっかり春に囲まれていて
万事休す

降参の格好で
両手を挙げてフラフラ

あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 「ていねい」を大橋は「心の準備」と言い換えている。「ていねい」とは「心」がこもっているかどうか、ということなのだ。「心」とは、具体的には? この詩では「出迎え」という表現で言いなおされてもいる。「ていねい」とは「こころ」、「こころ」とは「出迎え」--「ていねい」とは、誰かを(何かを)「出迎え」(受け入れる)準備のことなのである。誰かを、何かを、出迎え、しっかりと「つなぎ合う」。そういう生活、そういう日常。それを、大橋は、ことばを「ていねい」に「つなぎ合」わせて、詩に定着させている。
 とても気持ちのいい詩集である。




春夏猫冬
大橋 政人
思潮社

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ワン・チュアン監督「トゥヤーの結婚」

2008-05-14 00:48:48 | 映画
監督 ワン・チュアン 出演 ユー・ナン

 この映画の美しさを伝えることばを私は持っていない。
 どんなふうに書きはじめたらいいのかも見当がつかない。冒頭、結婚式(披露宴)の最中に、主人公トゥヤー(ユー・ナン)が宴を抜け出す。外でけんかする子供を仲直りさせようとして、うまくいかず涙を流す。その涙が、とても奇妙に見えた。少しも悲しい感じが伝わってこない。ユー・ナンという役者のことも知らないし、ワン・チュアン監督の映画を見るのも初めてである。素人(内モンゴルのほんとうの遊牧民)をつかって作られた映画かと思った。ようするに、「へたくそ」と思ったのである。
 そして、画面がかわって、トゥヤーがラクダに乗って羊を追ったり、水を汲んだり、お茶をわかしたりするシーンを見ると、ますます素人をつかって作っている映画という感じがしてくる。トゥヤーがあまりにも大地に似合っている。それも、溶け込む、というのではなく、大地と対等に向き合っている。荒涼とした大地、羊を飼いつづけて来た女、女手ひとつで子供の面倒を見て、歩けなくなった夫の面倒も見ている。苦しい生活に耐えて、その耐えてきた力が、まるごと肉体になっている。顔を覆う紅いスカーフ、分厚い茶色のコート、いかつい長靴。そういうものがあまりにもぴったり身についている。彼女が乗りこなしているラクダも、すっかり彼女の肉体の一部になっている。役者とはとても思えない。実際に内モンゴルで遊牧をしている女性でなくては、こんなふうにはスクリーンに映し出されないだろうと思う。生活感、というより、存在感が違うのだ。圧倒的なのだ。
 そのトゥヤーは再婚相手を探している。夫が歩けなくなってしまったので、夫といっしょに暮らすことを条件に結婚してくれる相手を探している。奇妙な話で、奇妙ゆえに「実話」という感じがする。そのうえ、その再婚相手との見合い、やりとりが、またとても生々しい。トゥヤーのかたくなな態度、夫といっしょに結婚--というような虫のいい(?)条件を受け入れる相手などいそうにないのだが、それでも絶対に条件を譲らないという態度が、非常に生々しい。笑いだしたいくらいに、生々しい。目の前で、素人の実生活を見ているような、不思議なおかしさがある。そして、ユー・ナンには、そのおかしさを、だからどうした、ほんとうのことなんだ、と言ってのけるような強さがある。清潔感というか、凛とした輝きがある。
 これに似た映画を探すとすれば、チャン・イーモー監督、コン・リー主演の「菊豆物語」だろうか。中国の現実の生活と、それに真っ正面から向き合って自己主張する女のたくましさ、たくましさがひきだすユーモア。そういう感じがいつもあふれている。スクリーンにあるのは、架空ではなく、現実だ、という感じがする。
 それに圧倒される。
 そして最後。トゥヤーは隣の男と結婚する。その男はだらしない(?)男で、妻のいいなりになっている男である。男の妻は、いつも浮気をしている。浮気をされても、なお妻のいうがままになっている男である。何人かの再婚相手を拒絶し、トゥヤーはその男と再婚することになるのだが、見方によっては、結局それしか選択肢はなかったのか、という思いになってしまいそうな映画である。それしかなくて、トゥヤーはトイレでひとり涙を流しているのだ--という映画になってしまいそうである。
 ところが、私のストーリーだとそういう紹介になってしまうのだが、実際に映画を見ると、そうではなく、最後がとても幸福な気持ちになる。悲しい涙、へたくそな演技の涙ではなく、安心の涙だと気がつく。あ、こういう安心があるのだ、ということに驚かされるのだ。これが「母の愛」だと気づかされ、はっと胸を打たれるのである。
 トゥヤーの願いは一つ。家族全員、愛した人全員にただただ生きていてほしいということ。それがやっと実現して、トゥヤーは涙を流す。それまでこらえていた涙を流す。どんな苦労のなかでも流さなかった涙を流す。
 披露宴で酔いつぶれる前の夫。それは前の夫自身が、妻とこれからもずーっといっしょにくらしていけるという安心からの酔いである。このシーンの前に、施設で泥酔して自殺を図るシーンがあるが、そのときはどれだけ酒を飲んでも酔えなかった。不安だから、酔えなかった。それがいまは、祝宴の少しの酒で我を忘れるくらい酔っている。一方で、息子と新しい夫の息子は兄弟げんかをしている。結婚式・披露宴なのに、そんなことには関係なくけんかをしている。「お父さんが二人いるなんて変だ」と言われて、困ってしまってけんかしている。それは見方によっては不幸の始まりだけれど、トゥヤーはそうは考えないのだ。けんかするというのは兄弟にとってありきたりのことである。本心をぶつけあうからこそけんかがはじまる。もう「家族」がはじまっているのだ。それを実感して、トゥヤーは涙を流す。ああ、家族がみんな生きている。それは安心の涙だ。
 冒頭の涙で感じた違和感。へたくそな演技。それは、そうではなかった。うますぎたのだ。安心の涙があるなどと、私は想像していなかった。最後の最後になって、安心の涙、その頬の輝きに触れ、びっくりし、とても幸福な気持ちになった。
 そして、素人のかたくなな顔に見えていたユー・ナンが突然美人に思えてきた。あらゆる瞬間の一途な堅苦しさ、主張の強さ--それはすべて「母」の愛ゆえだったのだ。「家族」全員を絶対に手放さない、という決意が彼女を強固にしていたのだ。その強固さを、それまで私は勘違いしていたのだ。
 母になることで女性は美しくなる。母になる瞬間、あらゆる女性は凛として輝く。--という言い方は平凡かもしれない。しかし、そう思った。こういう「母」がいて、人間の暮らしはつづいて行くのである。大地に根を張って生きて行けるのである。ユー・ナンはそういう女性を具現化していた。完璧な演技である。映画も傑作だが、ユー・ナンの演技こそ、映画を貫く芯である。



この映画と比較してみよう。


菊豆

パイオニアLDC

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豊原清明「叩かれる少年」

2008-05-13 00:18:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「叩かれる少年」(「白黒目」11、2008年05月発行)
 豊原のことばを読んでいると、感情・精神こそが肉体なのだ、と、ふと思う。--感情・精神が肉体である、というのは、少し説明がいるかもしれない。いや、かなり説明が必要なことがらである。そして、私はそれについてきちんと語れるかどうかわからない。いつでも語ることのできないものを語ろうとするしかない、語ることができないからこそ語りたいと思ってしまうのだけれど……。

 連続小説「叩かれる少年」。小学校に入学した清と真裕子の話である。そこに描かれている二人の感情・精神に肉体がある。肉体の手触りがある。それは「過去」の積み重ねと言い換えてもいいかもしれない。
 豊原にとって、精神は(ちょっとプラトンあたりを想像してもらうと、私の説明がわかりやすくなるかもしれない)、どこかに肉体から離れて、肉体の逸脱を制御しながら、人間をととのえるものではない。肉体の奥で「過去」を生きていて、肉体そのものとして、表面に出てくる。肉体を破って誕生する肉体以外のものが感情・精神なのである。
 次のような部分。清が奈良よし子から話しかけられる。そのつづき。

「多良くんと平賀さんって、好き同士なん?」
清はびっくりして口を開けて言った。
「まだおともだちだよ。」
その声を聴いて真裕子は不安になり、ことばを失った。
夕暮れ。不安がうごめいた。
「清さん、わたしのことが好きじゃないの?」
真裕子は、弱弱しい子声で清に尋ねた。
「ち、ちがう。好き。真裕子さんのこと、大好き!」
「でも、よし子さんが話しかけたとき、今よりずっと、自然に答えていたやん。やっぱりわたしとは距離があるのね。わたし。悔しくて悲しい。」
しばらく間がふたりの間で流れた後、
「わたし、清さんのこと大好き。清さんもおなじと思っていた。」
清は返す言葉が見つからなかった。
「真裕子、ちゃんって言っていい?」
清はとってつけたようなことを言った。

 清と真裕子のことばのやりとりのなかに、そこには書かれていない「過去」が一気に噴出してきている。どうして真裕がそう思うか、という具体的な「過去」が書いてないにもかかわらず、書かれていない「過去」がなまなましく思い浮かぶ。肉体として思い浮かぶ。精神・感情ではなく、いっしょに遊んでいる無邪気な顔、笑い、目の輝き--そういう瞬間に共有した感情が、まっすぐに存在できずにねじ曲がる、その瞬間の不思議な苦悩、ねじ曲がってしまう力が肉体として立ち上がってくる。ねじ曲がってしまうのは、「過去」が肉体となって、そこに存在しているからである。
 小学1年生が「でも、よし子さんが話しかけたとき、今よりずっと、自然に答えていたやん。やっぱりわたしとは距離があるのね。」ということばをそのまま話すはずはないのだが、読んでしまうと、そのことばしかないなあ、と思う。
 人間の肉体のなかで生きている「過去」は精神・感情になってしまうと、肉体を突き破って(小学1年生であることを飛び越えて)、一気に「おとな」になってしまう。時間をひっくりかえし、幼いこどもの肉体のなかで生まれる嫉妬が、一気に時間を超える。時間の攪乱--そこに、「今」がある。精神・感情の「今」のなかには、「過去」と体験していないはずの「未来」が同居し、それが抑制から逸脱し、暴走する。

 豊原は「過去」を書かない。「未来」も書かない。ただ「現在」(いま)だけを書く。あらゆる瞬間を「いま」として書く。それが「肉体」を書くということかもしれない。
 精神・感情には「過去」「未来」がある。「肉体」には「いま」しかない。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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豊原清明「食卓の眠たさ」ほか

2008-05-12 08:27:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「食卓の眠たさ」ほか(「白黒目」11、2008年05月発行)
 世の中には嘘のつけない人間がいる。豊原清明がそのひとりである。嘘がつけない、というのは「正直」というのと少し違う。「正直」には抑制がある。逸脱しそうになる瞬間の前できっぱりと立ち止まり、ほかに選択肢はないかと熟慮する。「嘘をつかない」というのは、そういう選択をしない。逸脱して行く。逸脱することで自分自身を解放して行く。豊原のことばを読むと、そういう思いがする。
 「食卓の眠たさ」の1連目。

うなずきながら父の愚痴をきき
白い空の自由ってものを
求めながら、生かされていることに
辛さを感じる、ああ!!
胸が、足が、しりが 疼く

 「生かされていることに/辛さを感じる、」というのは、精神の問題である。父との対話(愚痴をきく)のなかで豊原は「辛さ」を感じている。その「辛さ」というのは精神の問題である。その精神の問題から、豊原は軽々と肉体へ逸脱する。

胸が、足が、しりが 疼く

 辛さには確かに肉体的な辛さもある。愚痴をだまって聞いているのは精神的に辛いし、肉体的にも辛い。しかし、普通は精神的辛さについて真剣に考えれば、肉体的辛さは薄れる。精神的な苦悩は深くなる。そして、その結果極端な場合は、こんなに精神的に辛いならいっそう肉体を放棄することで精神的苦悩から逃れたい--自殺、という願望が生まれたりする。この自殺願望も一種の逸脱であるが、豊原はそういう逸脱はしない。
 軽やかに、肉体の力の方に逸脱する。

胸が、足が、しりが 疼く

 人間の辛さとはそれくらいのものである、と言えば、たぶん語弊がある。しかし、そんなふうに逸脱することで、自分自身を解放する--そこに、不思議な「笑い」がある。あ、こんなふうに感じていいのだ、という安心感がある。
 愚痴を聞いているのは辛い。その精神的な辛い瞬間から、こんなふうに肉体のリアリティーに逸脱し、逃れて行くことで、精神を解放していいのだ。
 誰もが、もしかすると、無意識にやっていることかもしれない。無意識にやっていることなので、それをことばにはしないだけのことかもしれない。しかし、その誰もやっていないこと、ことばにするということを豊原は実行に移す。その瞬間に詩が生まれる。肉体を持ったユーモアが、それまでの「空気」を破って、ことばが(精神が)自由に動き回れるようにする。
 この瞬間が、とてもいい。
 詩はつづいて行く。

差別されてもいいではないか
うとまれてもいいではないか
彼女にはもう爪も蜘蛛の糸も唾も
届かなくなったのだから。

彼女を失ったことで
いっそのこと死にたいと思っても
太っているから死ねないし
太っているから
きらわれる
木の下に、立つ
そして、時間ばかりが通りすぎて
母も父も時雨れて
僕は眠たくなった

 最後の「僕は眠たくなった」という行の登場にも、私は、健康な肉体を感じる。肉体があることの喜びを感じる。

 豊原のことばには嘘がない。嘘をついている余裕(?)がない。そういう余裕を与えないほど、肉体がエネルギーに満ちている、ということなのかもしれない。



 豊原は俳句も書いている。その俳句も不思議な味がある。

冬深し乱読を産む野の灯り

春の山力ずくでも山であれ

ぜつぼうと打ち合いて春の鹿

黒人霊歌トランペットに春がある

 存在と向き合う肉体。そのときの平然とした感じ。そこに命があることを受け入れている、というか、共感している。対象と一体になっている感じがいい。それはたとえば、

ぜつぼうと打ち合いて春の鹿

の場合、鹿と豊原が一体になっている、共感しているという感じではなく、「ぜつぼう」と「鹿」が溶け合って、その溶け合った世界と豊原が対等に向き合うことで一体になっているという感じである。豊原は「鹿」であるだけではなく、「ぜつぼう」でもある。そして、「ぜつぼう」も「鹿」も豊原も、それぞれ独立している。一体になっているのに独立している。
 その呼吸が、私はとても好きだ。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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佐土原夏江『たんぽぽのはな』(2)

2008-05-11 09:06:52 | 詩集
 佐土原夏江『たんぽぽのはな』(2)(編集工房ノア、2008年05月01日発行)
 佐土原夏江のしっかりした視力は存在しないものをくっきりと見えるように浮き彫りにする。その視力はほんとうに美しい。「日曜日」の全行。

秋空が広がった
朝から自家用車で
隣の家族が出かけていく

公園の
砂場やすべり台が人待ち顔
ブランコにぶらさがっている男の子がひとり

爽やかな風が木の葉を揺らして
呼びかけている
ブランコがもう一つ空いているよ

 最後の1行は、単にひとのいないブランコを描写しているのではない。そこに存在しうる(つまり、いまは存在していない)誰かをしっかり見ている。見えている。そこに誰かがいれば、男の子の一人遊びは違ってくる。いきいきと光り輝くはずである。その姿を佐土原の視力は思い描く。
 そういうくっきりした姿、姿だけではなく、笑い声まで聞き取ってしまう視力があるからこそ、日曜日、ひとり残された男の子のさびしさを抱きしめることができる。
 「秋空が広がった」「人待ち顔」「爽やかな風」。どれも、詩の行としてはそっけないかもしれない。たぶん、このそっけなさが「現代詩」には受け入れられないだろう。だが、そのそっけないことばが「ブランコがもう一つ空いているよ」の「もう一つ」を浮かび上がらせる。「呼びかけている/ブランコがもう一つ空いているよ」の倒置法を、とても自然なものにしている。
 そして、

呼びかけている
ブランコがもう一つ空いているよ

 この2行の、「よ」で始まり、「よ」で終わる音の美しさ。思わず何度も何度も読み返してしまう。



 不在のものをみる視力。それは矛盾するようではあけれど、不在のものなど何一つない、すべては存在する(存在しうる)のだとつげる。「日曜日」のブランコ、「もう一つ空いている」ブランコを揺らすこどもはどこかにいる。今、そこにこどもがないとしたら、それは人間が(大人が)そのこどもを隠しているからである。日曜日、公園で、ブランコで、砂場で遊ぶ喜びから、大人がこどもを奪いさって、どこかへ隠してしまっているからである。ほんとうは、こどもたちは存在するのだ。
 そういうことは、個人の、つまり佐土原自身の肉体でも起きている。そして、そのことを佐土原はしっかりと見ている。「いまの私が好き」の全行。

おいてきたもの
すててきたものが
眠りを覚ます夜がある
それら
一つひとつを掬いあげ
あたためてはほぐしてみる
過去のすべてから
私が作られている
ときに呼んでくれるんだと
気づかされる

 過去はいまここにはない。それは佐土原が無意識に隠してしまっている。隠して、ということばは語弊があるかもしれない。しまいこんでしまっている。しかし、それはけっしてなくなるものではない。いま、見えないだけであって、じーっと目を凝らせば見えてくる。見えてくるだけではなく、そういうものがもしなかったとしたら「いま」という時間、「いま」の「わたし」も存在しないのである。
 それを佐土原は「思い出す」とは書いていない。「呼んでくれる」と書く。ここに不思議な正直さがある。温かさがある。自力ではなく、他力。そして、それに感謝する正直さがある。この「ありがとう」の気持ちから、佐土原の愛がはじまっていることがよくわかる詩である。
 「ありがとう」という気持ちに育てられた愛と、ありがとうと愛を結ぶ視力が佐土原のみる世界を、おちついた美しいものにしている。


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佐土原夏江『たんぽぽのはな』

2008-05-10 00:26:03 | 詩集
 佐土原夏江『たんぽぽのはな』(編集工房ノア、2008年05月01日発行)
 佐土原夏江はしっかりした視力を持っている。見たものを正確にことばにできる視力である。こうした視力に出会うと、あ、私は何も見てこなかったなあ、と思う。たとえば「芝生」。

膝をついて目をこらして見る
どれにも名前が付けたくなる
踏みつけられて
折れたり曲がったり
それでも雨が降れば
生気を甦らせ
つんつんと茎や葉をのばして
風にゆれ
光を抱きしめている

 こうした風景を私以外にも多くのひとが見ていると思う。そして同じようなことを一度は詩に書いたことがあるのではないかと思う。たとえば学校の宿題で。踏みつけられても強く生きる雑草の様子を。
 そういう詩と佐土原の詩とどこが違うか。どこに視力の確かさがあるか。
 まず「タイトル」にある。佐土原は「雑草」について書いているのではない。名前のあいまいな草、頭の中に生い茂っている観念としての草ではなく、実際の芝生を書いている。肉眼が見ているものを書いている。これはあたりまえのようであって、あたりまえではない。ひとはたいてい肉眼ではものを見ない。観念でものを見る。しっかり見ることを省略してしまう。踏まれても踏まれても立ち上がってくる雑草。そういうものは、もう肉眼で見なくても、観念として存在する。「雑草魂」というようなことばさえあるくらいだ。ひとは「雑草」と呼ぶとき、すでに草を見ていないのである。
 佐土原はそうではなくて、芝生をはっきりと肉眼で見ている。ただ見るだけではなく、見ながら、見ていなかったと告白している。

どれにも名前が付けたくなる

 私は雑草を見るように芝生を見ても何も見ていない。芝生ということばしか思いつかない。
 ところが佐土原は、そうではないのだ。芝生の一枚一枚の葉を肉眼で見て、それぞれに違いがあると発見する。そして「どれにも名前が付けたくなる」。それぞれが「名前」をもってしかるべきだと感じている。
 「名前」は、何かを愛したときに、その存在に対してつける。どこにでもいる一匹の犬。それが自分にとってかけがえのないものであるとき「名前」をつける。「名前」をつけるということは、自分と存在との関係を特別なものにするということである。そういうところまで、佐土原の視線は進んで行くのである。
 芝生の葉っぱは佐土原が書いているように「つんつん」している。まっすぐである。しかし、佐土原の視力は、ただ「つんつん」をとらえるだけではない。

光を抱きしめている

 つんつん、まっすぐ。それにもかかわらず、光を抱くことができるのである。抱くというのは、手を曲げることである。葉っぱなら葉を曲げることである。茎なら茎を曲げることである。芝生の葉っぱは曲がらない。茎だって丸くはならない。でも、その葉っぱは、そして茎は、その命の中に光を抱きしめる力を持っている、目に見えない腕をもっている。その目に見えないもの、私の目に(あるいは多くの読者の目に)見えないものまで、しっかりと見ることができるのである。そして、その「しっかり」は、愛から生まれてきた「しっかり」である。

 詩集を読むとき、私は、気に入った作品に出会うと、しょっちゅうページの片を折る。その折れ曲がった端っこを「ドッグ・イヤー」と呼ぶらしいが、それがいくつもできた。そして、そのドッグ・イヤーのページを開くたびに、そこから佐土原の愛が浮かび上がる。存在そのものをしっかりと自分と結びつけていく力を感じる。たとえば「造花」。

まるで本物としか見えない
シャクヤクの花
白とピンク
清楚で甘やかな気配

咲きつづけるしかない造花
枯れることを知らない悲しみを思う
せめて眠りの時間をあげよう
部屋の灯りを消す

 愛とは、そして自分にできることを探し出してきて、それをすることだと教えられる。最後の2行がとても美しい。
 佐土原は、そんなふうに芝生や造花という「他者」をしっかりと愛する。そして、そういう愛は、自分自身をもしっかり愛している。「他者」も「自分」も同じなのだ。同じ愛で結び合うのだ。そういう自分を愛する愛し方が、とてもていねいである。「ある日」には、そうした愛があふれている。

街角のウインドーに写っている私
さくらの花びらが二枚
髪にとまっている
ゆっくり ゆっくり
階段を下りて
地下鉄に乗る
前の座席の目が笑っている
なんだかいい気分
改札を出て
そーっと そーっと
階段を上がる
突然の風
あっ

こんな日は
何かがやってきそう

 こんな日は、きっと詩がやってくる。

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柴田千晶『セラフィタ氏』

2008-05-09 00:39:07 | 詩集
 柴田千晶『セラフィタ氏』(思潮社、2008年02月28日発行)
 柴田の2000年発行の詩集『空室』を読んだ読者からメールが届く。そのメールに誘われるようにことばが動いていく。現実ではなく、ことばが詩を動かしていく詩である。もちろんことばも現実である。ことばだけが現実になりかわっていく。すべては消去され、ことばが呼び込んだことばだけが増幅し、ことば、ことば、ことば、とことばがさらにことばを探しはじめる。
 詩の途中に短歌(?)が挿入される。それは増幅することばに耐えかねたことばの悲鳴のように聞こえる。美しい悲鳴というものもあるかもしれないが、ここでは、増幅することばで窒息しそうになることばが、やっと息をしているという感じである。どういうことばが悲鳴をあげるかといえば、論理、精神の抒情が悲鳴を上げているのである。抒情といっても、そこにはほんとうは抒情はない。五・七・五・七・七というリズムの、リズム論理のもっている抒情である。五・七・五・七・七というリズムなら、抒情的な悲鳴が生き延びられるはずという「論理」の夢である。願望である。願望が、悲鳴になって残っている。
 なぜ、そんなふうにして、ことばの悲鳴を残したいのか。
 たぶん、柴田が受け取ったというメールと関係する。メールに書かれていることばと関係する。

あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきているはずです。

 メールを書いた「セラフィタ氏」は「散文」をどう定義しているかわからない。しかし、柴田は「散文」について柴田は次のように定義している。

散文的なセックスとは おそらく果てしない欲情のことだろう

 なぜ散文は果てしないか。それは散文というものは、あることばを出発点にして、どこへゆくかわからないまま変化して行くのもだからである。散文の目的はただ出発点を超えることだけである。出発点を超え、中間点を超え、到達点を超え、その向こうへ行ってしまう。エクスタシー。到達し、その到達を超えて、自己の外へ出てしまう。それはたしかに散文の仕事であり、それはセックスと重なり合う。
 柴田は、いわば読者のことばを出発点として、読者の定義そのものを超越しようとしている。そういう試みはたしかに「散文的」である。散文でしかできない。
 ただし、実際に柴田のセックスがというか、柴田のことばが、自己の外へ出ていってしまっているかというと、私には、疑問に思える。自己を超越し、自己の外へ出ていこうという意図は感じるけれど、どうも自分の「枠」というものを求めて、内部をさまよっている感じがする。
 挿入される短歌が、そのさまよいである。感情を、抒情をひきつれて、自己の外へでたいのだ。感情を守りたいのだ。書くことでたたき壊す感情というものもあるだろうけれど、柴田はここでは柴田の感情をたたき壊してはいない。たたき壊して、その外へと出ようとはしていない。少なくとも私には、柴田の短歌は、そんなふうに読める。そんなふうに響いてくる。

薄明にハーゲンダッツの看板が純文学のように見えます

 詩集のなかでは、この短歌が私は一番好きだ。「薄明」と「ハーゲンダッツ」が頭韻を踏んで美しい。抒情はここでは「純文学」と呼ばれている。その関係も美しい。生き残っている感情の小ささが美しい。
 しかし、これでは散文的セックスはとうてい完成(?)されない。
 「純文学のように見えます」と書くことで、柴田は、抒情を破壊したつもりかもしれないけれど、私には抒情を大事に守っている、というふうに見える。悲鳴に聞こえる。悲鳴を保存する装置のように、短歌が見えてくる。

 ほんとうは、柴田のことばは増幅はしていない。読者のことばを出発点として、自己を乗り越えるという方向へは運動をしていっていない。ことばを探し求めているけれど、そのことばは、散文によって破壊され、虚無に落ちていくことばを抒情の網ですくい取っているのである。
 ロープをつかったセックスが出てくるが、そこに描かれているのは「装置」であって、「肉体」ではない。「肉体」ではないから、もちろん感情でもない。肉体から切り離された「装置」--「装置」だけが、柴田の肉体の外へ出てしまっていて、柴田自身は自分の「枠」のなかに閉じこもっている。孤独にふるえている。「装置」は虚無のように、柴田を他者から切り離す。どんなに「装置」をつかおうと、それは他者の延長でも、柴田自身の延長でもない。それは単に二人を切り離す存在である。切り離された人間の間ではセックスは存在しない。したがって、エクスタシーは存在しない。

 この詩集にあるのは「散文」の精神ではなく、抒情の悲鳴である、とふたたび思う。



 私には、この詩集は柴田のことばの本質とは違ったものではないか、という気がしてしようがない。柴田は基本的に「散文」の人間ではない。散文によって傷つく人間である。散文によって傷つく前に、自分で散文をつかって傷をつけてみた--自傷の詩、として読んだ方がいいのかもしれない。たぶん、自傷の詩として読めば違った風景が見えてくる。痛みと悲鳴がもっとせつせつと響いてくるかもしれない。
 私は読み方を間違えたのかもしれない。

 散文--と書いたついでに補記しておくと、散文精神をもっている詩人には、高岡淳四がきる。田中庸介がいる。この二人は正直という点でも共通している。正直とは、あることを語ることによって自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決断して、対象を受け入れること、対象に向かって自己をつくりかえていくことである。自己を放棄して世界になることである。正直が精神にとってのエクスタシーなのである。正直が散文にとってのエクスタシーなのである。



空室―1991‐2000
柴田 千晶
ミッドナイトプレス

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ポール・トーマス・アンダーソン監督「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

2008-05-08 08:15:28 | 映画
監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ダニエル・デイ・ルイス、ポール・ダノ、ディロン・フレイジャー、キアラン・ハインズ

 冒頭の音楽とダニエル・デイ・ルイスの手にびっくりさせられる。ひっぱりこまれる。映画は音楽と映像でできている。その至福が冒頭からやってくる。不安が緊張に高まって輝く音楽。それを背景にして石まみれ(泥まみれというやわらかさはない)の手。役者の手ではない。大地を掘り進むつるはしのような手である。この手で、つまり肉体そのものでダニエル・デイ・ルイスは金(きん)を手に入れ、石油を手に入れ、金(かね)を手に入れる。石油に比べると、金(かね)なんてなんでもない。ふにゃふにゃしている。ふにゃふにゃはその手触りのよさで、手を解放する。手から労働を解放する。そのふにゃふにゃ、ふにゃふにゃの夢ににつられて農家(地主)たちはふりまわされる。いいようにあしらわれる。ダニエル・デイ・ルイスも金を手にするけれど、そんなものはふにゃふにゃだと知り尽くしている。手が、大地が、手と大地の戦いこそがすべてなのだと知っている。その剛直な戦いを象徴する、激しく、強い音楽である。映像も、ダニエル・デイ・ルイスの手だけではなく、すべてが固い。スクリーンにうつっているというよりも、強固な岩盤に切り刻まれている映像という印象である。冒頭から、大傑作なのである。これから起きることがすべて語られているような一瞬がそこにあった。

 ダニエル・デイ・ルイスの演じる役所は極悪人である。金(かね)を、金になる石油を追い求めている。だれも信用していないようである。野卑である。欲望の固まりである。平気で嘘をつく。嘘のためにこどもも利用する。ひとも殺す。その一方で「家族」をもとめている。絆を探している。矛盾している。--それなのに、ひきつけられる。冒頭の手について書いたが、その肉体の、労働をくぐり抜けてきた力、大地と戦ってきた力が反映されている肉体の強さに引きつけられる。
 この肉体があってはじめて、大地も大地足りうる。石油を噴出させ、火を吹く。ひとの命を奪う。大地もまた地球という存在の「肉体」なのだということがわかる。

 ダニエル・デイ・ルイスの肉体が大地そのものになっている。その奥には石油のように欲望が、愛憎が、矛盾がどろどろとしたまま眠っている。それが匂うのだ。オーラとなってあふれるのだ。とてもいやな人間なのに、ひかれてしまう。夢中になってしまう。こんな人間にはなりたくない、などと思う余裕もなく、その強さにひきずられてしまう。引き込まれてしまう。
 ダニアル・デイ・ルイスが石油が眠る大地に吸いよせられていくように、私は、ダニエル・デイ・ルイスの肉体に吸いよせられていく。細身の体が大地と素手で戦うことでとてつもなく強靱になっている。その細い体の中から、欲望が、愛憎が、洗練されず、(精製されず)、原油のまま、真っ黒のままあふれてくる。時には火を噴き、ダニエル・デイ・ルイス自身を破壊して噴出する。そういう感じが、一瞬一瞬、一刻一刻、スクリーンにあふれる。ほとんど出ずっぱりで、スクリーンそのものをひっぱって行く。ひっぱって行く--というのは、映像としてだけてはなく、ほんとうに、石油の眠る大地へ、荒野へ、海へ、街へ、文字通りひっぱってゆく。スクリーンにそれぞれの場所が映し出されるのではなく、スクリーンがダニエル・ダイ・ルイスとともに異動していくのである。
 このダニエル・デイ・ルイスの肉体にポール・ノダのことば(宗教)が絡む。肉体と宗教はぶつかりあう。どちらも相手を偽物(信頼できないもの、生きるために命が利用するだけのもの)と考えている。反対のものであるだけに、相手が、すべてわかる。肉体が欲望なら、宗教も欲望である。肉体が鍛えられて美しいなら、宗教も鍛えられて美しい何かである。だが、鍛え上げられて美しい何かというのは、それが肉体であれ、精神であれ、普通の人間の何かとは違う。はりつめた緊張。そのなかにしかない矛盾の力のようなものが、その美を動かしている。
 そして、この肉体と宗教という相反するものが「家族」のなかで、ぶつかり、「家族」を破壊して行く。「家族」ではなく、人間をひとりの人間そのものに引き戻す。孤独に引き戻す。孤独を、肉体と、宗教とが、矛盾しながら引き受けるのである。
 そして、その矛盾を、音楽が増幅する。役者のことばかり書いたが、この映画の音楽はとてつもない。何が起きているのかわからない。まるでダニエル・デイ・ルイスの肉体のように強靱なのである。そこから不安と緊張と暴力と血があふれてくる。

 この映画の強さに、私はたじろいでいるままである。私は、まだこの映画と真っ正面から向き合ってはいない。ただ圧倒されている。圧倒されるままに、論理も何も考えず、ただことばを書いている。私のなかでことばがいつか整うことがあるかもしれないけれど、それまで待っていられない。
 傑作である。ほんとうに傑作である。

 アカデミー賞をとった「ノーカントリー」もいい作品だが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の方がはるかに優れている。コーエン兄弟は「ファーゴ」で作品賞を取り損ねている。だから、今回賞がまわってきたのかもしれない。(アカデミー賞は、いつでも後手後手で賞を送っている。イーストウッドの「ミッシング・リバー」は賞を逃した。そして、次の「ミリオンダラー・ベイビー」で賞を獲得している、という風に。もちろん「ミリオンダラー・ベイビー」もいい作品だが「ミッシング・リバー」の方が傑作である。)ポール・トーマス・アンダーソンも「ブギーナイト」で賞をもらえず、今回ももらえない。でも、次はきっと賞を獲得する。その作品が、今回を上回る傑作であるかどうかは、予測がつかない。これを上回る作品が出てくるのは、たぶん奇跡である。この作品そのものが奇跡だからである。傑作である。何度でも書きたい。ほんとうに傑作である。
 「ノーカントリー」は見逃してもいい。DVDで見てもいい。しかし、この映画はスクリーンで見ないと、映画を語れない。そういう傑作である。




BOOGIE NIGHTS

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佐藤恵「透影まどか--福井桂子さんへ」

2008-05-07 09:11:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐藤恵「透影まどか--福井桂子さんへ」(「スーハ!」3、2008年03月15日発行)
 追悼詩である。福井桂子の死を美しいもの、絶対的に美しいものとして定着させようという思いが、思いを超えて意志にになっている。とても大切な人だったことが伝わってくる。
 そういう思いとは別に、私は 1か所(2行)とてもひかれた。

透かし模様の天窓を見上げていた
時折、磨硝子の花園を
鳥が横切るのだった
その人のからだが今
静かなかいなに抱きあげられて
少し浮きあがると
瑠璃色の小花が白い寝台に砕けて、こぼれる
長く花びらの重石となって横たわっていた
紙片にはさまれ薄く乾いたスミレやツユクサを
細い指さきで光に透かして見ては
紙にうつった青い文字を読んだ

 福井桂子の詩を私はまったく知らないが、スミレやツユクサというような小さな花を透かして世界を見るような抒情詩なのだろう。なんとかそういう世界に答えようとして、佐藤自身のことばを懸命にひきしめている。ひきしめすぎて(?)、一瞬、呼吸が乱れる。今引用した部分の、

瑠璃色の小花が白い寝台に砕けて、こぼれる
長く花びらの重石となって横たわっていた

 この乱れが美しい。唐突な読点「、」が美しい。
 「重石」とは「遺体」の暗喩である。しかし、その暗喩は、スミレやツユクサ、さらには「指さき」とか「透かし」「うつる」「青い文字」のようなことばには、どうもなじまない。何か違和感がある。たぶん佐藤もそう感じているのだろう。「重石」ということばを必死になって隠そうとしている。「長く花びらの重石となって横たわっていた」ということばの順序の乱れに、その隠そうとする「意志」が感じられる。「長く」は何を修飾することばか。「花びら」ではない。副詞としてつかわれているから、普通に考えれば「横たわる」を修飾する。「花びらの重石となって長く横たわっていた」。しかし、これはとても暗い。透明な福井の遺体の描写としては、「長く横たわる」は厳しい。その時間は、「長さ」を意識されないものであってほしい。佐藤は「長く横たわる」という文脈で「長く」をつかってはいないだろう。
 では、何を修飾するか。
 「長く」は「重石」を修飾する。「長く」はいっしゅの文法の乱れであって、ほんとうは「長い」と書くべきものなのだ。「長い重石となって花びらのうえに横たわっていた」。このとき「長い(長く)」は「細く」と同義である。長いものはたいてい細い。細い細い重石--か弱い重石。そういうイメージを浮かび上がらせようとして、ことばが乱れる。文法を超えてことばが動く。
 その乱れを引き出すのが、その前の「瑠璃色の小花が白い寝台に砕けて、こぼれる」である。スミレ、ツユクサといった瑠璃色の小花。それが砕けて、こぼれる。はかなさ、美しさを象徴的に語るその一瞬。その瑠璃色の小花が砕け、こぼれる理由、花を砕き、こぼした主語を書こうとして、佐藤のことばは乱れる。
 遺体のせいである。「静かなかいな」「すこし浮き上がる」。どんなにことばを美しく言い換えてみても遺体は遺体であることをやめない。現実は残酷である。遺体の重さが花を砕き、遺体の大きさが花をこぼす。その現実の前で、ことばは右往左往する。どう書いたら「美しく」世界を伝えることができるか。「美しい」世界として死を表現できるのか。
 遺体の重さ、「重石」の残酷さで、遺体は花を砕く。そのむごい現実。それを「砕けて」と書いたあと、そのつづきの呼吸のなかで、一瞬息をのむ。読点「、」には、そういう呼吸が感じられる。そして、「砕く」をなんとか復元しようとする。「砕く」の主語をなんとか「美しい」ものにかえたいと思いながら、ことばを探す。そして「こぼれる」を引き寄せる。
 遺体を受け入れ、受け入れた分だけ、棺からこぼれる。「砕ける」花は無残である。しかし、こぼれる花は美しい。花が器からこぼれる、それも瑠璃色の小花がこぼれる。はらはらと美しい。それも「長い重石」、細い重石、細い細い、かよわい遺体によって、大量にではなく、はらはらと、ほんの少し……。
 「砕けて、こぼれる」。この読点を含む息づかいゆえに、佐藤はすこし安心して(?)「重石」という暗喩を使うことができた。そうして、その後のことばも繊細なまま動かすことができた。
 「砕けて、こぼれる」の読点「、」には祈りがこめられている。それは美しいことばで美しい追悼詩を書きたいという祈りであり、その祈りは同時に福井桂子がいつまでもいつまでもスミレやツユクサのかよわさを持ったまま、記憶のなかで生き続けてほしいという祈りでもある。福井の美しさを引き継いで行こうという決意でもある。
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野木京子「どの人の下にも」

2008-05-06 09:36:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 野木京子「どの人の下にも」(「スーハ!」3、2008年03月15日発行)

地面の下に蓋をされて沈められた、ずっとずっと下のほう
どの人の下にも
その人の沼が横たわっているのだと

 この最後の3行に野木の書きたい「意味」があらわれている。だが、詩は「意味」ではないので、これは単なる「枠組み」をつくってみせたというだけのもの、読者を安心させるための3行だろう。
 私は、こういう行が好きではない。それでもこの作品にひかれる。ひかれる行が2か所ある。

都市の、引き裂かれた建物、地面の隙間に(あなたの仕事だから)、亀裂を探して、足を擦る
それで私は片方が潰れた生き物のように、這って、地を覗きこんだ

 しつこく「亀裂」を追い求める、その追い求め方に体温(肉体)を感じる。「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばは、どれも同じものを「意味」する。同じものを「意味」するけれど、それはほんとうは違うのである。頭にとっては同じ「意味」であっても肉体にとっては違うのである。そして、その違いは、実は、肉体にはわからない。
 私の書いていることは一種の言語矛盾だが、肉体は、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つ状態を感じているが、それを識別できない。実際にそれに触れたときに「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つが違うことを感じることはできるが、その違いを誰にも伝えることができない。伝えることができないものがあるからこそ、野木は書こうとする。
 そして頭は、とりあえず「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばにする。頭はなんだって区別できる。なんだって「わかる」ものとして状況を把握する。9999角形と10000 角形の違いさえ、頭は、ことばとして提出できる。肉体は、敏感に鍛えれば9999角形と10000 角形の違いを感じることはできる。だが、それを具体的にあらわすとなると、同じように肉体感覚をとぎすました人間にしか伝えられない。手触り、光のつやののび方--そういうものを手がかりにして、こっちの方がすべすべ、こっちの方がつややかという具合にしか伝えられない。
 そういうほんとうは同じ体験をした人間にしか伝えられないものを、なんとか伝えようとして、他の読者と共有できるものにしようとして、野木は同じことを、同じ「意味」を少しずつ違えることで、「頭」を混濁させ、「頭」を肉体そのもののようにしようとする。
 「頭」を混濁させ、人間であることをすてて、もっと原始的(?)なもの、「生き物」というレベルにまで、すべてを解体し、その人間になる前の、「肉体」のうごめき、「生き物」としか言いようのないものにまでなって、「引き裂かれた」「隙間」「亀裂」の3つのことばの差異のなかへ、野木がほんとうに語りたいもののなかへ入り込もうとする。それと直接触れようとする。「這って、地を覗きこんだ」には、そういう肉体の動きがつまっている。

 この2行と対照的なのが次の5行。(あるいは3行というべきなのかもしれないけれど。)

天空には水鏡なんかなかったさ、と
石たちが声を出した
来る途中にそんなもの、なんにも見なかったさ
私は片方を潰された生き物のように、いつまでも地の縁に這いつくばって
亀裂を覗き込んでいる

 「いきもの」のレベルになって存在している「私」に石が語りかける。そのことばの鮮烈さ。「沼」と「天空」が一瞬のうちに交錯する。同じものになる。石はほんとうにそらから降ってきたのか。石はもしかすると地面の底、沼から浮き上がってきたものではないだろうか。たぶん、どちらでも同じなのだろう。ひとつの肉体がある。それを起点にして天空と地面の底の沼がある。地面を起点にして天空と沼がある。「亀裂」とはそのとき「私」であり、「地面」そのものでもある。
 「私」が亀裂であり、「地面」が亀裂である。そして、「亀裂」はどこにもない。探しても探しても、ない。ただ感じる。その感じを頼りに、野木は「私」と「地面」を一致させようとする。「生き物」となって地面に「這いつくばる」。接する肉体を増やすことで「一体」になろうとする。そして、それが「一体」となったとき、たしかに「沼」は存在するのだ。
 詩、として。「沼」は詩、である。

 あ、おもしろいなあ、と思う。ことばが肉体をくぐり、肉体か変質して行く。その瞬間に、たしかにあらわれる詩があるのだと思う。
 ただし、最後の3行のように、その詩が「どの人」「にも」あると仮定するのは少し厳しいのではないか。「どの人」「にも」ではなく、野木だけにある、という風になると、これまた言語矛盾でしか語れないことなのだが、それは野木だけのものを超越し、他人にまで(どん人にも、という段階にまで)ひろがって行く。共有されるものになるのではないだろうか。

 最後の3行、読者を安心させるための3行が、私には、あまりおもしろくない。ちょっと手抜きをしている、自分の考えを追い込んでいない、という印象が残る。残念だ。




ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社

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田中庸介「破壊的に、白い、武蔵野」

2008-05-05 00:59:51 | 詩(雑誌・同人誌)

 田中庸介「破壊的に、白い、武蔵野」(「妃」14、2008年04月23日発行)
 「妃」の同人の詩はおもしろい。きのう触れた高岡淳四の作品は大好きとしか言いようがないが、田中庸介もの作品も好きだ。高岡のことばがスピード、軽さを特徴とする正直さなら、田中の作品は「しっかり」を特徴とする正直さである。ことばをひとつひとつ、しっかりと定義する。定義するといっても、詩のなかで、このことばの意味はこれこれである、と説明するわけではない。田中の意識のなかで定義した上で、その定義を表面に出さず、ことばを動かして行く。定義を押しつけない。押しつけないけれど、読者がそれを受け入れるまで、ゆっくり、しっかり、語り続ける。そういう持続する正直さがある。高岡と田中は出会う必要があって出会った特別な二人なのかもしれない。とてもおもしろい組み合わせである。この二人の作品があるから「妃」が「正直」という特徴を全面に打ち出すことができるのだと思う。

 「破壊的に、白い、武蔵野」で田中は少しおもしろい試みをしている。書き出し部分。

水ぬるむ春の三宝寺池。ぬるく走る西武バスの午後の光る路面のにぶさが、やるせない「休日の午後」の記憶をよみがえらせる。そんな木曜日の午後、千川通りを踏切のところで右折、絶望的に照り返す郊外の春の路面の白さの焦燥が、平日の仕事場の濃密で論理的な思考の流れを破壊する。

 「の」の繰り返し。「の」は連続である。何かと何かをつなげる。ここでは、存在のつながりがていねいに描かれている。そして、その「の」の繰り返しは、「の」が省略されたときでも、深い深い意識を流れながら、一種の連続をつくりだす。
 「ぬるむ」「ぬるく」「にぶさ」「やるせない」。それは、私には「踏切のところで」の「のところで」と共通しているように感じられる。「ぬるむ」「ぬるく」「にぶさ」「やるせない」はきゅーっとしまった何かではなく「のところで」といいたいような、何かあいまいな「場」、ある程度の「ひろがり」(許容力)を持った感覚であり、そういう「場」があるからこそ、それは「の」による連続を許すのである。

 「春の(三宝寺池。ぬるく走る西武バスの)午後の光る路面」は「照り返す郊外の春の路面の白さの焦燥」と少し違ったことばになって繰り返される。そして、その少し違ったことば(少し違ったことば)が存在しうるのは、「の」による連続が「場」を含んでいるからである。「場」があるから、そこには違いが存在しうるのである。一点のポイントではなく、つながる「場」、ひろがる「場」が違いを許容するのである。
 そういうことを、田中は、とても「しっかり」と繰り返す。「ゆっくり」繰り返す。それは、読者が(私が、と言い換えた方が、私が、と限定した方がいいのかもしれないが)、田中の語る「場」にゆっくりとなじむのを待っているような感じでもある。
 高岡のことばは軽く動き回ることで私を誘う。それに対して、田中のことばは「ゆっくり」「しっかり」待っている姿勢を印象づけることで私を誘う。私は、そのていねいな待ち方にひかれる。とても安心して近づいて行くことができる。

 ただし、その待ち方が「しっかり」「ゆっくり」しているからといって、田中の描いている世界が「安定」(安心)を誘うとは限らない。「安定」(安心)を誘うだけなら、「芸術」ではない。「芸術」は危険なものである。

 「の」の連続、「場」を含みながらの連続--それを、「破壊」と呼ぶ。つながることが破壊なのだ、という。そして、たしかにそれは破壊なのだ。ある存在が「の」によって結びつくとき、その結びつきを「しっかり」したものにするためには、私たちは何かを断念しなければならない。棄てなければならない。そういう断念、放棄--それが「破壊」である。
 書き出しの部分のつづき。

水ぬるむ春の、水ぬるむ春の、柳が風にそよいでいる、解放的な池の水の上に破壊的に自由な青空がつきぬけている、水ぬるむ春の、水ぬるむ春の、沼からあがってくる陽炎の、ここでバスをおりて沼のまわりを散歩できたらどんなによいだろう、ボート場は今日はクローズ、そのボート乗り場の看板の丸っこいナール体の文字、その文字の八十年代てき丸っこさが、破壊的に、おれを二十一世紀の現在から連れ去ろうとする、

 ふたたび繰り返される「の」。しかし、その「の」はいったん「破壊」を意識した瞬間から、いままでの「の」とは完全に違っている。違った側面を見せる。
 「水ぬるむ春の、」。読点「、」があらわれる。「場」は読点「、」によって「間」にかわる。そこには「場」のひろがりはない。「間」がある。「場」が接続なら、「間」は断絶である。つながること、接続を繰り返すうちに「場」が「間」に一瞬のうちにかわることを発見する。
 「場」と「間」の交代。
 それを田中は「破壊」と呼び、また「自由」とも呼んでいる。
 「の」による連続で、世界を「しっかり」ととらえる。同時に、そういう連続の世界には、連続によって生じてくる「間」がある。連続の「場」の奥に隠れている「間」がある。
 「間」は「現在から」田中を「連れ去る」。そのとき、自由がある。破壊があり、破壊によって生まれる自由がある。

 春の一日、バスに乗って風景をながめている。--そういう人間の姿を描きながら、その人間を「しっかり」「ゆっくり」とらえることで、「哲学」の可能性を探している。押しつけではなく、自然に、読者を誘う形で。そこには「じっと」自己をみつめる視線がある。「しっかり」「ユックリ」「じっと」--田中の「哲学」はそういうことばを踏まえて、破壊と自由を探る。

 最終連の2行に、田中の「じっと」は出てくる。

忘れないように、じっと
見ているのだと思う。




田中の詩集読むなら。




山が見える日に、
田中 庸介
思潮社

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