詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高岡淳四「床下に潜る」ほか

2008-05-04 02:11:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 高岡淳四「床下に潜る」ほか(「妃」14、2008年04月23日発行)
 私は高岡淳四の詩が大好きである。「現代詩手帖」に投稿していた時代から、ほんとうに唯一高岡の詩だけは無条件に大好きである。手放して、何も批判することはない、そのすべてが好きである。高岡の詩以上に好きな詩があらわれるとは、私には想像しにくい。
 そして、たぶん詩だけでなく散文も好きだと思う。
 というより、もし高岡が散文を書けば、それは私が大好きな、魯迅か鴎外になるだろうと思う。
 ことばの動きがとても速く、軽い。明るい。ユーモアがある。これを別のことばでひとまとめにすると「正直」である。魯迅を読んで一番驚くのは、その正直さである。鴎外も同じである。人間はこんなに正直になれるのかと思うと、自分がなさけなくなる。
 もうひとり、大岡昇平も私にとっては正直な作家である。(大岡昇平は、そんなにたくさんは読んでいないが。)
 最初の一語から最後のことばまで、すべて信頼できる。

 正直であるから、ことばが、つまずかず動く。その結果、速くなる。軽くなる。軽いから、笑いを呼び込む。
 たとえば「縁側のコンクリート」。

両親ともども、布団をシーツで包む作業に没頭した
ほんの少しの隙に、
二歳になったばかりの息子が、
縁側から庭に落下しました。

 とはじまり、そのときのてんやわんやを描いているのだが、そのてんやわんやの状況で動くこころが、正直に、これ以上ないくらい正直に書かれている。

戸締りだ、保険証と乳幼児医療証はどこだ、
こんなことは、本来は妻の得意分野だ、と思いつつ、
のしのしと、動き回っていたら、
さっさと救急車を呼べと怒られました。
意識がはっきりしているので、その必要はないから、来るまで連れて行くのだ、
と言ったら、頭を打っているのに、絶対に大丈夫だと何故言えるのだと詰られました。
絶対に大丈夫と言えるかというような議論をしていたら、
例えば、車の運転とか、飛行機に乗るといったことは出来なくなってしまうわけです。
世の中に絶対ということはありえないわけですから。
そちらこそ、
頭を打った、打った、というのであれば、
そんなにあちこち動かしてはいけないのではないかと思ったのですが、
口答えするのもつまらないこと、
この場はだまって言う通りにした方がよい、と救急車を呼びました。

 こんなくだらない(?)思いを、くだらないと切り捨てずに、全部ことばにしてしまう。全部ことばにしてしまえるのは、嘘がない、正直だからである。少しでも、ここは少しよく見せようというような思いがまじると、正直はつまずき、とたんにスピードが鈍る。そして、軽さが消え、笑いが消えて行く。
 ひとはあらゆるときに、あらゆることを思うことができ、その思いは必ずことばにできる。ことばとしてあらわすことができる。
 高岡には、たぶん、そういう強い信念のようなものがある。そして、あらゆる思いは、それが正直に、そのままことばになれば、それが詩である。(詩ではなく、小説である、といってもいいし、哲学であるといってもいい。みな、同じだ。)
 どうしたら、こういう正直さを身につけることができるのか。私にはわからないが、ただただ感心する。ただただ笑ってしまう。正直には馬鹿正直ということばがあるけれど、そういう正直さとともにある「馬鹿」(ごめんなさい)は、笑いを呼び起こす。「馬鹿」を見て、笑いたくなるでしょ?
 高岡の詩については、私は「傑作」「絶品」という評価以外に思いつくことばがない。
 高岡は、ただ笑わせるだけではない。そこに常に生活を登場させる。そして、そこにあらわれる生活をとても愛している。生活に対する愛--それが、もしかすると、高岡の正直さの源かもしれない。
 はじめて読んだ高岡の詩は「カラーボックス」だったが、その作品を貫いているのも、生活である。生活に対する愛着であった。生活することをとおして動く精神の正直さだった。
 「縁側の……」は、次のように終わる。そこに、温かい愛があふれている。子供への、というより、生きて、生活して、そのなかで変わって行くすべてのものに対する愛があふれている。

傷口を縫うのが上手な病院に連れて行ってもらって治療を受けた息子は、
最近、よその人に会うと、額の絆創膏を指で押さえて、
「これ、ダーン、これ、ダーン」
と言うようになりました。
ハンドルを切るジェスチャーをしますが、まだ、ピーポーとは言えないようです。

 先に引用した部分の「くだらなさ」というと語弊があるけれど、その、右往左往もすべて息子への愛、生きるも気への愛ゆえなのだ。そこに正直な愛があるから、はらはらしながらも、微笑ましいのだ。


 「床下に潜る」について書こうとしていたのだが、ちょっと説明しやすい(?)「縁側の……」に触れているうちに、「床下に潜る」について書く時間がなくなった。(私はだいたい1時間以内をめどに日記を書いている。それ以上、時間をとっている余裕がない。)
 この作品にも生活に対する愛があふれている。生活を大切にすること、それはつまりは肉体を大切にすることだと思うのだが、そういう愛にあふれている。精神を、ではなく、まず肉体を大切にするという行為が「思想」にまで高まっている。それが端的にあらわれた最後の数行。

「ベタ基礎なので、乾燥しており、漬物を漬けるのには最高です。」
風が抜けていく。木の匂いがしていた。

この夏は、その床下で、梅干しとプラム酒とらっきょうの甘酢づけをつくったが、
そろそろ花梨酒作りの季節になろうとしている。
キムチは匂いがこもるから、テラスかベランダで作ります。

 「風が抜けていく。木の匂いがしていた。」--この行に集約される肉体。皮膚感覚(風が抜けていく。)嗅覚(木の匂い)が健康である。その健康な肉体が、それぞれの感覚を楽しんでいる。それが生きること。それが生活をすること。それぞれの感覚を、それぞれに大切にすることを知っているからこそ、それが生活に反映される。

キムチは匂いがこもるから、テラスかベランダで作ります。

 あ、正直な肉体。正直な生活感覚。何一つ、嘘を知らない生活の美しさ。ほんとうにすばらしい。





 高岡の詩に関心をもたれたひとは、ぜひ、次の詩集を読んでみてください。若く、みずみずしい正直さにあふれています。絶品です。「現代詩手帖」が生んだ最高の詩人です。

おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社

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廿楽順治「四方拝」、小峰慎也「ずしりときた。それでいいのだよ」

2008-05-03 01:05:24 | 詩(雑誌・同人誌)
 廿楽順治「四方拝」、小峰慎也「ずしりときた。それでいいのだよ」(「酒乱」1、2008年04月15日発行)
 廿楽の作品は東西南北の4つの作品で構成されている。そして、その作品のいずれにも( )によって区切られたことばがある。
 「西」では次のような具合である。

はじめて
のときはみんな爆音がなったのである
あせったなあ
(西くん)
でも死んで
しまうことと
この丘の高さをむすびつけてはいけない

 何が書いてあるか、実は、私にはわからない。そして、不思議なことに、この(西くん)だけは、わかった気持ちになる。私はふいに宮沢賢治を思い出してしまう。風の又三郎を思い出してしまう。「西さん、東さん、」である。
 ふいに何か、現在とは関係ないものの出現--そこに「現実」というものがある。それがたとえ「空想」としても、それは「空想」という現実である。いま、ここ。そして、いまではない、ここではないの出会い。そういう「出会い」を演出する「場」としての廿楽という「肉体」--廿楽は、彼自身の「肉体」を詩にしようとしている。
 そんなふうに読むことはできないだろうか。

 「北」は、引用であることが明確かもしれない。

われわれにゆるされているものはこれか
べんきがひとつ
(泉かよ)

 便器を「泉」と名付けて展覧会に出した人間がいる。その衝撃。「便器」と「泉」の出会いは、それから「既成事実」になってしまった。既成事実になってしまったが、かならずしも、いつもいつも便器が「泉」であるわけではない。思い出すときだけ「泉」になる。
 思い出す--というのは、現在に、過去が噴出してくることである。
 「便器=泉」という過去の体験(記憶)がふいに噴出してくる。噴出してきて、現在を揺さぶる。揺さぶられても現在はかわらない、かもしれない。しかし、そういうものが噴出してくる瞬間の、なんともだらーっとした感じ。緊張とは反対にあるなにか、はてしない「ゆるみ」。そこに廿楽の詩がある。
 (西くん)も同じ。ふいに宮沢賢治が出現してくる。おいおい、いま、ここで宮沢賢治かい、それはないだろう、と思わず言いたくなるが、それはないだろうということばを支える何かがはっきりしていて、そういうのではない。ふいに、いま、ここが、だらーりとひろげられた感じ、弛緩した感じがある。
 そしてこの弛緩は、「泉」「西くん」に共通していることだが、あまりにも有名であるがゆえの「固さ」ももっている。そういう不思議さがある。そういう不思議なものを、廿楽は見つけ出してきて、ことばにすることができる詩人である。
 この弛緩と、強固な結晶が同時に存在することから、論を、弛緩のなかにある強固さ、ということろまで語りはじめると、それはそのまま廿楽の作品論になりそうである。廿楽の作品はたいていどれも「のどか」というか「のんびり」というか、はやりのことばでいえば「まったり」した感じがするが、そのいっけんふにゃふにゃ、やわらかそうなものががっしりしている。そういうものに出会ってしまうので、廿楽の詩は作品としておもしろいのだ。

たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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 小峰慎也が田中宏輔の『The Wasteless LandⅢ』の批評を書いている。少し驚いた部分がある。田中の「●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね」を引用して、次のように書いている。

ビチグソが「ぼくの金魚鉢」になるという状態もわけがわからないし、それがクリスチャンであるということにいたっては、たしかに「笑」うしかないかもしれない。

 私は、ほんとうにほんとうにほんとうに驚いた。えっ、そんなこと、どこに書いてある? これは二人の会話。「ぼく」を田中と仮定して言えば、田中は「連れ」に対して、「ぼくの金魚鉢になってくれる」と甘えてたずねたのである。「いっしょの名字になってくれる?」「いっしょの墓に入ってくれる?」というのと同じと考えれば、これは愛の告白である。それに対して連れは「おれってさ、野原でビチグソしちゃったことなるんだぜ、クリスチャンなのにさ」と「笑い」のなかで答えをはぐらかした。あるいは、「それでもいい?」と逆に問い返した。だから「それでいいのかもね」「そだね」となる。ここでは、愛の告白があり、愛の合意がある。ビチグソそのものが「金魚鉢」になるわけではない。「金魚鉢」とか「ビチグソ」「クリスチャン」というのは、どうでもいいものである。単なる「比喩」だ。大切なのは「なってくれる」という「甘え」である。「甘え」なのかで語ることである。甘えながら語るのは愛、というのが相場である。
 小峰の引用している部分が会話であるからこそ、それにつづいて「●ジミーちゃんと電話してて」という状況もつながってくる。「●ジミーちゃんと電話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通のことばでも●なんだか●いやな印象の言葉があるって●」が、「ビチグソ」と呼応することになる。普通のことばの、たれる、もらす、などが「いやな言葉」であるのと同じように、普通じゃないことば「ビチグソ」が「いとしいことば」「あいらしいことば」であるときもあるのだ。それが愛である。よほどうれしかったのか、「●こく●はく●さらす」と種明かしのように田中はことばをまき散らしている。「告白」、つまり自己の内部を「さらす」。
 小峰は、詩を読む前に、愛し合っているひとと、くだらない(?)というか、つまり他人からみれば何を言ってるんだか、というような、親密な会話をまず実際にやってみることが必要なのではないのか。小峰はリズムについても語っているが、会話をしないでリズムのことを語っても意味はない。会話のなかの、飛躍。親しければ親しいほど、二人だけにしかわからない飛躍の軽さというものがある。愛は、その軽い軽い飛躍に励まされて舞い上がる。
 小峰は「ずしりときた」と書いているが、私から見ると、まあ、よくもまあ、こんなにぬけぬけと、いちゃいちゃと、と思う。でも、「それでいいのだよ」と私も言うのだけれど。愛なんて、二人が満足なら、他人なんかどうだっていい。あっぱれ、あっぱれすぎるくらいあっぱれ、それでいいのだよ、と私は田中には言いたい。


The Wasteless Land. 3 (3)
田中 宏輔
書肆山田

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時里二郎「森屋敷」

2008-05-02 22:32:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「森屋敷」(「たまや」04、2008年05月12日発行)
 時里の詩は文体にある。散文形式で時里は詩を書くが、散文形式でありながら、そのことばは先行することばを追い越しながらも、ときどき立ち止まる。時間を、追い越すと見せかけて立ち止まる。その瞬間に、詩が生まれてくる。
 「図書室」という断章。その2段落目。

 養蚕のジオラマや展示標本のある同じ館内にありながら、そこはいつもいい匂いがした。防腐剤や薬品の匂いとは無縁で、殊更に鼻を利かせても、そこに収められた相当な量の古い蔵書の黴びた匂いすらも届いてこない。そこには何か特別な嗅覚の層を呼び覚ますものが潜んでいるように思われた。何かの気配、それも生き物の立てる気配ではなく、空間そのものが意識や情感を読み取って反応する細胞組織であるかのような気配。その細胞の活動がうながす匂いとでも言えばいいだろうか。それがぼくを誘う。

 「そこには」「そこに」「そこには」「それも」「その」「それが」。指示代名詞を含むそれらのことば。指示代名詞は「先行する」何かを指し示す。その何かへ向けてことばは進み、いまある存在を超えようとする。追い越そうとする。いま、その存在をとらえている意識を追い越し、新しく世界をとらえようとする。--時里の文体は、そういう散文の鉄則をきちんと踏まえている。
 そして、十分に、散文の鉄則を踏まえるからこそ、突然の停止、先へ進まないことが効果的なのである。それは存在を乗り越えるのではなく、内部から破壊する。

何かの気配、それも生き物の立てる気配ではなく、空間そのものが意識や情感を読み取って反応する細胞組織であるかのような気配。

 「動詞」がここでは存在しない。「動詞」が働き場を失って、「体言」が放り出される。存在が破壊され、その細部が時空間に飛び散る。そして、輝く。そのばらばらの、瞬間的な飛散。それを前にして、読者のなかの意識、感覚の「動詞」が動く。そういう瞬間を、時里はつくりだす。「気配」を読者は「感じる」。そこに書かれていな「動詞」が読者のなかで動き、その瞬間に飛散した世界が結晶になる。
 この瞬間的な運動のあと、時里の文体は、突然かわる。

その細胞の活動がうながす匂いとでも言えばいいだろうか。それがぼくを誘う。

 短くなる。呼吸が短くなる。
 息の長い文体、長い息のなかで、うねるようにして細部の密度を積み重ねる文体が、一気に破裂した詩の影響で、突然短くなる。その短さを支えるために、それまで存在しなかった「主語」が登場する。「ぼく」が登場する。
 短くすることで時里は無意識に呼吸をととのえるのである。「ぼく」という主語を明確にすることで、ことばを肉体に沿わせるのである。ただし、いったん、存在の破壊、破裂、飛散したあとでは、ことばは、どんなに肉体にそわせようとしてもずれていく。呼吸をととのえればととのえるほど、そのずれ--ゆらぎ、といってもいいが、その追いかけるものは、変質する。変化する。そして、ことばでしかとらえられないものになってくる。「ぼく」が見る世界は次のように書かれる。

 ぼくばかりではない。この図書室にやってくる人たちは、本を読んだり、資料を調べに来るというのは口実で、何かしら、例えば、自分の病の療養のために、この図書室にやってきて、その匂いを鼻孔にゆっくりと吸い込んでいるのではないか。そんな空想に耽りながら、ちらと前の席の若い男の後ろ姿に目をやると、男は居眠りをしているのか、わずかに身体を椅子からずらして頭を傾げている。大きく切り取られた窓からそそがれるたっぷりとした陽光にもそのいい匂いが沁みて、まるで若い男の不自然な姿勢が、その匂いを嗅ぐために工夫されたポーズにすら見えてくるのだった。

 「見えてくるのだった。」何気ないことばのようであるが、ここに時里の「思想」がある。「見えて」「くる」。「見える」のではなく、見えて「くる」。
 「その」という指示代名詞を含むことばで、常に存在を定着させながら、一方で存在を破壊し、そこからはじまる変化、生成(……くる)という世界を描く。時里の書きたいのは「くる」という変化なのである。
 変化のなかに、詩がある。変化こそが詩である。変化とは、越境であるからだ。

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柏木麻里『蜜の根のひびくかぎりに』

2008-05-01 08:38:45 | 詩集
 柏木麻里『蜜の根のひびくかぎりに』(思潮社、2008年04月30日発行)
 インターネットでは紹介しにくい作品がある。柏木の今回の詩集は特に紹介しにくい。詩集には「余白」がたくさんあり、その「余白」がことばを浮かび上がらせているからである。「余白」を行き来しながら読者はことばを読む。「余白」にことばと拮抗する「意味」がある。その「余白」をインターネットでは表現できないからである。(もちろんページをPDF化してアップすれば「余白」を忠実に再現できるが、この「日記」ではそういう手数をかける紹介をしないことにしている。)インターネットでは紹介しにくい作品なのだけれど、それでも少し書いておきたい。紹介したい。(本文は縦書き)

    ゆらされて


密が           と いう
     わたくし

 この作品を読むとき、私の意識は自然に「ゆらされて/密が わたくし と いう」と読んでしまう。しかし、この作品は文字の空きを無視して引用し直せば

ゆらされて
密が と いう
わたくし

であり、そこには不思議な倒置法がある。「不思議な」というのは、普通の倒置法ならば「揺らされて/密がいう/わたくし と」になるからである。ここでは柏木は倒置法を無視している。あるいは、倒置法を超えようとしている、といった方が正確かもしれない。倒置法は、読者に一種の緊張を強いる。そして、その緊張を利用してことばを印象深いものにするのだが、この緊張を柏木はもう一歩進めようとしている。

 これは倒置法というよりは、むしろ映画でいう「フラッシュバック」のようなものである。物語(時間の進行)の途中、その物語の「いま」を突き破るようにして挿入される過去の一瞬の記憶。その鮮烈な輝き。過去が現在に噴出してきて、それまで見えていなかった「物語」(時間の構造)がくっきり浮かび上がり、その明瞭な時間を利用して、過去が未来へ突き進む。ショートカット、ということもできるかもしれない。ショートの火花。そのきらめき。目を一瞬、やきつぶす。視覚の一瞬の死と、その後の突然の再生。その断絶と継続のなかに、柏木の詩がある。

 柏木は造形作家と美術館でインスタレーションを試みるなど、もともと空間志向の強い詩人なのだと思うけれど、この詩集で柏木がしていることは、時間の「空間化」ということかもしれない。
 時間というものを私たちは図式化するとき直線を利用する。過去-現在-未来。一直線である。ときどき、その一直線のなかに、思いもかけなかったものが突然立ち上がってきて時間の進行のリズムを破るけれど、それでもそれは一直線である。リズムの変化にすぎない。
 この一直線の時間の流れを柏木は、空間化する。詩集のなかならば、それを平面化する。

    ゆらされて


密が           と いう
     わたくし

 「わたくし」は「密が/わたくし/と いう」という縦の一直線の時間の流れを横におしひろげる。「わたくし」は「密が/と いう」という時間とは別な時間からふいにあらわれてきて、平行して動く。時間には複数の流れがあり、それがあるとき、平行して世界を作り上げる。それは「リズム」というよりは「和音」である。響きあいである。
 「フラッシュバック」は時間を破る。いまある「時間」(主の時間)を破って、過去の「時間」を突然「主役」にすり替える。リズムの交代である。
 柏木がやっていることは、これとはまったく違う。「主役」の持っている時間そのものを豊かにするようにして協力するのである。ひとつでは奏でられない音を、二つを重ね合わせることで出現させる。そこにあるのは、たしかに分離できる二つの存在である。二つの存在であるが、それを分離した瞬間「和音」の距離が消える。「空間」が消える。「和音」とは、二つの音が向き合ったときの「距離」のことなのだ。
 柏木は、時間、ことばのなかの「距離」をしっかりみつめ、それを再現する方法を試みている。ページにあふれる「余白」--それはことばとことばの、時間の「距離」をあらわしている。私たちの意識は、時間をときには「空間化」しながら動いている。動くことができる。柏木は、そうつげている。

 柏木のとらえる(再現する)時間の「余白」はとても繊細である。この繊細さは、繰り返しになるが、私の「日記」では再現ができない。ぜひ、詩集で味わってください。





柏木には、次の詩集もあります。

音楽、日の
柏木 麻里
思潮社

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