詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(39)中井久夫訳

2008-12-17 00:31:20 | リッツォス(中井久夫訳)
弔いの辞  リッツォス(中井久夫訳)

陽が沈んだ時、死者たちを浜に運んだ。
半円の湿った砂。金色と葵色と桃色の反射がそのずっと向うまで広がった。不思議だった。
この輝きもこの死者の顔も--。死んでなんかいない。
特にこの身体--若い。若木のような繁り。香油を塗られて新床にこそふさわしい。
天幕のあった場所にラジオが一台鳴ったまま。ずっと下のほうに敵の凱歌がはっきり聞こえた。
最後の夕映えが消えようとしてエフメロスの爪先と楯を赤紫に染めた。



 「エフメロス」とは誰か。私は知らない。ギリシア神話の英雄のひとりかもしれない。あるいは、現代の内戦の、死者のひとり。その「彼」を弔う詩。
 色の変化が美しい。金色と葵色と桃色、赤紫。夕暮れの色だ。そして、その最後の色が染めるのが「爪先」。この肉体のはしっこ。この細部へのこだわりが、「彼」をなまなましく浮かび上がらせる。

 この中井久夫の訳は、1行目が、最初は違った形をしている。「死者たちを浜に運んだ。」には主語がないが、これは中井が消したためである。最初は「彼等は」という主語があった。それを中井は消している。
 主語が「われわれ」である場合と、「彼等」である場合は、微妙にニュアンスが違う。日本語の場合、印象が違う。「われわれ」の場合、死者は身近である。親しい感じがする。「彼等」の場合は、あくまで客観的な、すこし冷たい感じがする。
 リッツォスは「彼」を主語に選ぶことが多い。主語は「私」ではなく、「彼」。しかし、その「彼」はほんとうに第三者なのか。そうではなく、「彼」にリッツォス自身を託しているのだと思う。ひとつの「理想」の人間として「彼」を描く。そこにありうべき「自己」を投影している。
 そういう文脈のなかで「彼等」ということばを選ぶと、少し事情が変わってくる。
 この詩の場合「エフメロス」が「彼」のはずなのに、ほかに「彼等」が登場してしまうと、詩が完全に自己から分離したストーリーになってしまう。「私」の居場所がなくなる。だから中井は「彼等」を省略する。「彼」と「彼等」をはっきり分離してしまう。「彼等」を「われわれ」と感じさせ、たどりつけない存在としての「エフメロス」を、これまでの作品の「彼」にしてしまうのである。

 この訳の操作は、非常におもしろい。中井の、リッツォスの詩の理解のしかたがとてもはっきりとでた訳だと思った。これはもちろん草稿だからわかることで、実際に出版されてしまえば、その痕跡がないのだから、原文と対比しない限り、中井の訳の工夫がわからないことになる。--草稿を読むことができる喜びが、こんなところにある。


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粕谷栄市「砂丘 S・N師を偲んで」

2008-12-16 10:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 粕谷栄市「砂丘 S・N師を偲んで」の初出誌は「歴程」2008年02月号。
 ごくありふれたことばが、ある日、突然新鮮に見えるときがある。粕谷栄市「砂丘」にそれを感じた。

 静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っているのを見るのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。

 書き出しは、いつもの粕谷の詩である。ここに書かれている情景を「見る」ことがほんとうに「いい」ことかどうか、私はわからない。私の感覚では、むしろ、不気味である。この不気味な(粕谷によれば「いい」)光景は、いつもの粕谷のことばの運動にそって、徐々にかわっていく。
 ていねいにていねいに描けば描くほど、「現実」の様相とは違ってくる。

 既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそうしているのを見ることができる者は、限られている。生涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者である。
 その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見ることがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えてやってくる、特別の時間のなかのことである。

 粕谷は「夢」の世界を描いている。そして、そういう「夢」を見ること、見ることがずきることを「いい」と言っているのである。不気味さが漂うのは(私が不気味に感じるのは、それが「現実」ではなく、夢だからである。)
 そして、そういうふうにていねいに「論理的」種明かしをしたあとに、信じられないくらい美しいことばが出てくる。誰でもがつかうのに、このことばはそんなふうにつかうのか、とうなってしまうような美しい形で、それはやってくる。

 その機会が、どうして、自分に訪れたのか、それは、わからない。自分が、どんな心の闇の旅をして、そこに辿りついたか、それも、わからない。
 ただ、永い歳月の後に、自分が、見知らぬ町から、遠く、砂の渚を歩いてきたことはわかる。今、その砂丘に立ち、非常に、淋しいものを見ていることはわかる。

 「淋しいもの」。「淋しい」。このひとことに、私は、全身を洗われたような、洗い清められたような、厳しい衝撃を受けた。「淋しい」とはこんなに美しいことばだったのか、と衝撃を受けた。
 「淋しいもの」を見ているとき、ひとは、その存在と同じように「淋しい」。ひとは、「淋しさ」を「淋しいもの」を見ることで確かめる。実感する。そのものと「一体化」して、「淋しさ」そのものになる。その一体感--それが、このことばのなかにある。
 粕谷は、夢で、砂丘にひとり踊っている老人を見るのではない。夢で、砂丘にひとり踊る老人になるのだ。その「淋しさ」と、何にも汚れぬ美しさ。「静かな朝、紺碧の天の下」。「天」は「そら」と読ませるのだろうけれど、こいう「淋しさ」には確かに「天」という文字が似合う。
 孤独には「天」が似合う。
 そして、「天」だけにかぎらず、ここにかかれていることばのすべてが、「淋しい」ということばと拮抗している。響きあっている。「淋しい」ということどは、まるで、広い宇宙の水面に投げ込まれた小さな小石であり、その小石の立てる小さな波紋がどこまでもどこまでも広がっていくというような感じなのだ。

 私は、詩の部分しか引用しなかった。ぜひ、全文を雑誌で読んでください。




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リッツォス「証言B(1966)」より(38)中井久夫訳

2008-12-16 00:09:59 | リッツォス(中井久夫訳)
怒り  リッツォス(中井久夫訳)

目を閉じて太陽に向けた。足を海に漬けた。
彼は己の手の表現を初めて意識した。
秘めた疲労は自由と同じ幅だ。
代議士連中が代わるがわる来ては去った。
手土産と懇願と、地位の約束とふんだんな利権とを持って来た。
彼は承知しないで足元の蟹を眺めていた。蟹はよたよたと小石によじのぼろうとしていた。
ゆっくりと、やすやすと信用しないで、しかし正式の登り方で。永遠を登攀しているようだった。
あいつらにはわかっていなかった。彼の怒りがただの口実だったのを。



 この詩のキーラインは3行目だ。「彼」は「自由」を味わっている。「自由」を味わうために、怒りをぶちまけるふりをして海へ逃れてきたのだ。
 やってきたのは「代議士連中」であるかは、どうでもいい。「代議士連中」は比喩かもしれないし、本物かもしれない。比喩にしても、実際に「代議士」と同じような権力者的な存在には違いないだろう。
 そして、「彼」の自由とは「蟹」になることだ。
 たった一匹で、誰にも頼らず石に登ろうとする蟹。たった一匹であることが「自由」なのだ。いまの「彼」のように。
 「彼」にとって登るべき小石が何かは、この詩では書かれてはいない。ただひとりであること、ただ一匹であることが、「彼」を「自由」にする。

 孤独と自由は、リッツォスにとって同義語かもしれない。

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清水昶「アデンアラビア」、和合亮一「黄河が来た」

2008-12-15 12:40:13 | 詩集
清水昶「アデンアラビア」、和合亮一「黄河が来た」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 清水昶「アデンアラビア」の初出誌は「ユリイカ」2008年01月号。
 なつかしい抒情がある。「友だち」ということば。友人でも知人でもなく、「友だち」。その音の響き。リズム。このことばの大切な音は「だ」である。濁音。そして「あ」という一番大きな母音。その組み合わせが、この詩の抒情をつくっている。
 1連目。

アデンアラビアの 彼の
二十歳の死の青春は戦争で完了した
その後ぼくは友だちと
理屈抜きで随分酒を飲んだりもした

 清水昶はもともと「意味」ではなく、音、音楽でことばを動かす詩人である。「アデンアラビア」は、2行目の「二十歳の死」と組み合わせて考えればポール・ニザンから借りてきたことばであると思うが、なぜそのことばを借りてきたかといえば、「アデンアラビア」が日本語にはない音楽、リズムを持っているからである。それにあわせて清水は詩を書きはじめる。そして、「アデンアラビア」の音楽にあわせて「友だち」ということばが選ばれる。「アデン」のなかには「だ」と通い合うだ行の濁音がある。そして、「友人」でもなく「知人」でもなく、「友だち」ということばを無意識に選びとったときに、そこに抒情が入り込む。なつかしい青春。取り戻すことのできない青春という抒情が。清水は、いまも、その青春を詩の出発点としている。
 「アデンアラビア」のなかにあるもうひとつの音、音楽。「ら行」。それは1行目の「彼」のなかにひっそりと登場したあと、2行目「完了」のなかできっちりしめくくる。青春も抒情にも「おわり」が必要だが、「完了」という強いことばと、そのなかにある音楽が、この詩の場合、絶対必要なものである。「完了した」ということばが「友だち」とともに抒情をくっくりと浮かびあがらせるのだ。
 2連目、3連目と清水は抒情に酔うようにことばを動かしていく。自分で書いたことばに酔いながら、そのことばの向うへ行く--音楽が主旋律を出発点として自立して動くように、清水のことばは自立して動いていくような感じがする。その自立の感じ、人間にしばられず(頭にしばられず)動いていくその動きが清水の詩の一番の魅力だと思う。
 2連目の書き出し。

その友だちも
次々と死んで逝った
女友達は肉体を輝かせぬままにね 

 「死んで」「逝った」ということばの重複。清水は、ことばの意味など気にしない。音楽と、それから文字(漢字の美しさ)だけを重視している。その美の運動にすべてをあずける。その特徴があらわれた行だ。3行目の「輝かせぬままにね」も「輝」という文字、その音にひかれて、書かされたことばだろう。そこに清水の意識は入っていない。無意識はもちろん含まれるが、清水は、そういうことばを「頭」では書いていない。だから、とても不思議な美しさがある。
 3連目にも、似たことばがある。

真夜中
真水のように目覚めていると

 「真水のように」という比喩には意味がない。意識がない。「頭」がそのことばを欠かせたのではなく、「真夜中」という音の響き、その文字が「真水」を呼び出したのである。清水の無意識から。
 こういうことばの運動を、私はとても美しいと思う。

 美しいと思うが、とても危険だとも思う。無意識がときどき奇妙なものにひっぱられるからである。
 3、4連目は次のようになっている。

真夜中
真水のように目覚めていると
誰かの悲鳴が聞こえてくる
この道はいつか来た道……
ではない

いま日本人は颱風の眼の中にいる
一歩 外へ出れば
この世の地獄……
ひたひたと六道の辻あたりから
子守唄を口ずさみながら
何か死よりも
恐ろしいものが
やって来る

 「死」「戦争」は1連目にすでに登場していることばである。1連目には意味はなかった。1連目には音楽しかなかった。音楽が美の基本だった。それが3連目の途中から音楽ではなく、意味が動きはじめる。
 こういう意味の動き方は危険である。
 清水が書いていることは重要なことであるけれど、そういうことばを動かしていくには、最初から音楽を排除して、つまり人を無意識の内に酔わせる要素を排除して、しっかり「頭」を目覚めさせておかなければならない。絶対に音楽にならない工夫が必要だと思う。ことばに酔わせるのではなく、ことばに考えさせる。
 清水には、そういう意識はないように思える。「地獄」「六道の辻」「子守唄」。それらのことば、うわずっている。まだ音楽であろうとして、逆に和音を乱している。
 3連目の「この道は……」という、常套句から、清水の詩は破綻しはじめ、4連目で崩壊している、というのが私の印象である。「何か死よりも/おそろしいもの」という行が象徴的である。「何か」ではなくて、それを具体的なことばで提示できなければ詩ではないだろう、と思う。



 和合亮一「黄河が来た」の初出誌は「読売新聞」2008年01月22日。

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た

 和合は清水のように「何か」とは書かない。「黄河」とはっきり書いている。それが清水と和合を明確に分ける。
 「黄河」って何? 中国の川のこと? そんなものが、どうやってやって来る? という質問はぐもんである。ここには「黄河」と書かれているが、「黄河」は「黄河」そのものであって、同時に「黄河」ではないからだ。「黄河」でありながら「黄河」ではない。というのは「矛盾」である。矛盾だから、そこに詩がある。矛盾でしか言えないもの、書けないものがある。書こうとすると、矛盾してしまうものがある。それをむりやり書いてしまうのが詩である。わざと、矛盾したまま、書くのである。
 矛盾は読者を不安にさせる。こは、いったい、何? 何が書いてあるかわからない。もしかしたら、私は頭が悪い? そうじゃなくて、和合がまともな論理を、意味を、書けなくなっている? そんなものを読んでいて、私は大丈夫?
 ほら、変でしょ? どうしていいか、わからないでしょ?
 和合は、わざと、そういう変な感じを引き起こしているのである。それが詩だからである。どこにもないもの、いままで存在しなかったもの、それをあらわすために、わざと、ことばを不安定にしている。意味を剥奪し、放り出して見せる。そして、ことばが、どこまで動いていけるか、読者に代わって実演して見せる。
 3連目がとても美しい。

 僕らの子どもは
 黄色い運命
 可愛らしいこの頬
 妻の心臓を流れる黄河に
 かつて僕は祈った
 生まれてこい 強く
 優しく 派手に

 特に「派手に」が美しい。輝いている。このことばにたどりつくために「黄河」が必要だったのだとわかる。意味はない。「派手に」ということばに「黄河」が流れ着いたとき、「黄河」は「黄河」を超越する。そして和合と一体化する。
 1連目が、突然、輝きだす。もう一度、引用しよう。

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た

 この一体感は、とてもすばらしい。美しいとしか言いようがない。



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リッツォス「証言B(1966)」より(37)中井久夫訳

2008-12-15 00:38:15 | リッツォス(中井久夫訳)
最初の喜び  リッツォス(中井久夫訳)

誇り高い山々。カリドロモン。イテ。オスリス。
こごしい岩。葡萄の樹。小麦。オリーヴの茂み。
ここは石切り場だった。昔の海の引いた跡だ。
陽に灼けた乳香木のいつい香り。
樹脂が塊になって滴っている。
大きい夜が上から降りて来る。あそこだ、あの山稜のあたりだ、
まだ少年のアキレスが、サンダルを履こうとして、
かかとを掌に包み、あの特別の快楽を感じたところは--。
水鏡に己の姿を見て一瞬こころここにあらずになった。それから
気を取り直して鍛冶屋に楯を注文に行った。
彼には今分かった、形が隅々まで。楯に色々な情景が描かれていた。
等身大で。



 この作品もまた前半と後半でことばの動きが違う。描いている世界が変わる。前半は自然の情景。そして、後半は人間がつくりだした光景である。こころの動きが世界をかえてしまう。
 「特別な快楽」について、この作品は具体的には書いていない。ギリシア神話に詳しいひとならアキレスのエピソードのいくつかを思い出すだろうか。一番有名なのはアキレス腱のエピソードだろうか。不死のはずが、母がかかとをにぎっていたために、そこだけ不死の水に浸されず、死の原因になった。
 そうすると、この「快楽」は「死の快楽」ということになるだろうか。誰でもが死ぬ。死ぬことができるという快楽。逆説としての快楽。そうであるなら、水鏡に映った己の姿とは死んで行く姿だろう。死んで行く己を見るというのも、不死を約束されたはずの人間には快楽かもしれない。知らないこと、体験できないはずのことを体験できる、不思議な快楽、絶対的な快楽。その瞬間、アキレスはアキレスを超越する。アキレス自身を超えて存在してしまう。
 そして、わかったのだ。楯に描かれている戦場の詳細が。戦場の情景のすべてが。
 「等身大で」というのは、実際にその大きさというよりも、比喩だろう。「等身大」の大きさで、歴史が、つまりこれから起きることが分かったということだろう。

 その瞬間にも、山々はおなじ姿をしている。岩も葡萄もオリーヴも。だからこそ、人間の悲劇が美しく輝く。

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ファビアン・オンテニアンテ監督「ディスコ」(★★)

2008-12-15 00:36:33 | 映画
監督 ファビアン・オンテニアンテ 出演 フランク・デュボスク、エマニュエル・べアール、ジェラール・ドパルデュー、サミュエル・ル・ビアン

 40歳をすぎた中年の男3人が「サカデー・ナイト・フィーバー」を再現する。主人公の夢、イギリスにいる息子とオーストラリアへ旅行するという夢のために。ディスコ大会で優勝すれば航空券が手に入るのである。
 ストーリーもチープだし、映像もチープだし、見ていて、とても退屈する。ただし、主人公のフランク・デュボスクだけは奇妙におもしろい。
 フランク・デュボスクを見るのは、私は初めてである。
 美男子ではない。目に特徴がある。映画のなかでも、エマニュエル・べアールが「みみずくみたいな目」と呼んでいるが、まっすぐに、無心に、みつめかえす目である。とても純粋で、濁りをいっさい感じない。
 シャイではあるけれど、テレがない。
 あまりに純粋な目なので、彼の頼みは断われない。彼に頼まれれば何かをしなければならない。そういう気持ちにおこさせる目である。その目の力で(?)、仲間を巻き込み、エマニュエル・べアールを巻き込み、古くさいダンスを今風にかえていく。最初は、フランク・デュボスクと距離をとって、巻き込まれないようにしているのだが、知らずに、フランク・デュボスクに対してシャカリキになっていってしまう。フランク・デュボスク自身いろいろなことをするのだが、それ以上に、周囲が一生懸命になる。他人の一生懸命を引き出す目なのである。
 見ていて、演技なのか、地なのか、わからない。しかし、この他人をシャカリキにさせる目というのはいいものだ。他人のために何かをするというのはとても楽しいことかもしれない。しかも、相手が、フランク・デュボスクのように、彼等は自分のために何かをしてくれているという気持ちもないまま、ただ自分がしたいからそうしていると人間だったら、その何かをするということは、結局自分自身のためにすることになるからだ。
 フランク・デュボスクはディスコ大会で優勝する。3人組で踊ったのに、彼だけが息子とオーストラリアへ行く。そのことに対して、誰も不満を言わない。当然のことと思っている。彼にオーストラリア旅行をプレゼントするために3人で踊ったのだからといえばそれまでだが、この「無償」の感じがとても自然な人間の行為に見えてくるのは、フランク・デュボスクの目の力による。

 ばかばかしいストーリー、チープな感じが漂う小品なのだが、なぜか、奇妙な味わいが残る。フランス映画はときどきこんな不思議な作品を生み出す。


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リッツォス「証言B(1966)」より(36)中井久夫訳

2008-12-14 15:05:37 | リッツォス(中井久夫訳)
影のレース  リッツォス(中井久夫訳)

夏至だった。何という暑さ。
市の壁の外側の神聖道路を何時間歩いたか。
埃はいつまでも静まらなかった。汗と太陽。白いパラソルを
僧侶が二人、頭の上にかざさせていた、古代の下人アイテオブターダイの子孫四人に。
彼等は汗にまみれ、哀れな様子だったが、なお傲然としていた。
この白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。
ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。
すると汗がぴたっと止まった。こまかな露がパラソルを湿らせていた。
かろやかな雲が丘の頂上に現れた。影が下りて来て睫毛をかげらせた。
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。
青年たちはもう服を脱いだ。体操競技が始まるところだった。



 この作品も前半と後半では趣が違う。
 前半は過酷な暑さが印象に残る。「白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。」「むきだしの石はわれわれを盲にした。」この白く燃える光の強さが、とても印象に残る。その白さに照らされて、酷使される肉体がきらきら光る。汗と、その過酷さに耐える気力が光る。
 後半は、酷使されていた肉体が一気に解放される。同じ人間の肉体ではないのだけれど、肉体そのものがいきいきとしたものにかわる。その変化をもたらすきっかけが「イコンを土で掩」うという行為なのだが、この行為が象徴するものが私にはわからない。古代ギリシアの何かの祈りの象徴なのかもしれない。
 私がおもしろいと思うのは、この行為を境にして、後半、さわやかな影のレースが青年たちを覆い、体操競技をする肉体を祝福する感じに詩が変わっていく、そのきっかけの1行の書き方である。

ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。

 「着いた」と「イコンを土で掩った」は別の行為である。改行があった方が自然だと思う。けれども、リッツォスはこれを1行で書く。そして、そのふたつの行為の間に「むきだしの石はわれわれを盲にした」という主語の転換した文がはさまれる。「スタジアムのむきだしの石の白さにわれわれは盲になった」ではなく、あくまで「石は」が主語であり、その白さゆえに、「われわれ」は「盲に」になった。「われわれ」は「盲」にさせられたのである。この主語の転換、一気に方向をかえながら、瞬時に「いま」「ここ」へもどってくる感覚。漢文のような、森鴎外の文体のような、遠心と求心の結合。
 この1行が厳しく凝縮しているがゆえに、前半と後半は、一気に転換することができる。
 
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。

 ふっと挿入された、この1行。口語のざわめきもおもしろい。「まさか」というナマな印象の残る口語は、そのまま肉体へと繋がっていく。その肉体のイメージが、最終行の「体操競技」を自然に引き寄せる。
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小谷正子「八月の海月」、小松郁子「祖父」

2008-12-14 11:10:04 | 詩集
小谷正子「八月の海月」、小松郁子「祖父」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 小谷正子「八月の海月」の初出誌は『八月の海月』(2008年01月発行)。
 ことばが存在をていねいに描写している。そして、そのていねいさが、現実と幻想(?)を入れ替えてしまう。ていねいに現実を描写していくと、それがそのまま幻想になっていく。現実の断片をていねいに描くと、断片が独立して世界を再構築する。そして、幻想を呼び寄せる。そういうことばの運動が2連目に出てくる。

潮入りの池
天日干しにされた汐留のビル群は
池いっぱいに浮いている

水面を風が泳ぐと
はかなくも
ビルは音もなく崩れた
掬いとったガラスの破片
指の間から流れるビルのかけら
瓦礫の中を滑るように漂う海月

風が止むと
光りと水の乱反射も
まつりのあとのように一気に静まり
海月は
何事もなかったかのように
建ち上がったばかりの
ビルの屋上に浮いている

漂っていたのは
八月の池に映った
真昼の月であったか

 ビルの断片を描写している内に全体が砕け、「月」を「海月」と勘違いしてしまう。(「くらげ」には「海月」のほかに「水母」という表記もあるが、ここでは「海月」以外にはありえない。)最終的に「海月」は「真昼の月」に戻るのだが、そうすると不思議なことに、まるで「真昼の月」の方が幻想的に見えてくる。なぜ、「海月」であってはいけないのか、と思えてくる。
 最終連の「漂っていたのは/八月の池に映った/真昼の月であったか」は現実を見ていない。幻想の「海月」をひたすら恋求めている。現実を「真昼の月」と認識しながらも、それを「であったか」とまるで幻想を見たかのように振り返っている。「あった」は現実ではなく、「意識」のなかの「あった」の確認である。意識の中には、いつまでも「海月」が残っていて、それが、とてもせつない。だから、それを恋求めているような感じが印象として残る。



 小松郁子「祖父」の初出誌は『わたしの「夢十夜」』(2008年01月発行)。
 小松のことばも、ただていねいに過去の一瞬を描写しているだけのように思える。けれども、そのていねいさは、不思議にずれる。現実と現実ではないものをくっきりと浮かび上がらせ、その「間」(現実と現実ではないものの「間」)をせつなくさせる。

祖父は
あがりかまちのなげしの上にかけられた
紋章入りの箱の中から
提灯をとり出しては
よりあいに出かけていた
帰ってくると、きまって
たもとから紙づつみのお菓子をとり出して
だまって渡してくれた
祖父が生きていた頃
村中がわたしの遊び場だった
祖父のことを村のひとたちは
田中屋のていしょう(大将)といっていた
祖父の生きていた頃
わたしには生まれる前からあったわたしの家があったのだ

「間」をつくりだすきっかけとなっているのは、「ことば」である。

 田中屋のていしょう(大将)といっていた

 「ていしょう」と「大将」。それは「ていしょう」ということばが「大将」という意味であると認識するとき、そこには「間」があることを教えてくれる。「田中屋のていしょう」がいた時代があり、それが「田中屋の大将」であるとわかった時代がある。その差異。その差異のなかにある「間」。そこには、帰ろうとして帰れない「時間」の分岐点がある。
 「田中屋のていしょう」と「田中屋の大将」はぴったり重なる。接続している。「実在」する人間はひとりである。しかし、「時間」が違う。
 父祖の時間ではなく、「小松の時間」が違ってしまっている。そのことに気づき、せつなくなるのである。そして、その時間の発見は、また別の時間をも発見させる。それは「わたし」にはどうすることもできない時間である。どうすることもできないから、せつなさがつのる。

わたしの生まれる前からあったわたしの家があったのだ

 2度繰り返される「あった」。そうのちの最初に出で来る「あった」は「間」が引き寄せたものである。そこに美しさがある。せつなさがある。




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川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」

2008-12-13 11:44:29 | 詩集
川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の初出誌は『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(2008年01月発行)。
 次のような部分が、私にはおもしろい。

 腎臓がわたしにしっかりとした意識を持ちやというので、わたしは泣きながらそれは出来ん不可、不可不可やと腰を持ちあげ布団に押しつければ女子の先端がずきずきと痛むのでトイレに出かけるのもおっくう、ほんならトイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。

 ことばに省略がある。たとえば「トイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。」はトイレに三島由紀夫の小説(だろう)を持って入って、三島を読みながら用を足し、そのあと「三島の視点というのは睨むという行為はあっても、睨まれるという行為(?)はなかったのではないか」と考えるということだろうと思うのだが、そうすると「三島を持って/帰りにこの人」の、私が/を挿入した部分には「トイレに入り、用を足しながら、そこで三島を読んで、そのあと」ということが省略されていることになる。その省略されているのは、そして、なんといえばいいのだろうか、だれもがすることなのである。だれもがすることは書かずに省略して、だれもがしないこと、「わたし」(川上)だけがすることを、それだけを選んでことばにしている。
 だれもがすることは、どうぞ勝手にだれもがすることを想像してください、と読者にゲタをあずけてしまっている。だが、そういうゲタをあずけてしまっているという印象を少しも残さず、ぐいぐいと、読者をひっぱっていく。
 その省略のリズム、それがとても魅力的だ。
 そしてそのリズムには、関西弁が深くかかわっている。トイレと三島の部分でも、「ほんなら」ということばが差し挟まれている。この「ほんなら」に誘われて、読者の肉体か動く。「トイレ」と「ほんなら」が一緒になっているので、読者もつられてトイレへ行ってしまう。トイレへ行くとき、長くなりそうだと本を持ち込み、読もうか……というような行為を思い出す。
 関西弁は、とても肉体的なことばなのだ、と思う。

 このことは、別な言い方をすれば、肉体がきちんと書き込まれているとき、ことばはどんなふうにも省略できるということだと思う。「頭」ではなく、「肉体」で書く。そのとき、ことばは肉体そのものに働きかける。
 そして、そういうことばのあとに、たとえば観念的なことばがでてきたとしても、それは観念ではなく、肉体なのである。先の引用のつづき。

お話やお喋り親切こんなにもリズムでたのしいのにな、様式が美様式が出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さんのは誰のせいでもないんやろうけれど、編まれてゆくのはいつだって交渉ではなく告白やった、白の、橙の、濃紺の。

 様式、様式美(川上は美様式と、おもしろい書き方をしている)も、「頭」ではなく、「肉体」と向き合うので、「出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さん」というセックスそのものへと楽々と変わっていく。そして、あ、そうだなあ、三島というのは一方的に見るばっかりのひとだったなあ、視覚から観念を育て上げる作家だったなあと、川上に誘われるままに納得してしまう。
 関西弁というのは強いことばだなあ、とも思った。






先端で、さすわさされるわそらええわ
川上 未映子
青土社

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リッツォス「証言B(1966)」より(35)中井久夫訳

2008-12-13 00:07:07 | リッツォス(中井久夫訳)
回想  リッツォス(中井久夫訳)

家が燃えた。虚ろな窓から空が見えた。
下の谷から葡萄摘みの声。遠い声だった。
ややあって、若者が三人、水差しをさげてやって来て、
新しい葡萄液で彫像を洗った。
イチジクを食べ、バンドを外して、
乾いた茨のなかに身を寄せ合って座り、
バンドを締めて去って行った。



 1行目と他の行との関係がわからない。わからないけれど、書き出しの1行を私はとても美しいと感じる。火事の家の描写が美しい。うっとりしてしまう。
 家が燃える。屋根が落ちたのだろうか。壁は立ったままで、そこには窓があって、その窓の、虚ろな穴の向こうに、真っ青な空が見える。その赤と青の対比。それが「虚ろ」ということばとともにある不思議さ。火の暴力。空気の、つまり風の高笑い。そして、青空の無関心。不思議な美しさがある。
 若者三人の美しさは、その火と、空気と、青空の絶対的な美しさに対抗しているのかもしれない。
 水差しの中にはぶどう酒。焼け残った彫像に、みそぎ(?)の酒をそそぎ、それから快楽にふける。飲んで、食べて、体を寄せ合って、何事もなかったかのように帰っていく。家が燃えたことなど、何の意味もない。

 他者を拒絶した美しさがある。いつのことを思い出しているのかわからないけれど、こういう他者を拒絶した回想は詩のなかにしか存在し得ない美しさだと思う。



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リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

2008-12-12 10:36:00 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

儀式の後  リッツォス(中井久夫訳)

叫びに叫んだ。ざわめき。とりどりの色鮮やかな美しい衣裳。
すっかり忘我。目を挙げて見るのも忘れた。神殿の背の高い破風を。
つい一月前、足場を組んで職人が洗ったのを。だがあたりが暗くなり
ざわめきも静まった時、一番若いのがふらふらと皆を離れて、
大理石の階段を昇って独り高みに立った。儀式が朝にあった、今は無人の場所に。
彼の立ち姿(われわれは後に続いた。あいつより駄目に見えたくはなかった)。
端麗な容貌を微かに挙げ、六月の月光を浴びて破風の一部に見えた。
われわれは近寄って肩を組み、沢山の階段を下に降りた。
だが彼の雰囲気はまだ彼方のものだった。若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像だった。



 儀式の後、その儀式にとりつかれた独りの若者が「神」になる。憑依。それを見る「われわれ」。
 最後の行は、どう読むべきなのか。
 「若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像」。特に、その「神々と馬の間」をどう読むべきなのか。私は、半神半獣を思うのだ。「彼」は単なる「神」ではない。「半神半獣」なのだ。それはたぶん単純な「神」よりもはるかに尊い。「神」は「人間」に似ているが、「半神半獣」は「人間」には似ていないからだ。
 では、何に似ているのか。
 欲望に似ている、と私は思う。私たちの肉体の内部に眠っている欲望。いのちの欲望。その、形の定まらないざわめき。
 --ここから、詩は最初の1行に戻る。循環する。神話になる。
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渋田莉子「最高の運動会」

2008-12-12 10:34:32 | 詩(雑誌・同人誌)
渋田莉子「最高の運動会」(「朝日新聞」福岡版2008年12月12日)

 「小さな目」というこどもの詩を紹介するコーナーがある。その作品。後半部分。

もう少しで私の出番
心臓がバクバクして
じっとしてられなくなった
5m4m3mとせまってきた時
悠がこけてしまった
「もう少しでぬかせそう
だったのに」
でも悠はあきらめず
立ち上がってバトンを
わたしてくれた
絶対抜かしてやる
その心が熱い炎となり
燃えた
1人抜いて
アンカーにバトンをわたした
わたしにはあと応援すること
だけしかできない
心の底から応援した
結果は2位
6年生最後の
最高の運動会だった

 途中で、私は、不思議に興奮してしまった。

その心が熱い炎となり
燃えた

 この2行に感動してしまったのである。常套句である。こういうことばを、もし現代詩でみかけたとしたら、あるいは小説の中でみかけたとしたら、私は興奮はしない。感動はしない。興ざめする。しかし、この作品のなかでは興奮してしまった。
 「心があつい炎となり/燃えた」が最適のことばであるかどうかは、わからない。たぶん、もっとほかの表現の方がこどもらしい肉体をつたえられるかもしれない。しかし、渋田は、「心があつい炎となり/燃えた」と書く。
 書くことで、心をあつい炎にし、燃えさせている。
 あ、そうなのだ。ことばは、いつでも私たちより先にある。どんなことばもすでに存在している。その存在していることばを呼吸しながら、ひとはこころを育てている。ことばがなくては、こころは育たない。
 渋田にそういう自覚があるかどうかはわからないが、いま、ここで、この瞬間、渋田のこころが育っている。いままでとは違ったものになっている--そのことが、その2行から強く伝わってくる。そのことに興奮してしまった。

 こころは、そのあとにも登場する。

心の底から応援した

 ことばを得て、こころがこころになる。そういう瞬間がある。
 詩の、原型を見るような気がした。

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ベティナ・オベルリ監督「マルタのやさしい刺繍」(★★★★)

2008-12-12 00:12:06 | 映画
監督 ベティナ・オベルリ 出演 シュテファニー・グラーザー、ハイディ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デュリンガー、モニカ・グブザー

 好きなシーンがいくつかあるが、一番好きなのは、シュテファニー・グラーザーが仲間の4人と街へ行くためにバスを待っているシーンだ。バスが近付く。4人は立ち上がる。しかし、バスはバス停に停車せず、通りすぎる。通りすぎてから、ブレーキをかける。4人は、とことこと歩きだす。
 バスの運転手は、まさか老人4人が街へ行くとは想像していない。でも、バックミラーに映った(?)4人を見て、はっと気がつく。あ、4人は街へ行くのだ。そして、とまる。そして4人を乗せて行く。
 これはシュテファニー・グラーザーが1人で街へ行くとき、もう一度繰り返されるシーンだ。
 このシーンが好きなのは、たぶん、このシーンが映画全体を象徴しているからだ。
 誰も老人が何かをしたいと思っている、夢を持っているとは想像していない。街へ行くということさえ、考えてもいない。なぜ、老人4人がわざわざバスに乗って街へ行く必要があるのか、なんて、考えもしない。村にいればいい、家にいればいい。そう考えている。だから、立ち上がっても、すぐにはその存在に気がつかない。--けれども、運転手は気がつく。あ、バスに乗るのだ、と気づいてブレーキをかける。そして、老人を待っている。
 この映画では、こうしたことが形をかえながら繰り返される。
 シュテファニー・グラーザーはレースのついた奇麗なランジェリーをつくりたいという夢を持っていた。それは田舎の村にはふさわしくない夢だった。夫が死んで、なにもすることがなくなって、シュテファニー・グラーザーは、その夢をもう一度追いかける。最初は誰もその夢に気がつかない。気がつかないだけではなく、気がついた人々は、ばかげたことだと否定する。ののしり、拒絶する。特に、シュテファニー・グラーザーに近しい人、たとえば牧師の息子が拒絶する。友人の、息子が否定する。年齢が近い世代が「いやらしい」と爪弾きにする。近付こうとしない。
 最初に、シュテファニー・グラーザーの才能に気づくのは、インターネットの向うにいる顔も知らなければ名前も知らない人である。それは、ある意味ではバスの運転手に似ている。土地のつながりにしばられていない人が、シュテファニー・グラーザーに気づくのである。映画の中で最初にシュテファニー・グラーザーを支えるのは、アメリカ帰りの女性というのも、この土地にしばられない関係を象徴している。
 「移動」と「距離」が、人間の魅力を受け入れる最初の要素なのだ。
 シュテファニー・グラーザーを受け入れる若い女性。娘たち。そこには「年代」の「距離」を超えるという美しいさも存在する。

 この映画には、ほんの少しだけ出て来るだけだか、インターネットの魅力に打つ汁ものをこの映画は提示している。「時間」「場所」という「距離」を超えて、人は夢をかなえる。シュテファニー・グラーザーの夢は、時空の距離を超えるインターネットがあったから実現した。そして、その時空を超えることは、いつだってできる。何かをやるのに遅すぎることはない。美しい才能は、時空を超えて花開く。頑張れ、お年寄りたち、と励ましている。そんなふうにも感じた。
 

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リッツォス「証言B(1966)」より(33)中井久夫訳

2008-12-11 08:43:25 | リッツォス(中井久夫訳)
宿命  リッツォス(中井久夫訳)

あてどなく放浪して、彼が帰るのはいつも同じ場所だった。
同じ一点だった(彼は宿命だと言った)。
壁を凹ませてある箇所 アーチ型の天井の部屋。入り口の、植木鉢に花を植えて置く所。
鉢の後に鍵。ここはいつも彼の出発点だ。
その鍵を忘れようとして。いや、鍵探しのこともある。
ものの形の変化の厚い層の下にありはしないかと。
時にはほんとうに忘れる。しかし不意に
通りでの知らない人の姿勢や歩き方が
また彼を自分の秘密に沈着させる。
少し向うのスタディウムからは、夕暮時に同じ声が聞こえて来る。
逆らえない声が、体操の後、次々に部屋を変えて。



 この詩もカヴァフィスを連想させる。「秘密」を解き放つ部屋。「秘密」を解き放つときの声--その、逆らえない引力。そういうものに出会い、苦悩する。
 リッツォスとカヴァフィスが違うととたら、自分を「自分の秘密に沈着させる」か、させないかの違いだろう。リッツォスは沈着させる。押し殺す。カヴァフィスは解き放つ。そういう違いがあると思う。

 この詩にはとても不思議な1行がある。どう読んでいいか、わからない1行がある。

ものの形の変化の厚い層の下にありはしないかと。

 とても抽象的だ。他の行がそれぞれ具体的であるのに対して、この行には具体的なことは何も書かれていない。「ものの形」とは何? 「変化」「厚い層」「下」--どのことばも知っている。知っているけれど、具体的に何を指すのか、私には見当がつかない。
 わかるのは、この行を分岐点にして、詩が前半と後半に分かれるということだ。
 前半は、具体的な「部屋」のありか。室内が舞台である。しかし、この行を境にして、彼のこころは「通り」、つまり「室外」へさまよいでる。「部屋」のなかにいるにしろ、こころは「室外」にある。「街」にある。そこをさまよっている。
 そして、そのさまよいのつづきとして、「次々に部屋を変えて」がやってくる。さまよいは、永遠に続く。放浪はあてどなくつづく。(書き出しの1行にもどる。)
 さまよいでるために、彼は「部屋」にもどるのだともいえる。
 そういう「意識」の場が「ものの形の変化の厚い層の下」なのかもしれない。


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薄井灌「欄/干(抄)」

2008-12-10 10:35:33 | 詩集
薄井灌「欄/干(抄)」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 薄井灌「欄/干(抄)」の初出誌は『干/潟へ』(2008年01月発行)。
 薄井灌の作品を読みながら、私は、ふいに高貝弘也の詩を思い出した。たぶん私の勘違いなのだろうけれど、書き方を変えると、薄井灌は高貝弘也になる。
 薄井は、次のように書く。(ルビがついているのだが、省略する。詩の形を再現するためである。ルビはとても重要なのだが、ネット上での表現方法がわからない。)

不規則に褶曲する川の表にちぢみ-ちぎれる文字の影/
      /(影を縫う指の)靱帯の縮痙/
          /離接と婉曲/引き返す運針の憔悴

水際に文字の刺繍が/
  /綻びてゆく/糸の解れ/
    /抜粋する/(方眼の閾に)/
      /欄外に編象する蔦先のような指が/(伸び)
   (谷内注・2行目の「糸」は原文は「糸」が横にふたつ並んだ漢字)

 ルビは「縫(ぬ)う」、「引(ひ)き返(かえ)す」、「水際(みびぎわ)」、「綻(ほころ)び」、「糸(いと)」、「解(ほつ)れ」、「蔦先(つたさき)」、「伸(の)び」につけられている。
 これはとても不思議なルビのつけ方である。とても簡単な漢字にルビがふられ、むずかしい漢字にはルビがない。漢語(漢字熟語)ではなく、訓読みの漢字にルビがふられているのである。
 ここには不思議なこだわり、日本語に対する強いこだわりがある。そういうこだわりのありようが、私には、薄井と高貝は共通するように感じられる。
 薄井も高貝も、「意味」ではなく、ことばの「歴史」(文学史)のなかに自分の感覚を遊ばせる。なれ親しんできた「文学」の破片を集めてきて、そういう破片を集めてくる感覚の存在(感覚の意識)を浮き彫りにする。日本人の(というとおおげさかもしれないが)言語感覚がどんなふうにできているのかを浮かび上がらせる。そういうことを試みているように私には思える。

 薄井と高貝の違いはどこにあるか。そして、どうとらえ直すと、薄井は高貝になるのか。
 /のつかい方がカギである。
 高貝は/をつかわない。斜線をつかわずに空白(余白)をつかう。薄井は改行、余白のほかに/をつかう。
 薄井の/を改行、あるいは余白にかえていくと、高貝のことばの動きに似てくると思う。ことばの距離がひろがり、「意味」を追うのではなく、ことばが「感覚」を、日本人にひそんでいることばの感覚を、文学史のなかの言語感覚を追い求めているという印象が強くなると思う。
 ところが、薄井はそういう方法をとらずに/をつかう。なぜ、そうするのか。/をつかうと何が違ってくるのか。
 /のつかい方が日本語のルールにあるわけではない。現代詩のルールにあるわけではない。一般的に言えば、改行のある作品をスペースの関係でコンパクトにするために、改行を/で代用し、行を追い込んで表記することがある。/は改行である。そこには一種の「切れ」「切断」がある。そういう暗黙の了解があると私は思っている。
 薄井は改行、そして文字を何字かさげるという空白もつかいながら、それになおかつ/を組み合わせる。そうすると不思議なことに/が改行ではなく、改行の意識はあるけれど、改行できない--切断ではなく、接続という印象をもたらす。どうしても接続してしまうものが/を挟んだことばのなかにある。その切断を含みながら接続するもの--そたにこそ、薄井は、日本語のことばの「感覚」の基本を見ていることになる。
 高貝がひたすら余白のなかに「感覚」の生成を見るのに対して、薄井は余白をつくれない何か、余白を拒絶して接続してくる力に、日本語の(日本人の)感覚の生成の場があるとみている。そんなふうに、私には感じられる。
 タイトルの「欄/干」に、その意識が特に濃くあらわれている。作品の中には

                             /欄/
                               /干/

というような表記もある。そこには改行も、余白もある。そのうえに/もある。けれども、そこにはどんなに切断をいれてみても、接続がある。接続させて読んでしまう日本語の感覚がある。日本人の感覚がある。私たちは、日本語に、そのことばの歴史にしばられながら、ことばを書いている。読んでいる。そういう、どうしようもない「事実」がある。その「事実」を逆手にとって、日本語の「感覚」の生成の場を薄井は探ろうとしている。
 このことは、ちょっと視点を変えると、とてもおもしろいことが浮かび上がる。ルビのことを最初に書いた。最初に書いたルビ以外に、たとえば「引き攣り」に薄井は「粒立ち」というルビ(?)をふっている。「推敲-遂行-推敲」に「左手-右手-左手」というルビをふっている。そういう行がある。
 「欄/干」あるいは「/欄/(改行と空白)/干/」に、読者はどんなルビをふることができるか。さらには「/」にどんなルビを、空白そのものにどんなルビをふることができるか。つまり、どう読むことができるかを考えるといい。
 「欄/干」は無意識に「らんかん」と読んでしまうのではないだろうか。/や空白は読みようがなくて、いっしゅん意識を中断させるのではないだろうか。中断させながら、無意識の内に「らん/かん」を「らんかん」と接続させてはいないだろうか。
 日本語は接続をもとめてしまうことば。粘着力の強いことばである。日本語にかぎらないかもしれない。ことばは、どうしてもことばを呼び寄せ、接続してしまうものなのである。接続を要求する無意識というものがことばのなかにあり、その無意識は日本語の歴史、文学の歴史と関係している。
  --と書いて、また、私は高貝の作品を思い出してしまう。





干/潟へ
薄井 潅
思潮社

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