詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(3)中井久夫訳

2008-12-24 00:10:20 | リッツォス(中井久夫訳)
海について   リッツォス(中井久夫訳)

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
波止場で大魚を切る。
頭と尾を海に投げる。
血が板をポタポタ伝って光る。
足も手も真赤になる。
女たちが囁き合う--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っている。



 魚を捌く少年(?)を描いている。タイトルは「海について」。海そのものというより、海とともにある生活--それを含めて、海と考えるということだろう。
 少年をみつめる「女たち」。女たちは少年よりも年上である。年上の女性の余裕が少年を冷酷に、残酷に、つまり生々しく自分たちの生活に引きつけた上で、じっくり眺めている。こうした女たちの視線はリッツォスの詩では珍しいと思う。
 そういう生々しい肉体的な感じと、同じ時間に、同じ場所で、少年たちが家の手伝いをしている別の描写も描かれる。そうすることで、海の暮らし、漁師の街の暮らしが、強い日差しの中にくっきりと浮かんで見える。
 なつかしいような、かなしいような気持ちになってくる。そのかなしみというのは、たぶん、どの国にも共通する「暮らし」に基づくものだと思う。



 この詩は、中井久夫から預かった原稿の中で、もっもと「書き直し」の多いものである。私が先に引用したものは、ワープロの文字を手書きで推敲したものである。推敲のあとのある作品である。
 手書きの推敲が入らないものを引用する。

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
彼は波止場で大魚を切った。
頭と尾を海に投げた。
血が板をポタポタ伝って光った。
彼は足も手も真赤になる。
女たちは囁き合った--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っていた。

 過去形「……した」がすべて現在形「……る」に変わっている。「彼は」という主語が省略されている。
 これはとても興味深い翻訳である。
 私は原詩を知らないのだが、「……る」と現在形にすることで、情景がなまなましくなる。そして、そのなまなましさが女たちの「ささやき」(うわさ)にぴったり合う。また「彼は」を省略することで、魚を捌いている人間の年齢があいまいになる。「彼は」という主語があったときは、たぶん「彼」を「少年」とは思わない。終わりから2行目に出てくる「漁夫の子」とは年齢の違った青年を想像するだろうと思う。女たちがうわさしている男が「青年」か「少年」かというのは、とても大事なことだ。「青年」だと、あまりおもしろくない。「ささやき」が卑近になってしまう。「少年」だと、おなじようになまなましくても、すこし距離が出てくる。そして、その距離がここに描かれている暮らしを清潔にする。

 リッツォスの詩は、私にはどれもとても清潔に感じる。そして、その清潔さは、この詩にあるような距離が生み出している。人間と人間が存在するとき、そのふたりのあいだにある「空気」の隔たり、その距離が人間の思いを洗い流し清潔にするように思われる。


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目黒裕佳子『二つの扉』(1)

2008-12-23 14:15:57 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(1)(思潮社、2008年11月30日発行)

 とても不思議な詩集である。とても魅力的である。巻頭の「雨」。全行。

キリンの首にからまってねむる。
雨をまってゐるのです、と、いったら、
それはよいことですね、と、
すこしわらって、からまってきた。
毛並みがすばらしく、なまあたたかいので、
すぐにすうっとねむくなる。
キリンの首はトントンとかすかにうっている。
ああ、ありがたいことです。
からまってゐた首は次第につよく、
からだをしめつけ、気も、
とほのく。
キリンがまたわらってゐるのが
ゴロゴロといふ首の様子でわかる。
雨が降ってきた。
もう、キリンとははなれられない、
そんな気がする。

 キリンの長い首を抱きしめ、キリンの首に抱かれて(?)、眠りたいという気持ちになってくる。
 「キリンの首はトントンとかすかにうっている。」「キリンがまたわらってゐるのが/ゴロゴロといふ首の様子でわかる。」--この2行の「首」の具体的な描写が美しい。首の血管の気配だろうと思うけれど、こんなふうに具体的に書かれると、キリンの首にさわったことのない私にも、キリンの首が、くっきりと「肉体」として感じられる。「肉体」に触れ合って、「肉体」であることを確かめるときの、気持ちよさ。安心感。それが伝わってくる。
 キリンとの会話(?)もすばらしく美しい。「雨をまってゐるのです」(私)「それはよいことですね」(キリン)。この、キリンの、さりげない肯定。「なぜ」とは問わない。「なぜ」と問うて、答えを引き出してみても、何の解決にもならない。そういうことがある。「なぜ」と問うても、その答えに満足できないことがあるだろうし、答える方も正確にはいえないこと、そしていいたくないこともあるかもしれない。だから、「なぜ」とは問わない。わからないことはわからないままでいいのだ。わからないまま、ただ、こうして同じ「肉体」を生きているということが、あたたかく、気持ちがいいのである。
 それは、この詩全体に対していえることでもある。
 「キリン」って、本物のキリン? それともなにかの比喩? それはつきつめてもわからないだろうと思う。そして、それがわからないということは、私には大事なこととは思えない。むしろ、わからないままにしておくことが大事だと思える。キリンは何かわからないけれど、その首の描写、首の中をながれる血管の音の描写、それがいつか聞いたことのある誰か(人間)の首の音のようななつかしさで肌に伝わってくる。その肌の感じ、肉体の感じをくっきり感じるためには、キリンがなんであるかは、むしろわからない方がいいように思える。キリンの首に身をまかせて、感じるしあわせ--首の中を流れる血管の音を聞くしあわせは、たぶん、それと同じものが自分の中にもあると感じるしあわせなのだ。
 私とはまったく別の生き物(キリン)と私は、そういう同じ「肉体」の何かを共有している。一緒に生きている。その感じさえ伝わればいいのである。



 どのことばも、私には、とても正直なことばに感じられた。「肉体」を通ってきたときだけに獲得できる正直さが、ひとつひとつのことばをしっかりと存在させている--そういう気がする。
 読みはじめたばかりだが、これは2008年の詩集のなかでもとてもすぐれた詩集だと思う。詩人の「質」というものを感じさせる詩集である。しばらく、この詩集を読みつづけたい。



二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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リドリー・スコット監督「ワールド・オブ・ライズ」(★★★★)

2008-12-23 11:53:48 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ、マーク・ストロング、ゴルシフテ・ファラハニ、オスカー・アイザック

 この映画は人間を描くというよりも、「情報」を描いている。現代をとても象徴している。現代を象徴した映画である。
 俳優は一生懸命がんばってはいるが、その背景から「情報」を取り去ると、とてもつまらないものになる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウも単なる情報であって、人間ではないのである。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウの活動ではなく、中東の街の様々な表情、空気の色、偵察衛星の映像、CIAが集めている情報、何台もの車、軍人、警官、テロリストの顔、顔、顔。そういうものが映像の奥で繋がって、映画に厚みをもたせている。映像は、そういう細部をしっかりと描いている。それらがどう繋がっているかという説明は省略しても、実際に見える「もの」の情報だけはふんだんにあふれかえさせている。テロリストの流す緊張した汗や、爆発、けがをした人々の悲惨な姿、壊れたビルがストーリーをつくる。あふれかえるものの情報が、かってに(?)といえるくらいに濃密なストーリーをつくる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウは、いわば脇役である。情報のひとつである。この映画は情報量の多さで、観客を圧倒するのである。それがこの映画のつくり方である。
 象徴的なのは、映画の最大の「嘘」に関係している。映画の中で、建築家がテロリストにでっち上げられる。建築家を偽のテロリストに選ばんだのはディカプリオを初めとする「人間」ではなく、コンピューターが蓄積しているデータである。ふんだんな「情報」を利用して、現実とは無関係にひとつの情報世界を作り上げてしまう。ニュースをつくりあげてしまう。そして、ひとは(ほんとうのテロリストも)、それに操られてしまう。人間と人間の関係よりも、ものの情報が世界の深部を構成し、関係を作り上げる。
 だからこそ、ラッセル・クロウがほとんどアメリカにいて、中東にいるディカプリオに指示を与えることができる。ものの情報は、「頭」のなかで簡単に距離を短縮する。現実の「距離」は関係がないのである。情報は情報とむすびついて、世界になる。
 そしてこの映画がおもしろいのは、そういうアメリカスタイルの「情報」ストーリーを展開する「場」が中東であるということである。「コーラン」などを読むとわかるが、アラブというのは「情報」を重視しない。というよりも、人間と人間の直接関係を(あるいは神と人間の直接関係を)大切にする。アラブのキーワードは「直接」なのである。実際、この映画でも、ヨルダンの諜報機関がとる方法は「直接」人間を利用するという方法であって、その点がアメリカスタイルとはまったく違う。アメリカスタイルでは中東の問題はけっして解決できない--ということまで、この映画は「情報」として提供している。だからこそ、現代を描いている、といえる。

 映画そのものは、情報の展開に忙しくて、人間そのものの味わいに欠けるけれど(「バンク・ジョブ」とはその点が違うが)、アメリカとアラブの世界観の違いをくっきり浮かび上がらせ、それを自然にテーマにしてしまうところは、とても興味深い。エンターテインメントなのか、政治告発なのか、という点が、まあ、あいまいではあるのだけれど。しかし、この濃密な情報量の映画というのは、やはりハリウッドならではなんだろうなあと思う。



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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(2)中井久夫訳

2008-12-23 10:23:11 | リッツォス(中井久夫訳)
救済の途    リッツォス(中井久夫訳)

大嵐の夜に夜が続く。孤独な女は聞く、
階段を昇ってくる波の音を。ひょっとしたら、
二階に届くのでは? ランプを消すのでは?
マッチを濡らすのでは? 寝台までやって来るのでは?
そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。
ただ一つ黄色い考えしきゃ持たない男の--。このことが女を救う。
女は波が退く音を聞く。女はテーブルのランプを見つめる。
そのガラスは少し塩が付いて曇っていませんか?



 この作品も、前半と後半が違っている。違った印象を与える。
 前半は夜の描写。後半は女の空想。しかし、よく考えてみれば、前半も女の想像力の世界かもしれない。女は波を具体的に見ているわけではない。音を聞いて、その波が襲ってくることを想像しているだけである。「そうなると」以下も、空想という点ではおなじである。同じ空想なのに、なにかが違う。なにが違うのか。
 前半は、そこにあるもの、近くにあるものを想像している。それがどんな形をしているか、どこまで迫っているかを想像している。後半は「不在」を想像している。「溺れた男」は女の近くにはいない。ここにないもの、「不在」を想像していることになる。
 「不在」を想像することが、女を救っている。女の不安をやわらげるきっかけになっている。そして、その「不在」は「非在」でもある。存在しないだけではなく、存在し得ない。「海の中」の「ランプ」はもはや「ランプ」ではない。明かりを点すことができない。けれども、その「非在」を「存在」として人間は想像することができる。海なのかで、なお、黄色い明かりを点していることができるランプというものを人間は想像することができる。なにも見えないのに、ただ、黄色い光が見える。荒れ狂う海の中に、ランプが黄色く点っているのが見える。
 あ、これは素敵だ。
 この、現実には存在しないはずの、海のなかのランプを見ることができる、その不思議さが女を救済する。人間の想像力を楽しいものにする。海の中でランプが黄色く点っているなら、女はそのランプと一緒に生きることができる。男と向き合うように、ランプと向き合って。少しばかげた(?)考えを持っている男を楽しく見つめるみたいに、ランプと向き合って見つめることができる。
 これは楽しい空想である。
 この楽しい空想の出発点の、「そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。」がとても美しい。「そうなると、」という口語が楽しい。
 最終行も、とても美しい。「そのガラスは少し潮が付いて曇っていませんか?」の「いませんか?」という口語がやわらかくて、とても気持ちがいい。

 中井の訳は、ことばが自在である。漢語も出てくるが、この詩にあるように、口語のつかい方がとても気持ちがいい。口語が、深刻な状況、危険な状況(嵐)を、かるくいなしていく。「頭」で考えると、恐怖に陥ってしまうが、「肉体」で受け止めると、なんとかなるさ、という気持ちになる。
 「頭」(知)ではなく、なにか別のものが人間を最終的に救済するのだ、という感じがする。そういうきっかけのようなものを、私は、中井のつかう口語に感じる。

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北川浩二『静かな顔』

2008-12-22 10:47:05 | 詩集
北川浩二『静かな顔』(ポエトリー・ジャパン、2008年07月24日発行)

 ことばがことばを批評しない--そういう詩である。多くの現代詩はことばを批評しながら書かれている。北川はそういうことをしない。ことばの「意味」をていねいに守っている。外からやって来る批判を、ことばの壁で守りきろうとしている。
 そのために、とても「論理的」になっている。特徴的なことばが「なぜなら」である。詩集の中にいくつも出てくるが、たとえば「報告」。全行。

家に帰る ただいまという
今日はとても楽しかった
とはっきり嘘をつく
いったい誰に?
大切な人に

今日はとても楽しかった
と明るい 一日の報告
正直に何はいえて
何をいえないのか
いまでもわからない
かけがえのない
特別な人を前にして

今日はとても楽しかった
それは本当のこと
なぜなら他の
言葉が出てこないから

 ただし、「論理的」とはいっても、そこにはほんとうは論理はない。論理を超越して、なにかをいいたいとき、「なぜなら」がつかわれるのである。強引に「なぜなら」ということばで「論理」を築き、そのなかに「なにか」を閉じ込め、ガードする。他人の論理が侵入してくるのを拒絶するための「なぜなら」なのである。
 もし北川の書いていることを批判するなら、この「なぜなら」を超越する別の「なぜなら」という構造が必要になる。
 「なぜなら」という疑似論理(?)をつかってまで、守りたいものとはなんだろうか。
 それは、たとえば、「こころ」というものかもしれない。ことばではたどりつけない「こころ」。ことばは、その「こころ」のまわりをまわっている。まわりながら「こころ」を守っている。ほんとうに思っていること、感じていること、まだことばにならないピュアなもの。そういうものを守りたい、大事にしたいという思いが、北川の「なぜなら」を動かしている。

 「なぜなら」がつかわれていない作品にも「なぜなら」は隠れている。「静かな顔」の全行。

ひとりで暮らすとしたら
もしひとりで生きるとしたら
ただそういうことになったんだと思って
静かな顔をしたい

その静かな顔が
生涯続けば
それで静かな人生の完成
不思議だね
不思議だよ

一晩中ついている
明るい電灯のように生きていたい
誰も消さないので
一晩中ついたままの
明るい電灯のように生きていたい

 1連目と2連目のあいだ、その行間に「なぜなら」が隠れている。そして、この「なぜなら」が結びつける2連目の世界というのは、論理的に見えるが実証できるような論理ではない。ただ「こころ」がそれを納得するかどうかだけが問題のことがらである。北川の「こころ」が描き出した世界である。それを守るように、そっと、ことばがはりめぐらされる。

 「なぜなら」が違った形をとってあらわれることもある。「考える」。

深く考えたがために
いたるところで つまずいてしまうきみか?
ならば
さて考えることを
どこでやめようか
どこで考えるのをやめられるだろうか

しかし
考えるとは生理的なものだ
考えるとは
荒い呼吸のようなもの
幸運に恵まれたときだけ
それは乱れの少ない寝息のようなもの

 2連目の「しかし」。これは、実は「どこかで考えることなどできない/なぜなら」という意味が凝縮された形である。そこには「なぜなら」が含まれている。隠れている。北川は、いつも「なぜなら」ということばをつかって、ことばを動かしているのである。そうやって、自分の考え(こころ)をていねいに守った上で、形にして見せる。
 そこには、そういうていないな形で他人と出会いたいという北川の思いがある。それはそれでとても大切なことだ。

 しかし、私は、そういうていねいさをちょっと超えた部分がほんとうは好きである。先に引用した「静かな顔」の3連目。
 その3連目への飛躍には「なぜなら」がない。いや、ほんとうはあるのだろうけれど、それが見つけられないでいる。見つけられないまま、それでもほんとうのことを言ってしまった--そういう美しさがここにはある。無防備な美しさがある。
 「なぜなら」を捨て去って、無防備になって、傷ついてもいい、という覚悟でことばが動きはじめると、北川の詩は「やさしさ」(ていねいさ)の先にあるものにふれるのではないだろうか、と思った。




静かな顔
北川浩二
ポエトリージャパン

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(1)中井久夫訳

2008-12-22 00:20:21 | リッツォス(中井久夫訳)
陶工    リッツォス(中井久夫訳)

壺も造った。植木鉢も。土鍋も。
粘土が少し残った。
女を造った。乳房を大きく丁寧に。
彼の心は揺れた。その日の帰宅は遅れた。
妻がぶつぶつ言った。彼は返事をしなかった。
翌日はもっと沢山の粘土を残した。翌々日はもっともっと。
彼は家に帰ろうとしなくなった。妻は彼を見限って去った。
彼の眼は燃えさかる。上半身裸。赤い腰帯を締めて、
夜をこめて陶土の女たちを練る。
明け方には工房の垣根の彼方に彼の歌声が聞こえる。
赤腰帯も捨ててしまった。裸。ほんとうに裸。
彼の周りには、一面、空の壺、空の土鍋、空の植木鉢、
そして耳も聞こえず目も見えずものも言えない美女たち、
乳房を噛み取られて--。



 寓話のような詩である。つくったものに魅せられて、そこからのがれられなくなる。ここに描かれているのは「陶工」だが、そういうことは詩でもあるかもしれない。ただ、同じものだけをつくるということが。

 この作品では、私は2行目が好きだ。2行目の「少し」ということばが。そして6行目の「もっともっと」ということばが。
 「少し」であるからこそ、逸脱してしまったのだ。最初はいつでも「少し」なのだろう。「少し」逸脱する。「少し」なので大丈夫(?)と思い逸脱する。そして、それを繰り返してしまう。「少し」から「もっともっと」への変化。その変化を、リッツォスは素早く書いている。中井は素早く訳している。
 たぶん、「もっともっと」が一番の工夫なのだと思う。
 「もっともっと」のあとには「沢山」が省略されている。省略することで、ことばにスピードが出る。そして、そのスピードにのって、ことばが加速する。加速して、逸脱していく。「陶工」が常軌を逸していく。
 この陶工の恋は狂おしい。加速するだけで、減速することを知らないからだ。1行目に出てきた「壺」「植木鉢」「土鍋」ということばをひっぱりだしてきても、もう、もとにはもどれない。逆に、「過去」によって、「いま」がさらに逸脱していることが浮き彫りになるだけである。
 この対比も、とてもおもしろい。


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高野幸祐「バスと盲導犬」

2008-12-21 17:49:17 | その他(音楽、小説etc)
高野幸祐「バスと盲導犬」(毎日新聞「鹿児島」版、2008年12月20日発行)

 新聞には読者の作品がいろいろ掲載されている。毎日新聞「鹿児島」版、2008年12月20日の高野幸祐「バスと盲導犬」に感動した。

 落ち葉の舞う中をバス停にたどり着いた私は、盲導犬を連れた「アラフォー」の女性を見た。彼女はバス停の縁にすっくと立ち、じーっと前を向いたままである。ひたすらバスのエンジン音が近づくのを待っていた。
 私はバスの止まる位置がずれはしまいかと心配になった。しかしバスのドアはピッタリ彼女の前で開いた。私はやっと気が付いた。彼女は前もって犬を連れた自分の姿を運転手に見えるようにたっていたのだ。

 2段落目のリズムがとてもいい。ひとつひとつの文章がひとつのことしか言っていない。とても素早く読める。そして、その素早さが、そのままこころの動きになっている。それだけではなく、そのとき、こころはあくまでわき役に納まっている。「私はやっと気が付いた」の「やっと」が女性を引き立てている。女性のきちんとした生き方に対して、「私」は「やっと」なのである。そうやって少し身を引いて、一番言いたいことを、それまでの文章より長めに書いて、じっくり読ませる。あくまでも、女性を主役にして。
 「彼女は前もって犬を連れた自分の姿を運転手に見えるようにたっていたのだ。」はさりげない文章だが、私は何度も読み返してしまった。女性の姿がくっきり見える文章なのに、いや、くっきりみえるからこそなのかもしれないが、その姿を、その生き方をよりくっきりと自分のこころに刻むように。
 他人(高野にとっての他人という意味だが)を、こんなに鮮やかに表現し、しかも生き方までしっかり伝える文章は、なかなかないものである。

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飯飯島耕一「トルファンへの旅」島耕一「トルファンへの旅」

2008-12-21 14:38:59 | 詩(雑誌・同人誌)
飯島耕一「トルファンへの旅」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 飯島耕一「トルファンへの旅」の初出誌は秋山巳之流句集『花西行』(2008年03月)。句集の「序詩」として書かれたものらしい。
 書き出しのリズムが気持ちがいい。

歌びと を敬い
詩人と遊び
トルファン
花西行
トルファン
花西行
歌びと を敬い
詩人と遊び
この永遠のアンファンはいつの間にか
河沿いの俳の世界にひき込まれ

 「トルファン」が「アンファン」と韻を踏む。そこに、この詩のすべてというとおおげさかもしれないけれど、飯島が発見したものがある。飯島は、秋山巳之流句集を読みながち「永遠のアンファン」を感じたのだ。それは、飯島が「永遠のアンファン」になったということと等しい。そういう一体感のよろこびがある。よろこびのリズムがある。
 「トルファン」と「アンファン」は同じものではない。しかし、何かが結びついている。そういうものを感じるこころが詩なのである。わけのわからないもの、断定できないなにか--そういうものにひかれて、動いてしまう瞬間、その時の、ことばにならない詩を、飯島は、また「トルファン」へ向かった秋山に感じている。

なぜトルファンなのか
永遠の旅人の
永遠の謎

 この3行も、はらはらするほど美しい。無垢なアンファンのことばだ。
 このあと、飯島は、秋山の句をいくつか引用している。引用しながら、「トルファンと」「アンファン」が重なったように、飯島は、秋山と重なる。一体になる。
 そして、それは「意味」として一体になるのではなく、音楽、リズムとして一体になっている。私の感想のように、くだくだとつまらないことを書かない。ただ、いくつかの句をぱっぱっと放り出すように引用している。そのリズムがとてもいい。最初から最後まで音楽がさーっと駆け抜ける。
 駆け抜けたあとに、飯島の書いている「永遠」が輝く。


飯島耕一・詩と散文〈3〉ゴヤのファースト・ネームは バルザックを読む
飯島 耕一
みすず書房

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(4)中井久夫訳

2008-12-21 00:09:30 | リッツォス(中井久夫訳)
ナルシスの没落    リッツォス(中井久夫訳)

しっくいが壁から剥がれ落ちている。そこも、ここも。
ソックスとシャツが椅子の上に。
ベッドの下にはいつも同じ影。気づかれないが。
彼は裸体になって鏡の前に立った。できるだけしゃきっとしようとした。
「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。
テーブルの上にあったレタスの大きな葉を一枚むしって
口元に持って行き、しゃぶり始めた。裸で鏡の前に立ったまま。
自然な態度を取り戻すか、せめて芝居をしようとして。



 最後の行に詩がある。「自然な態度」と「芝居」は矛盾する。その矛盾の中に詩がある。矛盾は、それを乗り越えるとき、そこに思想が生まれるからである。矛盾は、それを乗り越えるとき、「肉体」になるからである。それがどんな形の「肉体」かはだれもわからない。その「肉体」の手がどんなふうに動くことができるのか。なにをつかむことができるようになるのか、だれもわからない。
 その、わからないものが始まる一瞬が、最後の行の矛盾に凝縮している。
 さらにいえば、「せめて」に凝縮している。
 「せめて」ということばは、矛盾したものを並列するときにはつかわない。逆に、同列のものに対してつかう。1万円、せめて5000円あれば。目標(?)があって、それにおよばないまでも、それに近く……。こういうことばは、矛盾したものを並列するときには、そぐわない。間違っている。
 けれど、「あえて」、あるいは「わざと」、そう書くのである。そのとき、矛盾が、かけ離れた存在ではなく、とても近いものになる。ほとんど融合しそうなものになる。そして、そのとき、あらゆるものが「近い」存在として浮かび上がる。隣り合い、いつでも入れ替わるものとして浮かび上がる。
 そういうもののひとつが、ナルシスの美である。

 自分が自分にみとれてしまう美。それは、それ自体矛盾である。だから、そのなかで「自然な態度」と「芝居」が近接し、同居してしまうことにもなるのだ。

 この詩の中では、しかし、私は最後の行よりも、

「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。

 にとてもひかれる。その口語の響きに。そして、口語の孤独に。
 この詩の中に描かれているものは「しっくい」にしろ、「ソックス」「シャツ」にしろ、互いに響きあっている。「無残なもの」「形の崩れたもの」として「ナルシス」そのものときつく結びついている。「レタス」も「鏡」も響きあっている。
 ただ、「やっぱりだめだ」「だめだ」という口語--ことばだけが孤独である。

 かつてナルシスには美があった。そのとき、ことばは必要なかった。美そのものがことばだったからである。いまは、それがない。そして、美を失ったとき、ことばが、「肉体」のことばがふいにあふれてきたのだ。「肉体」を突き破って、孤独な状態で。
 「だめだ」はなにとも結びついていない。なにがだめなのか、書いてはいない。しかし、誰にでもなにがだめなのか、完全にわかってしまう。「肉体」のことばとは、そういうものである。説明はいらない。「肉体」が受け止めてしまうのである。それが、どんなに孤立していることば、孤独なことばであっても。--このとき、つまり、孤独なことばにふれるとき、「せつなさ」のようなもの、「かなしみ」のようなものが生まれる。


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鳥居万由実『遠さについて』

2008-12-20 08:44:41 | 詩集
鳥居万由実『遠さについて』(ふらんす堂、2008年11月23日発行)

 「トロンボーン」という作品にとても魅力的な部分がある。

指先につつしみのように墨汁をひたして
手元の白紙に花の名前をかきつづける
さざんか すみれ ばら
セージ ゆり うこん
淡い色彩のこどもらがあらわれては消える
そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない

 ことばが、ことばをこえて、ほかのものを呼び寄せる。書きつづけた花の名前、そのことばは、花だけではなく「こども」を呼び寄せる。その瞬間が、とても好きだ。それは、もしかすると「ぼく」のこども時代かもしれないけれど、この作品では「ぼくのしんだこども」を呼び寄せる。そして、直後に

しかし ぼくにこどもがいたことはない

 どっち? どっちがほんとう? 
 ことばが引き寄せるものにまかせて、「こども」があらわれ、つづけて思わず「ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった」と書いてしまった。そして、直後に「いや、そうではない」と否定しているのか。
 たぶん、そう読む方が自然だろう。ことばの逸脱に身をまかせてしまって、あ、ことばに乗せられてしまった、と反省している、と読むのが自然だろう。
 しかし、逆に、思わずほんとうのことを書いてしまって、ほんとうのことを書いてしまったことを隠すために「しかし ぼくにこどもがいたことはない」と書き加えたとも、可能性としてはありうる。真実を「わざと」隠すために書く、ということもありうる。
 私は、鳥居のことを知らないから、彼(彼女?--それさえも、私は知らない)にこどもがいるかどうかは知らない。そのこどもが死んだかどうかも、もちろん知らない。だから、私の感想は「真実」とは関係がない。鳥居の人生というか、現実とは関係がない。事実とは無関な係部分での、「わざと」にとてもおもしろみを感じる。

そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない

 考えてみれば、この2行そのものが「わざと」なのである。どっちがほんとうなのか、わからないように、「わざと」書いている。そして「わざと」書かれている部分にこそ、詩の鍵がある。「わざと」矛盾したこと、嘘を書くとき、その嘘の影に「ほんとう」がいきいきと動くのである。
 この詩の「ほんとう」とは、花の名前を書きつづけると、花ではなく、そこに「淡い色彩のこどもらがあらわれては消える」ということだ。そうなのだ。花の名前を書けば、つまりことばを追いかければ、そこに「花」が出現するだけではなく、「花」とともにあるものが一緒にあらわれてしまう。ことばはそういうものを呼び寄せてしまう--そういうこと、そういう働きが詩なのである。現実をかえてしまうのが詩なのである。
 ことばは逸脱する。自律運動をする。その運動に人間の肉体は誘われて、現実にはないものを見てしまう。この瞬間の楽しさ。そこに詩がある。この楽しさを楽しむためなら、詩はどんな嘘でも(死んだこどもがいる、いやこどもはいない)ということを「わざと」書いてもいいのである。

 ことばは、ただ、ことばのままに自律運動をすればいい。ことばを現実から解放し、自由にしてやれば、ことばはどこまでも楽しくなる。ことばが夢見ている「ほんとう」が、その運動の先にあらわれてくる。
 そういう楽しい詩。「だんでいらいおん」の、一番楽しい、なかほどの部分。

うさぎを喉につかえさせたまま
厳めしい
ライオン市議会議員は
星ちりばめた黒ビロードのすそをひきずりながら
たんぽぽを踏みしめ
春の野の底をゆきます
たんぽぽの茎でくすぐられると
他人の愛がのりうつってきそうで
緑はいっそう深い 怖い
もうすぐ、黄色くひきしまった手足や尻尾をほぐして
綿毛になってとんでいけるだろうか

 こういう詩は、若いときの特権である。「たんぽぽの茎でくすぐられると/他人の愛がのりうつってきそうで/緑はいっそう深い 怖い」。この3行は、この詩集の中で、もっとも輝いている行である。こういう詩を書けるのは、肉体も精神も若いときである--そう思って、「著者略歴」をみたら、ほんとうに若い詩人だった。1980年11月23日(詩集の発行日)生まれ、と書いてあった。誕生日と詩集の発行日をあわせる、というのも、「若さ」ゆえの「わざと」である。いいなあ。若さは、と思った。




遠さについて―鳥居万由実詩集
鳥居 万由実
ふらんす堂

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(3)中井久夫訳

2008-12-20 00:17:53 | リッツォス(中井久夫訳)
活動不能  リッツォス(中井久夫訳)

この家でのおれたちの暮らしはこうだ。
家具付きの部屋。暗い廊下。
晒さぬ布。木食い虫。氷のように冷たいシーツ。
おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。
ゴキブリが台所から寝室に走って行った。
ある夜、誰かが玄関でわれわれに開けろと言った。
村の女が暗闇の中で何か言った(確かにおれたちのことだった)。
しばらくあって、玄関の扉が軋るのを聞いた。足音も人声もしなくて。



 内戦。逃れてきて、隠れている家だろうか。どこへも行けず、ただ隠れている。そのときの「おれたち」の暮らし。「おれたち」が何人かはわからない。何人いても、そのひとりひとりが独立している。「他人」である。

おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。

 それはたとえ知っていても「知らない」人間である。知っているからこそ「知らない」人間なのかもしれない。何かあったとき、「おれたち」は全員、他人である。他人であることによって、生き延びる。そういう緊迫感と孤独がこの詩の中にある。

 この詩の訳は、この形になる前に別の形をしている。何か所か推敲されてこの形になっているのだが、一番大きな変化は1行目である。中井は、最初、

この家でのおれたちの暮らしはこうだと彼は言った。

 と訳している。そして、「と彼は言った」を消している。この訳はとてもおもしろい。「この家でのおれたちの暮らしはこうだ。」という行では、誰が言ったのかわからない。「おれたち」が言ったのか。「おれたち」が声を揃えて言うことはないから、「おれたち」のなかの誰かが言ったことになるのだが、「彼は言った」という主語と述語が消されると、「彼が言ったこと」が「おれたち」全員に共有されている印象を引き起こす。
 「彼は言った」という主語、述語があるときは、それはあくまで「彼」の主張であって、ほかの「おれたち」はそうは思っていないということも考えられる。
 この作品の中で、省略される形で書かれている「彼」は、そんなことは望んでいない。誰ものか(この家にいる全員が)、同じように思っていると感じたがっている。それが、対立者からのがれ、隠れている「仲間」の思いである。
 しかし、その「団結」は、同時に、いつでも「知らない」と言わなければならない「団結」でもある。仲間であればあるほど、「知らない」と言わなければならない。敵にであったとき、「知らない」ということが他の仲間を守る唯一の方法である。自分を犠牲にしても、仲間を守る。そういう決意が隠されている孤独。

 「彼は言った」を消すことで、その孤独が、より強く共有されるのだ。そして、その孤独の共有が、最後の2行の不安を生々しくする。「活動不能」--ただ隠れていることしかできない不安を生々しくする。

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新井豊美「その名はゆずりは」

2008-12-19 11:34:38 | 詩(雑誌・同人誌)
新井豊美「その名はゆずりは」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 新井豊美「その名はゆずりは」の初出誌は「東京新聞」2008年03月19日。
 この作品は新井豊美のことばとしては異質のものかもしれない。けれども、私は、この「異質」な新井豊美が好きである。
 書き出しから魅力的だ。

締めつけていた寒気が去ると
隣家との境の
うっとうしいブロック塀の四角い角も
なんとなく丸みを帯びてくる

 うれしさのあまり、何度も何度も繰り返し、この4行を読んでしまった。「なんとなく」。この、詩から遠い、ぼんやりしたことば、散文のつなぎのようなあいまいなことばがとても美しい。「なんとなく」があるから、「隣家」という具体的な手触りが生きてくる。「うっとうしい」という粗雑な(?)ことばが生きてくる。「四角」と「丸み」も生きてくる。いきいきしてくる。
 一方にはっきりしているものがあり、他方にはっきりしないものがある。そして、そのはっきりしないものというのは、「なんとなく」なのである。いいなあ。この肉体感覚。新井豊美のことばに、私はひさびさに肉体を感じた。生きているいのちを感じた。「頭」以外の、やわらかなことばの動きを感じた。
 「なんとなく」。いいなあ。これは。
 「なんとなく」では、何がなんだかわからないかもしれない。「なんとなく」ではなく、もっと「わかる」ものを指し示すのが文学のことばであるという見方があるかもしれないが、私は、この「なんとなく」と書くことでことばが動きはじめるときの、その肉体感覚が好きなのだ。「頭」の存在をきょぜつしているようなことば。「なんとなく」。最終的には「頭」からは削除されてしまうあいまいなことば、あってもなくても事実(?)はかわらないようなことば。
 「ブロック塀の四角い角も/丸みを帯びてくる」と「なんとなく」を省略して書いた方がすっきりするかもしれないけれど、新井は、それを避けている。そこが魅力的なのだ。
 あいまいなことば--しかし、そのあいまいなことばを通ることではじめてことばが動くのである。まだわからないものの方へ。ことばとして、定着していないものの方へ。
 
つがいのめじろを追いやって 冬じゅう
わが狭庭(さにわ)を我がもの顔に占領していた
ひよどりたちが翔(と)び立ったあと
気がつくと冷たい土の下から覗(のぞ)くものがあり
土を持ち上げ
そっとあたりをうかがうものがあり

あれはなに?
あれはだれ?

 「あれ」としか言えないもの。「なに」としか言えないもの。「だれ」としか言えないもの。すべて、「頭」ではとらえきれないもの。「頭」のことばでは定着しないもの。あいまいなもの。そういうものが世界に存在する。その存在に向けて、ことばにならないものが動いていく。ことばを求めて動いていく。その動きは、どうにも定義できない。「なんとなく」動いていくのである。そして、この「なんとなく」は「頭」のことばでは説明ができないけれど、どんなひとも肉体で知っている動きなのである。ひとはいつでも「なんとくな」何かにひかれて行く。「なんとなく」何かを見つめ、それに誘われてしまう。そのときの、不思議な不思議な肉体感覚、肉体のなかでなにかが目覚めるような感覚--それを、「なんとなく」ははっきりと伝えている。
 「なんとなく」としか、言えないものがあるのだ。

 こんなとき、ことばはどう動くのか。4、5連目。

あれ あれは流れ星の子
あれは子蛇のかくし玉
あれは天から授かったポエジーの卵
などとおもいつくままに呼んでいた「あれ」が
青い猶予の時間を終えたその日から
明るさをました陽の下におどり出てもろ手を開き
ぐいぐいと向日性の背丈を伸ばして

あれはもう「あれ」ではなく
その名は「ゆずりは」

 肉体で何もつかみきれないとき、ことばは「頭」に頼る。「流れ星の子」「子蛇のかくし玉」「ポエジーの卵」。現実には存在しないもの。けれども、すでに誰かがことばにした存在。(実際に、そういう表現があるかどうかではなく、そういう「文法」、ことばのつなぎ方の問題である。)そういうものを頼ってことばは動く。肉体がことばを探すときは、いつでもそんなふうにして「先人」に頼る。すでに存在することば、ことばの文法に頼る。そして、そうすることで「頭」の中のことばを捨てる。「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も、それは捨てるためのことばである。ほんとうに書きたいことばではない。ほんとうに書きたいのは、最後の最後に出てくる「ゆずりは」である。
 そして、ほんとうに書きたいことばにたどりついたとき、実は、それは単なる結論になり、そしてそれが結論になるとき、捨てるために書いたことばが、詩として復活する。肉体の奥に沈んできらきら輝きだす。捨ててしまったとき、それは「先人」のことばではなく、新井の「肉体」のことばになる。
 「なんとなく」は「流れ星の子」や「子蛇のかくし玉」や「ポエジーの卵」を肉体とすることで、「ゆずりは」になる。そのとき、「ゆずりは」のなかには「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も一体になっている。その「一体」であることを支えるのが、新井の「肉体」なのである。「なんとなく」を受け入れ、「なんとなく」と一緒に動いた「肉体」なのである。





草花丘陵
新井 豊美
思潮社

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ロジャー・ドナルドソン監督「バンク・ジョブ」(★★★★★)

2008-12-19 09:29:39 | 映画
監督ロジャー・ドナルドソン 出演 ジェイソン・ステイサム、サフロン・バロウズ

 銀行強盗のつもりが、王室のスキャンダルを映した写真を盗み出すために利用された愚かな男たち--のはずが、知ってしまった秘密、それを封じようとする組織、逆に同時に見つかった別のスキャンダルをあばこうとする組織を利用し、組織と組織を対立させ、銀行強盗の手配をくぐりぬけ、大金を手に入れ、自由も手に入れてしまう。いわば、ピカレクス映画。
 この映画をおもしろいものにしているのは、二転三転のストーリー展開よりも、実はイギリス独特のスピード。
 ハリウッド映画なら、もっとスピードが速い。特にアクションが速い。画面の切り替えが速い。組織の対立ももっと組織全体として描く。何が起きたのか、一瞬わからないくらいの速さで展開すると思う。しかし、イギリス映画は、実にゆっくりと見せる。ひとつひとつのシーンがゆっくりと進む。
 なぜか。
 イギリスは、ことばの国だからである。映画だから、映像で見せるのはもちろんだが、きちんとことばで見せる。ことばを見せる。ひとつひとつのシーンをことばで補足する。たとえば、サフロン・バロウズがMI-5の男と話している。それをジェイソン・ステイサムが見る。そのあとジェイソン・ステイサムきちんと「何をしていたんだ」と尋ねる。そして、サフロン・バロウズ「口説かれていた」としっかり嘘をつく。このきちんとした会話が、そのスピードが、実にゆったりしている。はっきりと、嘘と、嘘に気づいているということを観客に理解させる。
 さらには、銀行強盗のためのトンネルを掘っているときの、見張りとトンネル掘りの無線のやりとり。救急車が来て、パトカーが来て、一方で無線を傍受したひとが警察に通報してというようなことが、そのやりとりが、じれったいくらい正確に会話でやりとりされる。ことばにならないことは、存在しない、とでもいう感じだ。
 そして、この映画のミソは、実は、それである。つまり、ことばにならないことは存在しない--というのがこの映画の本質なのだ。
 ジェイソン・ステイサムは王室のスキャンダルを知る。同時に、国会議員のスキャンダルが絡み、さらに警官の汚職が絡み、というようなことも知る。そして、それらが絡み合ったために、まぬけなはずの男たちが、いくつ組織、何人もから狙われる超高級(?)悪党になっていく。そしてその超悪党がみごとに、すべての権力を手玉にとって成功をおさめる、大金を手に入れるというストーリーが展開するのだが、最終的に、ジェイソン・ステイサムがつかまらないのは、それが「ことば」にならなかったということなのだ。犯人は存在するが、犯人を指し示す固有名詞(名前)がニュースとして存在しないということ。それが、この映画を成立させている。いろいろなスキャンダルは絡み合っており、絡み合っているがゆえに、犯人たちはそれを利用して自分たちの存在を隠すことができたのだが(不在にする--つまり自由になることができなたのだが)、その絡み合いをことばに定着させることができるのは、実は犯人たちだけなのである。犯人たちが不在であるとき、それらのスキャンダルは(特に王室のスキャンダルは)、ことばとして存在しなかったことになる。(これはMI-5の狙い通りである。だからこそ、それと引き換えに、犯人たちは自由を手にしたのである。)多くの被害者は被害を届けない。つまり、ことばにしない。そうすることで、被害は存在しなかったことになる。こういうことばと現実の楮をを犯人たちは利用する。
 ことばとして存在しないものは、イギリスでは存在しないと見なされるのだ。

 そして、ここからとてもおもしろい国民性も浮かび上がってくる。ことばとして存在しない、というとき、そのことばは「本人のことば」なのである。銀行強盗で言えば、被害者が何を盗まれたと「ことば」で訴えない限り、そこには被害は存在しないことになる。逆に言えば、ある人が何をしようが、それについて本人が何も語らないとき、その行為は存在しなかったことになる。これは別の言い方をすれば、あらゆる個人の「秘密」をイギリス国民は尊重するということである。たとえば王室のスキャンダル。それはだれもが知っている。けれども、そのことを王室自身が語らなければ、それは存在しない、存在しなかったこととして受け入れる。つまり、追及の対象にはならない。追及の対象にしない。
 最初のジェイソン・ステイサムとサフロン・バロウズの会話にしても、それがたとえ嘘であったとしてもサフロン・バロウズが「男に口説かれていた」と言えば、そのときはそれを受け入れる。それ以上は追及はしない。サフロン・バロウズがきちんと彼女自身のことばで説明するまでは、すべては存在しないものとして受け入れる。逆に言えば、必ず、ことばとして彼女が語るまで待つ、ということである。このことばと現実との関係の追及が、そのスピードが独特なために、この映画はおもしろくなっているのである。
 これがアメリカならまったく違う。本人が語らなくても、他人が語れば充分なのである。むしろ、他人が語る、物証があるということの方が、本人が語るということより重要である。「もの」をつきつけて、誰かを追いつめていく。スキャンダルの追及は、そんなふうに展開する。(クリントンとモニカのスキャンダルはクリントンが語らなくても、公に存在してしまう。)
 誰にでも秘密はある。そして、個人個人が秘密を持っているということを受け入れるのがイギリスである。この映画で、犯人たちは大金を手に入れる。それを受け入れるのも、実は、イギリス人の性質である。単に悪漢が好きというのではない。悪漢だって秘密を持っているというだけのことなのである。凡人は持てない秘密を持っている。悪漢がそれを語らないなら、その秘密は、公のものではないから、存在しないのだ。犯人たちは、犯罪を犯したことにはならない。つまり、自由なのだ。
 プライベートとパブリックという概念がいつでも明確に存在するのがイギリスであり、それはことばとともに存在する。ことばがプライベートとパブリックを区別する。この映画で描かれている王室のスキャンダルも、それは王室が語ったことばではなく、他者(映画制作者)が語っていることなのだから、それは「パブリック」なものではない。パブリックではないから、王室は、苦虫をかみつぶしているかもしれないけれど、知らんぷりをする。知らんぷりができるのだ。

 あ、大人の世界だなあ、大人の映画だなあ、と思ってしまう。


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リッツォス「証言C(1966-67)」より(2)中井久夫訳

2008-12-19 00:29:21 | リッツォス(中井久夫訳)
井戸のまわりで  リッツォス(中井久夫訳)

女が三人、壺を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも降りかかっている。
鈴懸の樹の後ろに誰か隠れて石を投げた。壺が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。



 この詩に書かれている情景は矛盾している。なぜ矛盾していることを書いたのかといえば、それは現実そのものの描写ではないからだ。現実に触発されて見た、一瞬の情景だからである。こころが見た情景である。だから矛盾していてもいいのだ。
 女たちの気を引こうとして小石を投げる。それは手元がそれて壺にあたる。その音を聞いた瞬間、小石を投げた「我々」は、もう壺を見ていない。はっとして、身を隠す。隠れてしまうので肉眼は壺の様子がわからない。「壊れた」と思っても、壊れてはいない。「水はこぼれない。水はそのままだった。」--これは、一つの、見方である。
 また、次のようにも読むことができる。こころは、次のような情景を見たとも考えることができる。
 壺は壊れた。しかし、その瞬間、水はすぐにこぼれるのではなく、壺の形のまま直立している。壺の形のまま、丸みを帯びて垂直に立っている。いわば、壺という衣裳を脱いで、裸で立っている。その裸の水面、きらきらとした水面が、その不思議な力(垂直に立っていることができる力)で、「我々」を見ている。隠れているけれども、隠れることのできない「我々」をしっかり見ている。--水に、見られてしまった。隠れながら、「我々」はそう感じる。
 
 このふたつの読み方。そして、私は、実は、後者の読み方をしたいのだ。

水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。

 この水の、水自身で立っている美しい姿。それは「輝いて」としか表現できない。艶やかで、透明で、美しい輝き。その輝きが、私はとても好きだ。
 その水は、一瞬、こころのなかで輝いた後、壺のように壊れるだろう。壊れて、女たちの足をぬらすかもしれない。けれども、その水が壊れる前の、一瞬の、水が水自身が剥き出しになったことに驚き、恥じらい、固まったようにして輝く--その一瞬が、その輝きが私はとても好きだ。

 そんなものは現実にはありえない、とひとはいうかもしれない。けれど、そういう現実にはありえないものを、ことばは見ることができる。詩は、そうやって現実を超越する。矛盾を超越する。そして、矛盾を超越するところにこそ、思想は存在する。美はあらゆるものを超越して存在することができるという思想が、そこには存在する。

 この詩は、とても好きな詩である。私の読み方が誤読だとしてもかまわない。私は、むしろ、ずーっと誤読しつづけていたい。

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(1)中井久夫訳

2008-12-18 01:24:45 | リッツォス(中井久夫訳)


古代ふうの動作  リッツォス(中井久夫訳)

一日中身体に泌み通る暑さ。馬たちがひまわりの傍で汗をかく。
風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。
永遠の同じくくぐもった音がオリーヴの茂みを通り抜ける。
湧井戸の傍の桑の木の下に低い丸椅子がある。
百歳にもなろうかという老婆が出て来た。その庭だ。
椅子に座る。古代ふうの動作で。
その前に黒い前掛けの埃をひょろ長い僧侶ふうの腕ではたく。



 午後のスケッチ。最初の2行が好きだ。人間とは違った生き物。馬。それが人間のように汗をかいている。汗という肉体の表現が、馬をとても近しいものにする。

風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。

 この行は感覚の動き、意識の動きをとてもすばやくスケッチしている。風を感じる。そして、そのあとに風がどういうものか説明しているのだが、「風が立つ」という短い表現が、はっと風に気がついたときの瞬間をきわだたせている。「午後、山から吹き降ろしの風が吹いてきた」では、風に気がついた瞬間のさわやかな感じは出ない。あくまで「風」、そしてその理由という順序がいい。

 清水哲男の「ミッキー・マウス」という詩のなかに、次の2行がある。

「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かいがするぞ)     (「現代詩文庫」1976年06月30日発行)

 この標準誤訳(?)に対して、私は批判したことがある。「草の温かい匂いがするぞ」では、口語のリズムを壊している。感覚の動きを壊している、という批判である。あくまで、「草が温かい」と感じ、そのあとで「匂いがするぞ」というのが口語のリズム、肉体の感覚である。草に触れた瞬間「温かい」という感覚が瞬時にやってきて、そのあとで「温かさ」を感じた肉体が(温かさによって目覚めた肉体のなかの嗅覚が)、「匂いがするぞ」と感じたのである。「草の暖かい匂いがするぞ」では、「頭」が全体を整理してしまっていて、肉体の動きが疎外されている。

 「頭」ではなく、「肉体」そのものでことばを動かす。ことばをつかむ。リッツォスのことばは短いが、それは「頭」で書いているからではなく、「肉体」で詩を書いているからである。

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