海について リッツォス(中井久夫訳)
誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
波止場で大魚を切る。
頭と尾を海に投げる。
血が板をポタポタ伝って光る。
足も手も真赤になる。
女たちが囁き合う--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っている。
*
魚を捌く少年(?)を描いている。タイトルは「海について」。海そのものというより、海とともにある生活--それを含めて、海と考えるということだろう。
少年をみつめる「女たち」。女たちは少年よりも年上である。年上の女性の余裕が少年を冷酷に、残酷に、つまり生々しく自分たちの生活に引きつけた上で、じっくり眺めている。こうした女たちの視線はリッツォスの詩では珍しいと思う。
そういう生々しい肉体的な感じと、同じ時間に、同じ場所で、少年たちが家の手伝いをしている別の描写も描かれる。そうすることで、海の暮らし、漁師の街の暮らしが、強い日差しの中にくっきりと浮かんで見える。
なつかしいような、かなしいような気持ちになってくる。そのかなしみというのは、たぶん、どの国にも共通する「暮らし」に基づくものだと思う。
*
この詩は、中井久夫から預かった原稿の中で、もっもと「書き直し」の多いものである。私が先に引用したものは、ワープロの文字を手書きで推敲したものである。推敲のあとのある作品である。
手書きの推敲が入らないものを引用する。
誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
彼は波止場で大魚を切った。
頭と尾を海に投げた。
血が板をポタポタ伝って光った。
彼は足も手も真赤になる。
女たちは囁き合った--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っていた。
過去形「……した」がすべて現在形「……る」に変わっている。「彼は」という主語が省略されている。
これはとても興味深い翻訳である。
私は原詩を知らないのだが、「……る」と現在形にすることで、情景がなまなましくなる。そして、そのなまなましさが女たちの「ささやき」(うわさ)にぴったり合う。また「彼は」を省略することで、魚を捌いている人間の年齢があいまいになる。「彼は」という主語があったときは、たぶん「彼」を「少年」とは思わない。終わりから2行目に出てくる「漁夫の子」とは年齢の違った青年を想像するだろうと思う。女たちがうわさしている男が「青年」か「少年」かというのは、とても大事なことだ。「青年」だと、あまりおもしろくない。「ささやき」が卑近になってしまう。「少年」だと、おなじようになまなましくても、すこし距離が出てくる。そして、その距離がここに描かれている暮らしを清潔にする。
リッツォスの詩は、私にはどれもとても清潔に感じる。そして、その清潔さは、この詩にあるような距離が生み出している。人間と人間が存在するとき、そのふたりのあいだにある「空気」の隔たり、その距離が人間の思いを洗い流し清潔にするように思われる。
誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
波止場で大魚を切る。
頭と尾を海に投げる。
血が板をポタポタ伝って光る。
足も手も真赤になる。
女たちが囁き合う--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っている。
*
魚を捌く少年(?)を描いている。タイトルは「海について」。海そのものというより、海とともにある生活--それを含めて、海と考えるということだろう。
少年をみつめる「女たち」。女たちは少年よりも年上である。年上の女性の余裕が少年を冷酷に、残酷に、つまり生々しく自分たちの生活に引きつけた上で、じっくり眺めている。こうした女たちの視線はリッツォスの詩では珍しいと思う。
そういう生々しい肉体的な感じと、同じ時間に、同じ場所で、少年たちが家の手伝いをしている別の描写も描かれる。そうすることで、海の暮らし、漁師の街の暮らしが、強い日差しの中にくっきりと浮かんで見える。
なつかしいような、かなしいような気持ちになってくる。そのかなしみというのは、たぶん、どの国にも共通する「暮らし」に基づくものだと思う。
*
この詩は、中井久夫から預かった原稿の中で、もっもと「書き直し」の多いものである。私が先に引用したものは、ワープロの文字を手書きで推敲したものである。推敲のあとのある作品である。
手書きの推敲が入らないものを引用する。
誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
彼は波止場で大魚を切った。
頭と尾を海に投げた。
血が板をポタポタ伝って光った。
彼は足も手も真赤になる。
女たちは囁き合った--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っていた。
過去形「……した」がすべて現在形「……る」に変わっている。「彼は」という主語が省略されている。
これはとても興味深い翻訳である。
私は原詩を知らないのだが、「……る」と現在形にすることで、情景がなまなましくなる。そして、そのなまなましさが女たちの「ささやき」(うわさ)にぴったり合う。また「彼は」を省略することで、魚を捌いている人間の年齢があいまいになる。「彼は」という主語があったときは、たぶん「彼」を「少年」とは思わない。終わりから2行目に出てくる「漁夫の子」とは年齢の違った青年を想像するだろうと思う。女たちがうわさしている男が「青年」か「少年」かというのは、とても大事なことだ。「青年」だと、あまりおもしろくない。「ささやき」が卑近になってしまう。「少年」だと、おなじようになまなましくても、すこし距離が出てくる。そして、その距離がここに描かれている暮らしを清潔にする。
リッツォスの詩は、私にはどれもとても清潔に感じる。そして、その清潔さは、この詩にあるような距離が生み出している。人間と人間が存在するとき、そのふたりのあいだにある「空気」の隔たり、その距離が人間の思いを洗い流し清潔にするように思われる。