詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高塚謙太郎『さよならニッポン』

2009-11-23 00:00:00 | 詩集
高塚謙太郎『さよならニッポン』(思潮社、2009年10月25日発行)

 高塚謙太郎『さようならニッポン』は、詩集のタイトルに漢字がつかわれていない。なぜだろう。そんな疑問にとらわれるくらい、高塚は漢字が好きである。漢字のことばが好きである。いや、ことばの漢字が好きである。「ことばの漢字」というのは奇妙な言い方になってしまうが、思わず、そう書いてしまった。
 詩人というのは誰でもことばが好きだとは思うけれど、どんなことばが好きかはひとによって違う。そして、そのことばをどんなふうに書くのが好きかということもひとによって違うのだが、高塚は漢字が好きな詩人だ。ことばを漢字で書くのが好きだ。そして、そのことばと漢字は、いささか古い。『さよならニッポン』はなぜか「侍ニッポン」に音が似ているが、その、私の聞いたことのない歌謡曲のような感じで、古くさい。
 古いことばを漢字で書くことが好きなのかもしれない。そうすることで、いま、ここから「さよなら」し、別の「ニッポン」に行きたいのかもしれない。その「ニッポン」で、ことばを動かしたいのかもしれない。
 この欲望も「暴走」だと私は思う。

 「馬」という作品の、書き出しの2連。

柵を越えてくる。轍を翻し露わな季節を鷲づかみ、野卑と枯淡の水蜜の柵を築
く音のその以前にいつ果てるともない朝焼けの頬をつたう墓碑銘が。

季節の臀部に見惚れ、それなり睫は逃亡に泥む。蹲りの姿勢から澱む膝に表情
を残したまま、呼吸の呵成に首を立てる。いつしか片腕には一本の鞭が延び、
一頭の馬へと到る。額に鮮やかな濡れた鼻面にぶら下がる畏れ。撲殺したのは
いつ。

 この奇妙なことばたち。「轍を翻し」は、たぶん、漢字が存在しなければ、思いもつかないような表現だろう。「季節の臀部」も「臀」という漢字がなければ、思いつかない表現に違いない。
 それにしても、「轍」とか「臀部」、あるいは「露わな」「鷲づかみ」「蹲り」という~ことば」と「漢字」、その組み合わせを高塚はどこからみつけてきたのだろう。とても興味をかきたてられる。
 私は、そこに書かれていることばを「見る」ことができる。「見て」存在することはできるが、まあ、自分ではけっしてつかわない。特に漢字と組み合わせてはつかわない。
 だから、そこに「ことばの暴走」「表現の暴走」を感じる。
 私はいつでも「私」を基準にしてしか、ことばに接しない。他の読者にとっては、高塚のことば、漢字は「暴走」ではないかもしれないが、私には「暴走」に感じられる。
 そして、これから書くことが、ほんとうの感想の部分になるのかもしれないが、この「暴走」は、実は、私にとっては、とてもとてもとてもとても、気持ちが悪い。「清潔」というものを感じない。なんといっていいかわからないが、人工的な、それも「むりやり」の繊細さがそこにあると思う。そして、もし「暴走」がほんとうにあるとすれば、その「むりやり」にこそあるのだと思う。感覚を、それも「表現」に(漢字とひらがなの組み合わせという表現に)、対する感覚を鋭敏にし、そこから差異を浮き彫りにする--そういう「むりやり」がおこなわれている。
 漢字の好きなひと、漢字とひらがなの組み合わせに、深い意味を読みとる視力の持ち主には、この繊細さはとても気持ちがいいかもしれない。しかし、私は、あいにく(?)、目の手術をして、視力もおぼつかないせいもあるかもしれないが、そういう繊細さについてゆけない。いらいらし、気持ちが悪くなる。

 「姫」の書き出しの1連目。

翻る乳房の屋根裏で、滞る在来線、或は、心思う軸の傾き、雲級並べ。鄙びつ
つ哮く番傘の集い、浚いの果て、祈りの姿勢に比える、その先に、姫。

 「心思う」には「うらも(う)」、「哮く」には「うた(く)」、「比える」には「たぐ(える)」というルビが打ってある。この「ルビ」が私には、また、非常に気持ちが悪い。「むりやり」そこでことばの速度を落とされた感じがする。そして、それが漢字がもっているスピード感と、私の場合、相いれない。私の感覚では、漢字は速度が速い。ひらがなは遅い。けれど、高塚は、漢字に「ルビ」を打つことで、漢字のスピードを「むりやり」落としている。スピードを落とすことで、漢字そのものの肉体にひらがなを融合させている。この「力業」(むりやり)が高塚の「暴走」なのだが、その「暴走」は「視力」にしかわからない「暴走」である。
 こういうものが、私には、とても気持ちが悪い。

 私は、高塚の詩を読み、味わうには向いていない人間なのである。ほかの詩人なら、高塚の魅力を語ることができるかもしれないが、私には、高塚の魅力は、私が気持ち悪いと感じているところにあるに違いない、ということしか書けない。

 --と、こんな奇妙な、書かない方がいい感想を書いてしまうのは……。
 ときどき、その漢字(漢字のことば)のつかい方に、あ、ここは「清潔」だなあと感じるところがある。それが、実は、困る。
 「黄金」の次の部分。

あらゆるものは生長している。覚醒と隔世の問題禍において衰えを
隠蔽しつつ、枝葉を延べ、連鎖につぐ連鎖、そして作用に、姿とし
て生長はあり得る。程には変態する。

 漢字(文字)がないことには、ことばを追いかけることができない部分、「覚醒」「隔世」は、しかし、そこでスピードダウンするのではなく、スピードアップする。漢字によって軽くなる。こういうとき、私は「清潔」を感じる。だからこそ、とまどう。高塚は、なぜこんな漢字(視力)の軽さを、ここで、こうして書いているのか。
 こういう部分がなければ、たぶん、「気持ち悪い」「気持ち悪い」と書くことが、きっと「とてもすばらしい」に「変態」するはずなのに、と思ってしまう。

 「暴走」するなら、どんな方向でもいいけれど、絶対に「暴走」しつづけてほしい、私は、いつでも、そう思っている。誰に対しても。どんな本に対しても。




さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

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クエンティン・タランティーノ監督「イングロリアス・バスターズ」(★★★★)

2009-11-22 19:57:23 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 ブラッド・ピット、メラニー・ロラン、クリストフ・ヴァルツほか

 ヒットラー暗殺計画を描いている。「お話」なのだが、「お話」の「間(ま)」がとてもおもしろい。とても、いい。とても、すばらしい。「間」のとり方が、傑作である。
 「1章」「2章」……と「章」仕立てである。その「章」ごとの区切りが、想像力に余裕(?)を持たせる。どんな映画でも、ストーリーの時間は現実の日常のようにずーっと連続しているわけではなく、重要なシーンだけを断続的につなげているのだが、その断続とつながりを「章」として明確にするので、「章」がかわるたびに「一息」つけるである。「1章」から「2章」にかわる。そのとき、「1章」のことはいったん忘れ(?)、新しい作品に触れるような、新鮮な気持ちになれる。その「新鮮さ」を引き出す工夫としての「間」がいいのである。
 この「間」は、そして映画全体の「間」と静かに響きあう。
 過激なのだけれど、ゆったりしている。ゆったりしているけれど、過激である。ナチスの頭の皮を剥ぐシーンなど、とっても残酷なのだけれど、「章」「章」という区切りが「お話」の印象を強くして、「これは、どうせ、お話」という感じを自然にかもしだす。「お話」だから、何があってもいい。「ウソ」がまじっていてもいい。
 映画は、まあ、現実ではなくウソなんだけれど、いかにほんとうらしく見せるかということに力点が置かれる。この映画は、そうではなく、ほんものに見えるかもしれないけれど、これはあくまでウソ、映画ですよ--といいながら映像をつなげるのである。
 音楽も同じ。現実感をもりあげる音楽ではなく、現実を裏切るような感じで音楽が響く。これはあくまでウソ。効果音。こんなとき、こんな音楽が聞こえるなんてありえない。でも、そのありえないことが、なんというか、想像力が何かにのめりこむのを引き止めてくれる。想像力が駆けださない。暴走しない。そういう「おかしさ」の「間」が、なんともいえずに、すばらしい。
 途中に、ふいに出てくる「登場人物」の「字幕」がまた傑作である。ふつうは台詞で紹介するものなのだが、そういうシーンはなし。省略して、突然スクリーンに矢印で、この人、だれそれ、と字幕があらわれる。ナレーションも一部にあるが、そのナレーションの感じも、「間」を引き立てる。映像で説明する変わりに、ぱっとことばで説明してしまう。映画としては、いわば「反則」なのだが、その「反則」がおかしい。
 もしかしたら、これは、「反則」をみせるための映画なのもしれない。「反則」がどこまで許されるか--それを楽しむ映画なのかもしれない。
 そして、その「反則」にあわせるように……。
 クリストフ・ヴァルツの演技が絶妙である。(ちょっと、ティム・ロスを感じさせる。)「ユダヤ人ハンター」というあだ名をもつ将校だが、優雅で、その優雅であることが残酷という姿が、映画全体とぴったりあっている。「間」のとり方も、映画のすべてのシーンに共通する。「1章」のフランス語から英語、英語からフランス語への切り替えなど、アメリカの何でも英語という映画をからかいながら、その切り替えそのものがストーリーにもからんでくるという不思議な「間」をつくっている。「間」が「ほんとう」をつくりあげている。ストーリーは「お話」だけれど、そこで描かれている人と人のやりとりの「間」はほんものであって、「間」がほんものだから「人」が「人」ではなく「人間」になって動く--そういう瞬間を、きちんと支えている。
 ほんとうは「狂言回し」が役どころなのだが、知らず知らず、主役になってしまっている。あまりに演技がすばらしく、それにあわせてタランティーノが脚本を変えてしまったのではないのか、と思うくらいである。 

 「真実に基づくストーリー」を売り物にする映画があふれるなかにあって、この映画は「真実に基づかないお話」を前面に出すことで、不思議なくらい人間をいきいきとスクリーンによみがえらせている。



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齋藤健一「異風」ほか、有田忠郎「消失点と月」

2009-11-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「異風」ほか、有田忠郎「消失点と月」(「乾河」56、2009年10月01日発行)

 きのう野村喜和夫の『ZOLO』の「勝手にそのように想像し」ということばについて触れた。この「勝手にそのように想像し」というのは、私の好きなことばで言いなおせば「誤読」ということである。誤読する--それが「文学」の楽しさだ。そして、それは生きる楽しさと言い換えてもいいかもしれない。おかしさ、と言い換えることもできると思う。
 たとえば、誰かに「好きです。大好きです」と打ち明ける。すると「迷惑です」と返事がかえって来る。そこであきらめてしまえば「文学」にならないけれど、「あ、これはきっと『好きです』という言い方に問題があったのだ。もっと情熱的なことばで迫らなければいけなかったのだ」と「誤読」して、あれこれことばをひねりはじめ、そのことばを「暴走」させると、そこから「文学」が生まれる。(可能性がある。)また、そこであきらめたとしても、ただ引き下がるのではなく、自分自身の内部へ内部へと引きこもって、ああでもない、こうでもないということを思いながらことばを「暴走」させると、そこからも「文学」ははじまる。(可能性がある。)
 あらゆることを「勝手に想像し」、ことばにしてしまう。「誤読」をことばにしてしまう。そこから「文学」ははじまる。プラトンが「文学」を否定する理由はそこにある。そして、プラトンが間違っている理由もそこにある。
 どこまで「誤読」を暴走させることができるか。「暴走」のなかで、どこまで感情や感覚、精神を自由にすることができるか。その可能性を浮かび上がらせることができるか。そういう追求が、人間には必要なのだ。
 どこまで「誤読」の暴走をことばは追いかけることができるか。あるいは、「誤読」の暴走を追いかけるだけではなく、追い越すことができるか。「誤読」の暴走を、ことばが追い越したとき、それは傑作になるのだと思う。

 野村のことばは「暴走」をていねいに(--というと、変な言い方になってしまうけれど、ともかく忠実に)追いかけている。そういう作品は、ある意味で「わかりやすい」。あ、勝手な想像をして、野村って変な奴、と楽しめばいい。
 そうではない「暴走」というか、逆向きの「勝手な想像」というものも、なかにはある。それが、ちょっと、困る、というか、この困るはもちろん反語で、楽しい--この楽しいもほんとうは反語で、うーん、困る。どうしようか……。
 というのが、たとえば齋藤健一の「異風」である。

一枚の紙片があり。風の方角。古い机や畳や。かがやく
硝子板がしだいに疲れてくる。しかし、午前。熱い手の
平と皮膚。軒先のドクダミ。緑の暗く。肩の病間。鉄製
の寝台だ。垂直。はばたく雀の翼。音は見失われる。静
かであるぼく。

 齋藤の作品では想像力の「暴走」がことばで追いかけられていない。逆に、「暴走」した部分を削除して、句点「。」で隠蔽(?)してしまっている。句点「。」で区切られたことばとことばの間に、どんなことばがあるのか--それを齋藤は書かない。読者に任せてしまう。
 それは深い谷間か。あるいは、とんでもない絶壁か。
 わからない。わからないけれど、その断崖(上から見れば谷間、下から見れば巨大な山)とその手前の短いことば、あるいはその向こうの短いことばが、ここまで来いよ、と誘うのだ。そのことばが存在する地点まで「誤読」をできるかい? 「勝手に想像」できるかい?と挑発するのだ。
 うーん、困る。うーん、うれしい。
 「かがやく硝子板がしだいに疲れてくる。」なんて、なんのことかわからないけれど、わかるんですねえ。矛盾した言い方だけれど、ふと、哀愁に満ちた気分、センチメンタルな感じで、たとえば廃校の(分校の)ガラス窓を見ながら、なつかしいなあ、なんて思ったりした瞬間を思い出し、あ、「疲れる」ってこういうことだなあ--なんて、齋藤が書いていることとは関係なく、自分の「記憶」をひっぱりだしてきてしまう。
 違うのに。そんなことじゃないのに。それが、わかるから、困る。けれど、そんな自分とは関係ないことばであるはずなのに、そのことばからも自分の感情を共振させて、なんとなく、だれか私の気持ちをわかっているひとがいると感じる。ああ、うれしいな。でも、これって、完全なる「誤読」。ああ、困ったなあ。

 齋藤のことばの「暴走」を読みたいのに、私のことばが「暴走」する。

 でも、これはよくよく考えてみれば、すべての「文学」にあてはまることかもしれない。そこにどんな「暴走」が書かれていても、そしてそれが「作者のことば」であっても、最終的にそのことばを追いかけ「暴走」するのは、読者(私)なのだ。
 読者はいつでも作者を放り出して「暴走」する権利を持っている。
 作者には「暴走」する権利はない。ただし、読者を「暴走させる」ことができるという特権を持っている。
 読者は作者を暴走させることができない。けれども、作者は読者を暴走させることができる。

 齋藤は、そして、この「特権」をとても短いことばでやってのける。
 「軒先のドクダミ。緑の暗く。」はドクダミと暗い緑が呼び合ってひとつの風景になるが、そのあとの「肩の病間」って、何? 病魔よりも、空虚で(間ということばが、漠然としたひろがり、むなしさを呼んでいる)、さびしい感じがする。
 どこへ、私は「暴走」できるだろうか。
 病室、冷たい鉄の寝台。--というようなことばから、闘病中の、静かな男を「勝手に想像」するが、その「静かさ」は、「病間」によって、尋常なものでは追い付けなくなる。孤独な男、過去を思い出し(古い机、畳)、耳を澄まし(はばたく雀、その音、失われる音--すべては失われると感じるこころ)……。
 私の「勝手な想像」はそれくらいで、「病間」に追い付けない。「暴走」できない。「病間」が「暴走」を誘っているのに、私は、それを見ているだけである。
 ああ、くやしい。困る。そして、そんなことばがあると知って、なぜかうれしい。

 「手帳」の書き出し。

雪が来る前。バスの停留所。ゴミ箱の底の寒さ。

 「ゴミ箱の底の寒さ。」このしっかりした視線。視線と皮膚感覚の融合。こうしたことばの「緊密な暴走」(俳句の遠心と求心のようなもの)にも、とても刺戟される。
 「宇宙」をときあかす科学の「暴走」の一方で、「素粒子」をときあかす科学の「暴走」がある。「ゴミ箱の底の寒さ。」は素粒子の世界を解きあかす「暴走」のようなものである。そして、素粒子論がそのまま宇宙論につながるように、ここにはやはり、微細な感覚を超えていくものがある。

 有田忠郎の「消失点と月」も、「素粒子論へと暴走することば」のような趣がある。「乾河」同人の全員に、何か、そういうていねいさ、ていねいなことばの「暴走」感覚があるが……。
 「消失点と月」の前半。

通りをあるいていると
ビルに沿って月が
ゆっくり降りてくる
あるくにつれて
月も降りてくるのだ
道路とビル街は真っ直ぐに延び
とおい消失点でまじわる

だが月はそこでは消失しない
ビル街も道も
消えはしない
消失するのはこのわたしだ
空間のゼロ点に入るのは
時間のゼロ点に入ってゆくことだ

 誘われてしまうのだ。「空間のゼロ点」「時間のゼロ点」ということばでしか存在しない「場」、それを描き出してしまうことばの暴走・ことばの暴力に。



有田忠郎詩集 (日本現代詩文庫)
有田 忠郎
土曜美術社

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野村喜和夫『ZOLO』

2009-11-21 00:00:00 | 詩集
野村喜和夫『ZOLO』(思潮社、2009年10月25日)

 野村喜和夫については何度か書いたことがあるので、いつもと違ったことを書いてみたい--と思うけれど、まあ、どんなふうに書いても同じになるかもしれない。
 私は詩集でも小説でも新聞記事でもいいのだが、読んでいて、ふいにつまずくことがある。意識がぴたっととまる。思わず、今読んだ部分を読み返す、ということがある。そして、そこに「思想」が隠れていると感じる。「肉体」が隠れていると感じる。いや、「肉体」の「恥部」が見えたと感じてしまう。
 「恥部」って、ことばそのものがいやらしいけれど、「性器」というよりは「恥部」。ほんとうは隠しておかないといけないのだけれど、隠し忘れた部分。まあ、見せたい人もいるかもしれないけれど、一般的には隠しておくべきもの、(大切な人には見せてもいいもの)、と考えられているもの。--そういうものって、「ちらっ」としか見えなくても、あ、今、見えた--と思うでしょ? そういう感じで、ぴたっと視線が止まる。ねえ、もう一度見せて--という感じで、おずおずと引き返し、ことばを読み返す。
 そういう瞬間。

 いろいろあるのだけれど、たとえば「光の成就」という作品。スペイン・アンダルシアを旅したときのことを書いている。エッセイのようなものだね。バスが葬列に出会い、列の後をゆっくりゆっくり進む。そのときのことを書いている。「生まれたての死者」という魅力的なことばがあって、そのことばゆえに私はこの作品が大好きだが、私が「つまずいた」のは次の部分。

死者はこの村の老婦人のひとりなのだ。この村に生を受け、この村で死んでゆく老婦人。勝手にそのように想像し、だがあろうことか、そんな縁もゆかりもない死者なのに、私とのあいだに、みえない光の波動さながらの微細微妙な交流が生まれつつあった。

 私が感じた「恥部」。それは、たぶん、ほかの人が感じる「恥部」とは違うだろうと思う。
 「生まれたばかりの死者」もそうだけれど、たぶん、多くの人はそういう「特別なことば」(印象的なことば)を「キーワード」と考えると思う。今引用した部分で言えば「光の波動」とか「交流」とか。
 だが、私がつまずくのは、そういうことばではない。「生まれたての死者」「みえない光の波動」「交流」というようなことばには「意味」があって、そういう「意味」は「意味」として「頭」を刺戟するけれど、「恥部」というのではない。
 「恥部」を(論理が矛盾するかもしれないけれど)、「性器」と言い換えてみる。「性器」--それはなくてはならないもの。そして、ひとには見せないもの。
 「生まれたての死者」というのは、まあ、「見せないもの」ではない。野村は何度も同じことばを書いている。それは「見せない」というよりは、むしろ「見せるもの」である。そういうものはたとえ「性器」であっても、「恥部」ではない。「商売道具」である。「みえない光の波動」や「交流」も「商売道具」、別のことばで言えば「流通貨幣」のようなものである。
 では、何が「恥部」か。隠しておくべきものだったのか。

勝手にそのように想像し

 この「勝手に」「想像し」が「恥部」である。そして、野村の「肉体」であり、「思想」である。
 先の文章(引用した部分)から、「勝手にそのように想像し、」という節を削除してみると、私のいいたいことがわかりやすくなる。

死者はこの村の老婦人のひとりなのだ。この村に生を受け、この村で死んでゆく老婦人。だがあろうことか、そんな縁もゆかりもない死者なのに、私とのあいだに、みえない光の波動さながらの微細微妙な交流が生まれつつあった。

 なくても「意味」は通じる。ない方が、「みえない光の波動」「交流」が強烈になるかもしれない。「みえない」ゆえに、よりくっきりと「みえる」という矛盾が強烈につたわってくるかもしれない。(つたわる、と私は確信している。)
 なくてもいいのに、野村は書いてしまった。
 そこには「書いている」という意識さえ、ないと思う。
 「生まれたての死者」「みえない光の波動」「交流」ということばを野村は「意識」して書いているが、「勝手にそのように想像し」は無意識に書いている。それが「思想」だ。「肉体」だ。「無意識」になってしまったことば。「無意識」になるまで「肉体」にしみついたことば。
 読者からすればなくてもいいことば。けれども作者が知らずに書いてしまうことば。通ってしまうことば。それが「思想」。それが「キーワード」。私は、そういうことばにつまずく。そして、そこから詩人の「思想」をもう一度考え直す。見つめなおす。

 別な言い方をしよう。
 この詩集にはいろいろな「物語」が書かれている。そしてそれは、野村が「勝手に(そのように)想像し」たものである。現実には別の「物語」があるかもしれない。けれど、野村はそういう「物語」とは別に、「勝手に(そのように、べつのことがらを)想像し」、ことばを動かしていく。
 たとえば「肉の恍惚」では、アオムシとアオムシコマユバチの「物語」が寄生されたアオムシの声として書かれている。アオムシには声があったとしても、そんなものは日本語ではないから、そこに書かれていることばは、野村が「勝手にそのように想像し」たものである。
 念のために書いておくと、この「物語」を読みながら、私は、へえーっ、そんな昆虫がいるんだ--と思ったが、ほんとうにいるかどうか、私は確かめていません。そんな昆虫がいるかどうかは、問題ではない。この作品を動かしているのは、「事実」ではなく、野村が「勝手にそのように想像し」たことがらだからである。

 さて。

 勝手に想像したことがら、その描写、そのことば--それが詩であるための「必須条件」とは何だろうか。
 どこまでつづけられるか。どこまで勝手に(自由に)ことばを動かしつづけることができるか。
 一回ではだめ。一篇の詩ではだめ。そういう「瞬間芸」では詩にならない。どこまでもどこまでもつづけること。「勝手な想像」の「尺度」を守ったまま持続すること。そして最低、一冊の詩集にすること。そういう「かたまり」になったとき、それは詩集をとおして詩になる。詩があつまって詩集になるのではなく、詩集から詩が生まれる。
 野村は、「詩集」の形にこだわる詩人だが、彼が「詩集」にこだわるのは、詩があつまって詩集になるのではなく、野村の場合、詩集から詩が生み出されるという関係にあることをしっかり自覚しているからだろう。


ZOLO
野村 喜和夫
思潮社

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坂東里美『変奏曲』、森ミキエ『沿線植物』

2009-11-20 00:00:00 | 詩集
坂東里美『変奏曲』(あざみ書房、2009年10月01日発行)
森ミキエ『沿線植物』(七月堂、2009年07月07日発行)

 坂東里美『変奏曲』は「目次」を読むと、なんだか詩を読んでしまったような気分になるタイトルが並んでいる。「粘菌生活」「朗詠問題」「三鱗帽」。すべてがそういう調子ではなく、実は、それはほんの一部なのだが……。
 想像力を「歪めてみる力」と定義したのはバシュラールだったと思う。(私は、想像力の定義では、このバシュラールの定義がいちばん好きだ。)
 バシュラールは、その定義を解説(?)するエピソードとして、地球に春夏秋冬がある理由を質問したら、ある学生が「地球は楕円軌道を回っているからだ」と答えた例を引いている。楕円には長径と短径がある。長径のとき、つまり太陽から遠いときが冬。そして短径のとき、太陽に近いときが夏。もっともらしい。こんなふうに、もっともらしく事実をねじまげて論理(?)にしてしまう力--それが想像力。
 坂東は、こういう「想像力」を「年金生活」の「年金」を「粘菌」に置き換えることについやしている。うーん。「粘菌」をつかわず、「年金生活」そのものを描きながら、読者に、あれっ、これって「年金生活」をしている人のことではなく、もしかしたら「粘菌」が主役のエピソード?と思わせないと、想像力とは呼べないのではないか。
 坂東が「間違った答え」を最初に書いてしまっては、読者は、あれっ、何か変と思う暇がない。変だけれど、信じたいと思わせてくれない。
 バシュラールの例にもどると、あれっ、もし、長径のとき冬、短径のときが夏だとしたら、北半球が冬のとき、南半球が夏なのはなぜ? 成り立たないなあ。でも、「長径のとき冬、短径のときが夏」っていいなあ、わかりやすいなあ。へんだけれど、きっと正しい。宇宙の論理はいつでもシンプルなんだから。--そんなふうに信じ込ませてくれてこそ「想像力」だと思う。

 「落脳日和」の「落脳」は何の置き換えなのか私にはわからない。私は「酪農」くらいしか思いつかない。で、何の置き換えでもないと信じて読むのだが、この作品は、安直な(?)置き換えがないので、ちょっとおもしろい。「事実」を歪めてことばを動かす楽しさがある。

脳が落ちていた
微かに紅い灰白色の まるで頭上の桜の色を
映した かのような それは 卵ほどの 大
きさで こんなにも ぼんやりと 長い間
土手に座っていたのに 今になって気づいた
どこから いつ こぼれ落ちたのか すでに
からからに干からびていて 手のひらに乗せ
ると 思いのほか軽い 私の脳に違いなかっ
た 試みに 頭を指ではじくと ぐぼん と
空虚な音がする

 手のひらに乗せ、重さを測る。頭を指ではじく。まるで西瓜の味を調べるように。そういう「肉体」の動きが、想像力の「歪み」を、実際に存在するものとして定着させる。「肉体」は想像力の定着液なのである。「肉体」で、ことばを追いかけると、それは「事実」になる。そして、読者を引き込む。
 こういうことばの運動をもっと書いていけば楽しいのに、と思った。



 森ミキエ『沿線植物』。森の「想像力」は坂東の想像力のように「文字」に頼ることはない。
 「るすばん」の書き出し。

スリッパがのびる
スリッパが縮む

 スリッパは、伸び縮みしない素材でつくられているから、実際にのびたり縮んだりはしない。ここに書かれている「のび・縮み」は実際の生活のなかで「流通」していることばとは違っている。そして、違っていることを承知で森はことばを動かしつづける。
 そこから「想像力」は動きはじめる。
 2連目は、

交差点で信号をまっている
風が強い
向かいには歯科医院があって
(そこはかつてコンビニエンス・ストアだったから)
ガラスの壁には曇りのシートが貼られている
めくれば 通りに面して並ぶ治療台が見えるはず

 「見えないもの」を、存在を隠しているものをめくって見る。物理的にではなく、ことばの力で。そして、見える「はず」と断定する。
 森のことばは、そのあと、どんどん移動していってしまう。移動しながら、なんとかスリッパにもどろうとする。その過程に、森の「肉体」が出てくる。具体的にいうと、歯科医院で治療を受けたときの器具(機械)とか、それに通じるスプーン、お菓子の味とか、診察台の上で動けないときの感じとか……。
 そして、診察台のシートの上で、唯一(?)動かせる足を動かしている。そうすると、スリッパが動く。のびたり、縮んだり。つまり、足先が遠くにのびたり、手前に近づいて、目と先端との距離が縮んだり……という具合。
 何でもないことなのかもしれないけれど、ここでは「肉体」がきちんと「事実」を定着させている。「想像力」と「現実」をつなぎとめて定着させている。
 だから。(だから、というのは、ほんとうは正しい接続詞のつかいかたではないのだが。)歯医者について書いた次の1行。

安心する場所なのにこわばっている

 これが、とても愉快だ。とてもうれしい。
 歯医者というのはちゃんと歯を治療し、健康になり、そうすることで歯の悩みが消え、「安心する」ための場所なのだが、意識ではわかっていても、「肉体」は治療のときの記憶、これからはじまることを予想して(想像力で歪めて)、「こわばっている」。「意識」と「肉体」の齟齬(?)にまで踏み込んで、ことばにしてしまっている。
 あ、いいなあ。
 ことばは、このとき、いったい「意識」の味方? 「肉体」の味方? わからないですねえ。ことばは、「意識」も「肉体」も無視して、自律的に動いてしまうのかもしれない。
 この自律的な動きに、私は、実は詩があると感じている。
 作者を(詩人を)、その「想像力」も「肉体」も裏切って、自分の力で動けるところへ動いていってしまうことば。そこに「自由」を感じる。
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沢田敏子『ねいろがひびく』

2009-11-19 00:00:00 | 詩集
沢田敏子『ねいろがひびく』(砂子屋書房、2009年10月15日発行)

 沢田は「ことば」をとおして(ことばをつかって)考える。ことばなしでは、誰も考えることはできないが、そう意識している人間は少ないかもしれない。沢田は、その少ない人間のひとりである。
 「わたしはいま<それ>を思い出そうとしていることろ」という1行ではじまる「It」という作品。そのなかほど。

だから<それ>は
左側であり 右側であり
手袋であり
半身であり 全身であり
ことばでもありこころでもある<それ>だった

 <それ>は明確には語られない。「ことば」にならない。そのことばにならないものさえも、沢田は<それ>ということばにして語る。そして、<それ>は「ことば」であり、「こころ」であるとも言う。
 ここには、あることがらを同じことばで繰り返すしかないことがある、ということが書かれている。同義反復。それしか、方法がない。それでも、そうする。つまり、ことばをつかって語る。それは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。ここをとおって、すべてのものは生まれてくる。
 <それ>と呼ぶとき、<それ>がはじめて、そこにあらわれ、そして動いていく。

 「窓」の書き出し。

窓 と呼ぶときに
その窓はあった
田の字をふたつ並べたような
その窓からは 朝焼けや稲妻がよく見えた

 「窓」と呼ばなくても、窓自体は存在するだろう。それは「物理」の世界の問題である。けれど、精神の世界、「こころ」の世界では、そうではない。「窓」と呼ぶとき、「窓」が存在する。そして、その「窓」は、どんな窓でもいいのではない。そこには「こころ」「精神」が刻印されているのだ。
 「その窓」と沢田は書いているが、この「その窓」の「その」は、英語で言う「定冠詞(the )」の「その」である。不特定多数の窓のなかのひとつではなく、沢田の「こころ」「意識」にそまった「窓」である。
 そういうもの--「こころ」「精神」に深く刻み込まれている存在を、沢田は、ことばで追いかけている。「こころ」「精神」にどのように刻印されているかを、ことばで追いかけていく。そのとき、沢田の「ことば」は単なる「ことば」(不特定多数のことば)ではなく、詩になる。
 だから、沢田は、ことばをていねいにあつかう。ていねいに、その動きを追い、その音を追い、そしてそのなかにある「こころ」「意識」「精神」に触れようとするのだ。

 「鏡のかけら」には「ことば」に関する美しいエピソードが語られている。

祖母にはへんな癖があった
すなわち お菓子のことを
<おかし>ではなく<おくわし>と律儀に言うのだ
<おくわし>と書いて<おかし>と読むのとは逆に

芋は いも 柿は かき
餅は もち 炒豆は まめ
と呼び習わした先で不意に 食べたこともなかった
<おくわし>に出くわしたのだったろう
自らは口にすることもなく
傍らに坐るものらに与えるとき
<おくわし>は言葉ではなく
まじないだった 滋養だった

  (谷内注・<おくわし>の「わ」は本文は小さく書かれている。)

 自分でけっして味わうこともないもの。それにさえも人は「ことば」をあたえる。「ことば」をつかって呼ぶ。そのとき、そこには「間違い」がまじる。<おくわし>と書いて<おかし>と読むのとは逆に、<おかし>を<おくわし>と読むような。そして、その「間違い」のなかにこそ、そのことばをつかう人の、「肉体」「思想」がある。自分では食べないけれど、まわりにいる人(こどもたち)に食べさせたいという願いが、その「間違い」のなかに静かに、けれどとても強い力で存在している。
 それはたしかに「まじない」のようなものかもしれない。「まじない」のなかに生きているのは、正しいことば(?)にはなり得ない願いなのだ。科学や何かのように、正しくはない。けれど、その「正しくない」ものの方が、より正しく「こころ」「精神」を守っているということがあるのだ。
 沢田がことばをていねいに取り扱うのは、ことばにそういう科学では証明できない(説明できない)正しさがあると知っているからだ。その正しさを、沢田は、きちんと育てたいのだ。
 そのために、ことばに耳をすます。ことばのなかにある、「音」「色」「ね・いろ」にも耳をすまし、耳で聞いて、目で見る。「ことば」を動かすのは「頭」かもしれないが、それを実際に「肉耳」「肉眼」で確かめて、しっかりと動かす。「ことば」をそうやって「肉体」にする--沢田はそういうことを詩のなかでやっている。

 読んでいて、とても安心感を覚えるのは、そこに「肉体」があるからだ。沢田の思想は、つまり「ことば」が「肉体」になっているからだと確信した。
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和合亮一『黄金少年 ゴールデン・ボーイ』

2009-11-18 00:00:00 | 詩集
和合亮一『黄金少年 ゴールデン・ボーイ』(思潮社、2009年10月25日発行)

 「大問一 次の詩を読んで次の問いに答えなさい」という作品にある次の部分。

問二 傍線部②「私たちから全ての絶望を奪う」について、どうして絶望は奪われるのでしょうか。
 
 ア 生と死の境目において絶望もまた死ぬから、あるいは詩人が、筆の勢いで書いただけだから。
 イ 生と死の境目において絶望もまた死なないから、または詩人が筆の勢いで書いただけだから。
 ウ 生と生の境目において絶望もまた死なないから、または詩人が筆の勢いで書いただけだから。
 エ 死と死の境目において絶望もまた死ぬから、あるいは詩人が、筆の勢いで書いただけだから。

 この部分には、いくつも奇妙なところがある。まず、「傍線部②」というものが、先行する部分にない。つまり、この「問い」は問いとして成立していない。次に、ア、イ、ウ、エと選択肢が4つあるが、「問二」にはいずれかを選べとは書いていない。つまり、ここでは「問い」は成立していない。
 この「問い」の不成立は、あらゆるところに存在する。「思うところを述べなくても良い。」「五十字以内で六十字書きなさい。」など。
 和合にとっては、この「不成立」--論理の「不成立」こそが「詩」なのである。論理がなくてもことばは動く。ただ動くだけではなく、その動きが読者を刺戟する。(もちろん、書いている本人をも刺戟する。)その刺戟--刺戟を感じることが詩なのである。
 ことばが論理をもってしまうと、「刺戟」は論理のなかにのみこまれて、論理になってしまう。その瞬間に詩は存在しなくなる。

筆の勢いで書いただけだから。

 と、何度も同じことばが繰り返されるが、そこに書かれている「勢い」--それこそが詩である。「筆の勢い」は書き手の言い分。読み手からすれば、それは「ことばの勢い」ということになるだろう。
 --と、書いたことのなかに、実は、とても大きな矛盾がある。矛盾という言い方が変なら、和合がほんとうに乗り越えなければならない大問題がある。
 ひとは、大切だと思っていること(重要だと思っていること)を、どうしても繰り返して書いてしまう。繰り返すと、その繰り返しのなかに、「論理」が生まれてきてしまう。「論理」つもりはなくても、そこに他人(読者)はなんらかの「意味」を感じてしまう。あ、和合は、何かを言おうとしていると感じてしまう。
 だが、和合の詩は、何かを言おうとしている、ことばに論理があると感じさせることの「否定」をめざしている。論理、意味の不成立をめざしている。(破壊、というより、不成立なのだと、私は感じている。)
 だから、もし、ことばに論理や意味が生まれそうになると、次々にそれを否定していかなければならない。
 この詩は「大問一」というタイトルの後、「問一」「問二」……とつづいていくが、それは「問」(小問)そのものが論理、意味をもつことを否定するためである。そして、その小問は「九」までいったあと、「一〇」にはならず「問」そのものになる。
 この「一〇」を欠くということのなかに、たとえば、「問」が純粋な問そのものに昇華したなんていう「論理」を組み込むこともできるが、そういう論理を誘うことが、とんでもなく大問題なのだ。

 ことばは和合を裏切るのだ。

 そこまで和合が諒解しているかどうか、私は和合の熱心なファンではないのでよくわからないが、この、ことばの裏切りをどう超えていくか--と考えれば,そこにどうしても論理や意味が入ってくるという矛盾がまた生まれる。 

 しようがない。「筆の勢い」で書きつづけるしかない。それはそれで、いさぎのいいことだと思う。

 ちょっと、別な言い方をしてみると……。
 詩集のなかでは、私は冒頭の「黄河が来た」がいちばん好きだ。この作品については、いぜん感想を書いた気がするが、また書いておこう。(以前書いたこととそっくり同じかもしれないし、まったく違うことを書くかもしれない。--私は、そのときそのときで、感想が変わってしまうことを気にしていない。感想などというものは、そのときそのときで変わるに決まっている。)

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れてきた 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た
こうなると茶の間に
僕は寝ころぶしかない
このままでは当然ながら我が家は洪水
どうしたら良いものか
黄色い土は砂を噛むしかない

 「来た」と「主語」を欠いたままはじまる運動。ここに「勢い」がある。「勢い」がまずやってくる。そして、その「勢い」にふさわしいもの、耐えられるものが「主語」として選ばれる。「黄河」。この、逆転の運動--まず主語があって、次に動詞が来るのではなく、動詞が先に存在し、それから主語を選ぶということどはの運動--それが、和合の「勢い」の詩の特徴である。
 そして、そのあとに、もっと和合らしい特徴があらわれる。和合が乗り越えなければならない問題が、和合の内部から噴出してくる。
 「こうなると」「このままでは」。
 論理を超越すべきはずのことばが、論理の運動を展開する。「こうなると……になる」「このままでは……になる」。そこには運動の必然が「形」となってあらわれてきてしまう。
 「どうしたら良いものか」と自問してみても、それは「……するべきだ」あるいは「……するしかない」ということばの論理を、「肉体」から滲み出させてしまう。

 そのことを、私は、けれど悪いことだとは思わない。ひとは、どんなにあがいてみても自分の「肉体」からはのがれられない。
 和合はたしか教師を仕事としていたと思うが、和合の「論理好き」は、教師の職業病(?)のようなものである。人に何かを教えるとなれば、どうしても「論理」的に教えるしかない。非論理的に何かをつたえようとすれば、そしてそのことを「共有」させようとすれば、必ず「非論理的」という批判が返ってきてしまう。

 教師が詩を書くというのは矛盾しているのである。(こういうい意味で、プラトンは絶対的に正しい。詩を否定せずに、「師」であることは矛盾を生きることである。)
 でも、和合は、詩を書きたい。書いていることばを詩にしたい。
 だから、「勢い」で書く。書きつづけるしかない。
 こういうとき、どれだけ「長く」書きつづけられるかが、また問題になるのかもしれないけれど、私は、長い作品よりも「黄河が来た」くらいの短い作品の方が「勢い」を「勢い」のまま感じ取ることができて好きだ。
 1連目には「こうなると」「このままでは」というような、論理のうるささがあったが、最後はふっきれている。そして、そのふっきれた瞬間、論理的には「来る」はずものない「黄河」があらわれる。
 歌のように。

本日の黄河も絶好調だ
三人家族で漂流する幸福が来た
皮膚が変わる午後が来た
また生まれる角質が来た
お父さん 来た
お母さん 来た
来た
ぼくの足の裏にも
黄色が来た

 1連目に「僕」と書いていて、最終連では「ぼく」と書く。荒川洋治なら「統一しなさい」と叱るかもしれないが、私は、こういう変化、勢いにのって、前に書いたことを忘れてしまうというのは大好きだなあ。
 あ、ほんとうに勢いだけで書いている、偉い!と感じるのだ。かっいいじゃないか、と思うのだ。

黄金少年ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
思潮社

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北川朱美『電話ボックスに降る雨』

2009-11-17 00:00:00 | 詩集
北川朱美『電話ボックスに降る雨』(思潮社、2009年09月17日発行)

 北川朱美の詩には他人が出てくる。「他人のことば」と言い換えた方がいいかもしれない。「舌あそび」その後半。

置き去りにされたアフリカの雲
みたいな帽子をかぶって
動物園に出かけたら

固形飼料を食べたばかりのキリンが
長い舌をだらりと垂らして
右へ左へ振りつづけていた

--遠い日に
  舌で木の葉をからめ取った記憶が
  消えないのです

誰も知らないキリンのあそび

帰りに路上で描いてもらった似顔絵は
すこし笑っていた
友だちみたいだったから

その日ついたウソを一つ広げて
ひと晩じゅう舌を揺らした

 キリンの不思議な行動。それを説明する「他人」のことば。そのことばに北川は揺さぶられ、それまでの北川ではなくなってしまう。ここに北川の「思想」がある。「肉体」がある。
 他人に出会う。他人のことばに出会う。そのとき、他人を拒絶するのではない。他人のことばを否定するのではない。全身で受け入れる。肉体で受け止める。他人のことばが教えてくれるもの、「自分の肉体」にないもの--正確にいうと、「自分の肉体」にもあるのだけれど、気がつかなかったもの、意識しなかったものを、ていねいに見つめなおす。他人のことばをとおして他人を知るのではない。他人のことばをとおして、自分自身の肉体のなかに生きている「他人」を発見し、その肉体を生きてみる。その肉体がどんなふうに動いていくのか、その動きをていねいにたどり直してみる。

 この、他人のことばを受け入れ、それを北川自身の肉体で受け止め、そのことばにしたがって肉体を動かしてみる。そして、そのとき動いた肉体を自分自身の「思想」として育ててゆく--この姿勢は、北川が書いている「批評」そのもののあり方でもある。
 きょうの「日記」は「批評」についての感想ではないで、もう一篇、北川の詩を引用する。そこに「他人」(他人のことば)とは何かについて語った美しい表現がある。
 「縁台の人」のなかほど。

すこし熱があって学校を休んだ日
ふとんのなかから
しゅろのほうきで掃き散らしたような
雲を見ていたら

とつぜん庭に鳥が堕ちてきて
はじめて鳥にも重さがあることを知った

遠いものに気をとられるうちに
何かに遅刻する

それは私にとって
希望のようなものだった

 幾通りもの読み方ができるかもしれないが、私は、「鳥」を「他人」と読んだ。その墜落を「鳥のことば」と読んだ。
 鳥に重さがある。その発見は、また、北川自身の肉体にも重さがあることの発見でもある。北川も「堕ちて」ゆくことがあるのだ。それを教えてくれる鳥。教えてくれた鳥。
 「遅刻する」とは、ほんらい、自分自身の肉体のなかにあるはずのものを見落としていて、気づくのに遅れる、というくらいの意味だろう。自分自身の肉体ではなく、自分自身の肉体の外にあるもの、遠くにあるもの、そういうものに気をとられていると、自分自身の肉体のなかにあるもの、自分自身の肉体のなかでうごめいているいのちに気がつかないことがある。
 高尚な?西欧の哲学のことばなんかを気にして追いかけていると、自分の「頭」が知らないものに気を取られて、そのことばなんかを追いかけていると、自分の肉体のなかにあることばにならないことば、未生のことばに気がつかないことがある。
 その気がつかずにきた何か、ことばにならない肉体のなかのいのち--それは「希望」である。それは「他人」が教えてくれる。「他人」が北川の「肉体」にも、そのいのちがあることを教えてくれる。
 「他人のことば」と北川の「肉体」との出会い。その瞬間を北川は「希望」と読んでいる。
 こんな美しい「希望」に出会ったのは久しぶりだ。

 もう少し補足。「麦わら帽子の穴」の書き出し。

生きるとは
見たことのある光景に
息をのんで出くわすことだ

 「見たことのある光景」。これを「他人」と言い換えてみることもできる。「他人」はいつでもはじめての人ではなく「見たことのある人」なのだ。どこで、見たのか。自分自身の「肉体」のなかで見たことがある。それは「見たことがある」だけであって、ことばにしたことはない。ことばにはならなかった。「未生のことば」のまま、意識されずにすーっと通りすぎて隠れてしまった。それを再び発見する。その瞬間。北川は「息をのんで」立ちすくむ。それから、ふーっと息をはいて、そのはいた息のなかに、ことばをのせる。「他人」が教えてくれた北川の「肉体」に眠っている「北川という他人」(新しい他人)をことばにする。
 そして生まれ変わる。生きるとは、生まれ変わることだ。

 他人に出会い、その一期一会の瞬間を大切にして、自分の「肉体」を開き、新しく生まれ変わる--その誕生、再生、それが「希望」のすべてである。

 (9月下旬、網膜剥離で手術、入院していて、いまごろになってやっと読んだ。「現代詩手帖」の今年の収穫のアンケートには、そういう事情もあって書き漏らしたが、これはとてもいい詩集だ。)

電話ボックスに降る雨
北川 朱美
思潮社

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篠原資明『空うみのあいだ』

2009-11-16 00:00:00 | 詩集
篠原資明『空うみのあいだ』(思潮社、2009年10月25日発行)

 引用しにくい詩である。5・5・5の音節の1行はページの上からはじまり、たの行はページの下に寄せられている。5・5・5の行が滝で、下の方の行は滝壺、宙に浮いているのは飛沫ということになるのだろうか。構成は、とても図形的だ。けれど、それに反して(?)、ことばは「音」と「意味」がたがいをはぐらかしている。意味が「脱臼」し、「音」が一瞬、自由になる。あるいは、音が「脱臼」し、「意味」が自由になるのか。
 まあ、それこそ、読者次第ということになるのだろう。
 私は、こういう作品が苦手だ。「音」を別の「意味」に置き換える、「意味」を別の「意味」の「音」として置き換える、ということがとても苦手だ。学校時代、歴史の年号を覚えたり、数学のルートの数字を覚えたりするのに、それに似たことをやるひとがいた。私は、なぜ、ひとつのことを覚えるのにふたつのことを覚えなければいけないのか、その非合理性が納得できず、それが理由で歴史が大嫌いになったくらいである。(数学は、そういうものを覚える必然性を感じなかった。)だいたい、ものを覚えるということが嫌いなので、覚えるために何かをするということが、どうにも納得できないのである。

 「オウィディウスに」という作品。

嵐より、詩のおちて、ことば散る
             あら                    詩

 「嵐」が「あら」「詩」にわかれる。その「驚き」というものが、私にはぴんとこないのである。
 私は、たぶん、分解された音よりも、音の中に別の音が紛れ込んでくるときに、音楽を感じるのだ。音が分解されても音楽を感じない。音が分解されて、そこに別の音がある、と指摘されても、なんとも感じない。
 意味の場合も同じで、意味が分解されても何も感じない。意味に、別の意味が殴り込んできて、もとの意味をのっとる、融合して、いままでとは違った意味が世界を動かしはじめる、という瞬間が好きなのだ。
 すぐに思い出せる例は少ないのだが、たとえば音楽なら

雨のピアノが奏でるチヤバイビコボフブスブキイビの黒い無言歌 (那珂太郎「アメリイの雨」)
 
 雨の、しかも濁音のバシャバシャという雨音と、チャイコフスキーが出会い、豊かな音楽がはじまる。音楽というと、たとえば透明な音楽というような「耳ざわり」のいい旋律などを想像してしまうが(特に、ピアノ、となれば華麗な旋律の疾走を想像してしまうが)、那珂太郎は、濁音の豊かさ、その響きの楽しさを引き込み、それにさらに「黒い無言歌」という重力を加えている。あ、こういう音楽があるのか、と衝撃と笑いがあふれる。もし、那珂太郎の1行が、最初に、「チヤバイビコボフブスブキイビ」という音があり、それがチャイコフスキーとバシャバシャという雨音に分解されたのなら、私はそんなには興奮しない。混じり合って、融合するとき、楽しみが生まれる。
 ことばというのは、どこかセックスに似たところがある。別々のものが出会い、交じり合い、いままで知らなかった何かになる--それが楽しい。ひとつのものを分解していったら、実は別々なものでした--というのは、なんだか、「わかれ」のようで、音楽としてはさびしい。

 いや、篠原は、ことばの分解ではなく、ことばのなかに「音」の出会い、衝突を見ているのだ。ことばのなかで、どんなものが出会いうるか、それを探している。耳をすまして、音と意味を引き合わせているのだ。
 そんなふうに、読むべきなのかもしれない。
 「プラトンの教え」。プラトン、プランクトン、イグアノドン、プルードン、ブルトン、オートマトン、ハイドン、パイドンと音が変遷する。その最後の方。

               それではとハイドンは稽古に告別の曲を書いた
               それでもパイドンは師の稽古を続けたのだった

哲学の、滝涸れて、アカデミア

               π                  どん

 「イグアノドン」が出てくるのは楽しいけれど、「π」はどこから? 「アカデミア」から? なんだか「意味」に汚染されているなあ、と感じてしまう。「音楽」とは違うなあ、と感じてしまう。知らなかった「意味」と「音」が出会っている。そこに、新しい「音楽」がある--とは、私の「耳」は感じてはくれない。
 「耳」が音を受け入れて楽しむ前に、「π」は「パイ」と読む--という、ぎょっとするような「頭」の動きがある。「頭」が「音」と「意味」を出会わせている、と感じてしまう。
 「肉体」になれないのだ。

雨のピアノが奏でるチヤバイビコボフブスブキイビの黒い無言歌

 では、カタカナ難読症の私でさえ、わっ、声に出して読んでみたいという衝動にかられるくらい、音が耳に飛び込んでくる。目に文字が飛び込んでくると同時に、音が耳の中で鳴り響き、私の声帯を、喉を、口蓋を、舌を、歯を、唇を刺戟する。肉体が一斉に動き、その動きのなかに、いままで私が知らなかった何か(黒いもの? 黒のあざやかさ? ピアノの黒鍵と白鍵の交錯する動き)が輝くのだ。

 「母音はいし、色彩の、ひびきたつ」という「滝」ではじまる「ランボーとウンガレッティ」の最後は、次の2行。

                        茫然自失した言葉が残った
              乱                   ぼう

 「ランボー」と「乱」「ぼう」では、私の肉体は騒いではくれない。それまでのことばの破壊者、詩の破壊者、「乱暴者」としてのランボーは「乱」「ぼう」(茫然の「ぼう」)では、なんだか弱々しい。乱暴のことばの特権的肉体に触れた感じがしない。
 「睡蓮へ、沈む日も、燃える絵も」という「滝」をもつ「ヴェネツィアにて」には、モネ(睡蓮の画家ですね、言わずもがなのことだけれど)が登場するが、その最後。

                               お日さまの
              喪                    ね

 うーん、「モネ」が「喪」と「ね」に分解されても、そして、そこに出会いがあると言われても……。モネの色合いは、私の好みではなく、そこに一種の「喪失」を感じるは感じるのだけれど。

 きっと、音、音楽に触れているように見えるけれど、ほんとうは、耳ではなく、篠原の詩には「目」が働いているのだろうなあ。耳はどうでもよくて、目で文字を認識すること、目で意味を理解することが基本になっているのだろうなあ。(モネの「喪 ね」にも、モネの絵を見たときの、視覚の印象がしのびこんでくるからさねえ。)
 「π どん」「乱 ぼう」「喪 ね」。これらのことばは、朗読では何も伝えることができない。篠原が書いていることを聴衆につたえることはできない。私は詩を朗読しない。声に出して読むことはない。いつも黙読である。けれども、そういうとき、黙読するときでも、耳は動いているし、喉も舌も動いている。そういう自然な(無意識な?)耳や喉の動きが、篠原の作品では、私は否定されているように感じる。耳と喉を封印して、まず目でことばを読む--そのことが求められているように感じる。
 これが、わたしにはつらい。

 私は、文字を読む。
 けれど、ことばは、まず耳が基本だと感じている。耳と発声器官を楽しくさせてくれるのがことばだと感じている。言ってみたい。真似してみたい。そう感じるのは、「目」ではなく、耳であり、喉であり、唇であり、舌なのだ。

 視力の強いひと向きの詩である。詩集であると思った。

空うみのあいだ
篠原 資明
思潮社

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文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(2)

2009-11-15 00:00:00 | 詩集
文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(2)(思潮社、2009年10月25日発行)

 「なる」ということばが何度か出てくる。「私は、なる」というタイトルの詩もある。

「誰かが、私は私だと決めつけるの」
彼女の瞳から目を離すことができない。もう一つのピアノがその瞳の中に立ち
上がる。発想記号を脱ぎすて、放課後に乱立していく。
「私は私じゃないかもしれないのに、どうして」

 引用部分の2か所の「私は私」には傍点がある。(引用では省略した。表記の方法を知らないので。)
 いま、ここにいる「私」。それをだれもが「私」というけれど、私は、その限定された「私」ではない存在を「私」のなかに感じている。その「私」を「私」はなんとか、目に見える(?)ものにしたいと感じている。「私」は、だれもが「私」と認めている(断定している?)「私」を超えて、「私」自身が感じている「私」に「なりたい」。
 それは、たとえていえば、「水になりたい!」と叫んだときの「水」に仮託された何かである。このときの「なりたい」(なる)は、きのう日記に書いたことばをつかって言いなおせば「むり」「背伸び」である。「私」は「水」そのものではない。だから「水」にはなれない。「水」そのものにはなれない。けれど、「水」ということばをつかうとき、感情の中で、精神の中で動いている何か--それをはっきりとさせることはできる。感情・精神のなかで「水」になる。そういう「なり方」というものがある。そういう自己超越の仕方というものがある。文月のことばは、そういう「なり方」の軌跡を清潔に描いている。この清潔さの中に、その透明な「息」のなかに、口臭のない「呼吸」のなかに、私は、彼女の特質を感じている。
 そして、常に、「むり」「背伸び」をして、「私」であることを超えながら、「私は、私になる」ということを繰り返す。そうすることが、「私が私である」ということなのだと感じている。
 「なる」ことと「あること」。生成と存在。その「つなぎめ」を文月は探している。

 この、「なる」と「ある」は、日本語では別のことばのようであるけれど、英語ではひとつのことばで言い表されることがある。ハムレットの、

to be, or not to be

 生きるべきか、死すべきか。為すべきか、為さざるべきか、成るべきか、成らざるべきか。
 「なす」と「生す」とも書くから、「生すべきか、生さざるべきか」から、「生きるべきか、死すべきか」ということばが発生してくる。「生きる」とは「生す」をつづけ、何かに「成る」こと、何かを「生む」こと、「生まれかわること」でもある。
文月は、そうした「哲学」のもとに、ことばを統一している。制御している。その力が、文月のことばを強いものにしている。

 「なる」ということばに関して言えば、いま感想を書いた「私は、なる」に、その「思想・哲学」が直接的に刻印されている。ちょっと、刻印の仕方が「なまなましい」。生硬な感じがしないでもない。
 「私は、なる」に生硬さを感じたせいかもしれないが、反動のようにして、「下校」に出てくる「なる」に私は、こころが震えた。美しいと感じた。「私は、なる」よりも、ふと書かれた「なる」に、文月特有の透明さ、オードリー・ヘップバーンを見たときに感じる透明な美しさ、どこにも存在しない「少年」の美しさを感じた。そして、オードリーを超える、文月だけの美しさを見たと思った。

ふたばは、濃い緑に成らば成らねと開きはじめる。その二枚の葉の間から、黒
いものが垣間見えた。それは、小さなつむじ頭のようだ。私は瞬時に鞄を投げ
捨て、駆け出した。

 「成らば成らねと開きはじめる」は「成らねば成らぬ」の誤植だろうと思って読んだ。(再販のときは、直してくださいね。)「成らぬ」はほんらい「ならぬ」と書くのが学校文法だとも思うのだが、思わず「成らぬ」と書いてしまうのは、「なる」ということに対する強い思い入れがあるからだろう。
 それはさておき。

 ふと、通学路で見た双葉。その葉っぱに「濃い緑にならねばならぬ」(あえて、ひらがなに書き直しておく)という「意欲」(こころの動き)を感じ取る。そして、そのこころの動きの間から(文月は、正確には「二枚の葉の間から」と書いているが)、「黒いもの」を垣間見ている。
 「黒いもの」。何?

 小さなつむじ頭のようだ

 そのとき見えたものを「頭」と感じ取る力。そして、その「頭」を拒絶するように、駆け出す文月。
 ここに、美しい美しい美しい(何度重ねても足りないくらいの)美しさがある。

 双葉に、「濃い緑にならねばならぬと開きはじめる」動きを感じ、それと共鳴するまではオードリーの美しさ。「むり」「背伸び」のなかにある強い生命力の美しさ。純粋な美しさ。
 そして、そういう「むり」「背伸び」というものは、精神・こころだけではなく、「頭」でも、実は可能である。けれど、「むり」「背伸び」に「頭」が入ってきたら(頭で意識して「むり」「背伸び」をしたら)、それは「透明」ではなく、「黒」になる。
 この直感。
 「頭」を「透明」ではなく、「黒」と感じ、「瞬時に鞄を投げ捨て、駆け出した。」その肉体の反応。これがオードリーを超越する部分だ。文月の特権的な美しさだ。
 「鞄」は「頭」の別称。鞄につまっている「本」(教科書)は「頭」の別称。そして、「投げ出す」は拒絶のひとつの形。「駆け出した」は、単に拒絶するだけではなく、それから遠ざかる強い意志のあらわれ--そんなふうに読むと、既成のものを捨て去って、自分の「肉体」だけを信じて、「私」に「なろう」、「私」で「ありつづけよう」とする文月が見えてくる。

 「なる」ことは、「いま」への異議申し立て。「いま」の「ある」への拒絶。しかし、その拒絶の方法として「頭」(いま、ここに確立されている方法--教科書)はつかわない。それを拒絶して「投げ出す」という「肉体」、「いま」「ある」ものから「駆け出す」という「肉体」、そのとき、その「肉体」を駆け抜けているのは、「透明」な「息」、みずみずしい(水水しい、と思わず書きたくなってしまう)「呼吸」なのだ。
 その、輝きを感じた。



適切な世界の適切ならざる私
文月 悠光
思潮社

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文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』

2009-11-14 00:00:00 | 詩集
文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社、2009年10月25日発行)

 とても新鮮な「息」を感じた。「呼吸」を感じた。詩集の冒頭の「落花水」の中に「息」「呼吸」ということばが出てくるが、その影響かもしれない。

透明なストローを通して美術室に響く
“スー、スー”という私の呼吸音。
語りかけても返事がないのなら
こうして息で呼びかけてみよう。

 美術の時間(?)、画用紙に絵の具を溶かした水をたらし、それを息で吹きかけて模様をつくる。そういうときの様子を描いているのだと思う。
 そうした「現実」のなかから何を選びとるか。何をことばとして書き留めるか。文月は「呼吸」「息」を選んでいる。そして、その呼吸、息は、「口臭」をもっていない。透明である。だからこそ「透明な」ストローを通る。「美術室」という特別な教室も、「透明」である。自分の部屋ではなく、教室。美術のための教室。そこは、「現実」でありながら、少し「現実」から離れている。「美術室」には、文月の「体臭」「体温」「生活」にそまったものがない。共有の場。そこで、文月は文月自身がもっている「肉体」のほとんどを捨てる。「日常」の「肉体」とはちがった「肉体」になる。「透明」な肉体。その「透明」な肉体から吐き出される「息」「呼吸」は、したがって「透明」でしかありえない。それは「必然」なのだが、その「必然」がとても「自然」に感じられる。

 そして、この「透明さ」は、私には、なつかしいなつかしいオードリー・ヘップバーンを思い出させる。ほんもの・ヘップバーン、いや、キャサリン・ヘップバーンがきちんと「不透明」な「女性」であったのに対して、オードリーは「透明」な輝き、不透明さを超越した「少年」であった。
 文月のことばは、その、オードリーの姿を連想させる。「少女」を脱いで「女性」になるのではなく、「少女」を脱いだら、「性」が消えて「少年」になる。

(彩る意味を見いだせないこのからだ。
「お前に色なんて似合わない」
そう告げている教室のドアを“わかってる”と引き裂いて、焼けつくような紅
を求めた。古いパレットを、確かめるように開いてみるけれど、何度見てもそ
こには私しかいない。それは、雨の中でひっそりと服を脱ぐ少年の藍)

 「少年の藍」。そこに出てくる「少年」。これは「男の子」ではない。「男子中学生」ではない。「性」という「肉体」をもたない「透明」な存在なのだ。
 この「透明」は絵の具を溶かしている「水」そのものの「透明」でもある。

色に奪われた私の息吹が
画用紙の上で生き返る。
水になって吹きのびていく。

 「水になって」の「なって」がすばらしい。「透明」な「息」「呼吸」は絵の具にそまった水であることを拒否して「水」になる。どんな絵の具をも溶かしてしまう「水」そのものになる。絵の具にそまった水溶液を「水」、「透明」そのものに「する」ために、文月は息を、呼吸をストローで吹き込む。
 「する」と「なる」が文月の「息」「呼吸」によってひとつに融合する。そのなかでことばが動いている。

この水脈のたどりつく先が
誰かの渇いた左胸であれば、
私もまた、取り戻せるものがある。
取り戻すための入り口が
まぶたの裏に見えてくる。
「水になりたい!」
風に紛れて、雲をめざし駆けのぼる私。

 この引用部分の最初の5行は「不透明」である。そこには「少年」ではないものがまぎれこんでいる。けれど、その「少年」ではないものによって、さらに「少年」がより強調される。

「水になりたい!」

 その不思議な気持ち。欲望というには、ちょっとちがう感情の疾走。そのさわやかな「透明」。
 そこには「むり」があるかもしれない。「背伸び」があるかもしれない。「少年」ではないものを振り切ろうとするときの、一種の「困難」があるかもしれない。しかし、それがまた、なんともいえず「少年」っぽい。
 「むり」「せのび」をするとき、「肉体」を「感情」が引き延ばす。その、引き延ばされた部分か、透明な光を反射する。
 オードリーみたいでしょ? 
 キャサリン・ヘップバーンは「むり」をするとき「背伸び」をしない。逆に、ぐい、と「肉体」を押さえつける。そうすると、その「肉体」の押さえつけられた部分に、感情が凝縮し、淀みのようにひとを誘い込む。手招きする。
 オードリーは同じ水であってもきらきらと反射し、水面にうつるひと(オードリーと観客)を輝かせる。
 ヘップバーンは静かに暗い色で、水面をのぞきこむひ(キャサリンと観客)とに陰影を刻む。
 どちらの「一体感」がいいかは、どうでもいいこと。ひとがひとを引き込むときの「一体感」のあり方には、そういう違いがあるということ。そして、文月は、キャサリンではなく、オードリーの方なのだと私は思う。
 疾走し「性」をふりきり、「透明」になる。その「透明」さは、これからどんな「性」でも選びとることができるという「自由」でもある。どんな「色」でも、その「色」の透明感を生かして輝くことをめざしているのだろう。

 「水になりたい!」その1行に、そんな夢を見た。

 よくよく考えてみれば「息」「呼吸」のなかに「水分」はある。「息」「呼吸」が「水」になるのは必然でもある。きっと、文月は「新しい水」になって、世界そのものを輝かせるに違いない。



適切な世界の適切ならざる私
文月 悠光
思潮社

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田原『石の記憶』(4)

2009-11-13 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(4)(思潮社、2009年10月25日発行)

 私の感想は、ちょっと風変わりすぎていて、田原の詩の紹介にはなっていないかもしれない--という気がしないでもない。もっと、普通の(?)感想が書けないものだろうか、と自問してみた。「二階の娘」とか「七月」とか、異性に対してことばがいきいきと動く詩なら、別の(?)魅力、美しい感性、精神の運動について書けるかもしれない--と、思った。

七月は少女の乳房を大きくし
少女の指を長くする
七月の少女は優しくて 大胆で多情である

 この「七月」の1行目の美しさ。そののびやかな肉体、乳房のの豊かさから、2行目の指への視線の動き、そしてそれにともない長い指(指を長くする)から繊細(優しさ)への感覚の動き--そこには、とてもしなやかないのちが息づいている。
 また、

海は少女の情欲にそそられて満潮になる

 という地球と少女の一体感のような動き、その空間というか、いのちのひろがりというか、そうしたとらえ方の巨大さに、大陸的なものを感じる。

 --と、メモをとってみるが、だめ。やっぱり、だめ。

波が私のまぶたの下で逆巻く
先の欠けた刃の上で
風は時間を引っ張って歴史と一緒に転がる
記憶の傷口が戦慄している
瀕死の老人の枯れた命令の声は汚い塩粒のように
その傷口で溶ける

 この、強烈な緊張感、ことばのゆるぎのなさに、「漢詩」の伝統を感じる--、とメモをとってみるが、だめ。やっぱり、だめ。
 そういうメモは、次の部分で吹っ飛んでしまう。

欲情が飽満した七月は
暴雨と洪水の洗礼
大河の濁流が海へ雪崩込む
魚腹の中に秘密が実る
蝉は蝉の鳴き騒ぎの中で死に
鰐の涙は鰐を毒死させる
蛙の鳴き声 法螺貝とぶんぶんと舞う蚊は
肉体を賛美する詩篇を朗読している

 書きたいことが山ほどあるが、ひとつだけ。
 「鰐の涙は鰐を毒死させる」の「鰐」って、何? 「わに」、英語で言う「クロコダイル」? そうなの?
 もしかすると、因幡山の白ウサギに出てくる「わに」のこと? 「鰐鮫」、つまり、サメってこと?
 中国でも、サメのことを「わに」というのかな? そのとき、どう発音する?

 この連では、暴雨というかわったことば(暴風雨は聞いたことがあるけれど、私は「暴雨」ということばを知らない)をはじめ、熟語(漢語?)の音がとても印象に残る。私はもちろん「日本語」の音をあてて読むのだけれど、濁音の豊かな響きがつややかでにぎやかだ。他の音に比べると静かなはずの蚊は「ぶんぶん」という音で元気に飛び回っている。
 でも、「鰐」で、私の耳せ、音を聞きとれなくなる。私の舌は動かなくなる。喉は、空気のとおる音さえ発しない。

 「文字」のなかで、中国と日本が出会っている。けれど、私は、その出会いを「文字」としてしかわからない。「音」としてはまったくわからない。「音」がわからないだけに、より強く「文字」に引っ張られる。
 そして、また、思うのだ。田原は、「鰐」という「文字」を書くとき、いったいどんな「音」を聞いて書いているのか、と。

 ああ、田原の詩をだれか日本語に翻訳してくれないかなあ。谷川俊太郎が翻訳すると、どうなるだろうなあ、とまたしても思ってしまうのだ。

 そんなことを思いながら、詩集を読んでいくと「夏祭--川端康成に」という詩がある。ちょっと奇妙な印象がある。なんとなく田原のことばづかい、音の印象が違う。あとがきには「この詩は元毎日新聞社の記者・新井宝雄氏の目にとまり、彼の手によって日本語に翻訳された」とある。詩集の作品は、その新井の翻訳そのものなのか、新井の翻訳を踏まえて田原が日本語に書き直したものかはっきりしないが、書き直したにしろ、そこに新井訳の日本語が影響しているかもしれない。そのために、ちょっと違う印象がある。
 特に、

あなたの源とそこからの流れに漂い
あなたのすべての中国熟知を畏れ
康成よ! わたしはただ中国の詩
五千年のまことの声をたずさえているだけです

 の、ぎくしゃくした「音」に驚いてしまう。
 そして、そのぎくしゃくした「音」の動きはちょっとわきに置いておくと……。ここに「声」が出てくるところに、私は、もしかすると田原も私と同じように、「文字」と「音」のあいだで、何かを感じているかもしれないとも思うのである。
 「文字」の「底」を流れている「音」(声)。私は田原の「文字」にひかれるが、その奥深いところでは、視覚にならない何か、「音」(声)を聞こうとするからこそ、目に見えるもの(わかるもの)が気になるのかもしれない、とも思うのである。
 そして、次の部分。私は、震えてしまう。

雪国と向き合って あなたがきりもなく
漢字を書いた日本の地で
あなたの寒々とした一生を
わたしは読みました
仰ぎ見て 耳をすまして聞くと
あなたは依然として
ゆっくり独りで歩いている

 「漢字」を「読みました」。そして「耳をすまして聞く」。田原は「漢字」を読んでいる。中国の文字。そのとき、田原の耳に聞こえていたのは「日本語の音」だろうか。「中国語の音」だろうか。
 私たちは、中国から漢字を借りている。そこには「中国の音」(類似の音)も含まれはするけれど、それとは別に「日本の音」もある。「雪国」を中国の音では「ゆきぐに」とは言わないだろう。けれど、「雪国」で中国人も、空から降ってくる雪、そして雪の多い土地を想像するだろう。目で理解するものと、耳で理解するもののあいだの、ずれ。田原も、そういうものをどこかで感じている。耳をすまして、漢字の奥にある日本の音を聞こうとしている。その最初は聞こえなかった「音」、「日本語の音」とともに、川端康成がいるのだ、存在しているのだと感じているように、私にはつたわってくる。

 ああ、「音」が聞きたい。田原は耳を澄まして康成のいのちを聞いたのに、私には田原の「音」が聞こえない。沈黙よりも遠くにある。ただ「文字」だけが、私を揺さぶる。


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田原『石の記憶』(3)

2009-11-12 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(3)(思潮社、2009年10月25日発行)

 田原の詩は「文字」が美しい。その「文字」を追いかけてきて、ふいに「音」に出会う。「晩鐘」。

その飛行する音と落下する音は
滝が天から流れ落ちるように激越で
柳絮が舞い上がるようにしなやかである
雲に触れて 雲は音の花を咲かせ
田に落ちて 大地は天外の星のように落下する

 この美しい行では、私はまだ「文字」に魅せられている。「柳絮が舞い上がるようにしなやかである」では「しなやか」というひらがなの美しさにうっとりしてしまう。柳絮が「しなやか」という筆順(?)で動いているようだ。
 「雲は音の花を咲かせ」と「音」はでてくるが、私は「音」を聞いていない。私は「花」という「文字」「咲く」という「文字」のなかに、開いていく(?)「音」を見ている。
 私が「音」を感じたのは、次の行だ。

鐘の音は六朝五府を響いてくる

 「六朝五府」。私は「りくちょうごふ」と読んだが、中国語では、どう発音するのだろうか。わからない。そして、その「わからない」ということが「音」を響かせるのである。私の知らない「音」がそこにはあるのだ。私の聞いたことのない「音」がそこにはあるのだ。
 田原は「六朝五府」という文字を書くとき、日本語で発音していたのか。あるいは中国語で発音していたのか。日本語で発音したとき、田原の「肉耳」のなかで、その中国語(? たぶん、中国語といっていいのだと思う。日本の歴史家が「六朝五府」と言いはじめたわけではないだろうから)はどんな音を響かせていたのか。

 私は、猛烈に、激烈に、その「音」を知りたい。田原が「六朝五府」と書いていたときに、田原の「肉体」のなかに響いていた「音」を聞きたい。
 その「音」が聞こえたとき、次の魅力的な行の「音」、そこに書かれている「音」が何かもわかる。わかるはずだと、思う。

私は鐘の音のなかの暴動と一揆を思い出す
鐘の音のなかの陰謀と計略も思い出す
暗い歳月において 鐘の音は鐘の音である
明るい日々において 鐘の音はやはり鐘の音である
時間はその音質を変えられないが
それはかって時間と日々を変えてゆく

 この連のおわりの2行。そこに書かれている「音質」。あ、それを知りたい。その「文字」は私にどんな「音」をも響かせてくれない。その「文字」は私の耳には聞こえない。聞こえない「音」がある。田原は私の知らない「音」を聞いている。そして、その「音」とともに、とても重要な「哲学」(思想)を書いている。
 私はそれを「論理」「概念」として追いかけることはできる。この行に共感したと書くこともできる。けれど、それは、書けば嘘になるのだ。私は田原の聞いている「音」を聞いていないからである。
 日本語で書かれているから、私は田原の詩を日本語として読む。日本語の音をあてて読む。(黙読だけれど、耳のなかには日本語の音が響いているし、口蓋、舌、喉、鼻腔、歯にも日本語の音が触れている。)けれど、そこには、その「文字」の奥には、私の知らない「音」があるのだ。
 「六朝五府」。「文字」で書いてしまえば、「意味」は日本人と(日本語を読める人間と)中国人で共有される。そして「意味」を共有すると何かがわかったつもりになるが、肝心なことはわからない。その「文字」を発音するとき、舌や喉、口蓋、鼻腔、歯などとともにある感覚--その肉体の奥深いものがわからない。
 田原が「音質」と読んでいるような、変えようもないもの(変わらないもの)がわからない。その変えようのないものがあるから、「時間と日々を変えてゆく」と書かれたことばを追うとき、そこで「理解」したものは、単に「頭」で「理解」しただけの「空想」になる。

 ああ、悔しい。「音」が聞こえないことが、こんなに悔しいとは思いもしなかった。「文字」でさんざんひきつけておいて、「音」を沈黙よりもさらに遠いところにかくしているなんて……。ああ、その「音」は中国人なら聞きとれるのに、私が日本人であるばっかりに(?)、まったく聞こえないなんて。「音」がないから「沈黙」なのではなく、「音」があるのに、それに反応しようがないのだ。

 こうした「音」に触れた後では、「沈黙」ということばも違って響いてくる。「内田宗二に捧げる挽歌」。

沈黙は肉体の中に化石になり
泉のような熱い涙は余計なものになってしまう

 「意味」(論理)としては、「沈黙」は「黙っている」こと、(「黙って祈りたい」のだまっていること)なのだが、その「黙る」ことで封じた「音」は、私がたとえば内田宗二を知っていて黙祷するときの「音」と田原では違うのである。「黙祷する」という行為は同じでも、そのときの肉体のなかの「音」が違う。したがって、「化石」も違うのである。
 ここには、私のたどりつけない何かが書かれている。たどりつけない。だからこそ、それを知りたい。それを「肉体」として受け止めたい--そういう気持ちに襲われる。

 中国と日本。漢字。漢字から派生したカタカナ、ひらがな。「文字」の底を流れている何か。それをじっと見つめるとき「文字」にこめられた「祈り」のようなもの、あるいは変わることのない「いのち」のようなものを感じる。田原の「文字」はそういうものを静かに伝えてくる。
 けれど、「音」は伝えて来ない。
 「文字」にも「音」はあるのに、私の、日本人の耳は、その「文字」から日本語の「音」しか聞きとれない。
 目では中国に触れるのに、耳では中国に触れることができないのだ。

 絶望しながら、けれどというか、絶望するからこそかも知れないが、田原のことばは私を引きつける。その「文字」の世界に、ぐいぐいひきこまれる。

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大西若人「蛾は何を意味するのか」

2009-11-11 20:17:41 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「蛾は何を意味するのか」(「朝日新聞」2009年11月11日夕刊)

 文章には、文章を読まなくても誰が書いたかわかるものがある。ちらりと見ただけで、文字の並び加減(漢字とひらがなのバランス)、句読点のつくりだすリズムが、ふっと独特の文体を感じさせるものがある。大西若人は、そういう文体をもったひとりである。
 「蛾は何を意味するのか」は、速水御船の「炎舞」について書いた短い文章である。
 私は、夕刊を開いて、その瞬間、これは大西若人の文章であると感じた。私は、いま、目の状態がよくないので、仕事以外にはなるべく文字を読まないようにしているのだが、ページを開いた瞬間に、これは大西の文章だと感じ、思わず、読み進んでしまった。そして、実際にそうであった。
 読み進むと、大西独特の文書が出てくる。

 炎から、朱が闇に溶けるように広がり、渦巻き上ってゆく。そんな空気の動きまで、描き切る。

 「空気」というのは見えない存在である。その見えないものを、ことばは、あたかも見えるように書き記すことができる。この、見えないものを、ことばで見えるようにしてしまうのが大西の文章である。そして、どこがどうこうとは具体的に言えるほど私は大西の文章を分析していないが、そのことばの選択(漢字、ひらがなの選択)、句読点のつかい方が紙面に与える印象が、その、見えないものを見えるようにしてしまう精神の動きとぴったりあっている。
 名文家である。
 新聞記者というのは、「署名」は「新聞社名」であってこそ、新聞記者なのだと思うが、大西はそういう範疇を超越している。大西は大西が書いた文章すべてに「大西若人」という署名を記入したいのだと思う。
 こういう記事は、「新聞記事」と思って読んではならない。新聞社に属しているのではなく、あくまで「大西若人」という著述家に属した文章なのである。


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田原『石の記憶』(2)

2009-11-11 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(2)(思潮社、2009年10月25日発行)

 田原の詩を読むと、「文字」の美しさに引き寄せられる。一篇一篇読んでいたときには気がつかなかったが、詩集になって、あ、私は田原のことばの、その「文字」の美しさに引き寄せられているのだと気がついた。
 たとえば「ゴーリキーの死」。後半。

ゴーリキー--空高く飛んだ海燕よ
翼の上の陽射しはどんなに燦然としているだろう

 「海燕よ」は「かいえんよ」と読むのか「うみつばめよ」と読むのか。私は判断しない。私は「文字」を見ている。そして、その「文字」のなかに、海と毅然として動く黒い影を見る。そこには「音」はない。形と色だけがある。そして、その形と色(黒い影)を、「空高く」が追い越していく。「空高く飛んだ海燕」は「空」より高くあるのはずなのだが、その「燕」という画数の多い文字の「影」が、なぜか、その「影」を追い越して「空」がさらにさらに高く上昇していくというイメージを呼び起こす。
 そして。
 「翼の上の陽射し」。それは、「海燕」を上から見下ろし、翼を輝かせている。「燦然」としているのは文法上は「陽射し」だが、なぜか、陽射しに照らされた「海燕」の「翼」のように思えてしまう。目に見えるのは、天と地を結ぶ空のひろがり。そのなかにあって、下から見れば「黒い影(翼の影)」、上から見れば「翼が輝く」という感じなのだ。
 「意味」ではなく、「文字」が運んでくる何かを私は「目」で判断し、その「目」のなかに見える対比、小さい海燕と天地に高く(深い)空、黒い影と輝く翼--というイメージなのだ。
 「意味」ではなく、「音」でもなく、ただ「文字」に私は反応している。

 この反応は、最終連では、もっと激しくなる。

一九三六年五月十八日
あなたの名前をつけた飛行機の墜落は
一種の前兆のようだ
六月十八日午前二時十分
アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフが死んだ

 「五月十八日」と「六月十八日」。この、一か月の「時差」を私は「時間」の差としてではなく、つまり、そこに「時間」があるというとらえ方ではなく、「文字」の違い、一種の「書き間違い」のようにして受け止めてしまうのである。「書き間違い」と感じるような、不思議な錯覚--「意味」ではなく、「文字」が運んでくる一種の「形」の違いが引き起こす錯乱として私は感じてしまう。その錯乱に「午前二時十分」がつけくわえられると、錯乱を度の強い眼鏡で強制的に魅せられたような、なんともいえない強烈な印象が残る。ここまで見えなくてもいい、というものまで見させられたような(それも、人間の力を超えるもので、たとえば神の意志のようなもので、見させられたような)、特権的な印象が残る。
 「音」でも「意味」でもない。「文字」の「ずれ」、「揺れ動き」。そのなかに、私は、どう説明していいかわからないが、「美しさ」を感じる。
 最終行はもっとすごい。

アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ

 このカタカナの羅列に、私は気が狂いそうになった。なんという美しさ。田原は中国人である。カタカナは習得した外国の「文字」である。それを、こんなに美しく書き散らすなんて。
 「書き散らす」と思わず書いてしまったが、そこには、なぜか「文字」が散らされて、その散らばりが美しい抽象画になっているという印象がある。
 私はカタカナ難読症で、初見のカタカナを正確に読むことができない。カタカナは読むのではなく、何度も音を聴いて暗記してしまわないかぎり、私には正確に発音できない。だから私の感じていることは、ほかの人には当てはまらない感想かもしれないが、ともかく美しいのだ。
 そこには海燕と空と、影と光の交錯、そして、「五月十八日」と「六月十八日午前二時十分」の交錯が、整然と、同時に乱調のまま、きらきら輝いている。

 「狂想曲」の次の1行。

モンゴル 決まって地平線から昇ってくる草原

 あ、私はことばの「意味」を追っているのか、それとも「文字」そのものを追っているのか、ここでは「アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ」ほどはっきりと自覚できないけれど、「地平線」という「文字」がそのまま「草原」という「文字」にのみこまれていくのを感じる。「地平線」という「文字」は私には「平ら」にも「ひろがり」にも感じられないが、「草原」、とくにその「草」という「文字」が「地平線」のすべてに見えてくる。「草冠」の横に真っ直ぐな線は、縦の2本の線によっていっそう水平方向に強調される。その下の「早」、「日」と「十」の組み合わせ。「草冠」が遠景なら、「日」は中景。完全な形。完全な形のなかに、横線があることで、その完全さを揺るぎないものにしている。そして近景の「十」。縦と横があるから、ひろがりがはじまる。ひとは縦へも横へも自由に動いて行ける。その動きのなかから「ひろがり」が生まれる。

 なぜ、こんな奇妙なことを感じてしまうのか、よくわからないが、きっと、きっと、きっと、田原のことばの「文字」が美しいからだ。そう思うしかない。


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