詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヴィンセント・ミネリ監督「バンド・ワゴン」(★★★)

2011-10-01 16:10:28 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィンセント・ミネリ 出演 フレッド・アステア、シド・チャリシー、オスカー・レヴァント、ジャック・ブキャナン

 フレッド・アステアのダンスはいつも優雅だ。相手にあわせて踊る。相手を踊らせるために踊る。その視線がいつも相手の動きを受け止めている。会話がある。
 セントラルパークでシド・チャリシーと踊り始める瞬間がとてもいい。「息が合う」という表現があるけれど、まさに息があって、それがそのままダンスになる。優雅に見えるのは「息を合わせる」ではなく、「息が合う」からだろう。
 「メイキング・ブロードウェイ」というのだろうか、ミュージカルができあがるまでの舞台裏は、それはそれでおもしろいが、落ち目になった映画スターが舞台で再起をはかるというのは、ちょっと優雅なフレッド・アステアには苦しいかな。あまり生き生きしていない。その分、後半が楽しく――楽しいだけに、メイキングを省略して劇中劇の「バンド・ワゴン」だけで1作品にならないかなあ、と思ってしまう。
 ニューヨークを舞台に、ギャングがジャズを踊るなんて、とてもおもしろいと思う。荒々しくて、なおかつ優雅。うーん、男の色気がどんな具合に広がるかな――と思った。追われる女に男が巻き込まれてゆくなんて、監督はヒチコックにまかせてみたい。どんなミュージカルになるだろう。
(午前十時の映画祭「青シリーズ」35本目、天神東宝3)


バンド・ワゴン 特別版 [DVD]
クリエーター情報なし
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新延拳『背後の時計』(3)

2011-10-01 13:32:32 | 詩集
新延拳『背後の時計』(3)(書肆山田、2011年09月10日発行)

 新延拳のことばには、すーっと近づいてゆける部分とまったくわからないものが交錯するときがある。

毎日同じところで止まるピアノが
今日はすらすらと続いている
いつも通った道
薔薇の垣根
今は僕の方が止まってしまう
                           (「旅立ちは夕暮れが」)

 これは、すっきりとわかる。「いつも」というときの「時間」の長さまで実感できる。止まるピアノ、止まらないピアノ(つまずかないピアノ)、止まる僕--のリズムが楽しい。

列車から通りすぎる時見るこの町の建物はみな裏側
路地が夕日に染まる頃
レース越しに嬰児が眠ってるのが見えた
母親は頬杖をつき煙のようによりそって
                               (「遠い祈り」)

 1行目はとても美しい。「裏側」が、あ、そうか、と思わせる。「裏側」は「内側」、隠している部分でもある。確かに、列車から見る「暮らし」は少し無防備である。見られることを強く意識はしていない。その無意識に重なるようにして眠る嬰児があらわれる。自然で、あたたかで、美しい。
 けれど、そのあとの母親の「煙のように」というのは何だろうか。「煙」の「比喩」がわからない。
 終わりから2連目。

遠い時間を経た祈り
木蓮の白い焔につつまれて
炎上する生家
夕闇が焔を徐々に消してゆく

 1連目の「煙」は「生家」の「炎上(火事)」の伏線? 嬰児とその母は火事で亡くなったのだろうか。途中に少女の成長した姿も描かれているから、嬰児はやがて少女になり、その後火事があったのだろうか。
 詩は「物語」そのものではないから、別に書かれていることばに「因果関係」を求めなくてもいいのかもしれないが、何か、とても気になる。
 新延が「神話」に対して考えている「物語」というものが、現実の体験をつづることだとすれば、うーん。
 ちょっと違う気がする。
 「物語」を、あえて「詩」にするとき、そこに「逸脱」がないといけないと思うけれど、その「逸脱」が、むしろ「物語」の「内部」へ無言でおりていくようで、違うんじゃないかなあと思う。
 新延が生きている現実に対して「違う」というような言い方は変だけれど。
 「詩」ならば、「物語」の「内部」の無言を、なんとかことばにして動かしてほしいなあ、と思うのである。

 「背後の時計」はタイトルが印象的だ。書き出しもとても好きである。

プールの水面に雨が降り出す
(そういえば年表もはじめは疎ら)
多くの円ができ
互いに干渉し打ち消し重なり合う
そしていつのまにか雨はやむ

 実際の風景の描写から、意識への移行がスムーズで、意識に移行したあと、そこに広がることばの風景は「現実」なのか「意識」なのか、わからない。そこに「物語」がほんとうはある。
 プールに降る雨を、その同心円の変化を見て「年表もはじめは疎ら」と思う必然性はない--ないから、それをそんなふうにことばにするとき、そのことばの「背後の時計(新延の過去)」が動き、水の底から(ことばの底から)浮かび上がってくる。浮かび上がるといっても、それは「透けて見える」ということではあるのだが。そして、さらにいえば、その「透けて見える」は「透けて見える」と私が一方的に感じることなのだが。
 でも、それが2連目で、

ありあまるほど手つかずの時間と空間があった
柱時計が家族を支配していたあの頃
誰もいないはずの二階で何かが軋む音がし
冷蔵庫が得体の知れない音を出していた

 「何かが軋む音」「得体の知れない音」という「謎」あるいは「暗示」で語られると、すべてが抽象になる。
 「物語」はあくまで具体的でないと(たとえば「旅立ちは夕暮れが」のピアノの音のように)、そこから始まることばは新延の「内部」を動くだけで読者には(私には)つたわらない。つまり、「誤読」しようがない。

ガラスケースの中では
蝋でできたスパゲッティ・ナポリタンを
丸めて挟んだフォークが宙に浮いている
昭和の洋食屋
アイス最中を半分に割って差し出す
夢の中の昭和

 という具体的なことばは魅力的だ。だが、

西日を受けて家族が背負っていたもの
母さんという言葉は今でも断固固有名詞だけれど

 この唐突な「母」への思いと、「固有名詞」ということばで新延が語りたいものが、ちょっと厳しい。

目覚めると秒針に何か急き立てられている気がする
時計の秒針だけでなく音まで尖っていて
妖精が秒針に合わせて踊っている 
夢の中の履歴書にわが悪魔払いのことを記入し
自分をあちこちに置いてきたのだが

 書こうとして書けないことがあるのかもしれない。それを書いてほしいと要求するのは酷なのかもしれないが、こうした「抽象的」な「背後の時計」では、「物語」は新延の内部でしか成立しない。
 新延の内部と外部をつなぐ具体的なことば、ピアノの音がつまずくとき「ぼく」がつまずかずに歩き、ピアノがすらすら動くとき「ぼく」が立ち止まってそれを聞く--というような、相互関係(?)のあるものを、もっと書いてもらいたいなあ。もっと読みたいなあ、と思った。
 プールの水面の雨がつくる同心円を美しく描くことばで、新延の内部の同心円を浮かび上がらせてほしいなあ、そういうものを読みたいなあ、と思った。





百年の昼寝―詩集
新延 拳
土曜美術社出版販売
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