2011年10月23日(日曜日)
柴田基孝再読(2011年10月23日、「柴田基孝の世界」から)
(「柴田基孝の世界」のための下書き。パネルディスカッション形式になったため、実際には話した内容とは異なります。一部、パネリストの発言を取り込んでいます。)
『耳の生活』という詩集があります。このタイトルは、あ、柴田さんっぽい、という感じがします。
私が柴田さんの詩に一番ひかれるのは、「音」です。ことばが持っている「音」の美しさ。
私は、九州のひとのことばはときどき聞き取れない。福岡・博多かいわいでいうと、「は行」の「は」の音が聞き取れない。「H」の音が聞き取れない。「高橋」という名前は、ときどき「たかあし」と聞こえる。「たかあし」という名前はまあいないでしょうから高橋だなあと思うけれど、これが「浜本」になると「浜本」なのか「天本」なのか、ほんとうにわかりません。
これはあまり詩とは関係ないことなのだけれど、音に関するわかりやすい例なので話しました。
それとは違うのだけれど、九州のひとのことばはときどき音が聞こえない。聞き取れない。この音の次にはこの音--というきまりは文学ではないはずだとおもうけれど、どこかで音楽の和音のように次のことば、次の音を予感している。それとは違う音があって、それが私には一瞬聞き取れない。そういうことが九州のひとの書かれる詩にはとても多い。
でも、柴田さんの詩にはそういうことがない。柴田さん以外では、山本哲也さん、宮崎のみえのふみあきさん、フランス文学の有田忠郎さんかなあ。
そして、柴田さんの詩には聞き取れない音がないという以上に、私の知らなかったとても新鮮な音がある。あ、そうか、ことばの音はこんなふうに響きあうのか、ということを教えられる。それで、柴田さんの詩、そしてその音がとても好きです。
もっとも詩を読むとき、私は基本的に声に出しません。黙読です。だから音は関係ない--はずなんだけれど。 そして、そういうことが起きないのが、柴田さんの詩です。
柴田さんのことばは、声に出して「聞く」ことばではなく、声に出さないまま「耳」で聞く--そういう音楽かなあと感じています。声に出さないけれど、耳が反応する。ことばを追うとき、知らずにのどを動かす神経が動いている。口や舌を動かす無意識の肉体が動いている。その無意識に耳が反応する。
「耳」といっても、これは「無意識」の耳、肉体の奥にある「耳」。そんなことを思います。柴田さんは、そういう「耳」でことばを動かしていた--そう感じます。
でも、まあ、これは意識のどこかに置いておいてください。
「耳の生活」は
と始まります。
私は、もうここで夢中になってしまう。いま、私は冒頭の2行を読んだのだけれど、実は1行で夢中になる。--というのも、正直な感想ではなくて、「半音階の生活」で夢中になる、いや「半音階」という書き出しの音で夢中になってしまう。「は」んおん「か」い。この「は」と「か」の響き。子音HとKの交錯が、とても気持ちがいい。そのあいだにある促音の「ん」。無音の響き、バランスがとてもいい。その音とリズムが書き出しの1行に凝縮している感じがいい。
あまりに美しい音が出だしにあるので、あとは、まあどうでもいい--というと柴田さんに申し訳ないけれど、柴田さんも、まあそう感じたんじゃないかなあ。わりといいかげんに、ふらふらとことばが動きますね。
詩は、マン・レイの写真展、そこでみかけたキリコ。それから銀座を北園克衛と、それから藤富保男、鍵谷幸信と歩いていたときに見たキリコの絵、そして北園克衛の詩、その色紙と動いていくのだけれど、とりとめがないですね。
柴田さんは「半分」の「半」、これがけっこう気に入っていたようですね。私もとても好きで、柴田さんの「半壊の雲」ということばを盗んで、何度も詩につかったことがあります。「半壊の雲」は「半音階の生活」と同じようにHとKの交錯が楽しいのだけれど。柴田さんは、その音と同時に「半」というイメージも好きだったんじゃないかなあと思います。
「半分」の「半」。これが柴田さんの生き方ではなかったかなあとも思います。
柴田さんは銀行につとめていたんだけれど、そういう生活が「半分」。そして、残りの半分が詩。ことば。
生活の半分、銀行を中心とした生活はがっしりと動かない。のこり半分、詩の方は、なんといえばといいのだろう。壊れていますね。壊している、といえばいいのかな。固まっているものを壊すことで、そこから生まれる自由--そういうものを追い求めている。
まあ、これは逆に、ことばの運動を強固にしてゆき、それを利用して銀行を中心とした生活を支配している精神を叩き壊して遊ぶ、ということかもしれません。
どっちにとっても同じだと思います。
二つが、重なり合って、互いを壊し、同時に壊す力を利用して、その破壊のなかに復元の夢を見る、ということだと思います。
この二つが重なり、半分融合してひとつになる--というのは正確な「数学」ではありえないことなのかもしれないけれど、ことばのさ世界なので、まあ、だいたいのことろ、そういう感じでいいかげんに処理していいと思うのだけれど。
二つと重なりと、そのときの「ずれ」--そこから半分はみだしてきて動くものが、ここに書かれていると思います。
マン・レイの撮った写真、キリコ。
それを見るとき、私たちはマン・レイの写真を見ているのか。それともキリコを見ているのか。区別がつきませんね。そのとき、私たち自身をふりかえると、私たち自身も、写真を見るということと、写真の中の人物を見ることをしている。「半分」ずつ、ほんとうのことをして、「半分」ずつ、わけのわからないことをしている。
詩のなかで、柴田さんは、マン・レイを置き去りにして、キリコに重心を移していく。これはキリコがシュールレアリストで、柴田さんのことばがシュールレアリスムに影響を受けいているからでしょうね。
キリコは形而上絵画というものを提唱した人です。その絵の特徴は遠近法の焦点がずれている。このずれを音楽であらわすと「半音階」になるかどうかわからないけれど、ずれだから「半分」違っているということでしょう。おもしろいのは、こういう「何かが間違っている(ずれている)」という意識が働くとき、他方に「正しい」何かがあるということですね。正しいあり方を知っているから、「ずれ」もわかる。正しいことがわからないと「ずれ」もわからない。「ずれ」は「正しい」を呼び覚ます、覚醒させる何かかもしれない。銀行勤めという正しい生活が、詩ということばのずれに出会う。それは銀行勤めといっしょにあることばの正しさを呼び覚ます。--けれど、ほんとうは、ことばのなかの「ずれ」の方が正しくて、銀行のなかで動いていることばの方が「正しく間違えている」のかもしれない。詩のことばは「ずれ」ながら、自分自身のことばを修復して言っているといえるかもしれない。
あ、わたしはまた、あいまいな、どっちつかずのことを言ってしまったけれど、これが詩というものですね。と、ごまかしながら、先をつづけます。
キリコの絵--そのなかに、細長い影が出てくる。真昼なのに、夕方のように長い影。その矛盾が形而上絵画というか、キリコの特徴のひとつですね。柴田さんは、その説明を半分、この詩のなかに取り込んでいます。
でも、不思議ですねえ。絵--長く歪んだ影。遠近法がずれていると感じるとき、それを判断する人間の肉体の器官はなんでしょうか。
目ですね。
でも、柴田さんは、その間違い、ずれを、
と「耳」で受け止める。
ええっ、どうして?
私は詩を読みながら、こういう瞬間、声がでてしまいます。詩を読むその声は出ないのだけれど、驚いたときの声は出てしまう。私は思ったことを見境なく言ってしまう性格なのです。
柴田さんの目と耳はどこかでつながっている。いや、それはだれでもそうなのだけれど、その回路が普通のひとより広いというか、いいかげんというか、簡単にいうと変です。「未分化」「未分節」といえばいいのかな。こんとんとして混じり合っている。そこが、私はとっても好きです。「肉体」そのものを感じます。
いま、柴田さんが「耳の迷路」と書いたところ、視覚型の詩人ならば、「網膜の迷路」と書き、つづく1行を、「補色の色彩が攪拌する」という具合に書いてしまう。そうして、「意味」がどんどん窮屈になっていく。
でも柴田さんは、視覚から聴覚へ、するーっとずれていく。
視覚と聴覚が「半分」どこかで重なり合っていて、その重なりを通り抜けて、ずれていく。
そして、そこでもう一回、
と「半音階」が出てくる。
写真が絵に、そして絵のなかの影が、ここで「音」になる。
この「飛躍」に柴田さんの特徴がある。その特徴を象徴的にあらわしているのが「耳」ということば--その肉体なんですね。
耳を基本に動く肉体、耳を頼りに動く肉体。そして生活。私は、そういう肉体を信じている。聞いている音は違うのだけれど、柴田さんの詩が好きというとき、私は、柴田さんの耳が好きと言っているのだと思う。
で、ちょっと「耳」というか「音」に話をもどすと。
この3行のなかの「さ行」の動きがおもしろい。「さびた」の「び」が「ひびかけ」の「び」のなかで繰り返されるのも楽しい。「さ行」でいえば、最後の「それはまさしく」が楽しいし、「一九三四年」の「さんじゅう」の響きがおもしろい。銅鑼の「おと」ではなく「ね」が「年」のなかに甦るのも楽しい。この復活のために「銅鑼のね」だったわけですね。
ところで、この「一九三四年」は何なんでしょうね。
えっ、ほんとうですか?
私はいままで気がつかなかった。註釈は字がちっちゃいから、私は読まないことにしている。知りませんでした。
ありがとうございました。
私は知らなかったので、ぜんぜん違うことを考えました。まあ、「誤読」なんだけれど、私は「誤読」が好きなので、正解は横に置いておいて、誤読の方向をさらに伸ばしてみたい。
何もわからず、私は、キリコがときどき絵にわざと違った制作年代を書いたというエピソードを思い出しました。柴田さんは、それをまねたのかな?と思ったのです。
もし、年代にでたらめを炊き込むというキリコを真似したのだとしたら、茶目っ気がありますね。
こういう部分も、私は、とっても好きです。
こういう部分では、詩が好きなのか、柴田さんという人間が好きなのか、ちょっと区別がつきませんが。詩は、まあ、人間性が全部出てくるから、どっちが好きといってもいいのだと思いますが。
茶目っ気--ここから、私は誤読の延長線を伸ばしてゆきます。
その次の連ですね。こういうことばの動きが独特です。
「耳」つながりで、「耳」ということばだけでことばが変な具合にというか、いったい何がいいたいの?という世界を動いている。キリコが完全に消えていますね。変でしょ?
「ハミング」ということばがここに出てくる。そこから柴田さんが音楽にどっぷりつかっていたことが「半分」見えてきますね。想像できますね。想像というのは「半分」現実で、半分作り事なのかもしれないなあ。
この連で一番おもしろいのは、しかし、ハミングよりも「耳の葉」ですね。
「耳の葉」って、何?
なんだと思います?
私も、言の葉--ことばを、私はすぐに思い浮かべました。
実際、それに先立つ数行「耳をたべるのはパンだけである」うんぬんは、なんだかふやけたことばですね。「意味」がない、というより、「意味」を破壊していく力がない。内容というより「輪郭」がない。
そして「ハミング」になる。ハミングには「意味」はないですね。「音」だけがある。「意味」を書こうとしているのかもしれないけれど、柴田さんの詩は、いつも「意味」を明確にはしないで、あいまいなまま、「音」を感じた、「音」を聞いているというような方向にことばが動いている。
ことばといわず「耳の葉」というところが、柴田さんなのです。柴田さんにとっては、ことばは「耳」と一体化しているものなのです。「意味」はなくても「音」がある。「言の葉」は「言う」という「口」とつながっているけれど、何を「言う」かではなく、何を聞いたか--「耳」でつかみとったものが、柴田さんの考えている「ことば」なのかもしれない。
「口」だけで成り立っているのではなく、あくまで「耳」で受け取って、そこでことばになる。「音」が「耳」のから体のなかをとおることで「ことば」になる。
それは「ことば」は「耳」をとおって「意味」になる、ということだとも思います。
「頭」ではなく、あくまで「音」そのものに反応する肉体のなかで、ことばは「意味」になる。その「意味」は、まあ、「頭」で整理しなおした「意味」とは当然違っているかもしれない。
違っているというより、「頭」で整理しなおしていないから、他人とは共有できない「意味」をもっているかもしれない。あいまいなもの、あるひとの声が嫌いだから、そのひとのいうことを聞きたくないとか。逆に、声が美しいのでなんとなく聞いてしまい、説得されてしまうとか。
そういうことと、どこか関係があるように思う。
このあと、柴田さんは、北園克衛、藤富、鍵谷とキリコを見つけたときのことを書いている。
私は実はみなさんと違って、この連にはぜんぜん魅力を感じない。なぜ柴田さんがこの連を書いたのかよくわからない。
「キリコの永遠の日没」を引き継ぎ、北園の死亡--「没する」とつながっていく(飛躍していく、ねじれていく)--それだけのために書いているとしか思えない。
その、「キリコノ永遠の日没」につながる連。
私は、そういうことは考えなかった。「こえ」と「こたえ」の違いがおもしろかった。そこに柴田さんの書きたいことが書かれているのではと思った。
耳にとって、声こそが答えなのだと考える柴田さんがここにいる。声も音なのだけれど、ここで「音」ではなく「声」が出てくるところが、とても興味深い。
「声」とはなんだろう。「声」と「音」はどこが違うだろう。どこが同じだろう。
「声」は人間が出す「音」。人間をとおりぬけた「音」。
そして、その「声」は「答え」と区別されない。人間の出す音は、なんらかの意味で「答え」を含んでいるということかもしれない。
その「声」が「ことば」になるとき、そこには「意味」が生じてくるけれど、柴田さんはその「意味」を
と拒否しているような感じがする。
柴田さんは、いわば「意味」にそっぽを向いている。
「声」を否定しているかどうかわからないけれど、「声」よりもほかのものを信じていると考えることができるかもしれない。
それは「半音階」ということばのなかにある「音」。
「声」ではなく「音」に身を寄せる、信頼を置く。
それは「耳」を信じるということにつながる。柴田さんは「音」を聞き取る「耳」に、その肉体に身を寄せている。
柴田さんの詩には「思想」がないというか、「答え」がない--というと、まあ、もうしわけないような言い方になるのだけれど。
でも、まあ、書いていることに「意味」がない。茨木のり子の「倚りかからず」のような、ひとをささえるものがない。頼りとするものがない。
では何があるか。「肉体」がある。「耳」がある。ことばを聞いてあれこれ判断している「耳の肉体」がある。それは信頼できる耳である、と私は感じています。その耳が、私は大好きです。
柴田基孝再読(2011年10月23日、「柴田基孝の世界」から)
(「柴田基孝の世界」のための下書き。パネルディスカッション形式になったため、実際には話した内容とは異なります。一部、パネリストの発言を取り込んでいます。)
『耳の生活』という詩集があります。このタイトルは、あ、柴田さんっぽい、という感じがします。
私が柴田さんの詩に一番ひかれるのは、「音」です。ことばが持っている「音」の美しさ。
私は、九州のひとのことばはときどき聞き取れない。福岡・博多かいわいでいうと、「は行」の「は」の音が聞き取れない。「H」の音が聞き取れない。「高橋」という名前は、ときどき「たかあし」と聞こえる。「たかあし」という名前はまあいないでしょうから高橋だなあと思うけれど、これが「浜本」になると「浜本」なのか「天本」なのか、ほんとうにわかりません。
これはあまり詩とは関係ないことなのだけれど、音に関するわかりやすい例なので話しました。
それとは違うのだけれど、九州のひとのことばはときどき音が聞こえない。聞き取れない。この音の次にはこの音--というきまりは文学ではないはずだとおもうけれど、どこかで音楽の和音のように次のことば、次の音を予感している。それとは違う音があって、それが私には一瞬聞き取れない。そういうことが九州のひとの書かれる詩にはとても多い。
でも、柴田さんの詩にはそういうことがない。柴田さん以外では、山本哲也さん、宮崎のみえのふみあきさん、フランス文学の有田忠郎さんかなあ。
そして、柴田さんの詩には聞き取れない音がないという以上に、私の知らなかったとても新鮮な音がある。あ、そうか、ことばの音はこんなふうに響きあうのか、ということを教えられる。それで、柴田さんの詩、そしてその音がとても好きです。
もっとも詩を読むとき、私は基本的に声に出しません。黙読です。だから音は関係ない--はずなんだけれど。 そして、そういうことが起きないのが、柴田さんの詩です。
柴田さんのことばは、声に出して「聞く」ことばではなく、声に出さないまま「耳」で聞く--そういう音楽かなあと感じています。声に出さないけれど、耳が反応する。ことばを追うとき、知らずにのどを動かす神経が動いている。口や舌を動かす無意識の肉体が動いている。その無意識に耳が反応する。
「耳」といっても、これは「無意識」の耳、肉体の奥にある「耳」。そんなことを思います。柴田さんは、そういう「耳」でことばを動かしていた--そう感じます。
でも、まあ、これは意識のどこかに置いておいてください。
「耳の生活」は
半音階の生活なんてあるか
どうか知らないが
と始まります。
私は、もうここで夢中になってしまう。いま、私は冒頭の2行を読んだのだけれど、実は1行で夢中になる。--というのも、正直な感想ではなくて、「半音階の生活」で夢中になる、いや「半音階」という書き出しの音で夢中になってしまう。「は」んおん「か」い。この「は」と「か」の響き。子音HとKの交錯が、とても気持ちがいい。そのあいだにある促音の「ん」。無音の響き、バランスがとてもいい。その音とリズムが書き出しの1行に凝縮している感じがいい。
あまりに美しい音が出だしにあるので、あとは、まあどうでもいい--というと柴田さんに申し訳ないけれど、柴田さんも、まあそう感じたんじゃないかなあ。わりといいかげんに、ふらふらとことばが動きますね。
詩は、マン・レイの写真展、そこでみかけたキリコ。それから銀座を北園克衛と、それから藤富保男、鍵谷幸信と歩いていたときに見たキリコの絵、そして北園克衛の詩、その色紙と動いていくのだけれど、とりとめがないですね。
半音階の生活なんてあるか
どうか知らないが
たとえば きのう見たマン・レイ展の
写真のなかに閉じこめられていたキリコ氏
その周囲では
かれのさびしい輪切りの永遠
細長い影が
わたしの足もとをゆっくりと浸しはじめ
それから 耳の迷路で
半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて
それはまさしく一九三四年だった
柴田さんは「半分」の「半」、これがけっこう気に入っていたようですね。私もとても好きで、柴田さんの「半壊の雲」ということばを盗んで、何度も詩につかったことがあります。「半壊の雲」は「半音階の生活」と同じようにHとKの交錯が楽しいのだけれど。柴田さんは、その音と同時に「半」というイメージも好きだったんじゃないかなあと思います。
「半分」の「半」。これが柴田さんの生き方ではなかったかなあとも思います。
柴田さんは銀行につとめていたんだけれど、そういう生活が「半分」。そして、残りの半分が詩。ことば。
生活の半分、銀行を中心とした生活はがっしりと動かない。のこり半分、詩の方は、なんといえばといいのだろう。壊れていますね。壊している、といえばいいのかな。固まっているものを壊すことで、そこから生まれる自由--そういうものを追い求めている。
まあ、これは逆に、ことばの運動を強固にしてゆき、それを利用して銀行を中心とした生活を支配している精神を叩き壊して遊ぶ、ということかもしれません。
どっちにとっても同じだと思います。
二つが、重なり合って、互いを壊し、同時に壊す力を利用して、その破壊のなかに復元の夢を見る、ということだと思います。
この二つが重なり、半分融合してひとつになる--というのは正確な「数学」ではありえないことなのかもしれないけれど、ことばのさ世界なので、まあ、だいたいのことろ、そういう感じでいいかげんに処理していいと思うのだけれど。
二つと重なりと、そのときの「ずれ」--そこから半分はみだしてきて動くものが、ここに書かれていると思います。
マン・レイの撮った写真、キリコ。
それを見るとき、私たちはマン・レイの写真を見ているのか。それともキリコを見ているのか。区別がつきませんね。そのとき、私たち自身をふりかえると、私たち自身も、写真を見るということと、写真の中の人物を見ることをしている。「半分」ずつ、ほんとうのことをして、「半分」ずつ、わけのわからないことをしている。
詩のなかで、柴田さんは、マン・レイを置き去りにして、キリコに重心を移していく。これはキリコがシュールレアリストで、柴田さんのことばがシュールレアリスムに影響を受けいているからでしょうね。
キリコは形而上絵画というものを提唱した人です。その絵の特徴は遠近法の焦点がずれている。このずれを音楽であらわすと「半音階」になるかどうかわからないけれど、ずれだから「半分」違っているということでしょう。おもしろいのは、こういう「何かが間違っている(ずれている)」という意識が働くとき、他方に「正しい」何かがあるということですね。正しいあり方を知っているから、「ずれ」もわかる。正しいことがわからないと「ずれ」もわからない。「ずれ」は「正しい」を呼び覚ます、覚醒させる何かかもしれない。銀行勤めという正しい生活が、詩ということばのずれに出会う。それは銀行勤めといっしょにあることばの正しさを呼び覚ます。--けれど、ほんとうは、ことばのなかの「ずれ」の方が正しくて、銀行のなかで動いていることばの方が「正しく間違えている」のかもしれない。詩のことばは「ずれ」ながら、自分自身のことばを修復して言っているといえるかもしれない。
あ、わたしはまた、あいまいな、どっちつかずのことを言ってしまったけれど、これが詩というものですね。と、ごまかしながら、先をつづけます。
キリコの絵--そのなかに、細長い影が出てくる。真昼なのに、夕方のように長い影。その矛盾が形而上絵画というか、キリコの特徴のひとつですね。柴田さんは、その説明を半分、この詩のなかに取り込んでいます。
でも、不思議ですねえ。絵--長く歪んだ影。遠近法がずれていると感じるとき、それを判断する人間の肉体の器官はなんでしょうか。
目ですね。
でも、柴田さんは、その間違い、ずれを、
耳の迷路で
と「耳」で受け止める。
ええっ、どうして?
私は詩を読みながら、こういう瞬間、声がでてしまいます。詩を読むその声は出ないのだけれど、驚いたときの声は出てしまう。私は思ったことを見境なく言ってしまう性格なのです。
柴田さんの目と耳はどこかでつながっている。いや、それはだれでもそうなのだけれど、その回路が普通のひとより広いというか、いいかげんというか、簡単にいうと変です。「未分化」「未分節」といえばいいのかな。こんとんとして混じり合っている。そこが、私はとっても好きです。「肉体」そのものを感じます。
いま、柴田さんが「耳の迷路」と書いたところ、視覚型の詩人ならば、「網膜の迷路」と書き、つづく1行を、「補色の色彩が攪拌する」という具合に書いてしまう。そうして、「意味」がどんどん窮屈になっていく。
でも柴田さんは、視覚から聴覚へ、するーっとずれていく。
視覚と聴覚が「半分」どこかで重なり合っていて、その重なりを通り抜けて、ずれていく。
そして、そこでもう一回、
半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて
と「半音階」が出てくる。
写真が絵に、そして絵のなかの影が、ここで「音」になる。
この「飛躍」に柴田さんの特徴がある。その特徴を象徴的にあらわしているのが「耳」ということば--その肉体なんですね。
耳を基本に動く肉体、耳を頼りに動く肉体。そして生活。私は、そういう肉体を信じている。聞いている音は違うのだけれど、柴田さんの詩が好きというとき、私は、柴田さんの耳が好きと言っているのだと思う。
で、ちょっと「耳」というか「音」に話をもどすと。
それから 耳の迷路で
半音階の音がさびた銅鑼の音(ね)をひびかせて
それはまさしく一九三四年だった
この3行のなかの「さ行」の動きがおもしろい。「さびた」の「び」が「ひびかけ」の「び」のなかで繰り返されるのも楽しい。「さ行」でいえば、最後の「それはまさしく」が楽しいし、「一九三四年」の「さんじゅう」の響きがおもしろい。銅鑼の「おと」ではなく「ね」が「年」のなかに甦るのも楽しい。この復活のために「銅鑼のね」だったわけですね。
ところで、この「一九三四年」は何なんでしょうね。
パネリストのひとり「キリコの写真撮影の年ですよ。註釈に書いてあります」
えっ、ほんとうですか?
私はいままで気がつかなかった。註釈は字がちっちゃいから、私は読まないことにしている。知りませんでした。
ありがとうございました。
私は知らなかったので、ぜんぜん違うことを考えました。まあ、「誤読」なんだけれど、私は「誤読」が好きなので、正解は横に置いておいて、誤読の方向をさらに伸ばしてみたい。
何もわからず、私は、キリコがときどき絵にわざと違った制作年代を書いたというエピソードを思い出しました。柴田さんは、それをまねたのかな?と思ったのです。
もし、年代にでたらめを炊き込むというキリコを真似したのだとしたら、茶目っ気がありますね。
こういう部分も、私は、とっても好きです。
こういう部分では、詩が好きなのか、柴田さんという人間が好きなのか、ちょっと区別がつきませんが。詩は、まあ、人間性が全部出てくるから、どっちが好きといってもいいのだと思いますが。
茶目っ気--ここから、私は誤読の延長線を伸ばしてゆきます。
その次の連ですね。こういうことばの動きが独特です。
耳をたべるのはパンだけである
耳をたべるのはパンだけではない
君は深海魚の耳をたべることができるか
きみは行き詰まりの耳をたべることができるか
………………
この種の想像のハミングを唱えるとき
耳の葉がふやけるから
イヤなんだよ
と つれの男が爪を噛みながらいった
爪を噛むと
爪がパンのようにふやけると思うんだがね
と わたしは答えた
それも想像力のハミングかね
「耳」つながりで、「耳」ということばだけでことばが変な具合にというか、いったい何がいいたいの?という世界を動いている。キリコが完全に消えていますね。変でしょ?
「ハミング」ということばがここに出てくる。そこから柴田さんが音楽にどっぷりつかっていたことが「半分」見えてきますね。想像できますね。想像というのは「半分」現実で、半分作り事なのかもしれないなあ。
この連で一番おもしろいのは、しかし、ハミングよりも「耳の葉」ですね。
「耳の葉」って、何?
なんだと思います?
パネリスト「耳の形が葉っぱのようだから、そのことをいったんじゃないのかなあ」
パネリスト「言の葉、言葉を思い出した真下」
私も、言の葉--ことばを、私はすぐに思い浮かべました。
実際、それに先立つ数行「耳をたべるのはパンだけである」うんぬんは、なんだかふやけたことばですね。「意味」がない、というより、「意味」を破壊していく力がない。内容というより「輪郭」がない。
そして「ハミング」になる。ハミングには「意味」はないですね。「音」だけがある。「意味」を書こうとしているのかもしれないけれど、柴田さんの詩は、いつも「意味」を明確にはしないで、あいまいなまま、「音」を感じた、「音」を聞いているというような方向にことばが動いている。
ことばといわず「耳の葉」というところが、柴田さんなのです。柴田さんにとっては、ことばは「耳」と一体化しているものなのです。「意味」はなくても「音」がある。「言の葉」は「言う」という「口」とつながっているけれど、何を「言う」かではなく、何を聞いたか--「耳」でつかみとったものが、柴田さんの考えている「ことば」なのかもしれない。
「口」だけで成り立っているのではなく、あくまで「耳」で受け取って、そこでことばになる。「音」が「耳」のから体のなかをとおることで「ことば」になる。
それは「ことば」は「耳」をとおって「意味」になる、ということだとも思います。
「頭」ではなく、あくまで「音」そのものに反応する肉体のなかで、ことばは「意味」になる。その「意味」は、まあ、「頭」で整理しなおした「意味」とは当然違っているかもしれない。
違っているというより、「頭」で整理しなおしていないから、他人とは共有できない「意味」をもっているかもしれない。あいまいなもの、あるひとの声が嫌いだから、そのひとのいうことを聞きたくないとか。逆に、声が美しいのでなんとなく聞いてしまい、説得されてしまうとか。
そういうことと、どこか関係があるように思う。
このあと、柴田さんは、北園克衛、藤富、鍵谷とキリコを見つけたときのことを書いている。
(この部分については、パネリストから「具体的でわかりやすい」「柴田さんの詩にはかならずこいう具体的なひとが出てくる」などの指摘があった。)
私は実はみなさんと違って、この連にはぜんぜん魅力を感じない。なぜ柴田さんがこの連を書いたのかよくわからない。
「キリコの永遠の日没」を引き継ぎ、北園の死亡--「没する」とつながっていく(飛躍していく、ねじれていく)--それだけのために書いているとしか思えない。
その、「キリコノ永遠の日没」につながる連。
北園克衛が没したのは一九七八年
わたしの家の黄色い壁にかかっている
かれの色紙は死の二年前に書かれたもの
枢機官よ
枢機官よ
そのこえはいつもゼロ
あるいは扉
または双曲線である
わたしの記憶の暗がりにある「影の空間」と題する詩の一冊は この色紙と少し違っていた
そのこたへはいつもゼロ/あるひは/扉/または/水/の双曲線である
「現代詩代表詩集・一九五〇」にもこの初出の姿がある
ゼロなのはいつも声であったり答えであったりするのだ
(この部分について、あるパネリストは「枢機官、がなぜ出てくるのかわからない」という指摘があり、別のパネリストは「枢機官は北園克衛であり、その上に西脇順三郎がいる--北園克衛は詩の世界で2番目の地位にいるということではないか」という指摘があった。)
私は、そういうことは考えなかった。「こえ」と「こたえ」の違いがおもしろかった。そこに柴田さんの書きたいことが書かれているのではと思った。
耳にとって、声こそが答えなのだと考える柴田さんがここにいる。声も音なのだけれど、ここで「音」ではなく「声」が出てくるところが、とても興味深い。
「声」とはなんだろう。「声」と「音」はどこが違うだろう。どこが同じだろう。
「声」は人間が出す「音」。人間をとおりぬけた「音」。
そして、その「声」は「答え」と区別されない。人間の出す音は、なんらかの意味で「答え」を含んでいるということかもしれない。
その「声」が「ことば」になるとき、そこには「意味」が生じてくるけれど、柴田さんはその「意味」を
いつもゼロ
と拒否しているような感じがする。
柴田さんは、いわば「意味」にそっぽを向いている。
「声」を否定しているかどうかわからないけれど、「声」よりもほかのものを信じていると考えることができるかもしれない。
それは「半音階」ということばのなかにある「音」。
「声」ではなく「音」に身を寄せる、信頼を置く。
それは「耳」を信じるということにつながる。柴田さんは「音」を聞き取る「耳」に、その肉体に身を寄せている。
柴田さんの詩には「思想」がないというか、「答え」がない--というと、まあ、もうしわけないような言い方になるのだけれど。
でも、まあ、書いていることに「意味」がない。茨木のり子の「倚りかからず」のような、ひとをささえるものがない。頼りとするものがない。
では何があるか。「肉体」がある。「耳」がある。ことばを聞いてあれこれ判断している「耳の肉体」がある。それは信頼できる耳である、と私は感じています。その耳が、私は大好きです。
無限氏―柴田基典詩集 (1980年) | |
柴田 基典 | |
葦書房 |