詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(12)

2011-10-12 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(12)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「壁 Ⅰ」という作品には「独立美術協会会員小久保裕氏に」というサブタイトルがついている。私は小久保裕の絵を知らないが、粒来が書いている作品を読むと、キャンバスに黒い一点を描いているようだ。蜘蛛、らしい。--でも、ほんとうは蜘蛛ではなく、壁そのものを描くのが小久保の狙いらしい。蜘蛛は、「極小の一点」に過ぎず、いわば壁を描くことに夢中の画家からは見すごされている。けれど、描かれる。--ここには、何か粒来の詩と同じような矛盾がある。いや、粒来が小久保の絵を見ると、そしてそれをことばにすると、そういう矛盾が浮かび上がってくる、ということかもしれない。
 この矛盾から「寓話」(寓意)が始まる。平行し、重なり合う二つの世界が、微妙に動き、ずれる瞬間に、ひとつだけでは見えない何かが見える。
 でもね、ほんとうはどうでもいいのだ。そういうことは。「寓話」(寓意)は読みとりたい人間が読みとればそれでいい。ほんとうは「寓話(寓意)」を借りて、そこに現実では描けない「リアル」をことばにした欲望があるだけである。ストーリーなんて、どうでもいい。細部を克明に描きたいから、その細部を描くためにストーリーを拝借している、いや捏造しているだけなのだ。
 あれっ、--これって、もしかすると、そのまま小久保の描く壁と蜘蛛の関係? どっちを描きたい? 壁? 蜘蛛? 蜘蛛を描きたいから壁を描く。壁を描きたいから蜘蛛を描く。
 いやだなあ。「寓話」はだから、始末におえない。何か書こうとすると、知らずに、「寓話」に先回りされてしまう。書こうとしたことを閉じこめられてしまう。

 でも、それを振り切って……。

 「壁 Ⅰ」で魅力的なのは、「寓話」のなかの細部である。

               赤黒い埃のような彼は、はじめは
丸薬のかけらと見えたが、時間の推移と共に、丸い胴体から八方に
脚が出ており、その脚は大雑把にいえば一つの関節によって上肢と
下肢の二分に分たれ、上肢の集約された部位に、つまり中心に胴と
頭がのっていることが確認された。

 蜘蛛の携帯描写である。こういう書き方ができる。こういうことばのつかい方で蜘蛛を描くことができる。それが楽しい。だから、書いてしまう。ことばを「つかう」よろこびである。ことばにしたがって、細部が目に見えるように浮かび上がる。ことばが形になる。
 そして、そこに「つまり」というような、一種独特の、粒来用語をまぎれこませることもできる。この「つまり」は実は「いいかえると」である。ね、粒来っぽいでしょ? すべて「言い換えたい」のである。言い換えたいという「欲望」が粒来の本能である。
 「寓話」(寓意)も、ここから来ている--つまり(あ、粒来用語に感染してしまった)、ある世界を別な世界で言い換える。
 あ、また粒来の「寓話(寓意)」に先回りされてしまって、道をふさがれてしまったのかなあ……。
 まあ、仕方がないなあ。
 で、この「言い換え欲望/言い換え本能」は、さらにつづく。

                しかもよく見ると、関節によっ
て上肢と下肢はさながらバネのように弾みまた撓んで、胴体は常時
上下動している。

 「しかもよく見ると」によって、世界が「言い換えられる」。「見る」ことから出発して「よく見る」へ進むことは、「現実」から「寓話」へ進むのによく似ている。「よく見る」とはいままで見えなかったものを見るということであり、そこにあるものがいままでと違って見えてくるということは、そこから「寓話」が始まるということである。
 「蛾を吐く」について書いたとき、粒来は「視覚人間」がと書いたが、ここにもその特徴がとてもよく出ている。「よく聞くと」ではなく「よく見ると」、そこには違う世界が始まる手がかりがある。だから、それを利用する
 その「よく見る」という運動へつきすすむ跳躍台に、また「つまり」がつかわれる。つまり「いいえると」がつかわれる。

        つまり蜘蛛は壁面を這っているのではない。

 ここにも「粒来語」がある。「つまり……ではない」。つまり(いいかえると)、いま見ている「現実」は、よく見ると「現実ではない」。否定。「現実」を否定して、「寓話」へと飛躍する。「現実」を否定し、「言い換えること」--これが「寓話」の手法である。
 あ、私はまるで蜘蛛の巣にかかった虫だね。どこまで行っても「寓話」に先回りされてしまう。

                            這う
という語感のもつある引きずった感触はない。彼はむしろ跳ぶとい
ってもよい軽快な、八個のバネによって生じる跳躍とその後の静止
への余韻を含んで、ただ動いている。

 ここに登場する「跳躍」。それが「寓話」への跳躍であることは、私がさっき書いたことに通じるのだが、このことを書きはじめるとなんだか「寓話」の重力にのみこまれてしまいそうだから省略。
 いま引用した部分では「語感」が「粒来語」だ。
 粒来は、「意味」ではなく「語感」でことばを動かす。あることばを別なことばで「言い換える」とい「語感」を重視する。
 では、「語感」とは何? 粒来にとって「語感」とは何?
 これがちょっとややこしい。
 私は「語感」というとき、「音」を感じてしまうが、どうも粒来はことばを選ぶとき「音」ではないものを選んでいる。音ではないものに従っているように感じられる。
 視覚、目--つまり漢字によって、ことばを動かしているように思える。

 これから書くことは、私の空想の類である。私の感じたことを「証明」するようなものは何もない。粒来自身にも、それは「無意識」のことだと思う。その「無意識」を私がかってに「意識」と呼ぶのだから、まあ、一種の乱暴な行為、暴力による粒来語への侵略のようなことなのだが……。

 粒来の書く蜘蛛の「寓話」を動かしている「漢字」は何か。「八」という漢字である。いまさっき引用した部分に「八個のバネ」ということばが出てきた。その「八」。これは、さらにまえに、「丸い胴体から八方に脚が出ており」という形でつかわれている。
 「はちこ」「はっぽう」--音が違うが「八」という同じ漢字がつかわれている。それを同じにしているのは「音」ではなく形。視覚がとらえたもの。
 実際に蜘蛛の足は八本あり、それを「よく見る」ことから粒来のことばは動くのだが、そのとき、変でしょ? 変なことが起きない?
 蜘蛛の足は八本。でも、それを文字にすると「八」は実は「二本」棒。「八方に拡がらず」「二方に拡がる」。これは視覚を生きる人間にとって、なんだかむずがゆいような、変ないらいら感が肉体のなかに残る文字である。
 で、「八」なのに「二」ということろから、「上肢と下部の二部に分かたれ」の「二」部ということばが動く。「二」は「一つの関節によって」という「一」をも含む。そうして「一」が意識され、位置の両端に「二つ」が意識されるのだけれど、ちょっと「八」には遠い。いや、ちょっとどころかとても遠い。だから「よく見ると」という具合に言い換えて、「一」「二」からのがれるように、「バネのように弾みまた撓んで」という強引なことばの動きになる。「また」によって、「一つ」の動きを複数化するの。一つなんだけれど「二つ」に分かれ、それが「弾む」と「撓む」の二つに結合されながら分類される。一種の掛け算かな? 1×2=2。それが2×2=4。
 まだ足りないねえ。
 で、「胴体は常時上下動している」。「上」と「下」の2。これが掛け算に加わると、

 4×2=8。

 やったね。やっと「八」にたどりついた。だから、安心して(?)、「その後の静止への余韻を含んで」、ただ動いている。

                 --その時画家が身じろぎし
たのは、私の瞳がものを捉え得た悦びが、もしかすると眼光に何か
の陰影を与えたせいかも知れなかった。

 これは蜘蛛の描写のあとのことばだけれど、蜘蛛から画家へ、「悦び」が共有される。これは「八」の問題が詩人によって解決されたことが影響している--と読むのは、深読み? 誤読? どちらでもいい。私は、この蜘蛛の描写が大好き。そして、粒来がこの詩を書いたのは、きっとこの蜘蛛の部分を書きたかったからだと思う。「意識的」には違うことを書きたかったのかもしれないけれど、粒来の「本能」はこれを書きたがったのだ、と私は思う。



粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉)
粒来 哲蔵
思潮社
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砂田麻美監督「エンディングノート」(★★★★★)

2011-10-12 10:56:59 | 映画
砂田麻美監督「エンディングノート」(★★★★★)

監督 砂田麻美 出演 砂田知昭

 癌を告知された「日本のお父さん(企業戦士の営業マン)」が死ぬまでを、営業マンらしくスケジュールどおりに生きていく姿をとらえている。すべて計画を立て、そのひとつひとつを実行していく。その結果として死がある。
 --というストーリーがどうでもいいというわけではないが。
 いやあ、映画というのは「編集」がいのちだねえ。私は映画をつくっているわけではないのだが、感激してしまった。たとえば銀杏並木があって、その映像が無音のまましばらくつづく。そこへ遅れて音楽がかぶさる。なんでもないシーンなのだが、そうだよなあ、ある風景に出会って感動して、その瞬間に音楽が肉体の内部から鳴り響くということはないなあ。美しい風景に肉体がどう反応していいかわからない。しばらくして、やっと肉体が追いつく--そして音楽が聴こえてくる。
 すべてがそういうものだと思う。
 どんな感動的なシーンでも、瞬間的に肉体が反応するわけではない。次に何が起きるかわかっていても、すぐに肉体が反応するわけではない。わかっていればわかっているほど肉体は反応するまいとかまえる。たとえば、お父さんがお母さんに最期のわかれを言う。お母さんが「いっしょに行きたい」と言う。予告編でも何度も見たシーン。どうなるか、わかっている。そしてわかっているから、私の肉体は身構える。涙を流すまい、泣くまい、とする。その肉体をこじ開けるようにして感情がやっぱり動いてしまう。そして、その頑固な肉体をこじ開け、感情が新しい肉体になるまでの時間--その間合い。遅れてくる真実。こういう時間の動き、肉体の動きを、この映画はとても自然な呼吸、自然なリズムで再現している。
 間がいいのだ。そして、この間は編集によってつくりだされるのだ。
 古いホームビデオのなかに残っていたお父さんとお母さんの夫婦喧嘩のシーンはその典型だ。「おれは会社で一生懸命働いているんだ。酒ぐらい呑んで帰るさ」というような典型的な夫婦喧嘩。そのときお父さんの膝の上に犬がいる。まったく動かない。ぬいぐるみの置物のようだが、これがほんものの犬--というのは、そのあとでわかることなのだけれど、カメラがお父さんの顔から犬の顔に移っていく。そして止まる。それに「おれの見方はは犬だけだ」というような独白が重なり、犬が死んで、その葬儀のシーンというときのリズムが、なんとも温かい。ほんとうはもっとたくさんのことばがあるのだけれど、99パーセントのことばを削りこんで、ひとつだけ、遅れてやってくることば。
 孫について語ったシーンも同じだ。孫がかわいいという気持ちは「じいじ」になった「お父さん」に共通のものだろうけれど、孫といっしょのシーンに遅れて「あごでつかわれる感じがたまらなくうれしい」という実感がおいかけるようにやってくる。実際の「お父さん」の声ではなく、全編、娘が「お父さん」の気持ちを「声」にしているのだが、この「ずれ」というか、やっぱり「映像」に遅れてやってくる「声」がとてもいい。
 「映像」を観客の肉体が理解して、その理解をそっと後押しするように「声」(ことば)がやってくる。あるいは音楽がやってくる。ことばや音楽が肉体をひっぱるのではなく、後押しする。そのリズムが、こんなふうにいっていいのかどうか、ちょっとわからないのだけれど、これから死んでいくひとの人生をそっと後ろからささえる呼吸に似ている感じもするのだ。あ、愛するというのは、こういうふうにひとが生きたいと思っていることを、そっと後押しすることかなあ、とも思うのだ。
 感動的なシーンはいろいろある。そのクライマックスがお父さんとお母さんの別れのことばのシーンだけれど、それとは別に、あ、これはいいなあ、と感じたシーンがある。主人公の「お父さん」が「砂田知昭」という「営業マン」にかえる瞬間、つまり「砂田知昭」しかいえないような「ことば」に出会い、あ、すごい--と実感するシーンがある。生身との「砂田知昭」に会っている感じがするシーンがある。
 予告編にもあったが、息子が父に対し、葬儀の打ち合わせをするシーン。息子が「近親者だけで、というから」と言うと、それを父が訂正する。「近親者だけで葬儀を行ないます、だな」。意味は変わらないのだが、きちんと「葬儀を行ないます」と言えというのだ。(これは、入院してすぐとか、ではなく、ほんとうに死ぬ2日前の会話なのだ。)わかっているから言わないのではなく、わかっていることはすべてことばできちんと説明する。言い漏らさない。--すごいなあ。この「ことばをきちんと最後まで言う」という生き方、姿勢が、砂田知昭という人間をつくってきたのだ。エンディングノートをつくり、それをひとつひとつ消化していく。ことばにして、それをひとつひとつ実行していく。「有言実行」という生き方だね。そのために、「段取り」をする。「段取り」というのは、「有言実行」のための準備なのだ。
 このことばがきちんと息子に引き継がれ、父の死後、息子が電話をかけるシーンがあるが、そこでは「近親者だけで葬儀を行ないます」と成文化して言っている。このシーンがこの映画では、私はいちばん好きだ。「お父さん」はたしかに「息子」のなかで生きている。新しく生きはじめている。いのちは、こういう形で具体的に引き継がれていくのだと実感できる。お父さんとお母さんの別れのシーンのように涙が流れてとまらないというのではないが、胸の底に静かに水面が拡がる感じ、広い広い大地が拡がっていく感じが生まれる。
 この「引き継ぎ」にも、とても自然な「間合い」がある。その「間合い」がこの映画をすばらしく自然なものにしている。人の死をそのまま映像にするというたいへんな仕事をしているのに、それを普通に昇華させている。
 今年見るべき映画の1本である。
コメント (1)
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