粒来哲蔵『蛾を吐く』(12)(思潮社、2011年10月01日発行)
「壁 Ⅰ」という作品には「独立美術協会会員小久保裕氏に」というサブタイトルがついている。私は小久保裕の絵を知らないが、粒来が書いている作品を読むと、キャンバスに黒い一点を描いているようだ。蜘蛛、らしい。--でも、ほんとうは蜘蛛ではなく、壁そのものを描くのが小久保の狙いらしい。蜘蛛は、「極小の一点」に過ぎず、いわば壁を描くことに夢中の画家からは見すごされている。けれど、描かれる。--ここには、何か粒来の詩と同じような矛盾がある。いや、粒来が小久保の絵を見ると、そしてそれをことばにすると、そういう矛盾が浮かび上がってくる、ということかもしれない。
この矛盾から「寓話」(寓意)が始まる。平行し、重なり合う二つの世界が、微妙に動き、ずれる瞬間に、ひとつだけでは見えない何かが見える。
でもね、ほんとうはどうでもいいのだ。そういうことは。「寓話」(寓意)は読みとりたい人間が読みとればそれでいい。ほんとうは「寓話(寓意)」を借りて、そこに現実では描けない「リアル」をことばにした欲望があるだけである。ストーリーなんて、どうでもいい。細部を克明に描きたいから、その細部を描くためにストーリーを拝借している、いや捏造しているだけなのだ。
あれっ、--これって、もしかすると、そのまま小久保の描く壁と蜘蛛の関係? どっちを描きたい? 壁? 蜘蛛? 蜘蛛を描きたいから壁を描く。壁を描きたいから蜘蛛を描く。
いやだなあ。「寓話」はだから、始末におえない。何か書こうとすると、知らずに、「寓話」に先回りされてしまう。書こうとしたことを閉じこめられてしまう。
でも、それを振り切って……。
「壁 Ⅰ」で魅力的なのは、「寓話」のなかの細部である。
蜘蛛の携帯描写である。こういう書き方ができる。こういうことばのつかい方で蜘蛛を描くことができる。それが楽しい。だから、書いてしまう。ことばを「つかう」よろこびである。ことばにしたがって、細部が目に見えるように浮かび上がる。ことばが形になる。
そして、そこに「つまり」というような、一種独特の、粒来用語をまぎれこませることもできる。この「つまり」は実は「いいかえると」である。ね、粒来っぽいでしょ? すべて「言い換えたい」のである。言い換えたいという「欲望」が粒来の本能である。
「寓話」(寓意)も、ここから来ている--つまり(あ、粒来用語に感染してしまった)、ある世界を別な世界で言い換える。
あ、また粒来の「寓話(寓意)」に先回りされてしまって、道をふさがれてしまったのかなあ……。
まあ、仕方がないなあ。
で、この「言い換え欲望/言い換え本能」は、さらにつづく。
「しかもよく見ると」によって、世界が「言い換えられる」。「見る」ことから出発して「よく見る」へ進むことは、「現実」から「寓話」へ進むのによく似ている。「よく見る」とはいままで見えなかったものを見るということであり、そこにあるものがいままでと違って見えてくるということは、そこから「寓話」が始まるということである。
「蛾を吐く」について書いたとき、粒来は「視覚人間」がと書いたが、ここにもその特徴がとてもよく出ている。「よく聞くと」ではなく「よく見ると」、そこには違う世界が始まる手がかりがある。だから、それを利用する
その「よく見る」という運動へつきすすむ跳躍台に、また「つまり」がつかわれる。つまり「いいえると」がつかわれる。
ここにも「粒来語」がある。「つまり……ではない」。つまり(いいかえると)、いま見ている「現実」は、よく見ると「現実ではない」。否定。「現実」を否定して、「寓話」へと飛躍する。「現実」を否定し、「言い換えること」--これが「寓話」の手法である。
あ、私はまるで蜘蛛の巣にかかった虫だね。どこまで行っても「寓話」に先回りされてしまう。
ここに登場する「跳躍」。それが「寓話」への跳躍であることは、私がさっき書いたことに通じるのだが、このことを書きはじめるとなんだか「寓話」の重力にのみこまれてしまいそうだから省略。
いま引用した部分では「語感」が「粒来語」だ。
粒来は、「意味」ではなく「語感」でことばを動かす。あることばを別なことばで「言い換える」とい「語感」を重視する。
では、「語感」とは何? 粒来にとって「語感」とは何?
これがちょっとややこしい。
私は「語感」というとき、「音」を感じてしまうが、どうも粒来はことばを選ぶとき「音」ではないものを選んでいる。音ではないものに従っているように感じられる。
視覚、目--つまり漢字によって、ことばを動かしているように思える。
これから書くことは、私の空想の類である。私の感じたことを「証明」するようなものは何もない。粒来自身にも、それは「無意識」のことだと思う。その「無意識」を私がかってに「意識」と呼ぶのだから、まあ、一種の乱暴な行為、暴力による粒来語への侵略のようなことなのだが……。
粒来の書く蜘蛛の「寓話」を動かしている「漢字」は何か。「八」という漢字である。いまさっき引用した部分に「八個のバネ」ということばが出てきた。その「八」。これは、さらにまえに、「丸い胴体から八方に脚が出ており」という形でつかわれている。
「はちこ」「はっぽう」--音が違うが「八」という同じ漢字がつかわれている。それを同じにしているのは「音」ではなく形。視覚がとらえたもの。
実際に蜘蛛の足は八本あり、それを「よく見る」ことから粒来のことばは動くのだが、そのとき、変でしょ? 変なことが起きない?
蜘蛛の足は八本。でも、それを文字にすると「八」は実は「二本」棒。「八方に拡がらず」「二方に拡がる」。これは視覚を生きる人間にとって、なんだかむずがゆいような、変ないらいら感が肉体のなかに残る文字である。
で、「八」なのに「二」ということろから、「上肢と下部の二部に分かたれ」の「二」部ということばが動く。「二」は「一つの関節によって」という「一」をも含む。そうして「一」が意識され、位置の両端に「二つ」が意識されるのだけれど、ちょっと「八」には遠い。いや、ちょっとどころかとても遠い。だから「よく見ると」という具合に言い換えて、「一」「二」からのがれるように、「バネのように弾みまた撓んで」という強引なことばの動きになる。「また」によって、「一つ」の動きを複数化するの。一つなんだけれど「二つ」に分かれ、それが「弾む」と「撓む」の二つに結合されながら分類される。一種の掛け算かな? 1×2=2。それが2×2=4。
まだ足りないねえ。
で、「胴体は常時上下動している」。「上」と「下」の2。これが掛け算に加わると、
4×2=8。
やったね。やっと「八」にたどりついた。だから、安心して(?)、「その後の静止への余韻を含んで」、ただ動いている。
これは蜘蛛の描写のあとのことばだけれど、蜘蛛から画家へ、「悦び」が共有される。これは「八」の問題が詩人によって解決されたことが影響している--と読むのは、深読み? 誤読? どちらでもいい。私は、この蜘蛛の描写が大好き。そして、粒来がこの詩を書いたのは、きっとこの蜘蛛の部分を書きたかったからだと思う。「意識的」には違うことを書きたかったのかもしれないけれど、粒来の「本能」はこれを書きたがったのだ、と私は思う。
「壁 Ⅰ」という作品には「独立美術協会会員小久保裕氏に」というサブタイトルがついている。私は小久保裕の絵を知らないが、粒来が書いている作品を読むと、キャンバスに黒い一点を描いているようだ。蜘蛛、らしい。--でも、ほんとうは蜘蛛ではなく、壁そのものを描くのが小久保の狙いらしい。蜘蛛は、「極小の一点」に過ぎず、いわば壁を描くことに夢中の画家からは見すごされている。けれど、描かれる。--ここには、何か粒来の詩と同じような矛盾がある。いや、粒来が小久保の絵を見ると、そしてそれをことばにすると、そういう矛盾が浮かび上がってくる、ということかもしれない。
この矛盾から「寓話」(寓意)が始まる。平行し、重なり合う二つの世界が、微妙に動き、ずれる瞬間に、ひとつだけでは見えない何かが見える。
でもね、ほんとうはどうでもいいのだ。そういうことは。「寓話」(寓意)は読みとりたい人間が読みとればそれでいい。ほんとうは「寓話(寓意)」を借りて、そこに現実では描けない「リアル」をことばにした欲望があるだけである。ストーリーなんて、どうでもいい。細部を克明に描きたいから、その細部を描くためにストーリーを拝借している、いや捏造しているだけなのだ。
あれっ、--これって、もしかすると、そのまま小久保の描く壁と蜘蛛の関係? どっちを描きたい? 壁? 蜘蛛? 蜘蛛を描きたいから壁を描く。壁を描きたいから蜘蛛を描く。
いやだなあ。「寓話」はだから、始末におえない。何か書こうとすると、知らずに、「寓話」に先回りされてしまう。書こうとしたことを閉じこめられてしまう。
でも、それを振り切って……。
「壁 Ⅰ」で魅力的なのは、「寓話」のなかの細部である。
赤黒い埃のような彼は、はじめは
丸薬のかけらと見えたが、時間の推移と共に、丸い胴体から八方に
脚が出ており、その脚は大雑把にいえば一つの関節によって上肢と
下肢の二分に分たれ、上肢の集約された部位に、つまり中心に胴と
頭がのっていることが確認された。
蜘蛛の携帯描写である。こういう書き方ができる。こういうことばのつかい方で蜘蛛を描くことができる。それが楽しい。だから、書いてしまう。ことばを「つかう」よろこびである。ことばにしたがって、細部が目に見えるように浮かび上がる。ことばが形になる。
そして、そこに「つまり」というような、一種独特の、粒来用語をまぎれこませることもできる。この「つまり」は実は「いいかえると」である。ね、粒来っぽいでしょ? すべて「言い換えたい」のである。言い換えたいという「欲望」が粒来の本能である。
「寓話」(寓意)も、ここから来ている--つまり(あ、粒来用語に感染してしまった)、ある世界を別な世界で言い換える。
あ、また粒来の「寓話(寓意)」に先回りされてしまって、道をふさがれてしまったのかなあ……。
まあ、仕方がないなあ。
で、この「言い換え欲望/言い換え本能」は、さらにつづく。
しかもよく見ると、関節によっ
て上肢と下肢はさながらバネのように弾みまた撓んで、胴体は常時
上下動している。
「しかもよく見ると」によって、世界が「言い換えられる」。「見る」ことから出発して「よく見る」へ進むことは、「現実」から「寓話」へ進むのによく似ている。「よく見る」とはいままで見えなかったものを見るということであり、そこにあるものがいままでと違って見えてくるということは、そこから「寓話」が始まるということである。
「蛾を吐く」について書いたとき、粒来は「視覚人間」がと書いたが、ここにもその特徴がとてもよく出ている。「よく聞くと」ではなく「よく見ると」、そこには違う世界が始まる手がかりがある。だから、それを利用する
その「よく見る」という運動へつきすすむ跳躍台に、また「つまり」がつかわれる。つまり「いいえると」がつかわれる。
つまり蜘蛛は壁面を這っているのではない。
ここにも「粒来語」がある。「つまり……ではない」。つまり(いいかえると)、いま見ている「現実」は、よく見ると「現実ではない」。否定。「現実」を否定して、「寓話」へと飛躍する。「現実」を否定し、「言い換えること」--これが「寓話」の手法である。
あ、私はまるで蜘蛛の巣にかかった虫だね。どこまで行っても「寓話」に先回りされてしまう。
這う
という語感のもつある引きずった感触はない。彼はむしろ跳ぶとい
ってもよい軽快な、八個のバネによって生じる跳躍とその後の静止
への余韻を含んで、ただ動いている。
ここに登場する「跳躍」。それが「寓話」への跳躍であることは、私がさっき書いたことに通じるのだが、このことを書きはじめるとなんだか「寓話」の重力にのみこまれてしまいそうだから省略。
いま引用した部分では「語感」が「粒来語」だ。
粒来は、「意味」ではなく「語感」でことばを動かす。あることばを別なことばで「言い換える」とい「語感」を重視する。
では、「語感」とは何? 粒来にとって「語感」とは何?
これがちょっとややこしい。
私は「語感」というとき、「音」を感じてしまうが、どうも粒来はことばを選ぶとき「音」ではないものを選んでいる。音ではないものに従っているように感じられる。
視覚、目--つまり漢字によって、ことばを動かしているように思える。
これから書くことは、私の空想の類である。私の感じたことを「証明」するようなものは何もない。粒来自身にも、それは「無意識」のことだと思う。その「無意識」を私がかってに「意識」と呼ぶのだから、まあ、一種の乱暴な行為、暴力による粒来語への侵略のようなことなのだが……。
粒来の書く蜘蛛の「寓話」を動かしている「漢字」は何か。「八」という漢字である。いまさっき引用した部分に「八個のバネ」ということばが出てきた。その「八」。これは、さらにまえに、「丸い胴体から八方に脚が出ており」という形でつかわれている。
「はちこ」「はっぽう」--音が違うが「八」という同じ漢字がつかわれている。それを同じにしているのは「音」ではなく形。視覚がとらえたもの。
実際に蜘蛛の足は八本あり、それを「よく見る」ことから粒来のことばは動くのだが、そのとき、変でしょ? 変なことが起きない?
蜘蛛の足は八本。でも、それを文字にすると「八」は実は「二本」棒。「八方に拡がらず」「二方に拡がる」。これは視覚を生きる人間にとって、なんだかむずがゆいような、変ないらいら感が肉体のなかに残る文字である。
で、「八」なのに「二」ということろから、「上肢と下部の二部に分かたれ」の「二」部ということばが動く。「二」は「一つの関節によって」という「一」をも含む。そうして「一」が意識され、位置の両端に「二つ」が意識されるのだけれど、ちょっと「八」には遠い。いや、ちょっとどころかとても遠い。だから「よく見ると」という具合に言い換えて、「一」「二」からのがれるように、「バネのように弾みまた撓んで」という強引なことばの動きになる。「また」によって、「一つ」の動きを複数化するの。一つなんだけれど「二つ」に分かれ、それが「弾む」と「撓む」の二つに結合されながら分類される。一種の掛け算かな? 1×2=2。それが2×2=4。
まだ足りないねえ。
で、「胴体は常時上下動している」。「上」と「下」の2。これが掛け算に加わると、
4×2=8。
やったね。やっと「八」にたどりついた。だから、安心して(?)、「その後の静止への余韻を含んで」、ただ動いている。
--その時画家が身じろぎし
たのは、私の瞳がものを捉え得た悦びが、もしかすると眼光に何か
の陰影を与えたせいかも知れなかった。
これは蜘蛛の描写のあとのことばだけれど、蜘蛛から画家へ、「悦び」が共有される。これは「八」の問題が詩人によって解決されたことが影響している--と読むのは、深読み? 誤読? どちらでもいい。私は、この蜘蛛の描写が大好き。そして、粒来がこの詩を書いたのは、きっとこの蜘蛛の部分を書きたかったからだと思う。「意識的」には違うことを書きたかったのかもしれないけれど、粒来の「本能」はこれを書きたがったのだ、と私は思う。
粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉) | |
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