詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(9)

2011-10-09 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(9)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「泡川 Ⅱ」には興味深いことばが次々に登場する。

 泡川に落ちる夕陽を見ていると、時折背景が陽と共にずり落ちて
川面に消え失せることがある。勿論その時風景の一部はむしり取ら
れて空白になるが、直ぐ様まるで共通の落度を補うかのようにして、
陽を囲集する風景が慌しく動いて背景を埋め直す。

 1行目の「共に」、3行目の「共通の」。私は、このことばに粒来の「思想」(肉体)を感じた。それはほんとうは書きたくないことば(いつもなら書かずにすませることば)だと思う。しかし、今回はそのことばを書かないことにはことばが動いていかない。しかたなく、しかし、無意識に書いたことばが「共に」と「共通の」である。
 「共(に)」と「共通(の)」は、同じことばである。そして、このことばが動くとき、そこには「共(共通)」を挟んで「ふたつ」のものが存在する。その「ふたつ」が「ひとつ」と「なる」ときが「共(共通)」ということばが動くときである。
 「共(共通)」というのは、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」として動く「場」なのである。あるいは「時間」なのである。
 「夕陽」が一方にあり、他方に「背景」がある。それが「共」に「ずり落ちる」という運動をする。その「場」が、ここでは「泡川」と名づけられている。「泡川」の「川面」と呼ばれている。
 ここには、ひとつ、どうすることもできない「矛盾」がある。なぜ「泡川」(その川面)は、「背景」ではないのか。「川面」は夕陽が落ちるときの「背景」にはなりえないのか。
 粒来は、無意識のうちに「泡川」とその「川面」を「夕陽」の「背景」から除外している。それは、このことばが動く瞬間、「私」が除外されていることと、たぶん関係している。

 あるいは、そのとき「私」とは「ことば」そのものであり、「ことば」こそが「ことば」であるという意識から除外されている--ということばが私のなかで瞬間的にひらめくが、ここでは「メモ」の形に留めておくだけにする。

 「共(共通)」に戻る。
 「背景がずり落ちる」を粒来は「背景の一部」が「むしり取られ」「空白」になると書いている。「むしり取られ」は「むしり取る」力と「ひとつ」になってしまうことである。そういう力が働くとき、その力の側から反作用のように動くものがある。「陽を囲集する風景が慌しく動いて」と粒来は書いているが、それは私には「陽」が陽自信のなかから「背景」を吐き出して、という感じに見える。一方で、「陽」そのものへ背景を吸収し、他方で「陽」から背景を吐き出す。そうして、「空白」を埋める。
 「空白」をつくる力が「陽」にあるのなら、「空白」を埋める力も「陽」にある。「二つ」の力は「ひとつ」である。
 --何かしら、そこに書かれていることばを言いなおしてみると(つまり、私なりに考え直そうとすると)、そこには「矛盾」が噴出する。反対の(反作用としての)ことばが動き、度の強い眼鏡を無理矢理かけさせられて見る風景のように、細部がくっきり見えすぎで全体がばらばらになるような、一種の「悪夢」にのみこまれたような感じに襲われる。

 私が見ている(読んでいる)のは、いったい何?

 ひとつひとつことばを追って行っても、たぶん、混乱するだけである。
 だから、私は一気に途中を省略して、次に立ち止まったところまで動いてしまう。「泡川」では夕陽が落ちるのを見ると、それにまきこまれてその人も川に落ちる。二人連れがこの災難に遭って、ひとりが取り残され泣いている--というような「ストーリー」というか「物語」の構造をつくりあげたあとで、粒来は、次のように「ストーリー」を展開する。

 私が戒めを破って陽の入りを見たのは母の懇願によってだった。
母は町の出だから、夕陽と背景のずれはとくと承知していた。

 そして、母と私はどうなるか--ということに、私は実は関心がない。いま引用した部分の2行目の「ずれ」には傍点が打ってある。この傍点を打って強調している「ずれ」。それが最初に見た「共(共通)」に通じることばである。
 「共(共通)」は「同じ」(いっしょ)ということである。ところが「ずれ」は「いっしょではない」ということである。共通ではなく、違い(差異)が「ずれ」である。
 しかし、その差異(ずれ)というものは「共通」があってはじめて存在するものである。「共通」を意識できない人には「ずれ」も意識できない。

 ここから大胆に飛躍すると、「私」と「母」とは別個の存在である。しかし、そのふたりにはふたりを結ぶ「何か」があって、それは「共通」のものである。「共通」するものがふたりを結ぶ。そして、同時にふたりを結んだ瞬間に、そこに「ずれ」を浮かびあがらせる。
 そのとき浮かび上がる「ずれ」というのは、うまくことばにすることができない「矛盾」である。ことばにすると「ずれ」だけが増えつづける「矛盾」である。この「矛盾」を「共通のずれ」と呼ぶことができるし、またその「ずれ」を「矛盾」を「補いあうもの」と呼ぶこともできるかもしれない。

 私がきょう書いている感想は、飛躍が大きくて論理になっていないかもしれないが、まあ、詩の感想だから、こういう一種の「でたらめ」もあっていいのだ。

 この「共/共通」「ずれ」「補う」ということばをひきつれながら動く「物語(ストーリー)」をなんというか。「寓話」という。

 川からさしずめ私が感得したのは、すさまじいまでの寓意であった。

 これは「*」を挟んで続く詩の書き出しの部分だが、「寓意」とは「寓話」のなかの「意味」ということだろう。
 ほんとうは別個の存在が、互いに「共通」のものをみつけ、その「共通」のなかで動くとき、「ずれ」が浮かび上がり、またその「ずれ」を「補い」、修復しながら、世界はどうなるのか。

       私にはその声、が生に先立つ死を予感しつつなおも
両者を超えて執拗に湧出を繰り返す水泡の、泡川の、愚かしくも尊
大な夢の倍音となって聴こえてきた。

 「生」と「死」を結ぶ「共通」は何か。そこにある「ずれ(差異)」は何を誘うか。何で「補え」と誘うのか。--あ、それは、「補う」のではなく、「超越する」(超える)のだ。「倍音」とは「現実」と「寓話」の「和音」の関係である。二つが中央で出会うのではなく、「場」を超越する。出会いを超越する。

 この詩には、あまりにも多くの粒来の思想が同居しているので、どこから整理していっていいかわからない。




粒来 哲蔵
書肆山田
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伊藤悠子『ろうそく町』(2)

2011-10-09 11:07:02 | 詩集
伊藤悠子『ろうそく町』(2)(思潮社、2011年09月30日発行)

 伊藤悠子の作品は、私はある程度こまめに同人誌(雑誌)で読んでいる。この『ろうそくの町』に収められている作品もたいてい読んでいる。--はずである。そして、これは読んだことがあると思いながら読むのだが、どうも昔読んだときの印象と違っている。ただ違うといっても「推敲」によって変わったという感じはしないのである。あるいは私の読み方が変わってしまった、という感じでもない。
 詩集という形になることで、ことばが自由になっている。伸びやかになっている。そう感じるのだ。同人誌(雑誌)に掲載されているときは他人のことばのなかにやっと伊藤の領域を確保しているという感じでことばが動いている。余白にも余裕がない。ところが詩集になると、ことばはひとつの作品のなかで完結するのではなく、なにか未完成なものをたの作品へ譲り渡すという感じでことばが動いていることがわかる。いま、ここで完結しなくてもいい、ことばはいずれ完成するということを伊藤は知っているのかもしれない。
 「貝殻の丘」は縄文人の骨の展示を見たときのことを書いている。

大きな人だ
欠けたところの少ない顎骨が笑っている
かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったかもしれない
ただの

 人の表情から私たちは何かを読みとる。それは「ただの」勘違いかもしれない。そう語るときの伊藤の「ただの」はぽつんと1行の形でほうりだされている。どこへ帰るべきか--文法的には、私が先に書いたように「酷薄と見たものが放心であり/あるいは困惑であったかもしれない」に帰り、

酷薄と見たものが「ただの」か放心であり
あるいは「ただの」困惑であったかもしれない

 なのかもしれないが、私は、もうひとつ前の「欠けたところの少ない顎骨が笑っている」にまで戻るように思える。その1行には「ただの」が入る位置がない。
 だからこそ。
 というのは論理にはならないのだが、だからこそ、その1行に「ただの」を戻したいのである。返したいのである。
 縄文人の骨、顎の骨が笑っている--ということは、もちろんわからない。人は骨では笑わない。笑いはあくまでも「表情」で笑う。表情に笑いが起きる。「骨が笑っている」というのは「間違い」である。「間違い」であるけれど、そこに「真実」がある。伊藤の「気持ち」がある。「笑っている」と見たい気持ちが無意識に動き、「笑っている」ということばになる。
 その「笑い」はどんな笑い?
 「ただの」笑いである。「意味」はない。
 「ただの放心」「ただの困惑」には「意味」がある。それは「酷薄ではなく」という「意味」である。
 だが、伊藤が見た縄文人の骨の「笑い」は「意味」がない。
 この「無意味」はいいなあ。
 そして、そう思いながら、

酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったかもしれない

 にも、「意味」がなければどんなにいいだろう、とも思う。それが「ただの」--つまり、自分とはまったく関係ないものであればどんなにいいだろう、と思う。
 人の顔に見るものは「ただの放心」「ただの困惑」、そして「ただの酷薄」ではありえない。どうしても「私」を含んだ世界とつながっている。切断されていない。つながっている。そのつながり方、「距離感」が、「酷薄」「放心」「困惑」とゆらぐようにして動いて見える。動いて見えるものを見ながら、伊藤も動くわけである。
 もし、それが伊藤と「無距離」(無関係)であったら、無関係(無距離)でありながら、「距離」を超越して、それを理解することができたら、どんなに世界は美しくなるだろう。

縄文の人と私は
窓枠が互いに似かようように似ている

 すべての「距離」は「似ている」ということばのなかに吸収されていく。「窓枠」と書いているのは、展示棚のガラスケースの「枠」のことだろう。展示「棚」を「窓」と思うのは、ガラス越しに伊藤と縄文人の骨が向き合うからだろう。「窓」から外を見るように、伊藤は骨を見ている。そのとき骨はやはり「窓」から外を見るように伊藤を見ていることになる。
 「窓」の外--それは、「私」とは「無関係」の世界である。「無関係」の世界であるけれど、人はそれを「無関係」のままには終わらせない。
 どうしても「交渉」してしまう。そうすると、そこに「ただの」ではない酷薄、放心、困惑があらわれる。 

 「ただの」はどこにもない。
 どこにもないから、伊藤は「ただの」を求めてしまう。そして、あ、あった--「ただの」は「縄文人の骨」にあった。その骨は笑っている。「ただの」笑いを笑っている。伊藤とは無関係な「笑い」を「笑っている」。
 「無関係」なのだけれど--「笑う」という何か基本的な「いのち」の形とはつながっている。純粋に、それぞれが「いきる」、その「いのち」とつながっている。縄文人には縄文人の「笑い」がある。伊藤には伊藤の「笑い」がある。そういうふうに、それぞれが独立していることが「ただの」かもしれない。

 「ただの」は最終連で、とても美しい形であらわれる。

貝塚跡地の丘を登れば
一面貝殻のような
スミレ
タンポポ

 ここには「ただの」は書かれていない。書かれていないのは、それがもう伊藤の「肉体(思想)」になってしまっていて、わざわざ書く必要がないからだ。伊藤にとっては自明のことだからだ。
 私は伊藤ではないので、伊藤の感じていることに近づくために、「ただの」を補って、次のように読むのである。

貝塚跡地の丘を登れば
一面貝殻のような
「ただの」スミレ
「ただの」タンポポ

 スミレ、タンポポは伊藤の思いとは無関係に、無距離に、つまり「絶対・距離」というような感じで、そこに存在する。伊藤の「気持ち(感情・情)」とは無関係に存在する。「情」に配慮しない形で存在する。これを「非情」という。
 伊藤のことばの美しさは、「非情」を知っている、「非情」を「肉体」としてわかっているところにあるのだと思う。

 この「非情」という感覚は、「肉体」としてわかっていても、いつもいつも「自覚」できるものではない。それは、ある瞬間、「唐突」に思い出すものなのである。
 「貝殻の丘」では縄文人の骨を見たとき、それが「唐突」にやってきた。
 この「唐突」ということばをつかった作品に「暗い夜のうちを」がある。

ここは湯のある穴
湯に浸かって外を見上げた
空もまた細く暗い空洞であった
大量の水が目の前の崖を落ちているが
湯とは岩で仕切られていた
滝を模し渓底を模し
岩にやはり景観として植えられている羊歯(しだ)
唐突に
久しいという思いがする
なにかに背負われて
羊歯の生える崖をするすると降りそっと湯に浸かったような
ずいぶんそっとのことであったことがおかしいような

 「唐突」というのは「論理的脈絡もなく」ということである。「論理的脈絡」というのは「頭」が整理することがらである。そして「頭」の整理機能では整えることのできないなにかというものはどこかにあり、それは「わけがわからないまま」、「肉体」が抱え込んでいる。「肉体」で受け止めている。「肉体」はそのことを「覚えている」。
 「頭」ではなく「肉体」が「覚えている」。そのことが「唐突」に思い出される。覚えているから、思い出すことができる。
 「笑う」ということを伊藤の「肉体」は覚えている。だから縄文人の骨を見て「笑い」を思い出す。唐突に。そして、それを「ただの」笑いとしてなつかしく感じる。
 「肉体」が「思い出す」ものは、いつでも、「久しい」という感じといっしょにあらわれる。「久しい」とは、かつてそれを「肉体」が体験したということとつながる。「肉体」が覚えている。「肉体」が覚えていることなので、「頭」で数えられる「時間」では整理できない。縄文人の骨といまの伊藤の骨が呼応するとき、そこに時間はあって、時間はない。計測できる時間はない。「ただの時間」、つまり「考え方」としての時間しかない。それは「過去」と「いま」を切断すると同時に接続する。矛盾を一気に実現する「時間」である。
 「暗い夜のうちを」では、伊藤は「いま」を忘れ(失い)、「久しい」昔に同じように湯に浸ったということを「唐突」に思い出している。その思い出を「肉体」は「覚えている」。でも、「頭」では整理できない。

不思議だ
あと三日したら新幹線あさまに乗って家に帰る
それも不思議に思える
水に打たれる羊歯を湯に浸かり見つめていると
それら一連のことが
そうしていつか
忘れてしまうのだろう
そうしてある日
唐突に
姿を見かけなくなって久しいものが
遠く影を傾け
なつかしさとさびしさの飛沫を浴びせるのだろう

 「肉体」は覚えていて、思い出す。「頭」は、そうすることができない。--それが「不思議」。
 あらゆることが「一連」であると「肉体」は知っている。覚えている。けれど「頭」はそれを「忘れてしまう」。思い出すことができない。けれど、「肉体」は、「ある日/唐突」に思い出す。そうして「なつかしさとさびしさ」を感じるのだ。

 伊藤のことばの底には、「頭」で急いでことばを処理するのではなく、じーっと「肉体」の奥でことばが醗酵(?)してくるのを待っていた人だけがつかみとることができる「なつかしさ/さびしさ」がある。




詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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