粒来哲蔵『蛾を吐く』(9)(思潮社、2011年10月01日発行)
「泡川 Ⅱ」には興味深いことばが次々に登場する。
1行目の「共に」、3行目の「共通の」。私は、このことばに粒来の「思想」(肉体)を感じた。それはほんとうは書きたくないことば(いつもなら書かずにすませることば)だと思う。しかし、今回はそのことばを書かないことにはことばが動いていかない。しかたなく、しかし、無意識に書いたことばが「共に」と「共通の」である。
「共(に)」と「共通(の)」は、同じことばである。そして、このことばが動くとき、そこには「共(共通)」を挟んで「ふたつ」のものが存在する。その「ふたつ」が「ひとつ」と「なる」ときが「共(共通)」ということばが動くときである。
「共(共通)」というのは、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」として動く「場」なのである。あるいは「時間」なのである。
「夕陽」が一方にあり、他方に「背景」がある。それが「共」に「ずり落ちる」という運動をする。その「場」が、ここでは「泡川」と名づけられている。「泡川」の「川面」と呼ばれている。
ここには、ひとつ、どうすることもできない「矛盾」がある。なぜ「泡川」(その川面)は、「背景」ではないのか。「川面」は夕陽が落ちるときの「背景」にはなりえないのか。
粒来は、無意識のうちに「泡川」とその「川面」を「夕陽」の「背景」から除外している。それは、このことばが動く瞬間、「私」が除外されていることと、たぶん関係している。
あるいは、そのとき「私」とは「ことば」そのものであり、「ことば」こそが「ことば」であるという意識から除外されている--ということばが私のなかで瞬間的にひらめくが、ここでは「メモ」の形に留めておくだけにする。
「共(共通)」に戻る。
「背景がずり落ちる」を粒来は「背景の一部」が「むしり取られ」「空白」になると書いている。「むしり取られ」は「むしり取る」力と「ひとつ」になってしまうことである。そういう力が働くとき、その力の側から反作用のように動くものがある。「陽を囲集する風景が慌しく動いて」と粒来は書いているが、それは私には「陽」が陽自信のなかから「背景」を吐き出して、という感じに見える。一方で、「陽」そのものへ背景を吸収し、他方で「陽」から背景を吐き出す。そうして、「空白」を埋める。
「空白」をつくる力が「陽」にあるのなら、「空白」を埋める力も「陽」にある。「二つ」の力は「ひとつ」である。
--何かしら、そこに書かれていることばを言いなおしてみると(つまり、私なりに考え直そうとすると)、そこには「矛盾」が噴出する。反対の(反作用としての)ことばが動き、度の強い眼鏡を無理矢理かけさせられて見る風景のように、細部がくっきり見えすぎで全体がばらばらになるような、一種の「悪夢」にのみこまれたような感じに襲われる。
私が見ている(読んでいる)のは、いったい何?
ひとつひとつことばを追って行っても、たぶん、混乱するだけである。
だから、私は一気に途中を省略して、次に立ち止まったところまで動いてしまう。「泡川」では夕陽が落ちるのを見ると、それにまきこまれてその人も川に落ちる。二人連れがこの災難に遭って、ひとりが取り残され泣いている--というような「ストーリー」というか「物語」の構造をつくりあげたあとで、粒来は、次のように「ストーリー」を展開する。
そして、母と私はどうなるか--ということに、私は実は関心がない。いま引用した部分の2行目の「ずれ」には傍点が打ってある。この傍点を打って強調している「ずれ」。それが最初に見た「共(共通)」に通じることばである。
「共(共通)」は「同じ」(いっしょ)ということである。ところが「ずれ」は「いっしょではない」ということである。共通ではなく、違い(差異)が「ずれ」である。
しかし、その差異(ずれ)というものは「共通」があってはじめて存在するものである。「共通」を意識できない人には「ずれ」も意識できない。
ここから大胆に飛躍すると、「私」と「母」とは別個の存在である。しかし、そのふたりにはふたりを結ぶ「何か」があって、それは「共通」のものである。「共通」するものがふたりを結ぶ。そして、同時にふたりを結んだ瞬間に、そこに「ずれ」を浮かびあがらせる。
そのとき浮かび上がる「ずれ」というのは、うまくことばにすることができない「矛盾」である。ことばにすると「ずれ」だけが増えつづける「矛盾」である。この「矛盾」を「共通のずれ」と呼ぶことができるし、またその「ずれ」を「矛盾」を「補いあうもの」と呼ぶこともできるかもしれない。
私がきょう書いている感想は、飛躍が大きくて論理になっていないかもしれないが、まあ、詩の感想だから、こういう一種の「でたらめ」もあっていいのだ。
この「共/共通」「ずれ」「補う」ということばをひきつれながら動く「物語(ストーリー)」をなんというか。「寓話」という。
これは「*」を挟んで続く詩の書き出しの部分だが、「寓意」とは「寓話」のなかの「意味」ということだろう。
ほんとうは別個の存在が、互いに「共通」のものをみつけ、その「共通」のなかで動くとき、「ずれ」が浮かび上がり、またその「ずれ」を「補い」、修復しながら、世界はどうなるのか。
「生」と「死」を結ぶ「共通」は何か。そこにある「ずれ(差異)」は何を誘うか。何で「補え」と誘うのか。--あ、それは、「補う」のではなく、「超越する」(超える)のだ。「倍音」とは「現実」と「寓話」の「和音」の関係である。二つが中央で出会うのではなく、「場」を超越する。出会いを超越する。
この詩には、あまりにも多くの粒来の思想が同居しているので、どこから整理していっていいかわからない。
「泡川 Ⅱ」には興味深いことばが次々に登場する。
泡川に落ちる夕陽を見ていると、時折背景が陽と共にずり落ちて
川面に消え失せることがある。勿論その時風景の一部はむしり取ら
れて空白になるが、直ぐ様まるで共通の落度を補うかのようにして、
陽を囲集する風景が慌しく動いて背景を埋め直す。
1行目の「共に」、3行目の「共通の」。私は、このことばに粒来の「思想」(肉体)を感じた。それはほんとうは書きたくないことば(いつもなら書かずにすませることば)だと思う。しかし、今回はそのことばを書かないことにはことばが動いていかない。しかたなく、しかし、無意識に書いたことばが「共に」と「共通の」である。
「共(に)」と「共通(の)」は、同じことばである。そして、このことばが動くとき、そこには「共(共通)」を挟んで「ふたつ」のものが存在する。その「ふたつ」が「ひとつ」と「なる」ときが「共(共通)」ということばが動くときである。
「共(共通)」というのは、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」として動く「場」なのである。あるいは「時間」なのである。
「夕陽」が一方にあり、他方に「背景」がある。それが「共」に「ずり落ちる」という運動をする。その「場」が、ここでは「泡川」と名づけられている。「泡川」の「川面」と呼ばれている。
ここには、ひとつ、どうすることもできない「矛盾」がある。なぜ「泡川」(その川面)は、「背景」ではないのか。「川面」は夕陽が落ちるときの「背景」にはなりえないのか。
粒来は、無意識のうちに「泡川」とその「川面」を「夕陽」の「背景」から除外している。それは、このことばが動く瞬間、「私」が除外されていることと、たぶん関係している。
あるいは、そのとき「私」とは「ことば」そのものであり、「ことば」こそが「ことば」であるという意識から除外されている--ということばが私のなかで瞬間的にひらめくが、ここでは「メモ」の形に留めておくだけにする。
「共(共通)」に戻る。
「背景がずり落ちる」を粒来は「背景の一部」が「むしり取られ」「空白」になると書いている。「むしり取られ」は「むしり取る」力と「ひとつ」になってしまうことである。そういう力が働くとき、その力の側から反作用のように動くものがある。「陽を囲集する風景が慌しく動いて」と粒来は書いているが、それは私には「陽」が陽自信のなかから「背景」を吐き出して、という感じに見える。一方で、「陽」そのものへ背景を吸収し、他方で「陽」から背景を吐き出す。そうして、「空白」を埋める。
「空白」をつくる力が「陽」にあるのなら、「空白」を埋める力も「陽」にある。「二つ」の力は「ひとつ」である。
--何かしら、そこに書かれていることばを言いなおしてみると(つまり、私なりに考え直そうとすると)、そこには「矛盾」が噴出する。反対の(反作用としての)ことばが動き、度の強い眼鏡を無理矢理かけさせられて見る風景のように、細部がくっきり見えすぎで全体がばらばらになるような、一種の「悪夢」にのみこまれたような感じに襲われる。
私が見ている(読んでいる)のは、いったい何?
ひとつひとつことばを追って行っても、たぶん、混乱するだけである。
だから、私は一気に途中を省略して、次に立ち止まったところまで動いてしまう。「泡川」では夕陽が落ちるのを見ると、それにまきこまれてその人も川に落ちる。二人連れがこの災難に遭って、ひとりが取り残され泣いている--というような「ストーリー」というか「物語」の構造をつくりあげたあとで、粒来は、次のように「ストーリー」を展開する。
私が戒めを破って陽の入りを見たのは母の懇願によってだった。
母は町の出だから、夕陽と背景のずれはとくと承知していた。
そして、母と私はどうなるか--ということに、私は実は関心がない。いま引用した部分の2行目の「ずれ」には傍点が打ってある。この傍点を打って強調している「ずれ」。それが最初に見た「共(共通)」に通じることばである。
「共(共通)」は「同じ」(いっしょ)ということである。ところが「ずれ」は「いっしょではない」ということである。共通ではなく、違い(差異)が「ずれ」である。
しかし、その差異(ずれ)というものは「共通」があってはじめて存在するものである。「共通」を意識できない人には「ずれ」も意識できない。
ここから大胆に飛躍すると、「私」と「母」とは別個の存在である。しかし、そのふたりにはふたりを結ぶ「何か」があって、それは「共通」のものである。「共通」するものがふたりを結ぶ。そして、同時にふたりを結んだ瞬間に、そこに「ずれ」を浮かびあがらせる。
そのとき浮かび上がる「ずれ」というのは、うまくことばにすることができない「矛盾」である。ことばにすると「ずれ」だけが増えつづける「矛盾」である。この「矛盾」を「共通のずれ」と呼ぶことができるし、またその「ずれ」を「矛盾」を「補いあうもの」と呼ぶこともできるかもしれない。
私がきょう書いている感想は、飛躍が大きくて論理になっていないかもしれないが、まあ、詩の感想だから、こういう一種の「でたらめ」もあっていいのだ。
この「共/共通」「ずれ」「補う」ということばをひきつれながら動く「物語(ストーリー)」をなんというか。「寓話」という。
川からさしずめ私が感得したのは、すさまじいまでの寓意であった。
これは「*」を挟んで続く詩の書き出しの部分だが、「寓意」とは「寓話」のなかの「意味」ということだろう。
ほんとうは別個の存在が、互いに「共通」のものをみつけ、その「共通」のなかで動くとき、「ずれ」が浮かび上がり、またその「ずれ」を「補い」、修復しながら、世界はどうなるのか。
私にはその声、が生に先立つ死を予感しつつなおも
両者を超えて執拗に湧出を繰り返す水泡の、泡川の、愚かしくも尊
大な夢の倍音となって聴こえてきた。
「生」と「死」を結ぶ「共通」は何か。そこにある「ずれ(差異)」は何を誘うか。何で「補え」と誘うのか。--あ、それは、「補う」のではなく、「超越する」(超える)のだ。「倍音」とは「現実」と「寓話」の「和音」の関係である。二つが中央で出会うのではなく、「場」を超越する。出会いを超越する。
この詩には、あまりにも多くの粒来の思想が同居しているので、どこから整理していっていいかわからない。
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