粒来哲蔵『蛾を吐く』(5)(思潮社、2011年10月01日発行)
「梔子」は、「M島」(三宅島だろうか)で目撃したイタチとメジロの壮絶な闘いを描いているのだが、そこに「私」が出てくる。
私は、この「私」につまずいてしまった。「私」は粒来自身かもしれない。そう考えると、まあ、ふつうの詩である。--はずである。でも、私はつまずいた。
理由は二つある。
一つ目。「私」が書かれているが、その「私」がこの部分でどんな役割をしているのかまったくわからない。「私」は書かれる必要があるのか。
このことばが、ここに書かれていないとしたら、何か「世界」が変わってしまうようなことが起きるのか。「私」は書かれていなくても、誰かが鼬を見ているというか、鼬を書いていることに違いない。
たとえば、「黄色い島」では「私」は書かれていないが、誰かが「目撃」したこととして書かれている。ことばは動いている。
きんぽうげが互いに殺戮し合うというのは、現実にはありえないこと、ことばだけの世界である。「寓話」である。だから、「私」を書かなかったのかもしれないが、まあ、それは粒来が「目撃」したこととして読者は(私は)読んでしまう。「私」が出てこないだけに、「寓話」性が強くなる。
「揺れる」は絞首台の下で死刑囚を受け止める(?)男の話である。そこにも「私」は出てこない。これは「目撃」したことではなく、ことばを動かすことで作り上げた世界、「寓話」である、といえる。
どうして、粒来は、そんなふうにしてこの作品を書かなかったのか。
で、二つ目の理由。これは、まあ、一つ目の理由の裏返しでもあるけれど。
詩のハイライトであると思う。
この描写は「私」が目撃したものなのだが、この文を読むとき、私(谷内)は「私」の存在を忘れている。また、実際、そこには「私」は書かれていない。だから、「私」がいないものとして読んでしまう。
なぜ、その前の部分で「私」を2回もつづけて登場させたのだろうか。
また、なぜ、ここでは「私」を書かなかったのだろうか。
「私」の存在がなくても、この鼬と目白の闘いはそのまま存在する。そして、それは「私」が不在のとき、何かしら「寓話」めいてくる。「私」がいない方が、「黄色い島」「揺れる」ともつながると感じる。
でも、粒来は、「私」を書いている。鼬と目白の壮絶な闘いを描写するとき、「私」という存在を明記してはいないけれど、そこには「私」がいる。
これは「寓話」ではないのだ。「寓意」はこのなかには少しもこめられていないのだ。つまり、私たち読者は、ここから勝手な「寓意」を読みとってはいけないのだ。
粒来は、ここでは「寓意」を感じ取ることを拒否しているのだ。
私は、ここで困惑してしまう。
私はもともと誰のどんな作品からも勝手な「意味」を引き出す。「誤読」する。「誤読」することが読者の権利であると思っている。
そういう権利がここでは拒否されているのだ。
そして、つまずくのである。
粒来は、何を書きたかったのか。何を読みとってほしくて鼬と目白の惨劇を描いたのか。
この「思想」を粒来は書きたかったようである。「私」を登場させたのは、「私」にこのことばを言わせたかったからである。
そうはかわっても、あ、なんだか変である。
この部分に出てくる「仮面」とは何?
「仮面」に「寓意」はないか。
「仮面」の「仮」は、どうしても「寓意」(寓話)、「比喩」のようなものを呼び寄せる。現実を私たちは生きているわけだけれど、その現実は表面的(仮面的)なものであり、その奥には「別なもの」をもっている。
そして、それは粒来の場合、「ほんものの生」ではなく、「死の仮面」である。
これは、「寓話(寓意)」というものが、虚構・仮構のなかで何事かを語るものだと仮定すれば、「死の仮面劇」を瞬間瞬間に「寓話(寓意)」として取り出して見せる、ということになるだろうか。
「ほんものの生」ではなく、「ほんものの死」がある。
それを見せるために「死の仮面」を用意する……。
「死」は「私」のなかにある。その「死」があるとき噴出してきて、たとえば鼬と目白の惨劇となる。
あらゆる「寓話(寓意)」は「私」であり、「私」が「生」と「死」を瞬時に入れ換える。
--私のことばは急ぎすぎているかもしれない。
「けだしこの島に……」を引用していたとき、実は、私はしびれをともなった頭痛に襲われた。正座していると足がしびれるが、それが頭全体に広がり、眼の焦点があわなくなった。1字1字は読むことができるのだが、2文字つづけてよむことができなくなった。それで書くことを一旦中断し(数時間眠って)、再び書いている。
だから途中から、ことばがうまくつながらないのだ。
論理的ではない部分があるが、とりあえず、そのとき思っていたことを、思い出せる部分だけ、断片的に書いている。そのために、飛躍が多く、急いでいる感じになっている--とわかるが、修正がきかない。あいかわらず頭がしびれる。
「死」を、しかも「仮面」としてもっている「私」。
鼬と目白を描きながら、実は、その「私」を粒来は書いている。
そう思った瞬間、しかし、別のこともふいに私の頭の中を、肉体のなかを動き回る。
詩の、ほんとうの最後の部分。
--やがて目白の巣は風に吹かれて落ち、それと触れた梔子の花
もろとも地に転がった。
この作品のタイトルは「鼬」でもなければ「目白」でもない。「梔子」である。
なぜ、「梔子」?
私は目白が梔子の木に巣をかけるかどうか知らない。梔子の花はみたことがあるが、目白の巣は見たことがない。--ということは、どうでもいいことなのかもしれないが、タイトルがとても気になるのである。
「梔子」が「私」の「寓意」の象徴なのか。
「それと触れた梔子の花」の「それ」が何を指すのかもわからない。「目白の巣」? あるいは目白の悲劇? あるいは目白の闘い? --同じことかもしれないが、悲劇というときと闘いというときでは、意識が違ってくるから、きっと同じことではない。
同じであって、また同じことではない--ということが、この作品には書かれているのかもしれない。その「同じであって、また同じことではない」ということが動き回る「場」が「私」なのか……。
--わからないが、わからないまま、書いておく。私の書いているのは、私のためのメモなのだから。
「梔子」は、「M島」(三宅島だろうか)で目撃したイタチとメジロの壮絶な闘いを描いているのだが、そこに「私」が出てくる。
鼬は悠々と空を眺め、花を嗅ぎ、頭を回らして潮騒を聴いていた。
時折私と目が合ったがそれだけのことだった。だがしかし鼬の本性
は私に寸時の余裕も与えてくれはしなかった。鼬の尾はひくひくと
動いており、生あくびを噛み殺した口で足指を噛みはじめ、下から
斜め上に走らせる研ぎすまされた視線は、この後瞬時にして起こり
得るだろうある種の寸劇の、血を見る結末を予感させるのに十分だ
った。
私は、この「私」につまずいてしまった。「私」は粒来自身かもしれない。そう考えると、まあ、ふつうの詩である。--はずである。でも、私はつまずいた。
理由は二つある。
一つ目。「私」が書かれているが、その「私」がこの部分でどんな役割をしているのかまったくわからない。「私」は書かれる必要があるのか。
時折私と目が合ったがそれだけのことだった。だがしかし鼬の本性
は私に寸時の余裕も与えてくれはしなかった。
このことばが、ここに書かれていないとしたら、何か「世界」が変わってしまうようなことが起きるのか。「私」は書かれていなくても、誰かが鼬を見ているというか、鼬を書いていることに違いない。
たとえば、「黄色い島」では「私」は書かれていないが、誰かが「目撃」したこととして書かれている。ことばは動いている。
きんぽうげが互いに殺戮し合うというのは、現実にはありえないこと、ことばだけの世界である。「寓話」である。だから、「私」を書かなかったのかもしれないが、まあ、それは粒来が「目撃」したこととして読者は(私は)読んでしまう。「私」が出てこないだけに、「寓話」性が強くなる。
「揺れる」は絞首台の下で死刑囚を受け止める(?)男の話である。そこにも「私」は出てこない。これは「目撃」したことではなく、ことばを動かすことで作り上げた世界、「寓話」である、といえる。
どうして、粒来は、そんなふうにしてこの作品を書かなかったのか。
で、二つ目の理由。これは、まあ、一つ目の理由の裏返しでもあるけれど。
--その時目白の親鳥が己が身を鼬の鼻面にたたきつけるようにし
て飛びかかった。親鳥二羽は代る代る鼬の顔面に体当たりを試みた。
鼬は後足で立ち上がり、前足で空を掻きむしるようにして目白に爪
を立てた。羽が千切れ吹き飛んだ。一羽は腹に一撃をくらって地に
落ちた。辛うじて残った一羽は鼬に背肉を裂かれたが嘴を鼬の片目
に突き立てた。鼬の目から吹き出た赤いものが、目白の腹毛を伝っ
て地にこぼれた。目白はそのまま鼬の目にぶらさがって死んだ。
--劇は終わった。
詩のハイライトであると思う。
この描写は「私」が目撃したものなのだが、この文を読むとき、私(谷内)は「私」の存在を忘れている。また、実際、そこには「私」は書かれていない。だから、「私」がいないものとして読んでしまう。
なぜ、その前の部分で「私」を2回もつづけて登場させたのだろうか。
また、なぜ、ここでは「私」を書かなかったのだろうか。
「私」の存在がなくても、この鼬と目白の闘いはそのまま存在する。そして、それは「私」が不在のとき、何かしら「寓話」めいてくる。「私」がいない方が、「黄色い島」「揺れる」ともつながると感じる。
でも、粒来は、「私」を書いている。鼬と目白の壮絶な闘いを描写するとき、「私」という存在を明記してはいないけれど、そこには「私」がいる。
これは「寓話」ではないのだ。「寓意」はこのなかには少しもこめられていないのだ。つまり、私たち読者は、ここから勝手な「寓意」を読みとってはいけないのだ。
粒来は、ここでは「寓意」を感じ取ることを拒否しているのだ。
私は、ここで困惑してしまう。
私はもともと誰のどんな作品からも勝手な「意味」を引き出す。「誤読」する。「誤読」することが読者の権利であると思っている。
そういう権利がここでは拒否されているのだ。
そして、つまずくのである。
粒来は、何を書きたかったのか。何を読みとってほしくて鼬と目白の惨劇を描いたのか。
けだしこの島に生きるものには、ありきたりの安寧はない。もし
かすると生は今在るという証の仮面はつけてはいるものの、同じ手
の中にもう一枚死の仮面を隠し持っていて、事あるごとに瞬時に付
けかえているのではあるまいか。
この「思想」を粒来は書きたかったようである。「私」を登場させたのは、「私」にこのことばを言わせたかったからである。
そうはかわっても、あ、なんだか変である。
この部分に出てくる「仮面」とは何?
「仮面」に「寓意」はないか。
「仮面」の「仮」は、どうしても「寓意」(寓話)、「比喩」のようなものを呼び寄せる。現実を私たちは生きているわけだけれど、その現実は表面的(仮面的)なものであり、その奥には「別なもの」をもっている。
そして、それは粒来の場合、「ほんものの生」ではなく、「死の仮面」である。
同じ手の中にもう一枚死の仮面を隠し持っていて、
これは、「寓話(寓意)」というものが、虚構・仮構のなかで何事かを語るものだと仮定すれば、「死の仮面劇」を瞬間瞬間に「寓話(寓意)」として取り出して見せる、ということになるだろうか。
「ほんものの生」ではなく、「ほんものの死」がある。
それを見せるために「死の仮面」を用意する……。
「死」は「私」のなかにある。その「死」があるとき噴出してきて、たとえば鼬と目白の惨劇となる。
あらゆる「寓話(寓意)」は「私」であり、「私」が「生」と「死」を瞬時に入れ換える。
--私のことばは急ぎすぎているかもしれない。
「けだしこの島に……」を引用していたとき、実は、私はしびれをともなった頭痛に襲われた。正座していると足がしびれるが、それが頭全体に広がり、眼の焦点があわなくなった。1字1字は読むことができるのだが、2文字つづけてよむことができなくなった。それで書くことを一旦中断し(数時間眠って)、再び書いている。
だから途中から、ことばがうまくつながらないのだ。
論理的ではない部分があるが、とりあえず、そのとき思っていたことを、思い出せる部分だけ、断片的に書いている。そのために、飛躍が多く、急いでいる感じになっている--とわかるが、修正がきかない。あいかわらず頭がしびれる。
「死」を、しかも「仮面」としてもっている「私」。
鼬と目白を描きながら、実は、その「私」を粒来は書いている。
そう思った瞬間、しかし、別のこともふいに私の頭の中を、肉体のなかを動き回る。
詩の、ほんとうの最後の部分。
--やがて目白の巣は風に吹かれて落ち、それと触れた梔子の花
もろとも地に転がった。
この作品のタイトルは「鼬」でもなければ「目白」でもない。「梔子」である。
なぜ、「梔子」?
私は目白が梔子の木に巣をかけるかどうか知らない。梔子の花はみたことがあるが、目白の巣は見たことがない。--ということは、どうでもいいことなのかもしれないが、タイトルがとても気になるのである。
「梔子」が「私」の「寓意」の象徴なのか。
「それと触れた梔子の花」の「それ」が何を指すのかもわからない。「目白の巣」? あるいは目白の悲劇? あるいは目白の闘い? --同じことかもしれないが、悲劇というときと闘いというときでは、意識が違ってくるから、きっと同じことではない。
同じであって、また同じことではない--ということが、この作品には書かれているのかもしれない。その「同じであって、また同じことではない」ということが動き回る「場」が「私」なのか……。
--わからないが、わからないまま、書いておく。私の書いているのは、私のためのメモなのだから。
うずくまる陰影のための習作―詩集 (1981年) | |
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