岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(補足)(「現代詩手帖」2011年10月号)
岡井隆の「旧師についての私信風の呟き」は、あっちへ行ったりこっちへ来たりという感じでことばが動いてゆく。この詩は「朔太郎特集」の内の一篇で、当然、朔太郎のことも出てくる。真っ正面から朔太郎をこう思うというようなことは書いていないのだが、岡井が、朔太郎の「指向していたもの」にいつも触れている感じがする。そして、その触れている感じは、朔太郎から離れたときの方が「輪郭」が見えるように思える。接近すると朔太郎の磁場にのみこまれる。接近するにしても、たとえばこの詩の場合でいえば清岡卓行の詩を引用している部分があるが、そういふうに他人を媒介にして接近すると、ただ接近するだけでは見えなかった「輪郭」が見えるような……。
私は、何か明確な結論や主張があって書いているわけではない。「日記」なので、どうしてもメモという形でほうりだしてしまうことになるのだが、たとえばこの詩の最終段落。
ことばをどこへ向けて放つか、詩をどこへ向けて放つか。
それは「テーマ/題材」に深くかかわることだろうけれど、そのとき私が気になるのはことばの音である。あるいは音のための「表記」である。
岡井が実際に考えていることは、私の感じていることとは違うかもしれないが、たとえば「繊毛」を「センモウ」と音にするか(声にするか)、「ワタゲ」と音にするか(声にするか)では、「肉体」の反応が違う。
そしてこの「肉体」の反応は、そのとき喉とか耳だけではなく、目にも跳ね返ってきて「繊毛」という漢字そのものを揺さぶる。そこに複雑さがある。「繊毛」という表記が「センモウ」と読んだり「ワタゲ」と声にするとき、目の前から消えてくれれば問題は違ってくるが、どんなふうに音にしても、そこに存在し、それがもう一度「肉体」のなかへもぐりこもうとする。
このときの、「肉体」の軋み--それは「肉体」であると同時に、「国語の伝統(?)」というか、「文化」の問題にもなる。
そのことを、どうことばにすれば対話になるのか。議論になるのか。あるいは議論を決裂させる闘いになるのか。
そういうことが、詩の場合、もっと問題にされていいのではないだろうか、と岡井は石井の短歌を読みながら感じたのだと思う。けれど選考会では、そういうことが起きなかった。これは、どうしてなのか--と岡井は自問する。
その自問の先に、岡井は、朔太郎の存在を見ている。
今書いたことと、きのう書いた「旧かな」、五十音図による文法の強化(修正?)は別の問題かもしれないが、私の「肉体」のなかではつながっている。つまり、未整理のまま、ごちゃごちゃのままうごめいている。
だから--だから、というのは、変かもしれないけれど。
岡井のことばの強さ、いま、ここにあるものをまるでつかんでは放り投げるという感じのきままなしなやかさがうらやましい。そこにはことばというよりも、ことばと向き合って対峙している岡井の「肉体」がある。鍛えぬかれた骨・筋肉があり、響きのよい声帯があり、不思議な共鳴装置をもった耳があり、文字にまどわされない視力がある。
そのオーラ(?)を感じ取り、ことばがおのずと、岡井に従って動きはじめるという、ことばの「自立(自律)性」も感じる。岡井に動かされるふりをしながら、ことばはことばの望む運動をかってきままにしており、岡井がそれを追認しているという感じもする。ことばがいろいろな束縛をとかれ自由になり、動いていくとき、そこに詩があり、それを追認するとき、ひとは詩人になる。--そういう幸福を感じる。
「いや、私は苦労して書いています」と岡井は言うかもしれないけれど、その岡井の「苦労(?)が私には巨大な「自然」に見える。
岡井隆の「旧師についての私信風の呟き」は、あっちへ行ったりこっちへ来たりという感じでことばが動いてゆく。この詩は「朔太郎特集」の内の一篇で、当然、朔太郎のことも出てくる。真っ正面から朔太郎をこう思うというようなことは書いていないのだが、岡井が、朔太郎の「指向していたもの」にいつも触れている感じがする。そして、その触れている感じは、朔太郎から離れたときの方が「輪郭」が見えるように思える。接近すると朔太郎の磁場にのみこまれる。接近するにしても、たとえばこの詩の場合でいえば清岡卓行の詩を引用している部分があるが、そういふうに他人を媒介にして接近すると、ただ接近するだけでは見えなかった「輪郭」が見えるような……。
私は、何か明確な結論や主張があって書いているわけではない。「日記」なので、どうしてもメモという形でほうりだしてしまうことになるのだが、たとえばこの詩の最終段落。
昨夜は石井辰彦の歌集『詩を弃て去つて』をめぐつて八人の歌人が論じ合ふといふ歌の宴につらなりました。むかし朔太郎の「竹」のなかの「繊毛」といふ詩語の<訓み>についてセンモウとよむのかワタゲとよむのかただそれだけのことを--これこそ師のいはれる詩語のコンコーダンス(索引)に属するのかと思ふが、荒木亨、菅谷規矩雄、那珂太郎、北川透たちが集まつて来て喧喧諤諤の議論になつたのを想起しました といふのはわたしたちの今の世の批評会はまことにしづかに進行して
征(ゆ)きなさい!詩人なら…………太陽の箭(ヤ)の降り注ぐ地へ。詩を弃(す)て去つて
(石井辰彦)
といふ歌の中の記号についてまたルビの仮名の書き分けについて「弃」「箭」などの漢字の選びについてあれこれ言ひ出すこともなく 「征きなさい」といふすすめの含む挑発の前にただ黙つて あるいは微笑しながら立ち尽くむほかなかつたのでした あの巨大な朔太郎的主題は本当に今も生きてゐるのだろうかと疑ひはふかまるばかりです
ことばをどこへ向けて放つか、詩をどこへ向けて放つか。
それは「テーマ/題材」に深くかかわることだろうけれど、そのとき私が気になるのはことばの音である。あるいは音のための「表記」である。
岡井が実際に考えていることは、私の感じていることとは違うかもしれないが、たとえば「繊毛」を「センモウ」と音にするか(声にするか)、「ワタゲ」と音にするか(声にするか)では、「肉体」の反応が違う。
そしてこの「肉体」の反応は、そのとき喉とか耳だけではなく、目にも跳ね返ってきて「繊毛」という漢字そのものを揺さぶる。そこに複雑さがある。「繊毛」という表記が「センモウ」と読んだり「ワタゲ」と声にするとき、目の前から消えてくれれば問題は違ってくるが、どんなふうに音にしても、そこに存在し、それがもう一度「肉体」のなかへもぐりこもうとする。
このときの、「肉体」の軋み--それは「肉体」であると同時に、「国語の伝統(?)」というか、「文化」の問題にもなる。
そのことを、どうことばにすれば対話になるのか。議論になるのか。あるいは議論を決裂させる闘いになるのか。
そういうことが、詩の場合、もっと問題にされていいのではないだろうか、と岡井は石井の短歌を読みながら感じたのだと思う。けれど選考会では、そういうことが起きなかった。これは、どうしてなのか--と岡井は自問する。
その自問の先に、岡井は、朔太郎の存在を見ている。
今書いたことと、きのう書いた「旧かな」、五十音図による文法の強化(修正?)は別の問題かもしれないが、私の「肉体」のなかではつながっている。つまり、未整理のまま、ごちゃごちゃのままうごめいている。
だから--だから、というのは、変かもしれないけれど。
岡井のことばの強さ、いま、ここにあるものをまるでつかんでは放り投げるという感じのきままなしなやかさがうらやましい。そこにはことばというよりも、ことばと向き合って対峙している岡井の「肉体」がある。鍛えぬかれた骨・筋肉があり、響きのよい声帯があり、不思議な共鳴装置をもった耳があり、文字にまどわされない視力がある。
そのオーラ(?)を感じ取り、ことばがおのずと、岡井に従って動きはじめるという、ことばの「自立(自律)性」も感じる。岡井に動かされるふりをしながら、ことばはことばの望む運動をかってきままにしており、岡井がそれを追認しているという感じもする。ことばがいろいろな束縛をとかれ自由になり、動いていくとき、そこに詩があり、それを追認するとき、ひとは詩人になる。--そういう幸福を感じる。
「いや、私は苦労して書いています」と岡井は言うかもしれないけれど、その岡井の「苦労(?)が私には巨大な「自然」に見える。
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