詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(補足)

2011-10-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(補足)(「現代詩手帖」2011年10月号)

 岡井隆の「旧師についての私信風の呟き」は、あっちへ行ったりこっちへ来たりという感じでことばが動いてゆく。この詩は「朔太郎特集」の内の一篇で、当然、朔太郎のことも出てくる。真っ正面から朔太郎をこう思うというようなことは書いていないのだが、岡井が、朔太郎の「指向していたもの」にいつも触れている感じがする。そして、その触れている感じは、朔太郎から離れたときの方が「輪郭」が見えるように思える。接近すると朔太郎の磁場にのみこまれる。接近するにしても、たとえばこの詩の場合でいえば清岡卓行の詩を引用している部分があるが、そういふうに他人を媒介にして接近すると、ただ接近するだけでは見えなかった「輪郭」が見えるような……。

 私は、何か明確な結論や主張があって書いているわけではない。「日記」なので、どうしてもメモという形でほうりだしてしまうことになるのだが、たとえばこの詩の最終段落。

昨夜は石井辰彦の歌集『詩を弃て去つて』をめぐつて八人の歌人が論じ合ふといふ歌の宴につらなりました。むかし朔太郎の「竹」のなかの「繊毛」といふ詩語の<訓み>についてセンモウとよむのかワタゲとよむのかただそれだけのことを--これこそ師のいはれる詩語のコンコーダンス(索引)に属するのかと思ふが、荒木亨、菅谷規矩雄、那珂太郎、北川透たちが集まつて来て喧喧諤諤の議論になつたのを想起しました といふのはわたしたちの今の世の批評会はまことにしづかに進行して

 征(ゆ)きなさい!詩人なら…………太陽の箭(ヤ)の降り注ぐ地へ。詩を弃(す)て去つて
                              (石井辰彦)
といふ歌の中の記号についてまたルビの仮名の書き分けについて「弃」「箭」などの漢字の選びについてあれこれ言ひ出すこともなく 「征きなさい」といふすすめの含む挑発の前にただ黙つて あるいは微笑しながら立ち尽くむほかなかつたのでした あの巨大な朔太郎的主題は本当に今も生きてゐるのだろうかと疑ひはふかまるばかりです

 ことばをどこへ向けて放つか、詩をどこへ向けて放つか。
 それは「テーマ/題材」に深くかかわることだろうけれど、そのとき私が気になるのはことばの音である。あるいは音のための「表記」である。
 岡井が実際に考えていることは、私の感じていることとは違うかもしれないが、たとえば「繊毛」を「センモウ」と音にするか(声にするか)、「ワタゲ」と音にするか(声にするか)では、「肉体」の反応が違う。
 そしてこの「肉体」の反応は、そのとき喉とか耳だけではなく、目にも跳ね返ってきて「繊毛」という漢字そのものを揺さぶる。そこに複雑さがある。「繊毛」という表記が「センモウ」と読んだり「ワタゲ」と声にするとき、目の前から消えてくれれば問題は違ってくるが、どんなふうに音にしても、そこに存在し、それがもう一度「肉体」のなかへもぐりこもうとする。
 このときの、「肉体」の軋み--それは「肉体」であると同時に、「国語の伝統(?)」というか、「文化」の問題にもなる。
 そのことを、どうことばにすれば対話になるのか。議論になるのか。あるいは議論を決裂させる闘いになるのか。
 そういうことが、詩の場合、もっと問題にされていいのではないだろうか、と岡井は石井の短歌を読みながら感じたのだと思う。けれど選考会では、そういうことが起きなかった。これは、どうしてなのか--と岡井は自問する。
 その自問の先に、岡井は、朔太郎の存在を見ている。

 今書いたことと、きのう書いた「旧かな」、五十音図による文法の強化(修正?)は別の問題かもしれないが、私の「肉体」のなかではつながっている。つまり、未整理のまま、ごちゃごちゃのままうごめいている。
 だから--だから、というのは、変かもしれないけれど。
 岡井のことばの強さ、いま、ここにあるものをまるでつかんでは放り投げるという感じのきままなしなやかさがうらやましい。そこにはことばというよりも、ことばと向き合って対峙している岡井の「肉体」がある。鍛えぬかれた骨・筋肉があり、響きのよい声帯があり、不思議な共鳴装置をもった耳があり、文字にまどわされない視力がある。
 そのオーラ(?)を感じ取り、ことばがおのずと、岡井に従って動きはじめるという、ことばの「自立(自律)性」も感じる。岡井に動かされるふりをしながら、ことばはことばの望む運動をかってきままにしており、岡井がそれを追認しているという感じもする。ことばがいろいろな束縛をとかれ自由になり、動いていくとき、そこに詩があり、それを追認するとき、ひとは詩人になる。--そういう幸福を感じる。
 「いや、私は苦労して書いています」と岡井は言うかもしれないけれど、その岡井の「苦労(?)が私には巨大な「自然」に見える。



現代詩手帖 2011年 10月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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スタンリー・ドーネン監督「シャレード」(★★★)

2011-10-15 19:14:51 | 午前十時の映画祭
監督 スタンリー・ドーネン 出演 オードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント、ウォルター・マッソー、 ジェームズ・コバーン

 オードリー・ヘップバーンのおもしろさは現実感のなさである。この映画でも、その魅力が発揮されている。どれだけ食べても太らない――という非現実的な人物造形からそうだけれど、それより。
 「ケーリー・グラントってハンサム、結婚したいわ」
 と、どんな状況の時でも思ってしまう軽薄(?)な感じが、とてもいい。どうせ映画なんだもの。
 情況というか、ストリートは無関係に、ケーリー・グラントの顎えくぼを指でさわって「ここも髭そるの?」なんて、好きだなあ。そうか、顎えくぼはセクシーの象徴か。マイケル・ジャクソンは成形して、わざわざつくっていたなあ。(私はつくらなくても、あります――と、突然宣伝。)
 リンゴリレーもいいけれど、ジェームズ・コバーンが、マッチに火をつけてオードリー・ヘップバーンをいじめる(?)ところも好きだなあ。子供っぽいというか、逆に大人っぽいというべきか。ばかばかしいから、うれしくなる。こういう困った時の顔が不思議と色っぽい。
 ウォルター・マッソーと話していて、たばこを吸う。そのときフィルターを嫌って必ずたばこを半分に折るのも、なかなかおもしろい。ヘップバーン以外の女優がやったら「意味」になってしまう。「肉体」が出てきてしまう。
 ヘップバーンに「肉体」が欠如(欠落?)しているためだろうか、私はときどき、ヘップバーンの「動き」を真似してみたくなる。このたばこのシーンが、この映画では、その代表例かな。あ、私は医者に禁じられているので、たばこは一度も吸ったことがないのだけれど。
 ヘップバーンの動き(肉体)を真似してみたいと思うのは、まあ、私だけではないかもしれない。映画のなかでは、オチのようにして、ケーリー・グラントがヘップバーンの目を顔の真ん中にあつめて口を開く表情をコピーしているね。
 ケーリー・グラントといえば。あのシャワーのシーンがおかまっぽくておかしい。そのあとバスロブで、しっかり体を隠してでてくるところなんかも傑作だなあ。

 映画はストーリーではありません――の代表作だね。
 ヒチコックが撮ると、もっと「肉体」が濃厚に出てきて、その「肉体」にひきつけれれるんだろうけれど、その場合、ヘップバーンじゃ無理な感じがする。
 まあ、ヘップバーンあっての映画だね。




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ファーストトレーディング
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