池井昌樹「若葉頃」ほか(「投壜通信」02、2011年09月10日発行)
池井昌樹「若葉頃」は不思議なをかかえてことばが動いていく。
「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども/あなたはいまもまちながら」「もうもどらないあのふたり」と「もどらない」ひとが変化してゆく。
もどらなかったのは、だれ? 「あなた」と「こども」の二人? たしかに「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」とある書き出しは、「あなた」と「こども」の二人がもどってこなかい、と読むことができる。
でも、そうなら、「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども」と書けるのだろうか。なぜ、「こども」が「あなた」を「はなれてゆきました」ということを書けるのだろう。だれから聞いたのだろう。どうして知ったのだろう。二人はいっしょにどこかへ行ったのではないのか。なぜ「あなたはいまもまちながら」なのだろう。「いま」、「あなた」が「こども」を待っているのなら、「あなた」は「いる」、「もどってこない」ではなく「もどってきた」。そして、「いま」「あなた」は「こども」を「まっている」ということになる。
「もどらないあのふたり」が「事実」だとした、「いまも」「あなた」が「こども」を待っているというのは、どうして?
おかしいでしょ? 矛盾してるでしょ?
でも、矛盾していないのだ。
いや、これは変な言い方だね。
矛盾している。けれど、その矛盾をとかしてまう「視点」がある。
「いま」ということばを池井はつかっているが、その「いま」は、たとえば2011年10月18日ではないのだ。この詩は「若葉頃」というタイトルがついているから、2011年5月5かと仮定してみてもいいけれど、その日常の暦で特定づけられる「日にち」をもった「いま」ではないのだ。
「時間」を超えている。
あらゆる「時間」の「いま」、「いま」思い起こすときの「いま」。「いま」と思うときの「いま」なのだ。そしてそれは「あのとき」と重なっている。「こども」が「だんだんはなれていったきり/もうもどらない」という「あのとき」。そう「知ったとき」。
池井の書く「とき」には、「知った」とか「わかった」とかのことばを重ねてみるとわかりやすくなる。「知った」とか「わかった」ということばとともにある「とき」は、実は「とき」ではない。「知った」「わかった」というこころの動きがそこにあるだけで、それは「いつでも」、それを思い起こす瞬間に重なり、一つになるのだ。
あるとき、あなたはこどもの手を引いて出て行った。戻って来ない。それを「いま」思い起こすとき、「あのとき」と「いま」が重なり、その「重なり」のなかでこころが動く。
あなたが帰らないこどもを「いまも」待っているというときの「いま」は「あのとき」である。「あのとき」待っていたのだ。けれど、それを「いま」と書いてしまうのは、帰ってこないこどもを待つときの「気持ち」そのものになってしまっているからだ。何かとこころから一体になってしまうとき、そこには「時間」がきえる。「時間」を超えてしまう。どんなに遠い過去であろうと、まざまざとその瞬間を思い起こすとき、その思い起こされたものは、思い起こしたひとにとっては「いま」なのだ。
「あのと」を「いま」と同じように、感じる。その「感じる」こころのなかで「いま」と「あのとき」は重なる。重なりうるから、こころが動く。
「もうもどらないあのふたり」というとき、ひとが思い起こすのは「いま」のふたりではない。「いま」のふたりは「あのとき」のふたりではなく、もう年をとっているだろう。けれど、「いまも」「あのとき」のままのふたりをひとは思い出す。思い起こすとき、「いま」は消えさり、「あのとき」が「いま」になる。そうして、「いま」が「あのとき」にもなる。「いま」と「あのとき」は区別ができる(別々のことばでいうことができる)けれど、その区別を超えてしまう何かがあり、超えながら動くこころというものがある。
池井の書いている「いま」は、そういう形をしている。そういう「運動」そのものである。
そのとき。
「あなた」と「こども」はどうだろうか。
私にはやはり重なり合って見える。「あなた」はたしかに「こども」ではないのだが、「あなた」と「こども」の二人を思い起こすとき、「いま」と「あのとき」が重なるようにして、そこに「あなた」自身が「こども」であったときも重なる。「あなた」が「こども」であったときのことを思い起こす。
そこに、「わたし」も加わってくる。この詩には「わたし」ということばは出てこないが、それは「あなた」とも「こども」とも重なっている。
もどってたないのは、こどもの手をひいてでていった「あなた」であると同時に、「あなた」の父に手を引かれて出て行った「こども」としての「あなた」なのだ。父と子。その二人がいっしょに出て行って、ひかれていた手を離し、それぞれに動きはじめる。そういうことは、いつの時代も、「あのとき」も、それこそ2011年10月18日の「いま」も、そして2011年5月の「ある日」にも起きている。すべてが「いま」であり、そのときの父と子はすべての「あなた」と「こども」であり、また「私」でもある。
すべてのものが「区別」されながら、同時に「区別」をなくして、一体になってあらわれる瞬間--その一体を呼び起こすのは「放心」なのだが、そういう時間を、池井は「いま」ということばでつかみとるのだ。
あ、この2行の音はきれいだなあ。美しいなあ、と私はうっとりしてしまう。
こういう2行に対して、あれこれつけくわえるのは余分なことなのだろうけれど、すでにその「いま」に対して私は余分なことを書いてきたのだから、もう少しつけくわえたい。
「いま」と書かれた「時間」が、「あさのこと」と「こと」で引き継がれている。「いま」は「あさ」という「時間」ではなく「こと」なのだ。
ここに池井の思想・肉体・哲学がある。
池井は「放心」しながら「こと」を見ている。
父と子が手を引いていっしょに出ていく「こと」。そのときの二人をつなぐ「手」というよりこころの動き、悦びをみている。
また、父がもどってこないこどもを待っている「こと」をみている。つまり、その石段に座っている父の姿ではなく、そのときのこころの動きをみている。また、もどってこなかったこどもの「こと」を見ている。こどものこころのう動きを見ている。
そして。
そういう二人のこころの動きとは別な場所では、二人が帰ってくるのを待っている「こと」がある。二人を待ちながら動くこころ、こころにあわせ整えられる「暮らし」がある。
それは、実は、もうそこへもどることができない「あなた」「こども」同時に「わたし」が思い起こす「あのとき」ではなく、「いま」なのだ。「いま」それを思い起こしている。
と池井は書いているが、「ゆきすぎる」だけではない。いつでも思い起こすとき、それはあらわれてくる。「あのとき」は過ぎ去らず「いま」のなかに甦り、存在する。
「上の空」に書かれている「矛盾」はこうしたことを語りなおしたものである。
「おんなじ」「いつまでも」「まだ」。時間は消える。「いま」があらわれる。
池井昌樹「若葉頃」は不思議なをかかえてことばが動いていく。
ちょっとでかけてくるよといって
あなたはこどものてをひいて
それっきりもどってこないのです
わかばのきれいなあさのこと
はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけれどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました
もうもどらないあのこども
あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと
つとめへむかうばすのまどから
あのいしだんがゆきすぎて
はちまんさまのけいだいが
あとへあとへとゆきすぎて
ものみなははやゆきすぎて
もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすったりととのって
「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども/あなたはいまもまちながら」「もうもどらないあのふたり」と「もどらない」ひとが変化してゆく。
もどらなかったのは、だれ? 「あなた」と「こども」の二人? たしかに「あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです」とある書き出しは、「あなた」と「こども」の二人がもどってこなかい、と読むことができる。
でも、そうなら、「あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども」と書けるのだろうか。なぜ、「こども」が「あなた」を「はなれてゆきました」ということを書けるのだろう。だれから聞いたのだろう。どうして知ったのだろう。二人はいっしょにどこかへ行ったのではないのか。なぜ「あなたはいまもまちながら」なのだろう。「いま」、「あなた」が「こども」を待っているのなら、「あなた」は「いる」、「もどってこない」ではなく「もどってきた」。そして、「いま」「あなた」は「こども」を「まっている」ということになる。
「もどらないあのふたり」が「事実」だとした、「いまも」「あなた」が「こども」を待っているというのは、どうして?
おかしいでしょ? 矛盾してるでしょ?
でも、矛盾していないのだ。
いや、これは変な言い方だね。
矛盾している。けれど、その矛盾をとかしてまう「視点」がある。
「いま」ということばを池井はつかっているが、その「いま」は、たとえば2011年10月18日ではないのだ。この詩は「若葉頃」というタイトルがついているから、2011年5月5かと仮定してみてもいいけれど、その日常の暦で特定づけられる「日にち」をもった「いま」ではないのだ。
「時間」を超えている。
あらゆる「時間」の「いま」、「いま」思い起こすときの「いま」。「いま」と思うときの「いま」なのだ。そしてそれは「あのとき」と重なっている。「こども」が「だんだんはなれていったきり/もうもどらない」という「あのとき」。そう「知ったとき」。
池井の書く「とき」には、「知った」とか「わかった」とかのことばを重ねてみるとわかりやすくなる。「知った」とか「わかった」ということばとともにある「とき」は、実は「とき」ではない。「知った」「わかった」というこころの動きがそこにあるだけで、それは「いつでも」、それを思い起こす瞬間に重なり、一つになるのだ。
あるとき、あなたはこどもの手を引いて出て行った。戻って来ない。それを「いま」思い起こすとき、「あのとき」と「いま」が重なり、その「重なり」のなかでこころが動く。
あなたが帰らないこどもを「いまも」待っているというときの「いま」は「あのとき」である。「あのとき」待っていたのだ。けれど、それを「いま」と書いてしまうのは、帰ってこないこどもを待つときの「気持ち」そのものになってしまっているからだ。何かとこころから一体になってしまうとき、そこには「時間」がきえる。「時間」を超えてしまう。どんなに遠い過去であろうと、まざまざとその瞬間を思い起こすとき、その思い起こされたものは、思い起こしたひとにとっては「いま」なのだ。
「あのと」を「いま」と同じように、感じる。その「感じる」こころのなかで「いま」と「あのとき」は重なる。重なりうるから、こころが動く。
「もうもどらないあのふたり」というとき、ひとが思い起こすのは「いま」のふたりではない。「いま」のふたりは「あのとき」のふたりではなく、もう年をとっているだろう。けれど、「いまも」「あのとき」のままのふたりをひとは思い出す。思い起こすとき、「いま」は消えさり、「あのとき」が「いま」になる。そうして、「いま」が「あのとき」にもなる。「いま」と「あのとき」は区別ができる(別々のことばでいうことができる)けれど、その区別を超えてしまう何かがあり、超えながら動くこころというものがある。
池井の書いている「いま」は、そういう形をしている。そういう「運動」そのものである。
そのとき。
「あなた」と「こども」はどうだろうか。
私にはやはり重なり合って見える。「あなた」はたしかに「こども」ではないのだが、「あなた」と「こども」の二人を思い起こすとき、「いま」と「あのとき」が重なるようにして、そこに「あなた」自身が「こども」であったときも重なる。「あなた」が「こども」であったときのことを思い起こす。
そこに、「わたし」も加わってくる。この詩には「わたし」ということばは出てこないが、それは「あなた」とも「こども」とも重なっている。
もどってたないのは、こどもの手をひいてでていった「あなた」であると同時に、「あなた」の父に手を引かれて出て行った「こども」としての「あなた」なのだ。父と子。その二人がいっしょに出て行って、ひかれていた手を離し、それぞれに動きはじめる。そういうことは、いつの時代も、「あのとき」も、それこそ2011年10月18日の「いま」も、そして2011年5月の「ある日」にも起きている。すべてが「いま」であり、そのときの父と子はすべての「あなた」と「こども」であり、また「私」でもある。
すべてのものが「区別」されながら、同時に「区別」をなくして、一体になってあらわれる瞬間--その一体を呼び起こすのは「放心」なのだが、そういう時間を、池井は「いま」ということばでつかみとるのだ。
あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと
あ、この2行の音はきれいだなあ。美しいなあ、と私はうっとりしてしまう。
こういう2行に対して、あれこれつけくわえるのは余分なことなのだろうけれど、すでにその「いま」に対して私は余分なことを書いてきたのだから、もう少しつけくわえたい。
「いま」と書かれた「時間」が、「あさのこと」と「こと」で引き継がれている。「いま」は「あさ」という「時間」ではなく「こと」なのだ。
ここに池井の思想・肉体・哲学がある。
池井は「放心」しながら「こと」を見ている。
父と子が手を引いていっしょに出ていく「こと」。そのときの二人をつなぐ「手」というよりこころの動き、悦びをみている。
また、父がもどってこないこどもを待っている「こと」をみている。つまり、その石段に座っている父の姿ではなく、そのときのこころの動きをみている。また、もどってこなかったこどもの「こと」を見ている。こどものこころのう動きを見ている。
そして。
そういう二人のこころの動きとは別な場所では、二人が帰ってくるのを待っている「こと」がある。二人を待ちながら動くこころ、こころにあわせ整えられる「暮らし」がある。
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすったりととのって
それは、実は、もうそこへもどることができない「あなた」「こども」同時に「わたし」が思い起こす「あのとき」ではなく、「いま」なのだ。「いま」それを思い起こしている。
ものみなははやゆきすぎて
と池井は書いているが、「ゆきすぎる」だけではない。いつでも思い起こすとき、それはあらわれてくる。「あのとき」は過ぎ去らず「いま」のなかに甦り、存在する。
「上の空」に書かれている「矛盾」はこうしたことを語りなおしたものである。
こんなあさにはこしおろし
こうしてあしをくみながら
こころたのしいうわのそら
なにかくるのをまっている
なにがくるのかこないのか
それさえみんなわすれはて
みんなおんなじかぜのなか
あのはなもゆれくさもゆれ
くもがどんどんゆきすぎて
なにかとっくにゆきすぎて
けれどこうしていつまでも
いつまでもまだうわのそら
「おんなじ」「いつまでも」「まだ」。時間は消える。「いま」があらわれる。
池井昌樹詩集 (現代詩文庫) | |
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