田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』(2)(書肆山田、2011年10月10日発行)
この詩集には「数学詩集」という「帯」がついている。だれがつけたのか知らないが、これは適切ではない。田中が関心をもっているのは「数学」ではなく「数式」である。つまり、あることがらに対して「数式」を用いて「正しい答え」を導くことなど、田中にとってはどうでもいいのである。「答え」が「正しい」か「間違い」かどうかは関係がない。ある「数式」のなかで、数字が動くかどうかだけである。あるいは記号が動くかどうかだけである。
そして、やってみるとわかるのだが、「数式」はどんなふうにでもつづけることができる。そして、それがつづくあいだ、つまり「=」(等記号)で何かをあらわそうとしないかぎり、ほんとうに止まることがない。
「悲しみ」というのは、そのことを実際に数字をつかって実践してみせる。
半分にその半分、さらにその半分を足しつづけると1に限りなく近づいていくが絶対に1にはならない。--のではなく、その「答え」はどうでもよくて、ようするに、そういう「数式」は永遠に書けるということである。
そして、私はいま「永遠」と書いたのだが、そういうばかげた「数式」のなかにというか、そういう運動のなかに「永遠」は偶然のようにあらわれてしまう。この「永遠」が「正しい」ものかどうかはわからない。おそらく「無意味」なのものなのだが、だからこそ、そこに美しさがある。
「意味」から解放されて、ただそこにあることの美しさがある。「無意味」の潔癖さがある。
あ、私の書いていることは、きのう書いたことのつづきというより、繰り返しだね。完全に田中の「数式詩」にのみこまれてしまったようである。
私は目が非常に悪く、パソコンで文字を書いていると頭が足がしびれるようにちりちりしびれてくる。だから誤字・脱字などは無視して、ただキーボードを叩き、変換キーを押すだけなので(文字の確認をしないので)、これから引用する部分は、たぶん誤字・脱字の連続になるかもしれない。
私は、次のようなことばの「音」が好き。「順列 並べ替え詩。3×2×1」という作品から、引用した。(変だなあ、と思ったら、詩集で確かめてください。)
どこか、間違えていない? 私の引用は正しい?
間違えていても、間違えであるとわからないのはなぜ?
そもそも、ここにあるのは、何?
ことばの並べ替え。
並べ替えると、なぜ、詩になる?
いや、詩に、みえる?
いや、詩、だといえる?
くずれない「数式」の強さ。つまり、方法の強さ。あることばを自分で決めた方法で動かす。そのとき、そこに「意味」がなくても、それを完遂するとき、「方法」が残る。この「残った方法」、それが「方法である」ということが、「哲学」そのものであり、また「音楽」なのだ。
この6行は、先の「どこの馬の骨。」と同じルールで動いている? 「右」を「どこ」、「耳」を「馬」、「全裸」を「骨」と書き直すと、「どこの馬の骨」と同じ詩になる? 確かめないまま、私は「同じになる」と断定する。そういう「断定」を誘い出してしまうことばの運動--その運動の法則。いや、運動の力。
「数式」とは「運動の力」そのものなのかもしれない。
それにしても、おもしろいなあ。
音が美しい--どの行も、音がとても軽くて歯切れがいい。
私は声に出して詩を読むことはないのだが、耳のなかに純粋な音楽を聴いてしまう。田中の詩を読むと。
と、書いて、また前に書いたことの補足をするという形で繰り返してしまうが。
「数式」は永遠に書きつづけることができる。けれど、そこに書かれた「数式」が美しいかどうかは別問題である。
「数式」が詩になるためには、その「数式」が美しくなければならない。
「美しさ」の基準は、どこにあるか。これは人それぞれによって違う。田中の場合、といえばいいのか、田中の詩を美しいと感じる私の場合といえばいいのかよくわからないが、--音楽である。音である。読んでいて楽しい。読んでいて「意味」を忘れる楽しさがある。「意味」から解放されてというより、「意味」から外れた部分で「肉体」がかってに歓ぶ感覚がある。
あ、これって、ただ、「好き」というだけのことなんだけれど。よくよく考えてみれば。「好き」に「意味」はないでしょ?
この詩集には「数学詩集」という「帯」がついている。だれがつけたのか知らないが、これは適切ではない。田中が関心をもっているのは「数学」ではなく「数式」である。つまり、あることがらに対して「数式」を用いて「正しい答え」を導くことなど、田中にとってはどうでもいいのである。「答え」が「正しい」か「間違い」かどうかは関係がない。ある「数式」のなかで、数字が動くかどうかだけである。あるいは記号が動くかどうかだけである。
そして、やってみるとわかるのだが、「数式」はどんなふうにでもつづけることができる。そして、それがつづくあいだ、つまり「=」(等記号)で何かをあらわそうとしないかぎり、ほんとうに止まることがない。
「悲しみ」というのは、そのことを実際に数字をつかって実践してみせる。
1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+1/64……=1
半分にその半分、さらにその半分を足しつづけると1に限りなく近づいていくが絶対に1にはならない。--のではなく、その「答え」はどうでもよくて、ようするに、そういう「数式」は永遠に書けるということである。
そして、私はいま「永遠」と書いたのだが、そういうばかげた「数式」のなかにというか、そういう運動のなかに「永遠」は偶然のようにあらわれてしまう。この「永遠」が「正しい」ものかどうかはわからない。おそらく「無意味」なのものなのだが、だからこそ、そこに美しさがある。
「意味」から解放されて、ただそこにあることの美しさがある。「無意味」の潔癖さがある。
あ、私の書いていることは、きのう書いたことのつづきというより、繰り返しだね。完全に田中の「数式詩」にのみこまれてしまったようである。
私は目が非常に悪く、パソコンで文字を書いていると頭が足がしびれるようにちりちりしびれてくる。だから誤字・脱字などは無視して、ただキーボードを叩き、変換キーを押すだけなので(文字の確認をしないので)、これから引用する部分は、たぶん誤字・脱字の連続になるかもしれない。
私は、次のようなことばの「音」が好き。「順列 並べ替え詩。3×2×1」という作品から、引用した。(変だなあ、と思ったら、詩集で確かめてください。)
どこの馬の骨。
馬の骨のどこ。
骨のどこの馬。
どこの骨の馬
馬のどこの骨。
骨の馬のどこ。
どこか、間違えていない? 私の引用は正しい?
間違えていても、間違えであるとわからないのはなぜ?
そもそも、ここにあるのは、何?
ことばの並べ替え。
並べ替えると、なぜ、詩になる?
いや、詩に、みえる?
いや、詩、だといえる?
くずれない「数式」の強さ。つまり、方法の強さ。あることばを自分で決めた方法で動かす。そのとき、そこに「意味」がなくても、それを完遂するとき、「方法」が残る。この「残った方法」、それが「方法である」ということが、「哲学」そのものであり、また「音楽」なのだ。
右の耳の全裸。
耳の全裸の右。
全裸の右の耳。
右の全裸の耳。
耳の右の全裸。
全裸の耳の右。
この6行は、先の「どこの馬の骨。」と同じルールで動いている? 「右」を「どこ」、「耳」を「馬」、「全裸」を「骨」と書き直すと、「どこの馬の骨」と同じ詩になる? 確かめないまま、私は「同じになる」と断定する。そういう「断定」を誘い出してしまうことばの運動--その運動の法則。いや、運動の力。
「数式」とは「運動の力」そのものなのかもしれない。
それにしても、おもしろいなあ。
両頬のマクベスの渦巻き。
マクベスの渦巻きの両頬。
渦巻きの両頬のマクベス。
両頬の渦巻きのマクベス。
マクベスの両頬の渦巻き。
渦巻きのマクベスの両頬。
音が美しい--どの行も、音がとても軽くて歯切れがいい。
私は声に出して詩を読むことはないのだが、耳のなかに純粋な音楽を聴いてしまう。田中の詩を読むと。
と、書いて、また前に書いたことの補足をするという形で繰り返してしまうが。
「数式」は永遠に書きつづけることができる。けれど、そこに書かれた「数式」が美しいかどうかは別問題である。
「数式」が詩になるためには、その「数式」が美しくなければならない。
「美しさ」の基準は、どこにあるか。これは人それぞれによって違う。田中の場合、といえばいいのか、田中の詩を美しいと感じる私の場合といえばいいのかよくわからないが、--音楽である。音である。読んでいて楽しい。読んでいて「意味」を忘れる楽しさがある。「意味」から解放されてというより、「意味」から外れた部分で「肉体」がかってに歓ぶ感覚がある。
あ、これって、ただ、「好き」というだけのことなんだけれど。よくよく考えてみれば。「好き」に「意味」はないでしょ?
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