詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(6)

2011-10-06 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(6)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「鳰(にお)」という作品については、以前感想を書いた記憶がある。そのときは、とても浅はかな感想を書いたと思う。そのときはそのときで、私なりに考えたことを書いたのだが、思い出したくないくらい浅はかな感想であった。--ということが、何か、痛烈に私の肉体の奥で響く。あまりにも辻褄合わせのようなことを書いたとはずかしくなる。
 きのう「梔子」の感想を書いた。まったくまとまりのない感想だった。そのこともあって、私は私の書いていることがとてつもなく浅はかなことばだと感じるのだ。
 私がどんな浅はかなことばを書こうと、粒来のことばは少しもゆらがない。そのことが救いであり、また私の絶望でもあるのだが。

 「鳰」は、「徘徊僧浄因」を描いている。
 僧は、近江のとある堂で一体の仏像で向き合う。観音様である。母に似ていると思う。そして、その姿をまねてみる。

 浄因は続いてみ仏を真似た。その腹部に柔かに祈りをこもらせ、
胸の中枢に水霧を充たし、下腹に少しばかり風を送って内奥の疼き
を隠した。この時になって浄因はみ仏の体側にそった立つことを断
念し、み仏の正面に居坐った一個の贋仏としての在り様を演じよう
と思い立った。

 ここには、とてもおもしろいことが書いてある。下腹に疼きを感じる--とは勃起の兆候だろう。あからさまに「男」がここにあらわれてくる。そして、己が「男」であると自覚するからこそ、「贋仏」を「演じる」。浄因がこころみたことを、そう定義している。「み仏」を演じるのではなく、最初から「贋仏」であることを自覚して、なおかつ、それを演じる。
 これは浄因が己を「み仏」にはほど遠い存在であると自覚していたことをあらわすのだが、己を仏には及ばぬ存在であると自覚すると書くことと(ことばにすることと)、「贋仏を演じる」と書くことは似ていてもまったく違うのである。
 こういうふうにに、似ているけれど違うことを、粒来は「粒来語」で書く。いつも「劇」というか、「寓話」のようにして書く。
 だから私は大切ななにごとかをいつも見落として読んでしまうことになるのだが、この詩の場合でも、いま引用した部分にも「贋」と「演じる」ということばを通して大切な何かが書かれていると思うのだけれど、それをつきつめる前に、別なことばに誘われ、動いてしまう。自分が自分でなくなる。(あるいは、自分が地の自分になってしまう?)
 詩は、突然、佳境に入る。そのスピード、あるいはことばの重力に飲み込まれてしまう。先の引用は段落もないまま、次のようにつづいてゆく。

       この企てを成就させるために浄因は母の思惑を
観入して一応額を曇らせてみた。

 「観入して」というのは、「心眼をもって対象を正しく把握すること」(広辞苑)らしいが、うーん、母の思惑を正確に把握した結果、浄因がそうすることを「正しい」とは思っていないことを知り、「一応」顔を曇らせてみたが、企み自体はやめなかった、ということになるのかな?
 「贋仏」と同じように、ここでは「一応」がとてもむずかしい。何かしら矛盾したこころが、ここにねじれている。
 そういうねじれをかかえたまま、ことばはさらに動いていく。

                彼はみ仏の膝に己れの膝を寄せ、
そのお腹に己れの腹をすり寄せた。今度は彼の吐息がみ仏の唇を湿
らせた--と、み仏の螺髪を飾る五体の化仏がそれに応じて深く熱
い息を吐いた。み仏の右手がのびて浄因の腰を抱いて浄因を驚喜さ
せた。み仏は更に身をひねり、倒れ伏すように浄因の躰に多い被さ
った。浄因はあわててみ仏の乳を吸い、口の中でその乳頭を転がし、
その袴下を押し開いた。彼は己れの肉がみ仏を通してどこやらの見
果てぬ地までゆらゆらと分け入って行くのを自覚した。
                (谷内注・「肉」には「いきみ」のルビがある。)

 なんと、浄因は「み仏」と(その像と)セックスをしてしまう。「母」は浄因がそうしてしまうことを知っていた--というか、そういうことをすれば母にとがめられることを知っていながら(だから、「一応」顔を曇らせた)、ことに及んだのである。
 ここから、詩はさらに一変する。あたらしい展開になる。

 そこでは葭の葉の雫が浄因の衣の裾を濡らし、葭の葉の浮島に鳰
の巣があって卵が二つ光っているのが見えた。巣の傍にやつれた顔
の浄因の母がいて、その様を見守っていた。浄因は自身の生涯の一
切を下肢にこめて、み仏の真奥に一気に精を放射した。み仏は浄因
を受納しつつ強烈に圧し続け、浄因は歓喜の中で力尽きた。時に浄
因八十有三歳。
 浄因が身まかると同時に茅堂の燭台が倒れ、火は浄因の裾から炎
立ちして忽ち身仏を焼いた。茅堂が焼け落ちた時、ひとは浄因の白
骨を抱えて自らも一本の焼杭となったみ仏を見た。焼仏は仮堂の祿
に置かれて湖を見ていた。堅田の浦で鳰が鳴いていた。

 ストーリー(?)のおもしろさに引き込まれて一気に読み終わるのだが、そのあと、疑問が残る。
 なぜ、鳰?
 これは「梔子」のとき、なぜ梔子?と感じたのと同じである。梔子である必然性を感じない。「木」で十分な気がする。
 なぜ、鳰なのか。なぜ、水鳥ではないのか。水鳥の方が抽象的で「寓話」を寓話らしくするかもしれない。水鳥が鳰と具体的に呼ばれるとき、そこに何か「寓話」を超えたものを感じるのである。絶対的なものを感じるのである。
 感じるのだけれど、その絶対的な何かにつながる「方法」がわからない。どんなふうに「絶対的」なのか、それを語ることばがわからない。

 「矛盾」については、先に書いた。たとえば、「贋仏」を「演じる」というときの矛盾。
 それとは別に「超越」があるのかもしれない。

 この私の感想は唐突だが、唐突に、私自身がそう思ったのだから仕方がない。つまり説明はできないのだが……。
 「超越」とは、ある瞬間に「私」が「私」でなくなることである。
 この作品では浄因という僧はみ仏とセックスして、炎に焼かれ白骨になり、み仏も浄因を抱いて焼杭になるのだが、そういうある存在の原因-因果の変化ではなく(そういう変化は、私には「私は私のまま」の変化に思える)、別な変化があると思う。
 ほんとうに唐突な思いで、その思いを裏付ける何もないのだが、私は、浄因は「鳰」になったと思うのである。
 輪廻-転生。
 私は仏教徒ではないし、仏教についてあれこれ読んだこともないので、「輪廻転生」などというのは、「ことば」としてそういうものがあるということくらいしか知らないのだが、浄因は鳰に転生したと思うのである。
 この転生が「超越」である。人間が鳰に生まれ変わるというのは論理的ではないし、まあ、論理的ではないということを指して一種の「矛盾」であるといえるかもしれないけれど。
 そして、この「輪廻」と「転生」を結ぶものが、「縁」なのだ。「蛾を吐く」にでてきた「縁」。どこで「縁」ができるものかわからないが、その「縁」が人間に働きかける。その働きかけを受けながら、人間は「輪廻-転生」の準備をする。
 「私」とは「輪廻-転生」の準備の場として、いま、ここにある。
 鼬でもなく目白でもなく、また浄因でもなくみ仏でもなく、「梔子」に、そして「鳰」に、私は、それを感じるのである。

 --どこにも、そういうことは書いてない。書いていないことを、私が勝手に感じているだけ。それも「文章」からというよりは「梔子」「鳰」という単語から。
 たぶん、粒来のこの詩集は、私には読むのが早すぎたのだ。
 もっと年をとってからというのは変な言い方になるが、もっといろいろなことを肉体で学んだあと、つまり、それを自分の肉体でつかいこなせるようになったとき、粒来のこの詩集はまったく違った形で見えてくるように思える。
 この詩集では、粒来のことば(粒来語)は、私のまったく知らない力をエネルギーにして動いている。
 私はおいついてゆけない。
 つまり、私がボルトの百メートル競走についけいけないのや、フェルプスのバタフライについてゆけないように、まったくついてゆけない。そのくせ、とってもかっこいいと感じ、憧れる。
 --この、感想にもなんにもならいなことばが、私のいちばん正直な感想だ。

 粒来のことばは強靱で、その奥に私の知らないエネルギーがたぎっている。そして、私の知っている「論理」を超越して動いていく。かっこいい。追いかけると、私はどんどん粒来から引き離され、どこかわからないところへ迷い込んでしまうのだ。
 迷うだけ迷ったら、いくらか粒来語に近づけるかも知れない。遠いところがいちばん近いということがあるかもしれない。--そう私は私に言い聞かせて、詩集を読んでいる。




馬と牛の伝説 (絵本・どうぶつ伝説集)
粒来 哲蔵
すばる書房
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イェジー・スコリモフスキー監督「エッセンシャル・キリング」(再考)

2011-10-06 11:22:07 | 映画
 この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
 しかし、私は「アクション」を感じなかった。
 私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
 釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
 ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
 ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
 不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
 母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
 女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。

 逆の視点からも見つめなおすことができる。
 私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
 またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
 このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
 --そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。

 イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
 アクションは、複雑だ。
 この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
 しかし、私は「アクション」を感じなかった。
 私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
 釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
 ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
 ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
 不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
 母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
 女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。

 逆の視点からも見つめなおすことができる。
 私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
 またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
 このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
 --そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。

 イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
 アクションは、複雑だ。


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紀伊國屋書店
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杉山平一『希望』

2011-10-06 08:37:57 | 詩集
杉山平一『希望』(編集工房ノア、2011年11月02日発行)
 
 杉山平一『希望』に収められている詩はどれも短い。ことばが、ぱっと動いて、ぱっと止まる。この、自然な感じがこの詩集の味である。
 タイトルになっている「希望」は、東日本大震災を契機に書かれたのだろうか。


夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな

 列車がトンネルに入る。そして、トンネルを抜け出す。このとき動いているのは列車であってトンネルではない。けれど、それを承知で、杉山は逆に書く。
 光が「拡がって迎えにくる」。
 この事実とは違う運動--その動きをとらえることばのなかに、杉山の人生があるのだと思った。
 ひとはだれでも何かをする。何らかの目的をもって動く。そして、その動きは必ずしも自分の望んだものにはつながらない。そうではなく、何かが向こうからやってくるようにして自分を変えていく。
 確かにそういうことはあるのだが、それを「人生」として受け止めるというのは、若いときにはなかなかできない。
 杉山は、いま97歳らしい。(帯に書いてあった。)
 不幸(不運)も向こうからやってくるが、幸せも向こうからやってくる。
 それを「承知する」ことはなかなかむずかしい。けれど、承知するしかないのかもしれない。それは「敗北」ではなく、それが「人生」だと杉山は知っている。そこに不思議な静けさがある。

 「ポケット」という詩がある。私は、この詩を最初読み違えた。

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横町の路地裏

そこへ手を突っ込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの

 何をどう読み違えていたかというと--最初の2行である。逆に読んでしまったのだ。つまり、

ポケットのなかに町
たくさんある

 と。
 自分の住んでいた町を離れる。けれどポケットに手を突っ込むと、昔歩いた町がポケットのなかにある。ポケットに手を突っ込みながら(つまり何かに働きかけるわけでもなく、ぶらぶらと)歩いた町が甦る。何もないポケットのなかで、手を広げたり、握り拳をつくったり--そうすることしかできなくて、ただそうするのだが、そうすると無為にただ時間をやりすごしたその時間が、なつかしく、忘れていた何かを連れてきてくれる。
 それは「希望」のことばを借りていえば、

我慢していればよいのだ

 につながる。
 何もできないときは、何もできないまま、できることをしていればいいのだ。それは「我慢する」というような消極的なことになってしまうかもしれないが、それでもそこには「する」という「自発」がある。
 「自発」があるかぎり、それに答える何かがある。
 それが「希望」である。
 また、それは「なつかしもの/わすれていたもの」でもあると、私は、理由もなく思うのである。

 「出ておいで」は、「受け身」の美しさを語る杉山らしい作品だと思う。

カメラを向けると
口を閉じて
髪に手をやり
とり澄まし

心を文字にしようとすると
飾ったり誇張したりする

本当の顔よ心よ
恥ずかしがらずに
出ておいで

 これは、杉山自身に呼びかけたことばなのかもしれないが、「出ておいで」と呼びかけるものを杉山はほんとうは探していた、待っていたのかもしれない。長い長いあいだ待った経験が、「逆に」杉山に働きかけ、「出ておいで」といえるようになったのかもしれない。
 杉山のことばのなかには、何かしら不思議な「能動」(する)と「受動)(される)の静かな交代があり、その静かな交代のなかに美しさがある。

 交代する力--交代させる力。
 たぶん、その二つは出会って、はじめて「ひとつ」になる。「いま/ここ」にありながら姿をあらわすことができないものを引き出す。
 それに出会うためには、ときとして「待つ」ということ、「我慢する」ということが必要なのかもしれない。
 でも、ほんとうのことは「わからない」。「我慢する」ということがほんとうに幸せを運んでくれるかどうかはわからない。
 
 「わからない」--というとても美しい詩がある。

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名前はジョンといいます

    (谷内注・原文は送り文字をつかっているところがあるが、
     表記の都合で書き直した。)

 妹は「我慢」している。その「我慢」がすべてを受け入れ、すべてを昇華する。昇華させる。そんなことを妹は自覚していない。その無自覚のなかに強い美しさがある。
 この無自覚を批判するのが現代の視点かもしれないが、この無自覚を生きてみることもときには必要かもしれない。その無自覚のなかで生まれる「連帯」もある。





杉山平一詩集 (現代詩文庫)
杉山 平一
思潮社
コメント (3)
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