粒来哲蔵『蛾を吐く』(6)(思潮社、2011年10月01日発行)
「鳰(にお)」という作品については、以前感想を書いた記憶がある。そのときは、とても浅はかな感想を書いたと思う。そのときはそのときで、私なりに考えたことを書いたのだが、思い出したくないくらい浅はかな感想であった。--ということが、何か、痛烈に私の肉体の奥で響く。あまりにも辻褄合わせのようなことを書いたとはずかしくなる。
きのう「梔子」の感想を書いた。まったくまとまりのない感想だった。そのこともあって、私は私の書いていることがとてつもなく浅はかなことばだと感じるのだ。
私がどんな浅はかなことばを書こうと、粒来のことばは少しもゆらがない。そのことが救いであり、また私の絶望でもあるのだが。
「鳰」は、「徘徊僧浄因」を描いている。
僧は、近江のとある堂で一体の仏像で向き合う。観音様である。母に似ていると思う。そして、その姿をまねてみる。
ここには、とてもおもしろいことが書いてある。下腹に疼きを感じる--とは勃起の兆候だろう。あからさまに「男」がここにあらわれてくる。そして、己が「男」であると自覚するからこそ、「贋仏」を「演じる」。浄因がこころみたことを、そう定義している。「み仏」を演じるのではなく、最初から「贋仏」であることを自覚して、なおかつ、それを演じる。
これは浄因が己を「み仏」にはほど遠い存在であると自覚していたことをあらわすのだが、己を仏には及ばぬ存在であると自覚すると書くことと(ことばにすることと)、「贋仏を演じる」と書くことは似ていてもまったく違うのである。
こういうふうにに、似ているけれど違うことを、粒来は「粒来語」で書く。いつも「劇」というか、「寓話」のようにして書く。
だから私は大切ななにごとかをいつも見落として読んでしまうことになるのだが、この詩の場合でも、いま引用した部分にも「贋」と「演じる」ということばを通して大切な何かが書かれていると思うのだけれど、それをつきつめる前に、別なことばに誘われ、動いてしまう。自分が自分でなくなる。(あるいは、自分が地の自分になってしまう?)
詩は、突然、佳境に入る。そのスピード、あるいはことばの重力に飲み込まれてしまう。先の引用は段落もないまま、次のようにつづいてゆく。
「観入して」というのは、「心眼をもって対象を正しく把握すること」(広辞苑)らしいが、うーん、母の思惑を正確に把握した結果、浄因がそうすることを「正しい」とは思っていないことを知り、「一応」顔を曇らせてみたが、企み自体はやめなかった、ということになるのかな?
「贋仏」と同じように、ここでは「一応」がとてもむずかしい。何かしら矛盾したこころが、ここにねじれている。
そういうねじれをかかえたまま、ことばはさらに動いていく。
なんと、浄因は「み仏」と(その像と)セックスをしてしまう。「母」は浄因がそうしてしまうことを知っていた--というか、そういうことをすれば母にとがめられることを知っていながら(だから、「一応」顔を曇らせた)、ことに及んだのである。
ここから、詩はさらに一変する。あたらしい展開になる。
ストーリー(?)のおもしろさに引き込まれて一気に読み終わるのだが、そのあと、疑問が残る。
なぜ、鳰?
これは「梔子」のとき、なぜ梔子?と感じたのと同じである。梔子である必然性を感じない。「木」で十分な気がする。
なぜ、鳰なのか。なぜ、水鳥ではないのか。水鳥の方が抽象的で「寓話」を寓話らしくするかもしれない。水鳥が鳰と具体的に呼ばれるとき、そこに何か「寓話」を超えたものを感じるのである。絶対的なものを感じるのである。
感じるのだけれど、その絶対的な何かにつながる「方法」がわからない。どんなふうに「絶対的」なのか、それを語ることばがわからない。
「矛盾」については、先に書いた。たとえば、「贋仏」を「演じる」というときの矛盾。
それとは別に「超越」があるのかもしれない。
この私の感想は唐突だが、唐突に、私自身がそう思ったのだから仕方がない。つまり説明はできないのだが……。
「超越」とは、ある瞬間に「私」が「私」でなくなることである。
この作品では浄因という僧はみ仏とセックスして、炎に焼かれ白骨になり、み仏も浄因を抱いて焼杭になるのだが、そういうある存在の原因-因果の変化ではなく(そういう変化は、私には「私は私のまま」の変化に思える)、別な変化があると思う。
ほんとうに唐突な思いで、その思いを裏付ける何もないのだが、私は、浄因は「鳰」になったと思うのである。
輪廻-転生。
私は仏教徒ではないし、仏教についてあれこれ読んだこともないので、「輪廻転生」などというのは、「ことば」としてそういうものがあるということくらいしか知らないのだが、浄因は鳰に転生したと思うのである。
この転生が「超越」である。人間が鳰に生まれ変わるというのは論理的ではないし、まあ、論理的ではないということを指して一種の「矛盾」であるといえるかもしれないけれど。
そして、この「輪廻」と「転生」を結ぶものが、「縁」なのだ。「蛾を吐く」にでてきた「縁」。どこで「縁」ができるものかわからないが、その「縁」が人間に働きかける。その働きかけを受けながら、人間は「輪廻-転生」の準備をする。
「私」とは「輪廻-転生」の準備の場として、いま、ここにある。
鼬でもなく目白でもなく、また浄因でもなくみ仏でもなく、「梔子」に、そして「鳰」に、私は、それを感じるのである。
--どこにも、そういうことは書いてない。書いていないことを、私が勝手に感じているだけ。それも「文章」からというよりは「梔子」「鳰」という単語から。
たぶん、粒来のこの詩集は、私には読むのが早すぎたのだ。
もっと年をとってからというのは変な言い方になるが、もっといろいろなことを肉体で学んだあと、つまり、それを自分の肉体でつかいこなせるようになったとき、粒来のこの詩集はまったく違った形で見えてくるように思える。
この詩集では、粒来のことば(粒来語)は、私のまったく知らない力をエネルギーにして動いている。
私はおいついてゆけない。
つまり、私がボルトの百メートル競走についけいけないのや、フェルプスのバタフライについてゆけないように、まったくついてゆけない。そのくせ、とってもかっこいいと感じ、憧れる。
--この、感想にもなんにもならいなことばが、私のいちばん正直な感想だ。
粒来のことばは強靱で、その奥に私の知らないエネルギーがたぎっている。そして、私の知っている「論理」を超越して動いていく。かっこいい。追いかけると、私はどんどん粒来から引き離され、どこかわからないところへ迷い込んでしまうのだ。
迷うだけ迷ったら、いくらか粒来語に近づけるかも知れない。遠いところがいちばん近いということがあるかもしれない。--そう私は私に言い聞かせて、詩集を読んでいる。
「鳰(にお)」という作品については、以前感想を書いた記憶がある。そのときは、とても浅はかな感想を書いたと思う。そのときはそのときで、私なりに考えたことを書いたのだが、思い出したくないくらい浅はかな感想であった。--ということが、何か、痛烈に私の肉体の奥で響く。あまりにも辻褄合わせのようなことを書いたとはずかしくなる。
きのう「梔子」の感想を書いた。まったくまとまりのない感想だった。そのこともあって、私は私の書いていることがとてつもなく浅はかなことばだと感じるのだ。
私がどんな浅はかなことばを書こうと、粒来のことばは少しもゆらがない。そのことが救いであり、また私の絶望でもあるのだが。
「鳰」は、「徘徊僧浄因」を描いている。
僧は、近江のとある堂で一体の仏像で向き合う。観音様である。母に似ていると思う。そして、その姿をまねてみる。
浄因は続いてみ仏を真似た。その腹部に柔かに祈りをこもらせ、
胸の中枢に水霧を充たし、下腹に少しばかり風を送って内奥の疼き
を隠した。この時になって浄因はみ仏の体側にそった立つことを断
念し、み仏の正面に居坐った一個の贋仏としての在り様を演じよう
と思い立った。
ここには、とてもおもしろいことが書いてある。下腹に疼きを感じる--とは勃起の兆候だろう。あからさまに「男」がここにあらわれてくる。そして、己が「男」であると自覚するからこそ、「贋仏」を「演じる」。浄因がこころみたことを、そう定義している。「み仏」を演じるのではなく、最初から「贋仏」であることを自覚して、なおかつ、それを演じる。
これは浄因が己を「み仏」にはほど遠い存在であると自覚していたことをあらわすのだが、己を仏には及ばぬ存在であると自覚すると書くことと(ことばにすることと)、「贋仏を演じる」と書くことは似ていてもまったく違うのである。
こういうふうにに、似ているけれど違うことを、粒来は「粒来語」で書く。いつも「劇」というか、「寓話」のようにして書く。
だから私は大切ななにごとかをいつも見落として読んでしまうことになるのだが、この詩の場合でも、いま引用した部分にも「贋」と「演じる」ということばを通して大切な何かが書かれていると思うのだけれど、それをつきつめる前に、別なことばに誘われ、動いてしまう。自分が自分でなくなる。(あるいは、自分が地の自分になってしまう?)
詩は、突然、佳境に入る。そのスピード、あるいはことばの重力に飲み込まれてしまう。先の引用は段落もないまま、次のようにつづいてゆく。
この企てを成就させるために浄因は母の思惑を
観入して一応額を曇らせてみた。
「観入して」というのは、「心眼をもって対象を正しく把握すること」(広辞苑)らしいが、うーん、母の思惑を正確に把握した結果、浄因がそうすることを「正しい」とは思っていないことを知り、「一応」顔を曇らせてみたが、企み自体はやめなかった、ということになるのかな?
「贋仏」と同じように、ここでは「一応」がとてもむずかしい。何かしら矛盾したこころが、ここにねじれている。
そういうねじれをかかえたまま、ことばはさらに動いていく。
彼はみ仏の膝に己れの膝を寄せ、
そのお腹に己れの腹をすり寄せた。今度は彼の吐息がみ仏の唇を湿
らせた--と、み仏の螺髪を飾る五体の化仏がそれに応じて深く熱
い息を吐いた。み仏の右手がのびて浄因の腰を抱いて浄因を驚喜さ
せた。み仏は更に身をひねり、倒れ伏すように浄因の躰に多い被さ
った。浄因はあわててみ仏の乳を吸い、口の中でその乳頭を転がし、
その袴下を押し開いた。彼は己れの肉がみ仏を通してどこやらの見
果てぬ地までゆらゆらと分け入って行くのを自覚した。
(谷内注・「肉」には「いきみ」のルビがある。)
なんと、浄因は「み仏」と(その像と)セックスをしてしまう。「母」は浄因がそうしてしまうことを知っていた--というか、そういうことをすれば母にとがめられることを知っていながら(だから、「一応」顔を曇らせた)、ことに及んだのである。
ここから、詩はさらに一変する。あたらしい展開になる。
そこでは葭の葉の雫が浄因の衣の裾を濡らし、葭の葉の浮島に鳰
の巣があって卵が二つ光っているのが見えた。巣の傍にやつれた顔
の浄因の母がいて、その様を見守っていた。浄因は自身の生涯の一
切を下肢にこめて、み仏の真奥に一気に精を放射した。み仏は浄因
を受納しつつ強烈に圧し続け、浄因は歓喜の中で力尽きた。時に浄
因八十有三歳。
浄因が身まかると同時に茅堂の燭台が倒れ、火は浄因の裾から炎
立ちして忽ち身仏を焼いた。茅堂が焼け落ちた時、ひとは浄因の白
骨を抱えて自らも一本の焼杭となったみ仏を見た。焼仏は仮堂の祿
に置かれて湖を見ていた。堅田の浦で鳰が鳴いていた。
ストーリー(?)のおもしろさに引き込まれて一気に読み終わるのだが、そのあと、疑問が残る。
なぜ、鳰?
これは「梔子」のとき、なぜ梔子?と感じたのと同じである。梔子である必然性を感じない。「木」で十分な気がする。
なぜ、鳰なのか。なぜ、水鳥ではないのか。水鳥の方が抽象的で「寓話」を寓話らしくするかもしれない。水鳥が鳰と具体的に呼ばれるとき、そこに何か「寓話」を超えたものを感じるのである。絶対的なものを感じるのである。
感じるのだけれど、その絶対的な何かにつながる「方法」がわからない。どんなふうに「絶対的」なのか、それを語ることばがわからない。
「矛盾」については、先に書いた。たとえば、「贋仏」を「演じる」というときの矛盾。
それとは別に「超越」があるのかもしれない。
この私の感想は唐突だが、唐突に、私自身がそう思ったのだから仕方がない。つまり説明はできないのだが……。
「超越」とは、ある瞬間に「私」が「私」でなくなることである。
この作品では浄因という僧はみ仏とセックスして、炎に焼かれ白骨になり、み仏も浄因を抱いて焼杭になるのだが、そういうある存在の原因-因果の変化ではなく(そういう変化は、私には「私は私のまま」の変化に思える)、別な変化があると思う。
ほんとうに唐突な思いで、その思いを裏付ける何もないのだが、私は、浄因は「鳰」になったと思うのである。
輪廻-転生。
私は仏教徒ではないし、仏教についてあれこれ読んだこともないので、「輪廻転生」などというのは、「ことば」としてそういうものがあるということくらいしか知らないのだが、浄因は鳰に転生したと思うのである。
この転生が「超越」である。人間が鳰に生まれ変わるというのは論理的ではないし、まあ、論理的ではないということを指して一種の「矛盾」であるといえるかもしれないけれど。
そして、この「輪廻」と「転生」を結ぶものが、「縁」なのだ。「蛾を吐く」にでてきた「縁」。どこで「縁」ができるものかわからないが、その「縁」が人間に働きかける。その働きかけを受けながら、人間は「輪廻-転生」の準備をする。
「私」とは「輪廻-転生」の準備の場として、いま、ここにある。
鼬でもなく目白でもなく、また浄因でもなくみ仏でもなく、「梔子」に、そして「鳰」に、私は、それを感じるのである。
--どこにも、そういうことは書いてない。書いていないことを、私が勝手に感じているだけ。それも「文章」からというよりは「梔子」「鳰」という単語から。
たぶん、粒来のこの詩集は、私には読むのが早すぎたのだ。
もっと年をとってからというのは変な言い方になるが、もっといろいろなことを肉体で学んだあと、つまり、それを自分の肉体でつかいこなせるようになったとき、粒来のこの詩集はまったく違った形で見えてくるように思える。
この詩集では、粒来のことば(粒来語)は、私のまったく知らない力をエネルギーにして動いている。
私はおいついてゆけない。
つまり、私がボルトの百メートル競走についけいけないのや、フェルプスのバタフライについてゆけないように、まったくついてゆけない。そのくせ、とってもかっこいいと感じ、憧れる。
--この、感想にもなんにもならいなことばが、私のいちばん正直な感想だ。
粒来のことばは強靱で、その奥に私の知らないエネルギーがたぎっている。そして、私の知っている「論理」を超越して動いていく。かっこいい。追いかけると、私はどんどん粒来から引き離され、どこかわからないところへ迷い込んでしまうのだ。
迷うだけ迷ったら、いくらか粒来語に近づけるかも知れない。遠いところがいちばん近いということがあるかもしれない。--そう私は私に言い聞かせて、詩集を読んでいる。
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