柴田基孝再読(補足)(2011年10月24日、よみうりFBS文化センター「現代詩講座」)
きのう「柴田基孝行を読む」という催しがあって、きょうは、いわばそのつづきのことを話します。いつもは一篇の詩を取り上げるのだけれど、今回はいくつかの詩を行ったり来たりして、柴田さんの詩の特徴について話してみようかな、と思います。
柴田基孝さんの詩を読むと、「のど」が奇妙なつかわれ方をしている。「のど」というのは、基本的に「声」を出す器官(肉体)。でも、柴田さんは「声」というものをあまり信じていない。「音」が大好きなくせに、人間が出す「音」が嫌い。
というと変だけれど、ことばではない「音」の方に関心がある。「うがい」とか「咳」ですね。正直になにかを言おうとするとことばにならずに、ことば以前の「音」になる。その「音」のなかに柴田さんがいる--という感じです。
「音楽」という詩があります。『無限氏』という詩集のなかに入っています。
いろいろ不思議な表現が出てくるけれど、いちばん不思議なのは「咳をする坂道」。まあ、その坂道をのぼるとき(くだるときでもいいけれど)、ついつい咳をしてしまうということも考えられないわけではないけれど、そうではなく「坂道」そのものが咳をするとも考えられますね。だから、とっても変な感じがする。ようするに「意味」がわからないという感じがする。
「咳をする坂道」っ何、と聞かれたら困る。すぐには自分のことばで言い換えられないですよね。つまり「意味」がわからない。私は「意味」がわからないものは、まあ、ほうっておきます。いつかわかるようになるかもしれないし、わからなくたって別に困るわけじゃないですから。
ちょっと脱線しました。
その行の周辺の「塀が たくさんつづく門構え」「カニのような家」というのは、絵に描くことができる。「カニのような」という比喩にはとまどうけれど、カニの絵は描ける。そうすると、この詩は、音楽を会画風に表現したものといえなくはない。
すばらしい音楽を聴くと、何か情景が浮かんでくる。そういう情景を描いた詩だといえるかもしれない。その情景のなかに坂がある。その坂の両側に塀があって、門があった、家がある。その家は「カニのような」形か、色かをしている。柴田さんは、あまり色にはこだわっていないように感じられるので、ここはやはり形かな。
で、「坂道」。これも「坂道」だけなら絵に描くことができる。でも、「咳をする坂道」になると、突然、絵に描けなくなる。
意地悪ですねえ、柴田さんのことばは。
私は、こういうときは絵を求めない。絵を考えない。
では、どうするか。
書かれていることばを、音そのものとして聞こうとする。そうして、その瞬間、とても不思議なことを経験する。
この行のなかには「さ行」の音がひびいている--とは、今回は、私はいいたくない。この1行を読んだとき、私のなかで何が起きる。「咳(せき)」という「音」が消える。そして、その奥から「咳」そのものの音が聞こえてくる。「ごほん」「こほっ」その他いろいろな音があるだろうけれど、「意味」になる前の、「咳」の実体を結びつける「音」そのものが聞こえる。それは「頭」の反応というより「肉体」の反応。言い換えると、私の咳をした肉体の記憶が甦ってくる。
そして、このときの「肉体」の記憶というのは、病気の咳とはまったく違う。苦しい咳とは違う。「おっほん」とか「えっへん」とか--自分はここにいる、という感じのことを主張する「咳ばらい」の咳ですね。おい、坂よ、おれが登ってるんだぞ。つらいんだぞ、気づけよ、という感じですね。そう考えると、ふいに、そこに柴田さんが見えてくる。柴田さんは、この冊子の写真ではやせているけれど、私の知っている時代の柴田さんは太っていましたねえ。坂を登るのは、苦手だったかもしれない。そういうひとが、坂を登りながら、いやだなあ、と思いながら「いやだなあ」と言いたくないので、「えっへん」と空咳をしている--そういう感じって、おもしろいと思うなあ。
似た「咳」を書いた作品があります。
『水音楽』のなかに「パン屋にパンを買いにいった日」という作品がある。そのなかに出てくる「咳ばらい」。
この作品の「咳ばらい」の咳を思い出す。
ほんとうは、ここをすばやく通りすぎたい。でも、できない。土佐犬にかみつかれたら困るしなあ。そういう感じで、ちょっとどいてよ、と思いながら柴田さんは咳をしている。おかしいですね。滑稽ですね。
で、音楽に戻ると。
音楽は、横道をゆくわけにはいかない。ついていくしかない。本のように読みとばすわけにもいかない。ちょっとどいてといわずについていく--けれど、いいたい。で、思わず咳をしてしまいそうな部分--そういうことを考えました。
また、こんなことも考えました。
この「咳ばらい」の咳を思い出すのは、その前の行に「がさがさ」という荒れた音が出てくるからですね。同時に、その「がさがさ」とは反対のねっとりした感じがする「どうみても」という音がある。
「がさがさ」。のどがかわくでしょ? 「どうみても」。この論理の追いかけ方、なんだかねっとりしていませんか? がさがさがのどりねっとりとはりつく--この矛盾した感覚から肉体を解放したい。「こほっ」という感じで吐き出したい。自分を楽にしたい。不快感を吐き出したい。
不快感、いやなことがあったら、私なんかはすぐ怒りだしてしまう。怒るというのは、ことばで自分の主張をするということだけれど、柴田さんはずいぶん違う。ことばにしないのです。でも、音は出す。それが「咳」ですね。
いつか機会があれば話したいのだけれど、柴田さんの詩には「半分」の「半」をつかったことばがたくさんある。咳は「半分」の「声」ですね。ことばはないけれど、自己主張する。ちょっと覚えておいてくださいね。
ことばではなく、けれど「声」を出す。いや、音を出す、の方がいいですね。
この「音を出す」ということでは、まり、おもしろい作品があります。
「裏地図」という作品。
ここに出てくる「含嗽」。これは、やっぱり「のど」の解放ですね。のどに絡みついている「ことば」にならない「音」を解放する。いや、捨て去る。
「意味」、つまり「頭」で考え、整理することばとは違う何かがある。それとは違った「ことば」が「肉体」にはある。それをなんとかしたい。
さっき「咳」のとき「咳ばらい」を例にとって、いわば「空咳」のことを言ったのだけれど……。この「裏地図」の「含嗽」とつなげてみると、ちょっとおもしろい。比較するとおもしろい。
なぜ、咳ではなく、嗽になったのだろう。
濁音のおもしろさ、ということについて話してみたいと思います。濁音というと、反対は清音。多くのひとは濁音は濁っているから汚い、清音の方が響きが美しい--とよくいうのだけれど、私は濁音がとても好き。
豊かさがある。この豊かさは肉体で感じる豊かさ。だぢづでど--と言ってみる。ざじずぜぞと言ってみる。たちつてと、さしすせそ、と違って、のどの奥が開かれる。開いたのどを口で閉じこめる。そうすると、口のなかに唾がわいてきて、音に湿り気が出る。つややかさがでる。うるおった声なら、まあ、ほめことばになるのだけれど、なんとなくそういう感覚が好きですね。
で、この唾がたまってくる--というのは、詩が「はなずおう」という音から始まっているからですね。「だいだいてき」とか「あなだれて」というのも濁音。それがあるから、自然に唾が出てくる。
柴田さんは、とっても自然に発音と肉体関係を書いている。とても正直に書いている。こういう正直さにふれると私は感動してしまう。だれでもある瞬間、ひとは正直になる。「地が出る」。その瞬間というのは、私は、とっても好きです。
のどには、そして「がさがさ」という乾いたからみつきもあるし、「唾」があふれるからみつきもある。どっちでも、嗽をする。つまり、それは何かから自分の肉体を解放するということかもしれない。ここのことろは、私のことばではうまく説明できません。
「音楽」には「がさがさ」という、一種かわいた感じを誘う音がある。それが「空咳」の「空」につながり、「咳ばらい」にもつながっていくのだけれど、「裏地図」では「水っぽい唾」と「乾いた」とは反対のことばが出てきますね。そして、「水っぽい」がゆえに「唾」は心を浸食する、とつながっていくのだけれど。
うーん、どういえばいいのだろう。
乾いたものと水とは正反対なのに、それに対する「のど」という肉体の反応は同じ。その「同じ」のなかにというか、矛盾したものを同じ肉体の反応でこたえるところに、不思議な肉体の正直さを私は感じてしまう。乾いた、も、水、も「違和感」ですね。その違和感にであったときに、肉体は同じ感じで咳をする。その「同じ感じ」が私の言う「正直」です。「同じ」になってしまうのは、ようするに「嘘」ではない--だから「正直」。この感覚は、うまく論理化できないけれど、私は、そう感じています。
柴田さんは、柴田さん自身が「咳ばらい」をするだけではなく、他人の「咳ばらい」にも耳を傾けている。「雑居ビルのある場所」(『耳の生活』)。
ここでも「咳ばらい」は自己主張ですね。「あれはいかんよ」に「自己主張」がある。「違和感」かもしれまんせんが、つまり、違和感を感じたものに対する否定のことばかもしれないけれど、そういう否定をすることを自己主張ともいいますね。まあ、どっちが正確ということはいえないので、どっちでもいいなあ、と考えてくださいね。
この「あれはいかんよ」がおもしろいのは、「あれはいかんよ」はことばだけれど、「意味」がない、「意味」がわからないことですね。何がだめなの? わからないでしょ?まあ、そのことばを聞いた柴田さんには「意味」は分かったかもしれないけれど、読者はわからない。わからないふうに柴田さんは書いている。それは「意味」ではなく、それを一種の「咳払い」のようなものとして書いていることだと思います。
ことばにしない「自己主張」ですね。
この詩でおもしろいのは、このときの「咳ばらい」に「臭い」ということばがついてまわることですね。
いままでは「がらがら」とか「がさがさ」とか、「音」がついていた。「耳」がついていた。けれども、ここでは「臭い」。鼻というか、嗅覚がついて回っている。
ここから、私はいろんなことを考えてしまう。感じてしまう。
ひとつは、柴田さんの感覚は「のど」「耳」というところに集まってきていて、そこでは聞いたり音を出したりというだけではなく、匂いを嗅ぐということもする。実際に匂いを感じるのは鼻なんだろうけれど、その鼻はのどや耳とつながっている。「耳鼻咽喉科」という病院があるけれど、あ、つながっているんだ、というのが病理学的な「肉体」からではなく、感覚からもなんとなく納得できる。
そして、そこには多くのひとが重視する「視覚」、目の情報が少ない。少なくはないのかもしれないけれど、それを上回って「耳」「のど」の感じが強い--というのが柴田さんのことばの特徴だと思う。
また、こんなことも感じました。
この「臭い」は「口臭」ということばを思い起こさせる。他人の「息」は臭い--というよりも、他人の口から出てくるのもは「臭い」。そして、他人の口から出てくるものといえば、いちばん多いのは、ことばかな?
他人のことばは臭い。うさんくさい。
でも、そうとばかりはいえない。他人のことばでも「くさくない」ものがある。たとえば、
これは、その内容を具体的に言いなおすととっても面倒くさい。この詩のなかでは月明かりでものを書くこと--くらいの意味だけれど、いいたいのはそのこと? たぶん違うね。「あれはいかんよ」という拒否、否定、その感じが気持ちいい。
そこには口臭がない。ことばの臭さがない。
だから、柴田さんは、そのことばを何度も繰り返し、自分でも言ってみている。
「臭くないことば」、過剰な「意味」をもたないことばが、柴田さんは好きだった、といえるかもしれませんね。
臭い咳ばらいということばを中心にして、感覚の融合ということを少し話したので、そこからもう少し脱線してみます。
「雑居ビルのある場所」のさっき引用した部分。そこに、
ということばがある。
なぜ、首なんでしょうねえ。背中でも胸でも尻尾でも、肛門でもいい。
こういうことは、まあ、どうでもいいことかもしれない。けれど、そのどうでもいいことに、私は詩人の無意識がまじっていると感じます。無意識。無防備の意識。そこに、私は「思想」というものを感じるのです。
「思想」というのは、私の定義では、そのひとを動かしている基本。そのひとが信じているなにか基本的なこと、本能的にまもろうとしている「いのち」につながる部分。「肉体」になってしまっている精神。「肉体」で覚えているなにか大切なもの、ということです。
首というのは、別のことばで言うと「のど」になる。そう考えると、いままで私が話してきた「耳」とつながりませんか? 「首」は「耳」と一体になっている。しばたさんにとっては、「耳」と「首」は切り離せない関係にある。
「裏地図」にもどってみましょうか。
これもおもしろいですよ。
花蘇芳の葉が太ってきた、そして枝がしなだれてきたのを確認しているのは「目」です。「見ている」ということばもそれを強調しています。けれど、その目はすぐに「首」に移動していく。
花蘇芳を見て、それを肉体で模写する。真似する。そのとき、柴田さんの肉体で一番先に反応するのが首。首がしなだれてくる。目ががっかりする、目の焦点がだらしなくなるとかではなく、首がしなだれてくる。
ここでも、目ということばが出てくるけれど、それを追いかけてすぐに「足首」ということばが出てくる。「足首」ではなく、つま先でもいいのだけれど、柴田さんは「足首」と書いてしまう。無意識が「首」ということばを要求している。
それがおもしろいですねえ。
さらに先。
ここでも「視野」という「目」をあらわすことばから動きはじめるのだけれど、「目」で終わらない。「目」が別の肉体へ動いている。
「ききながら」。
ふいに「耳」が登場する。この「聞きながら」は頭の中で反芻しながら、思い出しながらということだと思うけれど、それを「頭」ではなく、つまり「精神」をあらわすことば、「精神」につながることばではなく、「聞く」という「耳」、「耳」という「肉体」につながることばで書いてしまう。
こういうことばの操作は意識的でもあるけれど、無意識的でもある。知らず知らずにしてしまうことですね。だから、それを私は「思想」と呼ぶのです。
肉体が「目」から「首」、そして「耳」へと動いてきて、そのあと
「首」が「首の内部」、つまり「のど」になる。そして、それが「心」へとつながっていく。
耳→首→のど→心。
この「肉体」の変化、「肉体」が「心」にかわるときの、ことばの径路が私にはとても興味深い。
この径路を、私は直感的に信じています。
別のことばで言うと、このとき柴田さんの「肉体」が見える。変な言い方になるけれど「裸」が見える。
それで、柴田さんの詩がとっても好きなんです。
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きのう「柴田基孝行を読む」という催しがあって、きょうは、いわばそのつづきのことを話します。いつもは一篇の詩を取り上げるのだけれど、今回はいくつかの詩を行ったり来たりして、柴田さんの詩の特徴について話してみようかな、と思います。
柴田基孝さんの詩を読むと、「のど」が奇妙なつかわれ方をしている。「のど」というのは、基本的に「声」を出す器官(肉体)。でも、柴田さんは「声」というものをあまり信じていない。「音」が大好きなくせに、人間が出す「音」が嫌い。
というと変だけれど、ことばではない「音」の方に関心がある。「うがい」とか「咳」ですね。正直になにかを言おうとするとことばにならずに、ことば以前の「音」になる。その「音」のなかに柴田さんがいる--という感じです。
「音楽」という詩があります。『無限氏』という詩集のなかに入っています。
ドメニコ・スカルラッティを
がさがさと弾く音が流れてくるが
その音のなかに
どうみても
咳をする坂道がある
塀が たくさんつづく門構えの
カニのような家がある
結局どこを探しても
人間の球根の影を宿した音は
雨の音のほかにはない
じぶんのなかの雨のほかには……
いろいろ不思議な表現が出てくるけれど、いちばん不思議なのは「咳をする坂道」。まあ、その坂道をのぼるとき(くだるときでもいいけれど)、ついつい咳をしてしまうということも考えられないわけではないけれど、そうではなく「坂道」そのものが咳をするとも考えられますね。だから、とっても変な感じがする。ようするに「意味」がわからないという感じがする。
「咳をする坂道」っ何、と聞かれたら困る。すぐには自分のことばで言い換えられないですよね。つまり「意味」がわからない。私は「意味」がわからないものは、まあ、ほうっておきます。いつかわかるようになるかもしれないし、わからなくたって別に困るわけじゃないですから。
ちょっと脱線しました。
その行の周辺の「塀が たくさんつづく門構え」「カニのような家」というのは、絵に描くことができる。「カニのような」という比喩にはとまどうけれど、カニの絵は描ける。そうすると、この詩は、音楽を会画風に表現したものといえなくはない。
すばらしい音楽を聴くと、何か情景が浮かんでくる。そういう情景を描いた詩だといえるかもしれない。その情景のなかに坂がある。その坂の両側に塀があって、門があった、家がある。その家は「カニのような」形か、色かをしている。柴田さんは、あまり色にはこだわっていないように感じられるので、ここはやはり形かな。
で、「坂道」。これも「坂道」だけなら絵に描くことができる。でも、「咳をする坂道」になると、突然、絵に描けなくなる。
意地悪ですねえ、柴田さんのことばは。
私は、こういうときは絵を求めない。絵を考えない。
では、どうするか。
書かれていることばを、音そのものとして聞こうとする。そうして、その瞬間、とても不思議なことを経験する。
咳をする坂道がある
この行のなかには「さ行」の音がひびいている--とは、今回は、私はいいたくない。この1行を読んだとき、私のなかで何が起きる。「咳(せき)」という「音」が消える。そして、その奥から「咳」そのものの音が聞こえてくる。「ごほん」「こほっ」その他いろいろな音があるだろうけれど、「意味」になる前の、「咳」の実体を結びつける「音」そのものが聞こえる。それは「頭」の反応というより「肉体」の反応。言い換えると、私の咳をした肉体の記憶が甦ってくる。
そして、このときの「肉体」の記憶というのは、病気の咳とはまったく違う。苦しい咳とは違う。「おっほん」とか「えっへん」とか--自分はここにいる、という感じのことを主張する「咳ばらい」の咳ですね。おい、坂よ、おれが登ってるんだぞ。つらいんだぞ、気づけよ、という感じですね。そう考えると、ふいに、そこに柴田さんが見えてくる。柴田さんは、この冊子の写真ではやせているけれど、私の知っている時代の柴田さんは太っていましたねえ。坂を登るのは、苦手だったかもしれない。そういうひとが、坂を登りながら、いやだなあ、と思いながら「いやだなあ」と言いたくないので、「えっへん」と空咳をしている--そういう感じって、おもしろいと思うなあ。
似た「咳」を書いた作品があります。
『水音楽』のなかに「パン屋にパンを買いにいった日」という作品がある。そのなかに出てくる「咳ばらい」。
おおきな土佐犬が 前を
尻をふりながら散歩しているので
咳ばらいしてみたがよけてくれない
しょうがないので土佐犬の後につき従った
この作品の「咳ばらい」の咳を思い出す。
ほんとうは、ここをすばやく通りすぎたい。でも、できない。土佐犬にかみつかれたら困るしなあ。そういう感じで、ちょっとどいてよ、と思いながら柴田さんは咳をしている。おかしいですね。滑稽ですね。
で、音楽に戻ると。
音楽は、横道をゆくわけにはいかない。ついていくしかない。本のように読みとばすわけにもいかない。ちょっとどいてといわずについていく--けれど、いいたい。で、思わず咳をしてしまいそうな部分--そういうことを考えました。
また、こんなことも考えました。
この「咳ばらい」の咳を思い出すのは、その前の行に「がさがさ」という荒れた音が出てくるからですね。同時に、その「がさがさ」とは反対のねっとりした感じがする「どうみても」という音がある。
がさがさと弾く音が流れてくるが
その音のなかに
どうみても
咳をする坂道がある
「がさがさ」。のどがかわくでしょ? 「どうみても」。この論理の追いかけ方、なんだかねっとりしていませんか? がさがさがのどりねっとりとはりつく--この矛盾した感覚から肉体を解放したい。「こほっ」という感じで吐き出したい。自分を楽にしたい。不快感を吐き出したい。
不快感、いやなことがあったら、私なんかはすぐ怒りだしてしまう。怒るというのは、ことばで自分の主張をするということだけれど、柴田さんはずいぶん違う。ことばにしないのです。でも、音は出す。それが「咳」ですね。
いつか機会があれば話したいのだけれど、柴田さんの詩には「半分」の「半」をつかったことばがたくさんある。咳は「半分」の「声」ですね。ことばはないけれど、自己主張する。ちょっと覚えておいてくださいね。
ことばではなく、けれど「声」を出す。いや、音を出す、の方がいいですね。
この「音を出す」ということでは、まり、おもしろい作品があります。
「裏地図」という作品。
花蘇芳(はなずおう)の葉がふとって
枝が大大的にしなだれてきたので
それを見ているわたしの首も
たいへんしなだれてくる
目はいつも足首だけみることになって
視野が足の幅に限定されることはつらい
そしてかなしいことである
ボードレールの「旅への誘い」の歌の尻尾をききながら
水っぽい唾がわいてくる
唾はへんに心を浸食するものである
だから なんべんも
心の袋地の行きづまりでガラガラと含嗽をするのだ
ここに出てくる「含嗽」。これは、やっぱり「のど」の解放ですね。のどに絡みついている「ことば」にならない「音」を解放する。いや、捨て去る。
「意味」、つまり「頭」で考え、整理することばとは違う何かがある。それとは違った「ことば」が「肉体」にはある。それをなんとかしたい。
さっき「咳」のとき「咳ばらい」を例にとって、いわば「空咳」のことを言ったのだけれど……。この「裏地図」の「含嗽」とつなげてみると、ちょっとおもしろい。比較するとおもしろい。
なぜ、咳ではなく、嗽になったのだろう。
濁音のおもしろさ、ということについて話してみたいと思います。濁音というと、反対は清音。多くのひとは濁音は濁っているから汚い、清音の方が響きが美しい--とよくいうのだけれど、私は濁音がとても好き。
豊かさがある。この豊かさは肉体で感じる豊かさ。だぢづでど--と言ってみる。ざじずぜぞと言ってみる。たちつてと、さしすせそ、と違って、のどの奥が開かれる。開いたのどを口で閉じこめる。そうすると、口のなかに唾がわいてきて、音に湿り気が出る。つややかさがでる。うるおった声なら、まあ、ほめことばになるのだけれど、なんとなくそういう感覚が好きですね。
で、この唾がたまってくる--というのは、詩が「はなずおう」という音から始まっているからですね。「だいだいてき」とか「あなだれて」というのも濁音。それがあるから、自然に唾が出てくる。
柴田さんは、とっても自然に発音と肉体関係を書いている。とても正直に書いている。こういう正直さにふれると私は感動してしまう。だれでもある瞬間、ひとは正直になる。「地が出る」。その瞬間というのは、私は、とっても好きです。
のどには、そして「がさがさ」という乾いたからみつきもあるし、「唾」があふれるからみつきもある。どっちでも、嗽をする。つまり、それは何かから自分の肉体を解放するということかもしれない。ここのことろは、私のことばではうまく説明できません。
「音楽」には「がさがさ」という、一種かわいた感じを誘う音がある。それが「空咳」の「空」につながり、「咳ばらい」にもつながっていくのだけれど、「裏地図」では「水っぽい唾」と「乾いた」とは反対のことばが出てきますね。そして、「水っぽい」がゆえに「唾」は心を浸食する、とつながっていくのだけれど。
うーん、どういえばいいのだろう。
乾いたものと水とは正反対なのに、それに対する「のど」という肉体の反応は同じ。その「同じ」のなかにというか、矛盾したものを同じ肉体の反応でこたえるところに、不思議な肉体の正直さを私は感じてしまう。乾いた、も、水、も「違和感」ですね。その違和感にであったときに、肉体は同じ感じで咳をする。その「同じ感じ」が私の言う「正直」です。「同じ」になってしまうのは、ようするに「嘘」ではない--だから「正直」。この感覚は、うまく論理化できないけれど、私は、そう感じています。
柴田さんは、柴田さん自身が「咳ばらい」をするだけではなく、他人の「咳ばらい」にも耳を傾けている。「雑居ビルのある場所」(『耳の生活』)。
バッハは白内障になって脳卒中で死んだが
あれは月明かりで楽譜を書いたりしたためで
あれはいかん
あれはいかんよ あんた
波斯猫の首を洗う犬猫病院の院長は
草いきれのする臭い咳ばらいを前後三回
事務室でおこなった
あすという日はトゲをもっている
あれはいかん か
煮沸する首の都市
あれはいかんよ あんた か
世界はいつも臭い咳ばらいをしている
だから臭い夏が町のすき間から洩れてくる
ここでも「咳ばらい」は自己主張ですね。「あれはいかんよ」に「自己主張」がある。「違和感」かもしれまんせんが、つまり、違和感を感じたものに対する否定のことばかもしれないけれど、そういう否定をすることを自己主張ともいいますね。まあ、どっちが正確ということはいえないので、どっちでもいいなあ、と考えてくださいね。
この「あれはいかんよ」がおもしろいのは、「あれはいかんよ」はことばだけれど、「意味」がない、「意味」がわからないことですね。何がだめなの? わからないでしょ?まあ、そのことばを聞いた柴田さんには「意味」は分かったかもしれないけれど、読者はわからない。わからないふうに柴田さんは書いている。それは「意味」ではなく、それを一種の「咳払い」のようなものとして書いていることだと思います。
ことばにしない「自己主張」ですね。
この詩でおもしろいのは、このときの「咳ばらい」に「臭い」ということばがついてまわることですね。
いままでは「がらがら」とか「がさがさ」とか、「音」がついていた。「耳」がついていた。けれども、ここでは「臭い」。鼻というか、嗅覚がついて回っている。
ここから、私はいろんなことを考えてしまう。感じてしまう。
ひとつは、柴田さんの感覚は「のど」「耳」というところに集まってきていて、そこでは聞いたり音を出したりというだけではなく、匂いを嗅ぐということもする。実際に匂いを感じるのは鼻なんだろうけれど、その鼻はのどや耳とつながっている。「耳鼻咽喉科」という病院があるけれど、あ、つながっているんだ、というのが病理学的な「肉体」からではなく、感覚からもなんとなく納得できる。
そして、そこには多くのひとが重視する「視覚」、目の情報が少ない。少なくはないのかもしれないけれど、それを上回って「耳」「のど」の感じが強い--というのが柴田さんのことばの特徴だと思う。
また、こんなことも感じました。
この「臭い」は「口臭」ということばを思い起こさせる。他人の「息」は臭い--というよりも、他人の口から出てくるのもは「臭い」。そして、他人の口から出てくるものといえば、いちばん多いのは、ことばかな?
他人のことばは臭い。うさんくさい。
でも、そうとばかりはいえない。他人のことばでも「くさくない」ものがある。たとえば、
あれはいかんよ
これは、その内容を具体的に言いなおすととっても面倒くさい。この詩のなかでは月明かりでものを書くこと--くらいの意味だけれど、いいたいのはそのこと? たぶん違うね。「あれはいかんよ」という拒否、否定、その感じが気持ちいい。
そこには口臭がない。ことばの臭さがない。
だから、柴田さんは、そのことばを何度も繰り返し、自分でも言ってみている。
「臭くないことば」、過剰な「意味」をもたないことばが、柴田さんは好きだった、といえるかもしれませんね。
臭い咳ばらいということばを中心にして、感覚の融合ということを少し話したので、そこからもう少し脱線してみます。
「雑居ビルのある場所」のさっき引用した部分。そこに、
波斯猫の首を洗う犬猫病院の院長は
ということばがある。
なぜ、首なんでしょうねえ。背中でも胸でも尻尾でも、肛門でもいい。
こういうことは、まあ、どうでもいいことかもしれない。けれど、そのどうでもいいことに、私は詩人の無意識がまじっていると感じます。無意識。無防備の意識。そこに、私は「思想」というものを感じるのです。
「思想」というのは、私の定義では、そのひとを動かしている基本。そのひとが信じているなにか基本的なこと、本能的にまもろうとしている「いのち」につながる部分。「肉体」になってしまっている精神。「肉体」で覚えているなにか大切なもの、ということです。
首というのは、別のことばで言うと「のど」になる。そう考えると、いままで私が話してきた「耳」とつながりませんか? 「首」は「耳」と一体になっている。しばたさんにとっては、「耳」と「首」は切り離せない関係にある。
「裏地図」にもどってみましょうか。
これもおもしろいですよ。
花蘇芳(はなずおう)の葉がふとって
枝が大大的にしなだれてきたので
それを見ているわたしの首も
たいへんしなだれてくる
花蘇芳の葉が太ってきた、そして枝がしなだれてきたのを確認しているのは「目」です。「見ている」ということばもそれを強調しています。けれど、その目はすぐに「首」に移動していく。
花蘇芳を見て、それを肉体で模写する。真似する。そのとき、柴田さんの肉体で一番先に反応するのが首。首がしなだれてくる。目ががっかりする、目の焦点がだらしなくなるとかではなく、首がしなだれてくる。
目はいつも足首だけみることになって
ここでも、目ということばが出てくるけれど、それを追いかけてすぐに「足首」ということばが出てくる。「足首」ではなく、つま先でもいいのだけれど、柴田さんは「足首」と書いてしまう。無意識が「首」ということばを要求している。
それがおもしろいですねえ。
さらに先。
視野が足の幅に限定されることはつらい
そしてかなしいことである
ボードレールの「旅への誘い」の歌の尻尾をききながら
ここでも「視野」という「目」をあらわすことばから動きはじめるのだけれど、「目」で終わらない。「目」が別の肉体へ動いている。
「ききながら」。
ふいに「耳」が登場する。この「聞きながら」は頭の中で反芻しながら、思い出しながらということだと思うけれど、それを「頭」ではなく、つまり「精神」をあらわすことば、「精神」につながることばではなく、「聞く」という「耳」、「耳」という「肉体」につながることばで書いてしまう。
こういうことばの操作は意識的でもあるけれど、無意識的でもある。知らず知らずにしてしまうことですね。だから、それを私は「思想」と呼ぶのです。
肉体が「目」から「首」、そして「耳」へと動いてきて、そのあと
水っぽい唾がわいてくる
唾はへんに心を浸食するものである
だから なんべんも
心の袋地の行きづまりでガラガラと含嗽をするのだ
「首」が「首の内部」、つまり「のど」になる。そして、それが「心」へとつながっていく。
耳→首→のど→心。
この「肉体」の変化、「肉体」が「心」にかわるときの、ことばの径路が私にはとても興味深い。
この径路を、私は直感的に信じています。
別のことばで言うと、このとき柴田さんの「肉体」が見える。変な言い方になるけれど「裸」が見える。
それで、柴田さんの詩がとっても好きなんです。
柴田基孝詩集 (日本現代詩文庫 (46)) | |
柴田 基孝 | |
土曜美術社 |
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