根本明「寂しい遊具」(「hote 第2章」28、2011年09月01日発行)
根本明「寂しい遊具」はことばの「距離感」がおもしろい。
街の描写がつづき、唐突に「これは私が記憶する光景ではない」という行があらわれる。だが、不思議なことに違和感がない。それまでの描写に「熱」がないからである。冷めている。この「熱」は「情熱(こころ)」の問題ではない。「体温」(肉体の温度)、体が自然に発する「熱」である。ある--かもしれないが、冷えている。「埋立地」という人工の場所、「雨雲」「陰らせ(る)」ということばからはじまり、「視界の先」の「先」が「ここ」ではない「遠く」を感じさせることが影響している。
いいかえると、ことばが響きあっている。
そうして、その響きのなかに、この「視界の先」ということばが象徴している「私」と「対象」の「距離」がある。「間」がある。
「体温」というのは「間近」なら感じることができるが、遠く離れるとわからない。そして、そこに「間」があるということは、そこに「私」以外のものも存在しうることを意味する。
ここから「これは私が記憶する光景ではない」ということばが「寂しさ」としてあらわれる。
「私」の「体温」が反映されない風景--というのは、また「他人の体温」も反映されない風景ということになる。街の風景--そのことばは響きあうが、そこには響きあう「体温」がない。そして、これには「視線の先」ということばのなかにある「視線」、つまり視力が強く関係している。
根本は「目」でことばを動かすのである。「目」で対象と出会うのである。「対象」はある距離(離れた位置)で、対象と出会い、その「間」をことばが動く。
根本のことばが「視力」で動くのは、「見えて」に直接的にあらわれている。
おもしろいのは、「地揺れによってぶれた輪郭が」という1行である。「地揺れ」は視力で捉えることができないわけではないが、(私は地震のとき、実際に地面が波うって動くのを見た経験がある)、基本的には「目」よりも体全体で感じるものである。だから、目をつぶっていても、眠っていても感じることができる。この「地揺れ」を「視力詩人」である根本は、「ぶれた輪郭」ということばへ引き継いでゆく。「ぶれた」を判断するのは一義的に「視力」である。(手で触っても確かめることができるが。)
ここには、根本独特の「論理/思想」(肉体)がある。
こういう「肉体」がことばを奥深いところから揺さぶると、ことばは軋む。ことばは自分自身を復元しようとして、変な具合に動く。
「物それぞれのかさぶたのように貼りついているのか」という疑念をくぐったあと、
街が、その風景が突然消えて、「見えないもの」があらわれる。「観念」で動くことばがあらわれる。--「思想」のことばというか、「哲学」のことばというか、「意味」だの「時間」だのという「抽象的」なことば、目には見えないことばが、「私」を代弁する。
という1行を、「これは私の記憶する光景ではない」という1行に対抗する形で、私は、かっこに入れて、読む。
さて。
「視力詩人」の根本は、この「観念」(抽象)から、どうやって「光景」へ戻っていくか。詩のことばを復元させるか。
2連目である。
「目」「見える」「見えるだろう」「見える」。
「視力詩人」は「観念」から現実へもどるとき、「視力」に頼るしかない。--というか、まず「視力」が動く、ということが、ここに端的にあらわれている。
根本の「視力」は彼自身を「視力詩人」にすのるは当然としても、ここでは、それを逸脱して、他者さえも「視力人間」につくりえかてしまう。
「男」から「わたし(1連目では私だったが、2連目から急にひらがなにかわっている--「意味」とか「時間」ということばを書いたしまったために、人格が別次元になった証拠がここにある)」がどう「見える」かということは、「わたし」の問題ではない。男は「大きく息を吸い込む」ときの「わたし」の「息」を「聴いた」かもしれない。あるいは、「伸びあがっ」たときに動き空気の動きを肌で感じたかもしれない。触覚で感じたかもしれない。もしかしたら、そのひとは目が見えないかもしれない--ということは、根本は考えない。
他者を「視力人間」と無意識に断定し、その断定から「見えるだろう」と推測する。
根本の思想と肉体の関係が、特徴的にあらわれた部分である。
この1行から、「これらは私が記憶する光景ではない」という1行にもどると、何が「見えてくるか」(根本ふうに、視力から、ことばを動かしてみる)。
「この光景」は、では「だれの記憶」なのか。
ここに住んでいる(住んでいた)ひとたちが「見ただろう」光景である。「私」以外のひとたち--そのなかに「私(わたし)」は「光景」の一部としてくみこまれていく--「そのひとたちの記憶の光景」ということにならないか。
「わたし」を含むそのひとたちの記憶・光景を、「わたし」は犬に引きずられて歩いている男と「わたし」との隔たり、距離、間のなかに見るのである。男と「わたし」の距離、間のなかで生きる--間だけが、そこに存在する。
この感じが「寂しい」につながる。
3連目は、確認した「寂しい」という「こころ」で見つめなおした埋立地(遊園地?)の光景である。「記憶」ではなく、いま、「わたし(根本)」が「見る」光景である。
ことばが1、2連目に比べるとちょっとぎくしゃくする。
「思想」をくぐり、「薄いガラス板としてめぐらされ/ときに透き通って潮が流れる」というような「比喩(目に見えないもの)」を通過したために、ことばが喘いでいる。--これは、悪いという意味ではなく、その変化がおもしろい、そういう変化を見てとれるということなのだが……。
根本明「寂しい遊具」はことばの「距離感」がおもしろい。
埋立地を低く雨雲が陰らせ
視界の先にボートタワーは水けむりに咽ぶ者のように
白く白濁して揺れている
五月十二日午前、
京葉線のガードを潜り
海までの真直ぐの道を郵便局、美術館をよぎるが
これは私が記憶する光景ではない
街の描写がつづき、唐突に「これは私が記憶する光景ではない」という行があらわれる。だが、不思議なことに違和感がない。それまでの描写に「熱」がないからである。冷めている。この「熱」は「情熱(こころ)」の問題ではない。「体温」(肉体の温度)、体が自然に発する「熱」である。ある--かもしれないが、冷えている。「埋立地」という人工の場所、「雨雲」「陰らせ(る)」ということばからはじまり、「視界の先」の「先」が「ここ」ではない「遠く」を感じさせることが影響している。
いいかえると、ことばが響きあっている。
そうして、その響きのなかに、この「視界の先」ということばが象徴している「私」と「対象」の「距離」がある。「間」がある。
「体温」というのは「間近」なら感じることができるが、遠く離れるとわからない。そして、そこに「間」があるということは、そこに「私」以外のものも存在しうることを意味する。
ここから「これは私が記憶する光景ではない」ということばが「寂しさ」としてあらわれる。
「私」の「体温」が反映されない風景--というのは、また「他人の体温」も反映されない風景ということになる。街の風景--そのことばは響きあうが、そこには響きあう「体温」がない。そして、これには「視線の先」ということばのなかにある「視線」、つまり視力が強く関係している。
根本は「目」でことばを動かすのである。「目」で対象と出会うのである。「対象」はある距離(離れた位置)で、対象と出会い、その「間」をことばが動く。
建物はどれも縁をかすませ
陰りによって膨張し、あるいは削れている
道は平らであるように見えて
バウンドしうねる波を重ねている
地揺れによってぶれた輪郭が
物それぞれのかさぶたのように貼りついているのか
埋立地、ここでは強固であるはずの物の意味が崩れ
時間も烈しく歪んでいる
根本のことばが「視力」で動くのは、「見えて」に直接的にあらわれている。
おもしろいのは、「地揺れによってぶれた輪郭が」という1行である。「地揺れ」は視力で捉えることができないわけではないが、(私は地震のとき、実際に地面が波うって動くのを見た経験がある)、基本的には「目」よりも体全体で感じるものである。だから、目をつぶっていても、眠っていても感じることができる。この「地揺れ」を「視力詩人」である根本は、「ぶれた輪郭」ということばへ引き継いでゆく。「ぶれた」を判断するのは一義的に「視力」である。(手で触っても確かめることができるが。)
ここには、根本独特の「論理/思想」(肉体)がある。
こういう「肉体」がことばを奥深いところから揺さぶると、ことばは軋む。ことばは自分自身を復元しようとして、変な具合に動く。
「物それぞれのかさぶたのように貼りついているのか」という疑念をくぐったあと、
埋立地、ここでは強固であるはずの物の意味が崩れ
時間も烈しく歪んでいる
街が、その風景が突然消えて、「見えないもの」があらわれる。「観念」で動くことばがあらわれる。--「思想」のことばというか、「哲学」のことばというか、「意味」だの「時間」だのという「抽象的」なことば、目には見えないことばが、「私」を代弁する。
これは私(根本)の意識以外のなにものでもない
という1行を、「これは私の記憶する光景ではない」という1行に対抗する形で、私は、かっこに入れて、読む。
さて。
「視力詩人」の根本は、この「観念」(抽象)から、どうやって「光景」へ戻っていくか。詩のことばを復元させるか。
2連目である。
犬とすれ違う、男が引きずられている
その目の奥で白い飛沫が波うつのが見える
男にもわたしが伸びあがっては大きく息を吸い込むのが見えるだろう
もうわたしたちはこのようにしか歩行できない
薄いガラス板としてめぐらされ
ときに透き通って潮が流れるのが見えるここでは
「目」「見える」「見えるだろう」「見える」。
「視力詩人」は「観念」から現実へもどるとき、「視力」に頼るしかない。--というか、まず「視力」が動く、ということが、ここに端的にあらわれている。
根本の「視力」は彼自身を「視力詩人」にすのるは当然としても、ここでは、それを逸脱して、他者さえも「視力人間」につくりえかてしまう。
男にもわたしが伸びあがっては大きく息を吸い込むのが見えるだろう
「男」から「わたし(1連目では私だったが、2連目から急にひらがなにかわっている--「意味」とか「時間」ということばを書いたしまったために、人格が別次元になった証拠がここにある)」がどう「見える」かということは、「わたし」の問題ではない。男は「大きく息を吸い込む」ときの「わたし」の「息」を「聴いた」かもしれない。あるいは、「伸びあがっ」たときに動き空気の動きを肌で感じたかもしれない。触覚で感じたかもしれない。もしかしたら、そのひとは目が見えないかもしれない--ということは、根本は考えない。
他者を「視力人間」と無意識に断定し、その断定から「見えるだろう」と推測する。
根本の思想と肉体の関係が、特徴的にあらわれた部分である。
この1行から、「これらは私が記憶する光景ではない」という1行にもどると、何が「見えてくるか」(根本ふうに、視力から、ことばを動かしてみる)。
「この光景」は、では「だれの記憶」なのか。
ここに住んでいる(住んでいた)ひとたちが「見ただろう」光景である。「私」以外のひとたち--そのなかに「私(わたし)」は「光景」の一部としてくみこまれていく--「そのひとたちの記憶の光景」ということにならないか。
「わたし」を含むそのひとたちの記憶・光景を、「わたし」は犬に引きずられて歩いている男と「わたし」との隔たり、距離、間のなかに見るのである。男と「わたし」の距離、間のなかで生きる--間だけが、そこに存在する。
この感じが「寂しい」につながる。
3連目は、確認した「寂しい」という「こころ」で見つめなおした埋立地(遊園地?)の光景である。「記憶」ではなく、いま、「わたし(根本)」が「見る」光景である。
ことばが1、2連目に比べるとちょっとぎくしゃくする。
「思想」をくぐり、「薄いガラス板としてめぐらされ/ときに透き通って潮が流れる」というような「比喩(目に見えないもの)」を通過したために、ことばが喘いでいる。--これは、悪いという意味ではなく、その変化がおもしろい、そういう変化を見てとれるということなのだが……。
タワーに昇り埋立地を見はるかしたい
市原の焼け焦げた石油タンクや足萎えたクレーンを数えたい
けれどタワーは制震装置の故障のため動かない
動物公園で沈黙する観覧車の前の子供たちと同様に
わたしはこのあやうい地に押し付けられたまま
低い雨雲のあいまに
ケシ科の雑草の花群れが不意に広がるのを
そのそぐわない桃色をいぶかった
この黄昏のあやかしに | |
根本 明 | |
ミッドナイトプレス |