詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』

2011-10-01 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(思潮社、2011年10月01日発行)

 粒来哲蔵『蛾を吐く』は、読むより先に、ことばの中に吸い込まれてしまう。ことばが私の肉体をつかみこんでしまう。ことばの動いていく方へしか進めなくなる。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い
箇所に在る腫瘍様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療
の手を遮って吐いた。医師には血の塊と見えただろうがおれの吐い
たものは一匹の蛾だった。蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落
ちた。おれはただそれを見ていた。

  (「もがいて」は「足ヘン」に「宛」。感じが表記できないのでひらがなにした。
   腫瘍様の「様」には「よう」とルビがある。これも省略した。
   以下も引用は正確ではない。私のワープロの関係で表記を変えたものがある。)

 このことばの力はいったい何だろうか。
 ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
 路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
 食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。
 しかし、その食道ガン、胃ガンということばは、「ことば」にならない。粒来自身、そういうことばを書いていないが、そういう「医学」のことばの「奥」、「肉体」の方へ入り込んでゆくので、「病名」にはならないのだ。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
 なぜ、私は、この詩を読み、ことばの中へ肉体が引き込まれてゆくと感じたのか。
 「嚥下困難」。食べ物、飲み物を飲み込むことが難しい--という意味はわかるが、書き出しの「医師はおれに嚥下困難と告げた」は一種、異様な表現である。「嚥下困難」なのは「おれ」である。「おれ」が医師に「嚥下困難」と告げる(病気の相談をする)のがふつうだが、ここでは医師が「あなたは嚥下困難です」と告げる。知っていることを告げる。「おれ」の「肉体」は、そんなことを言われなくても知っている。だから、病院に来たのだろう。それなのに、医師は「おれ」に知ってることを告げる。これは、先に書いた路傍に倒れているひととそこを通りかかったひとの関係にあてはめると、医師が変なことをいっていることがわかる。道に倒れて苦しんでいるひとに対し誰かが「あなたは腹が痛くて苦しんでいる。立てない」と言ったら、変でしょ? この「変さ(?)」に、しかし、粒来のことばの不思議さがある。
 私たちはいろいろなことを知っている。たとえば「おれ」は食べ物や飲み物が飲みにくいということを「肉体」で知っている。知っているけれど、それは「ことば」にはなっていないことがある。「ことば」にできなくても、知っていることがある。それは、もしかすると、知りたくなくて「ことば」にしないのかもしれない。
 そういう何か意識が避けているところへ、「ことば」が急におりてくる。襲ってくる。ことばに肉体が乗っ取られる。そうか、「嚥下困難」というのか。知っているけれど知りたくなったことが突然結晶したみたいにくっきりする。そんなふうにして明確になった「肉体」は「肉体」なのか「ことば」なのか、よくわからない。よくわからないまま、「食道」「奥深い箇所」「腫瘍」「存在」と、次々に「肉体」が「ことば」にのっとられていく。
 そのとき「ことば」にのっとられていくのは「おれ」の「肉体」であって、私(谷内)の肉体ではないのに、まるで自分の「肉体」がのっとられ、少しずつ、あやしいものになっていく。
 「ことば」は「暗示」しているだけだが、「暗示」が「暗示」をこえて、現実(事実?)になっていく。

おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。

 これは「ことば」に対する「肉体」の逆襲である。しかし、その「逆襲」は「ことば」を裏切るのではなく、「ことば」を先取りする。先回りして、「ことば」に「肉体」を渡さないといった類の、なんとも変な逆襲である。
 「食道の奥に腫瘍はありません。こんなに元気です。なんでも飲み込めます」ではなく、「ことば」が「腫瘍」を「暗示」した瞬間に、その暗示が現実になり、さらにそれを突き破って動いていく。
 「ことば」と「肉体」の競争--してはいけない競争が始まる。
 そして、粒来は、その競争において、「肉体」にではなく、「ことば」に加担する。そして、その加担した(加担された)「ことば」へ、さらに「肉体」を立ち向かわせる。どんなに暴走しても、それは「ことば」じゃないか。「ことば」に「肉体」があるから存在するだけなのだと告げるのだ。「ことば」と「肉体」の全面戦争である。

 「肉体」ではなく「ことば」への加担。その最初は「蛾」である。

医師には血の塊と見えただろうがおれの吐いたものは一匹の蛾だった。

 「肉体」的には「血」。しかし、「おれ」はそれを「血」と呼ばない。「蛾」と呼ぶ。そうすると、そこに「蛾」に出現する。
 この直前の「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた」の「遮って」が、とても強い。「嚥下困難」「食道」「腫瘍」は医師の「ことば」である。その医師のことばを拒絶して、「おれ」の「肉体」が暴れる。「遮って」は、そういう「ことば」を拒否してと同じ意味である。
 そして「血」が出てくる。「血」は、これもまた医師の「ことば」である。その「ことば」を「遮って」、「おれ」はそれを「蛾」と呼ぶのである。名づけるのである。
 医師の「ことば」を先取りし、暴走する「肉体」。その「肉体」からあらわれる新しい「肉体」を、医師は古いことば(血)で定義しようとするが、その定義を拒絶して「おれ」が新しい「ことば」を「肉体」からあふれさせる。

蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落ちた。おれはただそれを見ていた。

 「蛾」は「血」であるが、また「ことば」でもある。「蛾」は医学的には「血」であるが、「おれ」には「血」ではなく、「おれ」の「肉体」が生み出した「ことば」である。「おれ」の「肉体」が生み出した「おれ」の「ことば」であるから、それは「共通語(流通語)」ではない。「意味」は「共通のもの」をもたない。
 --はずなのだが、わかってしまう。
 まるで、路傍に倒れているひとの苦しみがわかるように、自分のものではないものがわかってしまう。
 それは、それが単なることばではなく、そのことばは「おれ」の「肉体」そのものだからである。この「肉体/ことば」の戦いは、すごい。

 やがて蛾は看護士の白いユニホームの裾に貼り付き、赤黒いもの
を二筋三筋滴らせて搬ばれていった。おれはそれも見ていた。

 「おれ」の「肉体/ことば」は医師の「ことば」に対して戦いを挑んでいるわけではない。「看護士」の「肉体(ユニホーム)」にも「貼り付く」。つまり、汚染する。

 そして、ここには、もうひとつ、とてもおもしろいことが書かれている。病気と闘い、ことばを書いている粒来に対して「おもしろい」という感想を書くのは申し訳ない気もするが、粒来が闘病しながら書いているということを忘れてしまう。粒来のことばに夢中になってしまうのである。

おれはただそれを見ていた。

おれはそれも見ていた。

 繰り返される「おれは見ていた」。「それを」「それも」見ていた。「おれ」の「肉体」のことなのに、まるで他人の「肉体」で起きていることのように「それ」と呼び、「見つめる」。
 この「それ」がすごい。
 粒来にとって、医師の「ことば」から始まった新しい「肉体」は、あくまで「それ」なのである。「おれ」の「肉体」ではない。
 だから、それを「おれ」の「肉体」に取り戻すために--「おれ」の力の支配下に置くために「ことば」にするのだ。
 「おれ」の「主人」は「おれ」であり、それは「ことば」なのだ。

                                  (つづく)



粒来 哲蔵
書肆山田
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ヴィンセント・ミネリ監督「バンド・ワゴン」(★★★)

2011-10-01 16:10:28 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィンセント・ミネリ 出演 フレッド・アステア、シド・チャリシー、オスカー・レヴァント、ジャック・ブキャナン

 フレッド・アステアのダンスはいつも優雅だ。相手にあわせて踊る。相手を踊らせるために踊る。その視線がいつも相手の動きを受け止めている。会話がある。
 セントラルパークでシド・チャリシーと踊り始める瞬間がとてもいい。「息が合う」という表現があるけれど、まさに息があって、それがそのままダンスになる。優雅に見えるのは「息を合わせる」ではなく、「息が合う」からだろう。
 「メイキング・ブロードウェイ」というのだろうか、ミュージカルができあがるまでの舞台裏は、それはそれでおもしろいが、落ち目になった映画スターが舞台で再起をはかるというのは、ちょっと優雅なフレッド・アステアには苦しいかな。あまり生き生きしていない。その分、後半が楽しく――楽しいだけに、メイキングを省略して劇中劇の「バンド・ワゴン」だけで1作品にならないかなあ、と思ってしまう。
 ニューヨークを舞台に、ギャングがジャズを踊るなんて、とてもおもしろいと思う。荒々しくて、なおかつ優雅。うーん、男の色気がどんな具合に広がるかな――と思った。追われる女に男が巻き込まれてゆくなんて、監督はヒチコックにまかせてみたい。どんなミュージカルになるだろう。
(午前十時の映画祭「青シリーズ」35本目、天神東宝3)


バンド・ワゴン 特別版 [DVD]
クリエーター情報なし
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新延拳『背後の時計』(3)

2011-10-01 13:32:32 | 詩集
新延拳『背後の時計』(3)(書肆山田、2011年09月10日発行)

 新延拳のことばには、すーっと近づいてゆける部分とまったくわからないものが交錯するときがある。

毎日同じところで止まるピアノが
今日はすらすらと続いている
いつも通った道
薔薇の垣根
今は僕の方が止まってしまう
                           (「旅立ちは夕暮れが」)

 これは、すっきりとわかる。「いつも」というときの「時間」の長さまで実感できる。止まるピアノ、止まらないピアノ(つまずかないピアノ)、止まる僕--のリズムが楽しい。

列車から通りすぎる時見るこの町の建物はみな裏側
路地が夕日に染まる頃
レース越しに嬰児が眠ってるのが見えた
母親は頬杖をつき煙のようによりそって
                               (「遠い祈り」)

 1行目はとても美しい。「裏側」が、あ、そうか、と思わせる。「裏側」は「内側」、隠している部分でもある。確かに、列車から見る「暮らし」は少し無防備である。見られることを強く意識はしていない。その無意識に重なるようにして眠る嬰児があらわれる。自然で、あたたかで、美しい。
 けれど、そのあとの母親の「煙のように」というのは何だろうか。「煙」の「比喩」がわからない。
 終わりから2連目。

遠い時間を経た祈り
木蓮の白い焔につつまれて
炎上する生家
夕闇が焔を徐々に消してゆく

 1連目の「煙」は「生家」の「炎上(火事)」の伏線? 嬰児とその母は火事で亡くなったのだろうか。途中に少女の成長した姿も描かれているから、嬰児はやがて少女になり、その後火事があったのだろうか。
 詩は「物語」そのものではないから、別に書かれていることばに「因果関係」を求めなくてもいいのかもしれないが、何か、とても気になる。
 新延が「神話」に対して考えている「物語」というものが、現実の体験をつづることだとすれば、うーん。
 ちょっと違う気がする。
 「物語」を、あえて「詩」にするとき、そこに「逸脱」がないといけないと思うけれど、その「逸脱」が、むしろ「物語」の「内部」へ無言でおりていくようで、違うんじゃないかなあと思う。
 新延が生きている現実に対して「違う」というような言い方は変だけれど。
 「詩」ならば、「物語」の「内部」の無言を、なんとかことばにして動かしてほしいなあ、と思うのである。

 「背後の時計」はタイトルが印象的だ。書き出しもとても好きである。

プールの水面に雨が降り出す
(そういえば年表もはじめは疎ら)
多くの円ができ
互いに干渉し打ち消し重なり合う
そしていつのまにか雨はやむ

 実際の風景の描写から、意識への移行がスムーズで、意識に移行したあと、そこに広がることばの風景は「現実」なのか「意識」なのか、わからない。そこに「物語」がほんとうはある。
 プールに降る雨を、その同心円の変化を見て「年表もはじめは疎ら」と思う必然性はない--ないから、それをそんなふうにことばにするとき、そのことばの「背後の時計(新延の過去)」が動き、水の底から(ことばの底から)浮かび上がってくる。浮かび上がるといっても、それは「透けて見える」ということではあるのだが。そして、さらにいえば、その「透けて見える」は「透けて見える」と私が一方的に感じることなのだが。
 でも、それが2連目で、

ありあまるほど手つかずの時間と空間があった
柱時計が家族を支配していたあの頃
誰もいないはずの二階で何かが軋む音がし
冷蔵庫が得体の知れない音を出していた

 「何かが軋む音」「得体の知れない音」という「謎」あるいは「暗示」で語られると、すべてが抽象になる。
 「物語」はあくまで具体的でないと(たとえば「旅立ちは夕暮れが」のピアノの音のように)、そこから始まることばは新延の「内部」を動くだけで読者には(私には)つたわらない。つまり、「誤読」しようがない。

ガラスケースの中では
蝋でできたスパゲッティ・ナポリタンを
丸めて挟んだフォークが宙に浮いている
昭和の洋食屋
アイス最中を半分に割って差し出す
夢の中の昭和

 という具体的なことばは魅力的だ。だが、

西日を受けて家族が背負っていたもの
母さんという言葉は今でも断固固有名詞だけれど

 この唐突な「母」への思いと、「固有名詞」ということばで新延が語りたいものが、ちょっと厳しい。

目覚めると秒針に何か急き立てられている気がする
時計の秒針だけでなく音まで尖っていて
妖精が秒針に合わせて踊っている 
夢の中の履歴書にわが悪魔払いのことを記入し
自分をあちこちに置いてきたのだが

 書こうとして書けないことがあるのかもしれない。それを書いてほしいと要求するのは酷なのかもしれないが、こうした「抽象的」な「背後の時計」では、「物語」は新延の内部でしか成立しない。
 新延の内部と外部をつなぐ具体的なことば、ピアノの音がつまずくとき「ぼく」がつまずかずに歩き、ピアノがすらすら動くとき「ぼく」が立ち止まってそれを聞く--というような、相互関係(?)のあるものを、もっと書いてもらいたいなあ。もっと読みたいなあ、と思った。
 プールの水面の雨がつくる同心円を美しく描くことばで、新延の内部の同心円を浮かび上がらせてほしいなあ、そういうものを読みたいなあ、と思った。





百年の昼寝―詩集
新延 拳
土曜美術社出版販売
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