粒来哲蔵『蛾を吐く』(思潮社、2011年10月01日発行)
粒来哲蔵『蛾を吐く』は、読むより先に、ことばの中に吸い込まれてしまう。ことばが私の肉体をつかみこんでしまう。ことばの動いていく方へしか進めなくなる。
このことばの力はいったい何だろうか。
ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。
しかし、その食道ガン、胃ガンということばは、「ことば」にならない。粒来自身、そういうことばを書いていないが、そういう「医学」のことばの「奥」、「肉体」の方へ入り込んでゆくので、「病名」にはならないのだ。
少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
なぜ、私は、この詩を読み、ことばの中へ肉体が引き込まれてゆくと感じたのか。
「嚥下困難」。食べ物、飲み物を飲み込むことが難しい--という意味はわかるが、書き出しの「医師はおれに嚥下困難と告げた」は一種、異様な表現である。「嚥下困難」なのは「おれ」である。「おれ」が医師に「嚥下困難」と告げる(病気の相談をする)のがふつうだが、ここでは医師が「あなたは嚥下困難です」と告げる。知っていることを告げる。「おれ」の「肉体」は、そんなことを言われなくても知っている。だから、病院に来たのだろう。それなのに、医師は「おれ」に知ってることを告げる。これは、先に書いた路傍に倒れているひととそこを通りかかったひとの関係にあてはめると、医師が変なことをいっていることがわかる。道に倒れて苦しんでいるひとに対し誰かが「あなたは腹が痛くて苦しんでいる。立てない」と言ったら、変でしょ? この「変さ(?)」に、しかし、粒来のことばの不思議さがある。
私たちはいろいろなことを知っている。たとえば「おれ」は食べ物や飲み物が飲みにくいということを「肉体」で知っている。知っているけれど、それは「ことば」にはなっていないことがある。「ことば」にできなくても、知っていることがある。それは、もしかすると、知りたくなくて「ことば」にしないのかもしれない。
そういう何か意識が避けているところへ、「ことば」が急におりてくる。襲ってくる。ことばに肉体が乗っ取られる。そうか、「嚥下困難」というのか。知っているけれど知りたくなったことが突然結晶したみたいにくっきりする。そんなふうにして明確になった「肉体」は「肉体」なのか「ことば」なのか、よくわからない。よくわからないまま、「食道」「奥深い箇所」「腫瘍」「存在」と、次々に「肉体」が「ことば」にのっとられていく。
そのとき「ことば」にのっとられていくのは「おれ」の「肉体」であって、私(谷内)の肉体ではないのに、まるで自分の「肉体」がのっとられ、少しずつ、あやしいものになっていく。
「ことば」は「暗示」しているだけだが、「暗示」が「暗示」をこえて、現実(事実?)になっていく。
これは「ことば」に対する「肉体」の逆襲である。しかし、その「逆襲」は「ことば」を裏切るのではなく、「ことば」を先取りする。先回りして、「ことば」に「肉体」を渡さないといった類の、なんとも変な逆襲である。
「食道の奥に腫瘍はありません。こんなに元気です。なんでも飲み込めます」ではなく、「ことば」が「腫瘍」を「暗示」した瞬間に、その暗示が現実になり、さらにそれを突き破って動いていく。
「ことば」と「肉体」の競争--してはいけない競争が始まる。
そして、粒来は、その競争において、「肉体」にではなく、「ことば」に加担する。そして、その加担した(加担された)「ことば」へ、さらに「肉体」を立ち向かわせる。どんなに暴走しても、それは「ことば」じゃないか。「ことば」に「肉体」があるから存在するだけなのだと告げるのだ。「ことば」と「肉体」の全面戦争である。
「肉体」ではなく「ことば」への加担。その最初は「蛾」である。
「肉体」的には「血」。しかし、「おれ」はそれを「血」と呼ばない。「蛾」と呼ぶ。そうすると、そこに「蛾」に出現する。
この直前の「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた」の「遮って」が、とても強い。「嚥下困難」「食道」「腫瘍」は医師の「ことば」である。その医師のことばを拒絶して、「おれ」の「肉体」が暴れる。「遮って」は、そういう「ことば」を拒否してと同じ意味である。
そして「血」が出てくる。「血」は、これもまた医師の「ことば」である。その「ことば」を「遮って」、「おれ」はそれを「蛾」と呼ぶのである。名づけるのである。
医師の「ことば」を先取りし、暴走する「肉体」。その「肉体」からあらわれる新しい「肉体」を、医師は古いことば(血)で定義しようとするが、その定義を拒絶して「おれ」が新しい「ことば」を「肉体」からあふれさせる。
「蛾」は「血」であるが、また「ことば」でもある。「蛾」は医学的には「血」であるが、「おれ」には「血」ではなく、「おれ」の「肉体」が生み出した「ことば」である。「おれ」の「肉体」が生み出した「おれ」の「ことば」であるから、それは「共通語(流通語)」ではない。「意味」は「共通のもの」をもたない。
--はずなのだが、わかってしまう。
まるで、路傍に倒れているひとの苦しみがわかるように、自分のものではないものがわかってしまう。
それは、それが単なることばではなく、そのことばは「おれ」の「肉体」そのものだからである。この「肉体/ことば」の戦いは、すごい。
「おれ」の「肉体/ことば」は医師の「ことば」に対して戦いを挑んでいるわけではない。「看護士」の「肉体(ユニホーム)」にも「貼り付く」。つまり、汚染する。
そして、ここには、もうひとつ、とてもおもしろいことが書かれている。病気と闘い、ことばを書いている粒来に対して「おもしろい」という感想を書くのは申し訳ない気もするが、粒来が闘病しながら書いているということを忘れてしまう。粒来のことばに夢中になってしまうのである。
繰り返される「おれは見ていた」。「それを」「それも」見ていた。「おれ」の「肉体」のことなのに、まるで他人の「肉体」で起きていることのように「それ」と呼び、「見つめる」。
この「それ」がすごい。
粒来にとって、医師の「ことば」から始まった新しい「肉体」は、あくまで「それ」なのである。「おれ」の「肉体」ではない。
だから、それを「おれ」の「肉体」に取り戻すために--「おれ」の力の支配下に置くために「ことば」にするのだ。
「おれ」の「主人」は「おれ」であり、それは「ことば」なのだ。
(つづく)
粒来哲蔵『蛾を吐く』は、読むより先に、ことばの中に吸い込まれてしまう。ことばが私の肉体をつかみこんでしまう。ことばの動いていく方へしか進めなくなる。
医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い
箇所に在る腫瘍様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療
の手を遮って吐いた。医師には血の塊と見えただろうがおれの吐い
たものは一匹の蛾だった。蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落
ちた。おれはただそれを見ていた。
(「もがいて」は「足ヘン」に「宛」。感じが表記できないのでひらがなにした。
腫瘍様の「様」には「よう」とルビがある。これも省略した。
以下も引用は正確ではない。私のワープロの関係で表記を変えたものがある。)
このことばの力はいったい何だろうか。
ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。
しかし、その食道ガン、胃ガンということばは、「ことば」にならない。粒来自身、そういうことばを書いていないが、そういう「医学」のことばの「奥」、「肉体」の方へ入り込んでゆくので、「病名」にはならないのだ。
少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
なぜ、私は、この詩を読み、ことばの中へ肉体が引き込まれてゆくと感じたのか。
「嚥下困難」。食べ物、飲み物を飲み込むことが難しい--という意味はわかるが、書き出しの「医師はおれに嚥下困難と告げた」は一種、異様な表現である。「嚥下困難」なのは「おれ」である。「おれ」が医師に「嚥下困難」と告げる(病気の相談をする)のがふつうだが、ここでは医師が「あなたは嚥下困難です」と告げる。知っていることを告げる。「おれ」の「肉体」は、そんなことを言われなくても知っている。だから、病院に来たのだろう。それなのに、医師は「おれ」に知ってることを告げる。これは、先に書いた路傍に倒れているひととそこを通りかかったひとの関係にあてはめると、医師が変なことをいっていることがわかる。道に倒れて苦しんでいるひとに対し誰かが「あなたは腹が痛くて苦しんでいる。立てない」と言ったら、変でしょ? この「変さ(?)」に、しかし、粒来のことばの不思議さがある。
私たちはいろいろなことを知っている。たとえば「おれ」は食べ物や飲み物が飲みにくいということを「肉体」で知っている。知っているけれど、それは「ことば」にはなっていないことがある。「ことば」にできなくても、知っていることがある。それは、もしかすると、知りたくなくて「ことば」にしないのかもしれない。
そういう何か意識が避けているところへ、「ことば」が急におりてくる。襲ってくる。ことばに肉体が乗っ取られる。そうか、「嚥下困難」というのか。知っているけれど知りたくなったことが突然結晶したみたいにくっきりする。そんなふうにして明確になった「肉体」は「肉体」なのか「ことば」なのか、よくわからない。よくわからないまま、「食道」「奥深い箇所」「腫瘍」「存在」と、次々に「肉体」が「ことば」にのっとられていく。
そのとき「ことば」にのっとられていくのは「おれ」の「肉体」であって、私(谷内)の肉体ではないのに、まるで自分の「肉体」がのっとられ、少しずつ、あやしいものになっていく。
「ことば」は「暗示」しているだけだが、「暗示」が「暗示」をこえて、現実(事実?)になっていく。
おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。
これは「ことば」に対する「肉体」の逆襲である。しかし、その「逆襲」は「ことば」を裏切るのではなく、「ことば」を先取りする。先回りして、「ことば」に「肉体」を渡さないといった類の、なんとも変な逆襲である。
「食道の奥に腫瘍はありません。こんなに元気です。なんでも飲み込めます」ではなく、「ことば」が「腫瘍」を「暗示」した瞬間に、その暗示が現実になり、さらにそれを突き破って動いていく。
「ことば」と「肉体」の競争--してはいけない競争が始まる。
そして、粒来は、その競争において、「肉体」にではなく、「ことば」に加担する。そして、その加担した(加担された)「ことば」へ、さらに「肉体」を立ち向かわせる。どんなに暴走しても、それは「ことば」じゃないか。「ことば」に「肉体」があるから存在するだけなのだと告げるのだ。「ことば」と「肉体」の全面戦争である。
「肉体」ではなく「ことば」への加担。その最初は「蛾」である。
医師には血の塊と見えただろうがおれの吐いたものは一匹の蛾だった。
「肉体」的には「血」。しかし、「おれ」はそれを「血」と呼ばない。「蛾」と呼ぶ。そうすると、そこに「蛾」に出現する。
この直前の「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた」の「遮って」が、とても強い。「嚥下困難」「食道」「腫瘍」は医師の「ことば」である。その医師のことばを拒絶して、「おれ」の「肉体」が暴れる。「遮って」は、そういう「ことば」を拒否してと同じ意味である。
そして「血」が出てくる。「血」は、これもまた医師の「ことば」である。その「ことば」を「遮って」、「おれ」はそれを「蛾」と呼ぶのである。名づけるのである。
医師の「ことば」を先取りし、暴走する「肉体」。その「肉体」からあらわれる新しい「肉体」を、医師は古いことば(血)で定義しようとするが、その定義を拒絶して「おれ」が新しい「ことば」を「肉体」からあふれさせる。
蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落ちた。おれはただそれを見ていた。
「蛾」は「血」であるが、また「ことば」でもある。「蛾」は医学的には「血」であるが、「おれ」には「血」ではなく、「おれ」の「肉体」が生み出した「ことば」である。「おれ」の「肉体」が生み出した「おれ」の「ことば」であるから、それは「共通語(流通語)」ではない。「意味」は「共通のもの」をもたない。
--はずなのだが、わかってしまう。
まるで、路傍に倒れているひとの苦しみがわかるように、自分のものではないものがわかってしまう。
それは、それが単なることばではなく、そのことばは「おれ」の「肉体」そのものだからである。この「肉体/ことば」の戦いは、すごい。
やがて蛾は看護士の白いユニホームの裾に貼り付き、赤黒いもの
を二筋三筋滴らせて搬ばれていった。おれはそれも見ていた。
「おれ」の「肉体/ことば」は医師の「ことば」に対して戦いを挑んでいるわけではない。「看護士」の「肉体(ユニホーム)」にも「貼り付く」。つまり、汚染する。
そして、ここには、もうひとつ、とてもおもしろいことが書かれている。病気と闘い、ことばを書いている粒来に対して「おもしろい」という感想を書くのは申し訳ない気もするが、粒来が闘病しながら書いているということを忘れてしまう。粒来のことばに夢中になってしまうのである。
おれはただそれを見ていた。
おれはそれも見ていた。
繰り返される「おれは見ていた」。「それを」「それも」見ていた。「おれ」の「肉体」のことなのに、まるで他人の「肉体」で起きていることのように「それ」と呼び、「見つめる」。
この「それ」がすごい。
粒来にとって、医師の「ことば」から始まった新しい「肉体」は、あくまで「それ」なのである。「おれ」の「肉体」ではない。
だから、それを「おれ」の「肉体」に取り戻すために--「おれ」の力の支配下に置くために「ことば」にするのだ。
「おれ」の「主人」は「おれ」であり、それは「ことば」なのだ。
(つづく)
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