田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』(書肆山田、2011年10月10日発行)
田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』は「数学詩集」と「帯」に書いてある。さて、数学とは何だろう。
考えるのは面倒なので、感じてみることにした。
「数式の庭-前編-」のある部分。89ページ。
「間違えて」ということばは非常におもしろい。どんなことにも間違いはあるが、数学は間違いが発見しやすい。というか、ようするに答えが違っているかあっているかが、すぐにわかる。
というのは、ほんとうかどうかわからないが。
まえ、簡単にいうと数学の試験。答えが間違えると点数がもらえない。だれでも経験したことがあると思う。
このとき、その「間違い」を「間違い」だと判断する「間違い」ではないもの--つまり「正解」があるというのが、数学の一番不思議な明瞭さである。
これが哲学だとか……ではなく、たとえば恋愛だとかセックスだとかになると、「間違い」を「間違い」と判断するための「正解」がない。「明瞭な判断基準」がない。思い込みがすべてである。より強く思い込んで、より強くことばにしてしまえば「勝ち」なのだ。
でもねえ。
「間違い」が「間違い」であるとき、答えはどこかへ行ってしまって、いわば咲いている「花は/みるみにしぼんでしまって」というような状況になるのだけれど、それを「間違い」であると判断するときの「頭」は、そうではなくて、一種の「輝き」に満ちている。
そこにはない「正しい答え」を見ている。その不思議。
「間違い」を「間違い」であると判断するとき、「頭」のなかには「間違いではないもの」「正しい答え」がある。そして、その「正しい答え」は、もし、この世界に「間違い」というものが存在しなかったら「正しい」を主張できない。
あれっ、変?
そうかもね。
でも、まあ、そういうことへ向かって田中のことばは動いていると思う。
「いま/ここ」にある何か。それを「間違い」であると「判断」する「頭」の美しさ。その美しさを手に入れるために、田中の「頭」は、あえて、「間違える」という冒険をおかす。「間違い」をくぐりつづけることで、その「間違い」を「間違い」であると判断する「絶対頭脳」のようなものが動きだすのである。
108 ページから109 ページにかけての部分。
「わたし」は「同時に/いくつもの場所に存在」することはできない--というのが一般的な「哲学」である。
でも、そんなことはない。
「数学」は「わたしは同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。あるいは「数式はわたしを同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。「数学」が問題にしているのは、そこにある「運動」を運動として表現できるかどうかだけである。それが「間違っている」か「正しい」かどうかではなく、そう考えることができるかどうかだけである。つまり、ことばが動けば、それは「数式」として成り立つ。
で、ですねえ。
実は、これが田中の「発見」。
この詩集は「数学詩集」と銘打たれているが、「数学詩集」ではない。「数式詩集」なのである。
田中が書いているのは、ことばをつかった「数式」であって、「数学」ではない。
「数学」には「正しい答え」がある。
「数式」は「正しい答え」を求めない。むしろ、「間違い」としての答えを求める。どこまで間違えつづけることができる。
あるいは、なぜ人間は間違えつづけることができるか。
そう考えるとき、この詩集はいっきに「哲学書」に変わる。
私は面倒くさがり屋だし、目も悪いので、これから先へは「ことば」を追わない。田中の「哲学」をひとつひとつ吟味しはしない。
どこまでいっても同じだからだか。人間はなぜ間違えつづけることができるか。それは間違えつづけるのが人間の本能だからだと繰り返すだけである。
私は、この「哲学」を信じているので、私の考えていることと田中の考えていることのあいだにある「差異」を明らかにすることには興味がない。想像力というのは「間違える力」なのである。--といったのは、私ではなくバシュラールだけれど、それはプラトンというか、ソクラテスというか、ギリシャの時代から、そのままかわらない。
「正しさ」を求めながら「間違い」だけを発見する。「間違い」を発見するということのなかにしか「正しさ」はないけれど、その「正しさ」を浮き彫りにするためには、まず「間違い」が必要である。片方に「間違い」を明記して、他方に「正しさ」を対比させるかたちに「数式」をつくるとき、そのとき「=」(等記号)はどこにあるか。「≠」(不当記号)のなかにある。--これは永遠の「入れ子細工」のようなものである。
田中は、この「入れ子細工」を、ことばの「リズム」で蹴散らしながら組み立てていく。その速度、その音楽。
「数学」も「数式」も「ことば」で語られるとき、それは「音楽」という「肉体」になる。--この感想は唐突すぎるかもしれないが、それを具体的に説明するのは面倒なので、このままにしておく。
田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ』は「数学詩集」と「帯」に書いてある。さて、数学とは何だろう。
考えるのは面倒なので、感じてみることにした。
「数式の庭-前編-」のある部分。89ページ。
考えごとでもしていたのだろうか。
間違えて
ある演算記号を置くべきところに
別の演算記号を置いてしまったのだ。
すると
その数式の花は
みるみるうちにしぼんでしまって
ばらばらの数字と記号になってしまったのだった。
しかし
見ているとその数字と記号のひと塊のものが光り輝き
見事に美しいひとつの数式の花となったのだった。
「間違えて」ということばは非常におもしろい。どんなことにも間違いはあるが、数学は間違いが発見しやすい。というか、ようするに答えが違っているかあっているかが、すぐにわかる。
というのは、ほんとうかどうかわからないが。
まえ、簡単にいうと数学の試験。答えが間違えると点数がもらえない。だれでも経験したことがあると思う。
このとき、その「間違い」を「間違い」だと判断する「間違い」ではないもの--つまり「正解」があるというのが、数学の一番不思議な明瞭さである。
これが哲学だとか……ではなく、たとえば恋愛だとかセックスだとかになると、「間違い」を「間違い」と判断するための「正解」がない。「明瞭な判断基準」がない。思い込みがすべてである。より強く思い込んで、より強くことばにしてしまえば「勝ち」なのだ。
でもねえ。
「間違い」が「間違い」であるとき、答えはどこかへ行ってしまって、いわば咲いている「花は/みるみにしぼんでしまって」というような状況になるのだけれど、それを「間違い」であると判断するときの「頭」は、そうではなくて、一種の「輝き」に満ちている。
そこにはない「正しい答え」を見ている。その不思議。
「間違い」を「間違い」であると判断するとき、「頭」のなかには「間違いではないもの」「正しい答え」がある。そして、その「正しい答え」は、もし、この世界に「間違い」というものが存在しなかったら「正しい」を主張できない。
あれっ、変?
そうかもね。
でも、まあ、そういうことへ向かって田中のことばは動いていると思う。
「いま/ここ」にある何か。それを「間違い」であると「判断」する「頭」の美しさ。その美しさを手に入れるために、田中の「頭」は、あえて、「間違える」という冒険をおかす。「間違い」をくぐりつづけることで、その「間違い」を「間違い」であると判断する「絶対頭脳」のようなものが動きだすのである。
108 ページから109 ページにかけての部分。
この数式の花は
わたしの位置を変える。
わたしの視点を変える。
わたしのいる場所を変える。
わたしを沈め
わたしを浮かせる。
わたしを横にずらし
わたしを前に出し
わたしを退かせる。
しかし
もっともすばらしいのは
わたしを同時に
いくつもの場所に存在させることだ。
「わたし」は「同時に/いくつもの場所に存在」することはできない--というのが一般的な「哲学」である。
でも、そんなことはない。
「数学」は「わたしは同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。あるいは「数式はわたしを同時にいくつもの場所に存在する」と言ってもいいのだ。「数学」が問題にしているのは、そこにある「運動」を運動として表現できるかどうかだけである。それが「間違っている」か「正しい」かどうかではなく、そう考えることができるかどうかだけである。つまり、ことばが動けば、それは「数式」として成り立つ。
で、ですねえ。
実は、これが田中の「発見」。
この詩集は「数学詩集」と銘打たれているが、「数学詩集」ではない。「数式詩集」なのである。
田中が書いているのは、ことばをつかった「数式」であって、「数学」ではない。
「数学」には「正しい答え」がある。
「数式」は「正しい答え」を求めない。むしろ、「間違い」としての答えを求める。どこまで間違えつづけることができる。
あるいは、なぜ人間は間違えつづけることができるか。
そう考えるとき、この詩集はいっきに「哲学書」に変わる。
私は面倒くさがり屋だし、目も悪いので、これから先へは「ことば」を追わない。田中の「哲学」をひとつひとつ吟味しはしない。
どこまでいっても同じだからだか。人間はなぜ間違えつづけることができるか。それは間違えつづけるのが人間の本能だからだと繰り返すだけである。
私は、この「哲学」を信じているので、私の考えていることと田中の考えていることのあいだにある「差異」を明らかにすることには興味がない。想像力というのは「間違える力」なのである。--といったのは、私ではなくバシュラールだけれど、それはプラトンというか、ソクラテスというか、ギリシャの時代から、そのままかわらない。
「正しさ」を求めながら「間違い」だけを発見する。「間違い」を発見するということのなかにしか「正しさ」はないけれど、その「正しさ」を浮き彫りにするためには、まず「間違い」が必要である。片方に「間違い」を明記して、他方に「正しさ」を対比させるかたちに「数式」をつくるとき、そのとき「=」(等記号)はどこにあるか。「≠」(不当記号)のなかにある。--これは永遠の「入れ子細工」のようなものである。
田中は、この「入れ子細工」を、ことばの「リズム」で蹴散らしながら組み立てていく。その速度、その音楽。
「数学」も「数式」も「ことば」で語られるとき、それは「音楽」という「肉体」になる。--この感想は唐突すぎるかもしれないが、それを具体的に説明するのは面倒なので、このままにしておく。
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