詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(8)

2011-10-08 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(8)(思潮社、2011年10月01日発行)

 粒来哲蔵の「聴覚」について。
 聴覚--で私が思い浮かべるのはセックスである。セックスは視覚でするものというひとが多いようだが(ようするに、見て興奮するということだが)、私はセックスでは聴覚、声(音)がとても重要であると信じている。と、私のことを書いてもしようがないので……。
 「ヴィオラ」は次のように始まる。

 母の声はヴィオラの音色と似ている。それは私の鼻孔に柳絮ま
がいのはかない囁きを印して過ぎるか、あるいは気まぐれな砂礫の
ように私の五感を逆撫でし鞭打って過ぎるといったものではない。
母の声は私の湿り気のある皮膚をまず波立たせて密かに蒼い褶曲を
つくらせ、その褶曲が織りなす細かい襞々に含まれる見えない水滴
を一揃に揺らしはじめる--そんな様態の謂だとおもう。
 ヴィオラの音色と似た重たく深い、いってみれば甘い暗緑色の音
階をもつ母とは、勿論蛙のことだが、従って私もまたやや痩せぎす
のただの雄蛙ということになるのは明白なことだ。

 このあと、蛙の描写は交尾・交接・セックスへと移って行き、ヴィオラの音色は官能の声になる。最後は、

                         私の下で母の
ヴィオラは鳴り始め、音は私の全身を包んで私の性を揺さぶった。時
ならぬ雄の声が私の口から洩れ、それに呼応して母のヴィオラが冴え
かえる中私は射精した。初めて私は母を所有し得たとおもった。

 というのだから、粒来もセックスのなかで「声」(音--聴覚)が重要と感じていることがわかる。ヴィオラの音がなければ、射精はないのだから。
 しかし、その聴覚は単純に聴覚ではない。
 「ヴィオラの音色」の「音色」ということばが象徴しているように「色」、つまり「視覚」が融合している。「ヴィオラの音色と似た重たく深い、いってみれば甘い暗緑色の音階をもつ」と表現された「私」の声にも、「暗緑色」という表現が登場する。「音」を説明するにも「色」(視覚)を必要とするのだ。ここに粒来の聴覚の特徴がある。
 「蒼い褶曲」「細かい襞々」「見えない水滴」も視覚で統合されたことばである。
 ただし視覚だけが聴覚にまぎれこむわけではない。「鼻孔」(嗅覚)「砂礫のように私の五感を逆撫でし」(触覚)「湿り気」(触覚)「皮膚」(触覚)と他の感覚とも融合する。

           母の声は水面に半ば鼻をつきだした私のそ
の鼻先をまさぐり、喉を撫で、さては腹から下肢を舐めてくれる。

 ここには、「喉」「舐めてくれる(舌)」という他の感覚もまじってくる。「五感」が融合して存在する。どの感覚も独立して存在するわけではない。
 セックスは「五感」でするのもなのである。
 ただし、そのとき、どの「感覚」が主体となって全体を統合するかという問題(?)が残る。粒来の場合は、この詩のように「ヴィオラ」と「音」を主体にしているようであって、実は「音」ではなく「音色」--色、視覚なのだ。
 粒来はセックスにとって音がとても重要と「わかっている」けれど、粒来のことばは「視覚」へどうしてもひきずりこまれていく。粒来の「肉体」が覚え込み、つかいこなせるのは「視覚」のことばなのだ。
 だからこそ、とってもおもしろい。
 セックスにおける「音」(聴覚)と「視覚」が競い合い、そこに他の感覚も割り込もうとする。五感のセックスがはじまる。蛙のセックスを描きながら、五感そのものセックスになり--そこから、そこに描かれる蛙が蛙ではなく人間として見えてくるというおもしろさがある。

 ある時私は母の声の微妙な変化に気づいている。何か名状し難い
暗鬱なものが、母に覆いかぶさっている気配なのだ。母はそれに圧
しひしがれているが、覆うものの実体は母が身構える必要がある程
重量あるものではない。いってみれば雲のような存在、もしくは幻
花のように軽量だが重々しいもの、ある時は母の背を弓なりにさせ、
ある時は母の腰に降りかかった雪片をおもわせるもの、それでいて
私と相似た形状を所有するもの--と私は感得する。

 最初は「重さ」(これは触覚の分類に入るのかな?)から始まるが、やがてその「重さ」は「雲」「幻花」と視覚にすりかわり、「弓なり」「雪片」を経て、「形状」ともっぱら「視覚」でとらえた世界に変わってしまう。(形状はもちろん触覚でも判断できる。)

                        それは存在の
重々しさに似ず、おかしい程懸命に両手で母の腋をとらえ、深く挟
みこんで、脚はといえばこれまもた必死に母の腰を緊めつけている。
いずれにしても生きものの交合の在り様以上に厳粛でおかしくて無
様でいて美しいものはない。

 どこまでも「形」なのだ。「形」が「厳粛でおかしくて無様でいて美しい」のである。「形」を描くとき、そこから「音」はするりと抜け落ちている。
 粒来の視覚と聴覚を比較すると、いつも視覚が優位にある、と感じる。



 (補足、になるかどうかわからないが……)

 粒来の視覚の強さは、たとえば書き出しの「柳絮」(りゅうじょ、とルビがふってある。私は詩の形を優先するために引用に際してルビを省略した)、あるいは「褶曲」ということばにもあらわれている。「りゅうじょ」も「しゅうきょく」も音として美しいけれど、漢字で書かれると「音」は「表意」の「文字」に吸い取られてしまう。これは私だけが感じることかもしれないが、粒来が書いていような難しい漢字は「音」のないまま、漢字の形から「意味」が浮いてくる。いや、形が伝える「意味」に「音」がかき消され、無音になっていく、という印象がある。
 「音」を聞き取れないために、粒来のことばを「視覚優位のことば」と感じるのかもしれない。

 視覚でとらえることば--漢字の強さが、粒来のことばの運動を深い部分で支えている、とも感じる。漢字文化をしっかり肉体化した文体なのだ。




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ルパート・ワイアット監督「猿の惑星 創世記」(★★★)

2011-10-08 18:33:19 | 映画
ルパート・ワイアット監督「猿の惑星 創世記」(★★★)

監督 ルパート・ワイアット 出演 ジェームズ・フランコ、アンディ・サーキス

 猿の動きが美しいなあ。知恵のついた幼いシーザーが室内を自在に飛び回る――飛ぶわけではないのだが「飛ぶ」と思わず言ってしまいたくなる軽やかさにびっくりする。お菓子(?)のビンの蓋を開けて、取りだして、蓋を閉め、という一連の動きを電灯のコードをターザンの綱のように巧みにあやつる。部屋から部屋へ、さらには屋根裏部屋へ。うーん、猿になってみたい、あれをやってみたいと思ってしまうなあ。
 初めての大自然、アメリカ杉へ登り、枝から枝へ渡りある(飛び渡る)シーンも美しい。アニメの「ターザン」のように、まるで枝を波乗りするかのよう。いいなあ。うらやましいなあ。
 でもねえ。
 保護施設に閉じ込められてからのシーンで、「3本の矢」が出てくるのは笑ってしまったなあ。シーザーは日本人? アメリカにも「3本の矢」に似た逸話があるのかな? もうひとつ、クライマックスには「牛若丸(義経と言った方がいいかな?)と弁慶」をほうふつとさせるシーンもある。戦いは京の五条の橋の上ではなく、サンフランシスコ(かな?)だけど。
 脚本家は日本人?

 途中に火星探査ロケットが打ち上げられるテレビのニュースシーンがあるけれど、あれにチャールトン・ヘストンが載っていて、「続編」のふりをして最初の作品がリメイクされるのかな?


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伊藤悠子『ろうそく町』

2011-10-08 12:18:26 | 詩集
伊藤悠子『ろうそく町』(思潮社、2011年09月30日発行)

 伊藤悠子『ろうそく町』の巻頭の作品「ろうそく町」。

ろうそく町に行こうと思います
ろうそく町は古い地図の中にあるはずなのですが
場所は確かめられません
名前だけが残っているのです

 この書き出しは魅力的だ。地図は現実があってはじめて有効なものだが、伊藤が描いている「ろうそく町」は、その現実を失っている。現実は存在せず、「記憶」が残っている。ひとが向き合うのは、いつも現実ではなく「記憶」なのかもしれない。
 「ろうそく町」にはろうそく屋がたくさんある。

暮れると
店先にろうそくを点します
よそも同様にしたのでしょう
町はその瞬間
明るくなり
遠くなり
わたしはやっぱりここにいて

 この後半にあらわれる「距離感」の揺らぎに引きつけられた。
 店先にろうそくの明かりがつく。その瞬間「明るくなる」は当然のことだ。でも、それが「遠くなり」とはどういうことだろうか。ふつう、遠くにひとの暮らしの明かりが見えたら、ひとの暮らしに近づいた気がする。近くなった気がする。そうして安心する。けれど、伊藤は「遠くなり」と書いている。
 この「遠く」は「視覚」の「遠い・近い」ではないのだ。「現実」の「距離」ではないのだ。明かりが見える「近さ」とは違う「距離」を伊藤は問題にしているだ。
 それが「近い」と感じれば感じるほど、そこには近づいて行けない--という気持ちもひとは持つことがある。たとえば、その町(ふるさと)を捨ててきてしまったひとには、その町へ近づけば近づくほど、こころは重くなる。そこに行きたい気持ちとそこに行ってはいけないという気持ちがぶつかりあい、その衝突のなかで、いままで存在しなかった「遠さ」が生まれる。
 犀星の詩の「ふるさとは遠きにありて思うもの」という感じに似ている。
 遠く離れて思うとき、それはこころのなかではとても「近い」。つまり、切り離せない。けれど「近く」までくると、そこに「距離」を置きたい気持ちも生まれてくる。
 「存在」を知ることで、逆に、こころが遠くなる。「肉眼」で「ろうそくの明かり」が見えたとき、「こころ」は「遠くなる」。
 この「遠さ」は矛盾の形でしか存在しない「距離感」である。
 それは、町までの「距離」ではなく、あくまでも「ここ」へと跳ね返ってくる。「ここにいる」という「いる」にも跳ね返ってくる。
 「ここ」だけが存在する。「いる」だけが存在する。--だから「遠い」。

 詩の最後は、次のように書かれる。

明けがたのの夢のつらさに
もうろうそく町に行くほかはないと思っているのです

ろうそく町は静けさだけがたよりの町です

 「思っているのです」--これは、単に「思う」のではないのかもしれない。「思う」というより「思い出す」。
 「思い出しているのです」と言い換えた方がいいような気がする。
 きっと伊藤は何度も何度も「ろうそく町」へ行こうと思ったはずである。だからこそ「もう」、そう思うだけではだめなのだ。行かなければならないのだ。--だが、このこともまた、何度も思ったことである。だから、ほんとうは、そう思ったことを思い出している。
 ここには何重にもなった「思う」と「思い出す」がある。そのなかで、距離は「近く」と「遠く」がわかちがたいもの--まるで「夢」のように重なってしまう。
 その重なりを、伊藤は「静けさ」と呼んでいる。
 「意識」はもう、動揺はしない--それが「静かさ」だ。

 「矛盾」--この美しい瞬間を、伊藤は「静かさ」でとらえる。「矛盾」のなかで、もう何度も闘いは繰り返されてきたのだ。それは、もう伊藤を揺さぶらない。その「静かさ」、そうした解決の仕方--これは、『道を 小道を』(ふらんす堂)依頼変わっていない伊藤の生き方である。「思想」であり「肉体」である。

 「こさめふる」にも「矛盾」が出てくる。

あのまま
ゆるやかな坂道を下って行ったら
海がありそうな
海からはとおい町であった

 意識--こころのなかでは「海がありそう」。でも、現実には「海からはとおい町」。海から「とおい」からこそ、海が「ありそう」、つまり「ある」と想像することが可能な町。実際に海が近ければ「ありそう」とは想像できない。思うことができない。そうして、海を思い出すこともできない。
 伊藤はここでは「町」を思い出そうとして、実は、「海」を思い出している。海までの「距離」を思い出している。
 「ろうそく町」でも同じように「ろうそく町」そのものを思い出しているふりをしながら、「ろうそく町」までの「距離」を思い出している。ろうそくをつけた瞬間を思い出すとき町は近づくが、そうやって近づくという現象は逆に「遠さ」をあぶりだす。
 「こさめふる」では「海」を思い出すとき「町」が近づき、「町」を思い出すとき「海」が遠くなる。そういうことを書こうとすると、しかしことばは逆に

海がありそうな
海からはとおい町であった

 と矛盾した形になってしまう。
 この矛盾は、ことばに伝染していく。

小雨とも言えぬわずかな雨が降っていた

 「小雨とも言えぬ」と「否定」であり、同時に「肯定」である。「言えぬ」自体は「否定」だか「とも」によってその「否定」があらかじめ「否定」される。数学のマイナスの数字にマイナスの数字を掛け合わせるとプラスになるような「矛盾」が伊藤の詩の奥深いところでことばを動かしている。

呼び止めるひとがいなかったら
あのまま歩きつづけて行っただろう
町は傍観さえもせず
ひろびろと果てがなく
果てには海があった

 海と町は「遠い」。けれど、「町」は「海」と結びつくしかなく、「海」はまた「町」と結びつくしかない。その「遠い」けれども切り離すことのできない「距離」のなかに伊藤がいる。その切り離すことのできない結びつき、その強さが「静けさ」である。

 伊藤は、いつも、いつまでも、静かである。

詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(7)

2011-10-07 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(7)(思潮社、2011年10月01日発行)

 粒来哲蔵の文体は強靱である。その強靱さは、そこに「意志」のようなものが反映されているからである。
 なぜ、唐突に「私」が出てくるのか--ということに対する疑問、「私」が不在でも、そこに書かれている「内容」(寓話のストーリー)は変わらないのに、なぜ「私」が登場しなければならないのか、という疑問を「梔子」について触れたときに書いた。
 その答えになるかどうかわからないが。
 粒来の文体は「意志」が反映されることによって強靱になるのである。
 たとえば、「燕」。その書き出し。

 燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
たことは明白で、戻り来たものの挙動は瞭らかにひそやか過ぎた。

 「一羽だけ」ではなく「独り」ということばが、この「燕」が単なる燕の物語ではなく、そこに「人間(性?)」がつけくわえられ、「寓話」につながっていくことを語っている。そうしたことばを非常に短く、読者が意識できないくらいのスピードで書いてしまうところに粒来のことばの強さの秘密のひとつがある。また「落ちて」ではなく「堕ちて」と書くことで、そこに「意味」を感じさせるところも粒来のことばを「寓話」に統一させる力になっている。
 
 燕が一羽だけで戻って来た。海に落ちて帰り得なかった方が牡である。

 と書いても、「寓話」をはじめることができるが、「独り」と「堕ちて」が、より自然に、そこに「人間」の姿を重ねることができる。

 それとは別に、つまり「寓話」へとことばを統治していく力とは別に、粒来の「意志」を強く感じることばがある。
 「明白」「瞭らかに」である。
 粒来の書いている「内容」は、「独り」「堕ちて」をいかしながら、次のようにも書くことができる。

 燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
た。戻り来たものの挙動はひそやか過ぎた。

 読者によっては、こうした文体の方を好むひともいるかもしれない。「明白で」と「瞭らかに」はことばが重複している。「瞭らかに」は一般には「明らかに」と書く。そうすると、重複がよりはっきりわかる。
 さらに「過ぎた」も過剰である。

 燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
た。戻り来たものの挙動はひそやかだった。

 これで「内容」は十分である。
 しかし、これを「明白に」「瞭らかに」「過ぎた」と「鮮明」にする。「断定する」といった方がいいのかもしれない。
 「内容」を強調するのだ。その「強調」が粒来の「意志」である。「強調」が粒来のことばを、より強靱に感じさせる。
 これが「書きことば」ではなく「話しことば」なら、「声」の調子によって「意志」を伝えるのだが、粒来は「声」に頼らない。--粒来の詩は、朗読には向かない。粒来の詩は、そのことばは、あくまでも「読む」もの、読んで「文字」から「情報」を得ながら共感するものなのである。

 聞く、ではなく、読む。

 ことばに対する強い「指向性」がある。それも粒来のことばを強靱にしている。「独り」「堕ちる」「瞭らか」ということばは、「声」にしてしまうと「意味」が半減する。「読む-視覚」によって、ことばを統一するという「意志」は、また、当然のようにして粒来のことばの運動領域を決めてしまう。
 粒来の世界に「音」が出てこないわけではない。けれど、それは「視覚」の鮮明さに比較するととても弱い。

 四・五日して燕は柔かに陽を照り返す白い小さなものをくわえて
巣に運び入れた。初めは餌かと思ったが、集めたものを突っつき回
す仕種はなく、チイチイと小さく鳴きながら白いものをただ舐め回
している。途中小首を傾げては思いに耽るような動作もあって、更
に飛び立っていっては白いものの収集に専らだった。

 「チイチイと小さく鳴きながら」と一回、「聴覚」を刺激することばが出てくるが、これは「柔かに陽を照り返す白い小さなもの」と比較すると、とてもなおざりな(?)表現に見えてしまう。
 さらに「鳴き声」は「白いものをただ舐め回している」という「視覚」でとらえた燕の動きにすばやく動き、「小首を傾げては思いに耽るような動作」と、これも「視覚」で把握したことばが追い打ちをかける。
 この「小首を傾げては思いに耽るような動作」は粒来が「視覚型」の詩人であることを、また、端的に語っている。「小首を傾げて」は「視覚」で見た燕の状態である。その目に見えた状態から「思いに耽る」という心理(内面)へと「共感」が動いていく。
 「チイチイ」という鳴き声は「小さく」という「共感」にとどまるだけで、心理へは踏み込まない。

近寄れば首毛を逆立てあらん限りの声をふりしぼって威嚇した。

 という表現も、途中に出てくるが、この文にしても「声」は「あらん限り」ととても抽象的なのに対し、「視覚」的には、「首毛を逆立て」と具体的である。「あらん限り」と言われても、どれくらいが「あらん限り」かわからない。ようするに、その声は「聞こえない」。けれど、「首毛を逆立て」るのは「見える」。

 この強い「視覚」で世界を断定しながら突き進むことばは、ついには「ありもしない」ものまで「見る」。見てしまう。(燕が集めていたのは、ほかの鳥たちの卵の殻、破片で、それを燕は卵を抱くようにして抱いていた--ということが、途中に書かれている。その結末の部分である。)

 某日燕は巣の中で死んでいた。飢えにやつれて黒い鉛筆程の細い
体になって目を瞑っていた。卵は割れていた。殻は不揃いの形のま
まで燕の骸の側に転っていた--がしかしよく見ると白い小さな生
き物がありもしない羽根を動かし、ありもしない嘴で母鳥の羽毛を
突ついてはその下にもぐずりこもうとしていた。そしてそれが不可
能と知ると雛は鳴いた。ありもしない喉を張り裂けんばかりにして
--。

 「よく見ると」と「視覚」をこらして、「ありもしない羽根」「ありましない嘴」を「見る」。その動きを「見る」。もちろんここにも「雛は鳴いた。ありもしない喉を張り裂けんばかりにして」と「聴覚」がとらえた世界が描かれているが、「喉を張り裂けんばかりにして」は「チイチイと小さく鳴きながら」と同じく「常套句」である。粒来独自の表現とはいえない。「視覚」でことばを動かすときに比べると、力がこもっていない。

 この「ありもしない」ものを「見た」あと、「私」が突然、この詩でも出てくる。
 それは「ありもしない」もの、「見えないもの」を「見る」ということを、「私」が断定する、私の「意志」によって存在させる、と宣言するような感じである。

 燕の大群が南の海を渡る頃、私は空になった燕の巣の下から空を
見上げた。あまたの漆黒の集団に混ってただ一羽、透明な羽根の燕
が、時折身を翻えす一瞬羽毛を銀色に光らせながら雲間を翔けぬけ
ていく様を、私はしかと見届けたように思われた。

 「空になった燕の巣」の「空」には「から」というルビがふってあるが、これはすぐ下に「空を」(そらを)が出てくるのではっきり区別するためである。ここにも粒来の「視覚」によって「ことば(文字)」を動かす「本能」のようなものがあらわれているが、そういう表記の問題とは別に、書かれている「内容」そのものが「視覚」限定である。
 ここには、もう「聴覚」は入って来ない。入って来れないのである。
 最後は「思われた」となにやら遠慮(?)したような終わり方だが、その直前には「しかと見届けた」と「見る」を「しかと」ということばで強調している。

 視覚によることばの統合がゆるがない。そこに粒来のことばの強靱さがある。



(補記)

 「視覚」とことばの関係について書いてきたが、この詩では、それとは違った部分で、思わず傍線を引いて読み返したところがある。燕は卵殻をあつめて「偽の卵」をつくり、抱いているのだが……。

当の燕はこの手製の卵を温め始めたから、吾々はしずかに巣の下を離れた。

 「手製の」と「吾々」に、私は驚いてしまった。
 「手製の」はいかにも粒来らしいことばであると感心した。「偽物」ではなく「手製」。それは粒来にとっては「偽物」ではないのだ。だれかが自分の「手」でつくりあげたものに「偽物」はない。
 この信頼感。
 それは、ある意味では、粒来自身の詩についての「自信」のようなものかもしれない。詩を書く。ことばを書く。それは「手製」の「世界」である。そこには「偽物」はない、それは「本物」であり、ときには「本物」を超える。--この詩に則していえば、「見えない」燕を、燕を超越した燕そのものの「理念」を生み出すことができる。

 「吾々」--この唐突すぎることばに私は激しくつまずいたが、「ことば」による世界が存在するとき、「吾々」という「複数」が存在する、ということかもしれない。
 これは、私の、何の根拠もなしにいうことばなのだが……。

粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉)
粒来 哲蔵
思潮社
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杉山平一『希望』(2)

2011-10-07 08:41:27 | 詩集
杉山平一『希望』(2)(編集工房ノア、2011年11月02日発行)
 
 きのう感想で書き漏らしたことのいくつか。
 「わからない」というの詩。

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名前はジョンといいます

 ここには犬にだけ「名前」がついている。名前が呼ばれる。この1行はだれのことばか。杉山のことばか。私は「妹」のことばと読みたい。「お父さん」「お母さん」「お兄さん」は「妹」にとってひとりしかいない。同じように「犬」も一匹しかいない。だから「犬の頭をなで」と「犬」であってもいいのだが、「妹」はその犬を「ジョン」と呼びたいのだ。その名前は妹がつけたものではないかもしれないけれど、妹は「ジョン」と呼ぶ。名前で呼ぶことでしっかり犬と結びつく。頭をなでるのは「肉体」の触れ合い。名前を呼ぶのは、こころの触れ合いである。
 お父さん、お母さん、お兄さんの「怒り」には名前がない。「こんなことわからんのか」「どうしてわからない」「お前はバカだなあ」。そのとき、こころは触れ合っていないのだ。怒るときでも、相手のこころに一歩近づき、その一歩近づいたところから怒るときは「名前」を呼ぶ。名前でなくても、「お母さん、こんなこともわからんのか」と怒鳴るときは、ただ「こんなことわからんのか」と怒鳴るときとは違う。
 ここに描かれている妹は、ただ我慢しているようにみえるけれど、そうではない。自分から一歩、飼っている犬に近づいていっている。妹は、お父さんやお母さんお兄さんの知らないことを、「わからない」まま知っている。「わかっている」。

待って
待っても
待つものは来ず
禍福はあざなえる縄というのに
不幸のつぎは
また不幸の一撃
ふたたび一発
わざわいは重なるものとも
知らずに
もう疲れきって
どうでもいいと
ぼんやりしていた
それが
幸せだったと気づかずに
                                 (「待つ」)

 最終行の「幸せ」はむずかしい。度重なる不幸は「わざわい」ではない。そういう「わざわい」のなかで、なお生きていること、そのいのちの不思議は、しかし「不幸」と呼んではいけないものである。では、なんと呼ぶのか。わからないから「幸せ」と呼ぶ。そこには矛盾があるのだけれど、その矛盾のなかにある力をことばにすることはできない。どうことばにしていいかわからない。
 ことばで接近できるものもあれば、ことばでは接近できないもの、ことばではつかみ取れないものもある。知っていることば、自分がわかっていることばで言ってしまうと、それは「矛盾」になる、「矛盾」になるしかないものがある--ということを杉山は「肉体」で覚えている。覚えているから、それを使う。

 --ということと、どこかでつながると思うのだが、「肉体」でわかっていることと「頭」でわかっていることとは、ときどき違うことがある。「肉体」で知ることと、「頭」で知ることとは違う。「整理」の仕方が違うのである。

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

 これはきのう読んだ「希望」の一部だが、トンネルを列車が走るとき、光がぐんぐん拡がって迎えにくる--というのは「肉体」がつかみ取った現実だ。だが、頭で整理しなおすと、トンネルは動かず、列車がトンネルの出口へ近づくに従って光が大きく見える、ということになる。
 「頭」は「肉体」の錯覚を整理しなおし、間違いを指摘する。そして、ひとは確かに「頭」で整理したことに従って行動しないとうまく動けないのではあるけれど--なんといえばいいのだろう。人間は「間違い」を生きたいときがあるものなのだ。「間違い」のなかで自分を救うことがあるのだ。
 あ、これは「正しい」言い方ではないなあ。
 間違えても、人間は生きている。その不思議。「頭」の間違いは否定され、修正される。「肉体」の「間違い」は、「間違い」とわかっていても、それでいいのだ。「間違い」を受け入れる力が「肉体」にはあるということかもしれない。

 で、(いっていいのか、どうかよくわからないが……)

 この「肉体」の「間違い」を積極的に利用した「芸術」に、映画がある。
 映画は、記念的にフィルムでできている。(今はフィルムをつかわない映画もある。)フィルムは写真の連続である。写真は一こま一こま独立している。それがあるスピードで連続上映されると、映像が動いて見える。その動きは現実の動きそのままではない。絶え間ない「分断」がある。けれども肉眼はそれを「連続」していると「間違える」。現実の動きそのままだと「間違える」。
 この「間違い」のなかにある「正しさ」を、説明しようとすれば説明できることばがあるのだろうけれど、私は「間違い」のままにしておく。
 杉山は、そういう「間違い」に魅了されたひとりである。それは「嘘」のなかにある真実に魅了されたひとり、ということでもある。
 不幸つづきは不幸でしかない。けれど、それは気がつかなかった「幸せ」であるというのは「間違い」で「嘘」だけれど、その「間違い・嘘」のなかに、「ほんもの」ではつかみとれない何かがある。

 「列車」が登場する詩は、この詩集にはほかにもある。

不合格の印を貰った日
茫然と電車の先頭に立ちつくす
電車は
迫ってくる建物を
片っぱしからなぎ倒し
左に右にかきわけ
かきわけ
驀進してゆく

速度が落ちはじめると
目に涙が……

 電車は迫ってくる建物をなぎ倒したりはしない。「頭」はそれを知っている。けれど「肉体」(眼)には、そのように見える。そしてそのように見えるとき、そこにはことばにならない「気持ち」があふれている。ことばにならないまま「肉体」になにごとかを呼びかけている。その「声」を聴いてしまった「眼」には、風景が「頭」が整理している現実とは違って見えてくる。「間違い」を「肉体」は見てしまう。
 でも、その「間違い」のなかに、「感情」の正しさ、こころの正しさがある。
 映画は、こういう「間違い」を巧みに組み合わせて一つの世界をつくるが、その映画の世界のつくり方を杉山は正確に吸収し、ことばに反映している。

速度が落ちはじめると
目に涙が……

 この電車のスピードの変化と、目からあふれる涙の交錯も「映画」そのものである。涙の動くスピード(落ちるスピード)は、どんなに遅い電車よりもなお遅いだろうけれど、ここでは電車のスピードをいっきに追い抜いて涙が動く。電車を抜きさって、涙が先へ先へと走る。電車が驀進していたときは、涙は追いついて行けなかったが、電車のスピードが落ちた瞬間に、こころが電車を追い抜き、涙となってあふれる。
 悲しみが映像にまで昇華されている。

 何かを分断し、再構成し、連続した動きを浮かび上がらせる--そういう手法、映画から吸収した手法が、杉山のことばの文法となっている。



映画の文体―テクニックの伝承
杉山 平一
行路社
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(6)

2011-10-06 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(6)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「鳰(にお)」という作品については、以前感想を書いた記憶がある。そのときは、とても浅はかな感想を書いたと思う。そのときはそのときで、私なりに考えたことを書いたのだが、思い出したくないくらい浅はかな感想であった。--ということが、何か、痛烈に私の肉体の奥で響く。あまりにも辻褄合わせのようなことを書いたとはずかしくなる。
 きのう「梔子」の感想を書いた。まったくまとまりのない感想だった。そのこともあって、私は私の書いていることがとてつもなく浅はかなことばだと感じるのだ。
 私がどんな浅はかなことばを書こうと、粒来のことばは少しもゆらがない。そのことが救いであり、また私の絶望でもあるのだが。

 「鳰」は、「徘徊僧浄因」を描いている。
 僧は、近江のとある堂で一体の仏像で向き合う。観音様である。母に似ていると思う。そして、その姿をまねてみる。

 浄因は続いてみ仏を真似た。その腹部に柔かに祈りをこもらせ、
胸の中枢に水霧を充たし、下腹に少しばかり風を送って内奥の疼き
を隠した。この時になって浄因はみ仏の体側にそった立つことを断
念し、み仏の正面に居坐った一個の贋仏としての在り様を演じよう
と思い立った。

 ここには、とてもおもしろいことが書いてある。下腹に疼きを感じる--とは勃起の兆候だろう。あからさまに「男」がここにあらわれてくる。そして、己が「男」であると自覚するからこそ、「贋仏」を「演じる」。浄因がこころみたことを、そう定義している。「み仏」を演じるのではなく、最初から「贋仏」であることを自覚して、なおかつ、それを演じる。
 これは浄因が己を「み仏」にはほど遠い存在であると自覚していたことをあらわすのだが、己を仏には及ばぬ存在であると自覚すると書くことと(ことばにすることと)、「贋仏を演じる」と書くことは似ていてもまったく違うのである。
 こういうふうにに、似ているけれど違うことを、粒来は「粒来語」で書く。いつも「劇」というか、「寓話」のようにして書く。
 だから私は大切ななにごとかをいつも見落として読んでしまうことになるのだが、この詩の場合でも、いま引用した部分にも「贋」と「演じる」ということばを通して大切な何かが書かれていると思うのだけれど、それをつきつめる前に、別なことばに誘われ、動いてしまう。自分が自分でなくなる。(あるいは、自分が地の自分になってしまう?)
 詩は、突然、佳境に入る。そのスピード、あるいはことばの重力に飲み込まれてしまう。先の引用は段落もないまま、次のようにつづいてゆく。

       この企てを成就させるために浄因は母の思惑を
観入して一応額を曇らせてみた。

 「観入して」というのは、「心眼をもって対象を正しく把握すること」(広辞苑)らしいが、うーん、母の思惑を正確に把握した結果、浄因がそうすることを「正しい」とは思っていないことを知り、「一応」顔を曇らせてみたが、企み自体はやめなかった、ということになるのかな?
 「贋仏」と同じように、ここでは「一応」がとてもむずかしい。何かしら矛盾したこころが、ここにねじれている。
 そういうねじれをかかえたまま、ことばはさらに動いていく。

                彼はみ仏の膝に己れの膝を寄せ、
そのお腹に己れの腹をすり寄せた。今度は彼の吐息がみ仏の唇を湿
らせた--と、み仏の螺髪を飾る五体の化仏がそれに応じて深く熱
い息を吐いた。み仏の右手がのびて浄因の腰を抱いて浄因を驚喜さ
せた。み仏は更に身をひねり、倒れ伏すように浄因の躰に多い被さ
った。浄因はあわててみ仏の乳を吸い、口の中でその乳頭を転がし、
その袴下を押し開いた。彼は己れの肉がみ仏を通してどこやらの見
果てぬ地までゆらゆらと分け入って行くのを自覚した。
                (谷内注・「肉」には「いきみ」のルビがある。)

 なんと、浄因は「み仏」と(その像と)セックスをしてしまう。「母」は浄因がそうしてしまうことを知っていた--というか、そういうことをすれば母にとがめられることを知っていながら(だから、「一応」顔を曇らせた)、ことに及んだのである。
 ここから、詩はさらに一変する。あたらしい展開になる。

 そこでは葭の葉の雫が浄因の衣の裾を濡らし、葭の葉の浮島に鳰
の巣があって卵が二つ光っているのが見えた。巣の傍にやつれた顔
の浄因の母がいて、その様を見守っていた。浄因は自身の生涯の一
切を下肢にこめて、み仏の真奥に一気に精を放射した。み仏は浄因
を受納しつつ強烈に圧し続け、浄因は歓喜の中で力尽きた。時に浄
因八十有三歳。
 浄因が身まかると同時に茅堂の燭台が倒れ、火は浄因の裾から炎
立ちして忽ち身仏を焼いた。茅堂が焼け落ちた時、ひとは浄因の白
骨を抱えて自らも一本の焼杭となったみ仏を見た。焼仏は仮堂の祿
に置かれて湖を見ていた。堅田の浦で鳰が鳴いていた。

 ストーリー(?)のおもしろさに引き込まれて一気に読み終わるのだが、そのあと、疑問が残る。
 なぜ、鳰?
 これは「梔子」のとき、なぜ梔子?と感じたのと同じである。梔子である必然性を感じない。「木」で十分な気がする。
 なぜ、鳰なのか。なぜ、水鳥ではないのか。水鳥の方が抽象的で「寓話」を寓話らしくするかもしれない。水鳥が鳰と具体的に呼ばれるとき、そこに何か「寓話」を超えたものを感じるのである。絶対的なものを感じるのである。
 感じるのだけれど、その絶対的な何かにつながる「方法」がわからない。どんなふうに「絶対的」なのか、それを語ることばがわからない。

 「矛盾」については、先に書いた。たとえば、「贋仏」を「演じる」というときの矛盾。
 それとは別に「超越」があるのかもしれない。

 この私の感想は唐突だが、唐突に、私自身がそう思ったのだから仕方がない。つまり説明はできないのだが……。
 「超越」とは、ある瞬間に「私」が「私」でなくなることである。
 この作品では浄因という僧はみ仏とセックスして、炎に焼かれ白骨になり、み仏も浄因を抱いて焼杭になるのだが、そういうある存在の原因-因果の変化ではなく(そういう変化は、私には「私は私のまま」の変化に思える)、別な変化があると思う。
 ほんとうに唐突な思いで、その思いを裏付ける何もないのだが、私は、浄因は「鳰」になったと思うのである。
 輪廻-転生。
 私は仏教徒ではないし、仏教についてあれこれ読んだこともないので、「輪廻転生」などというのは、「ことば」としてそういうものがあるということくらいしか知らないのだが、浄因は鳰に転生したと思うのである。
 この転生が「超越」である。人間が鳰に生まれ変わるというのは論理的ではないし、まあ、論理的ではないということを指して一種の「矛盾」であるといえるかもしれないけれど。
 そして、この「輪廻」と「転生」を結ぶものが、「縁」なのだ。「蛾を吐く」にでてきた「縁」。どこで「縁」ができるものかわからないが、その「縁」が人間に働きかける。その働きかけを受けながら、人間は「輪廻-転生」の準備をする。
 「私」とは「輪廻-転生」の準備の場として、いま、ここにある。
 鼬でもなく目白でもなく、また浄因でもなくみ仏でもなく、「梔子」に、そして「鳰」に、私は、それを感じるのである。

 --どこにも、そういうことは書いてない。書いていないことを、私が勝手に感じているだけ。それも「文章」からというよりは「梔子」「鳰」という単語から。
 たぶん、粒来のこの詩集は、私には読むのが早すぎたのだ。
 もっと年をとってからというのは変な言い方になるが、もっといろいろなことを肉体で学んだあと、つまり、それを自分の肉体でつかいこなせるようになったとき、粒来のこの詩集はまったく違った形で見えてくるように思える。
 この詩集では、粒来のことば(粒来語)は、私のまったく知らない力をエネルギーにして動いている。
 私はおいついてゆけない。
 つまり、私がボルトの百メートル競走についけいけないのや、フェルプスのバタフライについてゆけないように、まったくついてゆけない。そのくせ、とってもかっこいいと感じ、憧れる。
 --この、感想にもなんにもならいなことばが、私のいちばん正直な感想だ。

 粒来のことばは強靱で、その奥に私の知らないエネルギーがたぎっている。そして、私の知っている「論理」を超越して動いていく。かっこいい。追いかけると、私はどんどん粒来から引き離され、どこかわからないところへ迷い込んでしまうのだ。
 迷うだけ迷ったら、いくらか粒来語に近づけるかも知れない。遠いところがいちばん近いということがあるかもしれない。--そう私は私に言い聞かせて、詩集を読んでいる。




馬と牛の伝説 (絵本・どうぶつ伝説集)
粒来 哲蔵
すばる書房
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イェジー・スコリモフスキー監督「エッセンシャル・キリング」(再考)

2011-10-06 11:22:07 | 映画
 この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
 しかし、私は「アクション」を感じなかった。
 私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
 釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
 ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
 ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
 不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
 母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
 女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。

 逆の視点からも見つめなおすことができる。
 私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
 またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
 このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
 --そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。

 イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
 アクションは、複雑だ。
 この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
 しかし、私は「アクション」を感じなかった。
 私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
 釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
 ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
 ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
 不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
 母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
 女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。

 逆の視点からも見つめなおすことができる。
 私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
 またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
 このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
 --そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。

 イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
 アクションは、複雑だ。


イエジー・スコリモフスキ DVD-BOX
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紀伊國屋書店
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杉山平一『希望』

2011-10-06 08:37:57 | 詩集
杉山平一『希望』(編集工房ノア、2011年11月02日発行)
 
 杉山平一『希望』に収められている詩はどれも短い。ことばが、ぱっと動いて、ぱっと止まる。この、自然な感じがこの詩集の味である。
 タイトルになっている「希望」は、東日本大震災を契機に書かれたのだろうか。


夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな

 列車がトンネルに入る。そして、トンネルを抜け出す。このとき動いているのは列車であってトンネルではない。けれど、それを承知で、杉山は逆に書く。
 光が「拡がって迎えにくる」。
 この事実とは違う運動--その動きをとらえることばのなかに、杉山の人生があるのだと思った。
 ひとはだれでも何かをする。何らかの目的をもって動く。そして、その動きは必ずしも自分の望んだものにはつながらない。そうではなく、何かが向こうからやってくるようにして自分を変えていく。
 確かにそういうことはあるのだが、それを「人生」として受け止めるというのは、若いときにはなかなかできない。
 杉山は、いま97歳らしい。(帯に書いてあった。)
 不幸(不運)も向こうからやってくるが、幸せも向こうからやってくる。
 それを「承知する」ことはなかなかむずかしい。けれど、承知するしかないのかもしれない。それは「敗北」ではなく、それが「人生」だと杉山は知っている。そこに不思議な静けさがある。

 「ポケット」という詩がある。私は、この詩を最初読み違えた。

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横町の路地裏

そこへ手を突っ込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの

 何をどう読み違えていたかというと--最初の2行である。逆に読んでしまったのだ。つまり、

ポケットのなかに町
たくさんある

 と。
 自分の住んでいた町を離れる。けれどポケットに手を突っ込むと、昔歩いた町がポケットのなかにある。ポケットに手を突っ込みながら(つまり何かに働きかけるわけでもなく、ぶらぶらと)歩いた町が甦る。何もないポケットのなかで、手を広げたり、握り拳をつくったり--そうすることしかできなくて、ただそうするのだが、そうすると無為にただ時間をやりすごしたその時間が、なつかしく、忘れていた何かを連れてきてくれる。
 それは「希望」のことばを借りていえば、

我慢していればよいのだ

 につながる。
 何もできないときは、何もできないまま、できることをしていればいいのだ。それは「我慢する」というような消極的なことになってしまうかもしれないが、それでもそこには「する」という「自発」がある。
 「自発」があるかぎり、それに答える何かがある。
 それが「希望」である。
 また、それは「なつかしもの/わすれていたもの」でもあると、私は、理由もなく思うのである。

 「出ておいで」は、「受け身」の美しさを語る杉山らしい作品だと思う。

カメラを向けると
口を閉じて
髪に手をやり
とり澄まし

心を文字にしようとすると
飾ったり誇張したりする

本当の顔よ心よ
恥ずかしがらずに
出ておいで

 これは、杉山自身に呼びかけたことばなのかもしれないが、「出ておいで」と呼びかけるものを杉山はほんとうは探していた、待っていたのかもしれない。長い長いあいだ待った経験が、「逆に」杉山に働きかけ、「出ておいで」といえるようになったのかもしれない。
 杉山のことばのなかには、何かしら不思議な「能動」(する)と「受動)(される)の静かな交代があり、その静かな交代のなかに美しさがある。

 交代する力--交代させる力。
 たぶん、その二つは出会って、はじめて「ひとつ」になる。「いま/ここ」にありながら姿をあらわすことができないものを引き出す。
 それに出会うためには、ときとして「待つ」ということ、「我慢する」ということが必要なのかもしれない。
 でも、ほんとうのことは「わからない」。「我慢する」ということがほんとうに幸せを運んでくれるかどうかはわからない。
 
 「わからない」--というとても美しい詩がある。

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名前はジョンといいます

    (谷内注・原文は送り文字をつかっているところがあるが、
     表記の都合で書き直した。)

 妹は「我慢」している。その「我慢」がすべてを受け入れ、すべてを昇華する。昇華させる。そんなことを妹は自覚していない。その無自覚のなかに強い美しさがある。
 この無自覚を批判するのが現代の視点かもしれないが、この無自覚を生きてみることもときには必要かもしれない。その無自覚のなかで生まれる「連帯」もある。





杉山平一詩集 (現代詩文庫)
杉山 平一
思潮社
コメント (3)
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(5)

2011-10-05 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(5)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「梔子」は、「M島」(三宅島だろうか)で目撃したイタチとメジロの壮絶な闘いを描いているのだが、そこに「私」が出てくる。

鼬は悠々と空を眺め、花を嗅ぎ、頭を回らして潮騒を聴いていた。
時折私と目が合ったがそれだけのことだった。だがしかし鼬の本性
は私に寸時の余裕も与えてくれはしなかった。鼬の尾はひくひくと
動いており、生あくびを噛み殺した口で足指を噛みはじめ、下から
斜め上に走らせる研ぎすまされた視線は、この後瞬時にして起こり
得るだろうある種の寸劇の、血を見る結末を予感させるのに十分だ
った。

 私は、この「私」につまずいてしまった。「私」は粒来自身かもしれない。そう考えると、まあ、ふつうの詩である。--はずである。でも、私はつまずいた。
 理由は二つある。
 一つ目。「私」が書かれているが、その「私」がこの部分でどんな役割をしているのかまったくわからない。「私」は書かれる必要があるのか。

時折私と目が合ったがそれだけのことだった。だがしかし鼬の本性
は私に寸時の余裕も与えてくれはしなかった。

 このことばが、ここに書かれていないとしたら、何か「世界」が変わってしまうようなことが起きるのか。「私」は書かれていなくても、誰かが鼬を見ているというか、鼬を書いていることに違いない。
 たとえば、「黄色い島」では「私」は書かれていないが、誰かが「目撃」したこととして書かれている。ことばは動いている。
 きんぽうげが互いに殺戮し合うというのは、現実にはありえないこと、ことばだけの世界である。「寓話」である。だから、「私」を書かなかったのかもしれないが、まあ、それは粒来が「目撃」したこととして読者は(私は)読んでしまう。「私」が出てこないだけに、「寓話」性が強くなる。
 「揺れる」は絞首台の下で死刑囚を受け止める(?)男の話である。そこにも「私」は出てこない。これは「目撃」したことではなく、ことばを動かすことで作り上げた世界、「寓話」である、といえる。
 どうして、粒来は、そんなふうにしてこの作品を書かなかったのか。

 で、二つ目の理由。これは、まあ、一つ目の理由の裏返しでもあるけれど。

--その時目白の親鳥が己が身を鼬の鼻面にたたきつけるようにし
て飛びかかった。親鳥二羽は代る代る鼬の顔面に体当たりを試みた。
鼬は後足で立ち上がり、前足で空を掻きむしるようにして目白に爪
を立てた。羽が千切れ吹き飛んだ。一羽は腹に一撃をくらって地に
落ちた。辛うじて残った一羽は鼬に背肉を裂かれたが嘴を鼬の片目
に突き立てた。鼬の目から吹き出た赤いものが、目白の腹毛を伝っ
て地にこぼれた。目白はそのまま鼬の目にぶらさがって死んだ。
--劇は終わった。
 
 詩のハイライトであると思う。
 この描写は「私」が目撃したものなのだが、この文を読むとき、私(谷内)は「私」の存在を忘れている。また、実際、そこには「私」は書かれていない。だから、「私」がいないものとして読んでしまう。
 なぜ、その前の部分で「私」を2回もつづけて登場させたのだろうか。
 また、なぜ、ここでは「私」を書かなかったのだろうか。

 「私」の存在がなくても、この鼬と目白の闘いはそのまま存在する。そして、それは「私」が不在のとき、何かしら「寓話」めいてくる。「私」がいない方が、「黄色い島」「揺れる」ともつながると感じる。
 でも、粒来は、「私」を書いている。鼬と目白の壮絶な闘いを描写するとき、「私」という存在を明記してはいないけれど、そこには「私」がいる。
 これは「寓話」ではないのだ。「寓意」はこのなかには少しもこめられていないのだ。つまり、私たち読者は、ここから勝手な「寓意」を読みとってはいけないのだ。

 粒来は、ここでは「寓意」を感じ取ることを拒否しているのだ。
 
 私は、ここで困惑してしまう。
 私はもともと誰のどんな作品からも勝手な「意味」を引き出す。「誤読」する。「誤読」することが読者の権利であると思っている。
 そういう権利がここでは拒否されているのだ。
 そして、つまずくのである。

 粒来は、何を書きたかったのか。何を読みとってほしくて鼬と目白の惨劇を描いたのか。

 けだしこの島に生きるものには、ありきたりの安寧はない。もし
かすると生は今在るという証の仮面はつけてはいるものの、同じ手
の中にもう一枚死の仮面を隠し持っていて、事あるごとに瞬時に付
けかえているのではあるまいか。

 この「思想」を粒来は書きたかったようである。「私」を登場させたのは、「私」にこのことばを言わせたかったからである。
 そうはかわっても、あ、なんだか変である。
 この部分に出てくる「仮面」とは何?
 「仮面」に「寓意」はないか。
 「仮面」の「仮」は、どうしても「寓意」(寓話)、「比喩」のようなものを呼び寄せる。現実を私たちは生きているわけだけれど、その現実は表面的(仮面的)なものであり、その奥には「別なもの」をもっている。
 そして、それは粒来の場合、「ほんものの生」ではなく、「死の仮面」である。

同じ手の中にもう一枚死の仮面を隠し持っていて、

 これは、「寓話(寓意)」というものが、虚構・仮構のなかで何事かを語るものだと仮定すれば、「死の仮面劇」を瞬間瞬間に「寓話(寓意)」として取り出して見せる、ということになるだろうか。
 「ほんものの生」ではなく、「ほんものの死」がある。
 それを見せるために「死の仮面」を用意する……。

 「死」は「私」のなかにある。その「死」があるとき噴出してきて、たとえば鼬と目白の惨劇となる。
 あらゆる「寓話(寓意)」は「私」であり、「私」が「生」と「死」を瞬時に入れ換える。

 --私のことばは急ぎすぎているかもしれない。
 「けだしこの島に……」を引用していたとき、実は、私はしびれをともなった頭痛に襲われた。正座していると足がしびれるが、それが頭全体に広がり、眼の焦点があわなくなった。1字1字は読むことができるのだが、2文字つづけてよむことができなくなった。それで書くことを一旦中断し(数時間眠って)、再び書いている。
 だから途中から、ことばがうまくつながらないのだ。
 論理的ではない部分があるが、とりあえず、そのとき思っていたことを、思い出せる部分だけ、断片的に書いている。そのために、飛躍が多く、急いでいる感じになっている--とわかるが、修正がきかない。あいかわらず頭がしびれる。

 「死」を、しかも「仮面」としてもっている「私」。
 鼬と目白を描きながら、実は、その「私」を粒来は書いている。

 そう思った瞬間、しかし、別のこともふいに私の頭の中を、肉体のなかを動き回る。
 詩の、ほんとうの最後の部分。

 --やがて目白の巣は風に吹かれて落ち、それと触れた梔子の花
もろとも地に転がった。

 この作品のタイトルは「鼬」でもなければ「目白」でもない。「梔子」である。
 なぜ、「梔子」?
 私は目白が梔子の木に巣をかけるかどうか知らない。梔子の花はみたことがあるが、目白の巣は見たことがない。--ということは、どうでもいいことなのかもしれないが、タイトルがとても気になるのである。
 「梔子」が「私」の「寓意」の象徴なのか。
 「それと触れた梔子の花」の「それ」が何を指すのかもわからない。「目白の巣」? あるいは目白の悲劇? あるいは目白の闘い? --同じことかもしれないが、悲劇というときと闘いというときでは、意識が違ってくるから、きっと同じことではない。

 同じであって、また同じことではない--ということが、この作品には書かれているのかもしれない。その「同じであって、また同じことではない」ということが動き回る「場」が「私」なのか……。

 --わからないが、わからないまま、書いておく。私の書いているのは、私のためのメモなのだから。



うずくまる陰影のための習作―詩集 (1981年)
粒来 哲蔵
花神社
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(4)

2011-10-04 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(4)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「黄色い島」という作品は、きんぽうげの咲いている島を書いている。

 何処かわからぬ大洋の果たてに、きんぽうげだけが咲いている島
が在っていい。黄色いきんぽうげだけが一面咲いているただの島だ。
他は何もない。

 この詩は、最初、何もない感じで始まる。何も起きない島ときんぽうげだけを書いているように思える。そのきんぽうげが、だんだんきんぽうげではなくなってくる。

   きんぽうげは自らを認めても島の存在を認めようとはしない。
おそらく一年中きんぽうげの黄が島を覆い尽くし、何処を眺めても
土くれ一つ見出せぬ--といった視覚上の誤認が禍いしているのか
も知れぬが、いやそれより黄花の根があくせく八方に進捗し他者を
愛憐しようにも、その根毛が触れるのはあくまでも己が同属にしか
過ぎぬという深い絶望が、きんぽうげの痼疾になっているせいかも
知れぬ。

 この文章は、とても不思議である。きんぽうげが島の存在を認めないのは、きんぽうげの花が島を多い、そこに「土」が見えないからだ。その「視覚」が「誤認」の原因となっている。--と書いたあと、「視覚」が文章から消えていく。
 かわりに「触覚」が出てくる。
 根が他のきんぽうげの根に「触れる」。そして、「触れる」ことで、「触れる」ことができるのは同属(きんぽうげ)の根だけである--「他者」が存在しないという認識し、「絶望」している。
 だから、島の存在を認めない。
 どこで論理がねじれているのか。
 よくわからない。

 視覚は自己と他者の存在が違っているとき、そこに他者を認める。黄色いきんぽうげは、黄色くないもの、たとえば茶色の土を見ることができたとき、その土を他者と認識できる。ところが茶色いものが見えないので、他者が存在しないと「誤認する」。
 触覚は、そこに触れるものが「同じ」であるとき、それを「他者」とは思わない。認識しない。そして、この認識を、触覚は「誤認」とは思っていない。
 のかな?

 何、これ。
 私は、とても混乱する。
 なぜ、視覚から触覚へ、ことばは動く必要があったのか。認識の「主体」を視覚から触覚にかえる必要があったのか。
 視覚にこだわり、どこまで眺めても見えるのは「黄色」。見えるのはあくまでも「己が同属にしか過ぎぬという深い絶望が、きんぽうげの痼疾になっているせいかも知れぬ。」と言いなおしてもいいのではないか。
 なぜ、そこに「触覚」が登場し、「視覚」を言い換える必要があるのか。

 理由は、わからない。わからないが、奇妙に、私は私の体のなかで(肉体のなかで)、ぞくっと動くものを感じる。「視覚」よりも「触覚」の方が、「同じ」を感じる力がつよいと思うのだ。
 目で一つのものが、ある他のものとが「同じ」であると認識するとき、そのあるものは「私」から離れている。距離がある。距離があって、その距離を埋める何かが「同じ」ということになる。
 けれども「触覚」は違う。離れては存在しない。常に「私」自身が何かに触れる。つながっている。距離がない。その距離のないところで「同じ」であると感じるというのは、私の「内部」が「他者」とつながるということだ。
 「視覚」は、「内部」ではなく、「外部(外観)」をつなぐのである。
 「触覚」も「外観」というか、「外部」というか、ようするに「外側」があって成立するものだけれど、その「触覚」の「覚」は、境目を「肉体」の内側に取り込み、消してしまう。

 この運動が、ぶきみな感じで、私の「肉体」の内部を浸食する。

 「視覚」から「触覚」へ、「同じ」きんぽうげのなかにある「感覚」の主体がかわる--その瞬間に、粒来と私(谷内)が「同属」になってしまったような、なんとも不思議な感覚になる。
 何か、変である。
 変であるけれど、奇妙にわかってしまうのである。納得してしまうのである。私は、納得したくない(?)ので、むりやり変なことを書いているかもしれない。

             島がなりをひそめて了うときんぽうげ
にとって生体は全てこれ同属ということになる。しかしそれらは自
分に身近ではあっても自己自身でない以上、あくまでも他者の位置
に留まっている。で、他者である以上それは自身をおびやかす他者
であるかも知れず、ことによっては根こそぎ自身を消滅しにかかる
恐るべき他者にならぬとは誰もいい切れぬ。

 「自己自身」「同属」「他者」--この区別は「触覚」のなかでは、くっついたりはなれたりしている。あるときに「自己自身」となり、あるときに「同属」となり、別なときに「他者」となってあらわれるのだが、そのあるときというのは別々なときではなく、同時なのである。
 「とき(時間)」の区別がない。
 「自己自身」「同属」「他者」は区別がありながら区別がない。区別する「とき」、区別が消え、区別しない「とき」に区別があらわれる。

 うーん、なんだか、同じことばが同じことばを互いに批判し、叩き壊しあっている。というようなことを考えていると、

 きんぽうげが残らず同位の同属である以上、思考の範囲も同属の
規範の外に出ることはないはずだった。--だがしかしある日ある
一本の黄色の雌蘂に小さな歯が生えた--と判ってから、きんぽう
げは互いに白歯を以て急速に武装した。

 このあと、詩では、そのきんぽうげ動詞の殺戮が描かれるのだが--それは「ストーリー」であって、つまり詩を終わるための方便であって、私にはあまり関心がない。
 私がびっくりしたのは、「触覚」のあとに「思考」ということばが出てきたことだ。
 「視覚」の「誤認」を振り捨て(拒絶し、否定し)、「触覚」による「世界」を描き出し、そこから始まるものを「思考」として動かしていく--そこに、あ、すごい、と感じるのだ。
 何が書いてあるか--その意味はどうでもいいというと変だが、まあ、私にはよくわからないから、それはそのままにしておいて、わかる範囲のこと、視覚→触覚→思考ということばの「主体(?)」の変化が、すごいと思うのだ。
 視覚というのは私と対象(他者)との距離があってはじめて成立する。眼に近すぎるものは見えない。それに反して触覚というのは他者との距離がないときにしか成立しない。他者に接するときにはじめて動く感覚である。その自分だけではどうすることもできない何か、相手の「動き」によって変わってしまう何か--それを「思考」と呼んでいるように思う。
 他人に触れること。他人と触れあうことは、常に自分が変わってしまう何かを含んでいる。だから、自分を変えたくないと思えば、他者を殺害するしかない。殺戮するしかない。そして、この詩では、実際に殺戮がつづく。 

 わけがわからないけれど、この変化の「核」に「触覚」から「思考」への変化がある、ということに、私は、ぞくっとしてしまう。




荒野より―詩集 (1979年)
粒来 哲蔵
矢立出版
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イェジー・スコリモフスキー監督「エッセンシャル・キリング」(★★★)

2011-10-04 19:35:06 | 映画
監督 イェジー・スコリモフスキー 出演 ヴィンセント・ギャロ、エマニュエル・セニエ

 主人公はひたすら米軍から逃げる。逃げ切れるあてもなく、ただ雪の原野をさまよう。生きるために偶然出会った人を平気で殺しもする。これをヴィンセント・ギャロがひとこともしゃべらず、ただ肉体だけの動きで演じ切る。
 わ、おもしろそう。絶対におもしろいに違いない。第67回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞・主演男優賞受賞とふたつも賞を取っているし・・・。

 でも、予想外におもしろくない。ヴィンセント・ギャロが魅力的に感じられない。なぜかというと、その肉体の動きが「共感」を誘わない。雪原をさまよう時の歩き方に疲労感がない。私の肉体と重なる部分がないのだ。
 タイトルが思い出せないのだが、昔、囚人(だったと思う)がひたすら木を削っているシーンから始まる映画があった。その木の削り方――それは私の木の削り方とは違うかもしれないが、肉体のなかで蓄積していく時間が納得できる。共感ができる。
 「ショウシャンクの空に」や「抵抗 死刑囚は逃げた」の場合でも、映画の中で動いている肉体をそのまま自分で反復できる。反復(ものまね)を誘うということが映画の基本だと私は思っている。実際にまねできなくても、やってみたいと感じさせる「ランボー」なども、ね。
 でも、この映画は変にリアルで、変に超人間的で、私の肉体には合わない。
 アリ塚のアリを食べるところなど、もっと先に食べるのものがあるのでは、と疑問が先に立つ。木の皮を食べるところも。
 寒さと空腹と絶望が、どうにも実感できない。毛糸の帽子をかぶり、しっかり防寒しているからかなあ。
 雪が私の知っている日本の雪と違うからかなあ。
 まあ、最後の方はいいんだけれど。
 特に乳児の母親のおっぱいにしゃぶりついて母乳を吸うところがいいなあ。食べ物(?)として母乳は納得できるし、食べるだけではなく、そこに人間の触れ合いがある。生きる希望がわいてくるね。
 青い布が流れてくる幻想(?)もいいし、紅い木の実をつまんで食べている向こうに女の幻影が浮かぶのもいい。
 口のきけない女との、最後の安らぎもいいなあ。
 ようするに、女が出てくると画面がきゅっとしまる。ヴィンセント・ギャロの肉体が身近になる。共感できる。女に傷の手当てを受けながら悲鳴を上げるシーンなど、そのまあ、「痛い、やめてくれ」と代わりに叫びそうになる。私の痛みではないのに、痛みがわかる。腹に傷を負ったこともないのに、痛みが分かる。
 ラストシーンの、馬に乗りながらヴィンセント・ギャロが血を吐くときの、その色。そしてヴィンセント・ギャロがもう乗っていない馬という唐突な終わり方もいいんだけれど。死んでしまったことでなんとなくほっとする。救われた気持ちになる。
 あのまま生き続けていたらつらいね。せっかくの「共感」が消えてします。



アンナと過ごした4日間 [DVD]
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紀伊國屋書店
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(3)

2011-10-03 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(3)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「蛾を吐く」のつづき。

 きのう読んだ最後の部分。

蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。

おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 この「もう一つ」は何か。それは、よくわからない。きのうの詩のつづき、そしてこの詩の最後の部分は次のようになっている。

 ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上
に圧し留めた。蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅
を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解い
た。蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかった
が、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。蛾の紋様に
は寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ
母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。
その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆け
ずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。
 その夜だった。おれに大喀血が来たのは--。

 最後に「もう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった」ということばがあり、「もう一つ」が「おれ自身」と言いなおされているのだが、だからといって簡単に「もう一つ」は「おれ自身」と言い換えてしまおうとすると、よけいに何がなんだかわからなくなる。
 すでに「蛾」は「血」であり、また「蛾」は「意志」であることを見てきた。「蛾」が「血」ならばそれは「おれの肉体」であり、「蛾」が「意志」ならばそれは「おれの精神」であり、ともに「おれ自身」である。便宜上「おれの肉体」「おれの精神」と呼んでいるだけで、それは別個の存在ではなく、しっかりと絡み合い、融合した存在である。
 いきなり「もう一つ」ということばを重ね合わせても、何もわからない。よけいに、わけがわからなくなる。

 ゆっくり読んでみる。
 ひとはだれでも重要なことは何度も繰り返す--その繰り返しを読み直してみる。

 「蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。」を粒来は、

ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上に圧し留めた。

 と書き直すことからはじめている。「もう一つ」は「蛾」とともに飛び出す。そだからその「蛾」を「床の上に圧し留めた」。それは「もう一つ」を「床の上に圧し留め」ることである。

蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解いた。

 「おれ」は「蛾」を取り押さえ、その翅を拡げる。「蛾」をゆっくり、正確に(?)見つめなおす。「蛾」を見つめることで、何かがわかるかどうかはわからないが、まず「蛾」を見つめなおすことからはじめるのだが……。

蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかったが、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。

 これは、なんといえばいいのか、不思議なことばである。
 粒来が書いていることを、私は、純粋に「ことば」として受け止めることができない。言い換えると、私は、蛾を押し殺した私自身の経験を見てしまう。私は血を吐いたことがないので、それまで書かれていたことを粒来の「ことば」として読んでいたが、ここへきて、ふいに「粒来のことば」ということを忘れてしまう。
 蛾を押し殺す--のは、それが醜いからである。家の中を飛び回られ、汚い粉をまき散らされるのがいやだからである。そして、それを箒とか新聞を丸めたものでたたき落とし、押しつぶす。翅は破れ、汚い血がはみだしている。そして、そういう形になっても、そこには「翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた」。
 きっと粒来にも、比喩としての「蛾」ではなく、本物の蛾を押し殺したことがあり、ここでは粒来は「比喩」ではなく、「比喩」といれかわってしまった「現実」を書いている。
 「比喩」はあるとき「比喩」ではなくなる。「比喩」は「ことば」の問題であるが、その「ことば」が「比喩」であることを突き破って「現実」になってしまう。
 あ、これは、正確な言い方ではないなあ。
 どこかで私のことばは「論理」を踏み外しているのだが、同じように、この「比喩」のなかで、粒来のことばが「比喩」を踏み外しているのを感じる。

 「比喩」のなかには、その「比喩」を突き破って自己主張しようとする何かがある。

蛾の紋様には寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。

 「蛾」のなかに「母」と「女」の「顔」がある。--「蛾」のなかには「女」がいる。というのは、うーん、しかし、おかしい。変である。「蛾」は「血」である。「血」は「おれの肉体」であり、「蛾」は「おれの意志」であるなら、「蛾」と「血」を結びつけるものは(一つにするものは)「おれ」であって「女」ではない。他人ではない。

 なぜ、女なのか。そもそも女とは何者なのか。

 ここに書かれている「母」も「女(共)」も、他人ではない。「おれ」である。
 粒来は「おれと縁の女共」と書いているが、ここに書かれているのは、「縁」なのだ。「母」や「女」が問題なのではなく(といってしまうとまた間違ってしまうことになるのだけれど)、「縁」が「おれ」なのだ。
 「もう一つ」とは「縁」なのだ。「おれ」と「他者(女共)」とのつながり。関係。関係の中で、生起してくるもの。
 前にも書いたが、粒来が書いていることは、「いま/ここ」に「何か」があらわれてくるときの「運動」なのである。ひとつの「場」があり、その「場」のなかで、あるときは「蛾」がという形で何かがあらわれ、あるときは「意志」という形であらわれ、あるときは「肉体」という形であらわれる。それは別個の存在ではなく、「おれ」の、ある一瞬の「純粋化(?)」されか姿なのである。常に何かを潜り抜けながら、「ひとつ」の形になって見せているに過ぎない。
 粒来の書いているのは、「混沌」あるいは「無」という「場」のなかで起きる「運動」なのだ。
 そして、その「運動」に何かの影響を与えるもの--あるいはその「運動」の形式、運動の「枠」となるものとして、粒来は「縁」を考えているのだ。

 「縁」ということばが、粒来の「思想」なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多いし、一種の「でたらめ」も含んでいるが--詩だから、これくらいの「でたらめ」はあって当然だと私は思うのだが……。ちょっと強引な補足をすると、
 たとえば「蛾」。
 「蛾」について触れたとき、私は私自身の蛾を押し殺した体験(記憶)を書いたが、その体験のなかで、私は蛾と「縁」を持った。その「縁」は蛾にとってはまあ気の毒なものだけれど、それが「縁」というものである。
 粒来は、この詩の冒頭から「蛾」という「ことば」をつかっているが、喀血した血を「蛾」と呼ぶとき、そこには無意識の「縁」が働いている。蛾と粒来にも「縁」があり、「縁」があるかぎり、「経験」がある。「過去」がある。「時間」がある。
 「縁」が--その意識できない「つながり」が「ことば」にいつのまにか反映してきている。
 「縁」こそが、真の「もう一つ」(もうひとりのおれ)なのだ。
 その「縁」が、いま、ここで--最後の部分で「女」という形であらわれているのだが、それが「縁」であるかぎり、そこにあらわれたものが「女」であっても、それは「女」そのものではなく「おれ」でもある。

女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。

 女共と笑った。そのとき、そこに「おれ自身の醜悪な顔」があった。女共が笑わなければ、「おれ自身の醜悪な顔」も存在しない。それは「同時」に存在する。そして、その「同時」を支えるのが「縁」なのだ。
 「おれ」がいる。そのとき「おれ」は「血」に代表される「肉体」をもっている。また「意志」に代表される「精神」というものをもっている。それは融合して「おれ」という存在をつくっているのだが、「おれ」をそこに存在させるのは「血」や「意志」だけではない。「肉体」と「精神」だけではない。
 もうひとつ「縁」というものがある。
 「縁」をとおして「蛾」ということばもやってくる。「意志」も「血」も同じかもしれない。
 「縁」が、「蛾」というものをとおして、いま/ここに噴出してきている。

 --私は、ほんとうは、こういうことを書きたくて感想を書きはじめたのではないのだが、途中から、突然、感想が変わってしまった。
 どこをどう修正すれば、辻褄が合うのかわからなくなった。
 だから、どこにも修正をくわえない。書き直さない。
 いつか「縁」ということばで詩の全体を読み直してみることがあるかもしれないが、いまは、そうしない。いま、そんなことをすれば「縁」が歪んでしまうように思えるのだ。何らかの「縁」があって、私は粒来の「縁」に出会った。

島幻記
粒来 哲蔵
書肆山田
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粒来哲蔵『蛾を吐く』(2)

2011-10-02 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(2)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「蛾を吐く」のつづき。

 それからだった。帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口か
ら吐かれ、咽喉から翔び出した。それはまるで緊縛されていたある
種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるのだといった風
だった。おれはあえて逆らわなかった。何故ならおれ自身は蛾の跳
梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだった。今や蛾
を吐く感触が日常のそれとなってみると、朝の口漱ぎの折々分厚い
幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、
次いで翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ
身近なものとなっていった。おれは日々黙って床を掃いた。

  (谷内注・「あらがわ」は「皮」という文字が3つピラミッド状に重なった漢字)

 「帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、咽喉から翔び出した。」というのは、不思議な文である。乱れがある。「蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ」では、形式主語は「蛾」であるが、それは「おれ」によって「吐かれる」。つまり受け身である。実際に「吐いている」のは「おれ」である。前半の主語は「おれ」ということになる。ところが後半は「蛾は」「咽喉から翔び出した。」と「蛾」が主語になる。「おれ」は「(おれの)咽喉」という形で消えてしまっている。
 「おれ」と「蛾」が混同されている。--のではなく、ここでは「一体」になっているのである。それはあるときは「おれ」という形をとり、あるときは「蛾」として、「いま/ここ」にある。そういう「現象」の「場」が「おれの肉体」であり、「おれのことば」なのだ。--ということは、粒来は書いてはないのだけれど、私は、そう読むのである。「誤読」するのである。
 「血」が「蛾」と名づけられるとき、それはまた「血」でも「蛾」でもなくなる。何になるか。

それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるのだといった風だった。

 「意志」になる。「肉体」に閉じこめられ、「肉体」の限界を生きるしかなかった「意思」が、「意志」であること(肉体のなかにとどまり、肉体を動かすこと)を拒絶して、自由に動いている。
 粒来は、ここに不思議な「自由」を見ているのだ。
 粒来の「精神」ではつかみ取ることのできなかった「自由」を「血」が「蛾」となることで獲得している。
 --こんなことは、「いのち」を物差しにして考えるとき、あってはならないことかもしれないが、「ことば」を物差しにするとき、起り得ることなのである。
 いや、ほんとうは(ふつうは?)、起こらない。
 粒来の「ことば」だから起きる。それは粒来の「ことば」が引き起こした、まったくあたらしい「現実」であり、粒来の「ことば」でしか獲得できない「自由」である。
 その「自由」は簡単に言うと、人間に「死」をもたらすものかもしれないが、「死」というのは誰にも体験できないことであり(体験したあと、それを報告することができないものであり)、「ことば」を超越している。そういう「ことば」を超越したものは無視して、粒来は「ことば」にできるものを「ことば」にするという「自由」を生きて、「蛾」そのものになるのだ。
 「蛾」が「おれ」であると主張すること--それを受け入れ、それに「従事」するというか、従う。「蛾」が、つまり、意志なのだ。肉体が意志に従って動くように、いま肉体は蛾に従って動く。
 といっても、これは「現実」のことではなく、あくまで「ことば」のことであり、「ことば」であることによって「現実」のこととなる。
 --あ、変な言い方になった。
 言いなおす。
 粒来の「ことば」は「血」を「蛾」と呼ぶことで、「現実」を強い力で整えなおす。「蛾」を生きる「意志」に従って、「いま/ここ」を整えなおす。その整えなおしは、人間の「いのち」を基準にすると理不尽というか、ほんとうはあってはいけないことなのだが、詩人は、そのあってはいけないこと、してはいけないことを「ことば」の力でやってしまう。
 人間が触れてはいけない部分を侵害してしまう。人間のやるべきことがら、人間の生きる領域を「超越」してしまう。
 「ことば」が「いのち」になる。「ことば」が「いきる」。
 実際、そうなっている。「ことば」が書かれるかぎり、粒来は生きている。不吉な言い方で申し訳ないが、死へ向かって「ことば」で生きる。そうすることで、「いま/ここ」で死を超越する。
 その瞬間、「肉体」が、いっそう強く甦ってくる。

朝の口漱ぎの折々分厚い幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、次いで翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回る

 ここにも「主語」の混乱、主語の融合がある。
 「文章」そのものとしては、「蛾(血の固まり)」は口の中(口の奥、といった方がいいかもしれない)から飛び出し、歯列に突き当たる。そのとき主語は確かに「蛾」なのだが、それが飛び出してくるのを感じている「主語」は「おれ」である。「おれ」の歯列が「蛾」がぶつかってくるのを感じるのであり、「蛾」はいまぶつかったのは歯列であると感じるわけではない。--ままり、ここに書かれていることは、「蛾」を主語にしていながら、実は「おれ」が感じた「おれ」の「肉体」なのである。そうであるがゆえに、「翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回る」のは「蛾」であると同時に「おれ」なのだ。「おれ」の「肉体」であると同時に「おれ」の「意志」(精神)である。いや、「ことば」である。
 だからこそ、それは次のように書き直される。

 蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものが
ある。それは一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐ
さま翔び去っていく--。蛾の重い羽搏たきが消えた後、おれの痩
身のあちこちに食い込まれたような痛みが走る。時折それが出かか
る咽喉元からの悲鳴を圧し殺し、おれはおれ自身の終末を迎える前
に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 「もう一つ」と名づけられたもの。「もう一つ」とは、しかし、変な「命名」である。それは「ことば」であるが「ことば」ではない。「ことば」になりきっていない。
 前の段落では「意志」ということばが仮につかわれていた。「意志」で何かをあらわそうとしていた。そしてその「意志」には「ある種」という「ことわり」がついていた。ほんとうは「意志」ではない。--だからそれをいま「もう一つ」と言いなおしているのである。
 壮絶な「ことば」を書きながら、なお「ことば」になっていない「ことば」があるという自覚。
 それは「蛾」になって吐き出される。そして飛び去っていくようであって、逆に「肉体」の内部に「食い込まれたような痛み」として残りつづける。
 それは何なのか。
 粒来は、ここで、とても不思議な「ことば」を書いている。

おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 少し整理すると「おれは」「蛾ともう一つと対峙してみることにした。」
 「おれ」は「蛾ともう一つ」と「対峙する」のか。つまり「おれ」は「ふたつのもの」と「対峙する」のか。それとも「おれ」は「蛾」といっしょになり、「もう一つ」と「対峙する」のか。
 よくわからない。
 この、わからなさが、ぐいと私を引きつける。
 このあとに続く段落へと私をひっぱる。
                                  (つづく)

 




粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社
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ヴォルフガング・ムルンベルガー監督「ミケランジェロの暗号」(★★)

2011-10-02 19:22:04 | 映画
監督 ヴォルフガング・ムルンベルガー 出演 モーリッツ・ブライブトロイ、ゲオルク・フリードリヒ

 ラストシーンは「台詞」が少なく、顔(まなざし)が「ことば」を語り、映画らしいのだが、途中がずいぶん「芝居」っぽい。
 ユダヤ人の画商の息子、画商の使用人の息子の入れ替わり、そして婚約者が入れ替わりを知りながら画商の息子の「シナリオ」に加担するシーンなど、芝居の方がおもしろくなると思う。映画だと表情が見えすぎてドキドキしないのである。
 また逆に、画商の肖像画の行方を息子が質問するシーンでは、なぜ使用人の息子が「絵」の存在に気がつかないのか、とても不自然である。画商の息子は、そこにない父親の肖像画を見ている。壁の「空白」に驚いている。その驚きというか、「暗号」の意味がわかったという顔をしている――その変化がスクリーンにくっきり描かれているのに、その場にいる人間が気づかない、というのは映画文法から見ておかしい。観客にわかることは、そこにいる人間にもわからないと変である。
 芝居は「ことば」で演技する。一声二姿三顔――といわれるのは、声(ことば)が芝居の基本だからだ。映画は「ことば」ではなく、顔がいのち。演技できなくても、顔さえよければ映画は成り立つ。役者にかわってカメラが演技して、補うことができる。
 そのバランスが、この映画では、うまくかみ合っていない。
 最初に書いたが、ラストシーンだけは小気味いい。
 「ことば」では一切説明しないが、登場人物たちのまなざしがすべてを語る。そしてそのまなざしのなかに、不思議なことに、敵であるのに敵ではない部分が混じる。言い換えると、親しい人間だけが理解できる「ことば」のやり取りがある。
 主人公(画商の息子)と使用人の息子は「親友」である。幼いころから一緒に暮らしていて気持ちがわかる。その気持ちが通じるものだけがわかりあえるまなざしで、「あんたの負けだよ」と告げる。それを受け入れる。取り乱さない。画商の息子の母親、画商の息子の恋人(妻?)が使用人の息子を少し憐れんで、しかし、「自業自得だよ」というまなざしを送る。使用人の息子は、それを一種の絶望のなかで受け入れる。――ここが、ほんとうにおもしろい。
 あ、戦争で最後に勝利をおさめるのは、「絆」なのだ、というようなことまで、感じてしまう。「絆」を裏切るものは負ける、というようなことまで考える。それはこの映画のテーマではないかもしれないが、ストーリーを超えてそうした「哲学」を一瞬感じさせる。
 最後が美しいだけに、途中のあまりにも「芝居」向きのシーンが気になる。
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粒来哲蔵『蛾を吐く』

2011-10-01 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(思潮社、2011年10月01日発行)

 粒来哲蔵『蛾を吐く』は、読むより先に、ことばの中に吸い込まれてしまう。ことばが私の肉体をつかみこんでしまう。ことばの動いていく方へしか進めなくなる。

 医師はおれに嚥下困難と告げたが、その目は食道のかなり奥深い
箇所に在る腫瘍様の存在を暗示していた。おれはその時医師の治療
の手を遮って吐いた。医師には血の塊と見えただろうがおれの吐い
たものは一匹の蛾だった。蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落
ちた。おれはただそれを見ていた。

  (「もがいて」は「足ヘン」に「宛」。感じが表記できないのでひらがなにした。
   腫瘍様の「様」には「よう」とルビがある。これも省略した。
   以下も引用は正確ではない。私のワープロの関係で表記を変えたものがある。)

 このことばの力はいったい何だろうか。
 ことばが「肉体」と緊密につながっている。「肉体」そのものになっている。
 路傍に倒れてうめいているひとをみたら、あ、このひとは腹痛で苦しんでいる、と感じる。「腹痛」のほんとうのありかはわからないが、その痛み、苦しみが肉体のどのあたりまで広がっているかが、わかる。他人の痛み、自分の肉体ではないのに、それがわかってしまう。--それに似ている。
 食道ガンとか、胃ガンということばが同時に思い浮かぶ。
 しかし、その食道ガン、胃ガンということばは、「ことば」にならない。粒来自身、そういうことばを書いていないが、そういう「医学」のことばの「奥」、「肉体」の方へ入り込んでゆくので、「病名」にはならないのだ。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
 なぜ、私は、この詩を読み、ことばの中へ肉体が引き込まれてゆくと感じたのか。
 「嚥下困難」。食べ物、飲み物を飲み込むことが難しい--という意味はわかるが、書き出しの「医師はおれに嚥下困難と告げた」は一種、異様な表現である。「嚥下困難」なのは「おれ」である。「おれ」が医師に「嚥下困難」と告げる(病気の相談をする)のがふつうだが、ここでは医師が「あなたは嚥下困難です」と告げる。知っていることを告げる。「おれ」の「肉体」は、そんなことを言われなくても知っている。だから、病院に来たのだろう。それなのに、医師は「おれ」に知ってることを告げる。これは、先に書いた路傍に倒れているひととそこを通りかかったひとの関係にあてはめると、医師が変なことをいっていることがわかる。道に倒れて苦しんでいるひとに対し誰かが「あなたは腹が痛くて苦しんでいる。立てない」と言ったら、変でしょ? この「変さ(?)」に、しかし、粒来のことばの不思議さがある。
 私たちはいろいろなことを知っている。たとえば「おれ」は食べ物や飲み物が飲みにくいということを「肉体」で知っている。知っているけれど、それは「ことば」にはなっていないことがある。「ことば」にできなくても、知っていることがある。それは、もしかすると、知りたくなくて「ことば」にしないのかもしれない。
 そういう何か意識が避けているところへ、「ことば」が急におりてくる。襲ってくる。ことばに肉体が乗っ取られる。そうか、「嚥下困難」というのか。知っているけれど知りたくなったことが突然結晶したみたいにくっきりする。そんなふうにして明確になった「肉体」は「肉体」なのか「ことば」なのか、よくわからない。よくわからないまま、「食道」「奥深い箇所」「腫瘍」「存在」と、次々に「肉体」が「ことば」にのっとられていく。
 そのとき「ことば」にのっとられていくのは「おれ」の「肉体」であって、私(谷内)の肉体ではないのに、まるで自分の「肉体」がのっとられ、少しずつ、あやしいものになっていく。
 「ことば」は「暗示」しているだけだが、「暗示」が「暗示」をこえて、現実(事実?)になっていく。

おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた。

 これは「ことば」に対する「肉体」の逆襲である。しかし、その「逆襲」は「ことば」を裏切るのではなく、「ことば」を先取りする。先回りして、「ことば」に「肉体」を渡さないといった類の、なんとも変な逆襲である。
 「食道の奥に腫瘍はありません。こんなに元気です。なんでも飲み込めます」ではなく、「ことば」が「腫瘍」を「暗示」した瞬間に、その暗示が現実になり、さらにそれを突き破って動いていく。
 「ことば」と「肉体」の競争--してはいけない競争が始まる。
 そして、粒来は、その競争において、「肉体」にではなく、「ことば」に加担する。そして、その加担した(加担された)「ことば」へ、さらに「肉体」を立ち向かわせる。どんなに暴走しても、それは「ことば」じゃないか。「ことば」に「肉体」があるから存在するだけなのだと告げるのだ。「ことば」と「肉体」の全面戦争である。

 「肉体」ではなく「ことば」への加担。その最初は「蛾」である。

医師には血の塊と見えただろうがおれの吐いたものは一匹の蛾だった。

 「肉体」的には「血」。しかし、「おれ」はそれを「血」と呼ばない。「蛾」と呼ぶ。そうすると、そこに「蛾」に出現する。
 この直前の「おれはその時医師の治療の手を遮って吐いた」の「遮って」が、とても強い。「嚥下困難」「食道」「腫瘍」は医師の「ことば」である。その医師のことばを拒絶して、「おれ」の「肉体」が暴れる。「遮って」は、そういう「ことば」を拒否してと同じ意味である。
 そして「血」が出てくる。「血」は、これもまた医師の「ことば」である。その「ことば」を「遮って」、「おれ」はそれを「蛾」と呼ぶのである。名づけるのである。
 医師の「ことば」を先取りし、暴走する「肉体」。その「肉体」からあらわれる新しい「肉体」を、医師は古いことば(血)で定義しようとするが、その定義を拒絶して「おれ」が新しい「ことば」を「肉体」からあふれさせる。

蛾は膿盆の上で一度もがいてから床に落ちた。おれはただそれを見ていた。

 「蛾」は「血」であるが、また「ことば」でもある。「蛾」は医学的には「血」であるが、「おれ」には「血」ではなく、「おれ」の「肉体」が生み出した「ことば」である。「おれ」の「肉体」が生み出した「おれ」の「ことば」であるから、それは「共通語(流通語)」ではない。「意味」は「共通のもの」をもたない。
 --はずなのだが、わかってしまう。
 まるで、路傍に倒れているひとの苦しみがわかるように、自分のものではないものがわかってしまう。
 それは、それが単なることばではなく、そのことばは「おれ」の「肉体」そのものだからである。この「肉体/ことば」の戦いは、すごい。

 やがて蛾は看護士の白いユニホームの裾に貼り付き、赤黒いもの
を二筋三筋滴らせて搬ばれていった。おれはそれも見ていた。

 「おれ」の「肉体/ことば」は医師の「ことば」に対して戦いを挑んでいるわけではない。「看護士」の「肉体(ユニホーム)」にも「貼り付く」。つまり、汚染する。

 そして、ここには、もうひとつ、とてもおもしろいことが書かれている。病気と闘い、ことばを書いている粒来に対して「おもしろい」という感想を書くのは申し訳ない気もするが、粒来が闘病しながら書いているということを忘れてしまう。粒来のことばに夢中になってしまうのである。

おれはただそれを見ていた。

おれはそれも見ていた。

 繰り返される「おれは見ていた」。「それを」「それも」見ていた。「おれ」の「肉体」のことなのに、まるで他人の「肉体」で起きていることのように「それ」と呼び、「見つめる」。
 この「それ」がすごい。
 粒来にとって、医師の「ことば」から始まった新しい「肉体」は、あくまで「それ」なのである。「おれ」の「肉体」ではない。
 だから、それを「おれ」の「肉体」に取り戻すために--「おれ」の力の支配下に置くために「ことば」にするのだ。
 「おれ」の「主人」は「おれ」であり、それは「ことば」なのだ。

                                  (つづく)



粒来 哲蔵
書肆山田
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