粒来哲蔵『蛾を吐く』(7)(思潮社、2011年10月01日発行)
粒来哲蔵の文体は強靱である。その強靱さは、そこに「意志」のようなものが反映されているからである。
なぜ、唐突に「私」が出てくるのか--ということに対する疑問、「私」が不在でも、そこに書かれている「内容」(寓話のストーリー)は変わらないのに、なぜ「私」が登場しなければならないのか、という疑問を「梔子」について触れたときに書いた。
その答えになるかどうかわからないが。
粒来の文体は「意志」が反映されることによって強靱になるのである。
たとえば、「燕」。その書き出し。
「一羽だけ」ではなく「独り」ということばが、この「燕」が単なる燕の物語ではなく、そこに「人間(性?)」がつけくわえられ、「寓話」につながっていくことを語っている。そうしたことばを非常に短く、読者が意識できないくらいのスピードで書いてしまうところに粒来のことばの強さの秘密のひとつがある。また「落ちて」ではなく「堕ちて」と書くことで、そこに「意味」を感じさせるところも粒来のことばを「寓話」に統一させる力になっている。
と書いても、「寓話」をはじめることができるが、「独り」と「堕ちて」が、より自然に、そこに「人間」の姿を重ねることができる。
それとは別に、つまり「寓話」へとことばを統治していく力とは別に、粒来の「意志」を強く感じることばがある。
「明白」「瞭らかに」である。
粒来の書いている「内容」は、「独り」「堕ちて」をいかしながら、次のようにも書くことができる。
読者によっては、こうした文体の方を好むひともいるかもしれない。「明白で」と「瞭らかに」はことばが重複している。「瞭らかに」は一般には「明らかに」と書く。そうすると、重複がよりはっきりわかる。
さらに「過ぎた」も過剰である。
これで「内容」は十分である。
しかし、これを「明白に」「瞭らかに」「過ぎた」と「鮮明」にする。「断定する」といった方がいいのかもしれない。
「内容」を強調するのだ。その「強調」が粒来の「意志」である。「強調」が粒来のことばを、より強靱に感じさせる。
これが「書きことば」ではなく「話しことば」なら、「声」の調子によって「意志」を伝えるのだが、粒来は「声」に頼らない。--粒来の詩は、朗読には向かない。粒来の詩は、そのことばは、あくまでも「読む」もの、読んで「文字」から「情報」を得ながら共感するものなのである。
聞く、ではなく、読む。
ことばに対する強い「指向性」がある。それも粒来のことばを強靱にしている。「独り」「堕ちる」「瞭らか」ということばは、「声」にしてしまうと「意味」が半減する。「読む-視覚」によって、ことばを統一するという「意志」は、また、当然のようにして粒来のことばの運動領域を決めてしまう。
粒来の世界に「音」が出てこないわけではない。けれど、それは「視覚」の鮮明さに比較するととても弱い。
「チイチイと小さく鳴きながら」と一回、「聴覚」を刺激することばが出てくるが、これは「柔かに陽を照り返す白い小さなもの」と比較すると、とてもなおざりな(?)表現に見えてしまう。
さらに「鳴き声」は「白いものをただ舐め回している」という「視覚」でとらえた燕の動きにすばやく動き、「小首を傾げては思いに耽るような動作」と、これも「視覚」で把握したことばが追い打ちをかける。
この「小首を傾げては思いに耽るような動作」は粒来が「視覚型」の詩人であることを、また、端的に語っている。「小首を傾げて」は「視覚」で見た燕の状態である。その目に見えた状態から「思いに耽る」という心理(内面)へと「共感」が動いていく。
「チイチイ」という鳴き声は「小さく」という「共感」にとどまるだけで、心理へは踏み込まない。
という表現も、途中に出てくるが、この文にしても「声」は「あらん限り」ととても抽象的なのに対し、「視覚」的には、「首毛を逆立て」と具体的である。「あらん限り」と言われても、どれくらいが「あらん限り」かわからない。ようするに、その声は「聞こえない」。けれど、「首毛を逆立て」るのは「見える」。
この強い「視覚」で世界を断定しながら突き進むことばは、ついには「ありもしない」ものまで「見る」。見てしまう。(燕が集めていたのは、ほかの鳥たちの卵の殻、破片で、それを燕は卵を抱くようにして抱いていた--ということが、途中に書かれている。その結末の部分である。)
「よく見ると」と「視覚」をこらして、「ありもしない羽根」「ありましない嘴」を「見る」。その動きを「見る」。もちろんここにも「雛は鳴いた。ありもしない喉を張り裂けんばかりにして」と「聴覚」がとらえた世界が描かれているが、「喉を張り裂けんばかりにして」は「チイチイと小さく鳴きながら」と同じく「常套句」である。粒来独自の表現とはいえない。「視覚」でことばを動かすときに比べると、力がこもっていない。
この「ありもしない」ものを「見た」あと、「私」が突然、この詩でも出てくる。
それは「ありもしない」もの、「見えないもの」を「見る」ということを、「私」が断定する、私の「意志」によって存在させる、と宣言するような感じである。
「空になった燕の巣」の「空」には「から」というルビがふってあるが、これはすぐ下に「空を」(そらを)が出てくるのではっきり区別するためである。ここにも粒来の「視覚」によって「ことば(文字)」を動かす「本能」のようなものがあらわれているが、そういう表記の問題とは別に、書かれている「内容」そのものが「視覚」限定である。
ここには、もう「聴覚」は入って来ない。入って来れないのである。
最後は「思われた」となにやら遠慮(?)したような終わり方だが、その直前には「しかと見届けた」と「見る」を「しかと」ということばで強調している。
視覚によることばの統合がゆるがない。そこに粒来のことばの強靱さがある。
*
(補記)
「視覚」とことばの関係について書いてきたが、この詩では、それとは違った部分で、思わず傍線を引いて読み返したところがある。燕は卵殻をあつめて「偽の卵」をつくり、抱いているのだが……。
当の燕はこの手製の卵を温め始めたから、吾々はしずかに巣の下を離れた。
「手製の」と「吾々」に、私は驚いてしまった。
「手製の」はいかにも粒来らしいことばであると感心した。「偽物」ではなく「手製」。それは粒来にとっては「偽物」ではないのだ。だれかが自分の「手」でつくりあげたものに「偽物」はない。
この信頼感。
それは、ある意味では、粒来自身の詩についての「自信」のようなものかもしれない。詩を書く。ことばを書く。それは「手製」の「世界」である。そこには「偽物」はない、それは「本物」であり、ときには「本物」を超える。--この詩に則していえば、「見えない」燕を、燕を超越した燕そのものの「理念」を生み出すことができる。
「吾々」--この唐突すぎることばに私は激しくつまずいたが、「ことば」による世界が存在するとき、「吾々」という「複数」が存在する、ということかもしれない。
これは、私の、何の根拠もなしにいうことばなのだが……。
粒来哲蔵の文体は強靱である。その強靱さは、そこに「意志」のようなものが反映されているからである。
なぜ、唐突に「私」が出てくるのか--ということに対する疑問、「私」が不在でも、そこに書かれている「内容」(寓話のストーリー)は変わらないのに、なぜ「私」が登場しなければならないのか、という疑問を「梔子」について触れたときに書いた。
その答えになるかどうかわからないが。
粒来の文体は「意志」が反映されることによって強靱になるのである。
たとえば、「燕」。その書き出し。
燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
たことは明白で、戻り来たものの挙動は瞭らかにひそやか過ぎた。
「一羽だけ」ではなく「独り」ということばが、この「燕」が単なる燕の物語ではなく、そこに「人間(性?)」がつけくわえられ、「寓話」につながっていくことを語っている。そうしたことばを非常に短く、読者が意識できないくらいのスピードで書いてしまうところに粒来のことばの強さの秘密のひとつがある。また「落ちて」ではなく「堕ちて」と書くことで、そこに「意味」を感じさせるところも粒来のことばを「寓話」に統一させる力になっている。
燕が一羽だけで戻って来た。海に落ちて帰り得なかった方が牡である。
と書いても、「寓話」をはじめることができるが、「独り」と「堕ちて」が、より自然に、そこに「人間」の姿を重ねることができる。
それとは別に、つまり「寓話」へとことばを統治していく力とは別に、粒来の「意志」を強く感じることばがある。
「明白」「瞭らかに」である。
粒来の書いている「内容」は、「独り」「堕ちて」をいかしながら、次のようにも書くことができる。
燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
た。戻り来たものの挙動はひそやか過ぎた。
読者によっては、こうした文体の方を好むひともいるかもしれない。「明白で」と「瞭らかに」はことばが重複している。「瞭らかに」は一般には「明らかに」と書く。そうすると、重複がよりはっきりわかる。
さらに「過ぎた」も過剰である。
燕が独りで戻って来た。海に堕ちて帰り得なかった方が牡であっ
た。戻り来たものの挙動はひそやかだった。
これで「内容」は十分である。
しかし、これを「明白に」「瞭らかに」「過ぎた」と「鮮明」にする。「断定する」といった方がいいのかもしれない。
「内容」を強調するのだ。その「強調」が粒来の「意志」である。「強調」が粒来のことばを、より強靱に感じさせる。
これが「書きことば」ではなく「話しことば」なら、「声」の調子によって「意志」を伝えるのだが、粒来は「声」に頼らない。--粒来の詩は、朗読には向かない。粒来の詩は、そのことばは、あくまでも「読む」もの、読んで「文字」から「情報」を得ながら共感するものなのである。
聞く、ではなく、読む。
ことばに対する強い「指向性」がある。それも粒来のことばを強靱にしている。「独り」「堕ちる」「瞭らか」ということばは、「声」にしてしまうと「意味」が半減する。「読む-視覚」によって、ことばを統一するという「意志」は、また、当然のようにして粒来のことばの運動領域を決めてしまう。
粒来の世界に「音」が出てこないわけではない。けれど、それは「視覚」の鮮明さに比較するととても弱い。
四・五日して燕は柔かに陽を照り返す白い小さなものをくわえて
巣に運び入れた。初めは餌かと思ったが、集めたものを突っつき回
す仕種はなく、チイチイと小さく鳴きながら白いものをただ舐め回
している。途中小首を傾げては思いに耽るような動作もあって、更
に飛び立っていっては白いものの収集に専らだった。
「チイチイと小さく鳴きながら」と一回、「聴覚」を刺激することばが出てくるが、これは「柔かに陽を照り返す白い小さなもの」と比較すると、とてもなおざりな(?)表現に見えてしまう。
さらに「鳴き声」は「白いものをただ舐め回している」という「視覚」でとらえた燕の動きにすばやく動き、「小首を傾げては思いに耽るような動作」と、これも「視覚」で把握したことばが追い打ちをかける。
この「小首を傾げては思いに耽るような動作」は粒来が「視覚型」の詩人であることを、また、端的に語っている。「小首を傾げて」は「視覚」で見た燕の状態である。その目に見えた状態から「思いに耽る」という心理(内面)へと「共感」が動いていく。
「チイチイ」という鳴き声は「小さく」という「共感」にとどまるだけで、心理へは踏み込まない。
近寄れば首毛を逆立てあらん限りの声をふりしぼって威嚇した。
という表現も、途中に出てくるが、この文にしても「声」は「あらん限り」ととても抽象的なのに対し、「視覚」的には、「首毛を逆立て」と具体的である。「あらん限り」と言われても、どれくらいが「あらん限り」かわからない。ようするに、その声は「聞こえない」。けれど、「首毛を逆立て」るのは「見える」。
この強い「視覚」で世界を断定しながら突き進むことばは、ついには「ありもしない」ものまで「見る」。見てしまう。(燕が集めていたのは、ほかの鳥たちの卵の殻、破片で、それを燕は卵を抱くようにして抱いていた--ということが、途中に書かれている。その結末の部分である。)
某日燕は巣の中で死んでいた。飢えにやつれて黒い鉛筆程の細い
体になって目を瞑っていた。卵は割れていた。殻は不揃いの形のま
まで燕の骸の側に転っていた--がしかしよく見ると白い小さな生
き物がありもしない羽根を動かし、ありもしない嘴で母鳥の羽毛を
突ついてはその下にもぐずりこもうとしていた。そしてそれが不可
能と知ると雛は鳴いた。ありもしない喉を張り裂けんばかりにして
--。
「よく見ると」と「視覚」をこらして、「ありもしない羽根」「ありましない嘴」を「見る」。その動きを「見る」。もちろんここにも「雛は鳴いた。ありもしない喉を張り裂けんばかりにして」と「聴覚」がとらえた世界が描かれているが、「喉を張り裂けんばかりにして」は「チイチイと小さく鳴きながら」と同じく「常套句」である。粒来独自の表現とはいえない。「視覚」でことばを動かすときに比べると、力がこもっていない。
この「ありもしない」ものを「見た」あと、「私」が突然、この詩でも出てくる。
それは「ありもしない」もの、「見えないもの」を「見る」ということを、「私」が断定する、私の「意志」によって存在させる、と宣言するような感じである。
燕の大群が南の海を渡る頃、私は空になった燕の巣の下から空を
見上げた。あまたの漆黒の集団に混ってただ一羽、透明な羽根の燕
が、時折身を翻えす一瞬羽毛を銀色に光らせながら雲間を翔けぬけ
ていく様を、私はしかと見届けたように思われた。
「空になった燕の巣」の「空」には「から」というルビがふってあるが、これはすぐ下に「空を」(そらを)が出てくるのではっきり区別するためである。ここにも粒来の「視覚」によって「ことば(文字)」を動かす「本能」のようなものがあらわれているが、そういう表記の問題とは別に、書かれている「内容」そのものが「視覚」限定である。
ここには、もう「聴覚」は入って来ない。入って来れないのである。
最後は「思われた」となにやら遠慮(?)したような終わり方だが、その直前には「しかと見届けた」と「見る」を「しかと」ということばで強調している。
視覚によることばの統合がゆるがない。そこに粒来のことばの強靱さがある。
*
(補記)
「視覚」とことばの関係について書いてきたが、この詩では、それとは違った部分で、思わず傍線を引いて読み返したところがある。燕は卵殻をあつめて「偽の卵」をつくり、抱いているのだが……。
当の燕はこの手製の卵を温め始めたから、吾々はしずかに巣の下を離れた。
「手製の」と「吾々」に、私は驚いてしまった。
「手製の」はいかにも粒来らしいことばであると感心した。「偽物」ではなく「手製」。それは粒来にとっては「偽物」ではないのだ。だれかが自分の「手」でつくりあげたものに「偽物」はない。
この信頼感。
それは、ある意味では、粒来自身の詩についての「自信」のようなものかもしれない。詩を書く。ことばを書く。それは「手製」の「世界」である。そこには「偽物」はない、それは「本物」であり、ときには「本物」を超える。--この詩に則していえば、「見えない」燕を、燕を超越した燕そのものの「理念」を生み出すことができる。
「吾々」--この唐突すぎることばに私は激しくつまずいたが、「ことば」による世界が存在するとき、「吾々」という「複数」が存在する、ということかもしれない。
これは、私の、何の根拠もなしにいうことばなのだが……。
粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉) | |
粒来 哲蔵 | |
思潮社 |