辻和人『真空行動』(七月堂、2011年09月09日発行)
辻和人『真空行動』の文体には「速度」がない。ことばに飛躍がない。かわりに何があるかというと、一種の「脱力感」である。
「聖なる印」の書き出し。
詩がいつ始まるんだろうか、と不安になるくらい、ことばに力がない。というか、ことばが、何かにたどりつくことをあきらめている感じがするのだ。
で、その何かとは、何だろうか。
そうか。辻はメッセージをあきらめているんだな。メッセージの真意をあきらめているんだな。ことばで何かメッセージをつたえるということをあきらめて、メッセージにならないことばを書きつづけようとしているんだな。
でも、何のために?
メッセージの真意にたどりつけない--という不可能性のなかに「神性」があるからだ。(この「神性」は「神聖」とどう違うのかな?)
辻は「神性」というものを書きたい。でも、書いてしまったら、それは違ったものになる。だから、書かない。書かないことによって、それを「読者」にまかせてしまう。辻の書くことばのなかに「神性」はないけれど、メッセージの真意にたどりつけないと読者が感じたとき、その不可能と感じるこころのなかに「神性」があるのだと、いいたい。読者がそれを発見するまで、辻のことばは読者に寄り添っていたい。この、寄り添いの感覚を大切にしたくて、辻は、わざと頼りなげなことばを書くのだ。脱力感のあることばを書くのだ。はりつめたことばに寄り添われたときは、緊張してしまうし、「真意」をつか見とれないと叱られそう--それは、いやだね。
という感じなのかなあ。
あ、でも、この感じ--わからないなあ。
と、辻が、自分で「思想」をことばにしてしまっている。ここに辻の考えている「メッセージの真意」(詩の真意)があるのでは? それを辻は書いてしまっているのでは?
どうも矛盾しているね。
矛盾しているからこそ、そこに辻の思想があり、肉体かある--といいたいのだけれど、私が「矛盾に思想がある」というときの矛盾と、辻がここで書いている矛盾はちょっと違う。ずいぶん違う。まったく違う。
辻は、単に自分のいいたいことを「流通言語」で言ってしまっただけなのである。
こういう「論理展開」を回避しないといけない。遠回りして、それこそ、読者がいったい辻はどこを遠回りしているんだろうと感じさせないといけないのではないのか。
ここだけ、辻のことばの脱力感が、脱力感になっていない。脱力感に到達していない--というのは変な言い方かもしれないが、ふいに、意識がショートして、火花が飛び散っているような感じがする。
辻は、とっても難しいことをやろうとしているのだと思う。
「喋らなくなった床屋」にも、ふいにショートする部分がある。
「無言で思い」の「無言」。
これは、「到達できない」ではなく「到達しない」という意思である。ことばで「到達しない」こと、「無言」でいること、--そうすると、その「無言」(ことばで到達しないこと)のなかで「神性」が浮かび上がる。
辻の書いていることは、とてもよくわかる。
でも、そのよくわかるは「頭」へひびいてくる「わかる」である。「頭」が先回りしてわかってしまうので、「肉体」は「わかったつもり」になる。実際は、「肉体」はわからないまま、ということになってしまわないか。
それが、疑問だ。
「まだ」という詩は、辻のなかではかなりかわっている。あまりにかわっているので、この詩集に収められていなければ、辻の作品ではないと思ってしまうだろう。(私は、この詩が、この詩集のなかではいちばん好きだが--これは、辻にとっていいことなのかどうかわからない。)
コップを倒した。水がこぼれる。それだけのことを書いているのだが、途中の、水が「とりあえず嬉しそうだ/ぼくも嬉しい」の呼応がとても気持ちかいい。「ぼーっと眺める/ぼーっとして/どうしても飽きることができない」の「ぼおーっ」がいいし、「どうしても」「できない」の「できない」がいいなあ。
前の作品の「到達できない」は、「主語」が「頭」。ここでは「感情」というか、「こころ」というか、「肉体」そのものだね。「頭」も「精神」も、「こころ」さえもほうりだして、自分自身が「もの」になる。
この瞬間に、私は「神性」を見る。
辻の言う「神性」がどういうものか、まあ、よくわからないが、この「ぼーっ」は、私には「神性」そのものである。「脱力感」のあることばが、ほんとうに「脱力」にたどりついて「ぼーっ」とする。そこに、水の「嬉しそう」と「ぼく(辻)」の「嬉しい」が重なり合う。感情が重なり合って、なにもすることがない。ぼーっとする。エクスタシーだね。
さらに、
これが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにすばらしい。池井昌樹だって、こうは書けないなあ。谷川俊太郎だって書けないだろうなあ。
「頭」は「わかってる」。
でも「肉体」は「わかりたくない」。
「肉体」は、このままの「時間」をずーっと味わっていたい。永遠に味わっていたい。「頭よ、じゃまするな、もうちょっと待て!」。
「まだ」のなかにいたいのだ。「肉体」は「まだ」を「永遠」にしたいのだ。
この繰り返される「まだ」こそが、辻の「思想」そのもであり、「肉体」そのものだ。辻の「肉体」から切り離せないことばである。
最初に「思想」に触れた「聖なる印」に、「まだ」を補ってみると、それがよくわかると思う。
「到達できない」がすばらしいのではなく、そのときの「まだ」がすばらしいのだ。「まだ」があることがすばらしいのだ。
「喋らなくなった床屋」も同じようにして読み替えてみることができる。
この「まだ」は「店が廃業する時」という一瞬と「矛盾」するが、オヤジさんのことを思うとき、辻は何も喋らずに髪を切られていた「あのとき」を思い浮かべている。「いま」と「あのとき」が重なり、結びつき、そこに「まだ」があらわれる。その「まだ」を辻は愛おしんでいることがつたわってくる。
この「まだ」は実現していない「まだ」なのだけれど、そうであるからこそ「まだ」が温かい。書けない「まだ」、つまり「たどりつけない」永遠の神性としての「まだ」がそこにある。
辻和人『真空行動』の文体には「速度」がない。ことばに飛躍がない。かわりに何があるかというと、一種の「脱力感」である。
「聖なる印」の書き出し。
4時前に目が覚めてしまってどうしても眠り直せない
ジョギングでもして気分を変えるか、と
Tシャツ短パン姿で家を飛び出した
30分ほども走っただろうか
汗もかいたし、あのでかい公園でちょっと休憩しよう
だれもいない野球グラウンドから心地良い風が吹いてくる
あれっ、マウンドの上にヘンなモンのっかってる
何だろう
わっ、犬のフンだわ
詩がいつ始まるんだろうか、と不安になるくらい、ことばに力がない。というか、ことばが、何かにたどりつくことをあきらめている感じがするのだ。
で、その何かとは、何だろうか。
いなくなった者たちが残した謎のメッセージ
広い空間のなかでぼおっと浮かび上がってくる
いくら探してもメッセージの真意に到達できない
それはすばらしいことだ
到達できない分、謎が深まり神性が高まっていくからだ
そうか。辻はメッセージをあきらめているんだな。メッセージの真意をあきらめているんだな。ことばで何かメッセージをつたえるということをあきらめて、メッセージにならないことばを書きつづけようとしているんだな。
でも、何のために?
メッセージの真意にたどりつけない--という不可能性のなかに「神性」があるからだ。(この「神性」は「神聖」とどう違うのかな?)
辻は「神性」というものを書きたい。でも、書いてしまったら、それは違ったものになる。だから、書かない。書かないことによって、それを「読者」にまかせてしまう。辻の書くことばのなかに「神性」はないけれど、メッセージの真意にたどりつけないと読者が感じたとき、その不可能と感じるこころのなかに「神性」があるのだと、いいたい。読者がそれを発見するまで、辻のことばは読者に寄り添っていたい。この、寄り添いの感覚を大切にしたくて、辻は、わざと頼りなげなことばを書くのだ。脱力感のあることばを書くのだ。はりつめたことばに寄り添われたときは、緊張してしまうし、「真意」をつか見とれないと叱られそう--それは、いやだね。
という感じなのかなあ。
あ、でも、この感じ--わからないなあ。
到達できない分、謎が深まり神性が高まっていくからだ
と、辻が、自分で「思想」をことばにしてしまっている。ここに辻の考えている「メッセージの真意」(詩の真意)があるのでは? それを辻は書いてしまっているのでは?
どうも矛盾しているね。
矛盾しているからこそ、そこに辻の思想があり、肉体かある--といいたいのだけれど、私が「矛盾に思想がある」というときの矛盾と、辻がここで書いている矛盾はちょっと違う。ずいぶん違う。まったく違う。
辻は、単に自分のいいたいことを「流通言語」で言ってしまっただけなのである。
こういう「論理展開」を回避しないといけない。遠回りして、それこそ、読者がいったい辻はどこを遠回りしているんだろうと感じさせないといけないのではないのか。
ここだけ、辻のことばの脱力感が、脱力感になっていない。脱力感に到達していない--というのは変な言い方かもしれないが、ふいに、意識がショートして、火花が飛び散っているような感じがする。
辻は、とっても難しいことをやろうとしているのだと思う。
「喋らなくなった床屋」にも、ふいにショートする部分がある。
いつかこの店が廃業する時
ぼくは、ああ遂に廃業したな、と無言で思い
あのオヤジさんどうしているかな、と無言で思い
頭の中で徐々に店とオヤジさんのイメージを薄れさせていくんだろうな
「無言で思い」の「無言」。
これは、「到達できない」ではなく「到達しない」という意思である。ことばで「到達しない」こと、「無言」でいること、--そうすると、その「無言」(ことばで到達しないこと)のなかで「神性」が浮かび上がる。
辻の書いていることは、とてもよくわかる。
でも、そのよくわかるは「頭」へひびいてくる「わかる」である。「頭」が先回りしてわかってしまうので、「肉体」は「わかったつもり」になる。実際は、「肉体」はわからないまま、ということになってしまわないか。
それが、疑問だ。
「まだ」という詩は、辻のなかではかなりかわっている。あまりにかわっているので、この詩集に収められていなければ、辻の作品ではないと思ってしまうだろう。(私は、この詩が、この詩集のなかではいちばん好きだが--これは、辻にとっていいことなのかどうかわからない。)
ん?……と思ったら
テーブルの上にみるみる動きが起こっていたんだ
コップを倒してしまっただけなのに
さっきまで”水”だったものは
不定形に生育していくものになった
コップからのがれて
これからどんな形になるかわからないのに
とりえあず嬉しそうだ
ぼくも嬉しい
ぼーっと眺める
ぼーっとして
どうしても飽きることができない
細かな埃が表面に浮いているのがとてもよく見える
逃げいてくものの中にも逃げていこうとしているものがあるんだね
よく見える
粒子のようなもの
明るいなあ
まだ眺めている
まだ
もうすぐテーブルの縁に到着する
わかっている、わかってるって
だけど
「ウェイトレスさんを呼んで拭いてもらわなければ」のその時を
一瞬でも遅らせたい
コップを倒した。水がこぼれる。それだけのことを書いているのだが、途中の、水が「とりあえず嬉しそうだ/ぼくも嬉しい」の呼応がとても気持ちかいい。「ぼーっと眺める/ぼーっとして/どうしても飽きることができない」の「ぼおーっ」がいいし、「どうしても」「できない」の「できない」がいいなあ。
前の作品の「到達できない」は、「主語」が「頭」。ここでは「感情」というか、「こころ」というか、「肉体」そのものだね。「頭」も「精神」も、「こころ」さえもほうりだして、自分自身が「もの」になる。
この瞬間に、私は「神性」を見る。
辻の言う「神性」がどういうものか、まあ、よくわからないが、この「ぼーっ」は、私には「神性」そのものである。「脱力感」のあることばが、ほんとうに「脱力」にたどりついて「ぼーっ」とする。そこに、水の「嬉しそう」と「ぼく(辻)」の「嬉しい」が重なり合う。感情が重なり合って、なにもすることがない。ぼーっとする。エクスタシーだね。
さらに、
わかっている、わかってるって
これが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにすばらしい。池井昌樹だって、こうは書けないなあ。谷川俊太郎だって書けないだろうなあ。
「頭」は「わかってる」。
でも「肉体」は「わかりたくない」。
「肉体」は、このままの「時間」をずーっと味わっていたい。永遠に味わっていたい。「頭よ、じゃまするな、もうちょっと待て!」。
「まだ」のなかにいたいのだ。「肉体」は「まだ」を「永遠」にしたいのだ。
まだ眺めている
まだ
この繰り返される「まだ」こそが、辻の「思想」そのもであり、「肉体」そのものだ。辻の「肉体」から切り離せないことばである。
最初に「思想」に触れた「聖なる印」に、「まだ」を補ってみると、それがよくわかると思う。
いくら想像してもメッセージの真意に「まだ」到達できない
それはすばらしいことだ
「到達できない」がすばらしいのではなく、そのときの「まだ」がすばらしいのだ。「まだ」があることがすばらしいのだ。
「喋らなくなった床屋」も同じようにして読み替えてみることができる。
いつかこの店が廃業する時
ぼくは、ああ遂に廃業したな、と「まだ」無言で思い
あのオヤジさんどうしているかな、と「まだ」無言で思い
この「まだ」は「店が廃業する時」という一瞬と「矛盾」するが、オヤジさんのことを思うとき、辻は何も喋らずに髪を切られていた「あのとき」を思い浮かべている。「いま」と「あのとき」が重なり、結びつき、そこに「まだ」があらわれる。その「まだ」を辻は愛おしんでいることがつたわってくる。
この「まだ」は実現していない「まだ」なのだけれど、そうであるからこそ「まだ」が温かい。書けない「まだ」、つまり「たどりつけない」永遠の神性としての「まだ」がそこにある。
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