詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「旧師についての私信風の呟き」

2011-10-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「旧師についての私信風の呟き」(「現代詩手帖」2011年10月号)

 岡井隆の詩に、私はなぜ夢中になってしまうのか。

今年は夢の中を歩いて高崎、そして前橋まで参りました 新幹線の中で同じ朔太郎賞の選考委員である詩人と話し、高崎からは市役所の車の中でもう一人の詩人と話しました(これから選考会に入る前ですから皆候補作については触れないやうにしてゐます)わたしは幼年のころや少年のころを思ひ出して「自分がなぜ嫌はれつ子 いぢめられつ子だつたのか」について愉しさうに語つたのです そしてもう一人の詩人とは「このごろの食事はすつかり薬餌となつた家妻の厳重な管理下にあつてジューサーにかけた濃厚な野菜の汁液をのみそして昼に獣肉なら夜は魚肉」 「それはいいぢやないですか」と相手は薬餌を礼
賛し「国文学 解釈と鑑賞」も休刊になり国文学のとりでが亡くなつたことに話題を移しました わたしはといえば此のごろ《うろうろと生き甲斐なんか探すより亡びゆくものをふかく味はへ》という心境 かといつて《とはいえどなにかを信じてをればこそ此の会合に花さげてゆく》とも思ふのでその花をのちに受賞した詩人とその詩集に捧げたのでしたが

 これは作品の書き出し。
 朔太郎賞の選考に行くときの様子をただ書いている。何かの結論をめざしてことばがうごくわけではなく、そのときの会話そのままに、話題があっちへ行き、こっちへ行き、ふらふらとする。
 これが詩?
 正面きってそう問われたら、ちょっと私は返事のしようがない。
 でも、私は、このふらふらが好き。--というのは、実は、みせかけの(?)現象だなあ。ふらふら動く話題の、そのふらふらが好きなのではなく、ふらふら動きながらも「文体」が崩れない--その強さが好きなのだ。
 自在である。
 いじめられっ子、嫌われっ子と厳しい食事管理(?)に何か関係があるわけではない。それが二つとも岡井の提出した話題であってもいいし、一方が相手が出してきた話題でもかまわない。食事療法に対して「いいぢやないですか」といったのが岡井でもかまわない。
 いや、そんなことはない、というかも知れないけれど……。
 どっちでもいいと、私が感じるのは、その相手が違いながらも、そのことばの奥に流れている強さに変わりがないからだ。
 なぜだろう。
 ひとつは「旧かなづかい」がある。旧かなづかいのことばは「文法(本居宣長が発見した--いや、きっと発明といった方がいいな)」に従っているからだ。「骨」があるのだ。「文法」に統一され、文法をまもって動く。そのとき、話題(テーマ)がどこへ行こうと、ことばは同じ間合いで動ける。
 本居宣長が完成させたのは五十音図と動詞の活用の問題なのかもしれないけれど、それをいつも踏まえて動くためにある「旧かな」--その力が岡井の「肉体」にまでなっている。そう感じるのだ。
 これは「動詞」と活用だけの問題を、しらずしらずに越境する。
 岡井にはそういう意識はないかもしれないが、旧かなを知らず、自分勝手にことばを動かしている人間には1行目の「参りました」が「話しました」と同じ次元で動いているのはもちろんだが、「やうにしてゐます」ともっと強く呼応しているように感じられる。
 「参りました-ようにしています」では、岡井のことばの強さ、不思議な修辞学(統辞法)が狂ってしまう。「意味」でも「音」でもない何か--ことばを「音」とは違う視点でしっかり把握する力が、何気ないことばからあふれていくのだ。
 それをこの詩の中で探すと、たとえば

「自分がなぜ嫌はれつ子 いぢめられつ子だつたのか」について愉しさうに語つた

 ということばの「愉しさうに」である。なぜ、それが「うれしい」? これは、まあ、説明できない。説明できないけれど、わかるでしょ? 自分の「欠点」をみせびらかすときの悦びのようなものなのだけれど、説明しようとするとできない、説明しなくても「肉体」のなかに、それが動きはじめる。
 --この感覚。これが「旧かな」と「動詞活用の五十音図」の関係のように、私には見える。「五十音図」がない時代から動詞の活用はそのままだったのだけれど、五十音図に組み込んだらすっきり整った--というような関係。無意識でもかまわない。無意識でも間違えない。けれど、それを意識化すると、何が正しいかわかる--というような、うーん、うまくいえないけれど、そういう関係。

濃厚な野菜の汁液をのみそして昼に獣肉なら夜は魚肉

 このことばとの「そして」にも、私は、そういう力を感じる。あ、「そして」というのはこういうときにつかうと正確で強い力を発揮するのだ、と教えられたように思うのだ。
 「国文学のとりでが亡くなつたことに話題を移しました」の「亡くなつた」は岡井の誤記か、編集部の校正ミスかわからないが、わからないまま、

うろうろと生き甲斐なんか探すより亡びゆくものをふかく味はへ

 という歌の中でふいに甦るとき--うーん、不思議。
 「ふかく味はへ」は「深く味わえ」と書いてしまうと、「肉体」を刺激する「音」が消えるけれど(私にとって、ということだけれど)、「ふかく味はへ」は非常に刺激的だ。文字を裏切って音が動く--そのとき、「肉体」の奥で、聞こえない「音」がなる。それは「亡くなった音」かもしれない。整理され、消えていった音かもしれない。
 消えていった「音」を呼び戻す--といっても「声」にではなく、「耳の奥」(肉体の内部)に取り戻す方法があり、その「力」をくぐりぬけてことばが動くとき、それがどんなことばであっても、「肉体」に強く統治され、正しく動くのだ。

 あ、私は、でたらめを書いています?
 そうかもしれないなあ。

 ひらがなを発明したとき、万葉の音が消えた、そして「意味」が生まれた--という突飛な感じと同じように、私はとんでもない空想を書いているだけなのかもしれない。
 どうせ、「論理」を無視して感想を書いているのだから書いてしまうと、
 岡井のことばを潜り抜けると、「肉体」のなかに未生のことばが動きはじめる感じがするのだ。本居宣長の五十音図をくぐると、その先に、ことばが文法に統治されない混沌としたままの力があって、それが動きだしてくる感じがするのだ。
 --この感じは「矛盾」しているのだけれど、五十音図をくぐると整理されるというのは本居宣長以前のひとのこと、五十音図をくぐりぬけると過去(歴史以前)へ行けるというのは私たち「現代人」(宣長以降のひと)という「分岐点」が「旧かな」のなかにある、と、これまた、突飛な突飛な突飛な空想なのだけれど。
 岡井の自在なことばを読むと、そういうことを感じるのである。




注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社
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