詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北原千代『繭の家』

2011-10-19 23:59:59 | 詩集
北原千代『繭の家』(思潮社、2011年09月30日発行)

 北原千代『繭の家』の巻頭の「鍵穴」は「転調」を含んだ「寓話」の印象がある。

破壊をもたらすかもしれない しろがねのキイを
くらいところにあてがう

さしこむと 奥のほうで やわらかに
くずおれるものがあった

お入りなさい
声は言った

無調音楽の階段を
ころがりおちていくのは
棄てたキイ それとも
眠りにおちていくわたし

孔雀のえりあしに うでをからませる
なつかしく はじめての匂いを嗅ぎながら
あおむけに 咲いてしまうかもしれないとおもう

 「寓話」と感じるのは、「鍵穴」と「キイ」といっしょに動いていることばがセックスを想像させるからである。
 セックスを肉体の部位をあらわすことばではなく「鍵穴」と「キイ」で象徴的にあらわし、その運動がひらいていく世界を「部屋」(屋内)ではなく、肉体の動きと重なることば、たとえば「やわらかに/くずれる」であらわしているからだ。「鍵穴」にはたしかに「奥」はあるけれど、そこに「やわらかに/くずれていく」ものなど存在しない。いや、あったとしても、それは「目」で確認できない。想像力のなかで、くずれていくだけである。
 「現実」と「想像力」が二重になっている。そして、その「想像力」のほうは、肉体とセックスと重なっている。

 私が「転調」と呼んでいるのは、最終連のことばの動きである。
 その前までは、まあ、想像力の世界ではあっても「鍵穴の奥」「階段」という「空間」が描かれている。空間があり、そのなかに「おちていくわたし」、あるいは「キイ」。
 ところが最終連では「部屋」が完全に消える。「肉体」が主役としてあらわれてくる。「えりあし」「うで」という肉体の部位が突然明確に出現する。想像力を、「室内」ではなく「肉体」へとひっぱっていく。そして、そこに広がるのも「空間」ではない。「肉体」の「運動」である。「からませる」(触覚)「匂いを嗅ぐ」(嗅覚)を動員しながら(潜り抜けながら)、「あおむけに 咲」く。
 そのとき開くのは部屋のドアではなく、官能のドアである。

 「鳩の血」は、とても複雑な「寓話」である。母のつくってくれたお菓子の首飾りをちぎりながら食べていく。

苺のルビーがひとつだけ転がって
お皿のうえにかがやいていました

お姫さまになれるのはたったひとりなのよ
うなずくより早くつっと伸びた
いもうとの手
ルビーをにぎりしめました

庭の茂みへまっさかさまに墜ちてゆく鳩

まるい膝にこぼれる血
鳩をあやめた侏儒の狩人
にぎりこぶしに
獲ものを高くかざし
ぬめぬめ赤いものを口にふくみました
小首をかしげ
てのひらをなめずりました

いもうとがお姫さまになるのをゆるしました
あのころほんとうにちいさないもうとでした

 ほんとうは「わたし」が食べたかった苺のお菓子(ルビー、お姫さまの象徴)。それが「鳩の血」にかわる。そこにある「殺戮」。そうして「ぬめぬめ赤いものを口にふくみました/小首をかしげ/てのひらをなめずりました」ということばのなかで動く欲望。超越的な本能。それだけがもつ愉悦。
 ふいに見てしまった「真実」。
 そのきっかけとなった「お姫さまになれるのはたったひとりなのよ」ということば。
 ことばが「肉体」を目覚めさせる。
 そうやって目覚める「肉体」を「ゆるす」。
 その「ゆるし」のとき、「お姫さま」になったのは、ほんとうに「いもうと」なのか、それとも、いもうとを「お姫さま」と呼ぶことを許した「わたし」の「ことば」なのか。--そのとき「ことば」とは「肉体」そのものなのだと、思う。
 つまり、「わたし」は「ことば」で「いもうと」を許したのではなく、「わたしの肉体」のなかでうごめくものの力で「いもうと」を許したのだ。許すことで「一体」になったのだ。
 「いもうと」の「肉体」につながり、その「肉体」は「鳩」の「肉体」につながり、その「血」にもつながっていく。
 あやめられ、血となって「肉体」のなかにのみこれまていくもの。その輝きは、「肉体」のないぶだけにあるのではない。掌のなかにもある。「内部」にくみこまれることで「外部」が強烈に輝く。
 「なめずりました」の音の強さがそれをあらわしている。


繭の家
北原 千代
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする