詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田基孝の詩作の「秘密」

2011-10-25 23:59:59 | 詩集
柴田基孝の詩作の「秘密」(2011年10月23日、「柴田基孝の世界」から)

 みなさん、こんにちは。谷内修三です。きょうは柴田基孝の世界についてみなさんといっしょに考え、感想を語り合うことができたらと思います。
 私は、こういう詩の催しへはほとんど参加したことがありません。詩人のみなさんともほとんどお付き合いがありません。2年前に失明しそうになり、目の手術をしました。それ以降、もし会うことができるならひとりでも多くの詩人に会ってみたいなあと思うようになりました。詩は読んでいるけれど、ほんとうに生きているだれかが書いたかどうか、まったく知らないというのは変かなあ、と思うようになったからです。と、言いながら、その後実際に会ったのは谷川俊太郎くらいで、やっぱりだれともあわずにひとりで詩集を読み、感想を書いているという状態です。
 私は早口です。話すことにも慣れていません。ですから、聞き苦しかったり、わかりにくいこともたくさんいうと思います。気長にお聞き下さい。

 さきほど話しましたが、私はほとんど詩人に会ったことはありません。
 唯一、会った回数が多いのが柴田基孝さんです。最初にお会いしたのは35年ほど前で、それ以後のおつきあいになります。ただ会った回数が多いといっても、たぶん10回程度だと思います。電話でもときどき長話をしましたが、それも20回はいかないと思います。柴田さんは、とても交際関係の広い人で、私は柴田さんの紹介で鍋島幹夫さんとお会いしたことがあります。大濠公園のレストランで3人で食事をしました。
 柴田さんがご馳走してくれました。メーンの料理が何だったのか、何を食べたのか、すっかり忘れたのだけれど、パンを食べたことだけを覚えています。パンにしますか? ライスにしますか? 3人とも、それぞれがパンと答えたんだけれど、なぜか鍋島さんにだけはライスが運ばれてきた。鍋島さんは、こういうときに「注文と違います」と抗議しないひとなんですね。ふーん、と思いながら食べはじめたそのあと、柴田さんは「ここはパンがおいしんだ」という。うわーっ、変なひとなんだ、と思いました。
 あ、これは、詩とは関係ない話なんですけどね。
 何がいいたかったかというと。
 柴田さんは、いろんなひとと親しい。交際範囲が広い。だから柴田さんにとっては、私は大勢のうちのひとりに過ぎません。私にとっては、柴田さんは、先ほど言ったように、唯一の人ですが。
 この会場に来ていらっしゃるみなさんの方が柴田さんとは親しいかもしれませんね。そういうひとたちを前にして、柴田さんの詩作の「秘密」を語るのは、ちょっと無謀な試みかなあとも思いますが、「秘密」を話してみたいと思います。もし、柴田さんがだれにも話していなければ、ということになりますが。

 柴田さんの詩に「商工会前のベンチ」という作品があります。この作品に関する、創作秘話、この詩が生まれるまでの裏話を話してみたいと思います。

(朗読)

 長い詩ですが、この詩の一部、次のところに「秘密」があります。

だれでも欠点をもっている
たとえばフケ頭とか
斜めに歩くくせとか
季節のかわり目は厄介だ
無定見になって心棒がゆらゆらする
伊予の松山をたずねると市内電車が走っていた
子規堂を探して
子規の机と子規の墓に出あう

 この部分について、あれっ、変だなあと思うことはありませんか? どうして、こんなことばを書いているんだろう、と疑問に思うところはありませんか?
 実は、ここには柴田さんが書いたのではないことばがあります。見当がつきますか?

会場から「斜めに歩くくせとか、が違う」
谷内「あ、鋭いですねえ。どこが違いますか?」
会場から「発想が違う。」

 たしかに発想が違いますね。
 私は、「発想の違い」という言い方ではなく、ほかの言い方でちょっと秘密を話してみたいと思います。
 柴田さんから、直接聴いたのです。
 「だれでも欠点をもっている/たとえばフケ頭とか」というのは柴田さんのことばではありません。ちょっと忘れてしまって思い出せないのだけれど、東欧かどこかのスパイ小説に出てくることばです。
 ある夜、私に柴田さんから電話がかかってきました。家に、ではなく会社だったと思います。私は夜の仕事なんですね。わりと忙しいのだけれど、電話で雑談しても平気な、まあいいかげんな仕事です。
 で、そのときの電話というのが、この詩の「秘密」のはじまりです。

柴田「あ、谷内さん? スパイ小説を読んでいたら、とってもおもしろい部分があった。だれでも欠点をもっている。フケ頭とか、というんだ。」
谷内「あ、それ、いいですねえ。詩につかいたいなあ。」
柴田「いや、私が詩につかおうと思っている。ところが、そのつづきが出てこない。何がいいだろう。」
 びっくりしました。柴田さんは、私の大先輩で、尊敬する詩人です。そういう詩人から、こんな大事なことを打ち明けられ、しかも相談までされるとは思っていなかったからです。それに、あまりにも突然ですからね。
 フケ頭から私はすぐに脂足--脂でべたべたした足、足の裏を思い浮かべました。頭に対して足、乾燥したフケに対してべたべたの脂。反対のもののとりあわせですね。でも、これでは「意味」が強すぎる。関係が強すぎる。「反対」であることがはっきりしすぎて、おもしろくない。
谷内「脂足では、意味が強すぎますねえ。」
柴田「そうだえね。」
谷内「音もおもしろくないなあ。」
柴田「そうだねえ。何かない?」
谷内「うーん、斜めに歩くくせとか。これも足が半分ついてまわるんだけれど、ことばとしては足は出てこない。でも、音がちょっと……」

 そのあとは何を話したか覚えていません。ちゃらんぽらんとした仕事だけれど、そんなに長い間電話しているわけにもいかず、そのときはそれくらいの話しで終わりました。
 それからしばらくして、この詩が「アルメ」に発表されました。柴田さんが参加していた同人誌です。

 「斜めに歩くくせ」というのは、柴田さんのことばではなく、私のことばなのです。--これが、この詩の「秘密」というと、自慢話みたいですねえ。
 でも、自慢にはなりません。実は、この行は詩のなかで座りが悪い。音がとっても悪い。会場から「発想が違う」と指摘を受けたのだけれど、発想もそうだけれど、「音」が違いすぎる。
 で、これからが、ほんとうに柴田さんの「詩の秘密」、「詩作の秘密」です。私の感じている「秘密」です。
 柴田さんはことばを動かすとき、「意味」ではなく「音」でことばを選んでいます。これは柴田さんから直接聴いたことではありません。
 私が感じたことです。
 さっき話した「スパイ小説からの引用」と「斜めに歩くくせ」が柴田さんのことばではないというのはほんとうのことだけれど、これから私が話すのは、ほんとうのことというより、私が感じたことです。
 ほんとうではないかもしれない--そう思いながら聴いてください。「秘密」と私はいったのだけれど、秘密ではなく、私の妄想だと、眉に半分つばをつける感じで聞いてください。

 「だれでも欠点をもっている/たとえばフケ頭とか」という2行。小説では1行かもしれませんが。
 このことばは二つの点でおもしろい。
 ひとつは、フケを欠点と、人間にとって、さも大事なことがらのようにいったこと。これは「意味」からとらえたおもしろさですね。そんなもの「欠点」ではありませんね。まあ、デートのときに、肩にフケがまっしろに積もっていたら女性に嫌われるかもしれないけれど。
 もうひとつは、音。「た行」の音、「だ」れ「で」も、けっ「て」んをもっ「て」いる。その「た行」の音と「欠点」と「フケ」の「ケ」の音、それからつまった「っ」の音、これを「た行」に入れると「た行」はもっと多くなるのだけれど、それがとても複雑に交錯する。
 特におもしろいのが「けってん」と「フケ頭」の「け」を中心にした音の動き。
 「けってん」というのは「け」と撥音、つまった音の「っ」が組み合わさっている。
 「フケあたま」というのは文字にしてしまうと気がつきにくいのだけれど、「フケ」の「フ」は母音の「う」の音が不完全ですね。ときどきこういう母音が半分欠落したことばがありますね。野原に生えている「くさ」の「く」も「う」の音が半分以上なくなっていて、いまでは「K」の音+「さ」という感じで発音すると思います。「フケ」も「F」というか「H」というか、ちょっと難しいけれど、「う」の音は半分存在しない。「むかし」というときの「む」の音と「う」の感じが違うでしょ?
 こういう音の問題は、個人差が大きくて一概にこうだとはいえないのだけれど、私は、そう感じています。
 柴田さんも、私のように感じているのではないかな、と思います。このあたりの好みというか感覚は、話すのが非常に難しくて、私自身柴田さんと具体的に話したことはないのだけれど、たぶん似た感覚をもっていたのだと思います。だから、私に、「次はどんなことばがいい」と聞いてきたのだと思っています。

 私の書いたというか、提案した1行。これがなぜまずいか。そのことを話したいと思います。
 まず「斜めに」が完全にまずい。音に歯切れがない。滑っていく。それはさっきいった「け」の音の周囲の関係と完全に違っている。音楽になっていない。「和音」というか、響きあう音がない。
 私は、前半が滑ってしまったので、後半で「歩くくせとか」と「く」を重ねてみたんです。とっさのことなので、まあ、無意識の反応ですけれど。
 歩くの「く」はほとんど「う」の音がない。「くせ」の「く」は半分あるかなあ。そのあたりで、まあ、ごまかしています。その「音」の感じが「欠点」「フケ」の「け」を中心にした音の動き、母音と子音の関係にいくらか近いかなあ。響きあわないこともないかなあ、と思わないでもないのですが……。
 でも、私の音(ことば)は柴田さんの、音楽でいうと主題の音の構成にあっていません。「和音」になっていない。

 私の音が拙かったのだけれど、そのあとの1行が、おもしろいですねえ。あ、柴田さんだなあと私はほんとうに感心しました。

季節のかわり目は厄介だ

 この「やっかい」がとても響きが美しい。撥音の「っ」があるので生き生きしている。「欠点」「フケ頭」の音、歯切れのようさが戻っています。「季節」の「き」「かわり目」の「か」と「か行」でことばを動かしてきて、次の「か行」の「やっかい」の「か」はことばの先頭ではなく、まん中に突然あらわれる。このリズムの変化もいいですねえ。「欠点」の「け」がことばの先頭、「フケ」の「け」が後ろと順序が変わっているのに呼応している。
 そして、そのあと、

無定見になって心棒がゆらゆらする

 ここでの「け」、「欠点」の「け」は「むていけん」と「ん」促音といっしょになって、変化している。その「ん」はつぎの「しんぼう」のなかに動いていく。「むてーけん」(伸ばす音がありますね)、「しんぼー」(ここにも伸ばす音がでできますね)。こういう変化がとてもおもしろい。
 私はいまここでこうして話しているので、声を出して詩を読んでいますが。
 私は家で詩を読むとき、声には出しません。黙読しかしません。けれど、そういう音の変化は感じてしまう。喉や耳が無意識に動いて、それをつかんでしまう。だから、文字を読むと、声を出すのとかわらないくらい喉が渇くときがあります。書くときも同じです。 いわば、肉体をつかいながら、ことばを感じています。

 そのあとも、音がおもしろいですね。

伊予の松山をたずねると市内電車が走っていた

 なんでもない1行のようだけれど、「市内電車」がいいなあ。「路面電車」ではなく「市内電車」。ただの「電車」でもありません。意味は変わらないけれど、音が違いますね。なぜ「市内」電車なのかというと、そのあと「子規」が出てくるからです。「し」の音をあらかじめ準備している。音が響きやすいようにしている。「はしって」でいったん「し」の位置をずらして、それから「しき」。さらに「さがして」でまた動かして、次は「しき」「しき」と繰り返す。おもしろいでしょ?

子規の机と子規の墓に出あう

 この1行の、子規の墓の「子規」は、なくても意味が通じるし、学校の作文では、同じことばをなんども繰り返すな、と注意されるかもしれませんね。でも、柴田さんは書く。そうして、そこに音を響かせる。
 これが、柴田さんの詩の秘密です。「意味」ではなく「音」を中心にしてことばを動かしている。ことばの「音楽」を書いている。
 で、さっき話した「市内電車」に少しもどると、この「市内電車」はひとつづきになっているけれど、「市内を電車が走っていた」でも「意味」は同じになりますね。市内を走る電車が市内電車ですから。
 でも、ここを「市内を電車が」とすると、その直前の「松山を訪ねると」の「を」と「を」が重なってしまって、ことばの動きが鈍くなる。と同時に、「市内」が強調されて、意識が電車の動きではなく、空間のほうに広がってしまう。拡散する。
 柴田さんの詩は、そういう全方向にぱっと広がるという運動がちょっと苦手ですね。だから「市内電車」とすることで「電車」に焦点を起き、レールの上を走っていくように突き進んでゆく。
 柴田さんのことばは、拡散ではなく、線を描きながら動いていく。
 じぐざぐに動いていく。
 じぐざくの結果として、そこに「空間」が広がることはあるけれど、その一瞬一瞬は、意外と「視線」が限定されていると感じます。絵画的な詩人ではないと思います。

 よく絵をみると音楽が聴こえてくるという絵がありますね。逆に音楽を聴くと光景が絵のように浮かんでくる作品もありますね。
 柴田さんの詩は、そういうたとえを利用しながらいうと、絵が思い浮かぶというよりも、音楽が聞こえる詩、ですね。
 もちろん絵というが、風景も見えるのだけれど、ことばが動いていくのは風景を頼りに動いているというより、音を頼って、音を信じて動いている。
 私は、そんなふうに感じています。

 で、いま話したことを反省点として「斜めに歩くくせとか」をほかのことばにするとしたなら……と考えてみました。
 いまなら、私は

空港でけつまずくくせとか

 と言うかなあ、と思います。
 「空港」も音としてはなめらかな音なんだけれど、次の「けつまずく」。これでなめらかさが一変する。「つまずく」ではだめで、あくまで「けつまずく」。この「けつ」は実際に発音すると「けっまずく」に近い。「つ」のなかに「う」の音が半分くらいしか入っていない。それが「欠点」と似ている。
 また「空港」といったん視野を拡げるふりをして、「けつまずく」できゅっと見える世界を狭くする。この変化--これなら柴田さんっぽくなるかなあ、と思います。

 以上でおしまいです。
 このあと、また柴田さんの詩を読むのですが、私が体験したようなこと、柴田さんから詩の相談を受けた方がいましたら、そのお話なんかを組み合わせることができたらいいなあと感じています。



 このあと私を含め四人がパネリストになり、「耳の生活」を読みました。
 いろいろな意見が出て、思い出せない部分もあるので、私の考えだけ、別の日にアップします。
 いろいろ会場から質問が出て、そのなかに「なぜ、そんな読み方をしないといけないのか。もっと意味を追う読み方があるのではないか」「谷内の読みは深読みだ、と柴田さんがよく言っていた」「感想を書いて、作者から反論されることはないですか」という趣旨の発言があった。そのことについて、私は次のように答えた。

 作者から反論されることはあります。たとえばだれかの詩を「肉体が書かれていない。実際に肉体が動いていない」と批判すると、「いや、私は実際に体験したことを書いた。谷内のいうような意味を書いたのではない。私の書いた意味はこういうことだ云々」ということばが返って来ることがあります。
 でも、私は、そういうことは気にしません。
 「意味」というのはだれでもがもっています。そして、書いたひとは書いた人でつたえたい意味があるのは当然ですが、それをどう受け止めるかは書いたひととは関係ありません。たとえば私が田島さん(となりにいるので例に出しますが)を好きだとします。そして、一生懸命、愛を告白します。でも通じない。私の「意味」がつたわらない。「意味」は分かっても、田島さんは、それを拒むことができる。ことばを聞いたひとが(ことばを読んだひとが)他人の「意味」につきあわなければならない「理由」は存在しない。
 好きに読んで、好きなふうに「これが意味だ」と誤読してかまわない。というか、先に「意味」を作り上げた方が「勝ち」なんです。「意味」は「ある」ものではなく「つくる」ものなのです。
 だから好き勝手に私は読みます。
 柴田さんの詩にも「意味」はあるのだと思いますが、私は「意味」にたどりつくよりも、ことばを動かしている柴田さんの肉体に反応してしまう。ことばを聞いている耳、ことばを発しているのどをそのままリアルに感じる。「意味」ではなく、音に触れて動いている肉体を感じ、それに共感します。


柴田基孝詩集 (日本現代詩文庫 (46))
柴田 基孝
土曜美術社
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