高橋馨『詩への途上で』(港の人、2011年09月20日発行)
高橋馨『詩への途上で』は詩集のタイトルどおり、ことばが詩に向かう途中のありようを書いているのかもしれない。この場合、詩とは、ことばが転換する一瞬のことである。どんなことばでも、あるとき、それまでもっていた「意味」から離れて、別な「意味」としてあらわれることがある。
「しじみ峠」は、そういう一瞬の変化をとても静かな形で書いている。「峠」なのに「しじみ」とは変である。
しみじみ峠が訛ったのではない。ガイドブックによれば、昔、シジミの貝殻がたくさん見つかったためとあるが、こんな山奥に人が住んだ遺蹟があるだろうか。
なるほどねえ。しみじみ峠か。あるかもしれない。峠を越しながら「しみじみ」と何かを思う。その「しみじみ」が訛ったという説はなかなかおもしろい。
そういうことから書きはじめて、高橋は「私は、このしじみ峠で危うくいのちを落とすところであった。」と体験を語りはじめる。詩? あれっ、エッセイ? 書き方の形式も、「行わけ」の詩とは少し違っている。いわゆる「散文詩」に近い。
高橋の命を落としそうになったこと--というのは滑落である。強風に吹き飛ばされる形で沢に落ちる。
そこで、不思議なものを見る。
幻想なのか、現実なのか、ちょっとわからない。「散文詩」というより、「幻想詩(こんなことばがあるかな?)」なのかもしれない。自分の体験したことを、幻想をまじえながら「詩的」に書いたもの、とも読むことができる。
底なしに深い、真っ青な空がどこまでも広がっていた。ときどき、羽毛のような淡い雲が通り過ぎた。小さな薄紫の蝶が一匹、ちらちら飛びまわっていた。その蝶が視界に一匹ではなく、数えれば四匹、五匹--。現れる蝶の色は次第に鮮明になり、薄紫というより紺碧も濃紺に近く、金属的なきらめきさえ感じられた。
あおむけに、空と蝶たちの乱舞を眺めていた視界に、ようやく体を動かせられる感覚が戻ってきた。両肘を張って頭を少しもたげると、自分は、谷底ではなく、尾根の山道に横たわっているのに驚いた。さらに視線をもたげると、逆光の陰のような大男が立ちふさがっていて、見下ろしていた。
高橋は、この男に誘われるようにして、歩きはじめる。「そのとき、小さな薄紫の蝶の群れが、私にまとわりつくのか、先を行く姿を慕って飛んでいるのか、ちらちらと可憐な花びらのように飛んでいた。」
幻想的で、美しいことばである。ことばも美しいが、そこに描かれる情景、薄紫の蝶、よくわからない大男の幻影が、まさしく「幻想詩」そのものに見える。ただ、その「幻想」が想像力を超えるというか、まったく知らないことを描いている、どこへ行くのか不安にさせるということはない。言い換えると「現代詩の冒険」からはちょっと遠い感じかするなあ、と私は思いながら読み進んだ。
すると、突然、クライマックスがやってくる。大男が仁王立ちになった。「青光りする蝶で出来た装飾刈り込み(トピアリー)の人形(ひとがた)のように。」そして、そのあと、
ほんの数秒のことであったかも知れない。そよとも風のないのに、まるで木の葉が散るように、数限りない蝶が大空へと飛び散った。
それこそ、なにも跡には残っていなかった。あたかも、飛び散った蝶で出来ていたかのように。薄紫の蝶の影さえなく。
大男はどうやら蝶が群舞していた姿のようである。高橋は、その「幻影」にいわば導かれる形で命拾いをしたのだが、そのとき、はっと気づくのである。
「しじみ峠」の「しじみ」は「しじみ蝶」の「しじみ」なのである。シジミ(貝)のシジミではないのである。「しじみ蝶」の「しじみ」は、シジミが貝殻を拡げると内側が薄紫で、蝶が羽根を拡げた形になるところから来ているのだ。
偶然、そのことに高橋は気づいた。
シジミ(貝)がしじみ(蝶)にかわった。
これは、なんといえばいいのだろう、高橋が「命拾い」をした体験そのものに比べると現実的にはとても小さなことである。しじみ峠がしじみ蝶のたくさんいる峠であるということは、どうでもいいことである。--はずなのだが、それでも、あ、これがしじみ峠ではなく、アゲハ峠とかモンシロ峠だったら、やっぱり違うなあとも思う。
アゲハ峠やモンシロ峠では起きないことが「しじみ峠」では起き、そこには「ことば」の発見、「意味」の発見がからんでいる。そこに「意味」の交錯があるから、幻想がいっそう肉体にしみこんでくる。
これは「意味」の交代というにはおおげさすぎるかもしれない。だからこそ、「詩」そのものというより、「詩の途上」という気もする。「詩の途上」にはたしかにそういうことが起きているのだと思う。
先鋭的な現代詩ではないからこそ、その「途上」が(過程が)、静かにうかびあがる。そこに、ふとひかれた。
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