詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(4)

2011-10-04 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(4)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「黄色い島」という作品は、きんぽうげの咲いている島を書いている。

 何処かわからぬ大洋の果たてに、きんぽうげだけが咲いている島
が在っていい。黄色いきんぽうげだけが一面咲いているただの島だ。
他は何もない。

 この詩は、最初、何もない感じで始まる。何も起きない島ときんぽうげだけを書いているように思える。そのきんぽうげが、だんだんきんぽうげではなくなってくる。

   きんぽうげは自らを認めても島の存在を認めようとはしない。
おそらく一年中きんぽうげの黄が島を覆い尽くし、何処を眺めても
土くれ一つ見出せぬ--といった視覚上の誤認が禍いしているのか
も知れぬが、いやそれより黄花の根があくせく八方に進捗し他者を
愛憐しようにも、その根毛が触れるのはあくまでも己が同属にしか
過ぎぬという深い絶望が、きんぽうげの痼疾になっているせいかも
知れぬ。

 この文章は、とても不思議である。きんぽうげが島の存在を認めないのは、きんぽうげの花が島を多い、そこに「土」が見えないからだ。その「視覚」が「誤認」の原因となっている。--と書いたあと、「視覚」が文章から消えていく。
 かわりに「触覚」が出てくる。
 根が他のきんぽうげの根に「触れる」。そして、「触れる」ことで、「触れる」ことができるのは同属(きんぽうげ)の根だけである--「他者」が存在しないという認識し、「絶望」している。
 だから、島の存在を認めない。
 どこで論理がねじれているのか。
 よくわからない。

 視覚は自己と他者の存在が違っているとき、そこに他者を認める。黄色いきんぽうげは、黄色くないもの、たとえば茶色の土を見ることができたとき、その土を他者と認識できる。ところが茶色いものが見えないので、他者が存在しないと「誤認する」。
 触覚は、そこに触れるものが「同じ」であるとき、それを「他者」とは思わない。認識しない。そして、この認識を、触覚は「誤認」とは思っていない。
 のかな?

 何、これ。
 私は、とても混乱する。
 なぜ、視覚から触覚へ、ことばは動く必要があったのか。認識の「主体」を視覚から触覚にかえる必要があったのか。
 視覚にこだわり、どこまで眺めても見えるのは「黄色」。見えるのはあくまでも「己が同属にしか過ぎぬという深い絶望が、きんぽうげの痼疾になっているせいかも知れぬ。」と言いなおしてもいいのではないか。
 なぜ、そこに「触覚」が登場し、「視覚」を言い換える必要があるのか。

 理由は、わからない。わからないが、奇妙に、私は私の体のなかで(肉体のなかで)、ぞくっと動くものを感じる。「視覚」よりも「触覚」の方が、「同じ」を感じる力がつよいと思うのだ。
 目で一つのものが、ある他のものとが「同じ」であると認識するとき、そのあるものは「私」から離れている。距離がある。距離があって、その距離を埋める何かが「同じ」ということになる。
 けれども「触覚」は違う。離れては存在しない。常に「私」自身が何かに触れる。つながっている。距離がない。その距離のないところで「同じ」であると感じるというのは、私の「内部」が「他者」とつながるということだ。
 「視覚」は、「内部」ではなく、「外部(外観)」をつなぐのである。
 「触覚」も「外観」というか、「外部」というか、ようするに「外側」があって成立するものだけれど、その「触覚」の「覚」は、境目を「肉体」の内側に取り込み、消してしまう。

 この運動が、ぶきみな感じで、私の「肉体」の内部を浸食する。

 「視覚」から「触覚」へ、「同じ」きんぽうげのなかにある「感覚」の主体がかわる--その瞬間に、粒来と私(谷内)が「同属」になってしまったような、なんとも不思議な感覚になる。
 何か、変である。
 変であるけれど、奇妙にわかってしまうのである。納得してしまうのである。私は、納得したくない(?)ので、むりやり変なことを書いているかもしれない。

             島がなりをひそめて了うときんぽうげ
にとって生体は全てこれ同属ということになる。しかしそれらは自
分に身近ではあっても自己自身でない以上、あくまでも他者の位置
に留まっている。で、他者である以上それは自身をおびやかす他者
であるかも知れず、ことによっては根こそぎ自身を消滅しにかかる
恐るべき他者にならぬとは誰もいい切れぬ。

 「自己自身」「同属」「他者」--この区別は「触覚」のなかでは、くっついたりはなれたりしている。あるときに「自己自身」となり、あるときに「同属」となり、別なときに「他者」となってあらわれるのだが、そのあるときというのは別々なときではなく、同時なのである。
 「とき(時間)」の区別がない。
 「自己自身」「同属」「他者」は区別がありながら区別がない。区別する「とき」、区別が消え、区別しない「とき」に区別があらわれる。

 うーん、なんだか、同じことばが同じことばを互いに批判し、叩き壊しあっている。というようなことを考えていると、

 きんぽうげが残らず同位の同属である以上、思考の範囲も同属の
規範の外に出ることはないはずだった。--だがしかしある日ある
一本の黄色の雌蘂に小さな歯が生えた--と判ってから、きんぽう
げは互いに白歯を以て急速に武装した。

 このあと、詩では、そのきんぽうげ動詞の殺戮が描かれるのだが--それは「ストーリー」であって、つまり詩を終わるための方便であって、私にはあまり関心がない。
 私がびっくりしたのは、「触覚」のあとに「思考」ということばが出てきたことだ。
 「視覚」の「誤認」を振り捨て(拒絶し、否定し)、「触覚」による「世界」を描き出し、そこから始まるものを「思考」として動かしていく--そこに、あ、すごい、と感じるのだ。
 何が書いてあるか--その意味はどうでもいいというと変だが、まあ、私にはよくわからないから、それはそのままにしておいて、わかる範囲のこと、視覚→触覚→思考ということばの「主体(?)」の変化が、すごいと思うのだ。
 視覚というのは私と対象(他者)との距離があってはじめて成立する。眼に近すぎるものは見えない。それに反して触覚というのは他者との距離がないときにしか成立しない。他者に接するときにはじめて動く感覚である。その自分だけではどうすることもできない何か、相手の「動き」によって変わってしまう何か--それを「思考」と呼んでいるように思う。
 他人に触れること。他人と触れあうことは、常に自分が変わってしまう何かを含んでいる。だから、自分を変えたくないと思えば、他者を殺害するしかない。殺戮するしかない。そして、この詩では、実際に殺戮がつづく。 

 わけがわからないけれど、この変化の「核」に「触覚」から「思考」への変化がある、ということに、私は、ぞくっとしてしまう。




荒野より―詩集 (1979年)
粒来 哲蔵
矢立出版
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イェジー・スコリモフスキー監督「エッセンシャル・キリング」(★★★)

2011-10-04 19:35:06 | 映画
監督 イェジー・スコリモフスキー 出演 ヴィンセント・ギャロ、エマニュエル・セニエ

 主人公はひたすら米軍から逃げる。逃げ切れるあてもなく、ただ雪の原野をさまよう。生きるために偶然出会った人を平気で殺しもする。これをヴィンセント・ギャロがひとこともしゃべらず、ただ肉体だけの動きで演じ切る。
 わ、おもしろそう。絶対におもしろいに違いない。第67回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞・主演男優賞受賞とふたつも賞を取っているし・・・。

 でも、予想外におもしろくない。ヴィンセント・ギャロが魅力的に感じられない。なぜかというと、その肉体の動きが「共感」を誘わない。雪原をさまよう時の歩き方に疲労感がない。私の肉体と重なる部分がないのだ。
 タイトルが思い出せないのだが、昔、囚人(だったと思う)がひたすら木を削っているシーンから始まる映画があった。その木の削り方――それは私の木の削り方とは違うかもしれないが、肉体のなかで蓄積していく時間が納得できる。共感ができる。
 「ショウシャンクの空に」や「抵抗 死刑囚は逃げた」の場合でも、映画の中で動いている肉体をそのまま自分で反復できる。反復(ものまね)を誘うということが映画の基本だと私は思っている。実際にまねできなくても、やってみたいと感じさせる「ランボー」なども、ね。
 でも、この映画は変にリアルで、変に超人間的で、私の肉体には合わない。
 アリ塚のアリを食べるところなど、もっと先に食べるのものがあるのでは、と疑問が先に立つ。木の皮を食べるところも。
 寒さと空腹と絶望が、どうにも実感できない。毛糸の帽子をかぶり、しっかり防寒しているからかなあ。
 雪が私の知っている日本の雪と違うからかなあ。
 まあ、最後の方はいいんだけれど。
 特に乳児の母親のおっぱいにしゃぶりついて母乳を吸うところがいいなあ。食べ物(?)として母乳は納得できるし、食べるだけではなく、そこに人間の触れ合いがある。生きる希望がわいてくるね。
 青い布が流れてくる幻想(?)もいいし、紅い木の実をつまんで食べている向こうに女の幻影が浮かぶのもいい。
 口のきけない女との、最後の安らぎもいいなあ。
 ようするに、女が出てくると画面がきゅっとしまる。ヴィンセント・ギャロの肉体が身近になる。共感できる。女に傷の手当てを受けながら悲鳴を上げるシーンなど、そのまあ、「痛い、やめてくれ」と代わりに叫びそうになる。私の痛みではないのに、痛みがわかる。腹に傷を負ったこともないのに、痛みが分かる。
 ラストシーンの、馬に乗りながらヴィンセント・ギャロが血を吐くときの、その色。そしてヴィンセント・ギャロがもう乗っていない馬という唐突な終わり方もいいんだけれど。死んでしまったことでなんとなくほっとする。救われた気持ちになる。
 あのまま生き続けていたらつらいね。せっかくの「共感」が消えてします。



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