粒来哲蔵『蛾を吐く』(3)(思潮社、2011年10月01日発行)
「蛾を吐く」のつづき。
きのう読んだ最後の部分。
この「もう一つ」は何か。それは、よくわからない。きのうの詩のつづき、そしてこの詩の最後の部分は次のようになっている。
最後に「もう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった」ということばがあり、「もう一つ」が「おれ自身」と言いなおされているのだが、だからといって簡単に「もう一つ」は「おれ自身」と言い換えてしまおうとすると、よけいに何がなんだかわからなくなる。
すでに「蛾」は「血」であり、また「蛾」は「意志」であることを見てきた。「蛾」が「血」ならばそれは「おれの肉体」であり、「蛾」が「意志」ならばそれは「おれの精神」であり、ともに「おれ自身」である。便宜上「おれの肉体」「おれの精神」と呼んでいるだけで、それは別個の存在ではなく、しっかりと絡み合い、融合した存在である。
いきなり「もう一つ」ということばを重ね合わせても、何もわからない。よけいに、わけがわからなくなる。
ゆっくり読んでみる。
ひとはだれでも重要なことは何度も繰り返す--その繰り返しを読み直してみる。
「蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。」を粒来は、
と書き直すことからはじめている。「もう一つ」は「蛾」とともに飛び出す。そだからその「蛾」を「床の上に圧し留めた」。それは「もう一つ」を「床の上に圧し留め」ることである。
「おれ」は「蛾」を取り押さえ、その翅を拡げる。「蛾」をゆっくり、正確に(?)見つめなおす。「蛾」を見つめることで、何かがわかるかどうかはわからないが、まず「蛾」を見つめなおすことからはじめるのだが……。
これは、なんといえばいいのか、不思議なことばである。
粒来が書いていることを、私は、純粋に「ことば」として受け止めることができない。言い換えると、私は、蛾を押し殺した私自身の経験を見てしまう。私は血を吐いたことがないので、それまで書かれていたことを粒来の「ことば」として読んでいたが、ここへきて、ふいに「粒来のことば」ということを忘れてしまう。
蛾を押し殺す--のは、それが醜いからである。家の中を飛び回られ、汚い粉をまき散らされるのがいやだからである。そして、それを箒とか新聞を丸めたものでたたき落とし、押しつぶす。翅は破れ、汚い血がはみだしている。そして、そういう形になっても、そこには「翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた」。
きっと粒来にも、比喩としての「蛾」ではなく、本物の蛾を押し殺したことがあり、ここでは粒来は「比喩」ではなく、「比喩」といれかわってしまった「現実」を書いている。
「比喩」はあるとき「比喩」ではなくなる。「比喩」は「ことば」の問題であるが、その「ことば」が「比喩」であることを突き破って「現実」になってしまう。
あ、これは、正確な言い方ではないなあ。
どこかで私のことばは「論理」を踏み外しているのだが、同じように、この「比喩」のなかで、粒来のことばが「比喩」を踏み外しているのを感じる。
「比喩」のなかには、その「比喩」を突き破って自己主張しようとする何かがある。
「蛾」のなかに「母」と「女」の「顔」がある。--「蛾」のなかには「女」がいる。というのは、うーん、しかし、おかしい。変である。「蛾」は「血」である。「血」は「おれの肉体」であり、「蛾」は「おれの意志」であるなら、「蛾」と「血」を結びつけるものは(一つにするものは)「おれ」であって「女」ではない。他人ではない。
なぜ、女なのか。そもそも女とは何者なのか。
ここに書かれている「母」も「女(共)」も、他人ではない。「おれ」である。
粒来は「おれと縁の女共」と書いているが、ここに書かれているのは、「縁」なのだ。「母」や「女」が問題なのではなく(といってしまうとまた間違ってしまうことになるのだけれど)、「縁」が「おれ」なのだ。
「もう一つ」とは「縁」なのだ。「おれ」と「他者(女共)」とのつながり。関係。関係の中で、生起してくるもの。
前にも書いたが、粒来が書いていることは、「いま/ここ」に「何か」があらわれてくるときの「運動」なのである。ひとつの「場」があり、その「場」のなかで、あるときは「蛾」がという形で何かがあらわれ、あるときは「意志」という形であらわれ、あるときは「肉体」という形であらわれる。それは別個の存在ではなく、「おれ」の、ある一瞬の「純粋化(?)」されか姿なのである。常に何かを潜り抜けながら、「ひとつ」の形になって見せているに過ぎない。
粒来の書いているのは、「混沌」あるいは「無」という「場」のなかで起きる「運動」なのだ。
そして、その「運動」に何かの影響を与えるもの--あるいはその「運動」の形式、運動の「枠」となるものとして、粒来は「縁」を考えているのだ。
「縁」ということばが、粒来の「思想」なのだ。
私の書いていることは、飛躍が多いし、一種の「でたらめ」も含んでいるが--詩だから、これくらいの「でたらめ」はあって当然だと私は思うのだが……。ちょっと強引な補足をすると、
たとえば「蛾」。
「蛾」について触れたとき、私は私自身の蛾を押し殺した体験(記憶)を書いたが、その体験のなかで、私は蛾と「縁」を持った。その「縁」は蛾にとってはまあ気の毒なものだけれど、それが「縁」というものである。
粒来は、この詩の冒頭から「蛾」という「ことば」をつかっているが、喀血した血を「蛾」と呼ぶとき、そこには無意識の「縁」が働いている。蛾と粒来にも「縁」があり、「縁」があるかぎり、「経験」がある。「過去」がある。「時間」がある。
「縁」が--その意識できない「つながり」が「ことば」にいつのまにか反映してきている。
「縁」こそが、真の「もう一つ」(もうひとりのおれ)なのだ。
その「縁」が、いま、ここで--最後の部分で「女」という形であらわれているのだが、それが「縁」であるかぎり、そこにあらわれたものが「女」であっても、それは「女」そのものではなく「おれ」でもある。
女共と笑った。そのとき、そこに「おれ自身の醜悪な顔」があった。女共が笑わなければ、「おれ自身の醜悪な顔」も存在しない。それは「同時」に存在する。そして、その「同時」を支えるのが「縁」なのだ。
「おれ」がいる。そのとき「おれ」は「血」に代表される「肉体」をもっている。また「意志」に代表される「精神」というものをもっている。それは融合して「おれ」という存在をつくっているのだが、「おれ」をそこに存在させるのは「血」や「意志」だけではない。「肉体」と「精神」だけではない。
もうひとつ「縁」というものがある。
「縁」をとおして「蛾」ということばもやってくる。「意志」も「血」も同じかもしれない。
「縁」が、「蛾」というものをとおして、いま/ここに噴出してきている。
--私は、ほんとうは、こういうことを書きたくて感想を書きはじめたのではないのだが、途中から、突然、感想が変わってしまった。
どこをどう修正すれば、辻褄が合うのかわからなくなった。
だから、どこにも修正をくわえない。書き直さない。
いつか「縁」ということばで詩の全体を読み直してみることがあるかもしれないが、いまは、そうしない。いま、そんなことをすれば「縁」が歪んでしまうように思えるのだ。何らかの「縁」があって、私は粒来の「縁」に出会った。
「蛾を吐く」のつづき。
きのう読んだ最後の部分。
蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。
おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。
この「もう一つ」は何か。それは、よくわからない。きのうの詩のつづき、そしてこの詩の最後の部分は次のようになっている。
ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上
に圧し留めた。蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅
を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解い
た。蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかった
が、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。蛾の紋様に
は寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ
母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。
その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆け
ずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。
その夜だった。おれに大喀血が来たのは--。
最後に「もう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった」ということばがあり、「もう一つ」が「おれ自身」と言いなおされているのだが、だからといって簡単に「もう一つ」は「おれ自身」と言い換えてしまおうとすると、よけいに何がなんだかわからなくなる。
すでに「蛾」は「血」であり、また「蛾」は「意志」であることを見てきた。「蛾」が「血」ならばそれは「おれの肉体」であり、「蛾」が「意志」ならばそれは「おれの精神」であり、ともに「おれ自身」である。便宜上「おれの肉体」「おれの精神」と呼んでいるだけで、それは別個の存在ではなく、しっかりと絡み合い、融合した存在である。
いきなり「もう一つ」ということばを重ね合わせても、何もわからない。よけいに、わけがわからなくなる。
ゆっくり読んでみる。
ひとはだれでも重要なことは何度も繰り返す--その繰り返しを読み直してみる。
「蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものがある。」を粒来は、
ある日大きな吐き気が来た時、おれは翔び出しかかる蛾を床の上に圧し留めた。
と書き直すことからはじめている。「もう一つ」は「蛾」とともに飛び出す。そだからその「蛾」を「床の上に圧し留めた」。それは「もう一つ」を「床の上に圧し留め」ることである。
蛾はしきりに暴れたがやがて萎えた。おれは奴の翅を拡げ、展翅板にでも乗せるような恰好で用心しいしい戒めを解いた。
「おれ」は「蛾」を取り押さえ、その翅を拡げる。「蛾」をゆっくり、正確に(?)見つめなおす。「蛾」を見つめることで、何かがわかるかどうかはわからないが、まず「蛾」を見つめなおすことからはじめるのだが……。
蛾の翅は翅粉が剥げ落ち、破れかかっていて見る影もなかったが、翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた。
これは、なんといえばいいのか、不思議なことばである。
粒来が書いていることを、私は、純粋に「ことば」として受け止めることができない。言い換えると、私は、蛾を押し殺した私自身の経験を見てしまう。私は血を吐いたことがないので、それまで書かれていたことを粒来の「ことば」として読んでいたが、ここへきて、ふいに「粒来のことば」ということを忘れてしまう。
蛾を押し殺す--のは、それが醜いからである。家の中を飛び回られ、汚い粉をまき散らされるのがいやだからである。そして、それを箒とか新聞を丸めたものでたたき落とし、押しつぶす。翅は破れ、汚い血がはみだしている。そして、そういう形になっても、そこには「翅粉の織りなす紋様はまだありありと残っていた」。
きっと粒来にも、比喩としての「蛾」ではなく、本物の蛾を押し殺したことがあり、ここでは粒来は「比喩」ではなく、「比喩」といれかわってしまった「現実」を書いている。
「比喩」はあるとき「比喩」ではなくなる。「比喩」は「ことば」の問題であるが、その「ことば」が「比喩」であることを突き破って「現実」になってしまう。
あ、これは、正確な言い方ではないなあ。
どこかで私のことばは「論理」を踏み外しているのだが、同じように、この「比喩」のなかで、粒来のことばが「比喩」を踏み外しているのを感じる。
「比喩」のなかには、その「比喩」を突き破って自己主張しようとする何かがある。
蛾の紋様には寝乱れ姿の母の後ろにおれと縁の女共の顔があった。翅は歪んだ母の裾から黄色い翅粉を零した。すると女共の顔が一斉に笑った。
「蛾」のなかに「母」と「女」の「顔」がある。--「蛾」のなかには「女」がいる。というのは、うーん、しかし、おかしい。変である。「蛾」は「血」である。「血」は「おれの肉体」であり、「蛾」は「おれの意志」であるなら、「蛾」と「血」を結びつけるものは(一つにするものは)「おれ」であって「女」ではない。他人ではない。
なぜ、女なのか。そもそも女とは何者なのか。
ここに書かれている「母」も「女(共)」も、他人ではない。「おれ」である。
粒来は「おれと縁の女共」と書いているが、ここに書かれているのは、「縁」なのだ。「母」や「女」が問題なのではなく(といってしまうとまた間違ってしまうことになるのだけれど)、「縁」が「おれ」なのだ。
「もう一つ」とは「縁」なのだ。「おれ」と「他者(女共)」とのつながり。関係。関係の中で、生起してくるもの。
前にも書いたが、粒来が書いていることは、「いま/ここ」に「何か」があらわれてくるときの「運動」なのである。ひとつの「場」があり、その「場」のなかで、あるときは「蛾」がという形で何かがあらわれ、あるときは「意志」という形であらわれ、あるときは「肉体」という形であらわれる。それは別個の存在ではなく、「おれ」の、ある一瞬の「純粋化(?)」されか姿なのである。常に何かを潜り抜けながら、「ひとつ」の形になって見せているに過ぎない。
粒来の書いているのは、「混沌」あるいは「無」という「場」のなかで起きる「運動」なのだ。
そして、その「運動」に何かの影響を与えるもの--あるいはその「運動」の形式、運動の「枠」となるものとして、粒来は「縁」を考えているのだ。
「縁」ということばが、粒来の「思想」なのだ。
私の書いていることは、飛躍が多いし、一種の「でたらめ」も含んでいるが--詩だから、これくらいの「でたらめ」はあって当然だと私は思うのだが……。ちょっと強引な補足をすると、
たとえば「蛾」。
「蛾」について触れたとき、私は私自身の蛾を押し殺した体験(記憶)を書いたが、その体験のなかで、私は蛾と「縁」を持った。その「縁」は蛾にとってはまあ気の毒なものだけれど、それが「縁」というものである。
粒来は、この詩の冒頭から「蛾」という「ことば」をつかっているが、喀血した血を「蛾」と呼ぶとき、そこには無意識の「縁」が働いている。蛾と粒来にも「縁」があり、「縁」があるかぎり、「経験」がある。「過去」がある。「時間」がある。
「縁」が--その意識できない「つながり」が「ことば」にいつのまにか反映してきている。
「縁」こそが、真の「もう一つ」(もうひとりのおれ)なのだ。
その「縁」が、いま、ここで--最後の部分で「女」という形であらわれているのだが、それが「縁」であるかぎり、そこにあらわれたものが「女」であっても、それは「女」そのものではなく「おれ」でもある。
女共の顔が一斉に笑った。その笑い声のし終らぬうちにこの場景に幕を閉じようと懸命に駆けずり回るもう一つの、つまりおれ自身の醜悪な顔があった。
女共と笑った。そのとき、そこに「おれ自身の醜悪な顔」があった。女共が笑わなければ、「おれ自身の醜悪な顔」も存在しない。それは「同時」に存在する。そして、その「同時」を支えるのが「縁」なのだ。
「おれ」がいる。そのとき「おれ」は「血」に代表される「肉体」をもっている。また「意志」に代表される「精神」というものをもっている。それは融合して「おれ」という存在をつくっているのだが、「おれ」をそこに存在させるのは「血」や「意志」だけではない。「肉体」と「精神」だけではない。
もうひとつ「縁」というものがある。
「縁」をとおして「蛾」ということばもやってくる。「意志」も「血」も同じかもしれない。
「縁」が、「蛾」というものをとおして、いま/ここに噴出してきている。
--私は、ほんとうは、こういうことを書きたくて感想を書きはじめたのではないのだが、途中から、突然、感想が変わってしまった。
どこをどう修正すれば、辻褄が合うのかわからなくなった。
だから、どこにも修正をくわえない。書き直さない。
いつか「縁」ということばで詩の全体を読み直してみることがあるかもしれないが、いまは、そうしない。いま、そんなことをすれば「縁」が歪んでしまうように思えるのだ。何らかの「縁」があって、私は粒来の「縁」に出会った。
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