詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(2)

2011-10-02 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(2)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「蛾を吐く」のつづき。

 それからだった。帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口か
ら吐かれ、咽喉から翔び出した。それはまるで緊縛されていたある
種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるのだといった風
だった。おれはあえて逆らわなかった。何故ならおれ自身は蛾の跳
梁に関わりなく日毎少しずつ痩せ細っていったからだった。今や蛾
を吐く感触が日常のそれとなってみると、朝の口漱ぎの折々分厚い
幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、
次いで翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回るという状況さえ
身近なものとなっていった。おれは日々黙って床を掃いた。

  (谷内注・「あらがわ」は「皮」という文字が3つピラミッド状に重なった漢字)

 「帰宅してからも蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ、咽喉から翔び出した。」というのは、不思議な文である。乱れがある。「蛾はひっきりなしにおれの口から吐かれ」では、形式主語は「蛾」であるが、それは「おれ」によって「吐かれる」。つまり受け身である。実際に「吐いている」のは「おれ」である。前半の主語は「おれ」ということになる。ところが後半は「蛾は」「咽喉から翔び出した。」と「蛾」が主語になる。「おれ」は「(おれの)咽喉」という形で消えてしまっている。
 「おれ」と「蛾」が混同されている。--のではなく、ここでは「一体」になっているのである。それはあるときは「おれ」という形をとり、あるときは「蛾」として、「いま/ここ」にある。そういう「現象」の「場」が「おれの肉体」であり、「おれのことば」なのだ。--ということは、粒来は書いてはないのだけれど、私は、そう読むのである。「誤読」するのである。
 「血」が「蛾」と名づけられるとき、それはまた「血」でも「蛾」でもなくなる。何になるか。

それはまるで緊縛されていたある種の意志がその鬱屈を解かれて今や躍動しつつあるのだといった風だった。

 「意志」になる。「肉体」に閉じこめられ、「肉体」の限界を生きるしかなかった「意思」が、「意志」であること(肉体のなかにとどまり、肉体を動かすこと)を拒絶して、自由に動いている。
 粒来は、ここに不思議な「自由」を見ているのだ。
 粒来の「精神」ではつかみ取ることのできなかった「自由」を「血」が「蛾」となることで獲得している。
 --こんなことは、「いのち」を物差しにして考えるとき、あってはならないことかもしれないが、「ことば」を物差しにするとき、起り得ることなのである。
 いや、ほんとうは(ふつうは?)、起こらない。
 粒来の「ことば」だから起きる。それは粒来の「ことば」が引き起こした、まったくあたらしい「現実」であり、粒来の「ことば」でしか獲得できない「自由」である。
 その「自由」は簡単に言うと、人間に「死」をもたらすものかもしれないが、「死」というのは誰にも体験できないことであり(体験したあと、それを報告することができないものであり)、「ことば」を超越している。そういう「ことば」を超越したものは無視して、粒来は「ことば」にできるものを「ことば」にするという「自由」を生きて、「蛾」そのものになるのだ。
 「蛾」が「おれ」であると主張すること--それを受け入れ、それに「従事」するというか、従う。「蛾」が、つまり、意志なのだ。肉体が意志に従って動くように、いま肉体は蛾に従って動く。
 といっても、これは「現実」のことではなく、あくまで「ことば」のことであり、「ことば」であることによって「現実」のこととなる。
 --あ、変な言い方になった。
 言いなおす。
 粒来の「ことば」は「血」を「蛾」と呼ぶことで、「現実」を強い力で整えなおす。「蛾」を生きる「意志」に従って、「いま/ここ」を整えなおす。その整えなおしは、人間の「いのち」を基準にすると理不尽というか、ほんとうはあってはいけないことなのだが、詩人は、そのあってはいけないこと、してはいけないことを「ことば」の力でやってしまう。
 人間が触れてはいけない部分を侵害してしまう。人間のやるべきことがら、人間の生きる領域を「超越」してしまう。
 「ことば」が「いのち」になる。「ことば」が「いきる」。
 実際、そうなっている。「ことば」が書かれるかぎり、粒来は生きている。不吉な言い方で申し訳ないが、死へ向かって「ことば」で生きる。そうすることで、「いま/ここ」で死を超越する。
 その瞬間、「肉体」が、いっそう強く甦ってくる。

朝の口漱ぎの折々分厚い幅広のあらがわが口中から翔び出してまずおれの歯列に突き当たり、次いで翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回る

 ここにも「主語」の混乱、主語の融合がある。
 「文章」そのものとしては、「蛾(血の固まり)」は口の中(口の奥、といった方がいいかもしれない)から飛び出し、歯列に突き当たる。そのとき主語は確かに「蛾」なのだが、それが飛び出してくるのを感じている「主語」は「おれ」である。「おれ」の歯列が「蛾」がぶつかってくるのを感じるのであり、「蛾」はいまぶつかったのは歯列であると感じるわけではない。--ままり、ここに書かれていることは、「蛾」を主語にしていながら、実は「おれ」が感じた「おれ」の「肉体」なのである。そうであるがゆえに、「翅粉を蒔きながら狂ったように床を転げ回る」のは「蛾」であると同時に「おれ」なのだ。「おれ」の「肉体」であると同時に「おれ」の「意志」(精神)である。いや、「ことば」である。
 だからこそ、それは次のように書き直される。

 蛾が吐かれると同時にもう一つおれの内から吐き出されるものが
ある。それは一旦は床に落ち、おれを見あげる風だが、やがて直ぐ
さま翔び去っていく--。蛾の重い羽搏たきが消えた後、おれの痩
身のあちこちに食い込まれたような痛みが走る。時折それが出かか
る咽喉元からの悲鳴を圧し殺し、おれはおれ自身の終末を迎える前
に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 「もう一つ」と名づけられたもの。「もう一つ」とは、しかし、変な「命名」である。それは「ことば」であるが「ことば」ではない。「ことば」になりきっていない。
 前の段落では「意志」ということばが仮につかわれていた。「意志」で何かをあらわそうとしていた。そしてその「意志」には「ある種」という「ことわり」がついていた。ほんとうは「意志」ではない。--だからそれをいま「もう一つ」と言いなおしているのである。
 壮絶な「ことば」を書きながら、なお「ことば」になっていない「ことば」があるという自覚。
 それは「蛾」になって吐き出される。そして飛び去っていくようであって、逆に「肉体」の内部に「食い込まれたような痛み」として残りつづける。
 それは何なのか。
 粒来は、ここで、とても不思議な「ことば」を書いている。

おれはおれ自身の終末を迎える前に蛾ともう一つと対峙してみることにした。

 少し整理すると「おれは」「蛾ともう一つと対峙してみることにした。」
 「おれ」は「蛾ともう一つ」と「対峙する」のか。つまり「おれ」は「ふたつのもの」と「対峙する」のか。それとも「おれ」は「蛾」といっしょになり、「もう一つ」と「対峙する」のか。
 よくわからない。
 この、わからなさが、ぐいと私を引きつける。
 このあとに続く段落へと私をひっぱる。
                                  (つづく)

 




粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社
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ヴォルフガング・ムルンベルガー監督「ミケランジェロの暗号」(★★)

2011-10-02 19:22:04 | 映画
監督 ヴォルフガング・ムルンベルガー 出演 モーリッツ・ブライブトロイ、ゲオルク・フリードリヒ

 ラストシーンは「台詞」が少なく、顔(まなざし)が「ことば」を語り、映画らしいのだが、途中がずいぶん「芝居」っぽい。
 ユダヤ人の画商の息子、画商の使用人の息子の入れ替わり、そして婚約者が入れ替わりを知りながら画商の息子の「シナリオ」に加担するシーンなど、芝居の方がおもしろくなると思う。映画だと表情が見えすぎてドキドキしないのである。
 また逆に、画商の肖像画の行方を息子が質問するシーンでは、なぜ使用人の息子が「絵」の存在に気がつかないのか、とても不自然である。画商の息子は、そこにない父親の肖像画を見ている。壁の「空白」に驚いている。その驚きというか、「暗号」の意味がわかったという顔をしている――その変化がスクリーンにくっきり描かれているのに、その場にいる人間が気づかない、というのは映画文法から見ておかしい。観客にわかることは、そこにいる人間にもわからないと変である。
 芝居は「ことば」で演技する。一声二姿三顔――といわれるのは、声(ことば)が芝居の基本だからだ。映画は「ことば」ではなく、顔がいのち。演技できなくても、顔さえよければ映画は成り立つ。役者にかわってカメラが演技して、補うことができる。
 そのバランスが、この映画では、うまくかみ合っていない。
 最初に書いたが、ラストシーンだけは小気味いい。
 「ことば」では一切説明しないが、登場人物たちのまなざしがすべてを語る。そしてそのまなざしのなかに、不思議なことに、敵であるのに敵ではない部分が混じる。言い換えると、親しい人間だけが理解できる「ことば」のやり取りがある。
 主人公(画商の息子)と使用人の息子は「親友」である。幼いころから一緒に暮らしていて気持ちがわかる。その気持ちが通じるものだけがわかりあえるまなざしで、「あんたの負けだよ」と告げる。それを受け入れる。取り乱さない。画商の息子の母親、画商の息子の恋人(妻?)が使用人の息子を少し憐れんで、しかし、「自業自得だよ」というまなざしを送る。使用人の息子は、それを一種の絶望のなかで受け入れる。――ここが、ほんとうにおもしろい。
 あ、戦争で最後に勝利をおさめるのは、「絆」なのだ、というようなことまで、感じてしまう。「絆」を裏切るものは負ける、というようなことまで考える。それはこの映画のテーマではないかもしれないが、ストーリーを超えてそうした「哲学」を一瞬感じさせる。
 最後が美しいだけに、途中のあまりにも「芝居」向きのシーンが気になる。
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