詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『何処へ』

2011-10-29 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(書肆山田、2011年10月20日発行)

 高橋睦郎のことばには「背後」がある。「歴史」あるいは「過去」がある。だから劇的である。
 それは「芝居」の構造に非常によく似ている。
 「芝居」(戯曲)と「小説」の違いは、芝居では「過去」が説明されない。役者は「過去」を背負って舞台に登場する。舞台に登場したとき、役者はすでに生きた過去をもっていて、役者が動いていくとき、その動きの中に、つまり「いま」が「未来」へと突き進んでゆくときに、その動きの中に過去が噴出する。ぱっと飛び散る。そして「いま」を大きく変化させる。それが芝居だと私は思っている。
 そのときの役者の肉体、戯曲のことばの動きに、何か通じるものがある。「小説」のように、実はこれこれにはこういう過去があって--と過去を振り返ったりはしない。「いま」のなかを動くときに、ことばの「過去」が噴出する。

 「肉体という都市」の書き出し。

モンス・デジデリオ あの都市の崩壊にこだわりつづけた
謎の画家の画集は見たか まだならぜひ見るべきだ と
あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由は 何だったか

 「あの都市」とは「どの」都市か。知っている人は知っている。分かっている人は分かっている。私は「モンス・デジデリオ」ということばが「画家」の名前か、「都市」の名前かも判断がつかず--そして何の根拠ももたずに画家の名前だと思うのだが、その「根拠」のことを私は「ことばの過去」と呼ぶのである。「モンス・デジデリオ」を知っている人は(分かっている人は)、当然、「あの都市」が分かる。そして「崩壊」も分かる。そういう「分かる」ことがら、「過去」を「いま」のなかに噴出させながら「画集を見るべきだ」と迫る。そして、そのとき、さらにことばの奥から噴出してくるのは「あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由」という「過去」である。そこには、「あの都市」の「あの」と同じように「そのようにも」の「その」がある。分かる人にしか分からない「過去」がある。
 で、この「分からない過去」が凝縮されたことばが展開する世界というのは、「過去」が分からないゆえに何のことかはっきりしないのだけれど--でも、なぜか、分かるのだ。それはまさに芝居と同じで、そこにある「肉体」が動くので、その「肉体」に引きずられてしまうということである。役者の特権的な肉体と同じように、高橋のことばは特権的に動いている。その特権の強さが、高橋の詩の魅力である。

 と、こんな抽象的なことを書いても感想にならないかもしれない。けれど、一度は書いておきたかったことなので、書いておく。
 高橋のことばは特権的である。「過去」を背負っている。それは高橋が多くの「文学」をくぐりぬけてことばを動かしている。ひとつのことばには、必ず「過去」という「文学」がある--ということでもある。
 たとえば「モンス・デジデリオ」は特別の「過去」をもち、また「画集」は特別の画集である。「見るべきだ」ということばさえ、「いま」を突き破る特権をもっている。「理由」をもっている。

 あ、また、同じ「抽象」を繰り返してしまった。
 「特権」の印象がうすい(弱い?)作品を読み、そこから私の感想を動かしていった方がいいのかもしれない。
 「泳ぐ母」を読んでみる。

泳ぐ母を見たことがある ただ一度
ぼくが水練を覚えた 小学三年生の夏
繋がれて水に浮かぶ舷(ふなべり)に つかまっていると
いきなり白い手が ぼくの日焼した手の横に
見ると濡れたシュミーズの母 たちまち泳ぎ去った
「何年ぶりかしらん」眩しい笑みと声音(こわね)を残して
たしかにそこにいたのは その時より十数年前
ぼくを産むはるか以前の お下げ髪の女学生
どんな衝動が その時の母を少女に戻したのか
いま息を引き取ったと 遠い島の病院から
電話があった朝 思い浮かんだのは 泳ぐ母
七十八歳から十七歳に戻り 泳ぎ去る母
泳ぐ後ろ髪は いまも十七歳のまま
変幻してやまない 昼下がりの雲の塔の下
息子は夏ごとに老いを重ねて 残される
肝斑(しみ)の手で この世の舷につかまったまま


 ここに書かれていることばは、「文学」の「過去」をもっているというより、高橋自身の「過去」を噴出させる詩である。--と、一見、見える。
 「遠い島の病院」から「ぼく(高橋)」に母が息を引き取ったと電話が入る。それを聞きながら高橋は小学生のころを思い出す。泳ぐ高橋のかたわらを母が泳いで去っていく。そういうことを思い出す。
 ところが。
 その母は、実は、「十数年前」の母、「十七歳」の母である。そんなことは、実際にはありえない。だからこそ高橋も「変幻」ということばを差し挟んでいる。
 しかし、この不思議な「幻」、その「記憶」こそ、高橋のことばの運動をそのままあらわしているように私には思える。

 高橋(ぼく)が思い出したのは、実際の母ではなく、母が母になる前の少女である。その少女は高橋の生まれる前のことであるから、高橋はその少女を知らないはずである。しかし、高橋には、それが見える。
 知らないものが、なぜ、見えるのか。
 それは、人がそれぞれに「過去」をもっているからである。「いま」ここにいる母には「過去」がある。十七歳の夏という過去が母にもあるはずである。その過去が、「いま」の母から見える--そういうことは、実際にあるのだ。
 高橋は十七歳の母(少女)を知らない。知らないけれど、いまの(つまり三十歳くらいの--十七歳+小学三年生の年齢=三十歳くらいか)姿の向こうに、少女の姿が思い浮かぶということがある。その姿を、あたかも知っているもののように明確に思い浮かべることができるときがある。
 いや、これは正確ではない。正確には、三十歳の女(母)の「肉体」のなかから、十七歳のときのままの「肉体」が噴出してくるのを、私たちは見る瞬間がある。リアルに感じ取ることができる瞬間がある。
 人には「過去」があり、その「過去」が突然「いま」の「肉体」を揺さぶるのである。そして、その揺さぶりのなかに、突然、過去の肉体が動くのである。
 すぐれた役者の芝居を見ていると、その「役」の人物がどんな「過去」をもっているか、ふと見えることがあるように……。

 この「母の肉体」から、知らないはずの「過去」、「十七歳の肉体」が噴出してくるのを見たときのように。
 あることばのなかから、知らないはずの「過去」が噴出してくるのを見ることがある。高橋のことばにふれると、いまそこに書かれていることば以外に、そのことばの「過去」が見える瞬間がある。
 このとき見えた「ことばの過去」というのは、幻である。
 実際に、そのことばの原典を知っている高橋にとって「ことばの過去」は幻ではない。それは三十歳の母にとって十七歳の少女の肉体が幻ではなく、はっきりした過去であるのと同じように幻ではない。ただ、その十七歳の少女が生きていた時代をいっしょに生きていない「ぼく(高橋)」にとって幻であるに過ぎない。

 ちょっとごちゃごちゃしてきたが……。

 私は高橋が書いていることばの「過去」(出典、原典)を知らない。けれど、そのことばを読むときと、そこに「手触りのある過去」を感じる。それがはっきり動いているのを感じる。
 このときの私の感覚は、たぶん、「泳ぐ母」のなかで高橋が書いている「十七歳」の少女の肉体を見た記憶にとても似ていると思うのである。
 
 また、こんな書き方をすると飛躍が大きすぎるが。
 高橋は、「いま」ことばを書きながら、そのことばのなかに、やはり「過去」を感じているとも私には思える。「十七歳」の少女の肉体をリアルに感じるように、何か「過去」を感じ、感じるがゆえに、それをことばにしていると思える。
 たとえば「泳ぐ母」の2行目の「水練」。
 「水泳」でも「泳ぎ」でもなく「水練」ということばをつかうとき、その「練」の文字のなかにある不思議な「肉体」の動き。そして、それが「覚えた」ということばと結びつくとき、いっそう強くなる「肉体」の意識。「肉体」の感覚。
 「覚える」というのは、いつでも「肉体」で「覚える」ことである。
 そして、この「肉体」で「覚える」ということこそ、「ことば」の奥深いところの「過去」なのだ--というのは、まあ、私の考えなのだけれど。
 (田村隆一「帰途」に関する「日記」を参照してください。)




高橋睦郎詩集 (現代詩文庫 第 1期19)
高橋 睦郎
思潮社
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田中郁子『雪物語』(2)

2011-10-29 13:59:59 | 詩集
田中郁子『雪物語』(2)(思潮社、2011年09月30日発行)

 田中郁子の書いている「時間」と「世界」、「わたし」を超えて「わたしたち」となる「肉体」。その不思議さ。その深さ。その豊かさ。
 詩集を読みながら、傍線をひいたところが何か所もある。その一部と、そのときふと思ったことがらを、ただ書き記してみる。

降りやまぬ雪の日の遠い夢の中で 女は私の眠りをひたすらねむり 私はもう誰のものでもないない眠りをねむった
                                (「雪物語」)

 「私」と「女」は区別がない。「男」ははっきり区別されるはずだが、--つまり、そこにセックスが存在するのなら、セックスが可能であるためには「私」と「男」は別個の存在でなければならないはずだが、不思議なことに男をとおして「私」と「女」の区別がなくなる。そこには「セックス」という「こと」があるだけなのだ。
 「私」は「男」であってもかまわない。
 この詩には、馬も登場するが、その馬であってもかまわない。
 何よりも「雪」が「私」であり、「女」であり、「男」であり、「馬」なのだ。
 「雪」のふる日には、そういうことが起きるのだ。
 いま引用した部分に先立って、次の部分のがある。

女は瞬きもせずに一点を見つめてい 男は降る雪の中 杉山に出かけたが夕刻になっても帰らなかった 「あの人はまた白い馬に出会ったのだわ 訪ねてくる友人もなくさみしくて」 女の声はたった昨日の私の声のようだった

 ここで書かれている「ようだった」は「想像」ではなく、まさしく「そのもの」なのだ。昨日の私の声なのだ。それは昨日の私なのだ。そんな具合に、時間を超えて、いや時間を超えるからこそ、その瞬間に、ひとりひとりの区別もかき消され、そこにもし区別があるとしても、それはただそれを思うとき浮かび上がってくる区別に過ぎない。「こと」を明確にするためにあらわれる「もの」(存在)にすぎない。「こと」のなかでひとは「私」になり「女」になり「男」になり「馬」になる。そして、「雪」にもなる。

いきなり糸きりばさみを投げつける
キンとタタミにはねかえる
それはたった昨日の断片
                           (「たどりつけば憶う」)

 この「昨日」とはいつのことか。きょうが10月29日なら、それは10月28日か。そうではない。はるか前のことである。何年も前のことである。けれど、思い起こすときそのあいだの「時間」は消えて「昨日」になる。
 過去はいつでも「昨日」である--だけではなく、1秒前、いや、1秒前ですらなくて「いま」なのである。
 同じ詩の別の部分。

暗い山峡のきびしい林業の日々が板戸に残る
それはたった一つ前の世代のこと

 「一つ前の世代」。それは年にすれば10年か20年か、あるいは 100年か、それがどのように数えられようとも「一つ」という「単位」にくくられてしまう。
 田中の時間はいつでも「ひとつ」に、つまり「いま」に集約する。
 「いま」は「過去」であり、「いま」のなかに「過去」があるから、「いま」は同時に「未来」である。つまり「永遠」なのだ。

人語が絶えた家ではどこかふしぎな音がする
しかし何年何十年とながく孤立すると
ふと詩文のこころを取り戻すことがあるのか
こっそりとささやきはじめている
                                (「風の家」)

 「人が絶えた」ではなく「人語」と田中は書く。その「人」と「語」のあいだにあるものを田中は見ている。ひとは「語」と出会う。「語」のなかで「わたし」と「他者」が「ひとつ」になるということだろう。
 もし、誰とも出会うことができなかったら「語」はどんなぐあいに変化する。
 「こころ」を取り戻す。つぶやく。そのときの「こころ」とは「わたし」が「わたし」に出会うことによって生まれる。「孤独」である。
 けれど、とても不思議なのは、田中がこうしてことばにするととき、「家」の「孤独」は消える。「私」の「孤独」も消える。「家の孤独(こころ)」と「私の孤独(こころ)」が出会い、「一つ」に「合わさって」、そこに「世界」が生まれる。

女はいつもうすい衣ひとつで出たり入ったり
くりかえしくりかえし 雪に混じって形を結ばない
雪の降る向こうへ向こうへ遠ざかっていく
わたしも向こうへ向こうへ体を移していくのだが
                            (「あれは向こうへ」)

 「くりかえしくりかえし」「向こうへ向こうへ」、さらに「向こうへ向こうへ」。田中は反復する。反復するとき、そこに必然的に「合う」が生まれる。くりかえすとき、その行為へ「複数」であるはずである。1回、2回、3回と「複数」であることが繰り返すことなのだが、それは「外形」のことであって、その行為の内側では、くりかえせばくりかかすほど、その行為が「ひとつ」になる。揺らぎのないものになる。
 「向こうへ向こうへ」はもっと不思議だ。と向こうへ向こうへと遠ざかっていけばいくほど、それは「肉体」のなかの奥深く、とても「近い」どこかへ--つまり、けっして忘れることのできないところへ近づいていく。
 まるで「焦点」のように「一つ」を通り越して「無」になるように。
 田中の書いている「一つ」(合体)は「無」なのだ。
 「無」をくぐりぬけるからこそ、その瞬間に、「わたし」は何にでも「なる」。「わたし」が「わたし」以外のものに「なる」ことを邪魔するものが何もない--その何もないが、「無」なのである。

帽子がこんなに年月を保存するなんて
いつの間にかわたしを脱ぐなんて
                               (「萩の家」)

 「年月」と「思い出」はここでは同じことばとしてつかわれている。そして、その「年月」というのは、「保存」ということばがとてもおもしろいけれど、遠くにあるのではない。「いま/ここ」にある。
 その「いま/ここ」にある「時間」によって、「いま/ここ」がゆっくりと過去へとときほぐされてゆく。ほどかれてゆく。そうして「いま/ここ」が「過去」と「一つ」になる。
 --そう思ってみても、というか、その思いを超えて……。
 「わたしを脱ぐ」の「わたし」がとても不思議で、とても魅力的だ。「わたし」とは「田中」? それとも「帽子」?
 つきつめようとするとわからなくなる。
 どっちでもいいのだ。あるいは、どっちでもあるのだ。
 そう思ったときの、この瞬間の、不思議な愉悦。
 私(谷内)が、「帽子」か「わたし(田中)」になってしまったような気持ちになる。 その詩のつづき、そして、最後。

また 呼ばれているような気がしてふりむくと
若い母親が買ったばかりの帽子を着せたわたしを抱いて
オイデオイデをさせているのでした
それはバイバイだったのかも知れません

 この、どちらでもありうる「世界」の、愉悦。その美しさ。哀しさ。いとおしさ。

その名は「盗人萩・盗賊室内に潜入し足音せぬよう蹠(アシウラ)を側だて其の外方をもって静か歩行する其の足跡が莢(サヤ)の形状相類するによる……」とある その間わたしは日常から抜け出していた
                             (「ヌスビトハギ」)

 図鑑で「ヌスビトハギ」を調べる。そのことばを追う。「その間わたしは日常から抜け出していた」。抜け出して、どうしていたのか。そこに書かれている「ことば」、ことばの向こうにある「こと」と「一つ」になっていたのだ。
 「遠い何か」と「一つ」になっていて、そして、そこからまた「日常」に戻ってくる。その往復と、繰り返し。 

 田中は、時間を往復する。世界を往復する。そして、複数の「いのち」になることで、田中自身の「いのち」を「一つ」にする。


ナナカマドの歌
田中 郁子
思潮社
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