高橋睦郎『何処へ』(書肆山田、2011年10月20日発行)
高橋睦郎のことばには「背後」がある。「歴史」あるいは「過去」がある。だから劇的である。
それは「芝居」の構造に非常によく似ている。
「芝居」(戯曲)と「小説」の違いは、芝居では「過去」が説明されない。役者は「過去」を背負って舞台に登場する。舞台に登場したとき、役者はすでに生きた過去をもっていて、役者が動いていくとき、その動きの中に、つまり「いま」が「未来」へと突き進んでゆくときに、その動きの中に過去が噴出する。ぱっと飛び散る。そして「いま」を大きく変化させる。それが芝居だと私は思っている。
そのときの役者の肉体、戯曲のことばの動きに、何か通じるものがある。「小説」のように、実はこれこれにはこういう過去があって--と過去を振り返ったりはしない。「いま」のなかを動くときに、ことばの「過去」が噴出する。
「肉体という都市」の書き出し。
「あの都市」とは「どの」都市か。知っている人は知っている。分かっている人は分かっている。私は「モンス・デジデリオ」ということばが「画家」の名前か、「都市」の名前かも判断がつかず--そして何の根拠ももたずに画家の名前だと思うのだが、その「根拠」のことを私は「ことばの過去」と呼ぶのである。「モンス・デジデリオ」を知っている人は(分かっている人は)、当然、「あの都市」が分かる。そして「崩壊」も分かる。そういう「分かる」ことがら、「過去」を「いま」のなかに噴出させながら「画集を見るべきだ」と迫る。そして、そのとき、さらにことばの奥から噴出してくるのは「あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由」という「過去」である。そこには、「あの都市」の「あの」と同じように「そのようにも」の「その」がある。分かる人にしか分からない「過去」がある。
で、この「分からない過去」が凝縮されたことばが展開する世界というのは、「過去」が分からないゆえに何のことかはっきりしないのだけれど--でも、なぜか、分かるのだ。それはまさに芝居と同じで、そこにある「肉体」が動くので、その「肉体」に引きずられてしまうということである。役者の特権的な肉体と同じように、高橋のことばは特権的に動いている。その特権の強さが、高橋の詩の魅力である。
と、こんな抽象的なことを書いても感想にならないかもしれない。けれど、一度は書いておきたかったことなので、書いておく。
高橋のことばは特権的である。「過去」を背負っている。それは高橋が多くの「文学」をくぐりぬけてことばを動かしている。ひとつのことばには、必ず「過去」という「文学」がある--ということでもある。
たとえば「モンス・デジデリオ」は特別の「過去」をもち、また「画集」は特別の画集である。「見るべきだ」ということばさえ、「いま」を突き破る特権をもっている。「理由」をもっている。
あ、また、同じ「抽象」を繰り返してしまった。
「特権」の印象がうすい(弱い?)作品を読み、そこから私の感想を動かしていった方がいいのかもしれない。
「泳ぐ母」を読んでみる。
ここに書かれていることばは、「文学」の「過去」をもっているというより、高橋自身の「過去」を噴出させる詩である。--と、一見、見える。
「遠い島の病院」から「ぼく(高橋)」に母が息を引き取ったと電話が入る。それを聞きながら高橋は小学生のころを思い出す。泳ぐ高橋のかたわらを母が泳いで去っていく。そういうことを思い出す。
ところが。
その母は、実は、「十数年前」の母、「十七歳」の母である。そんなことは、実際にはありえない。だからこそ高橋も「変幻」ということばを差し挟んでいる。
しかし、この不思議な「幻」、その「記憶」こそ、高橋のことばの運動をそのままあらわしているように私には思える。
高橋(ぼく)が思い出したのは、実際の母ではなく、母が母になる前の少女である。その少女は高橋の生まれる前のことであるから、高橋はその少女を知らないはずである。しかし、高橋には、それが見える。
知らないものが、なぜ、見えるのか。
それは、人がそれぞれに「過去」をもっているからである。「いま」ここにいる母には「過去」がある。十七歳の夏という過去が母にもあるはずである。その過去が、「いま」の母から見える--そういうことは、実際にあるのだ。
高橋は十七歳の母(少女)を知らない。知らないけれど、いまの(つまり三十歳くらいの--十七歳+小学三年生の年齢=三十歳くらいか)姿の向こうに、少女の姿が思い浮かぶということがある。その姿を、あたかも知っているもののように明確に思い浮かべることができるときがある。
いや、これは正確ではない。正確には、三十歳の女(母)の「肉体」のなかから、十七歳のときのままの「肉体」が噴出してくるのを、私たちは見る瞬間がある。リアルに感じ取ることができる瞬間がある。
人には「過去」があり、その「過去」が突然「いま」の「肉体」を揺さぶるのである。そして、その揺さぶりのなかに、突然、過去の肉体が動くのである。
すぐれた役者の芝居を見ていると、その「役」の人物がどんな「過去」をもっているか、ふと見えることがあるように……。
この「母の肉体」から、知らないはずの「過去」、「十七歳の肉体」が噴出してくるのを見たときのように。
あることばのなかから、知らないはずの「過去」が噴出してくるのを見ることがある。高橋のことばにふれると、いまそこに書かれていることば以外に、そのことばの「過去」が見える瞬間がある。
このとき見えた「ことばの過去」というのは、幻である。
実際に、そのことばの原典を知っている高橋にとって「ことばの過去」は幻ではない。それは三十歳の母にとって十七歳の少女の肉体が幻ではなく、はっきりした過去であるのと同じように幻ではない。ただ、その十七歳の少女が生きていた時代をいっしょに生きていない「ぼく(高橋)」にとって幻であるに過ぎない。
ちょっとごちゃごちゃしてきたが……。
私は高橋が書いていることばの「過去」(出典、原典)を知らない。けれど、そのことばを読むときと、そこに「手触りのある過去」を感じる。それがはっきり動いているのを感じる。
このときの私の感覚は、たぶん、「泳ぐ母」のなかで高橋が書いている「十七歳」の少女の肉体を見た記憶にとても似ていると思うのである。
また、こんな書き方をすると飛躍が大きすぎるが。
高橋は、「いま」ことばを書きながら、そのことばのなかに、やはり「過去」を感じているとも私には思える。「十七歳」の少女の肉体をリアルに感じるように、何か「過去」を感じ、感じるがゆえに、それをことばにしていると思える。
たとえば「泳ぐ母」の2行目の「水練」。
「水泳」でも「泳ぎ」でもなく「水練」ということばをつかうとき、その「練」の文字のなかにある不思議な「肉体」の動き。そして、それが「覚えた」ということばと結びつくとき、いっそう強くなる「肉体」の意識。「肉体」の感覚。
「覚える」というのは、いつでも「肉体」で「覚える」ことである。
そして、この「肉体」で「覚える」ということこそ、「ことば」の奥深いところの「過去」なのだ--というのは、まあ、私の考えなのだけれど。
(田村隆一「帰途」に関する「日記」を参照してください。)
高橋睦郎のことばには「背後」がある。「歴史」あるいは「過去」がある。だから劇的である。
それは「芝居」の構造に非常によく似ている。
「芝居」(戯曲)と「小説」の違いは、芝居では「過去」が説明されない。役者は「過去」を背負って舞台に登場する。舞台に登場したとき、役者はすでに生きた過去をもっていて、役者が動いていくとき、その動きの中に、つまり「いま」が「未来」へと突き進んでゆくときに、その動きの中に過去が噴出する。ぱっと飛び散る。そして「いま」を大きく変化させる。それが芝居だと私は思っている。
そのときの役者の肉体、戯曲のことばの動きに、何か通じるものがある。「小説」のように、実はこれこれにはこういう過去があって--と過去を振り返ったりはしない。「いま」のなかを動くときに、ことばの「過去」が噴出する。
「肉体という都市」の書き出し。
モンス・デジデリオ あの都市の崩壊にこだわりつづけた
謎の画家の画集は見たか まだならぜひ見るべきだ と
あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由は 何だったか
「あの都市」とは「どの」都市か。知っている人は知っている。分かっている人は分かっている。私は「モンス・デジデリオ」ということばが「画家」の名前か、「都市」の名前かも判断がつかず--そして何の根拠ももたずに画家の名前だと思うのだが、その「根拠」のことを私は「ことばの過去」と呼ぶのである。「モンス・デジデリオ」を知っている人は(分かっている人は)、当然、「あの都市」が分かる。そして「崩壊」も分かる。そういう「分かる」ことがら、「過去」を「いま」のなかに噴出させながら「画集を見るべきだ」と迫る。そして、そのとき、さらにことばの奥から噴出してくるのは「あなたがそのようにも都市の崩壊にこだわった理由」という「過去」である。そこには、「あの都市」の「あの」と同じように「そのようにも」の「その」がある。分かる人にしか分からない「過去」がある。
で、この「分からない過去」が凝縮されたことばが展開する世界というのは、「過去」が分からないゆえに何のことかはっきりしないのだけれど--でも、なぜか、分かるのだ。それはまさに芝居と同じで、そこにある「肉体」が動くので、その「肉体」に引きずられてしまうということである。役者の特権的な肉体と同じように、高橋のことばは特権的に動いている。その特権の強さが、高橋の詩の魅力である。
と、こんな抽象的なことを書いても感想にならないかもしれない。けれど、一度は書いておきたかったことなので、書いておく。
高橋のことばは特権的である。「過去」を背負っている。それは高橋が多くの「文学」をくぐりぬけてことばを動かしている。ひとつのことばには、必ず「過去」という「文学」がある--ということでもある。
たとえば「モンス・デジデリオ」は特別の「過去」をもち、また「画集」は特別の画集である。「見るべきだ」ということばさえ、「いま」を突き破る特権をもっている。「理由」をもっている。
あ、また、同じ「抽象」を繰り返してしまった。
「特権」の印象がうすい(弱い?)作品を読み、そこから私の感想を動かしていった方がいいのかもしれない。
「泳ぐ母」を読んでみる。
泳ぐ母を見たことがある ただ一度
ぼくが水練を覚えた 小学三年生の夏
繋がれて水に浮かぶ舷(ふなべり)に つかまっていると
いきなり白い手が ぼくの日焼した手の横に
見ると濡れたシュミーズの母 たちまち泳ぎ去った
「何年ぶりかしらん」眩しい笑みと声音(こわね)を残して
たしかにそこにいたのは その時より十数年前
ぼくを産むはるか以前の お下げ髪の女学生
どんな衝動が その時の母を少女に戻したのか
いま息を引き取ったと 遠い島の病院から
電話があった朝 思い浮かんだのは 泳ぐ母
七十八歳から十七歳に戻り 泳ぎ去る母
泳ぐ後ろ髪は いまも十七歳のまま
変幻してやまない 昼下がりの雲の塔の下
息子は夏ごとに老いを重ねて 残される
肝斑(しみ)の手で この世の舷につかまったまま
ここに書かれていることばは、「文学」の「過去」をもっているというより、高橋自身の「過去」を噴出させる詩である。--と、一見、見える。
「遠い島の病院」から「ぼく(高橋)」に母が息を引き取ったと電話が入る。それを聞きながら高橋は小学生のころを思い出す。泳ぐ高橋のかたわらを母が泳いで去っていく。そういうことを思い出す。
ところが。
その母は、実は、「十数年前」の母、「十七歳」の母である。そんなことは、実際にはありえない。だからこそ高橋も「変幻」ということばを差し挟んでいる。
しかし、この不思議な「幻」、その「記憶」こそ、高橋のことばの運動をそのままあらわしているように私には思える。
高橋(ぼく)が思い出したのは、実際の母ではなく、母が母になる前の少女である。その少女は高橋の生まれる前のことであるから、高橋はその少女を知らないはずである。しかし、高橋には、それが見える。
知らないものが、なぜ、見えるのか。
それは、人がそれぞれに「過去」をもっているからである。「いま」ここにいる母には「過去」がある。十七歳の夏という過去が母にもあるはずである。その過去が、「いま」の母から見える--そういうことは、実際にあるのだ。
高橋は十七歳の母(少女)を知らない。知らないけれど、いまの(つまり三十歳くらいの--十七歳+小学三年生の年齢=三十歳くらいか)姿の向こうに、少女の姿が思い浮かぶということがある。その姿を、あたかも知っているもののように明確に思い浮かべることができるときがある。
いや、これは正確ではない。正確には、三十歳の女(母)の「肉体」のなかから、十七歳のときのままの「肉体」が噴出してくるのを、私たちは見る瞬間がある。リアルに感じ取ることができる瞬間がある。
人には「過去」があり、その「過去」が突然「いま」の「肉体」を揺さぶるのである。そして、その揺さぶりのなかに、突然、過去の肉体が動くのである。
すぐれた役者の芝居を見ていると、その「役」の人物がどんな「過去」をもっているか、ふと見えることがあるように……。
この「母の肉体」から、知らないはずの「過去」、「十七歳の肉体」が噴出してくるのを見たときのように。
あることばのなかから、知らないはずの「過去」が噴出してくるのを見ることがある。高橋のことばにふれると、いまそこに書かれていることば以外に、そのことばの「過去」が見える瞬間がある。
このとき見えた「ことばの過去」というのは、幻である。
実際に、そのことばの原典を知っている高橋にとって「ことばの過去」は幻ではない。それは三十歳の母にとって十七歳の少女の肉体が幻ではなく、はっきりした過去であるのと同じように幻ではない。ただ、その十七歳の少女が生きていた時代をいっしょに生きていない「ぼく(高橋)」にとって幻であるに過ぎない。
ちょっとごちゃごちゃしてきたが……。
私は高橋が書いていることばの「過去」(出典、原典)を知らない。けれど、そのことばを読むときと、そこに「手触りのある過去」を感じる。それがはっきり動いているのを感じる。
このときの私の感覚は、たぶん、「泳ぐ母」のなかで高橋が書いている「十七歳」の少女の肉体を見た記憶にとても似ていると思うのである。
また、こんな書き方をすると飛躍が大きすぎるが。
高橋は、「いま」ことばを書きながら、そのことばのなかに、やはり「過去」を感じているとも私には思える。「十七歳」の少女の肉体をリアルに感じるように、何か「過去」を感じ、感じるがゆえに、それをことばにしていると思える。
たとえば「泳ぐ母」の2行目の「水練」。
「水泳」でも「泳ぎ」でもなく「水練」ということばをつかうとき、その「練」の文字のなかにある不思議な「肉体」の動き。そして、それが「覚えた」ということばと結びつくとき、いっそう強くなる「肉体」の意識。「肉体」の感覚。
「覚える」というのは、いつでも「肉体」で「覚える」ことである。
そして、この「肉体」で「覚える」ということこそ、「ことば」の奥深いところの「過去」なのだ--というのは、まあ、私の考えなのだけれど。
(田村隆一「帰途」に関する「日記」を参照してください。)
高橋睦郎詩集 (現代詩文庫 第 1期19) | |
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