詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子『ろうそく町』(3)

2011-10-13 23:59:59 | 詩集
伊藤悠子『ろうそく町』(3)(思潮社、2011年09月30日発行)

 「あなたにあうためには」という作品については一度書いたことがある。この詩は音がとても美しい。

アウローラ、あかつきのひかりよ
あなたにあうためには
はるばるといきてこねばならなかったのだろう
たどたどしくならねばならなかったのだろう

 「ア」ウローラ、「あ」かつき、「あ」なたに「あ」うために--とつながっていく「あ」の音の開かれた音が気持ちがいい。アウロー「ラ」、あ「か」つき、ひ「か」りの「ラ」「か」のなかにも母音の「あ」がある。
 たしか、前に感想を書いたとき、そういうことを書いたと思う。
 その「あ」の透明な美しさとは別に、3、4行目の濁音の音の豊かさも気持ちがいい。「いきてこねばならなかった」「ならねばならなかった」という音のかなの、濁音になるための強い「母音」の響き--肉を、肉体全体を響かせるような音の豊かさが、私は好きだ。
 こういう行を読むと、ああ、濁音のある国語でよかったと思う。
 「いきここねばならなかった」「ならねばならなかった」ということばのなかにある、ことばとことばの複合の感じもおもしろい。「いきてこねばならなかった」は「生きる+くる+ねばならない+かった」と四つの用言から成り立っている。(正しい? 文法など意識しないで書いている、読んでいる、というのが私のありようなので、まあ、書いていることがいいかげんかもしれない。)この用言が四つあるということと、濁音の組み合わせが、なんとも強い感じがするのである。
 この濁音の強い響きに呼応して、濁音がつづいていく。

まだ見えない目には
まなざしがあり
ほのかにふかいまなざしは
しらせをきいて
おとずれたものをなでた
やがて目がみえるようになれば
そのまなざしは
あなたのたましいのふところにしだいにしまわれ
あなたじしんをてらすのだろうか
それとも
ときおりこぼしてくれるのだろうか

 「ときおりこぼしてくれるのだろうか」というのは、なんのことかわからないのだが、わからないからこそ、繰り返し読みたくなる。
 くりかえされる濁音の豊かさと、きっと何かがつながっている、と思うのだ。
 私は、辞書で引いて調べる「意味」よりも、耳で感じる何かの方を信じている。つまり、息が声帯をふるわせ、母音になり、その母音が口のなか(で、いいかな?)のいろいろな器官の摩擦がつくりだす子音といっしょになって、声が音になる。そのとき、何かが肉体の奥へはねかえってくる。そのはねかえりの「感覚」の方が、「意味」よりも正確だと私は思っている。
 私は音痴だし、子ども時代にしみこんだ方言のアクセントがぬけないから、私の感じている「音」というのは、「正確」ではない--というか、他人と共有できないものなのかもしれないけれど、まあ、他人は関係ないのである。
 私自身の問題なのだ。

 伊藤のこの詩を読んでいると、明るい音がある。透明な音がある。その一方で濁音の複雑な音がある。そうして私には濁音の方がなんとも生命力があるように感じられる。この詩には美しいものと、強いものが交錯している。
 きっと、その美しさと強さがしっかりからみあったものが「アウローラ」という人(?)なのだと思うが、その人はあるときは「美しさ」あるいは「明るさ」(ひかりに代表される何か)でひとを引きつけ、また別のときは「豊かさ」「強さ」でひとを引きつける。その「豊かさ」「強さ」は「濁音」の、その「よごれ?」をぎゅっと結晶させるくらいの深い「闇」のようなものだ。
 ひとは明るく透明なものだけでは生きてはいけない。また暗く濁ったものだけでも生きてはいけない。それは出会いながら、他方を確かめ、自分自身を鍛える。なにか、そういう印象がある。
 こんな抽象的なことを書いても詩の感想にはならないのかもしれないけれど、私が感じるのは、そういうことである。
 明るさと暗さ、透明と濁り(不透明」が出会うとき、その瞬間、何かが、

こぼれる

 そんなことを書いていないのだとは思うのだけれど、私はそんなふうに読みたいのだ。
 私は私の耳に気持ちかいい音には寛容だが、不愉快な音、あるいは聞き取れない音には不寛容である--と少し反省もするのだけれど。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂
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フランク・キャプラ監督「素晴らしき哉、人生!」(★★★★)

2011-10-13 10:53:04 | 映画
監督 フランク・キャプラ 出演 ジェームズ・スチュアート、 ドナ・リード、ライオネル・バリモア、トーマス・ミッチェル、ヘンリー・トラヴァース

 情けは人のためならず――という諺はアメリカにもあるのだろうか。思い出してしまうね。
 この映画のどこが好きか、というと。
 最初の神様の会話。そして、クラレンスの天使。つまり、嘘ってわかるところ。現実ではなく「お話です」というスタイルを守っているところ。この映画がつくられた当時、上様や天使をほんとうに信じていた人がどれくらいいるかわからなけれど、まあ、いないよね。いないとわかっていて、それでもその「お話」に乗る――だまされる。
 なぜだろう。
 誰だって夢を信じたいということだね。真実を通り越して、こうあってほしいと願うこと――その願いが、「お話」を借りることでさらに純粋になる。浄化される。これが「現実」として表現されたら、どうしたって「嘘にきまっている」と思ってしまう。「お話」だと、「嘘だろう、嘘にきまっている」と言えないよね。
 ジェームズ・スチュアートも、なんというのだろう、実直、正直という感じを具現化したような役者だね。美男子じゃない。クラーク・ゲーブルみたいな美男子が演じると、嘘丸出しになる。美男子じゃないから、顔にまどわされず、行動を見てしまう。
 それから、とってもおもしろいのが、もしジェームズ・スチュアートがいなかったら・・・という世界が、絶対的な「悪徳」の世界ではない点。マフィアが街を支配しているとか、みんなが貧困で苦しんでいるとか、ではない。なんとなくすさんだ世界という点。だれでもはまり込んでしまう世界。酔っ払いや売春婦がいる――ちょっと堕落した(?)感じ。
 それが「世界」の現実だとしても、まあ、近づかなければ幸せに生きていくひとはいるよね。(それに、映画製作当時はどうかわからないが、いまは、その堕落した世界がそっくりそのまま現実だから、余計にそう思うのかもしれないけれど。)
 描かれる「幸せ」がつましいのも、いいね。妻がいて、子どもがいて、みんなが「いい人」と尊敬してくれる。大金持ちでもない。金さえあれば何でも手に入るではなく、信頼されれば金さえ手に入る――この、まさに庶民の夢が、きちんと「お話」で語られる。
 これは、いいなあ。



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