詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『何処へ』(3)

2011-10-31 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(3)(書肆山田、2011年10月20日発行)

 いちばん優れた読書感想文はどういうものか。私はときどき思うのだが、小学生が切羽詰まって書く夏休みの宿題の読書感想文である。本を読んでいる時間はない。だから、タイトルだけ読んで、適当に内容を想像し、その想像した内容についての感想を書く。そこにあらわれる「正確さ」、あるいは「正直」は、ただその少年の「思っていること」以外は書かれていないという正直さである。無意識の内に動いていく欲望がそこにある。
 --これは、私の、夢というより、欲望そのものかもしれない。
 そして、強引に言ってしまえば、博覧強記の高橋睦郎の夢ではないか、欲望ではないかとも、私は思うのである。
 夏休みの宿題の捏造--そこにある欲望は、ことばを「原典」から解放し、自由に動かし、それがどこまで動いてゆけるかに賭ける悦びである。もちろん宿題に取り組む少年はそういうことは意識はしない。けれど、そういう悦びが肉体のどこかにある。

 きのう書けず、ふと、書けないなあと思ったときに思い浮かんだのが、いま書いたようなことなのだ。
 そして、きょう私がここで感想を書くのは「冥府行」である。この詩には「三つの短詩形によるエセーおよび自註ノート」というサブタイトルがついている。実際に「自註ノート」がついている。なぜ、高橋がこの詩を書いたのか。そして、どういう「意味」(意図)をこめたのか。--私は、この「自註ノート」を読まずに感想を書く。高橋の「意味」(意図)を無視して、ただ、それに先立つ「詩」を読む。小学生が本のタイトルを読んで感想を書くように、作者の「意図」などおかまいなしに、詩の部分だけを読んで感想を書きたい。
 私の感想が、高橋の「意図」に重なるとしても偶然にすぎない。まったく違ったことを書いてしまうにしても、それはしかし偶然ではなく、必然である。高橋のことばと私が出会ったときに起きる「必然」である。「自註」に従って読むとき、また別の「必然」と「偶然」があらわれるだろうけれど、それはまた別問題である。

 高橋の書いている詩の部分は、俳句、短歌、詩の三部構成で、それぞれ共通のタイトルをもっている。たとえば「杖」は次のように書き分けられている。

命終(みやうじゆう)やわが杖芽吹くこともなく

わが杖芽吹くなければうつしゑの海やま越えて影の國指す

杖を植ゑて水を遣(や)る。死者を裸にし、女を跨(またが)らせる、ただし未通女(おとめ)たるべきこと。

 この三つに共通するのは、杖を植えることである。杖はもちろん生きている木ではないから、それが芽吹くとはいうことはない。そのことに対して、俳句は「命終」ということばを向き合わせてている。短歌は「影の國」ということばと向き合わせている。詩は、エロチックに死と処女のセックスを向き合わせている。
 ここから私が感じること。それは。
 高橋は、「杖」ということばにふれた瞬間に動きだす高橋の「文学の記憶」を「原典」から解放して、自由にしているということである。博覧強記の高橋は「杖」ということばからいくつもの作品を思い出すだろう。いくつものシーンを思い出すだろう。そのひとつひとつは、「署名」をもっている。そして「意味」をもっている。その、そのことばが「作品」の内部に閉じこめられているときにもっている「意味」(作者がそこで言おうとしたこと)から解放し、いくつもの作品をつきまぜて(かきまぜて)、高橋の「肉体」に残ったものだけを自由に動かす。高橋は、ここでは、まるで小学生が切羽詰まって感想文を書くように、「杖」ということばから思い浮かんだこと(自分が知っていること)をつなぎあわせ、自分の欲望を書いてしまうのだ。
 ひとつのことばを手がかりに書く。これはひとつのことばに縛られることでもある。けれど、縛られながら、そのことばを思うときに浮かんでくる何か--肉体が覚えている何かを動かしてみる。そうすると、その動きにあわせて、何かが解放される。「書物」が解体される。「ことばの原典」が解体される。
 それは、破壊。
 同時に、復元。
 ただし、「書物」という「作品」そのものの復元ではない。ことばの力の復元である。「原典」を離れても、ことばは動いて行ける。高橋の「肉体」と交錯しながら、「ことば」が「ことば自体の肉体」を取り戻して動いていく。
 その運動に高橋は寄り添っている。
 そうすることで、高橋自身も、高橋の「肉体」を取り戻している。

 高橋にとっては、「ことば」だけが「肉体」なのだ。三島由紀夫と双子のように「ことばの肉体」を生きている詩人だ、と私には思える。
 「ことば」を解放し、ことばの自由を目指すとき、高橋の「肉体」も自由になり、自然に動く。
 このことは、たとえばいま引いた俳句・短歌・詩の、それぞれのことばの「出典」を明確にすれば、より正確に高橋のしていることを説明することになるとは思う。つまり、誰それの作家の何々という作品のことばを踏まえて高橋はこのことばをつかっている云々と指摘すれば、高橋のしている解体と復元、解体と解放がより具体的にわかるはずである。けれども、私は、そういうことをしなくてもいいと思っている。どんなふうに「出典」探しをしたところで、では、なぜ、高橋がその「出典」を選んだかということはわからない。高橋の「欲望」の底にあるものまでは「出典」探しではつきとめられない。ことばの「好み」までは「出典」からはわからない。
 むしろ、「出典」を無視して、そこに動いていることば、いま、解放されて動いていることばの「本能」を見ていく方がおもしろい。高橋の「肉体」に、つまり無意識的に動いている「思想」に近づけると私は信じている。
 「杖」の次の作品は「坂」。

秋の坂ことごとく黄泉(よみ)へ傾斜なす

坂なべて黄泉比良坂(よもつひらさか)なるなればわれは黄泉路(よみじ)を辿るいざなぎ

棺は坂に沿って挽(ひ)け。挽歌(ひきうた)は逆歌(さかうた)たれ。

 「死」と結びついていることばが多い。これは「杖」と重ね合わせると、もっと濃厚に感じられる。高橋の肉体がいま、死というのもと接近してながらことばを動かしていることが実感できる。そこまで来ている死--というと不吉な予言のようで申し訳ないが、高橋のことばは、どこか死にあこがれながら動いている。誰もが体験する死--けれど、だれも体験していない死。死んでしまえば、書けないという矛盾。その矛盾とあらがいながら、ことばを解放しようとしている。
 それは死を生き返らせるというか、死を生き生きと生きる(死ぬ)ということにつながっている。「死」に「いま」はないのだけれど、高橋は死を「いま」にしたいと本能的に欲望している。そして、あらゆることばを「死」を「いま」にするために動かしているように思える。
 「死」を復元する欲望。
 高橋は「書物」を往復しながら、「書物」のなかにある「死を復元することばの力」を目覚めさせている。そのことばといっしょに動こうとしている。

 そして、このとき、高橋の本能は「文字」だけではなく「声」とも交錯している。「視力」だけではなく「聴力」、そして「喉力(こんなことばがあるだろうか?)」とも交錯しているのを私は感じる。高橋のことばは「書物」にどっぷりつかっている印象があるが、その「書物」は深い「音」をももっている。「音楽」をもっている。
 短歌を読むと、特にそれを感じる。

黄泉竈(よみつへ)に火取(ひど)りたる食摂(じきと)りし者わが父不帰(かへらず) 祖父(おほぢ)不帰

 「意味」ではなく、ことばの「音」の響きあいが、「肉体」を深くめざめさせていく。そういう「音楽」がある。
 ことばを解放し、音楽を解放し、そこから新しく何かが生まれてくる。たぶん、ことばが、新たに生まれてくる。すでに書かれているのだけれど、だれも書いていないことばが。本能の、欲望の、ことばが。



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