粒来哲蔵『蛾を吐く』(10)(思潮社、2011年10月01日発行)
「寓話」「寓意」というものについて考えるとき、「牛」という作品には、その「寓話」「寓意」というものが見つからない。あるのかもしれないが、私の考えている「寓話」「寓意」とは完全に違っている。
だからこそ(?)、ここに粒来の大事なものが書かれている--と私は思う。つまり、私にはとうてい考えられないこと、粒来だけの「世界」が書かれている。あまりに「粒来」的すぎて、「たとえ」が「たとえ」にならず、ことばが粒来のなかへ吸収されて行って、外へ出てこないのだ。(と、私は思った。)
「座敷牛」は「座敷犬」のようである。「牛」と書いているのだから「犬」ではないのだが、はじめて家に来た犬のように、靴下をくわえこみ、なにかの下へもぐりこんで寝る(穴蔵のように安全な場所を探して寝る)というのは、犬に似ている--と犬を飼っている私は思う。
というようなことは、どうでもよくて。
ようするに、書き出しからは「座敷牛」が私には何の「たとえ」、どんな「寓話」につながっていく存在なのかさっぱりわからない。その「わからない」ということだけを、私は書いておきたい。
これが「蛾を吐く」だったら、「寓意」はともかく、「蛾」が「血の固まり」であること、喀血されたものであること、と「比喩」(たとえ)とてしはっきりわかる。そして「血」を「蛾」という「たとえ」として書いたときから、「血」が「蛾」のように動き回ること、その「蛾」と「私(粒来--と仮定しておく)」が戦うということが予想できる。そこに「寓話」が成り立つだろうということも、まあ、わかる。私の勘違いにしろ、わかる。(「わかる」というのは、読者にとっては、作者を無視してそこに勝手な「物語」を投影できるということである。だから、間違っていても、ぜんぜん問題はないのだ。--と、私はかってに考えている。)
この、まったくわからない「座敷牛」が突然変化する。まず、「一匹(一頭?)」だった牛が「二つ」(と、粒来は書いている)になる。母と子牛である。そして、その「二つ」が「某日」、「連れ立って文机の下から這い出して屋外に消えた。」
「母と似ていたが母ではなかった」と粒来は書いている。これは、とてもおもしろい表現だと思う。そのあとには、きっと「母を思い出した。」ということばが省略されている。「母と似ていたが母ではなかった。だから、(だけれど、)母を思い出した。」この「母」を思い出すために(思い出させるために)、さっきの「座敷牛」がいる。「座敷牛」が子どもを産み、親子になるという関係がある。
その牛の「親子」が消えたとき、粒来の書いている「私」は、「母」を思い出す。
思い出した「母」を書くために、粒来は「座敷牛」を書いている。そして、その「座敷牛」から子どもが生まれる(生まれた)と書くのだ。その牛の「親子」はどこかへ消える。そのとき「母」が強く意識される。
牛の親子が消えたとき、粒来の書く「私」は、牛の子どもを少しも思い浮かべていない。
これが、この詩の大切なところだと思う。
思い浮かべるのは「母」につながることがらだけなのだ。
なぜ、子どもを思い浮かべないかというと、子どもは「私(粒来)」の「寓意」だからである。子どもが何かを思い浮かべるとき、そこに「女」があらわれ、「女」は「母」になる。
粒来は「母」を書いておきたかったのだ。
この詩集には何度も「母」が登場する。私は粒来のことを知らないし、粒来と粒来の母の関係も知らない。
「泡川 Ⅱ」に登場した「母」は川のなかへ消えている。その母の消えたことを、「私」は「手の温みが去って冷気が私の衿をかすめ、袖をかすめた」という記憶と共にもっている。「消える」ことによって、記憶が残っている。
「消える」と「残る」の矛盾が、そのとき、出会っている。
その矛盾の延長にあるのだと思うが、この「牛」では、「消えた母」が「母ではない」ということわりつきのなかで、甦っている。
粒来は、ただ、母を書きたかったのだと思った。「寓話」ではなく、「寓話」にはならない「母」、「寓意」をもたない「母」を描きたかったのだと感じた。
「老女の寝息は牛に似ていた。」というのは、私には、想像がつかないが--いや、これは嘘だ。私が子どものとき、私の家には牛がいたから、想像がつくつかないではなく、肉体でわかってしまって、想像する必要がないのだが、
あ、こんなにも粒来はいま母を思っているのだと感じると、この作品の「寓意(寓話)」からの逸脱がなんだか胸を熱くする。
「寓話」「寓意」というものについて考えるとき、「牛」という作品には、その「寓話」「寓意」というものが見つからない。あるのかもしれないが、私の考えている「寓話」「寓意」とは完全に違っている。
だからこそ(?)、ここに粒来の大事なものが書かれている--と私は思う。つまり、私にはとうてい考えられないこと、粒来だけの「世界」が書かれている。あまりに「粒来」的すぎて、「たとえ」が「たとえ」にならず、ことばが粒来のなかへ吸収されて行って、外へ出てこないのだ。(と、私は思った。)
某社の通販カタログで「座敷牛」を見た。おとなしく飼い易いと
ある。注文したら段ボール函に詰めて送られてきた。牛は函を開け
る前から消え入りそうな声で鳴きながら、函を揺さぶる気配だった。
開けてやって掌に載せ、こわごわ畳の上に置いた。すると函の底か
ら靄が立ちのぼり、辺り一面干草の匂いがした。牛は私の沓下を文
机の下に引きずり込んで、それを敷いて寝た。
「座敷牛」は「座敷犬」のようである。「牛」と書いているのだから「犬」ではないのだが、はじめて家に来た犬のように、靴下をくわえこみ、なにかの下へもぐりこんで寝る(穴蔵のように安全な場所を探して寝る)というのは、犬に似ている--と犬を飼っている私は思う。
というようなことは、どうでもよくて。
ようするに、書き出しからは「座敷牛」が私には何の「たとえ」、どんな「寓話」につながっていく存在なのかさっぱりわからない。その「わからない」ということだけを、私は書いておきたい。
これが「蛾を吐く」だったら、「寓意」はともかく、「蛾」が「血の固まり」であること、喀血されたものであること、と「比喩」(たとえ)とてしはっきりわかる。そして「血」を「蛾」という「たとえ」として書いたときから、「血」が「蛾」のように動き回ること、その「蛾」と「私(粒来--と仮定しておく)」が戦うということが予想できる。そこに「寓話」が成り立つだろうということも、まあ、わかる。私の勘違いにしろ、わかる。(「わかる」というのは、読者にとっては、作者を無視してそこに勝手な「物語」を投影できるということである。だから、間違っていても、ぜんぜん問題はないのだ。--と、私はかってに考えている。)
この、まったくわからない「座敷牛」が突然変化する。まず、「一匹(一頭?)」だった牛が「二つ」(と、粒来は書いている)になる。母と子牛である。そして、その「二つ」が「某日」、「連れ立って文机の下から這い出して屋外に消えた。」
後には空の段ボール函が残った。それを傾けて縁先にさし込む日
に曝すと、またしても函の底で動くものの気配があった。牛か--
と思い小躍りしたが、はいはい、ごめんなんしょと小声で呟きなが
ら出て来たのは、しなびた老女だった。最前の牛程の大きさで、物
腰が母と似ていたが母ではなかった。老女は縁側にちょこんと坐っ
て、巾着から極小の急須と湯呑みを取り出し、器用に茶を淹れて飲
みながら庭木の揺れに目をやった。くすんだ銀ぶちの眼鏡の奥で、
細い目がいっそう細くなった。
「母と似ていたが母ではなかった」と粒来は書いている。これは、とてもおもしろい表現だと思う。そのあとには、きっと「母を思い出した。」ということばが省略されている。「母と似ていたが母ではなかった。だから、(だけれど、)母を思い出した。」この「母」を思い出すために(思い出させるために)、さっきの「座敷牛」がいる。「座敷牛」が子どもを産み、親子になるという関係がある。
その牛の「親子」が消えたとき、粒来の書いている「私」は、「母」を思い出す。
思い出した「母」を書くために、粒来は「座敷牛」を書いている。そして、その「座敷牛」から子どもが生まれる(生まれた)と書くのだ。その牛の「親子」はどこかへ消える。そのとき「母」が強く意識される。
牛の親子が消えたとき、粒来の書く「私」は、牛の子どもを少しも思い浮かべていない。
これが、この詩の大切なところだと思う。
思い浮かべるのは「母」につながることがらだけなのだ。
なぜ、子どもを思い浮かべないかというと、子どもは「私(粒来)」の「寓意」だからである。子どもが何かを思い浮かべるとき、そこに「女」があらわれ、「女」は「母」になる。
粒来は「母」を書いておきたかったのだ。
この詩集には何度も「母」が登場する。私は粒来のことを知らないし、粒来と粒来の母の関係も知らない。
「泡川 Ⅱ」に登場した「母」は川のなかへ消えている。その母の消えたことを、「私」は「手の温みが去って冷気が私の衿をかすめ、袖をかすめた」という記憶と共にもっている。「消える」ことによって、記憶が残っている。
「消える」と「残る」の矛盾が、そのとき、出会っている。
その矛盾の延長にあるのだと思うが、この「牛」では、「消えた母」が「母ではない」ということわりつきのなかで、甦っている。
カタログを仔細に見ると、座敷牛と老女はセットで送られて来た
ものだったが、今になればそんなことはどうでもよかった。牛を載
せた掌に老女を坐らせる日が続いた。老女はこまめに働いて寧日な
かった。老女は私の掌の上でたまに居眠りをした。眼鏡がずり落ち
そうになると、家人がそっと外して巾着に収い入れた。老女の寝息
は牛に似ていた。
粒来は、ただ、母を書きたかったのだと思った。「寓話」ではなく、「寓話」にはならない「母」、「寓意」をもたない「母」を描きたかったのだと感じた。
「老女の寝息は牛に似ていた。」というのは、私には、想像がつかないが--いや、これは嘘だ。私が子どものとき、私の家には牛がいたから、想像がつくつかないではなく、肉体でわかってしまって、想像する必要がないのだが、
あ、こんなにも粒来はいま母を思っているのだと感じると、この作品の「寓意(寓話)」からの逸脱がなんだか胸を熱くする。
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