詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(10)

2011-10-10 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(10)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「寓話」「寓意」というものについて考えるとき、「牛」という作品には、その「寓話」「寓意」というものが見つからない。あるのかもしれないが、私の考えている「寓話」「寓意」とは完全に違っている。
 だからこそ(?)、ここに粒来の大事なものが書かれている--と私は思う。つまり、私にはとうてい考えられないこと、粒来だけの「世界」が書かれている。あまりに「粒来」的すぎて、「たとえ」が「たとえ」にならず、ことばが粒来のなかへ吸収されて行って、外へ出てこないのだ。(と、私は思った。)

 某社の通販カタログで「座敷牛」を見た。おとなしく飼い易いと
ある。注文したら段ボール函に詰めて送られてきた。牛は函を開け
る前から消え入りそうな声で鳴きながら、函を揺さぶる気配だった。
開けてやって掌に載せ、こわごわ畳の上に置いた。すると函の底か
ら靄が立ちのぼり、辺り一面干草の匂いがした。牛は私の沓下を文
机の下に引きずり込んで、それを敷いて寝た。

 「座敷牛」は「座敷犬」のようである。「牛」と書いているのだから「犬」ではないのだが、はじめて家に来た犬のように、靴下をくわえこみ、なにかの下へもぐりこんで寝る(穴蔵のように安全な場所を探して寝る)というのは、犬に似ている--と犬を飼っている私は思う。
 というようなことは、どうでもよくて。
 ようするに、書き出しからは「座敷牛」が私には何の「たとえ」、どんな「寓話」につながっていく存在なのかさっぱりわからない。その「わからない」ということだけを、私は書いておきたい。
 これが「蛾を吐く」だったら、「寓意」はともかく、「蛾」が「血の固まり」であること、喀血されたものであること、と「比喩」(たとえ)とてしはっきりわかる。そして「血」を「蛾」という「たとえ」として書いたときから、「血」が「蛾」のように動き回ること、その「蛾」と「私(粒来--と仮定しておく)」が戦うということが予想できる。そこに「寓話」が成り立つだろうということも、まあ、わかる。私の勘違いにしろ、わかる。(「わかる」というのは、読者にとっては、作者を無視してそこに勝手な「物語」を投影できるということである。だから、間違っていても、ぜんぜん問題はないのだ。--と、私はかってに考えている。)
 この、まったくわからない「座敷牛」が突然変化する。まず、「一匹(一頭?)」だった牛が「二つ」(と、粒来は書いている)になる。母と子牛である。そして、その「二つ」が「某日」、「連れ立って文机の下から這い出して屋外に消えた。」

 後には空の段ボール函が残った。それを傾けて縁先にさし込む日
に曝すと、またしても函の底で動くものの気配があった。牛か--
と思い小躍りしたが、はいはい、ごめんなんしょと小声で呟きなが
ら出て来たのは、しなびた老女だった。最前の牛程の大きさで、物
腰が母と似ていたが母ではなかった。老女は縁側にちょこんと坐っ
て、巾着から極小の急須と湯呑みを取り出し、器用に茶を淹れて飲
みながら庭木の揺れに目をやった。くすんだ銀ぶちの眼鏡の奥で、
細い目がいっそう細くなった。

 「母と似ていたが母ではなかった」と粒来は書いている。これは、とてもおもしろい表現だと思う。そのあとには、きっと「母を思い出した。」ということばが省略されている。「母と似ていたが母ではなかった。だから、(だけれど、)母を思い出した。」この「母」を思い出すために(思い出させるために)、さっきの「座敷牛」がいる。「座敷牛」が子どもを産み、親子になるという関係がある。
 その牛の「親子」が消えたとき、粒来の書いている「私」は、「母」を思い出す。

 思い出した「母」を書くために、粒来は「座敷牛」を書いている。そして、その「座敷牛」から子どもが生まれる(生まれた)と書くのだ。その牛の「親子」はどこかへ消える。そのとき「母」が強く意識される。
 牛の親子が消えたとき、粒来の書く「私」は、牛の子どもを少しも思い浮かべていない。
 これが、この詩の大切なところだと思う。
 思い浮かべるのは「母」につながることがらだけなのだ。
 なぜ、子どもを思い浮かべないかというと、子どもは「私(粒来)」の「寓意」だからである。子どもが何かを思い浮かべるとき、そこに「女」があらわれ、「女」は「母」になる。
 粒来は「母」を書いておきたかったのだ。

 この詩集には何度も「母」が登場する。私は粒来のことを知らないし、粒来と粒来の母の関係も知らない。
 「泡川 Ⅱ」に登場した「母」は川のなかへ消えている。その母の消えたことを、「私」は「手の温みが去って冷気が私の衿をかすめ、袖をかすめた」という記憶と共にもっている。「消える」ことによって、記憶が残っている。
 「消える」と「残る」の矛盾が、そのとき、出会っている。
 その矛盾の延長にあるのだと思うが、この「牛」では、「消えた母」が「母ではない」ということわりつきのなかで、甦っている。

 カタログを仔細に見ると、座敷牛と老女はセットで送られて来た
ものだったが、今になればそんなことはどうでもよかった。牛を載
せた掌に老女を坐らせる日が続いた。老女はこまめに働いて寧日な
かった。老女は私の掌の上でたまに居眠りをした。眼鏡がずり落ち
そうになると、家人がそっと外して巾着に収い入れた。老女の寝息
は牛に似ていた。

 粒来は、ただ、母を書きたかったのだと思った。「寓話」ではなく、「寓話」にはならない「母」、「寓意」をもたない「母」を描きたかったのだと感じた。
 「老女の寝息は牛に似ていた。」というのは、私には、想像がつかないが--いや、これは嘘だ。私が子どものとき、私の家には牛がいたから、想像がつくつかないではなく、肉体でわかってしまって、想像する必要がないのだが、
 あ、こんなにも粒来はいま母を思っているのだと感じると、この作品の「寓意(寓話)」からの逸脱がなんだか胸を熱くする。



粒来 哲蔵
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャン・イーモウ監督「女と銃と荒野の麺屋」(★★★★)

2011-10-10 22:37:46 | 映画
監督 チャン・イーモウ 出演 ヤン・ニー、ニー・ダーホン、スン・ホンレイ、シャオ・シェンヤン、チェン・イエ

 コーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」のリメイク--ということなんだけれど、これ、何? びっくりしてしまうなあ。中国のどこかなのだけれど、とっても変な風景。岩山に赤い模様が入っている。血の色? 荒涼としている。とても人が住んでいないような山の中なのに麺屋があって、どうも商売がなりたっている。(らしい。)道がなぜか広い。--ということは、どうでもよくて。
 いや、岩山の赤い色は、どうでもよくないなあ。見逃したくない。空の色も、空気の色も。
 自然(ロケーション?)は別にしても、おもしろいシーンがいっぱいある。
 警察(騎馬隊)がやってくるとき、パトカーのサイレンのように音が鳴る。旗(?)のところに風車がついていて、それが音を出すのである。道を開けろ、ということらしいけれど、誰もいないじゃないか。必要あるの? わざわざ警察がこれから行くぞ、と「宣伝」している感じだねえ。
 ラーメン(?)をつくるときの生地を皿回しのように回す「名人芸」。この「芸」、いったいストーリーに関係ある? ないですねえ。騎馬隊のサイレンと同じように、何の意味もない。でもね、こういう無意味が映画のいちばんおもしろいところだねえ。皿回し(?)でできた麺、それに熱いスープをかけて、一丁あがり--なんだかわからないけれどおいしそう。
 いいなあ。
 ストーリーというか、全体の話の流れは「観客」だけが知っていて、登場人物はいったい何が起きているかわからないままクライマックスへ突き進んで行くというストーリーの展開と、映画の細部の無意味さが、不思議なくらいにぴったりする。「息が合っている」。まあ、コーエン兄弟の「脚本」が下敷きだから、そうなるのかもしれないけれど。
 悪徳警官が、「現場維持」に目配せするところも、バカみたいでおもしろい。証拠を残したくないというのが「理由」だけれど、くそ丁寧で笑えるねえ。
 紙芝居(?)の登場人物の顔をくりぬいて、そこに人間の顔をあてはめ、芝居をするばかばかしい「夫婦喧嘩」は、びっくりするなあ。だれでも「現実」を「芝居」で確認したいんだねえ--なんて、哲学的(?)なことを考えてしまうなあ、私って、哲学好きかなあ、なんちゃって。
 殺され、死んでいるはずの麺屋の主人が、ご都合主義的に半分生き返ったり、それを利用してユウレイ(幻想)になったり、まあ、なんでもあり、ですね。
 金庫の暗証番号(?)がそろばんになっているのもうれしいねえ。アメリカじゃありえない。
 何もかもが「でたらめ」なんだけれど、映像として完璧。--この矛盾した感じが、ねえ、映画以外の何物でもない。
 あらゆるシーンが、映画、映画、映画、映画、映画という感じ。
 ラストのラスト。
 コーエン兄弟のスタイリッシュな暴力描写が中国の古い時代のもろもののもののなかで「リメイク」される瞬間--いやあ、うれしくなるなあ。吊るした革袋からこぼれる酒(水?)、落ちて砕ける陶器・食器の美しさ。
 これで、
 ここに豪華な音楽が重なれば最高だね。パトカーのサイレンを再現するくらいなのだから、なんとか工夫してほしかったなあ。それがあれば 100点つけてもいいなあ、と思った。


コーエン・ブラザーズ スペシャルBOX [DVD]
クリエーター情報なし
東芝デジタルフロンティア
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする