松本秀文「速度太郎の冒険」(「ウルトラ」14、2011年08月31日発行)
松本秀文「速度太郎の冒険」は「第3部 純粋詩性批判あるいは諷刺家伝」というサブタイトルがついている。「前書き(?)」に「現代詩の不毛な言説と作品の不毛に徹底的に反抗する。」とあって、それから、それぞれの作品に番号がふられて、延々とつづく。詩集一冊分くらいはある作品群である。
何が書いてあるのか--というと、実は私にはわからない。
たとえば「4・蒟蒻残酷物語」の書き出し。
「わからない」とはいっても、そこに書かれていることばのひとつひとつを「知らない」わけではない。全部「知っていることば」である。でも、「わからない」。これは、ことばとことばが結び合って、その結合がつくりだす「意味」がわからないということになる。
でも、詩で最初に印象に残るのは「意味」ではなく、そこに書かれていることばの運動の仕方だ。ことばの動き方だ。ことばの肉体のつかい方だ。
たとえば、いま、私が書いたばかりの、ことばとことばの結び方。
そして、それは「わかる」よりも「わからない」方がおもしろい。あれっ、これはどういうこと? 何が書いてある? そういう疑問より先に、次はどんなぐあいに動く?とどきどきするのだ。そして、わからないけれど、何かありそう--そういう期待があふれてくるとき、おもしろいということになる。「わからない」、けれど「おもしろい」。「わからない」と「おもしろい」は矛盾しないこともあるのだ。
だから、詩の「意味」はどうでもいい--というと申し訳ないけれど、この松本のことばの群れをつらぬく「意味」を拾い上げてもおもしろくないだろうと思う。(もし、「意味」を拾い上げることができたら、という過程を前提とするのだが。)
だから、私は「意味」を考えない。
ということにしたいのだが。
という行で立ち止まってしまった。「意味」を感じてしまった。あ、いやだなあ、という感覚が、肉体の中心をヒヤリときらめいていくのを感じてしまった。
「翻訳出来ない」ということばが気になってしまった。逆説的な意味で「おもしろい」と感じた。
詩は、ことばにならないものをことばにする。ことばを、どこかで「翻訳」するという行為だと私は感じている。何語を何語に「翻訳」するのかといえば、「流通言語」を「詩人語」に翻訳する。松本の例でいえば、「松本秀文語」に翻訳する。だれのものでもない「言語」を創出することである。
このときの「だれのものでもない言語」--というのは、まあ、矛盾で、どうしてもそれは「ことば(単語)」そのものがオリジナルなのではなく、組み合わせ方がオリジナルということになるのだが。
--でもねえ。
「翻訳」なんて、簡単に言ってしまっていいのかなあ。
「翻訳出来ない」と松本は書いているのだが、
に「翻訳」は存在しない?
「言葉も蒟蒻で」は「言葉も蒟蒻である」と「言葉」そのものを「蒟蒻」に「翻訳」してしまっている。それではまずいので、大急ぎで「翻訳出来ない蒟蒻で」と「蒟蒻」そのものを「翻訳」し、さらに「ぷよぷよ」という音に「翻訳」している。
そして「翻訳」しながら「翻訳出来ない」ものを求めている。
この「翻訳出来ないもの」というのは「翻訳」した瞬間、「翻訳」からこぼれ落ちていく何かなのだろう。その「翻訳」からこぼれおちていくものが、半かっこというのだろうか、かっこのはじまりだけがあり、おしまいがない状態で追加される。追加しながら、実は追加ではなく、こぼれ落ちたものです、とでもいう具合だが。
この、こぼれ落ちたを、解放した、ときはなったと「翻訳」すれば、「翻訳出来ない言葉」をむりやり「翻訳」し、そうすることで、いまここにあることば(流通言語?)を壊しながら、壊すことで、その「流通言語」の束縛から何かを解放する--ということになる。
このスピードが、松本の詩のおもしろいところである。--と、まず、松本の詩を肯定的にとらえておこう。
でもねえ。
やっぱりなあ。
意外と「意味」の詩人なのだ--と思うのである。つまり、どこかでことばの「肉体」ではなく、ことばのなかの「頭」が、松本の「頭」といっしょに動いているという感じがする。
その瞬間の、「肉体」と「頭」のスピードのずれ。
--これは不思議なもので、「肉体」が先に動いて、後から「頭」が動くときは、ちょうど森繁久弥の芝居のように、とっても間合いがよくて、逆に「頭」がうごいて、それを「肉体」が追いかけると、わざとらしい感じがする。
こんなたとえは、たとえになっていないのだけれど、ふとそう感じるのだ。
でも。
長く、速く書くのはけっして悪いこととは思わない。いいことだと思う。「頭」が動いて「肉体」が追いかけているようでも、このまま進めばきっと逆転する。「肉体」が動いて、あとから「頭」が仕方なしについてくる。
そういう瞬間に、松本のことばはビッグバンのように炸裂すると思う。そういう予感がある。
こいう予感があるとき、詩は、まったくわからなくてもいい。わからないから、いい。わからなくても、「いい」といいつづければ、それにあわせてことばがかわってくれる。松本がかわるのではなく、松本のことばがかってに「いい」ものにかわっていく。--これはほんとうによく起きる現象である。「受け手」が広がり、その広がりのなかで、ことばがかってに自由になっていくのである。そのとき、もちろん「受け手」(読者)もかわる。そういう相互変化が、ここから始まる。--これも、予感だけれどね。
松本秀文「速度太郎の冒険」は「第3部 純粋詩性批判あるいは諷刺家伝」というサブタイトルがついている。「前書き(?)」に「現代詩の不毛な言説と作品の不毛に徹底的に反抗する。」とあって、それから、それぞれの作品に番号がふられて、延々とつづく。詩集一冊分くらいはある作品群である。
何が書いてあるのか--というと、実は私にはわからない。
たとえば「4・蒟蒻残酷物語」の書き出し。
歴史の余白に背を押されて……
天の川
恥ずかしさだけで生きる近松蒟蒻太郎は
メランコリーな田畑の真ん中にある
素朴な食道「魔圏」にて(時間がバッタのようにはねる
銀河の孤独を背負いつつ(不幸が特技なの?
ヤモリ丼大盛り(つゆだく)を
へらへら注文して(蒟蒻のように生きる
「全身全霊の蒟蒻でありますから」
天の川
婚約出来ないままの蒟蒻で(ぷよぷよ
血まみれの婚礼(ドレスとマシンガン
言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ
異言語の衝突(言語が揺さぶられる(ぷよぷよ
死んだ蒟蒻芋の両親に内部でビンタされて
おっぱいのような蒟蒻に闘争的思考が詰め込まれ
「わからない」とはいっても、そこに書かれていることばのひとつひとつを「知らない」わけではない。全部「知っていることば」である。でも、「わからない」。これは、ことばとことばが結び合って、その結合がつくりだす「意味」がわからないということになる。
でも、詩で最初に印象に残るのは「意味」ではなく、そこに書かれていることばの運動の仕方だ。ことばの動き方だ。ことばの肉体のつかい方だ。
たとえば、いま、私が書いたばかりの、ことばとことばの結び方。
そして、それは「わかる」よりも「わからない」方がおもしろい。あれっ、これはどういうこと? 何が書いてある? そういう疑問より先に、次はどんなぐあいに動く?とどきどきするのだ。そして、わからないけれど、何かありそう--そういう期待があふれてくるとき、おもしろいということになる。「わからない」、けれど「おもしろい」。「わからない」と「おもしろい」は矛盾しないこともあるのだ。
だから、詩の「意味」はどうでもいい--というと申し訳ないけれど、この松本のことばの群れをつらぬく「意味」を拾い上げてもおもしろくないだろうと思う。(もし、「意味」を拾い上げることができたら、という過程を前提とするのだが。)
だから、私は「意味」を考えない。
ということにしたいのだが。
言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ
という行で立ち止まってしまった。「意味」を感じてしまった。あ、いやだなあ、という感覚が、肉体の中心をヒヤリときらめいていくのを感じてしまった。
「翻訳出来ない」ということばが気になってしまった。逆説的な意味で「おもしろい」と感じた。
詩は、ことばにならないものをことばにする。ことばを、どこかで「翻訳」するという行為だと私は感じている。何語を何語に「翻訳」するのかといえば、「流通言語」を「詩人語」に翻訳する。松本の例でいえば、「松本秀文語」に翻訳する。だれのものでもない「言語」を創出することである。
このときの「だれのものでもない言語」--というのは、まあ、矛盾で、どうしてもそれは「ことば(単語)」そのものがオリジナルなのではなく、組み合わせ方がオリジナルということになるのだが。
--でもねえ。
「翻訳」なんて、簡単に言ってしまっていいのかなあ。
「翻訳出来ない」と松本は書いているのだが、
言葉も蒟蒻で(翻訳出来ない蒟蒻で(ぷよぷよ
に「翻訳」は存在しない?
「言葉も蒟蒻で」は「言葉も蒟蒻である」と「言葉」そのものを「蒟蒻」に「翻訳」してしまっている。それではまずいので、大急ぎで「翻訳出来ない蒟蒻で」と「蒟蒻」そのものを「翻訳」し、さらに「ぷよぷよ」という音に「翻訳」している。
そして「翻訳」しながら「翻訳出来ない」ものを求めている。
この「翻訳出来ないもの」というのは「翻訳」した瞬間、「翻訳」からこぼれ落ちていく何かなのだろう。その「翻訳」からこぼれおちていくものが、半かっこというのだろうか、かっこのはじまりだけがあり、おしまいがない状態で追加される。追加しながら、実は追加ではなく、こぼれ落ちたものです、とでもいう具合だが。
この、こぼれ落ちたを、解放した、ときはなったと「翻訳」すれば、「翻訳出来ない言葉」をむりやり「翻訳」し、そうすることで、いまここにあることば(流通言語?)を壊しながら、壊すことで、その「流通言語」の束縛から何かを解放する--ということになる。
このスピードが、松本の詩のおもしろいところである。--と、まず、松本の詩を肯定的にとらえておこう。
でもねえ。
やっぱりなあ。
意外と「意味」の詩人なのだ--と思うのである。つまり、どこかでことばの「肉体」ではなく、ことばのなかの「頭」が、松本の「頭」といっしょに動いているという感じがする。
その瞬間の、「肉体」と「頭」のスピードのずれ。
--これは不思議なもので、「肉体」が先に動いて、後から「頭」が動くときは、ちょうど森繁久弥の芝居のように、とっても間合いがよくて、逆に「頭」がうごいて、それを「肉体」が追いかけると、わざとらしい感じがする。
こんなたとえは、たとえになっていないのだけれど、ふとそう感じるのだ。
でも。
長く、速く書くのはけっして悪いこととは思わない。いいことだと思う。「頭」が動いて「肉体」が追いかけているようでも、このまま進めばきっと逆転する。「肉体」が動いて、あとから「頭」が仕方なしについてくる。
そういう瞬間に、松本のことばはビッグバンのように炸裂すると思う。そういう予感がある。
こいう予感があるとき、詩は、まったくわからなくてもいい。わからないから、いい。わからなくても、「いい」といいつづければ、それにあわせてことばがかわってくれる。松本がかわるのではなく、松本のことばがかってに「いい」ものにかわっていく。--これはほんとうによく起きる現象である。「受け手」が広がり、その広がりのなかで、ことばがかってに自由になっていくのである。そのとき、もちろん「受け手」(読者)もかわる。そういう相互変化が、ここから始まる。--これも、予感だけれどね。
白紙の街の歌 | |
松本 秀文 | |
思潮社 |