詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『蛾を吐く』(11)

2011-10-11 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵『蛾を吐く』(11)(思潮社、2011年10月01日発行)

 「寓話」(寓意)とは何か。それは一種の「意地悪」である、と思うときがある。たとえ話というか、現実と平行した領域での「物語」が含んでいる「意味」を読者に探させるのは、一種の「謎かけ」である。「謎」などかけずに、いいたいことがあるなら、もっとわかりやすいことばで言ってしまえばいい。それをしないのは「意地悪」である。
 --ということを考えたのは、私か、あるいは粒来か。「笞(むち)」を読みながら、ふと、そう思った。
 粒来が書いているのは古代インカに行なわれた笞打ちの刑の話である。「高貴な婦女子に流し目を送った男やその逆に婦女子からの流し目を受取りかねて狼狽し、あわてふためいて己れ自身を失った者に付与される少しも痛くはない刑罰」をめぐる詩である。なぜ痛くないかといえば、その笞は「罪人」の身を外してふりおろされるからである。
 このとき「笞打ちの刑」そのものが「寓意(寓話)」であるといっていい。
 そして、「寓話(寓意)」とは、そこで語られている「何か」ではなく、そこに登場する「誰か」と「自己同一」するときに、鮮明に動きだす。
 笞打ちの刑のありよう、ぜったいに「罪人」を傷つけないと書いた後、粒来は、物語を続けると同時に物語の内部へ侵入し、そこで「罪人」の視点から刑を見つめなおす。つまり、笞打ちの刑の「謎解き」をさせる。

   罪ある者の誰もが、もしも笞の当たり処が数センチずれ込ん
だら死が招来されることを知らされる。今は幸いそれを免かれてい
るのは、単なる偶然に過ぎないのだ。もしかするとそれは笞打つ人
の温情かお目こぼしによるのかも知れない。従って笞打つ人の虫の
居処が悪ければ、笞は罪人の頭上に振り下されるのだ。罪人は今在
る偶然の生のはかなさに気付く。恐怖の下で、笞の呻りの下で、偶
然性にすがりつきながら震えている哀れな生の情けなさに気付く。
 途端に罪人は己れの屈辱に腹が立つ。蝟集する者の笑顔や歓声が
実は彼への侮蔑でしかないこと。花飾りのついた髪も美服もこれは
まだ死なないでいられる己れの偶然性への依存をあざける人々の、
死の催促でしかないことに気付く。
 ここで初めて罪人は刑の真の意味を知り、その意義に叶うべく身
を処することになる。即ち彼は笞の飛んでくる方向を見定めて頭を
出す。胸を出し顔を差し出す。笞の振り下される地点を誰よりも早
く予知して、自ら打たれ死んでいく。

 「気付く」から「知る」への変化。そこに「真の意味」が浮き彫りになる。
 粒来は、罪人になりすまし、罪人に気付かせ、悟られているのだが--ここになんとも知れぬ「意地悪」がある。気付かない者は、気付かないまま、生き続ける。「真の意味」に気付いた者だけが「死ぬ」。
 ひとは誰でも生きている。生きていいたと思う。死にたくない、と思う。--はずなのだが、そう思っている限り、この作品では「真の意味」は浮かび上がらない。
 変でしょ?
 死ぬために「真の意味」を知る。そして、その「真の意味」に身を任せる。
 変でしょ?

 「真の意味」は粒来の書いた罪人の「認識」どおりかもしれない。けれど、それが「真の意味」だとしても、なぜ、人は「真の意味」を生きて、その結果として死ななければならないのか。その問題が、ここでは放置される。
 それが「真の意味」だと知って、それはそれでいいじゃないか、知らないふりをして生き続けてやるという行動もあっていいはずだが、この詩の罪人はなぜそうしなかったのか。
 あるいは、なぜ粒来は、知っていて、なお生き延びるという罪人の「寓話」へとストーリーを動かさなかったのか。

 ほんとうの「寓話」というか、「寓意」は、ここから始まるかもしれない。
 ストーリーが終わったところから始まるかもしれない。「寓話」で語られたストーリーを裏返して点検し直すことから始まるかもしれない。
 そうして、このストーリーの裏返し--終わったところから始めるというのは、実は、この詩の罪人の生き方と重なる。
 笞はけっして当たらない。そこでストーリーは終わる。けれど、罪人はそこからストーリーを考えはじめる。笞が当たらないのは、罪人を許しているからではない。罪人が偶然に身を任せて生きていることをあざ笑うためである。嘲笑されるとき、その人は、死んでいるのだ。
 --といっても、それは精神的な意味での死になるが。
 そして、その精神的な死こそ、人間にとって「真の死」である。
 「真の意味」と「真の死」の「真」がここで重なる。

 「寓話」とは、現実のストーリーと精神のストーリーが重なり合って、その重なりのなかで「真」(真の意味)を浮かび上がらせる「謎解き」の一種である。

 えっ、そうなの?

 で、そのことは誰が考えたの? 私が考えたことば? それとも粒来が詩のなかに隠していたことば? 罪人が「真の意味」を探り当てたように、私はただ単に粒来の詩の「真の意味」を「知って」みせただけ?

 あ、いやだなあ。こんな袋小路に入りたくないなあ。
 だいたい「真の意味」なんて、なにか、存在価値があるものなのだろうか。単なる「自己満足」に過ぎないかもしれない。「真の意味」を知る方が幸せなのか、知らない方が幸せなのか--幸せを「基準」にすると、もう、何がなんだかわからなくなるね。幸せなんて、あくまでひとりひとりが感じるものであって、そこに「共通項」はないからねえ--なんていうのも「真実」?

 群衆の去った広場に骸が一つ、満足しきった顔で置かれている。
誰かが投げたインカの朱い花がきつく匂う。蒼い空に禿鷹がゆっく
りと輪を描き始める。

 「満足」か。そうか、ひとは「満足」を生きるのか。--ということなど、まったく無視して、空は「蒼い」、そうして「禿鷹」は舞う。人情と自然は出会うけれど、融合しない。融合しない(意味でつながらない)ところに「非情」の美しさがある。さっぱりした美しさがある。
 「真の意味」を発見させながら、「真の意味」とは無縁の美しさを提示して閉じられる詩--この粒来の詩の「真の意味」は?  

 繰り返しになってしまうね。「寓話」は繰り返し、反復を迫る「構造」なのかもしれない。
 もし「真の意味」があるとしたら、たとえばこの詩の罪人がたどりついた「結論」ではなく、ただ繰り返すこと、反復することにあるのかもしれない。
 粒来は、繰り返し繰り返し「寓話」の形をとった詩を書く。反復する。その反復という行為だけが「残る」--生き続けるのかもしれない。

 --ということを考えたのは、私か、あるいは粒来か。




粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
思潮社
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