田中郁子『雪物語』(思潮社、2011年09月30日発行)
田中郁子『雪物語』には独特の時間と世界がある。「ノドの地」を私はゆっくりと時間をかけて読んだ。
この3行で、田中がどうやら辺境の集落、ふるさとを離れ、どこかへ(たぶん町の方へ)出ていくということが分かる。ふるさとの山、百日草、アゲハ蝶。だれでもがこころをとめる「土地」が静かに描かれている。一種の「望郷の詩」である。まだふるさとを離れていないのだが、こころはすでに「望郷」のなかにある。
--と読み、そう書こうとして(ことばにしようとして)、私はふと立ち止まる。どこか、何かが違う。
この書き出しの、「あかい」という用言のつかい方。「去る日には百日草の花が咲いていた(咲いている)」ではなく「あかい」。いろいろな咲き方があるのだが、田中は「あかい」という「色」のなかにすっぽりと入り込んでいる。「あかい」が「世界」になっている。花を見ているのではない--というと誤解をまねくかもしれないが、田中は花を見ているのではなく、色を見ている。そして、その色というのは「あか」というよりも「あかい」という状態である。「あかい」--「あかく・あること」。その「こと」を見ている。田中は風景を絵のように見ているのではなく、風景を「こと」として見ている。「いま/ここ」で「おきている・こと」。
田中は「見える」と書く。だから、それは一見、ふるさとを絵のように見ているような感じがする。そして、実際、私にも「ふるさとの絵」が見えるのだが、田中が書いているのは「絵」ではない。「絵」のなかにある「こと」、「おきている・こと」なのだ。
田中が書いている「こと」とは、では、何か。私が感じる「こと」とは、では何か。別なことばで言いなおすとどうなるのだろうか。
「こと」とは「合う」である。「こと」を田中は「合う」ということばのなかに凝縮している。
「合う」とは田中が書いているように、たとえば「田に合う水」という具合に二つのものが出会うことである。ただ出会うだけではなく、出会うことで、いままでなかったものを生み出すことである。「合う」という「こと」のなかから「何か」が生まれる。
ここでは田と水が出会い、さらに稲(その田に合う品種)が出会い、米を生み出す。米を生み出すということは、「暮らし」を生み出すということである。米を育て、食べて生きる暮らし。
「合う」ということから「世界」が始まる。世界が動く。
田中は、その「世界の動き」(動く世界としての「こと」)を見ているのだ。
「こと」は「出会い」にはじまり、「合う」をとおして何かを生み出し、そして「終わる」。
「終わった」らどうなるか。「時間」が残される。
私は最初、この1行で、一瞬まごついてしまった。「早苗が植えられた稲穂は」とつづけて読んでしまって、ことばを負えなくなったのである。「意味」がわからなくなったのである。
この1行は、ふつうは2行にわけて書く。「早苗が植えられた/稲穂は刈り取られ何かが終わった」。散文で書き直せば句点「。」が必要である。(「風が吹いた畔草がゆれた」もふつうに書けば「風が吹いた/畔草がゆれた」であるだろう。)しかし、田中はそこに句点「。」をはさまない。「1字空き」もはさまない。つないでしまう。
ここに、田中の「時間」の、「思想」の特徴がある。
「時間」のなかに「区切り」、句読点「。」のようなものはない。それは「こと」として連続している。
「こと」が「合う」ということばのなかで、区切り(句読点)のないまま二つの存在が出会うように、「時間」のなかでは、ある時間と別の時間が出会い「こと」を起こして、つながっている。つながるだけではなく、常に変わっている。変化しているけれど、そこには「切断」が存在しない。
「何かが終わった」の「何か」は、矛盾した言い方になってしまうが「時間」が「終わった」のである。苗を植え、育て、刈り取るという一連の「時間の動き・くらしのこと」が、ふるさとを去ることで「おわる」のである。
ふるさとは、ずっーとそこにある。けれど、そこで田に合う水、田に合う稲と出会い、苗を植え、育て、刈り取り、生きるという「こと」、その一連の「つながり」が終わる。「時間」が「終わる」。
これからも田中に「時間」はあるが、「ふるさとの時間」は「終わった」。
この「時間が終わった」という認識をくぐりぬけて、詩は佳境に入る。
「後ろを振り向く」のは「わたし(田中)」である。けれど、そのとき田中は田中であって、田中ではない。田中は田中自身の「時間(暮らし)」を見るのではない。田中が苗を植え、育て、刈り取っている過去の姿を見るのではない。それを見ようとするのではない。
田中が見るのは、「一億年前の馬」であり、また「一億年前の馬が見たもの」である。つまり、このとき田中は「一億年前の馬」になっている。振り返ることで、「一億年前の馬」を見て、「一億年前の馬」に会い、「一億年前の馬」となって(合体して、--このことばのなかに「合う」がある)、そして畔草を見る。
「いま」と「一億年前」が出会い、そこに「馬」があらわれる。「一億年前の馬」はどんな風景を見たか--それを、いま、田中は、見たように感じるのだ。
この超時間的な感覚が、とても自然で、美しい。ふいに「一億年前の馬」が振り返るのが見える。一億年前の馬、というもの私は見たことはないが、見える。そして、その馬が見ているのものが見える--ではなく、馬が振り返って見ている「こと」が見える。その「こと」のなかで、私は見えないものを「見る」。「見えた」と感じる。
何が見えた? どんな「こと」が見えた? --そういう具合に、論理的に問い詰められると答えることはできないのだが、一瞬、何かが肉体のなかをさっと通りすぎていく。その感覚に、私はふるえてしまう。
田中の書いている「時間」と「こと」に感応し、ふるえてしまう。
けれど目路のはるかで切り株がならび
キャタピラの沈んだ跡に水があおく光っている
収穫の後の瞬かぬ放心の目
わたしたちの生涯はその繰り返しで終わる
辺境の水田で無数のわたしたちは
限りない労役を惜しまない
それでも願ったものを手にすることは少ない
「わたしたち」とはふるさとの人々(農家の人々)のことであるのだが……。
私には、それ以上のものに感じられる。そこには田も水も、そして百日草やカラスアゲハや一億年前の馬もいるように感じられる。区別がない。人間・動物・植物・それから鉱物(?)を超えたものが「わたしたち」。あるいは、それらが「合う」ことによって動きだす「こと」が「わたしたち」。
「わたしたち」は、田(の泥)も水も、もちろん人間も「労力を惜しまない」。けれども、それがどんなに「合う」をめざしても、「願ったもの」に手がとどくことは少ない。少ないけれど、さらによりよい「合う」をめざして労力を惜しまない。
この不思議な「わたしたち」を田中はもう一度書いている。
「田」は「牛」になる。この変化(変身)のなかに、田中の「合う」の「合体(一体)」と「こと」がある。
牛のなかには「わたし」がいる。そして、その「わたし」は「長い列」をつくっている。「わたし」はひとりではない。「わたし」は「わたしたち」なのだ。そして、そこには「人間」だけではなく、「世界」そのものが「一体」になっている。
「人間」を超えて「わたし」が「わたしたち」に「なる」。そのとき「永遠」があらわれる。あらゆるものに「なって」、あらわれてくる。
「野花の名前をおぼえてしまう」の「おぼえる」にも、田中のしなやかな「肉体」を感じる。「おぼえる」は「知識」ではない。「肉体」である。田中の「肉体」は「ママコノシリヌグイ」にも当然「合体・一体化」し、「わたしたち」に「なる」。「わたしたち」に「なって」、そこで起きることを「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」は、いつでも「つかえる」。
(田村隆一の「帰途」について書いた「日記」を思い起こしてください。)
そして、田中は、
のではなく、
そして、詩が生まれる。
この詩は、そうやって誕生した詩である。ここには百日草が生きている。カラスアゲハが生きている。風が生きている。畔草が生きている。田が生きていて、水が生きている。一億年前の馬も、無言で働く牛も生きている。「わたしたち」が生きている。その「声」を田中が、あらゆるものたちに押されるようにしてしずかにことばにしている。
田中郁子『雪物語』には独特の時間と世界がある。「ノドの地」を私はゆっくりと時間をかけて読んだ。
去る日には百日草の花があかい
カラスアゲハがふるえながら蜜を吸っている
山と山に囲まれた辺境があった
この3行で、田中がどうやら辺境の集落、ふるさとを離れ、どこかへ(たぶん町の方へ)出ていくということが分かる。ふるさとの山、百日草、アゲハ蝶。だれでもがこころをとめる「土地」が静かに描かれている。一種の「望郷の詩」である。まだふるさとを離れていないのだが、こころはすでに「望郷」のなかにある。
--と読み、そう書こうとして(ことばにしようとして)、私はふと立ち止まる。どこか、何かが違う。
去る日には百日草の花があかい
この書き出しの、「あかい」という用言のつかい方。「去る日には百日草の花が咲いていた(咲いている)」ではなく「あかい」。いろいろな咲き方があるのだが、田中は「あかい」という「色」のなかにすっぽりと入り込んでいる。「あかい」が「世界」になっている。花を見ているのではない--というと誤解をまねくかもしれないが、田中は花を見ているのではなく、色を見ている。そして、その色というのは「あか」というよりも「あかい」という状態である。「あかい」--「あかく・あること」。その「こと」を見ている。田中は風景を絵のように見ているのではなく、風景を「こと」として見ている。「いま/ここ」で「おきている・こと」。
風が吹いた畔草がゆれた
ここからはミゾカクシ キケマン マツヨイクサが見える
田中は「見える」と書く。だから、それは一見、ふるさとを絵のように見ているような感じがする。そして、実際、私にも「ふるさとの絵」が見えるのだが、田中が書いているのは「絵」ではない。「絵」のなかにある「こと」、「おきている・こと」なのだ。
田中が書いている「こと」とは、では、何か。私が感じる「こと」とは、では何か。別なことばで言いなおすとどうなるのだろうか。
何ひとつ紡ぎはしない無人の静かな真昼
ただそこには田に合う水と田に合う品種があった
早苗が植えられた稲穂は刈り取られ何かが終わった
「こと」とは「合う」である。「こと」を田中は「合う」ということばのなかに凝縮している。
「合う」とは田中が書いているように、たとえば「田に合う水」という具合に二つのものが出会うことである。ただ出会うだけではなく、出会うことで、いままでなかったものを生み出すことである。「合う」という「こと」のなかから「何か」が生まれる。
ここでは田と水が出会い、さらに稲(その田に合う品種)が出会い、米を生み出す。米を生み出すということは、「暮らし」を生み出すということである。米を育て、食べて生きる暮らし。
「合う」ということから「世界」が始まる。世界が動く。
田中は、その「世界の動き」(動く世界としての「こと」)を見ているのだ。
「こと」は「出会い」にはじまり、「合う」をとおして何かを生み出し、そして「終わる」。
早苗が植えられた稲穂は刈り取られ何かが終わった
「終わった」らどうなるか。「時間」が残される。
私は最初、この1行で、一瞬まごついてしまった。「早苗が植えられた稲穂は」とつづけて読んでしまって、ことばを負えなくなったのである。「意味」がわからなくなったのである。
この1行は、ふつうは2行にわけて書く。「早苗が植えられた/稲穂は刈り取られ何かが終わった」。散文で書き直せば句点「。」が必要である。(「風が吹いた畔草がゆれた」もふつうに書けば「風が吹いた/畔草がゆれた」であるだろう。)しかし、田中はそこに句点「。」をはさまない。「1字空き」もはさまない。つないでしまう。
ここに、田中の「時間」の、「思想」の特徴がある。
「時間」のなかに「区切り」、句読点「。」のようなものはない。それは「こと」として連続している。
「こと」が「合う」ということばのなかで、区切り(句読点)のないまま二つの存在が出会うように、「時間」のなかでは、ある時間と別の時間が出会い「こと」を起こして、つながっている。つながるだけではなく、常に変わっている。変化しているけれど、そこには「切断」が存在しない。
「何かが終わった」の「何か」は、矛盾した言い方になってしまうが「時間」が「終わった」のである。苗を植え、育て、刈り取るという一連の「時間の動き・くらしのこと」が、ふるさとを去ることで「おわる」のである。
ふるさとは、ずっーとそこにある。けれど、そこで田に合う水、田に合う稲と出会い、苗を植え、育て、刈り取り、生きるという「こと」、その一連の「つながり」が終わる。「時間」が「終わる」。
これからも田中に「時間」はあるが、「ふるさとの時間」は「終わった」。
この「時間が終わった」という認識をくぐりぬけて、詩は佳境に入る。
去る日に後ろを振り向く
一億年前の馬が見たものが畔草のなかにあるのではないかと
「後ろを振り向く」のは「わたし(田中)」である。けれど、そのとき田中は田中であって、田中ではない。田中は田中自身の「時間(暮らし)」を見るのではない。田中が苗を植え、育て、刈り取っている過去の姿を見るのではない。それを見ようとするのではない。
田中が見るのは、「一億年前の馬」であり、また「一億年前の馬が見たもの」である。つまり、このとき田中は「一億年前の馬」になっている。振り返ることで、「一億年前の馬」を見て、「一億年前の馬」に会い、「一億年前の馬」となって(合体して、--このことばのなかに「合う」がある)、そして畔草を見る。
「いま」と「一億年前」が出会い、そこに「馬」があらわれる。「一億年前の馬」はどんな風景を見たか--それを、いま、田中は、見たように感じるのだ。
この超時間的な感覚が、とても自然で、美しい。ふいに「一億年前の馬」が振り返るのが見える。一億年前の馬、というもの私は見たことはないが、見える。そして、その馬が見ているのものが見える--ではなく、馬が振り返って見ている「こと」が見える。その「こと」のなかで、私は見えないものを「見る」。「見えた」と感じる。
何が見えた? どんな「こと」が見えた? --そういう具合に、論理的に問い詰められると答えることはできないのだが、一瞬、何かが肉体のなかをさっと通りすぎていく。その感覚に、私はふるえてしまう。
田中の書いている「時間」と「こと」に感応し、ふるえてしまう。
けれど目路のはるかで切り株がならび
キャタピラの沈んだ跡に水があおく光っている
収穫の後の瞬かぬ放心の目
わたしたちの生涯はその繰り返しで終わる
辺境の水田で無数のわたしたちは
限りない労役を惜しまない
それでも願ったものを手にすることは少ない
「わたしたち」とはふるさとの人々(農家の人々)のことであるのだが……。
私には、それ以上のものに感じられる。そこには田も水も、そして百日草やカラスアゲハや一億年前の馬もいるように感じられる。区別がない。人間・動物・植物・それから鉱物(?)を超えたものが「わたしたち」。あるいは、それらが「合う」ことによって動きだす「こと」が「わたしたち」。
「わたしたち」は、田(の泥)も水も、もちろん人間も「労力を惜しまない」。けれども、それがどんなに「合う」をめざしても、「願ったもの」に手がとどくことは少ない。少ないけれど、さらによりよい「合う」をめざして労力を惜しまない。
この不思議な「わたしたち」を田中はもう一度書いている。
いかなる日にも風が吹いた畔草がゆれた
チカラシバ アメリカセンダン アカマンマ ツユクサ
何ひとつ装うことのない無人の静かな夜明け
何も言わなかった田が牛のように起き上がり
背から泥土をこぼし近づいている
「田」は「牛」になる。この変化(変身)のなかに、田中の「合う」の「合体(一体)」と「こと」がある。
--田は田であるところと田でなくなったところがあるが
--田はただ田であり続けたい--白い息を吐いて言う
そこにはわたしの影が長い列をつくってうなずいている
牛のなかには「わたし」がいる。そして、その「わたし」は「長い列」をつくっている。「わたし」はひとりではない。「わたし」は「わたしたち」なのだ。そして、そこには「人間」だけではなく、「世界」そのものが「一体」になっている。
何ということだろう
わたしたちは地の果てにいる
雑草と穀物と根菜類の地に埋もれている
それだからか
永遠のことばが風になる畔草になる
お別れに群れて咲くママコノシリヌグイに声をかける
この世でながく辺境の風に吹かれると
ただ 野花の名前をおぼえてしまうのだと……
ただ 声のないものの声を聞くのだと……
「人間」を超えて「わたし」が「わたしたち」に「なる」。そのとき「永遠」があらわれる。あらゆるものに「なって」、あらわれてくる。
「野花の名前をおぼえてしまう」の「おぼえる」にも、田中のしなやかな「肉体」を感じる。「おぼえる」は「知識」ではない。「肉体」である。田中の「肉体」は「ママコノシリヌグイ」にも当然「合体・一体化」し、「わたしたち」に「なる」。「わたしたち」に「なって」、そこで起きることを「肉体」で「おぼえる」。「肉体」で「おぼえたこと」は、いつでも「つかえる」。
(田村隆一の「帰途」について書いた「日記」を思い起こしてください。)
そして、田中は、
声のないものの声を聞く
のではなく、
声のないものの声を、その声のないものにかわって声にする
そして、詩が生まれる。
この詩は、そうやって誕生した詩である。ここには百日草が生きている。カラスアゲハが生きている。風が生きている。畔草が生きている。田が生きていて、水が生きている。一億年前の馬も、無言で働く牛も生きている。「わたしたち」が生きている。その「声」を田中が、あらゆるものたちに押されるようにしてしずかにことばにしている。
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