詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『何処へ』(2)

2011-10-30 23:59:59 | 詩集
高橋睦郎『何処へ』(2)(書肆山田、2011年10月20日発行)

 「書物戒」は高橋の「言語観」を端的にあらわしている。

書物を警戒せねばならぬ
書物は我等の目を盗んで増殖するから

 ここに書かれているのは「書物」だが、その「書物」を「ことば(言語)」に置き換えると、高橋の詩の「誕生の秘密」になる。ことばは増殖する。しかも、「我等の目を盗んで」、つまり「ことば」独自で増殖する。

書物を記憶した遺伝子も絶滅せねばならぬ
書物を記憶した遺伝子は書物の種子であるから

 「ことば」のなかには「遺伝子」がある。その「遺伝子」は「自己増殖」する。「種子」になり、かってに広がっていく。
 詩人は自分でことばを書いているのではない。ことばの遺伝子、ことばの種子に引きずられて動いているに過ぎない。--と書くと、言い過ぎになるかもしれない。けれど、「ことば」というのはたしかにことば自身の力で形を変え、動いていくものである。ことばには「過去」があり、「いま」と出会いながら、「過去」を作り替え、「未来」にしてしまう。「過去」を掘り起こせば掘り起こすほど、「未来」に近づく。そういう「矛盾」をことばは生きている。
 この「ことば」を「書物」と言ってしまうのは、高橋のことばが「書物」といっしょに育っているからである。「話しことば」ではなく「書きことば」、あるいは「声」ではなく「文字」。高橋のことばの「ふるさと」は「書物」なのである。

 書物のなかで、高橋は、夢を見る。作者が書いたストーリーがあるが、それとは別にことば自身がかってに動いて作り上げてしまう世界がある。作者の(そして読者の)「目を盗んで増殖する」ことばがある。
 その「増殖する力」こそ、高橋の「ほんとうのふるさと」かもしれない。
 「書物」など、どうでもいいのだ。
 「書物」をつくりあげるのは、「作者」ではない。ことばそのものなのだ。ことばを縛りつける何かを解き放つ--その解放のための「運動」を用意するのが作者ということになる。また読者ということになる。
 詭弁の一種になるかもしれないけれど、作者と読者(つまり「我等」)がいないことには、ことばは、我等の目を盗むことができない。我等かいるから、ことばは我等の目を盗むのである。我等がいなければ、ことばは我等の目を盗むこともできなけれど、増殖することもできない。
 これはつまり、ことばが自律して運動する、増殖するとはいいながら、そこには間接的に「我等」がかかわっているということである。--こういう「論理」が成り立つために、私たちは、ことばが自律運動で「書物」を作り上げるのではなく、「作者」がことばを動かして「書物」をつくりあげ、「読者」がそれを読むのだと信じ込むだけなのである。

 あ、めんどうくさい。
 私のことばは、なぜ、こんな具合に、まだるっこしく、同じところをまわるのだろう。まわりながら、ただまわるだけではなく、私は私のことばが螺旋状を描いて上昇、あるいは下降するように動けばおもしろいと願うのだけれど、どうもうまくいかない。
 高橋のことばが強靱で揺らがないからである。
 しかも面倒なことに、それは私からみると揺らがないだけであり、高橋にとっては解体しながら運動しているということが--私には分かる。
 高橋は、ことばを書きながら、そこに「意味」を出現させながら、その「意味」を信じていない。

書物を記憶した遺伝子も絶滅せねばならぬ
書物を記憶した遺伝子は書物の種子であるから

 という2行について、あるいは「遺伝子」について、私はいろいろ感想を書いた。それは私の感じ取った「意味」を語り直すということに等しいけれど、高橋がほんとうに書いているのは「意味」ではない。「意味」など信じていない。「意味」はいつでも、だれでもが抱え込むことができる。そんなものは、不必要である。不必要であるという言い方が乱暴なら、「意味」は必要に応じていつでもつくりだすことができる。その「意味」は肯定することもできるし、否定することもできる。
 「意味」はことばにとって「絶対基準」ではないのだ。「存在理由」ではないのだ。

 また、めんどうなことになってしまった。「意味」に「意味」はない--と書いたとき、それは「意味に意味せない」という「意味」を形作ってしまう。矛盾である。矛盾でしかいえないことがあり、その矛盾を言わないことには何もいったことにならない。ほんとうに面倒である。詭弁と弁解が交錯し、そこにあたかも何かがあるように錯覚してしまう。

 だから、ぜんぜん関係のないことを書くことにする。(だから、という「接続詞」でいいのか、は、わきに置いておく。)
 「アンアン」という作品。

この霊魂の暗夜
暗喩の庭に 杏が落ちる
杏はむろん 暗喩の杏
安易な解釈は許されない
「案ずるより産むが易し」は
ここでは成立しない塩梅(あんばい)だ
王は鮟鱇の肝から生まれるや
手にアンク あんよは上手
大地という餡パンの臍へ
案内もなく 行脚(あんぎゃ)する
按摩は アンドロジナスな世界の
アントナン・アルトー風の裾を手に
巨大なアンモン貝の謎を按手する
家の安本丹(あんぽんたん) 又の名 昼行灯(ひるあんどん)は
(ひょっとしたら 恐るべき赤んぼ(アンファン・テリーブル)?)
あーんとばかり 大あくび
アンチョコの暗記はまるでお留守
行火(あんか)の鞍馬にうちまたがり
アンプのボリュームを
unbelievable incredible
菴没羅(あんもら)型宇宙モデルの
甘皮が弾けるまで

 この詩は「あん」という音を含むことばを連ねたものである。「あん」を含むことばが他の「あん」を含むことばを呼び寄せる。
 ことばは、こういうことができる。
 そして、そこに「意味」を持ち込むこともできる。たとえば「王」と「昼行灯」ということばを手がかりに、ぼんやりした王と周囲の人間のあれやこれやを1行1行につけくわえることができる。その「あれやこれや」は高橋の意図した「意味」とは違っていても、「意味」を書いてしまえば(そういう感想を書けば、そこにそういう「意味」が生まれる)だから、「意味」はないのだ。

杏はむろん 暗喩の杏

 と、高橋はわざわざ「暗喩」ということばで隠された「意味」の存在をちらつかせているが、この1行がなくても、人は、わからないことばを「暗喩」と理解して、「意味」を探してしまう。
 でも、「意味」を探してしまうと、音が弱くなってしまう。音が解放する世界が狭くなってしまう。その狭さに入り込んではいけない。(狭い方が、楽だから、どうしても狭い部分を求めてしまうのが人間かもしれないけれど。)
 ここで楽しむべき(べきは、よくないか……)は、高橋のことばの「出典(読んできた書物)」の幅の広さである。
 「狭さ」へ入り込むのではなく、「広さ」で途方に暮れる。--ようするに、何が書いてあるかわからなくなることが、大切なのだと思う。
 「おーい、高橋さん。この詩はいったい何? 何が書いてあるかわかんないぞ。あん・あん・あん・あんとあんの音ばかり繰り返して、雑誌アンアンの宣伝かい?」と言ってしまうことが大切なのだ。
 そうやって「意味」を否定してしまうと、ことばがおもしろくなる。
 ことばは、どの「書物」にも存在しうる。高橋は、どの「書物」にも還っていくことができる。そして、その「書物」から、ふたたびこの詩に戻ってくることができる。
 そして、そこにことばの「過去」以外に、高橋の「過去」も混じってくる。
 「恐るべき赤んぼ」に「アンファン・テリーブル」とフランス語のルビを打つのは、このことばが「流通言語」だったとき、高橋はそれを「アンファンテリーブル」という音であらわしていたという「過去」(ある時代)の「証明」である。「過去」(ある時代)が役者の「肉体」に刻み込まれた「過去」のように見えてくる。
 まあ、見えても見えなくてもいいのではあるけれど。でも、見えてしまう。
 「あんよは上手」というふいにあらわれる「口語」にも、なんだか「遠い過去」を見たような気持ちになる。そうか、高橋にも「あんよは上手」ということばに誘われながら歩いた時代があるのだ。あるいはだれかを「あんよは上手」ということばで歩かせた「過去」があるのだ、とか。--こんな「過去」はもちろん間違っていて、それはほんとうは高橋の過去ではなく、読者の(私の)「過去」に過ぎないのだが、そういうながら、ほら、その瞬間、高橋と私の肉体が重なる。あ、ことばは、そういうところから動きはじめる、ということが瞬間的に分かる。
 ことばは自律して動く--とはいうものの、そのとき、肉体は「作者」と「読者」の交錯をも感じるのだ。それがあって、はじめて、その自律運動に身を任せることができる。それがないと、ことばの自律運動には、とてもついていけない。

 (きょうの感想は、支離滅裂だなあ。きっと、もっと別な作品について書けば、きょう書いたことが結晶のように固まるかもしれない--と自分自身に期待して、きょうはここまで。)

 あ。
 最後の1行。

甘皮が弾けるまで

 ここに「あん」の音がないのはどうしてだろう。「甘皮」は「あまかわ」ではなく「あんかわ」? まさか。でも不思議なことに「あまかわ」のなかの「わ」が、近くに「ん」の音があるよと言っているような気がしてくる。
 どうして?




小枝を持って
高橋 睦郎
書肆山田
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ロマン・ポランスキー監督「ゴーストライター」(★★★★)

2011-10-30 10:22:46 | 映画
監督 ロマン・ポランスキー 出演 ユエン・マクレガー、ピアース・ブロスナン

 雨。曇った空。冷たい風。--舞台はアメリカ東部の島がメーンなのだが、どこで撮ったのだろう。冬の冷たい感じが美しい。暗い色の統一感がすばらしい。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、ピアース・ブロスナンの住んでいる家の構造である。窓である。巨大な一枚ガラスの窓。ピアース・ブロスナンの書斎になるのだろうか、ユエン・マクレガーが「自伝」のためのインタビューをする。その部屋の窓が、なんともいえない「圧迫感」がある。ガラス窓だから、そのガラス越しに向こうの海が見える。波が見える。見えるのだけれど、それは見えるだけ。音は聞こえてこない。もちろん空気も入って来ない。巨大な一枚のガラスが世界を区切っている。「引き戸」なのかもしれないが、どうもそうは見えない。防犯・防衛もかねて、きっと強化ガラスなのだと思う。こういうのって、苦しくない?
 この外部との遮断、建物の外部がそこにあるのに出ていけない感じとは逆に、家の内部はドアがあっても閉ざされていない。ユエン・マクレガーの部屋へピアース・ブロスナンの妻が簡単に入ってくる。セックスもする。それはもちろん「秘密」にされるのだけれど、どうも、あの一枚ガラスの窓と比較するとき何か奇妙な感じがする。とても違和感が残る。
 見せたいものと見せたくないもの。見てもらいたいものと見てもらいたくないもの。それが、ごく一般的な市民感覚とは違うのだ。いや、市民感覚というと変かなあ。私の感じとは相いれない。
 イギリス人って、こういうのが平気?
 それとも、これはポランスキーの仕組んだ罠?
 まあ、映画の「罠」なんだろなあ。「雨」もそうだなあ。この映画では、雨も演技しているなあ。雨というのは不思議だ。雨が降っているからといって、ひとは動けないわけではない。向こう側が見えないわけではない。でも、雨だと、なんとなく動きたくない。濡れたくない。--そういう気持ちに逆らって(いや、雨はイギリス人は平気だから?)、ユエン・マクレガーが「前任者のゴーストライター」が死んだ現場へ自転車で行く。このあたりの、「抵抗感」(肉体が感じる空気の感触)が、なんともいえずざらついている。爽快感がない。マット・デイモンの出るスパイ映画だと、もっとからっとした空気のなかでものごとがつきつめられていくけれど、ポランスキーの映画では、そうじゃないねえ。うーん。
 そうして、だんだん「距離感」がおかしくなる。人間関係の「距離感」が。だれが味方? だれが敵? 敵味方というと変だけれど、「事実」が人によって違ってくる。そこに「見える」ものは「ひとつ」なのに、そうではない。その「ひとつ」は別の角度からみると、まったく逆のものである。
 あ、いつ、あの巨大な一枚ガラスをユエン・マクレガーはすりぬけたのだろう。そうして、いつ簡単に開く扉を固く閉ざし、「自己」を確立したのだろう。「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったのだろう。

 「ゴースト」が「ゴースト」ではなく「リアルな人間」になったとき、それまで「リアル」だった人間が「ゴースト」になる。

 それで終わればハッピーエンディング。
 でも、ポランスキーだらか、そんな具合には終わらないね。観客がかってに「真実」を知ればそれでいいだけであって、ストーリーは、また暗く冷たい雨のなかへ封じこめられる。濡れて、冷たくなって、それでも「真実」を自分で探す勇気はあるか。
 見えているものと見えないものの区別を自分でつくりだせるか。見せたいものと見せたくないものの区別を知った上で、見えないものを見るだけではなく、それが見えるようにすることができるか。
 ちょっときびしいことを問いかけてくる映画である。
 でも、まあ、こういうストーリー(意味)はどうでもいいなあ。あの、雨の感じ、空の感じ、冷たい冬の雨に濡れる感じ--そのなかで、体の芯が凍える感じを味わえばそれでいい映画である。それ以上は、ストーリーの付け足し。



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