野村喜和夫「眩暈原論(その6)」ほか(「hotel 第2章」28、2011年09月01日発行)
野村喜和夫「眩暈原論(その6)」は「視力」とは違った力でことばで動く。「眩暈原論」の「めまい」を「眩暈」と書くとき--視力はたしかに強く動いている気はするが。その漢字のなかに「目」はきちんと含まれてはいるけれど。
「不意打ち」「不意」、「遠く」「遠く」、「わたくし」「われわれのわたくし」。この繰り返しをどうとらえるか。
とらえ方はいくつもある。
(1)野村のことばが「視力」で動いているから、同じ音の繰り返しに無頓着である。
(2)野村のことばは「視力」で動いているから、同じ「表記」を繰り返すことで、ことばの存在を印象づける。
(3)野村のことばは「視力」では動いていない。だから「表記」の繰り返しを見逃す。
(4)野村のことばは「視力」ではなく「聴力」で動いている。同じ音を繰り返すことで、ことばを加速させる。
どんな仮説も成り立つ。仮説か成り立つということは、ことばの運動の場合、それはすべて証明されたに等しい。つまり、それは、どっちでもいいことになる。
とはいえ。
あるいは、だから、なのか。
私は、野村のこの詩は「聴力」で書かれている、というとらえ方から見ていく。読んでいきたい。
野村は同じ音を重ねることで、ことばから「意味」を消していく。そして「音」だけにする。
声に出して読めば(私は実際には声に出さず、黙読しながら、そのとき私の肉体のなかで動く音を聴いているのだが)、「不意(うち)」「遠く」「わたくし」以外にも、音が響きあっているのがわかる。
「虹(にじ)」と「人称(にんしょう)」。「遠く(とおく)」と「陶酔(とうすい)。「とおく」「とうすい」は表記の仕方を変えて「とーく」「とーすい」としてみれば、「音」が呼びあっているのが明確になる。
書きはじめの一瞬、「意味」が野村の頭をよぎったかもしれない。けれど書き終えた瞬間、「意味」は消え、「音」の響きあいが、野村の「肉体」を包んでいるはずである。--まあ、これは野村にしかわからないことだから、私は勝手に書くのだが……。
次の部分では、音は、もっと呼応しあう。
ことばが次々に順序を変えて、そして変えることによって、あたかもそこに「意味」があるかのように装う。(私が最初に書いた、1、2、3、4の例は、実は野村のこの方法を前借りして書いたものだ。)
どんなことばでもそうだが、同じことを少しずつ順序を変えて動かすと、そのとき生まれる「差異」のなかに、なんらかの「意味」があるように見えてくる。適当にことばを動かし順序を入れ換えているだけなのに、そんなふうに入れ替えが可能であるということが、何かしら、そこに「論理」めいたものがあると勘違いさせるのである。
こういう勘違いを「眩暈」と呼ぶこともできるが、まあ、それはどうでもいい。
私よりももっと頭のいいひとが、そこから「哲学」(現代思想?)を引っぱりだしてくれることだろう。
私は、ただ、音を追いたい。
「論理」を偽装したことばの運動のなかで、「音」は崩れずに、むしろ明確になっていく。「論理(意味)」は、そのことばの「内容」がどう違うのか識別しようとして、だんだん崩れていく--私の場合は、崩れていく--のだが、それに反して、「音」だけはくっきりしてくる。
「無」しかなかった音が和音を引き寄せるようにして「網」「眩暈」「睡り」を引き寄せる。--ではない。なぜなら、そこには共通の「音」がない。「音」が呼応していない。
でもね、もう一度、声に出してみる。黙読しながら、声を出すときに動かす肉体を動かし、それを耳で聞き取ってみる。そうすると、野村の書いていることば、「無」「網」「眩暈」「睡り」のまわりから「だらけた」という「音」が浮かび上がってくる。
「だらけた」だらけだ。
論理がだらけ、「だらけた」だらけになっている。
のではなく、そこに「論理」をというか、何がしかの「構造」があるようにみせかけながら、野村は「音」を楽しんでいるのだ。
そして、その「音」は「だらけた」というひとつながりの「音」ではなく、「だ」の繰り返しに力点がある。
「われわれのわたくしの骨が霧散だ」の「だ」。これが「しりとり」のように「だらけた」の「だ」を呼び出し--いや、「だ」のしりとりをすることで、そこから「だらけた」ということばが浮かび上がり、ついでに暴走するのである。
「だらけた」ではなく「だ」という「音」が、「身分(?)」、いや「存在」か--それを隠すようにして動いている。その動きは「無意味」である。つまり「論理」から逸脱している。
だからおもしろい--と、いつも私は書くのだが、ひとつつけくわえておく。だから、そこに「思想」がある。「現代思想」とかなんとかではなく、「肉体」そのものとしての「思想」がある。野村自身の「譲れない好み」が生きている。
「だ」の「音」によってつくりだされるのは「意味」ではなく、ことばが動くときのリズム、疾走感である。それを引き継いで、ことばはさらに動いていく。
ここに「意味」を探しても始まらない。「意味」はあるかもしれないが、あったところでその「意味」を読者が気に入るかどうか、わからない。私は「意味」を無視する。そうして、まあ、いろいろあるのだけれど、最後の、
を、とても気持ちよく感じた、と書いておきたい。
「保ち(たもつ)」から「待つ」へ、さらには「立つ」へと音が動いている。「ま行」の揺らぎと、それをおさえる「つ」。
「目」ではなく、「音」が「めまい」をおこすのである。
*
広瀬大志「ギロチン」。
これは、ギロチンが上からすとんと落ちてくる感じをそのまま視覚でもわかるように行変えに工夫をこらした作品なのかもしれない。
それはそれでおもしろいとは思うけれど。
私には最初の3行のリズムが4行目で変わってしまうのが残念。
野村喜和夫「眩暈原論(その6)」は「視力」とは違った力でことばで動く。「眩暈原論」の「めまい」を「眩暈」と書くとき--視力はたしかに強く動いている気はするが。その漢字のなかに「目」はきちんと含まれてはいるけれど。
虹の不意打ちから遠く、陶酔の朝の人称からも遠く、不意に、待つことがわたくしとなる、われわれのわたくしとなる。
「不意打ち」「不意」、「遠く」「遠く」、「わたくし」「われわれのわたくし」。この繰り返しをどうとらえるか。
とらえ方はいくつもある。
(1)野村のことばが「視力」で動いているから、同じ音の繰り返しに無頓着である。
(2)野村のことばは「視力」で動いているから、同じ「表記」を繰り返すことで、ことばの存在を印象づける。
(3)野村のことばは「視力」では動いていない。だから「表記」の繰り返しを見逃す。
(4)野村のことばは「視力」ではなく「聴力」で動いている。同じ音を繰り返すことで、ことばを加速させる。
どんな仮説も成り立つ。仮説か成り立つということは、ことばの運動の場合、それはすべて証明されたに等しい。つまり、それは、どっちでもいいことになる。
とはいえ。
あるいは、だから、なのか。
私は、野村のこの詩は「聴力」で書かれている、というとらえ方から見ていく。読んでいきたい。
野村は同じ音を重ねることで、ことばから「意味」を消していく。そして「音」だけにする。
声に出して読めば(私は実際には声に出さず、黙読しながら、そのとき私の肉体のなかで動く音を聴いているのだが)、「不意(うち)」「遠く」「わたくし」以外にも、音が響きあっているのがわかる。
「虹(にじ)」と「人称(にんしょう)」。「遠く(とおく)」と「陶酔(とうすい)。「とおく」「とうすい」は表記の仕方を変えて「とーく」「とーすい」としてみれば、「音」が呼びあっているのが明確になる。
書きはじめの一瞬、「意味」が野村の頭をよぎったかもしれない。けれど書き終えた瞬間、「意味」は消え、「音」の響きあいが、野村の「肉体」を包んでいるはずである。--まあ、これは野村にしかわからないことだから、私は勝手に書くのだが……。
次の部分では、音は、もっと呼応しあう。
ほらほら、われわれのわたしくは骨が霧散だ、だらけた無のなかで、無のだらけた網のなかで、網の無のだらけた眩暈のなかで、眩暈の無のだらけた網の睡りのなかで。
ことばが次々に順序を変えて、そして変えることによって、あたかもそこに「意味」があるかのように装う。(私が最初に書いた、1、2、3、4の例は、実は野村のこの方法を前借りして書いたものだ。)
どんなことばでもそうだが、同じことを少しずつ順序を変えて動かすと、そのとき生まれる「差異」のなかに、なんらかの「意味」があるように見えてくる。適当にことばを動かし順序を入れ換えているだけなのに、そんなふうに入れ替えが可能であるということが、何かしら、そこに「論理」めいたものがあると勘違いさせるのである。
こういう勘違いを「眩暈」と呼ぶこともできるが、まあ、それはどうでもいい。
私よりももっと頭のいいひとが、そこから「哲学」(現代思想?)を引っぱりだしてくれることだろう。
私は、ただ、音を追いたい。
「論理」を偽装したことばの運動のなかで、「音」は崩れずに、むしろ明確になっていく。「論理(意味)」は、そのことばの「内容」がどう違うのか識別しようとして、だんだん崩れていく--私の場合は、崩れていく--のだが、それに反して、「音」だけはくっきりしてくる。
「無」しかなかった音が和音を引き寄せるようにして「網」「眩暈」「睡り」を引き寄せる。--ではない。なぜなら、そこには共通の「音」がない。「音」が呼応していない。
でもね、もう一度、声に出してみる。黙読しながら、声を出すときに動かす肉体を動かし、それを耳で聞き取ってみる。そうすると、野村の書いていることば、「無」「網」「眩暈」「睡り」のまわりから「だらけた」という「音」が浮かび上がってくる。
「だらけた」だらけだ。
論理がだらけ、「だらけた」だらけになっている。
のではなく、そこに「論理」をというか、何がしかの「構造」があるようにみせかけながら、野村は「音」を楽しんでいるのだ。
そして、その「音」は「だらけた」というひとつながりの「音」ではなく、「だ」の繰り返しに力点がある。
「われわれのわたくしの骨が霧散だ」の「だ」。これが「しりとり」のように「だらけた」の「だ」を呼び出し--いや、「だ」のしりとりをすることで、そこから「だらけた」ということばが浮かび上がり、ついでに暴走するのである。
「だらけた」ではなく「だ」という「音」が、「身分(?)」、いや「存在」か--それを隠すようにして動いている。その動きは「無意味」である。つまり「論理」から逸脱している。
だからおもしろい--と、いつも私は書くのだが、ひとつつけくわえておく。だから、そこに「思想」がある。「現代思想」とかなんとかではなく、「肉体」そのものとしての「思想」がある。野村自身の「譲れない好み」が生きている。
「だ」の「音」によってつくりだされるのは「意味」ではなく、ことばが動くときのリズム、疾走感である。それを引き継いで、ことばはさらに動いていく。
同じことだが、生白くて脂ぎった脳髄のなかには、パツンパツンと、物語批判のように膨らんでははじけてゆく気泡があって、異泡があって、それはたとえば、こんなにも心優しいので、おれよりひとり前で、釣り広告でのように世界が終わりそうだ、とか、こんなにも恐れおののいたのに、隕石ひとつ天空から降りてこない、とか、それでもなお、落下のさなかの休息のように、血をおきのように保ち、ただ待つということ、そこに塔は立つか。
(谷内注・「おき」は原文は漢字。「火」へんに「奥」)
ここに「意味」を探しても始まらない。「意味」はあるかもしれないが、あったところでその「意味」を読者が気に入るかどうか、わからない。私は「意味」を無視する。そうして、まあ、いろいろあるのだけれど、最後の、
血をおきのように保ち、ただ待つということ、そこに塔は立つか。
を、とても気持ちよく感じた、と書いておきたい。
「保ち(たもつ)」から「待つ」へ、さらには「立つ」へと音が動いている。「ま行」の揺らぎと、それをおさえる「つ」。
「目」ではなく、「音」が「めまい」をおこすのである。
*
広瀬大志「ギロチン」。
しかも仰向け
にその垂直さを
見上げるならばだ
夜の高みは刃を吊るすだろう沈黙の徴(しるし)を、その一番奥に。
これは、ギロチンが上からすとんと落ちてくる感じをそのまま視覚でもわかるように行変えに工夫をこらした作品なのかもしれない。
それはそれでおもしろいとは思うけれど。
私には最初の3行のリズムが4行目で変わってしまうのが残念。
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