吉本洋子『引き潮を待って』(現代詩講座、2011年10月12日発行)
吉本洋子『引き潮を待って』(書肆侃侃房、2011年10月12日発行)の「鼻の系譜」を読みます。私は詩集のなかでは、この作品がいちばん好き。
今回はいきなり1連ずつ読んでいきます。読み違いや、読み落としも、あえてそのままにして置こうと思います。そうやって読み終わった後、最初からもう一度読み直してみます。読み落としや、読み間違いを補足する形で読み直したいと思います。そうすると、そこに書かれていることばの風景が違って見えてきます。
きょうは作者の吉本さんがいるので、ちょっとやりにくいと感じるひとがいるかもしれないけれど、こんなことを言うと吉本さんが傷つくかなあと心配になることがあるかもしれないけれど、まあ、いないと思って話しましょう。
とりあえず、1連ずつ読んでいきます。そのときは、申し訳ないけれど、吉本さんは発言を控えてくださいね。全部読み終わって、もう一度読み返すとき、最初の読み方を修正するときに、「実はこうです」「私はこう思って書いたのです」というようなことを語ってもらえると、さらにもう一回修正が加わることになり、詩の世界がくっきり見えてくると思います。
で、1連目。
鼻の記憶に追われている
其処にあった
もう見えなくなり始めた
もう其処に在る事を止めた
臭いの記憶に追われている
ほらその臭いこの臭い
私のではない臭いが追ってくる
私の鼻であって私の鼻でない
鼻の意思を感じます
私は何度か、ひとは大切なことをことばを変えながら繰り返し書く、と言いました。この1連目にも、そういう部分があります。
質問 どこがことばを変えた繰り返しでしょうか
「鼻」
「臭い」
「記憶」
私の質問の仕方が悪かったみたいですね。
1行目と5行目。「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」。これが繰り返し、そして「鼻」が「臭い」と書き換えられている。
これは「鼻」と「臭い」が同じものであることを意味します。
「其処にあった/もう見えなくなり始めた/もう其処に在る事を止めた」の「主語」はなんだろう。1行目を手がかりにすると「鼻の記憶」。「見えなくなった」という3行目のことばを手がかりにすると、それは「記憶」というより、「鼻」そのもののように感じられる。
で、もう一度最初にもどります。「鼻の記憶に追われています/其処にあった……」。これは文法的には「鼻の記憶」ですね。でも、鼻の記憶を直接考えると、よくわからない。とりあえず「鼻の記憶」ではなく、「鼻」だと思ってみましょうか。「主語」に「鼻」を補って読み直してみましょうか。
鼻は其処にあった
鼻はもう見えなくなり始めた
鼻はもう其処に在る事を止めた
こんな具合になりますね。
でも、「鼻」はなくなりはしませんね。変ですね。そこで最初に考えた「鼻=臭い」という構造を思い出してみます。「臭い」の出番です。
臭いは其処にあった
臭いはもう見えなくなり始めた
臭いはもう其処に在る事を止めた
これなら、まあわかりますね。「臭い」は不変なものではなく、変わるものだから、きえたってかまわない。
ここから「記憶」の問題を、考えてみましょうか。
「記憶」というのは、「いま」「ここ」に目の前にあるものではないですね。ここにないものが「記憶」。そうすると、「臭いが消えた」といのうは、「臭い」は消えたけれど、消えることで「臭いがあった」という「記憶が残った」ということになる。
このとき、その「臭いの記憶」というのは、どこに残るのだろうか。
「記憶」だから、ほんとうは「頭」ですね。
でも、「臭い」を感じる肉体の器官は「鼻」なので、「頭」ではなく、「鼻に記憶が残っている」と言うこともできる。「頭」に臭いが甦るのではなく、「鼻」に臭いが甦る。「頭」を省略して、「鼻」と「臭い」が強く結びついてしまう。
臭いが強烈だと、その印象が強いですね。
鼻と臭いがとても密接な関係にあるから、吉本さんは、ここでは「鼻」と「臭い」を区別できないような形で書いている。
それが、とてもおもしろい。
「臭いの記憶」というのは、「臭いをかいだときの鼻の記憶」であり、それはたんに鼻だけが感じたものではなく、肉体のすみずみにまでひろがったある感覚の記憶なんですね。
最初なので、行ったり来たりします。わかることと、わからないことが混じり合うのだけれど、それを混じり合わせたまま、何度も考えてみます。
鼻というのは嗅覚。嗅覚は、臭いを感じること。鼻があった、鼻を意識したということは、実は、そこに臭いがあったということにもなる。その臭いが見えなくなった、というのは表現として、ちょっと変。つまり、学校の教科書にあるようなことばではないですね。変だけれど、なんとなくわかりますね。その、なんとなくわかることを、自分のことばで言いなおしてみよう。
質問 「もう見えなくなり始めた」の対象が「鼻」ではなく「臭い」だとすると、つまりそこにあったものが「臭い」だとすると、この行はどう変わるだろうか。
「消える」
そうですね。臭いが消えはじめた。「消え始めた」と言い換えると、「もう其処に在る事を止めた」ともぴったり重なりますね。
でも、もう一つ、もっと現実的に考えると、別のことも考えられる。違う表現もありうる。
質問 どういう表現になるでしょう。自分の体験をことばで探してみてください。
「拡散してしまう」
「嗅げなくなる」
谷内「えっ、嗅げなくなる? びっくりするなあ。そうか、嗅げなくなるか……」
もっと、ほかの表現はありませんか? たとえば「もう臭いを感じなくなり始めた」はどうですか? 臭いは不思議で、慣れると、その臭いを感じなくなる--そういうことがありませんか?
視覚は、まあ、見落とすということがあるけれど、それを見なれたために、それを感じなくなるということは、あまりないですね。推理小説のトリックなどでは見なれているために見落とすということ、大きすぎて見落とすという感覚のトリックはつかわれるけれど、日常的には、ここにある机が見えなくなるということはないですね。でも、臭いは感じなくなる。これが臭いのいちばん不思議なところだと思う。
この不思議なところに触れながら、吉本さんのことばは動いている。
臭いを感じない。けれど、ここに臭いがあるということを「記憶」している。「追われている」というのは、ちょっとむずかしい内容を含んでいるけれど、まあ、そのうちはっきりしてくると思う。はっきりしてこなくても、まあ、かまわないけれど。
で、「臭いの記憶」。ここに、たしか「臭い」があった、と思い出す。--というのは正確な読み方ではないかもしれないけれど、だいたいのところ、そんなふうにして考えておきましょう。
でも、どんな臭い? 「ほらその臭いこの臭い」。でも、どんな臭い? 具体的には何もいっていない。
「その臭い」とか「あの臭い」とか言われても、私はあなたと夫婦じゃないんだからわからないよ。具体的にいってくれよ、と言いたくなりますね。
「その」「この」は、吉本さんに言わせれば、なんでそれがわからないのよ、人間ならだれでもわかるでしょ、といいたい感じの臭いなんですね。--これは、あとでわかってくるので、ここではそれだけ指摘しておきます。
で、「臭い」にもどりますが、ここで、また私がいつも言っていることを思い出してください。ひとは大切なことをことばを変えながら繰り返し書く、うまく言えなかったことはことばを変えながら何度でも書く。
吉本さんは、ここでも、そういうことをしている。
「その臭いこの臭い」とはどんな「臭い」か。「私のではない臭いが追ってくる」。とてもわかりにくい一行なのだけれど、これが大切。
「私のではない臭いが私を追ってくる」
「私ではない」が大切。
私は「私のではない臭い」に追われている。それも「いまある臭い」ではなく、「臭いの記憶」に追われている。追っているのは、だから正確に言えば「私の臭いではない、別のだれかの臭いの記憶」が私を追っているということになる。
この「私のものではない」というのは、あとの部分を読むとどういうことかわかってくるけれど、とりあえず、「私のものではない」ということだけをつかんでおきます。
最後にすこし整理しておきます。
これまでに書かれていたものは何ですか?
「鼻」「臭い」「鼻の記憶」「臭いの記憶」が主語というかテーマとして書かれていた。さらに「私のものではない」も書かれていた。これだけは覚えておいてください。ね
その次がおもしろいですねえ。
私の鼻であって私の鼻でない
矛盾している。そういうことは、ありえない。私の鼻なら、それは私の鼻。私の鼻であって私の鼻でないものは、存在しない。
で、ここで思い出してもらいたい。
「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」という2行を比べながら、私たちは「鼻」と「臭い」が同じものだということを見てきた。そうすると、いまの「私の鼻であって私の鼻でない」は、どう言い換えることができるだろうか。
質問 どう言い換えられますか?
「私がかいだ臭いだが、私のかいだ臭いではない」
うーん、むずかしいなあ。
「私の臭いであって私の臭いでない」ということになる。
これも矛盾といえば矛盾だけれど、「私の鼻であって私の鼻でない」ほど矛盾とは感じられない。「臭い」はあやふやなものだから、そういうことがあり得る。
私の臭いのように感じられるけれど、ほんとうは私の臭いではない。そういう文章は、考えられる。「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」。吉本さんのことばの運動には、いまいった「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」ということばが随所に隠れているかもしれない。「ほんとうは……」ということが書きたいのかなあ、とも思う。
ということは、またちょっとわきに置いておいて、いま言った「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」の「感じられる」につながることばが、次に出てくる。
鼻の意思を感じます
「感じる」。その「感じる」こと、「感じ」のなかに「ほんとう」があり、それを探して吉本さんはことばを動かしている。詩を書いている。
「私の臭いであって、私の臭いでないと感じる」、あるいは「私の臭いであると感じるけれど、ほんとうは私の臭いではない」。
さて、どっち?
それを決めるのが「意思」。吉本さんは、ここで「意思」ということばをつかう。
「臭いの意思」ではなく「鼻の意思」というのは、「鼻」が自分の肉体だからですね。「鼻の意思」というのは「私の意思」というのと同じことになる。
こんなふうに、ゆっくり読むと、だんだん吉本さんの肉体が見えてくるでしょ? 吉本さんの体のなかで、ことばが「鼻」になったり「臭い」になったり、往復しながら、何かほんとうに感じていること、いいたいことを探しているのが、自分の問題(自分の肉体の動き)として身近になってきませんか?
で、この1連目に何が書いてあってのか--まあ、まだはっきりしない。ぼんやりと感じる。とりあえずは、そのぼんやりをぼんやりのまま、置いておきます。この読み方には、ある「誤読」というか、「読み落とし」が隠れているのだけれど、それは最初に言ったように、あとから「種明かし」のようにして説明しますので、とりあえず、先に進みますが……。
そして、何度でも同じことを私は言います。
ひとは何度でも言いたいことを繰り返し、ことばを変えて言う。言い足りなかったことをことばを変えて言いなおす。
2連目は1連目を書き直したものです。吉本さんが目の前にいるので、こういう話の進め方はちょっと窮屈だけれど、吉本さんが目の前にいなかったら、私はそう言い張る。
1連目を時間をかけて読んだので、2連目からは少しスピードアップできると思います。
2連目は1連目の書き直し。
誰に尋ねても臭っていないと告げられますが
それでも私の鼻が想いだす
「鼻が想いだす」は「鼻の記憶」の言いなおし。「臭っていない」は「其処にあった/もう見えなくなりはじめた/もう其処に在る事を止めた」の言い直し。他人は、そこには臭いはないという。けれど、私はそれを「記憶」として覚えている。
それは肉体にしみついている。鼻にしみこんでいる。そこになくたって、「鼻」がかってに嗅ぎ取る。あるいは、ひとには感じられないけれど、「私には感じられる臭い」というものがある。他人は知らないけれど、私が知っている臭い。
それが3連目。3連目は、1、2連目の、やはり言い直しになる。
この肩口あたりは父の臭い
耳の裏の湿った辺りからは
母のその母の臭い
足の指の間からは
父のその母の臭いが纏わりついて
洗っても 洗っても染み出てくる
この3連目が、1、2連目の書き直しだとすれば、具体的には何連目の何行目の、どのことばの言い直しでしょうか?
「私のではない臭いが私を追ってくる」の言い直しになりませんか?
「私のではない」なら、だれのか。「父の臭い」「母の臭い」、さらに遡る先祖の臭い。それは「私の臭いではない」。それが私を「追ってくる」。
そして、この「追ってくる」というのは、逃げる私を追いかけてくるというのとも違いますね。
「肩口」とか「耳の裏」とか「足の指の間」から臭って来ることを、「追ってくる」といっている。「肩口」「耳の裏」「足の指の間」というのは、体の一部。切り離せない。切り離せない「肉体」そのものから「臭ってくる」、つまり「肉体」から離れないから、その離れない状態を「追ってくる」と言っていることになる。
そして、1連目に書かれていた「其処」というのは、実は、私から離れた場所、部屋の隅とか窓の外ではなく、「肉体」ですね。それも「肉体」。「肩口」「耳の裏」「足の指の間」など、あらゆるところ。
「肉体」からはいくつもの臭いが臭って来る。
その「臭い」は、「いま」「ここ」、つまりに「肩口」「耳の裏」「足の指の間」あるというよりも、「記憶」ですね。臭いの記憶が甦って来る。父の、母の、さらに血のつながっている肉親の臭い。それは「私のではない臭い」。
そして、その「臭い」は「纏わりついてくる」だけではなく、洗ってもとれない。「洗っても染み出てくる」。これは付着している「臭い」ではない。「染み出てくる」というのは「内部から」染み出てくる。
この「内部」を「記憶」と言い換えることもできる。
こうやって読んでくると、ひとつのことばが行く通りにも言い換えられ、言い換えられることで少しずつ重なり、ことばが指し示しているものがわかってくる。わかってくるといっても「辞書」のようにきちんとは定義できない。何かあいまい。ことばではきちんと言えない。あいまいだけれど、何となくわかる。
こういうことが、私は大切だと思っています。
3連目の「洗っても染み出てくる」。ここから、さっき「記憶」ということを言いました。体に付着しているのではなく、記憶に付着している臭いが臭ってくる。
これを4連目で、もう一回言いなおしている。
臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
現れる
突然指の先から幽霊のように現れる
御不浄に行った後には必ず手を洗っていますのに
「記憶」と「血」あるいは「血の管(血管)」は、ここでは同じものを指しています。ことばは違うから「もの」としては違うのだけれど、動きとしては同じです。記憶も血も血管も「肉体」の内部で動いている。(記憶を「精神の内部」で動いているという言い方もできるけれど--私は、あまり精神というものを信じていない。で、「肉体」の「内部」ととりあえず言っておきます。)
ここから、ちょっとややこしいことを言います。
「記憶」と「血(血管)」が同じもの--と私はさっき言ったのだけれど、ほんとうですか? 「記憶」はことばで書くことはできるけれど、手でさわれない。血は触れる。記憶は抽象だけれど、血は具象ということになる。
なぜ、抽象と具象は同じ? 抽象の反対語は何かと国語の試験にでたら、具象が答えになると思うけれど、もし抽象と具象が反対のものならば、その反対のものが同じというのは変ですね。
間違っていますね。
でも、その間違っていることを、さっき、何となく納得したでしょ? 私が、ここに書かれている「記憶」と「血(血管)」は同じである、言い換えたものであると言ったとき、何となく納得したでしょ?
質問 どこで、騙されたのだと思います? どこが間違っているのだと思いますか? あるいは逆に、最初に言ったことが正しくて、いま言った抽象/具象の部分が間違っているのかな? どう思います?
「……」
「同じ」と言ったとき、私は「主語」を問題にしていませんでした。「主語」ではなく、「述語」が同じ。「記憶」も「血(血管)」も、「肉体」のなかを動いている。この「肉体のなかを動いている」という部分が同じなので、「記憶」も「血(血管)」も同じと言ったのです。
これは、この講座で私が繰り返し言っていることと関係があります。
ひとは同じことを繰り返し言う。何度でも言い換えす。そのとき「主語」はとても大きく揺れ動く。まったく違ったものになったりする。けれど「述語」の部分は同じ、同じではないにしても似たものになる。
吉本さんのこの詩の場合でも、いちばん最初に触れたことを思い出してください。
鼻の記憶に追われている
臭いの記憶に追われている
「鼻」と「臭い」という「主語」にかかわる部分は違っている。けれど、述語は「追われている」とそっくり。述語が同じだから、「主語」も、ことばは違うけれど「同じ何か」をあらわしているのだと感じるんですね。
「述語」(動詞)というのは、また、言い換えが可能です。
質問 4連目の「現れる」というのは、この詩では初めて登場する動詞だけれど、この「現れる」は、1-3連目のなかにつかわれてきたことばで言いなおすと何になりますか?
「染み出てくる」
そうですね。3連目の「染み出てくる」ですね。
だから、4連目は、
臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
染み出てくる
突然指の先から幽霊のように現れる
御不浄に行った後には必ず手を洗っていますのに
と書き直しても同じですね。
その証拠というと変だけれど、3連目に「洗っても染み出てくる」と、「染み出てくる」ものと「洗う」との関係が書かれている。洗っても、消えない。
同じように、4連目でも「洗う」ということばが自然につかわれている。つかわれてしまっているといえばいいのかな?
「洗う」というのは、基本的に「ものの表面」をきれいにすることですね。「こころが洗われる」というような言い方もあるけれど、これはちょっと高級な用法で、ふつうは手を洗う、皿を洗う、野菜を洗う--みんな、「表面」を洗うことですね。
でも、それでは「しみ出てくる」のもは洗えない。いや、洗ってもつぎつぎにしみ出てくるので洗ったことにならない。
では、どうすれば、「臭い」は洗い流せるのか。
これはむずかしいので、こういうことは私は考えない。
わかることだけ、考えます。
その考えることは……、で私の考えをいう前に。
質問 4連目1行目。「臭いの記憶」とは何ですか? 3連目で言われていたことばをつかって言いなおすと、というか、補足すると、それは何の臭いの記憶ですか?
「父の臭いの記憶、母の母の、父のその母の臭いの記憶」
そうですね。私も、そのように考えました。
で、とってもおもしろいのは、ここには「母」だけはでてきませんね。これはとても重要なことなのだけれど、いまは、ここには「母」が登場しないということだけ、指摘しておきます。
質問 で、その父とか母とかということばと繋がることばが4連目にありませんか?
「血、私の血」
そうですね。「私の血」が「父」「母」と繋がる思います。 遺伝子といってもいいかもしれないけれど、「肉体」の繋がりですね。「肉体」が繋がっているから、「私(私というのは吉本さんのことだけれど)」のなかに父や母の血が流れている。血という肉体が繋がっている。そして、その父や母の肉体が覚えていたもの(記憶)が、いま、吉本さんの肉体を通って「臭い」となって「現れる」「しみ出る」「溢れ出る」。
詩のタイトルは「鼻の系譜」。その「系譜」が、ここではっきりする。肉体の繋がりのことですね。
で、その系譜というものを考えるとき、とてもおもしろいことがあります。
父、母--は両親だから、すぐに系譜がたどれますね。それからさき。吉本さんは「母のその母」「父のその母」と書いているけれど、「母のその父」「父のその父」とは書いていない。意識的か無意識的なのかわからないけれど、吉本さんが「系譜」を考えるとき、重要視しているのは「母系」ですね。女から女への系譜。女から女へ肉体が引き継がれていく。肉体の記憶が引き継がれていく。
前回読んだ池井の詩では、母は出てくるけれど、系譜的には父が主役ですね。そこがずいぶん違う--ということは、まあ、別の問題なので置いておきます。
で、この女の系譜は、「臭い」が「血」ということばで言い換えられたときからいっそう強くなる。
4連目の「御不浄」は基本的には「便所、トイレ」だけれど、女の血の系譜ということばをそこにからませると、違った意味もでてきますね。もっと、いのちの根源につながる血のイメージが強くなる。
5連目。
血は汚いと死んだ叔母さんは言ったけど
叔母さん 血も臭いです
鉄さびに塗れて潰れたトマトに似て
汚くて臭くて理不尽な奴です
2行目の「血も臭いです」は、「においです」か「くさいです」か悩ましい。きっと「くさい」だろうと思います。
「におい」にもいろいろな種類があるけれど、吉本さんは「くさいにおい」を問題にしている。そして、その「くさい臭い」は「汚い」と同じ意味になる。「血は汚い」は「血は汚くてくさい」ということになる。
ここから、さっきふれた「御不浄」の問題が浮かび上がってくる。
血は汚くてくさいのか--けれど、肉体はその汚くてくさい血をとおしていのちはつながっていく。「理不尽」には、だから血を「汚くてくさい」と呼ぶことに対する抗議が含まれているということになります。
叔母さんではなく、死んだ叔母さん、というのも死ということばで逆に生きていること「いのち」を強く浮かび上がらせている。
で、吉本さんの、この詩は4連目の「血」ということばから性質がかわっていく感じがするのだけれど、その分、意味というか、思想が明確になってくるように思います。
最終連。
いま母の臭いは
未だ生きている母と母の部屋に籠もって
ひっそりと息を潜めています
重さを持たない臭いが
母の寝具の四隅をしっかりと握って
質問 この最終連で、気になることばはありませんか?
「重さのない臭い、というのが印象的でした。」
私は、1行目の「いま」につまずいた。これは、どういう意味でしょうか? なぜ、「いま」と書いたんでしょうね。
いままで書かれていたことは「いま」を書いたのではないのかな? 同じように「いま」を書いたのなら、なぜ、ここに「いま」が必要なのか。
ことばの性質が、最終連では、それまでとずいぶん違っている。それまでは現実を書いているにしても、何か抽象的。「鼻の記憶に追われている」が象徴的だけれど、具体的に何を言っているのかわからない。
けれど最終連は違います。目の前の現実を書いている。
「いま」という書き出しは、ほんとうに目の前にある「いま」を意識するために吉本さんが書かずにはいられなかったことば。「いま」はなくても、意味は変わらない。かわらないけれど「いま」ということばをつかわないと、それまでに書いてきたことと区別がつかない。だから、「いま」ということばで、ここからは「現実」だぞ、と言い聞かせているのです。
いま母の臭いは
未だ生きている母と母の部屋に籠もって
というのは、前の連の「死んだ叔母」と違って、母は生きているということを強調している。「未だ」は、また同時に「死」が近いということも暗示している。死にそうだけれど、生きている。その臭いが部屋に籠もっている。
病気の人の部屋の臭いというのは、どこか特徴的で、死の臭いがする。固い感じの変なにおいがしますね。吉本さんが感じたのがどういうものか、まあ、はっきりとは書いていない。暗示的にしか書いていない。「ひっそりと息を潜めています」のその「ひっそり」と「息をひそめる」が、「臭い」です。
これでは、しかし、何か言い足りない。言いたい感じとは違う。だから、その「死の臭い」を吉本さんは、もう一度言いなおす。
重さを持たない臭いが
母の寝具の四隅をしっかりと握って
「重さを持たない臭い」というのは、「臭い」には重さがないということを語るのだけれど、--つまり、臭いは何かを押さえつけるような力はない、ふわふわした軽いものなのにということを言いたいのだと思います。その力のないはずの臭い、重さのないものが、母の寝具をしっかりつかんで押さえつけている--それを吉本さんは見ている。感じている。
そういうことを、最後に書いている。
ここから最初にもどって、詩全体を見つめなおしてみる。
そうすると、「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」の「臭い」とは何の臭いになるだろうか。
質問 何の臭いですか?
「私の母の死の臭い」
ちょっと苦しい感じがしてくるけれど、私も「死の」臭いですね。
1連目で、吉本さんは、あ、この部屋には死の臭いがすると感じる。母といっしょにいると死の臭いがすると感じる。それは「私の臭いではない」、つまり「母の臭い」。それを感じる鼻--それは、私の鼻であるけれど、私の鼻ではない。そんな臭いを感じ取る鼻であってはいけない--そういう葛藤がここには隠れている。
葛藤というのは、いはば精神の問題。こころの問題ですね。
こころは、いま、死の臭いを感じ取ってはいけない、そんな臭いを感じるは、私の鼻ではないと言いたい。
けれど肉体は、そういう感情を無視して臭いを感じてしまう。生きている肉体というのは平気で人間を裏切る。こころを裏切る。--そういうことを、吉本さんは正確に書いている。書きながら、自分を見つめている。
2連目は、「死の臭いがしない?」とだれかに質問しても、誰一人そうだとは言わない。そんな臭いなどしない、と言う。
けれど吉本さんの肉体は、そういう臭いをかいだことを覚えている。
3連目が、吉本さんの記憶ですね。
この肩口あたりは父の臭い
質問 この肩口の意味はどうなりますか? 「この」は何をあらわしていますか?
「このは自分を指している」
「自分肩のあたりにある臭い」
「母の肩口の臭い」
最初はわざと触れなかったのだけれど、「この肩口」の「この」は、私(吉本さん)の肩口を指すことばではないですね。部屋で寝ている母の、この肩口。ここで書かれているのは、実はお母さんの様子なのです。「母の」を補ってみるとよくわかります。
母のこの肩口あたりは父の臭い
母の耳の裏の湿った辺りからは
母のその母の臭い
母の足の指の間からは
父のその母の臭いが纏わりついて
洗っても 洗っても染み出てくる
さっき先走って、ここには「父」「母のその母」「父のその母」は出てくるけれど、「母」が登場しない、といってしまった。それは、別の言い方をすれば、そこにはほんとうは母が隠れている。書かれていないだけで、ほんとうは母が書かれているのです。
母の様子、母の肉体を見ていると、死んだ父の臭いとそっくりなものが肩口から漂ってくる。臭いは母さんの体のあらゆるところから知っている臭いがする。母の母、父の母--当然というと申し訳ないけれど、もう死んでいます。そういう人の臭い、その人たちが死んだときの臭いがする。
それはお母さんの体をどんなにきれいに洗ってみても同じ。お母さんの体から染みだしてくる。
4連目は、その臭いを感じる吉本さん自身のことを書いている。
ここでは、そうして、吉本さんの肉体とお母さんの肉体が、微妙に重なり合う。混同してしまう部分がある。
臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
現れる
これは、臭いの記憶は私の血管を通って、母の体の、体中のどの場所にも、つまり3連目で書いた肩口、耳の裏、足の指の間など、あらわれるというふうに読むことができる。そのとき、母の体と私の体が、はっきりとは見わけられない。
なぜかというと。
臭いは、ほんとうは母の体にはないから。2連目で書かれていたように、その臭いは他人には感じられない。吉本さんだけが感じる臭いです。そうであるなら、その臭いはほんとうはお母さんの体からしみ出ているのではなく、実は、吉本さんの肉体の内部でだけ存在する「記憶」のようなものになる。
実際に、吉本さんは、そう思おうとする。
だから、トイレのあとしっかり手を洗うというようなことをする。--けれど、やっぱり臭う。
この臭いは、いったい何?
この死の臭いは、いったい何?
もしかすると、それは死の臭いではないのかもしれない。
では、何の臭い?
最初に1連ずつ読んだときに言ったのだけれど、これは死の臭いであるよりも、血の臭い。引き継がれていく血の臭い。引き継がれていくというのは、残酷な言い方だけれど、前のひとが死ぬことによって「引き継ぎ」が明確になる。前のひとが生きている限り、引き継ぎは完了していない。
いのちの繋がりには、なんというか、そういう理不尽なことがある。生きたまま、いのちは引き継げない。実際に、新しいいのちを産むときは、新しいいのちが生まれるときは、だれも死なない。死なずに、いのちの引き継ぎははじまるのだけれど、それが完了するのは、いのちを生み出したひとが死んだときなんですね。
そういう理不尽ないのちの哲学と向き合って、吉本さんのことばは動いている。
最終連は、いわば吉本さんの決意ですね。
いま、死んでいく母を直視する。そうすることでしっかりといのちを引き継ぐ。いのちの引き継ぎを完了させるために、母を見守っている--そういう「いま」が書かれているのだと思います。
最後に、私の感想。いままでもの感想じゃないかといわれれば、まあ、感想なのだけれど。
この詩がいちばん好きだという理由は--このいのちの哲学を「鼻」という「肉体」からはじめていることです。頭で、人間のいのちは女から女へ引き継がれていく。それは母が死に、その娘が生きる、そしてその娘が母になって、さらにまたその娘が生きるという血のリレーと抽象的に書くこともできるのだけれど、吉本さんは、そうしていない。何よりも、そういう哲学を書くときに書きにくい「死」の問題を、「死の臭い」、その臭いを記憶している鼻という形で生々しく書いていること。そして、それを「鼻の系譜」ということばにしていること。「肉体」を前面にだしてことばを動かしていること。
吉本さんの肉体そのものを動かして書いていること。
鼻、臭いということばを手がかりに、私は吉本さんが感じていることを「肉体」として感じることができる。
だから、この詩が好きです。
私は詩の感想・批評を書くとき、たいてい、いまいった最後の部分を中心にして書くのだけれど、きょうは作者の吉本さんがいるので、いつもは書かない部分、書く前に考えていることまでことばにしてみようと思って、こんな読み方をしてみました。
*
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