詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

改行を繰り返して(往復詩3)

2011-11-20 11:12:03 | 
改行を繰り返して    谷内修三

温めたミルクの薄皮が唇にはりついてくる(のを
とろうとして動く舌の(舌は、
いいかけたことばを、いわないことで、なぞってみるようで
(と、わたしはうつろな改行を繰り返して。(もっと改行しないと、

ガラス窓のなかに雨がとじこめられる音が暗くなる(のに
追いつけない音の(喉の、と書き直す指の(指は、
つめたく乱れる余白。
(と、こんなところで植物的な句点を打ち込み、(装飾的に、

--絵の具が足りなくなって、(ほんとうのことだよ。
筆の荒れた毛先の、さらに荒らして、かすれたままの木の枝を描いた。
(と、つまらない図画の(具象はふるえるように
                      抽象にまぎれ、

耳の縁で(狭く(ナボコフのごとくふるえている(のは(あおく透
きとおった、何かであってはならない(と、(あるいは
ひきはがされた鏡へひきかえすのではなく、
(と、わたしはうつろな改行を繰り返して。(もっと改行しないと、

                              (2011年11月18日)





八柳李花さんとの往復詩。番号の(3)は3作品目。奇数が谷内、偶数が八柳さん。八柳さんの作品はフェイスブック「象形文字編集室」に往復詩の形式で掲載。単独の形では八柳さんのサイトにアップされています。とりあえず各10回の予定で始めました。
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豊原清明「草原の主人公」ほか

2011-11-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「草原の主人公」ほか(「白黒目」32、2011年11月発行)

 豊原清明「草原の主人公」は「自主製作短編映画シナリオ」シリーズである。

○ タイトル「草原の主人公」
監督・脚・絵 豊原清明
撮影・出演 豊原宏俊

○ 小机に並べられた、家族写真
メモ「崩壊した家族を再生させたい!」

○ 父の絵
  父の顔写真と並べる。

 という具合にはじまる。テーマというのだろうか、描きたいことが素早く出てくる。映画としての情報量はとても少ない。

メモ「崩壊した家族を再生させたい!」

 というのは、豊原清明が画面にでてきて「声」で言ってしまうと情報が増えてしまう。「文字」だけであることが、観客(この映画を見ていないけれど、私は映画を見ているつもりで読んでいる)を、観客の日常から引き剥がす。情報の少なさが、観客の「過去」を結晶化させる。誰にでも、「家族の不和」というものを体験した経験がある。そのときのことを思い出させる。
 父の絵と顔写真の対比へと映像が切り替わるとき、主観そのものである絵、あるいは豊原清明の肉体そのもの(具体)である絵と、写真というカメラのレンズの客観のが出会い、そこに一種の「不和」--つまり、「家族の崩壊」の悲しみが浮かび上がる。それは映像的には父の顔の「ずれ」なのだが、そのとき「悲しみ」は父の悲しみであり、また豊原清明の悲しみである。「ずれ」のなかで、父と豊原清明が重なり、同時に「ずれ」る。今回の「白黒目」には豊原清明の描いた幾枚かの絵の写真も掲載されていて、あ、この絵の色と線がスクリーンでも広がるのだなと感じられ、「ずれ」が目に浮かぶ感じがする。私は豊原清明の父の顔を知らないのだが……。
 このあと、肉体と絵と写真が、声と文字と交錯しながら動いていく。

○ 祈る、手。

○ 絵に書いた、少女の顔。

○ 十七年前の、初恋の少女の落書き。

○ 教会の画像

○ 僕の顔。
  複雑な表情。

○ 写真の山となった、小机。

○ ながしの蛇口の流れる水。

○ 少女の絵が言う。
声「なにしてるんですか?」

○ メモ
文字「あんたの家族は仲ええか?」

○ 少女たちの背中・声
声「仲は好いけど、喧嘩もします。」

○ 父の顔
父「どうでもええやないか。」

 「過去」の出し方が(描き方)が、とてもいい。
 少女の顔の絵、十七年前の初恋の少女。絵は、肉体ではない。絵の顔は、少女の肉体ではなく、豊原清明の「記憶の肉体」である。そこには少女というよりも、豊原清明がいる。少女の顔を、その形、色、線にするときの豊原清明の肉体の運動(手の動き、視線の動き)そのものである。
 僕の顔。/複雑な表情。--これは、「いま」の肉体。「特権」としての「肉体」。どんな「肉体」も「過去」をもっている。「複雑な表情」とは「複雑な顔」である。「複雑」は「過去」が「いま」へ噴出してくるからである。役者の肉体がスクリーンに登場した瞬間に、そこには観客(私)ではない「過去」、役者の「過去」が動く。「過去」があると感じさせる。「肉体」は「過去」をもっていて、それが「いま」へと噴出してくる。その噴出の仕方は「複雑」であって、簡単には言えない。
 そういう映像を経て、少女の絵(声)、豊原清明のことば(メモ、文字)、父の顔(現実/声)が一気に出会う。
 父は「どうでもええやないか。」とだけ言うのだが、その「どうでもええやないか。」の「声」のなかに、誰もが知っている「過去」がある。誰もが知りすぎている「過去」がある。誰もが知りすぎていて、もうことばとしては説明できない「肉体そのものになってしまった過去」がある。
 それは、「ながしの蛇口の流れる水」のようなものである。見たことあるでしょ? 激しく流れる水も、ゆるんだ蛇口の水も……。どんな勢い、どんな色(光)で流れているか--その映像を見れば誰にでも、それがどんな状態かわかる。説明の必要がない。それと同じように、現実の顔のアップがあり、生の声で「どうでもええやないか。」がことばとして動くとき、私たちは、そのことばの向こうに「過去」を見る。繰り返し見てきた「時間」そのものを見る。

 もう一本、「ジネンムービー・後列」も豊原清明と父を描いている。ここに登場する「過去」はとてもおだやかで、豊原清明の美しい夢がそのまま現実になっている。

○ 家・居間・夕めし
  食う、僕。その瞬間で、カット。
  (食べ終わって)
  体崩して、ぼんやりしている。

○ 父の誕生日にあげた絵を撮る

○ 台所
  二歩、進む
  三歩下がる。
  汚れた皿。
  流れる水。

○ 台所の花。
  一句吟じる。
  俳句「夏過ぎて・風の中央・平泳ぎ 一四歳」

○ 本を読んでいる、父の背中

 「○ 父の誕生日にあげた絵を撮る」という部分は、正式(?)の脚本なら、「父の誕生日にあげた絵」なのかもしれない。「を撮る」は、ないかもしれない。「……を撮る」というのは映画の「肉体」だからである。「基本」だからである。撮らなければ映画にはならない。
 そういう「不必要」なことばが動いているから、脚本でありながら詩になっているのだとも思う。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

2011-11-19 19:24:52 | 午前十時の映画祭
2011年11月19日(土曜日)

マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

監督 マイケル・チミノ 出演 ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ

 結婚式に始まり葬儀で終わる。結婚式・披露宴+出征兵士の送別会(?)のシーンがとてもすばらしく、あまりにうまく撮れすぎたために残りが長くなったのだろう。
 ペンシルベニアの鉄工所のある街が舞台だが、「同族」が街をつくっている。ロシア系、スラブ系になるのだろうけれど、私にははっきりとわからない。「同族」ゆえに、人間関係が濃密である。単なる知り合いを通り越して、「血がつながっている」ような感じである。それが結婚式・披露宴で非常に「情報量」の多い映像になっている。教会での結婚式の、独特の儀式。披露宴でのウオッカ、コザックダンス(?)や様々なダンス。音楽も映像のすきまに入り込んで、登場するひとびとの鼓動、呼吸そのものになっている。人間の鼓動・呼吸の熱い動きが、ひとびと全員を溶け合わせ、巨大な至福に包まれる。それぞれが「一人」なのに、同時に「一人ではない」のだ。「ゴッドファザー」の結婚式もそうだが、アメリカ映画はこういう「同族」のパーティーを描くのがとてもうまい。(日本人である私にそう見えるだけなのかもしれないが。)
 この「一人」であり、「一人ではない」がこの映画では何度も繰り返される。あるいは「一人ではない」けれど「一人」であるは、バリエーションを変えながら何度も繰り返される。
 披露宴のあと、ロバート・デ・ニーロが夜の街を走る。服を脱ぎ棄て、素っ裸になって走るのは「一人」を象徴にまで高めるシーンである。彼が「主人公」であることを明確にするシーンだ。その「一人」をクリストファー・ウォーケンが必死で追いかけてくる。クリストファー・ウォーケンは「一人ではいられない」人間である。誰かとつながっていないと生きてゆけない。二人の対比がしっかり描かれている。「戦場で自分を守ってくれ」と思わず言ってしまいもする。いま、裸のロバート・デ・ニーロを守っているのは、クリストファー・ウォーケンなのだが。
 ロバート・デ・ニーロはいつでも「一人」であるのは、最初の鹿狩りにも端的に表れている。他の仲間たちが、仲間として鹿狩りをしている。ブーツをいつもロバート・デ・ニーロから借りる男は、絶対に「一人」では鹿狩りにはこない。ロバート・デ・ニーロがいなければ、靴下もブーツもないのだから。そしてロバート・デ・ニーロといえば、彼はただ鹿と、山の自然と向き合っているだけである。仲間と鹿狩りをしているのではない。仲間を離れ、自然のなかで自分の「一人」のいのちを鹿と対峙させる。「一発」にこだわるのは、そうした「一人」と「一頭」の出合いは「一期一会」であり、自然の「運命」がそこにあるのだ。ロバート・デ・ニーロは仲間といても、「一人」の精神・哲学を生きているのだ。
 ベトナムへ行っても、ロバート・デ・ニーロは「一人」である。ロシアンルーレットは誰かを相手にしておこなう危険な賭けではなく、ただ自分の意思・精神と向き合う行為なのである。「一人」でやる賭けなのである。相手はいない。「一人」で生きることに慣れていないクリストファー・ウォーケンは、賭けを生き抜いたあと、賭けにのみこまれていく。「危険」がクリストファー・ウォーケンの「道連れ」になる。「一人ではない」ときの相手は「人間」とはかぎらない。「人間」がかかわる何かなのだ。
 というところまで拡大すると、ロバート・デ・ニーロも「一人」ではなく、彼が信じる「哲学」と「道連れ」かもしれない。それがわかりやすいかたちでは描かれていない。ロバート・デ・ニーロの肉体の特権にまかされている。――ということは書き始めると面倒なので、話を映画に戻すと・・・。
 ベトナムから帰還したロバート・デ・ニーロは、相変わらず「一人」を指向している。肉体も精神も無事に見えるが、戦争の影に侵食されている。彼を支えていたかつての「鉄学」がロバート・デ・ニーロから離れていったともいえる。それが、鹿狩りに克明に描かれる。巨大に雄鹿に出合い、以前なら絶対に射止めることができる距離なのに、外してしまう。「自覚」はできないが、精神が乱れている。
 この乱調をささえてくれるのが、最初に登場する「同族」であり、「仲間」である。戦争のあと、その「同族」にも変化が起きている。歌う歌は、ロシア民謡やスラブ民謡ではなく、アメリカ国歌。ベトナム戦争をくぐりぬけ、その後の精神的困難を支えるのは、「同族」だけでは無理――ということか。このラストシーンは、私には何か嫌な感じ(ぞっとする感じ)も残るのだけれど、移民集団でも、アメリカ国民でもないので、どう判断していいかわからない。



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秋の花(往復詩1)

2011-11-19 08:08:34 | 
秋の花       谷内修三

空から半壊の意味が舞い落ちる
セロファンが陰影をとじこめる水面に
そのとき花は死をおそれて息を吐き、浮上する (と
私は 鏡のなかにすら書くことができない

ひらがなで教えているのはだれ?

ふりかえらぬまま見つめる
夢に見る無音のなかを口が倒れていく

                           (2011年11月11日)


*


八柳李花さんと「往復詩」をはじめました。
これは1回目の私の作品。
八柳さんの詩集「サンクチュアリティー」からインスパイアされて書きました。
タイトルの「秋の花」は季節の秋と李花さんの花を組み合わせたもの。
「連句」の発句、あいさつのようなものです。

続きはファイスブックの「象形文字編集室」でお読みいただけるとうれしい。
私の作品は随時、ここで掲載します。
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柴田友里『子取りの産声』

2011-11-18 23:59:59 | 詩集
柴田友里『子取りの産声』(思潮社、2011年10月31日発行)

 柴田友里『子取りの産声』は、私には、わからない部分が多すぎる。いや、これは正確ではないなあ。私は誰の詩であっても「わかる」というよりも「誤読」するだけなのだから。
 詩集の書き出しの、

小さな箱に 入るだけの霧を入れましょう

 という1行はとても魅力的に感じた。「入るだけの」ということばに、柴田の「欲望」を感じた。「肉体」を感じた。「本能」を感じた。あ、何かがはじまる、という予感があった。
 1行開けて、次のようにつづく。

では次に装飾をしてみましょう
筆にたっぷりの水を含ませて
霧に色を垂らすのです

 この3行もおもしろいと思った。「では次に装飾をしてみましょう」というのは、ことばとしては「散文」の動きだが、「本能」を順序立てて動かしていくようで、あ、柴田はことばを動かすことに夢中なのだと感じた。ことばを動かすと、世界がかわる。ことばが世界をつくりだしていく。その想像を「では次に」という具合に、意思でコントロールしていく。「入れましょう」「してみましょう」。自分が動けば世界が動く。
 どうなるのかなあ。

じきに死にます

 この巻頭の詩は、そのことばで終わる。まあ、死んでも、かまわない。「死」は誰にもわかることではない。誰も体験したことはない。その道の体験にまで、ことばで攻めていこうとする「欲望」があって、おもしろいかなあ、と思う。

 で、期待して読むのだが……。
 わからなくなるのである。「陥没夜」の途中(12ページ)、

いきなり背の小さい少女が背の高い少女の足を肩に乗せ、サー
カスのように立ち上がったかと思いきや、 いつの間にか浴場
の屋根に設置されていた縄の輪に  可憐な肩の上の少女の首
を  引っ掛けた!

 「いきなり」話が変わっていくのはいいのだが、それにあわせて(?)、ことばも「いきなり」変わってしまう。

立ち上がったかと思いきや

 この「思いきや」って、何語? 「日本語」であることは知っているけれど、いったいどこから引っぱりだしてきた「文体」なのだろう。
 「小さな箱に 入るだけの霧を入れましょう」という1行にあったような、ていねいな欲望の動きがない。
 先へ進むと、もっと変なことばが出てくる。

しかし見よ! 少女はまだ生きている  熱い胞子のような湯
気を一身に浴び、あたかも玉の汗のよう

 「見よ!」に私はつまずき、「あたかも」で倒れこみ「玉の汗のよう」で詩集を落としてしまう。--これは比喩ですけれどね。
 ほんとうに、こういうことばを柴田は日常的につかっているのだろうか。
 詩は日常つかっていることばで書かなければならないというきまりはない。どう書いてもいい。
 でも、私は「文体」が入り交じったことばを読むのは苦手である。

 たまたま読んだ吉田文憲の栞によれば、柴田は吉田の「教え子」らしい。「柴田さんはいまは大学院生だが、四年次からの私の教え子である。」と書いている。どうでもいいことかもしれないが、ふーん、吉田は、こんな「文体」の混合を平気で教えているのか、と関係ないことまで考えてしまった。

 14ページには、「おお、なんという荘厳な景色であろう!」というようなことばも登場する。ちょっと引用すると……。

しかしそれでも熱気は冷めやらぬ  おお、なんという荘厳な
景色であろう!  雄叫びと黄色い声のさなかで観客たちはも
ろもろ湯の中に頭を沈めあっているではないか!  水しぶき
があがる  小刻みな舞いがついに終わるとき、興奮と歓喜は
最高潮に達し、恍惚の絶頂にさえたどり着き 感涙にむせび泣
く感動のフィナーレ!

 とても「肉体」で書いたことばとは思えない。
 吉田は、「水子」(子取りとは、とられる子、水子の別名である--というのが吉田の読解である)の「いのちの場所」のイメージに「民話や聖書の物語がまなまなしく映像的に重なるところに、柴田友里の特徴がある」と書いているが、柴田のことばに重なっているのは「民話や聖書の物語」ではなく、「物語」を「頭」で要約した使い古しのことば、手垢にまみれた「流通言語」だろう。
 そういうことばを読んでいると、私には、ここにはいったい何が書いてあるのかさっぱりわからなくなる。
 なぜ、そのことば?
 そのことばと柴田の肉体はどんな関係がある?

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木村透子『黄砂の夜』

2011-11-17 10:59:59 | 詩集
木村透子『黄砂の夜』(思潮社、2011年10月31日発行)

 木村透子『黄砂の夜』には「黄砂の夜」という長い詩がある。黄砂が中国から飛んできて庭に降り積もる。そして庭が変わるという作品である。

異境の花がひっそりと開いた
その日から庭が騒がしくなる
キルギスのキリギリスが
その花を求めてやってきた
サマルカンドのツバメが
その虫を求めてやってきた
鳥の集うオアシスを探して
敦煌のサルが
ゴビのラクダが
タクラマカンのラクダが
タシケントのシマウマがやってくる
大陸からあなたの小さな庭につづいた
黄色い


十億年がつながった

 「つづく」ことは「つながる」ことである。「道」ができることである。それは「空間」だけではなく、「時間」をも超える。いや、結ぶ。そして、そこに越境がはじまる。
 --と書いてしまうと、簡単に木村の「思想」が整理できてしまう。ちょっとおもしろくない。つまり、これでは「頭」で書いた詩になってしまう。
 書きたいことはよくわかるが、既視感がある。

 ちょっと読むのがめんどうかなあ--と思っていたが、詩集のなかほどにおもしろい作品があった。「春」。

水位が縁をあふれつづける
わたしの内部の あるいはわたしに向かって
満ちる水

 
 えっ、どっち? 「わたしの内部」から水があふれるのか、それとも「わたしの内部」へ向かって水があふれるのか。つまり、水が「わたしの内部」に侵入してくるのか。これは「あるいは」ということばで「つながる」ことがらではない。「わたし」に「肉体」があれば、その区別ははっきりとわかるはずである。
 そ「わかる」はずのことを、木村は「あるいは」という「頭」だけが考える仮説の道を通ることで、わざとわからなくする。
 その途端、おもしろいことが起きる。

ガラス面で幾重にも屈折した光の発熱がわたしを
原生のいきものにする
細胞膜を自在に浸透する水が
身体の境界を曖昧にして
いく

光が水に溶け
水が光に溶け
世界という薄青い混乱
すでに膜はやわらかに退化しはじめ
在ったという感覚だけが微かに
残る

 「あるいは」ということば、「頭」をくぐることで、内と外が等価になる。同じものになる。内と外との間には「(細胞)膜」があるのだが、それは「浸透」という行為を証明するだけのためにある。1連目の「縁」が内と外を区別するだけのためにあったように。
 「肉体」にとっては内と外は明確に違うが、「頭」にとっては内か外かは単に視点の位置よるものにすぎない。いつでも入れ換え可能である。越境は、「頭」にとってはなんでもないことなのである。
 1連目で、「十億年」がやすやすと越境されているのはそのためである。
 で、それだけなら別に何ということはないのだが、その「越境」を不思議なことに木村は「肉体」でもう一度とらえ直している。
 これが、独特である。

すでに膜はやわらかに退化しはじめ
在ったという感覚だけが微かに
残る

 「膜」は「細胞膜」の「膜」である。越境というのか、相互の浸透というのか、まあ、「つながる」「つづく」ということをしていると、その「つながる」「つづく」という「動詞」のなかで、境界線は意味をもたなくなる。つながっているものの間にわざわざ「ここが境界線」と意識を集中しても、そこを行き来する「肉体」には何の影響もない。
 これを「在ったという感覚」と「感覚」にしてしまっていることろが、実におもしろい。「感覚」が「残る」というのがおもしろい。
 「記憶」なら「頭」の問題である。「認識」は「頭」の問題である。
 「記憶」なら、きちんとことばに整理し直して「存在」を明確に書き記すことができる。「残る」ではなく「残す」ことができる。
 「感覚」は違うなあ。
 「残せない」。自分の意思ではない。「感覚」は意思を裏切って動くものである。意思を裏切る可能性のあるものが、「残る」。

 ふーん。
 わかったような、わからないような、変な感じだねえ。信じていいのか、騙されているのか、よくわからない。けれど、引き込まれるねえ。
 こんなことは、考えたことがなかったので……。

 この変なものが「のようなもの」で結晶している。いや、ぶよぶよと増殖して、結晶を内部から壊して、あふれだしている。「水位が縁をあふれつづける」ように。いや、そうではなく何かが「内部」に向かってあふれてくる(満ちてくる)が正確なのかな?
 まあ、どっちだっていい。どっちだって、同じ。
 「境界」がなくなって、「膜」がとけてしまって、「膜」(区切り)があったはずなのに--という「感覚」が「残る」だけなのだから。
 これを、「どちらか」に決定するのは「頭」の仕事だから、それが好きなひとに「決定」をまかせておけばいい。

指に触れたとき、わずかに丸みがあって、なめらかでやわらかくて、
だからきっと親しいものにちがいないと思いました。暗闇で手を伸
ばして、もっと触ってみようとしたら、口を開いて(たぶん口だと
思うのですが)、指を挟まれそうになったのです。びっくりして
引っ込めました。けれど、伸びてきて、ぴたりと手の甲に張りつい
てきました。驚きを通り越して凍りつきました。動くし、思ってい
たより大きくて、形を変えられるのです。それに、はじめに触れた
ときのようにやわらかくなく、冷たい感じがします。微かな異臭が
しますが、これが発するものなのか、空気中に漂うにおいなのか、
あるいはわたしの冷たい汗なのか。この部屋に窓はありません。ほ
んとうに真っ暗です。わたしひとりきり(のはず)。心臓のどきん
どきんという音ばかりが反響して。

 何かに触る。それは何かに「肉体」をとおして「つながる」こと、「つづく」こと。つながり、つづいていると、その何かがどんどん変わってくる。
 でも、ほんとう? 何かが変わったのか、それとも触っている「わたし」の「感覚」が変わったのか、区別できる?
 「微かな異臭がしますが、これが発するものなのか、空気中に漂うにおいなのか、あるいはわたしの冷たい汗なのか。」
 「頭」でもわからない。(「あるいは」という「頭」のことばがあるので、私はそう判断する。)
 いや、これは、「わかっている」のです。
 「わたし」の「肉体」が「変わる」のだ。「肉体」がかわらないと、実は、何もかわらない。「丸み」がある。「なめらかでやわらかい」と感じるとき、「肉体」はそれを受け入れながら、「まるく」て「なめらかでやわらかい」何かに対応する「肉体」に変わっている。最初の「肉体」がどんなものであったかわからないけれど、いま触れているものに「同調」している。
 最初に読んだ詩を借りて言うと「水位」が同じところにきていて、その結果「縁」がどちらの側かわからなくなるような感じ。
 何かがまるく、なめらかでやわらかいと感じる感覚が、何かをまるく、なめらかでやわらかいものにするのだ。
 そうして、そこから変なことがさらにはじまる。感覚は瞬間瞬間に変わってしまう。「境界」はあるけれど、ないのだ。「同調」だけが、「ある」のだ。

声も出せずに暗がりで目をあけたまま、長い時間が流れたような気
がしますが、わずかな間なのかもしれません。手に接している部分
から全体を想像しようとしました。でも、頭が遠くに行ってしまっ
ていて、考えが浮かんできません。ほんの少し手を動かしてみます。
わたしと一体となって動いているような感じです。ああ、なんてこ
と、皮膚に張りついていると思っていたのに、この瞬間、ぐぐっと
皮下に圧し入ってきました。驚くほど素早く。

 「同調」の果てに「外」が「内」になる。
 「つながる」「つづく」とは、外と内が入れかわることなのだ。入れかわりつづけることなのだ。
 こういうとき「頭が遠くに行ってしまっていて、考えが浮かんできません。」というらしいが、いいなあ。頭が遠くに行ってしまって、世界がどろりととける。そこからどんな形でも生まれる。
 そうなんだなあ、と思う。


黄砂の夜
木村 透子
思潮社
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秋山基夫『薔薇』

2011-11-16 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『薔薇』(思潮社、2011年10月31日発行)

 秋山基夫『薔薇』はとても変な詩集である。雑多なことがらが、雑多な「形式」で書かれている。「形式」と書いたが--それが形式かどうかわからないが、「形」が印象に残るのである。
 たとえば「天上」という作品の、1、2連。

ルネサンス期の会堂の
見上げる天上の格子の
三千の枡目に一人ずつ
三千の天使の顔がある
整然と

升目の数だけ天使を描いたのか
天使の数だけ升目を作ったのか
わたしは首を上に向けて考える
三千もの天使に見おろされたら
地上では正義が行われただろう
誰もこそこそしなかっただろう
数の勝利だ

 同じ文字数の1行がつづき、最後にぽつんと短い行がある。なぜこういう形にしたのかわからない。形を守るために犠牲(?)にしたことば、つまり省略したことばがあるはずである。あるいは過剰なことば、不必要なのにつけくわえたことばがあるはずである。たとえば、書き出しの2行、

ルネサンス期の会堂の
見上げる天井の格子の

 すべての「ルネサンス期の会堂」ではないだろう。ここではほんうとに必要な「固有名詞」、どこの、どの会堂が省略されている。あとの方に「ガイドさんが歩きだした。」という文章が出てくるが、秋山の詩を読む限り、これがどこの、なんという会堂かわからないので、誰もこの会堂にはたどりつけない。「ガイド」になっていない。
 「見上げる天井の格子の」という1行では、「見上げる」がなくても意味は同じである。「見上げ」なければ、三千の天使の顔がなくなるわけではない。1行の字数を揃えるために「見上げる」が過剰に書かれているのである。
 --と、言ってしまうと、とても簡単なのだけれど。実は、そうでもないようなのだ。形を重視して、1行のことばを数(文字数)を揃え、それによって「こんなに自在にことばをつかいこなせる」という技量を読ませる詩、と言ってしまえれば簡単なのだけれど、そうではないのだ。
 字数を揃え、そのために必要なことばを省いたり、不必要なことばを挿入したり、「の」のくりかえしによってリズムをつくってみせたり……そういうこともたしかにあるのだけれど、それ以上のことがここには書かれている。それ以上の「技巧」というか、工夫がある。

見上げる天井の格子の

 この「見上げる」の「主語」は何になるだろう。その会堂を訪れたひと、ということになる。その会堂を訪れれば、「私たちは」その天井を見上げ、その格子のつくる三千の升目の中に一人ずつ天使の顔が書かれているのを見ることができる。三千の天使に会うことができる。
 この省略された「私たち」ということばは、自然に「私」、つまり「読者」をこのことばの運動に誘い込む。会堂で実際に天井を見上げているのは秋山という「私」なのだが、そこに「私」ということばが書かれていないために、この文章を読むとき、天井を見上げるのは「秋山」ではなく、「私たち」、つまり「読者」になってしまう。
 それは、まあ、不思議なことでもなんでもないのだが……。
 その省略された「私」が、2連目で「わたしは首を上に向けて考える」、つまり「わたしは天井を見上げて考える」ということばのなかで突然復活する。
 そのとき。
 あれっ、見上げているのは「秋山」? そうではなく、私(読者)が知らずに、「いま/ここ」にはない天井を見上げていない? 想像力のなかで天井を見上げていない?
 「秋山」と「読者」が「わたし」ということばを媒介に、無意識の内に重なる。この「無意識の主体の一体化」が、1連目の「見上げる天井の格子の」という、一種強引な1行に準備されているのである。
 これが、とても巧妙である。とても、うまい。
 だから、2連目の「升目の数だけ天使を描いたのか/天使の数だけ升目を作ったのか」という疑問、「三千もの天使に見おろされたら/地上では正義が行われただろう/誰もこそこそしなかっただろ」という推量、「数の勝利だ」という断定が、まるで秋山の思考であることをはみだして、「私(読者)」の思考として動いてしまう。知らずに説得させられてしまう。反論することを忘れてしまう。
 これに追い打ちをかける(?)のが3連目である。「2連目の最終行、数の勝利というのはは秋山さんが考えただけのことでしょ?」という反論(?)、異議を秋山は、ほんとうにびっくりするようなことばの運動で吸収してしまう。反論、異議をのみこんでしまう。

問題はしかし彼らの倫理ではない
石を敷き詰めて頑丈な道路を作る
石を積み上げ動かない建物を作る
巨大な建物を三百年もかけて作る
何百年もそのままで保持し続ける
壊れたら全てを元通りに修復する
モザイクの一片まで原型にもどす

 「問題はしかし彼らの倫理ではない」という1行で、「精神面(思考の動き)」に傾いたことばの運動を否定して見せる。そして一気に「石を敷き詰めて頑丈な道路を作る」と土木へことばを動かす。その瞬間、「さっきのは秋山さんの勝手な独断でしょ」という批判は吹き飛んでしまう。「事実(歴史)」の方に読者の視点がひっぱられてしまう。
 そうしておいて、

なぜなら彼らは永遠を信じているから彼らは永遠を信じて疑わないから彼らは
人工の時間を永遠そのものにするからそうすることに彼らは情熱を注ぎ続ける
からそうすることで彼らの永遠がますます確かなものになるから
石の存在論だ

 だらだらとことばを繰り返す。読者をなんとなく疲れさせる。「そうすること」が2回書かれているが、こういう不経済なことばの運動ではなく、1連目のような簡潔な運動が可能であるはずなのに、あえて、そんういうことばを書いて、

石の存在なんだ

 とふいに断定に飛躍する。だらだら論理(?)に疲れた頭には、この1行は、眠気を吹き飛ばすような「大声」の迫力がある。

 「形」を借りて、詩を作って見せるふりをしながら、秋山は視覚でとらえることができる「形(形式)」に「論理」(ことばの運動)そのものの「形式」を確立している。
 秋山は秋山自身の思考の動きを知っているだけではなく、読者の思考の動き具合を熟知している。それを領して秋山のことばを動かしている。しかも、その熟知していることを、目に見える「詩の形」に隠している。
 これはこれは--。
 とても用心して読まないといけない。私はこれまでそんなことを意識しながら秋山のことばを読んだ記憶はないが、ほんとうに用心しないといけない。そうしないと秋山の「文体の力」を見落としてしまうことになる。



秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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吉本洋子『引き潮を待って』

2011-11-15 23:59:59 | 現代詩講座
吉本洋子『引き潮を待って』(現代詩講座、2011年10月12日発行)

 吉本洋子『引き潮を待って』(書肆侃侃房、2011年10月12日発行)の「鼻の系譜」を読みます。私は詩集のなかでは、この作品がいちばん好き。
 今回はいきなり1連ずつ読んでいきます。読み違いや、読み落としも、あえてそのままにして置こうと思います。そうやって読み終わった後、最初からもう一度読み直してみます。読み落としや、読み間違いを補足する形で読み直したいと思います。そうすると、そこに書かれていることばの風景が違って見えてきます。
 きょうは作者の吉本さんがいるので、ちょっとやりにくいと感じるひとがいるかもしれないけれど、こんなことを言うと吉本さんが傷つくかなあと心配になることがあるかもしれないけれど、まあ、いないと思って話しましょう。
 とりあえず、1連ずつ読んでいきます。そのときは、申し訳ないけれど、吉本さんは発言を控えてくださいね。全部読み終わって、もう一度読み返すとき、最初の読み方を修正するときに、「実はこうです」「私はこう思って書いたのです」というようなことを語ってもらえると、さらにもう一回修正が加わることになり、詩の世界がくっきり見えてくると思います。
 で、1連目。

鼻の記憶に追われている
其処にあった
もう見えなくなり始めた
もう其処に在る事を止めた
臭いの記憶に追われている
ほらその臭いこの臭い
私のではない臭いが追ってくる
私の鼻であって私の鼻でない
鼻の意思を感じます

 私は何度か、ひとは大切なことをことばを変えながら繰り返し書く、と言いました。この1連目にも、そういう部分があります。

質問 どこがことばを変えた繰り返しでしょうか
「鼻」
「臭い」
「記憶」

 私の質問の仕方が悪かったみたいですね。
 1行目と5行目。「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」。これが繰り返し、そして「鼻」が「臭い」と書き換えられている。
 これは「鼻」と「臭い」が同じものであることを意味します。
 「其処にあった/もう見えなくなり始めた/もう其処に在る事を止めた」の「主語」はなんだろう。1行目を手がかりにすると「鼻の記憶」。「見えなくなった」という3行目のことばを手がかりにすると、それは「記憶」というより、「鼻」そのもののように感じられる。
 で、もう一度最初にもどります。「鼻の記憶に追われています/其処にあった……」。これは文法的には「鼻の記憶」ですね。でも、鼻の記憶を直接考えると、よくわからない。とりあえず「鼻の記憶」ではなく、「鼻」だと思ってみましょうか。「主語」に「鼻」を補って読み直してみましょうか。

鼻は其処にあった
鼻はもう見えなくなり始めた
鼻はもう其処に在る事を止めた

 こんな具合になりますね。
 でも、「鼻」はなくなりはしませんね。変ですね。そこで最初に考えた「鼻=臭い」という構造を思い出してみます。「臭い」の出番です。

臭いは其処にあった
臭いはもう見えなくなり始めた
臭いはもう其処に在る事を止めた

 これなら、まあわかりますね。「臭い」は不変なものではなく、変わるものだから、きえたってかまわない。
 ここから「記憶」の問題を、考えてみましょうか。
 「記憶」というのは、「いま」「ここ」に目の前にあるものではないですね。ここにないものが「記憶」。そうすると、「臭いが消えた」といのうは、「臭い」は消えたけれど、消えることで「臭いがあった」という「記憶が残った」ということになる。
 このとき、その「臭いの記憶」というのは、どこに残るのだろうか。

 「記憶」だから、ほんとうは「頭」ですね。
 でも、「臭い」を感じる肉体の器官は「鼻」なので、「頭」ではなく、「鼻に記憶が残っている」と言うこともできる。「頭」に臭いが甦るのではなく、「鼻」に臭いが甦る。「頭」を省略して、「鼻」と「臭い」が強く結びついてしまう。
 臭いが強烈だと、その印象が強いですね。
 鼻と臭いがとても密接な関係にあるから、吉本さんは、ここでは「鼻」と「臭い」を区別できないような形で書いている。
 それが、とてもおもしろい。
 「臭いの記憶」というのは、「臭いをかいだときの鼻の記憶」であり、それはたんに鼻だけが感じたものではなく、肉体のすみずみにまでひろがったある感覚の記憶なんですね。

 最初なので、行ったり来たりします。わかることと、わからないことが混じり合うのだけれど、それを混じり合わせたまま、何度も考えてみます。

 鼻というのは嗅覚。嗅覚は、臭いを感じること。鼻があった、鼻を意識したということは、実は、そこに臭いがあったということにもなる。その臭いが見えなくなった、というのは表現として、ちょっと変。つまり、学校の教科書にあるようなことばではないですね。変だけれど、なんとなくわかりますね。その、なんとなくわかることを、自分のことばで言いなおしてみよう。

質問 「もう見えなくなり始めた」の対象が「鼻」ではなく「臭い」だとすると、つまりそこにあったものが「臭い」だとすると、この行はどう変わるだろうか。
「消える」

 そうですね。臭いが消えはじめた。「消え始めた」と言い換えると、「もう其処に在る事を止めた」ともぴったり重なりますね。
 でも、もう一つ、もっと現実的に考えると、別のことも考えられる。違う表現もありうる。

質問 どういう表現になるでしょう。自分の体験をことばで探してみてください。
「拡散してしまう」
「嗅げなくなる」
谷内「えっ、嗅げなくなる? びっくりするなあ。そうか、嗅げなくなるか……」

 もっと、ほかの表現はありませんか? たとえば「もう臭いを感じなくなり始めた」はどうですか? 臭いは不思議で、慣れると、その臭いを感じなくなる--そういうことがありませんか?
 視覚は、まあ、見落とすということがあるけれど、それを見なれたために、それを感じなくなるということは、あまりないですね。推理小説のトリックなどでは見なれているために見落とすということ、大きすぎて見落とすという感覚のトリックはつかわれるけれど、日常的には、ここにある机が見えなくなるということはないですね。でも、臭いは感じなくなる。これが臭いのいちばん不思議なところだと思う。
 この不思議なところに触れながら、吉本さんのことばは動いている。

 臭いを感じない。けれど、ここに臭いがあるということを「記憶」している。「追われている」というのは、ちょっとむずかしい内容を含んでいるけれど、まあ、そのうちはっきりしてくると思う。はっきりしてこなくても、まあ、かまわないけれど。
 で、「臭いの記憶」。ここに、たしか「臭い」があった、と思い出す。--というのは正確な読み方ではないかもしれないけれど、だいたいのところ、そんなふうにして考えておきましょう。
 でも、どんな臭い? 「ほらその臭いこの臭い」。でも、どんな臭い? 具体的には何もいっていない。
 「その臭い」とか「あの臭い」とか言われても、私はあなたと夫婦じゃないんだからわからないよ。具体的にいってくれよ、と言いたくなりますね。
 「その」「この」は、吉本さんに言わせれば、なんでそれがわからないのよ、人間ならだれでもわかるでしょ、といいたい感じの臭いなんですね。--これは、あとでわかってくるので、ここではそれだけ指摘しておきます。
 で、「臭い」にもどりますが、ここで、また私がいつも言っていることを思い出してください。ひとは大切なことをことばを変えながら繰り返し書く、うまく言えなかったことはことばを変えながら何度でも書く。
 吉本さんは、ここでも、そういうことをしている。
 「その臭いこの臭い」とはどんな「臭い」か。「私のではない臭いが追ってくる」。とてもわかりにくい一行なのだけれど、これが大切。
 「私のではない臭いが私を追ってくる」
 「私ではない」が大切。
 私は「私のではない臭い」に追われている。それも「いまある臭い」ではなく、「臭いの記憶」に追われている。追っているのは、だから正確に言えば「私の臭いではない、別のだれかの臭いの記憶」が私を追っているということになる。
 この「私のものではない」というのは、あとの部分を読むとどういうことかわかってくるけれど、とりあえず、「私のものではない」ということだけをつかんでおきます。
 最後にすこし整理しておきます。
 これまでに書かれていたものは何ですか?
 「鼻」「臭い」「鼻の記憶」「臭いの記憶」が主語というかテーマとして書かれていた。さらに「私のものではない」も書かれていた。これだけは覚えておいてください。ね

 その次がおもしろいですねえ。

私の鼻であって私の鼻でない

 矛盾している。そういうことは、ありえない。私の鼻なら、それは私の鼻。私の鼻であって私の鼻でないものは、存在しない。
 で、ここで思い出してもらいたい。
 「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」という2行を比べながら、私たちは「鼻」と「臭い」が同じものだということを見てきた。そうすると、いまの「私の鼻であって私の鼻でない」は、どう言い換えることができるだろうか。

質問 どう言い換えられますか?
「私がかいだ臭いだが、私のかいだ臭いではない」

 うーん、むずかしいなあ。
 「私の臭いであって私の臭いでない」ということになる。
 これも矛盾といえば矛盾だけれど、「私の鼻であって私の鼻でない」ほど矛盾とは感じられない。「臭い」はあやふやなものだから、そういうことがあり得る。
 私の臭いのように感じられるけれど、ほんとうは私の臭いではない。そういう文章は、考えられる。「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」。吉本さんのことばの運動には、いまいった「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」ということばが随所に隠れているかもしれない。「ほんとうは……」ということが書きたいのかなあ、とも思う。
 ということは、またちょっとわきに置いておいて、いま言った「……のように感じられるけれど、ほんとうは……ではない」の「感じられる」につながることばが、次に出てくる。

鼻の意思を感じます

 「感じる」。その「感じる」こと、「感じ」のなかに「ほんとう」があり、それを探して吉本さんはことばを動かしている。詩を書いている。
 「私の臭いであって、私の臭いでないと感じる」、あるいは「私の臭いであると感じるけれど、ほんとうは私の臭いではない」。
 さて、どっち?
 それを決めるのが「意思」。吉本さんは、ここで「意思」ということばをつかう。
 「臭いの意思」ではなく「鼻の意思」というのは、「鼻」が自分の肉体だからですね。「鼻の意思」というのは「私の意思」というのと同じことになる。

 
 こんなふうに、ゆっくり読むと、だんだん吉本さんの肉体が見えてくるでしょ? 吉本さんの体のなかで、ことばが「鼻」になったり「臭い」になったり、往復しながら、何かほんとうに感じていること、いいたいことを探しているのが、自分の問題(自分の肉体の動き)として身近になってきませんか?
 で、この1連目に何が書いてあってのか--まあ、まだはっきりしない。ぼんやりと感じる。とりあえずは、そのぼんやりをぼんやりのまま、置いておきます。この読み方には、ある「誤読」というか、「読み落とし」が隠れているのだけれど、それは最初に言ったように、あとから「種明かし」のようにして説明しますので、とりあえず、先に進みますが……。
 そして、何度でも同じことを私は言います。
 ひとは何度でも言いたいことを繰り返し、ことばを変えて言う。言い足りなかったことをことばを変えて言いなおす。

 2連目は1連目を書き直したものです。吉本さんが目の前にいるので、こういう話の進め方はちょっと窮屈だけれど、吉本さんが目の前にいなかったら、私はそう言い張る。
 1連目を時間をかけて読んだので、2連目からは少しスピードアップできると思います。
 2連目は1連目の書き直し。

誰に尋ねても臭っていないと告げられますが
それでも私の鼻が想いだす

 「鼻が想いだす」は「鼻の記憶」の言いなおし。「臭っていない」は「其処にあった/もう見えなくなりはじめた/もう其処に在る事を止めた」の言い直し。他人は、そこには臭いはないという。けれど、私はそれを「記憶」として覚えている。
 それは肉体にしみついている。鼻にしみこんでいる。そこになくたって、「鼻」がかってに嗅ぎ取る。あるいは、ひとには感じられないけれど、「私には感じられる臭い」というものがある。他人は知らないけれど、私が知っている臭い。
 それが3連目。3連目は、1、2連目の、やはり言い直しになる。

この肩口あたりは父の臭い
耳の裏の湿った辺りからは
母のその母の臭い
足の指の間からは
父のその母の臭いが纏わりついて
洗っても 洗っても染み出てくる

 この3連目が、1、2連目の書き直しだとすれば、具体的には何連目の何行目の、どのことばの言い直しでしょうか?
 「私のではない臭いが私を追ってくる」の言い直しになりませんか?
 「私のではない」なら、だれのか。「父の臭い」「母の臭い」、さらに遡る先祖の臭い。それは「私の臭いではない」。それが私を「追ってくる」。
 そして、この「追ってくる」というのは、逃げる私を追いかけてくるというのとも違いますね。
 「肩口」とか「耳の裏」とか「足の指の間」から臭って来ることを、「追ってくる」といっている。「肩口」「耳の裏」「足の指の間」というのは、体の一部。切り離せない。切り離せない「肉体」そのものから「臭ってくる」、つまり「肉体」から離れないから、その離れない状態を「追ってくる」と言っていることになる。
 そして、1連目に書かれていた「其処」というのは、実は、私から離れた場所、部屋の隅とか窓の外ではなく、「肉体」ですね。それも「肉体」。「肩口」「耳の裏」「足の指の間」など、あらゆるところ。
 「肉体」からはいくつもの臭いが臭って来る。
 その「臭い」は、「いま」「ここ」、つまりに「肩口」「耳の裏」「足の指の間」あるというよりも、「記憶」ですね。臭いの記憶が甦って来る。父の、母の、さらに血のつながっている肉親の臭い。それは「私のではない臭い」。
 そして、その「臭い」は「纏わりついてくる」だけではなく、洗ってもとれない。「洗っても染み出てくる」。これは付着している「臭い」ではない。「染み出てくる」というのは「内部から」染み出てくる。
 この「内部」を「記憶」と言い換えることもできる。

 こうやって読んでくると、ひとつのことばが行く通りにも言い換えられ、言い換えられることで少しずつ重なり、ことばが指し示しているものがわかってくる。わかってくるといっても「辞書」のようにきちんとは定義できない。何かあいまい。ことばではきちんと言えない。あいまいだけれど、何となくわかる。
 こういうことが、私は大切だと思っています。

 3連目の「洗っても染み出てくる」。ここから、さっき「記憶」ということを言いました。体に付着しているのではなく、記憶に付着している臭いが臭ってくる。
 これを4連目で、もう一回言いなおしている。

臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
現れる
突然指の先から幽霊のように現れる
御不浄に行った後には必ず手を洗っていますのに

 「記憶」と「血」あるいは「血の管(血管)」は、ここでは同じものを指しています。ことばは違うから「もの」としては違うのだけれど、動きとしては同じです。記憶も血も血管も「肉体」の内部で動いている。(記憶を「精神の内部」で動いているという言い方もできるけれど--私は、あまり精神というものを信じていない。で、「肉体」の「内部」ととりあえず言っておきます。)
 ここから、ちょっとややこしいことを言います。
 「記憶」と「血(血管)」が同じもの--と私はさっき言ったのだけれど、ほんとうですか? 「記憶」はことばで書くことはできるけれど、手でさわれない。血は触れる。記憶は抽象だけれど、血は具象ということになる。
 なぜ、抽象と具象は同じ? 抽象の反対語は何かと国語の試験にでたら、具象が答えになると思うけれど、もし抽象と具象が反対のものならば、その反対のものが同じというのは変ですね。
 間違っていますね。
 でも、その間違っていることを、さっき、何となく納得したでしょ? 私が、ここに書かれている「記憶」と「血(血管)」は同じである、言い換えたものであると言ったとき、何となく納得したでしょ?

質問 どこで、騙されたのだと思います? どこが間違っているのだと思いますか? あるいは逆に、最初に言ったことが正しくて、いま言った抽象/具象の部分が間違っているのかな? どう思います?
「……」

 「同じ」と言ったとき、私は「主語」を問題にしていませんでした。「主語」ではなく、「述語」が同じ。「記憶」も「血(血管)」も、「肉体」のなかを動いている。この「肉体のなかを動いている」という部分が同じなので、「記憶」も「血(血管)」も同じと言ったのです。
 これは、この講座で私が繰り返し言っていることと関係があります。
 ひとは同じことを繰り返し言う。何度でも言い換えす。そのとき「主語」はとても大きく揺れ動く。まったく違ったものになったりする。けれど「述語」の部分は同じ、同じではないにしても似たものになる。
 吉本さんのこの詩の場合でも、いちばん最初に触れたことを思い出してください。

鼻の記憶に追われている

臭いの記憶に追われている

 「鼻」と「臭い」という「主語」にかかわる部分は違っている。けれど、述語は「追われている」とそっくり。述語が同じだから、「主語」も、ことばは違うけれど「同じ何か」をあらわしているのだと感じるんですね。
 「述語」(動詞)というのは、また、言い換えが可能です。

質問  4連目の「現れる」というのは、この詩では初めて登場する動詞だけれど、この「現れる」は、1-3連目のなかにつかわれてきたことばで言いなおすと何になりますか?
「染み出てくる」

 そうですね。3連目の「染み出てくる」ですね。
 だから、4連目は、

臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
染み出てくる
突然指の先から幽霊のように現れる
御不浄に行った後には必ず手を洗っていますのに

 と書き直しても同じですね。
 その証拠というと変だけれど、3連目に「洗っても染み出てくる」と、「染み出てくる」ものと「洗う」との関係が書かれている。洗っても、消えない。
 同じように、4連目でも「洗う」ということばが自然につかわれている。つかわれてしまっているといえばいいのかな? 
 「洗う」というのは、基本的に「ものの表面」をきれいにすることですね。「こころが洗われる」というような言い方もあるけれど、これはちょっと高級な用法で、ふつうは手を洗う、皿を洗う、野菜を洗う--みんな、「表面」を洗うことですね。
 でも、それでは「しみ出てくる」のもは洗えない。いや、洗ってもつぎつぎにしみ出てくるので洗ったことにならない。
 では、どうすれば、「臭い」は洗い流せるのか。
 これはむずかしいので、こういうことは私は考えない。
 わかることだけ、考えます。
 その考えることは……、で私の考えをいう前に。

質問 4連目1行目。「臭いの記憶」とは何ですか? 3連目で言われていたことばをつかって言いなおすと、というか、補足すると、それは何の臭いの記憶ですか?
「父の臭いの記憶、母の母の、父のその母の臭いの記憶」

 そうですね。私も、そのように考えました。
 で、とってもおもしろいのは、ここには「母」だけはでてきませんね。これはとても重要なことなのだけれど、いまは、ここには「母」が登場しないということだけ、指摘しておきます。

質問 で、その父とか母とかということばと繋がることばが4連目にありませんか?
「血、私の血」

 そうですね。「私の血」が「父」「母」と繋がる思います。 遺伝子といってもいいかもしれないけれど、「肉体」の繋がりですね。「肉体」が繋がっているから、「私(私というのは吉本さんのことだけれど)」のなかに父や母の血が流れている。血という肉体が繋がっている。そして、その父や母の肉体が覚えていたもの(記憶)が、いま、吉本さんの肉体を通って「臭い」となって「現れる」「しみ出る」「溢れ出る」。

 詩のタイトルは「鼻の系譜」。その「系譜」が、ここではっきりする。肉体の繋がりのことですね。
 で、その系譜というものを考えるとき、とてもおもしろいことがあります。
 父、母--は両親だから、すぐに系譜がたどれますね。それからさき。吉本さんは「母のその母」「父のその母」と書いているけれど、「母のその父」「父のその父」とは書いていない。意識的か無意識的なのかわからないけれど、吉本さんが「系譜」を考えるとき、重要視しているのは「母系」ですね。女から女への系譜。女から女へ肉体が引き継がれていく。肉体の記憶が引き継がれていく。
 前回読んだ池井の詩では、母は出てくるけれど、系譜的には父が主役ですね。そこがずいぶん違う--ということは、まあ、別の問題なので置いておきます。
 で、この女の系譜は、「臭い」が「血」ということばで言い換えられたときからいっそう強くなる。
 4連目の「御不浄」は基本的には「便所、トイレ」だけれど、女の血の系譜ということばをそこにからませると、違った意味もでてきますね。もっと、いのちの根源につながる血のイメージが強くなる。

 5連目。

血は汚いと死んだ叔母さんは言ったけど
叔母さん 血も臭いです
鉄さびに塗れて潰れたトマトに似て
汚くて臭くて理不尽な奴です

 2行目の「血も臭いです」は、「においです」か「くさいです」か悩ましい。きっと「くさい」だろうと思います。
 「におい」にもいろいろな種類があるけれど、吉本さんは「くさいにおい」を問題にしている。そして、その「くさい臭い」は「汚い」と同じ意味になる。「血は汚い」は「血は汚くてくさい」ということになる。
 ここから、さっきふれた「御不浄」の問題が浮かび上がってくる。
 血は汚くてくさいのか--けれど、肉体はその汚くてくさい血をとおしていのちはつながっていく。「理不尽」には、だから血を「汚くてくさい」と呼ぶことに対する抗議が含まれているということになります。
 叔母さんではなく、死んだ叔母さん、というのも死ということばで逆に生きていること「いのち」を強く浮かび上がらせている。

 で、吉本さんの、この詩は4連目の「血」ということばから性質がかわっていく感じがするのだけれど、その分、意味というか、思想が明確になってくるように思います。

 最終連。

いま母の臭いは
未だ生きている母と母の部屋に籠もって
ひっそりと息を潜めています
重さを持たない臭いが
母の寝具の四隅をしっかりと握って


質問 この最終連で、気になることばはありませんか?
「重さのない臭い、というのが印象的でした。」

 私は、1行目の「いま」につまずいた。これは、どういう意味でしょうか? なぜ、「いま」と書いたんでしょうね。

 いままで書かれていたことは「いま」を書いたのではないのかな? 同じように「いま」を書いたのなら、なぜ、ここに「いま」が必要なのか。
 ことばの性質が、最終連では、それまでとずいぶん違っている。それまでは現実を書いているにしても、何か抽象的。「鼻の記憶に追われている」が象徴的だけれど、具体的に何を言っているのかわからない。
 けれど最終連は違います。目の前の現実を書いている。
 「いま」という書き出しは、ほんとうに目の前にある「いま」を意識するために吉本さんが書かずにはいられなかったことば。「いま」はなくても、意味は変わらない。かわらないけれど「いま」ということばをつかわないと、それまでに書いてきたことと区別がつかない。だから、「いま」ということばで、ここからは「現実」だぞ、と言い聞かせているのです。

いま母の臭いは
未だ生きている母と母の部屋に籠もって

 というのは、前の連の「死んだ叔母」と違って、母は生きているということを強調している。「未だ」は、また同時に「死」が近いということも暗示している。死にそうだけれど、生きている。その臭いが部屋に籠もっている。
 病気の人の部屋の臭いというのは、どこか特徴的で、死の臭いがする。固い感じの変なにおいがしますね。吉本さんが感じたのがどういうものか、まあ、はっきりとは書いていない。暗示的にしか書いていない。「ひっそりと息を潜めています」のその「ひっそり」と「息をひそめる」が、「臭い」です。
 これでは、しかし、何か言い足りない。言いたい感じとは違う。だから、その「死の臭い」を吉本さんは、もう一度言いなおす。

重さを持たない臭いが
母の寝具の四隅をしっかりと握って

 「重さを持たない臭い」というのは、「臭い」には重さがないということを語るのだけれど、--つまり、臭いは何かを押さえつけるような力はない、ふわふわした軽いものなのにということを言いたいのだと思います。その力のないはずの臭い、重さのないものが、母の寝具をしっかりつかんで押さえつけている--それを吉本さんは見ている。感じている。
 そういうことを、最後に書いている。

 ここから最初にもどって、詩全体を見つめなおしてみる。
 そうすると、「鼻の記憶に追われている」「臭いの記憶に追われている」の「臭い」とは何の臭いになるだろうか。

質問 何の臭いですか?
「私の母の死の臭い」

 ちょっと苦しい感じがしてくるけれど、私も「死の」臭いですね。
 1連目で、吉本さんは、あ、この部屋には死の臭いがすると感じる。母といっしょにいると死の臭いがすると感じる。それは「私の臭いではない」、つまり「母の臭い」。それを感じる鼻--それは、私の鼻であるけれど、私の鼻ではない。そんな臭いを感じ取る鼻であってはいけない--そういう葛藤がここには隠れている。
 葛藤というのは、いはば精神の問題。こころの問題ですね。
 こころは、いま、死の臭いを感じ取ってはいけない、そんな臭いを感じるは、私の鼻ではないと言いたい。
 けれど肉体は、そういう感情を無視して臭いを感じてしまう。生きている肉体というのは平気で人間を裏切る。こころを裏切る。--そういうことを、吉本さんは正確に書いている。書きながら、自分を見つめている。

 2連目は、「死の臭いがしない?」とだれかに質問しても、誰一人そうだとは言わない。そんな臭いなどしない、と言う。
 けれど吉本さんの肉体は、そういう臭いをかいだことを覚えている。
 3連目が、吉本さんの記憶ですね。

この肩口あたりは父の臭い

質問 この肩口の意味はどうなりますか? 「この」は何をあらわしていますか?
「このは自分を指している」
「自分肩のあたりにある臭い」
「母の肩口の臭い」

 最初はわざと触れなかったのだけれど、「この肩口」の「この」は、私(吉本さん)の肩口を指すことばではないですね。部屋で寝ている母の、この肩口。ここで書かれているのは、実はお母さんの様子なのです。「母の」を補ってみるとよくわかります。

母のこの肩口あたりは父の臭い
母の耳の裏の湿った辺りからは
母のその母の臭い
母の足の指の間からは
父のその母の臭いが纏わりついて
洗っても 洗っても染み出てくる

 さっき先走って、ここには「父」「母のその母」「父のその母」は出てくるけれど、「母」が登場しない、といってしまった。それは、別の言い方をすれば、そこにはほんとうは母が隠れている。書かれていないだけで、ほんとうは母が書かれているのです。
 母の様子、母の肉体を見ていると、死んだ父の臭いとそっくりなものが肩口から漂ってくる。臭いは母さんの体のあらゆるところから知っている臭いがする。母の母、父の母--当然というと申し訳ないけれど、もう死んでいます。そういう人の臭い、その人たちが死んだときの臭いがする。
 それはお母さんの体をどんなにきれいに洗ってみても同じ。お母さんの体から染みだしてくる。

 4連目は、その臭いを感じる吉本さん自身のことを書いている。
 ここでは、そうして、吉本さんの肉体とお母さんの肉体が、微妙に重なり合う。混同してしまう部分がある。

臭いの記憶は
私の血の管を通って体中のどの場所にでも
現れる

 これは、臭いの記憶は私の血管を通って、母の体の、体中のどの場所にも、つまり3連目で書いた肩口、耳の裏、足の指の間など、あらわれるというふうに読むことができる。そのとき、母の体と私の体が、はっきりとは見わけられない。
 なぜかというと。
 臭いは、ほんとうは母の体にはないから。2連目で書かれていたように、その臭いは他人には感じられない。吉本さんだけが感じる臭いです。そうであるなら、その臭いはほんとうはお母さんの体からしみ出ているのではなく、実は、吉本さんの肉体の内部でだけ存在する「記憶」のようなものになる。
 実際に、吉本さんは、そう思おうとする。
 だから、トイレのあとしっかり手を洗うというようなことをする。--けれど、やっぱり臭う。
 
 この臭いは、いったい何?
 この死の臭いは、いったい何?
 もしかすると、それは死の臭いではないのかもしれない。
 では、何の臭い?
 最初に1連ずつ読んだときに言ったのだけれど、これは死の臭いであるよりも、血の臭い。引き継がれていく血の臭い。引き継がれていくというのは、残酷な言い方だけれど、前のひとが死ぬことによって「引き継ぎ」が明確になる。前のひとが生きている限り、引き継ぎは完了していない。
 いのちの繋がりには、なんというか、そういう理不尽なことがある。生きたまま、いのちは引き継げない。実際に、新しいいのちを産むときは、新しいいのちが生まれるときは、だれも死なない。死なずに、いのちの引き継ぎははじまるのだけれど、それが完了するのは、いのちを生み出したひとが死んだときなんですね。
 そういう理不尽ないのちの哲学と向き合って、吉本さんのことばは動いている。

 最終連は、いわば吉本さんの決意ですね。
 いま、死んでいく母を直視する。そうすることでしっかりといのちを引き継ぐ。いのちの引き継ぎを完了させるために、母を見守っている--そういう「いま」が書かれているのだと思います。

 最後に、私の感想。いままでもの感想じゃないかといわれれば、まあ、感想なのだけれど。
 この詩がいちばん好きだという理由は--このいのちの哲学を「鼻」という「肉体」からはじめていることです。頭で、人間のいのちは女から女へ引き継がれていく。それは母が死に、その娘が生きる、そしてその娘が母になって、さらにまたその娘が生きるという血のリレーと抽象的に書くこともできるのだけれど、吉本さんは、そうしていない。何よりも、そういう哲学を書くときに書きにくい「死」の問題を、「死の臭い」、その臭いを記憶している鼻という形で生々しく書いていること。そして、それを「鼻の系譜」ということばにしていること。「肉体」を前面にだしてことばを動かしていること。
 吉本さんの肉体そのものを動かして書いていること。
 鼻、臭いということばを手がかりに、私は吉本さんが感じていることを「肉体」として感じることができる。
 だから、この詩が好きです。
 私は詩の感想・批評を書くとき、たいてい、いまいった最後の部分を中心にして書くのだけれど、きょうは作者の吉本さんがいるので、いつもは書かない部分、書く前に考えていることまでことばにしてみようと思って、こんな読み方をしてみました。 





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事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
読売新聞とFBS福岡放送の文化事業よみうりFBS文化センター
TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp



詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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一海槙『正夢』

2011-11-14 23:59:59 | 詩集
一海槙『正夢』(澪標、2011年09月11日発行)

 一海槙『正夢』は「腕」と「帰路」の2篇がとても印象に残った。どちらも何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、1行1行が安定している。
 「腕」を引用してみる。

あれはたした八月だったのではないだろうか
叔父が別れのあいさつに来て
自分の腕をいっぽん
おせんべつに と 置いていったのは

すこし長すぎる とみんなは言ったが
叔父さんの気持ち だからと
白磁の壺にそっとななめに立てた

 「八月」「別れ」「腕をいっぽん」「白磁の壺」が、戦争と、戦死を連想させる。戦争で叔父が死んだ。遺骨は、腕だけが帰って来た。しかし、それは「すこし長すぎる」というような印象を呼び起こすものだった。「叔父のものではないかもしれない」という気持ちは、叔父は生きているかもしれない、という祈りでもあるだろう。
 こんなことは、もちろん私がかってに想像したことであって、その想像が正しいかどうかはまったくわからない。
 これは逆にいうと、何が書いてあるかまったくわからなくても、ひとは勝手になにごとかを連想し、想像し、思い込むことができるということである。
 このとき大切なのは(?)というか、そういう運動を引き起こすのは、ことばのもっている「来歴」だろう。「過去」だろう。
 この「来歴」「過去」が、ことばの「安定感」の重要な要素なのだ。
 「七月」でも「九月」でも、だめ。「四月」でもだめ。「十一月」ももちろん、「戦争」ということばと直結しない。「八月」だけが「戦争/終戦」と強烈に結びつき、そこへ連想をひっぱっていく。そこに「別れ」「腕いっぽん」「壺」と重なれば、どうしても「戦死」ということになるのだが、もし、「腕いっぽん」ではなく、「足いっぽん」だとどうなるだろうか。
 とても違和感が残ると思う。「戦死」「遺骨」ということばが思い浮かぶかどうか、私にはわからない。「足いっぽん」の遺骨もあるはずなのだが、「足」だと歩けないから、ちょっとまずい。帰ってくる、そして去っていく--そいうときに「足」は必要である。だから「足」をせんべつにおいていくというのは不可能なのだ。そういう無意識の「論理(?)」というか、ことばの整合性のようなものが、この作品には働いている。
 「すこし長すぎる とみんなは言ったが」の「みんな」もそういう「論理」にうまく合致している。母親とか父親とか、妻という具体的なだれかひとりではなく、「みんな」というあいまいさ、そして「合意」の感覚と、「すこし」という異議のあらわしかたが自然である。「すこし」は「みんな」によって「許容」されてしまう。ひとりが「長すぎる」と言い張ると、そこから議論がはじまってしまって、さわがしくなる。
 さわがしくならないようなことばの運動--予定調和のなかで、この作品のことばは動いている。「安定感」は「予定調和」ということでもある。

梅雨には腐らないようになるべく日にあて
真夏は日焼けをさけてすずしい軒下に休ませ
秋がくると舞い散る銀杏のそばで憩わせた
みんな叔父の腕をたいせつに たいせつに
わすれることなくいとおしんだ

 梅雨-ものが腐りやすい、真夏-すずしい軒下で休む、秋-銀杏が散る。この組み合わせは「予定調和」以外のなにものでもない。
 ふつう、こういう「予定調和」は作品を退屈にさせるのだが、「腕」という作品は「リアル」ではない。「写実」ではない。だから、「予定調和」であっても退屈にならない。きっと「幻想」というか、でたらめ(?)の暴走にブレーキをかけ、その速度を適度にする効果が、ことば自身のもっている「過去」のなかにあるのだろう。「過去」が「予定調和」として働けば、その「速度」を信頼してしまうということなのかもしれない。
 そうして、いったん「予定調和」で安心させておいてから、一海はことばう少し飛躍させる。
 3連目。

真冬の明け方には凍らないよう布団の中へ
あたたまると腕はゆっくりと指をのばす
そしてだれかの体にそっとさわるのだった

 こんなことは現実にはありえない。ありえないけれど、信じてみたい気持ちになる。そして、それを信じるとき、実は、読者は(私は)、「腕」の「欲望」を生きてはいない。「腕」が「だれか」の体にさわるのではない。だれかが「腕」にさわり、さわることをとおして逆にさわられることを夢見るのだ。
 ひとは、現実を正しく理解するのではなく、いつでも自分の欲望で現実を歪めて理解するものなのだ。体から離れてしまった腕は動かない。けれど、その腕にさわるとき、さわったひとは「腕」の「意思」を感じ、「腕」が「私」になって、かってに動いていく。暴走する。
 これは、そして--現実ではなく、ことばのなかに起きることである。

 ちょっと飛躍しすぎた。

 一海が書いているのは「現実」ではない。「事実」ではない。ことばである。ことばで語りうることを書いている。ことばは、一海が書いているように、現実にはありえないことを書くこともできる。
 そして、その現実にはありえないことを書いたことばをとおして、--ことばを「誤読」して、ひとはさらに自分でことばを動かしていくことができる。「腕がある」、冬はこごえてかじかむが、腕というものはあたためると動くものである。かじかんでいた指がほどけて、ゆっくり動く。動く指は、だれかにさわりたい。体から切り離された腕はそんなことを思うはずはないのだが、読んだ読者(私?)は、そう思うことができる。
 これは変なことであるが、ことばの世界なのだから、変であってもかまわないだろうと思う。
 で、こういうとき、先に書いた「ことばの来歴/過去」と重なるようにして、人間の「来歴/過去」というものがあるということがわかる。こんなことはわざわざ書かなくても、だれにでも過去はあるのだが……。その自分の過去、自分の知っていることを、ことばのなかにある過去と重ねて動かし、ことばそのものになってしまうということかもしれない。

 こういう詩の場合、してはいけないことがある。--これが、実は、きょうの「日記」のほんとうのテーマなのだが。
 『正夢』というタイトルが象徴しているように、一海のことばは「夢」を描いている。「現実」ではなく、「夢」を描いている。ことばが「予定調和」としての「過去」をもって動くとき、それはまさくし「夢」になる。
 「夢」がどっなに突飛であっても、どこかに自分自身の「過去」という根っこをもっていて、そこから動きはじめるようなものである。
 その自然な動き、「予定調和」は、しかし、「論理」を持ち込むとくずれてしまう。「過去」は必要だが、「論理」は邪魔者である。「論理」というのは結局のところ「過去」のように「事実」ではなく、ほんらい「空想」に属するからである。「論理」というのものは、まだそこに実現していないものを実現させるための道具だからである。「論理」というのは「仮定」を推進するための文法なのである。
 具体的に書いた方がわかりやすくなる。
 「質問」という作品がある。1連目はとてもおもしろい。ところが2連目から突然つまらなくなる。

甘い蜜になってとろとろ
流れ出したい
それをだれかにせきとめてもらって
ゆっくりと口をつけて
なめてもらいたい

そういう願いを
もったとしたら
永遠にきみは
休むことができない
そのことにとらわれて
人生そのものも深く
さしだしてしまうんだ

 「もったとしたら」という「仮定」がことばを縛ってしまう。自律運動を、「仮定→証明」というベクトルをもった「論理」のなかにとじこめ、窮屈になる。「仮定」がことばを「論理」にしてしまうのだ。
 もちろん「論理」にも「欲望」があるかもしれないのだが、それはそれでまた違った運動だろうなあ、と思う。一海がこの詩集で書いているような、素材を「現実」に求めて動く詩ではないと思う。




正夢
一海 槙
澪標
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大野直子『化け野』

2011-11-13 23:59:59 | 詩集
大野直子『化け野』(澪標、2011年10月30日発行)

 大野直子『化け野』は、読みはじめると、ぐいっと引き込まれる。
 きのう読んだ田中清光『三千の日』が「意味」の力で動くことばだとすると--つまり、「繋がる」ことをととのえることで世界そのものをととのえ、美しくする詩だとすると、大野の詩はなんといえばいいだろうか。
 繋がりたくない--けれど、のみこまれてしまう。そういう感じ。母、父のことを書いた詩がある。肉親。その死--当然、その前に病気という面倒くさいものがある。こんなことを書いてしまうと親に申し訳ない気がするのだが、病気の親というのは面倒だねえ。なかなか死なない。見捨てるわけにもいかない。繋がりたくなくても、繋がりがあって、繋がっていないといけない。ずるずるっという感じ。そこにだって「意味」はあり、美しい何かがあるのだけれど、いやあ、きれいごとじゃないからね。
 まあ、考えてはいけないこと(?)を考えながら、生きている。その感じが、不思議に「正しい」と思えるのである。
 どうしてかな?
 「弔いの木」に、その「答え」とは言えないけれど、その「正しさ」について考える手がかりがあるように思う。--なんて、格好つけてもしょうがないねえ。「弔いの木」から、私は、大野に近づいて行けると思ったのだ。「誤読」していけると感じた。

とめどなく降らせた
最後の一葉まで
木漏れ日のザワッとした感触まで
しかし無になったときからがほんとうの降りはじめだった
真っ裸のカツラの木が降らせつづけたものは
吐息
生への執着のような ねっとりした甘い吐息
いや それはたんに
腋臭(わきが)のようなものだったかもしれない
愚痴のようなものだったかもしれない
たしかなことは 何かを放出しきるということ
弔いだった

 「真っ裸のカツラの木」は「母」のことかもしれない。「比喩」である。「象徴」である--ということは、この際、どうでもいい。(どうでもよくないかもしれないけれど。)「比喩」とか「象徴」というのは、「意味」に繋がるから、私は苦手である。ちょっとわきに置いておきたい。(田中の詩を読んだあとなので、一種の「反動」が私に働いているかもしれない。そういうものを「修正」せずに、ただ書き継いでゆく--それが「日記」の醍醐味だろうと、自分で言ってしまっておこう。)
 私が、あ、大野に触れた、触れることができたと感じたのは、

腋臭(わきが)のようなものだったかもしれない
愚痴のようなものだったかもしれない

 である。「腋臭」と「愚痴」が同じものとして書かれている。それが「母」だと、大野は言っている。「カツラの木」は、「母」の「比喩」だが、そしてそれは簡単に言うと「人生の秋(さらには死)」という「意味」に繋がっていくのだが、そんな「意味」を拒絶して、ふいにあらわれてくる「腋臭」という「肉体」。
 拒めないねえ。匂いは。匂いは、鼻の穴を通って、空気といっしょに肺のなかへ入ってきてしまう。「肉体」のなかへ入ってきてしまう。この「生理」のなかに「正しさ」がある。「生理」が間違っていたら、人間は生きていけない、というときの「正しさ」がある。
 その「正しさ」はめんどうくさいことに、嫌悪感(たぶん)といっしょになって「肉体」をかきまぜる。そして、住みついてしまう。
 「愚痴」も同じだ。
 「愚痴」というのは「ことば」、そして「ことば」というのは「こころ」。そこにも「正しさ」がある。いやなことは言ってしまう、言ってしまうってこころを解放するという「こころの生理」の「正しさ」。
 「生理の正しさ」のなかで、「腋臭」という「肉体」と、「愚痴」という「こころ(精神)」の区別がなくなっている。
 大野は、「肉体」と「こころ(精神)」を区別しないのだ。ごちゃ混ぜにするのだ。田中は、それをはっきり区別して、区別したうえで「繋ぐ」。しかし、大野は、それを区別しないだけではなく、かきまぜてしまう。「繋ぐ」を拒絶して「繋ぐ」が不可能な混合物にしてしまう。
 そうすると、そこから「生理反応?」が起きて、「正しさ」が「美しさ」にかわる。--と、私は言いたいのだが、ちょっと急ぎすぎているね。

 で、「腋臭」にもどる。

 大野は「嗅覚」の詩人なのだ。
 「嗅覚」の詩人というのは、別なことばで言えば「空気」を吸い込んで、吐き出す詩人であるということ。「空気」を呼吸する詩人である。(大野は「肉体の生理」にとても忠実な人である。誰だって空気を吸って、吐いて生きているが、その無意識の基本的な肉体の動きを、体全体でつかみ直すのである。)
 「空気」を「呼吸」するとき、面倒くさいことだが「におい」がついてまわる。ついつい「におい」を感じてしまう。「空気」に「におい」がなければ、なんでもないのだが、「におい」があるばっかりに、それに「肉体」が反応してしまう。その反応は、「生理的」である。「頭脳」であれこれ識別している余裕はない。
 そして、その「におい」は「におい」にとどまらない。

生への執着のような ねっとりした甘い吐息

 「ねっとり」という「触覚」を揺り起こし、「甘い」という「味覚」を揺り起こす。そこに「生への執着」という「意味(概念?)」も絡みついているが、それは「生の感覚」から押し出されてしまうねえ。印象に残るのは「ねっとり」「甘い(吐息)」であり、「腋臭」だ。「嗅覚」を刺激し、「肉体」の内部に入り、また「肉体」の周囲にからみついている。こういう一連の動きは、「肉体」の「正しい」反応である。たしかに「肉体」は、あれこれの感覚が重なり、まじりあって動いている。その「総体」が「人間」である。
 しかし、でも、わーっ、めんどうくさい。そんなものとひとつひとつていねいに向き合っていたら、やりきれない。だから、私なんかは、面倒くさいものは棄ててしまって(つまり頭で整理して)やりすごすのだけれど……。
 このめんどうくささを、大野は我慢して(?)、実にじっくりと向き合い、受け入れる。雪に閉じ込められて生きる北陸人だなあ、と私は感心し、こんなことを感じてしまうなんていやだなあ、とも思うのだ。こんなところから共感が始まるのは私が北陸人であるということの「証明」のような感じがして、いやだなあ、と思うのだが、もう感心してしまったのでしようがない……。

 で。
 「空気」にもどる。「呼吸」し、つまり吸い込んで吐き出しながら、「肺」だけではなく、他の器官(感覚)を動かし、動かされ、変質する「空気」にもどってみる。
 「たましいの質量」に、次のことばが出てくる。

 たましいに色や形や匂いはなかった。あるのはモワッとした質量だ。あえて形容するならば、そっとバウンドしてくるような空気玉のようなもの。

 「空気玉」か……。
 これも、ちょっとわきに置いておいて。
 「腋臭」と違って「たましい」には「においはない」というのだが、ここにわざわざ「においがない」と「におい」が出でくるところが大野が「嗅覚」の詩人である、「空気」を吸う詩人であることを証明している。
 いったん「空気」と「肉体」をなじませる。そのあとで「嗅覚」以外の「感覚」を総動員して「空気」をつかもうとする。そうすると、
 「モワッ」「そっとバウンドしてくる」
 この感触。触覚。ああ、よくわかるなあ。よくわかるけれど--自分のことばでは言いなおせない。「意味」ではなく、「肉体」が覚え込んでいる何かで感じる「モワッ」「そっとバウンドしてくる」。
 「意味」ではなく、つまり「頭」へではなく、「肉体」へ直接訴えてくる何かがある。それを大野はていねいに「肉体」で書いているから、私の「肉体」がそれに共感するのだ。
 そして、そのとき「空気」は、「全体」にひろがっているわけではない。「空気玉」となって、「ほかの空気(?)」とははっきりわかる形で「肉体」に触れている。「モワッ」「そっと(バウンド)」という形で、そこにある。
 このあと、次のことばがある。

気配といったほうが正しいのか。

 なるほど、「気配」か。「空気玉」は「気配」か。それは自分が吸って、吐いたことによって(あるいはだれかが吸って吐いたことよって)、ひとかたまりになった「空気」だね。
 空間を、つまり空気のある場を私は「立方体」として考えてしまうが、大野は、その立方体としての空気ではなく、あくまで吸って、吐いて、人間の「肉体」にそまった(?)ものを「玉」、丸い塊として感じている。
 この「丸い」という感じから、やわらかさが生まれる。立方体より、丸い玉の方が、角がないからやわらかいよね。触れやすいよね。でも、ころがりやすいから、ちょっとめんどう。いや、ほら、知らない間にころがってきて、触れたくないのに触れてしまうというときがあるでしょ?

 「気配」は「弔いの木」にも出てきた。

(母さんは気配というかたちで、ときどき立ち現れた。抱きしめたときの耳の
 へりの冷たさだったり、補聴器のピーという小さな雑音になったりしながら。
 そしてとうとうわたしのなかに住みついた……。

 「わたしのなかに住みついた」というのは、「気配」が「空気」だからだねえ。呼吸によって「肉体」に取り込む。取りこれまた空気が少しずつ残っていく。それは「触覚」にまざって「冷たさ」となって「肉体」に響き、「聴覚」にまざって「音」となって「肉体」に残るのだ。でも、この住みついたは、逆かもしれない。「わたし」が母の気配のなかに住みついたのかもしれない。呼吸というのは、出たり入ったり、往復して、区別がなくなるものである。「なか」と「そと」を区別してもはじまらない。
 「すみついたもの」--その「肉体」の「うち」の「空気」は、あるときは「ことば」となるかもしれない。「声」となるかもしれない。その「声」は、母の場合「愚痴」という形でこぼれ、大野の場合は「詩のことば」という形であふれる。
 そしてそれは

放出しきる

 べきものなのだ。
 田中は「繋ぐ」ということにこだわった。
 それに対して大野は「放出」にこだわる。出し切る。棄てる。「肉体」を空っぽにしてしまうのだ。深呼吸するように、呼吸を「正しく」してやると、とても美しい瞬間がやってくる。「肉体」が変化し、同時に「こころ」も変化する。
 墓掃除にいったときのことを書いた「悠遊」の最後の部分。

 わたしは思い切って後ろ向きになり、燭台の端に腰掛けてみた。六年生にな
ってもまだ母のひざに乗るような子どもだったのだ。少し高くなって景色が変
わった。海の頭が見えた。権現森のあいまに見える、てのひらにすくったよう
な海。
 これが、母さんの日常なんですね。墓石にゆったりもたれかかると、霊園の
かたすみのサルスベリが長い首をしなわせて夕日を吸った。

 吐き出すべきものを吐き出してしまう。そうすることで大野は「母」そのものになる。母が毎日見ている海を見て、母そのものになる。そのとき、そばに咲いているサルスベリもまた、大野そのものになる。母になる。世界がひとつになる。
 そして、「吸う」。最後に「吸う」のだ。「空気」だけではない。「気配」だけではない。「夕日」、太陽、つまり「宇宙」を。
 この瞬間、いのちと死がひとつになる。溶け合う。

 もっとていねいに感想を書き直すべきなのかもしれない。
 しかし、ていねいに書き直すと、何かうまく説明できない部分ばかり出てきて書けなくなってしまうかもしれない。
 興奮して、何かわけがわからないままに書いたこの「日記」が、私が感じていることをいちばん正確に再現しているかもしれない。

 いい詩集だなあ、と思う。
 「現代詩手帖」の2011年の収穫のアンケートには書き漏らしてしまったが、収穫の10冊のうち1冊にはぜひ入れたい詩集である。
 いや、詩集というより、いい「ことば」という感じかなあ。いい「声」というべきなのかなあ。「肉体」を「空気」が通り抜けて、その「空気」が大野の「肉体」に染まっている。こういう「ことば(声)」の深さ、豊かさは、なかなかない。
 ぜひ、読んでください。
 発行所の「澪標」の住所、電話番号を書いておきます。
 大阪市中央区平野町2-3-11-203
 (06)6944-0869



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田中清光『三千の日』(2)

2011-11-12 23:59:59 | 詩集
田中清光『三千の日』(2)(思潮社、2011年10月31日発行)

 「火の渦レクイエム」は東京大空襲(1945年3月10日)を書いている。

その夜の空爆は ナパーム焼夷弾が油脂ガソリンを噴出しては
逃げる人びとの頭上にとめどなく降りそそぎ
意表を突かれて焼かれ 黒焦げになったまま
闇のなかで燃えていった人間の身体がのきなみ地に倒れた

 「のきなみ」ということばに傍点が打ってある。傍点がないと何が書いてあるかわからなかったと思う。つまり、とても変なことばである。こんなことろで「のきなみ」が登場するとは、私は思わない。
 田中も、どう書いていいかわからず、「のきなみ」と書いたのだと思う。書きながら何かが違うと感じたので傍点を打ったのだと思う。

 のきなみ。(副詞的に)どこもかしこも。だれもかれも同様に。一様に。ひとしく--広辞苑にはそう書いてある。
 この「定義」でいいかどうか、わからない。たぶん、それを超える。
 でも、どう書いていいかわからない。けれど、書きたい。その、ことばを超えたものが傍点にこめられている。
 追いかけるように、次の2行に出会う。

聖書のどの頁を探したって 仏典のどこにだって
こんな風景は描かれていない

 新しい風景に出会ったとき、ひとは、すでに書かれていることばを探す。書かれていることばで安心したい。書かれていることばに出会えれば、それを書いたひとと「繋がる」ことができる。そして「意味」を共有できる。
 しかし、そういうことができないことがある。
 だれも書かなかった光景がある。その状況を「ことば」で書くとき、ことばは「無意味」である。まだ、「意味」が存在しない。「無力」である。誰とも「繋がる」保証がない。でも、それを「ことば」にしないと、「意味」は生まれない。
 こういう状況だからこそ、「意味」を発生(誕生)させたい--その思いが、たとえば「ナパーム焼夷弾が油脂ガソリンを噴出しては」というような、ひとが一般的に「詩」ということばから連想するものとはかけ離れた「ことば」を引き寄せる。具体的な「もの」の「名前」「述語」をくぐりながら、それと拮抗する「感情(意味)」を探すのである。田中の精神は、とても正確に動いている。正確すぎるくらい、強靱に、「意味」を見出すために動く。でも、見つからない。「ことば」を見つけ出す前に、それこそ「ことば」として読んだことのない「風景」が目の前にあらわれるからである。
 「ことば」を、「聖書」や「仏典」ではなく、ほかのところへ探しに行かないといけない。そうしないと、そこにある「意味」にたどりつけない。
 だが、それは簡単ではない。どうしていいかわからない。そこで「のきなみ」のような、どうすることもできないことばが動く。「知っている」ことばが、動く。「肉体」が覚えていることばが動く。つかえるのは「覚えている」ことばだけである。
 でも、「意味」にならない。
 「意味」とは、他者と「繋がる」こと。それは、言い換えると、「聖書」や「仏典」のように、多くのひと、ことばと「繋がる」こと。「意味」は、ほかの「ことば」と「繋がる」ことで「意味」になるのだから、他の「ことば」と「繋がらない」限り、それは「意味」にはならない。
 「意味」にならないとき、「ことば」はどうなるのか。
 「意味」にならないとき「ことば」は「生まれるの前の感情」になる。でも、ことばになる前の感情、生まれる前の感情は、いったい、どこにあるのか。あると言えるのか。
 私は、ここで「肉体」ということばをつかいたい。つかいたいのだが、ちょっと悩んでしまう。未生の感情を抱いた肉体--「いのち」そのもの。私は、そういうものを感じるのだけれど(予感するのだけれど)、この予感と、田中のことばはうまく合致しない。「言葉」への指向(?)が強すぎる。私の予感するものとは違うものを、田中はめざしている。何か、確固とした強靱なものを田中はめざして動いている。その強靱さの前に、私はたじろいでしまう。

この世という断片 断片の集積
繋ぐのは言葉か 感情か                     (「ひらけ」)

 「言葉か 感情か」という「並列」のあり方が苦しい。「意味」が「苦しい」。「意味」を拒絶されて立ち尽くす田中が、とても苦しい形で迫ってくる。

それからはオリオンの清らかな光は地上には届かなくなった
感情も感官も空白状態になって
現実とは認められない物体の残骸の転がるなかに
立ち尽くすばかりだった

 オリオン--宇宙の美しい光に「意味」はない。「空白」である。そこには「現実とは認められない物体の残骸」しかない。
 ことばは--何も「繋げる」ことができない。何も繋げることができない--ということ、つまり「無」しか繋げることができない。
 絶望の哲学、である。
 この田中の絶望に触れたあと、私はしかし、その絶望ではなく、ほかのものに「共感」したい気持ちに襲われる。
 整然とした--と書くと、田中にそれは違うと言われそうだが--こういう整然とした「論理」ではなく、その前にふとあらわれた「のきなみ」ということばのなかにあったものに身を寄せたい気持ちになるのだ。

それからはオリオンの清らかな光は地上には届かなくなった
感情も感官も空白状態になって
現実とは認められない物体の残骸の転がるなかに
立ち尽くすばかりだった

 そして、ここに書かれている「風景」は「聖書」や「仏典」には書いていないかもしれないが、その「意味」はだれかが書いているのではないか、という気がするのである。「無意味=空白」ということばの動きはだれかが書いてしまっていないか。
 いや、どっちにしたって人間はだれかが書いたこと(言ったこと)を、つまり他人のことばを自分のことばで繰り返すだけなのだから、だれかが先に書いていたって(言っていたって)いいのだが--それとは違う形で、田中はことばを動かせたのではないのか、と思ってしまうのである。
 「のきなみ」ということばを「強引」につかったとき(あるいは「不正確に」、つまりあいまいな、辞書にはない「定義」でつかったとき)、田中の肉体のなかで、「意味」とは違う何かが動いたと思う。その「意味」を破って動いていく何かを、違った形で追いかけることができたのではないのか、と思ってしまうのである。
 そういうものに、私は期待したい--詩の力を感じたい。
 「無意味=空白(無)」と言ってしまうと、「のきなみ」ということばのなかにある「有」が消えてしまう。「意味」を「言葉」で「繋ぐ」とき、何かが失われてしまう。そんなことを感じてしまうのだ。
 もし、「のきなみ」ということばが、この詩のなかになかったなら、私はこんなことを考えなかったけれど、「のきなみ」ということばにびっくりして、そんなことを感じてしまうのだ。



 ということも、実は、書きたかったことではない。
 私は、実は、違うことを書きたかったのだが、きのうと同じように、書こうとしたら違うことを書いてしまった。
 これから、少し、その書こうとして書きそびれたことを思い出しながら書いてみたい。違うことを書いてしまったので、書こうとしたことも影響を受けて、また違ったものになっているかもしれないけれど。
 「火の渦レクイエム」の「意味の言葉」はとても強靱である。でも、私は、その作品や巻末の「ジャコメッティと矢内原伊作さん」と同じくらいに、あるいはそれ以上に「村で」という作品が好きである。

猛烈な寒気 降りしきる雪は熄むことなく
野辺送りした弟のなきがらを
誰にも知らせず こごえさせ
旅は終わるはずだった

だが季節が変われば たちまち
茄子は畑で礼儀正しくみのり
球根のころがる土間で
葱を刻む音がひびく

 「茄子は畑で礼儀正しくみのり」の「礼儀正しく」は、「火の渦レクイエム」の「のきなみ」と同様「無意味」である。「意味」が「辞書」の定義どおりではない。「意味」を超えている。
 けれど、そこに何かがある。
 その何かを、私は「肉体」が覚えている「いのち」だと感じている。
 それは、どんなときでも生きている。「意味」の「繋がり」を超えて、「意味にならないもの」(意味以前)と繋がっている。
 その「呼吸」のようなものを私は感じる。
 それは「葱を刻む音がひびく」の「ひびく」にも通じる。
 葱を刻む音にも「意味」はないし(いや、美しい暮らし、人間の暮らしという意味があるのかもしれないが……)、「ひびく」にはさらに「意味」がない。でも、その「意味」のないものを、ひとはことばで繋ぎ止める。
 「意味」ではないものが繋がったとき、なぜか、私はそれを「美しい」と感じる。この「感じる」は「感情」なのかどうか、私にはよくわからないが……。つまり、「言葉か 感情か」と田中が言ったときと、重なり合うことなのかどうかわからないが……。

三千の日
田中 清光
思潮社
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フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファーザーPARTII」(★★★★)

2011-11-12 20:00:53 | 午前十時の映画祭

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 アル・パチーノ、 ロバート・デ・ニーロ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン

 昨年、「午前十時の映画祭」で「ゴッドファーザー」を見た時は、黒の変質にがっかりしたが、「PARTII」は闇が美しく残っていた。それも「ゴッドファーザー」の、黒のための黒、闇のための闇の色というよりも、はるかに自然な感じがする。(その分、「芸術的」「美術的」な華やかさは欠くけれど。)
 色彩というか、明暗というか、陰影というか・・・「ゴッドファーザー」では、その変化がそのままストーリーと重なる。「PARTII」の方が、その効果はより鮮明かもしれない。私はひそかに、前作で黒(闇)があまりにも美しく撮れたので、コッポラは「PARTII」を撮る気持ちになったのではないかと思っていた。それを、今回、スクリーンで再確認した。しかも、今回は、「芸術」におぼれた映像というより、「いま」「ここ」にある自然という感じになっているのが、何か、すごい。
 明暗、陰影に話を戻すと・・・。
 アル・パチーノは「PARTII」ではどんどん暗くなってゆく。直接人を殺さないのに、手のつけられない闇が体からあふれてくる。冷たい冷たい闇である。これに対し、ゴッドファーザー以前を演じたロバート・デ・ニーロは、人を殺しても黒(闇)に飲み込まれない。不思議に明るい。闇を捨てる、闇を葬るという感じすらする。そして、そこには「ファミリー(マフィアという意味とは違う、本来の「一家」という意味)」の温かさがにじむ。闇を自分から吐き出し、「一家」を自分の「肉体」の明るさでつつむ。
二人の対比、過去といまの対比が、色調、闇と光のなかで、ストーリーそのものになる。
 「ゴッドファーザー」は大傑作だが、「PARTII」はそれをしのぐ傑作であると思う。続編という形で作られたので、ずいぶん評価の面で損をしている部分がある。「芸術」と「自然」を比べたとき、「芸術」に目を奪われるのは当然のことでもあるけれど。

 「役柄」ということもあるのだが、ロバート・デ・ニーロはとてもいい演技をしている。ひとを見る時の目が、ひとの表面にとどまらず、内面にすーっと入っていく感じが特にいい。見ているうちに、知らず知らず、デニーロに見つめられ、そのまま登場人物のようにデニーロと一体になってしまうのだ。
パスタを食べるという何でもないシーンでさえ、デニーロになってパスタを食べている気持ちになる。
その一体感のなかで、デニーロの肉体が動く。芯が強く、しかもしなやかな動きが、自己抑制できる精神の強靭さを具現化している。かっこいいねえ。
マーロン・ブランドをまねた声色は、――私は、その部分だけは嫌いなのだが、そのほかはとても魅力的だ。地声で、もっとデニーロ自身を出せば、さらに魅力的になる。
アル・パチーノは、まあ、損な役どころではある。デニーロが築き、守ってきた「一家」を少しずつ崩してゆく。「家族」が崩壊してゆく。どうしたって、嫌われる。自己主張するたびに、愛しているひとを傷つけてしまう。ダイアン・キートンが得意の受けの演技で、これがまた、すごいね。アル・パチーノのなかにある「絶望」を吸い取ってしまう。目がどんどん暗くなる。堕胎を告げるシーンがすごいが、その告白が、アル・パチーノの「絶望」を結晶化し、アル・パチーノの肉体から切り離し、奪い取る感じがする。奇妙な言い方だが、このあとアル・パチーノは「絶望」すらできなくなる。「冷酷」がアル・パチーノを支配してゆく。誰も信じない人間に仕上がってゆく。
うーん、人間の対比に胸が締め付けられる。

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パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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田中清光『三千の日』

2011-11-11 23:59:59 | 詩集
田中清光『三千の日』(思潮社、2011年10月31日発行)

 八柳李花『サンクチュアリ』を読んだとき、私は「はざま」ということばにひかれた。八柳の思想(肉体)は「はざま」ということばといっしょに動いていると感じた。その「はざま」を、田中清光は「繋ぐ」ということばで書き表わしている。『三千の日』を読み、そう思った。
 「繋ぐ」は「ひらけ」という詩に書かれている。

この世という断片 断片の集積
繋ぐのは言葉か 感情か
消滅する物質 記憶 を繋げるか
世界像をつくりえないままに いつか創造の原初からはなれ
歌ってきた月 収穫(とりいれ)のための種子 惑星のめぐりの宙の青さ

 「はざま」は八柳にとっては、実は存在しないものだった。存在しないから、ことばで作り上げていく。ことばで「はざま」をつくり、「はざま」をより具体的にしていくことが詩であった。
 田中にとっとは「はざま」は最初から存在する。「断片」は「断片」自身として存在するのではない。「断片」が「断片」であるためには、それは「分離」していないといけない。その「分離」が「はざま」であり、その「はざま」を田中は「繋ぐ」。つまり、接近させる。
 八柳と田中はまったく逆のことをしているのだが、逆だからこそ、どこかでぴったりと重なる。「はざま」と「繋ぐ」ということばで、それは重なりあう。

 田中のことばで、私が、はっと驚いたのは、「繋ぐ」と同時に、「感情」である。

繋ぐのは言葉か 感情か

 こう書くとき、「言葉」と「感情」は同義のものだと思うが、八柳の詩に「感情」ということばはでてきたっけ? 読み返して調べないとはっきりしたことは言えないのだが、印象に残っていない。八柳は「はざま」を「感情」で埋めるのだが(あるいは「はざま」を「感情」で耕すのだが)、「感情」を生きているからこそ(書いているからこそ)、そこから「感情」ということばが欠落する。つまり「感情」を別なことばで言いなおしたのが八柳の詩である。
 では、「感情」ということばをつかっている田中は「感情」を書いていないのか。
 書いていない--と言い切ってしまうと、たぶん激しい「誤読」になってしまうのだが、私は、あえて書いていないと言いたい。
 田中が「感情」ということばで書いているのは、私のことばで言いなおせば「意味」である。田中にとって「感情」はすべて「意味」なのだと思う。「感情」は田中ひとりの「肉体」のなかにとどまらず、他人へとつながっていく。そして、その「繋ぐ」とき「感情」は「感情」をこえた「何か」になっている。
 「悲しい」はたとえば「戦争反対」という「意味」になることで、田中と他人を「繋ぐ」。田中のことばは、「他人」と「繋がる」ためにある。「言葉」は「意味」であり、「意味」になることで、「他人」と共有される。

 八柳のことばも「他人」と共有されることで「詩」になるが--たぶん「意味」にはならない。「意味」を「解体」し、「はざま」(繋がりを欠いた領域)をただ広げるだけである。「繋がらない」ということで、八柳は他人と出会う。
 田中は他人と出会うだけではなく、どうしても「繋がる」ことを欲望するのだ。「繋がりたい」。「意味」になりたい。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。--だんだん、最初に書こうと思っていたことと違ったふうに書いてしまっている。もう、戻ることはできないので、違う形で書き直してみる。(私はいつでも最初に書こうと思っていたこととは違ったことを書いてしまう癖がある。)



繋ぐのは言葉か 感情か 

 このとき「言葉」は「感情」と同義である。(ここだけ、私が最初に書いたことを繰り返してみる。)
 では、どうしたら「言葉」は「感情」になり、「感情」は「言葉」になるのか。
 これは、難しい。
 「感情」を「言葉」でつくりだし動かしていく、そのとき「言葉」の動きが詩であるのか、あるいは「言葉」で「感情」をつくりだして動かすとき、それが詩なのか。「新しい感情」の誕生が詩なのだ。
 そうではなく、その往復が詩なのだ。
 --というようなことは、全部「意味」であるような気がする。
 田中は「意味」の詩人であり、その「意味」にひっぱられて、私も「意味」の感想を書いてしまう。

 でも、「意味」とは何?
 八柳のことばとの対比で少し考えたが、そのことはいったん打ち捨てて、あらためて考えてみる。
 「意味」とは何か。

幾時代を過ぎても 韻律と連れ立つ言の葉が
生き永らえ
我らの犯してきた数多くの過誤--
だが発生の現場というものに立ち
物質の無について語ってきたか
もっとも純粋に近い
思考を眼覚めさせてきたか

見えない巨大な塔
砂でできた都会
そこでは無とはすでに絶対として反言語であり
そこからすべての生命と死とは
影となる                           (「ひらけ」)

 ここには「意味」は定義されていない。「意味」ではないものが「定義」されている。「意味とではないもの」とは「反言語」である。
 言葉=感情(意味)であるとき、意味ではないものは「反言語」である。
 そして「反言語」=「無」という定義に従うなら、「意味」とは「無」の対極にあるものになる。
 「無」の対極。それは「物質」か。そうではない。「発生」である。
 「発生」するものが、「意味」である。
 だから。
 「言葉」で「意味」を「発生」させる。「言葉」で「感情」を「発生」させる。
 --田中は、この詩で、田中の詩を定義しているのである。
 「言葉」で「意味(感情)」を「発生」させる。つまり、生き生きと動き回る状態にさせる。そして、その「意味(感情)」をエネルギーとして、「言葉」をより鍛練していく。その往復運動。それが、詩、である。

 あ、でも、こういうことを書いても感想にはならないなあ。
 田中が実際に、どんな「断片」を「繋ぎ」、その「言葉」によってどんな「意味」をつくっていったのか(生み出したのか)、それについて書かないと感想を書いたことにはならないなあ。
                             (あすに、つづく。)



田中清光詩集 (Shichosha現代詩文庫)
田中 清光
思潮社
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フェルザン・オズペテク監督「あしたのパスタはアルデンテ」(★★★)

2011-11-11 23:17:47 | 映画
監督 フェルザン・オズペテク 出演 リッカルド・スカマルチョ、ニコール・グリマウド

 家族がゲイだったら……というのは、もう珍しいテーマではない。どう乗り越えるかといっても、まあ、受け入れるしかない。
 この映画で魅力的なのは、おばあさんである。ほんとうは結婚相手である男の弟が好きだった。けれど人の(たぶん両親の)望みにしたがって兄の方と結婚した。そして、いつまでもいつまでも弟のことを思っている。かなえられない恋--それは消えることがない。思いは、いつまでも消えない。
 この苦悩、この悲しみが、他者へのあたたかい理解へとかわる。恋する人間を責めない。それを台詞ではなく、まなざしで表現する。ゆったりとした肉体の動きで表現する。それが、この映画の基底を支えている。
 それにしても--。このおばあさんと、冒頭のシーン、あるいはときどき挿入される思い出のシーンの「花嫁(おばあさんの若いとき)」が、そっくり。まるで、若い女優が老人になるのを待って撮ったのではと思わせるくらいそっくりなのである。メイクによって似るようにしているのだろうけれど、それにしても「親子」以上にそっくりなのである。そして、それゆえに、この映画が説得力をもつのである。
 このおばあさんのなかに、いつまでもあの若い女性の悲しみと、またよろこびがあるのだとわかる。それは「記憶」ではなく、「いま」なのである。おばあさんの「人の望みにしたがって生きるのはつまらない」「かなえられない恋は消えない(思いは消えない)」というせりふが、「ことば」ではなく「肉体」として伝わってくる。おばあさんは、思い出として、そのことを語っているのではない。「いま」の自分の問題として語っているのである。
 だから、主人公の「いま」とも重なる。ひとのこころが重なるのは、「いま」が重なるのである。
 これは主人公とプラトニックな恋に落ちる若い女性についても言える。パスタ工場の合併相手の責任者(?)なのだが、彼女には、人に語れない悲しみがある。一時期精神が不安定だったのだ。いまでも、気に食わないだれかの車に平気で傷をつけて復讐したりする。だから、人の目が気になる。どこかで、自分を隠している。抑えている。--自分を隠しているからこそ、彼女は、主人公が自分を隠していることを見抜く。ゲイであり、それを他人に隠していることを見抜く。
 この「いま」の重なり、「いま」の融合というのは、なかなかむずかしい。だれでも家族なら理解し合わなければいけないとはわかっている。けれど、それができないときがある。それぞれの「過去」というか、「過去-いま」の「時間」が違っているからである。同じ「いま」を生きているようでも、ほんとうはそれぞれの「過去」を生きている。
 たとえば主人公の男の父親は、男はマッチョであらねばならないという「過去」の「男性像」を生きている。ゲイなんて、嘲笑の対象である。(途中で、ゲイを題材にしたジョークが出てくる。父親のお気に入りである。)母親も、やはり「男はゲイであってはならない」という「過去」にしばられている。両親は「いま」を生きているようでも、実は「過去」を生きている。息子たちとは違った「過去-いま」という時間を生きている。その「いま」は出会いはしても、重ならない。
 この重ならない「過去-いま」が「いま」として重なるためには、めんどうくさいが、やはり「時間」がかかる。「いま」のなかに、「過去」をていねいにつないでみせる「時間」が必要なのだ。他人の「過去」は、そのひとにしかわからない。その「過去」をわかってもらうには「時間」がかかる。「過去」が、そうやってわかる(理解される)というは、矛盾した言い方になるが「過去」が消えるということでもある。「過去」は死んでしまい、「いま」だけが「ここ」にある。
 それを象徴するように、おばあさんが死ぬ、そしてその葬式で家族が「ひとつ」にもどるシーンが最後に描かれる。このときのおばあさんの死も、とってもいいなあ。糖尿病なのだろう。甘い菓子は禁じられている。けれど、おばあさんは最後に大好きな大好きなケーキを着飾って、化粧して、むしゃぶりついて、死ぬ。「甘いものを食べたい」という「望み」を残して、ではなく、完全に消化して、死ぬ。それは「生きる」ということと同じである。「死にざま」とは「生きる」ことである--とあらためて思った。

 という哲学(?)を、この映画は、イタリアっぽくというのだろうか、明るく、笑いとともに描いて見せている。女性のファッションに詳しい、ダンスが好き、おもしろいことをすぐにコピーして笑いのなかで共有するというゲイの風俗(?)をちりばめて「娯楽」にしたてている。主人公の恋人、友人がローマから押しかけてきてのドタバタがとても楽しい。ノイズっぽい声の「5000の涙……」という歌もなかなか味があるなあ、と思った。

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八柳李花『サンクチュアリ』

2011-11-10 23:59:59 | 詩集
八柳李花『サンクチュアリ』(2011年10月20日発行)

 詩は「意味」を追うと、何がなんだかわからなくなる。詩は「意味」ではない証拠である。では、何を読むのか。たぶん「意味」になる前の「響き」を読むのだと思う。
 八柳李花『サンクチュアリ』を読みながら、そんなことをふと感じたが、こういうことはいくら書いても「印象」の領域から出ない。まあ、「印象」から出て行かなくてもいいのかもしれない。でも、私は、少なくとも「印象」の内部に沈み込んでみたい、溺れてみたいと思い、ことばを書く。
 引用したい美しい「響き」が随所に散らばっているのだが、「18」の次の部分、

文字と音声のはざまを震撼する
鉄路の響きのうわずみを
かさかさとめくりあげ。

 この3行まで読み進んだとき、私は八柳の「肉体」に触れた感じがした。
 「サンクチュアリ」(聖域)とは何か。「01」に、

水域を囲むサンクチュアリ

 という1行がある。この行は、ちょっと矛盾している。サンクチュアリに「水域」がある。サンクチュアリの内部に水域があり、それはサンクチュアリの、真のサンクチュアリでもある、くらいの「意味」をもっているかもしれない。水域によってサンクチュアリがサンクチュアリとして定義づけられている。いわば、ここには「二重」の構造がある。そして、その「二重構造」が八柳のサンクチュアリを特徴づけていると言える。
 で、その場合。(と、私は飛躍する。)
 その「二重構造」を別のことば(ありふれた「哲学用語」ではなく)、八柳自身のことばで言いなおすと、どうなるか。

はざま

 だと、思う。「文字と音声のはざまを震撼する」という1行のなかにある「はざま」。「二重構造」というと、一方にたとえば「夜(闇、黒)」があり、他方に「昼(光、白)」があり、それが重なり合う、つまり「2極(対立項)」が重なり合う形になるが、八柳のことばは、その「極」へとは動いていかない。「2極」の「はざま」へと動いていく。いわば「灰色」の半透明な領域へと動いていく。
 「03」の、

夜のなかに白く揺れるままに
陰影をうつす花影があらわで。
君が閉じた白はそんなにも
薄まるというから

 は、「夜(黒)」と「白(光)」の「2極」の「はざま」に「肉体」があり、その「肉体」が「花影」にもなれば、「薄まる」という変化もおこす。ようするに「揺れる」ことで、半透明な部分を拡大していく--という事情を具体的に説明している。

 「サンクチュアリ」というとき、外界(サンクチュアリ以外の世界)と「聖域」の「2極」が考えられるが、その「境界」というのは、八柳にとっては「線」ではなく、「広がり」をもっている。その「広がり」を八柳は「はざま」と呼んでいる。「はざま」という「ひろがり」があるからこそ、そこでは「揺れる」「薄まる」というのような不安定な動きが可能になる。

 「水域を囲むサンクチュアリ」という1行は、

外界-サンクチュアリ-水域(サンクチュアリの内部、サンクチュアリの核)

 という構造(図式)を浮かび上がらせるが、この構造(図式)の「サンクチュアリ」の部分が「はざま」になる。
 これは、しかし、最初に書いたことの繰り返しになるが、まあ、ちょっと変な1行である。「むり」がある1行である。一般的な「外界」-「サンクチュアリ」という2極構造から「ずれ」てしまう。
 しかし、そこに無理がある、つまり、そこにことばの運動上、何らかの矛盾があるということは、それが「思想」(肉体)である、ということだ。無理をしてでも書かなければならない何か、いや、「肉体」を書こうとすると「流通言語」ではとらえきれないものがあふれてきて矛盾してしまう--そこに、「肉体」(思想)そのものがあらわれる。
「外界(俗界?)」があり、「聖域」がある。その「聖域」には「聖域」を特徴づける何かがあり、それを取り囲むものまで「聖域」に属するといえるのだが、そういう言い方をしてしまうと、「外界」も「聖域」に浸食されてしまう。そうならないようにするために、八柳は「はざま」をそこに挿入する。「はざま」によって、「聖域の核」を守る。「聖域の核」を守る「場」となることで、「はざま」は「聖域」になる。

 このときの「なる」が、とても大切なのだ。
 「聖域(の核)」はどこかにある。それが真に「聖域」に「なる」ためには、「外界」と隔てなければならない。「はざま」をつくらなければならない。「はざま」をつくれば、その「はざま」が「聖域」に属する。つまり「聖域」に「なる」。
 あ、おなじことを書いているね。
 別な言い方を考えてみる。

 「真の聖域(聖域の核)」と「外界」の「はざま」とは、「距離」でもある。その「距離」は「固定」されていない。あるいは、「聖域」への「通路」は確立されていない、と言えばいいのか。その「距離」を「固定化」する、その「通路」を「確立」する--「はざま」の「領域」を自分自身のものにする、というのが八柳の詩である。「はざま」のなかに自分自身の「肉体」を挿入し、八柳自身が「はざま」に「なる」。
 と、いうことを、八柳は、ことばでやっている。

 で、ここから、私の感想はまた飛躍する。
 その「はざま」を「肉体」で八柳自身にするとき、八柳は何を手がかりにしている。「音」である。視覚、触覚、嗅覚、味覚--人間にはいろいろな感覚があるが、八柳は聴覚によって「はざま」を確立するように思える。

眠って、そして醒めてからも
山の凪に、押され
こうやって深い根をはっていられる、
ただひたしたと音感に冷やされて。                  (02)

砂がきしむ音で名前を擦られていた、
そうやって文字はだんだんと精密になる、               (02)

言葉から離れ
字義への注釈を揺らす
繰り返される投身の音に。                     (06)

 「意味」ではなく「音」でことばを選びながら、ことばが動いていく領域を「はざま」にする。「音楽」で「はざま」を構築するのだ。

暗闇にうきあがる輪郭を
「他者」と呼ぶとき
沈みはじめる青い昏倒が
言葉で汚れた泥濘を
ゆがんで走る、                         (05)

 この「青い昏倒」の「青い」は「色」であるよりも「音」そのものである。もし「視覚」が働いている部分があるとしたら「泥濘」という「文字」に働いている。ここでは「聴覚」は耳をふさいでいる。
 聴覚を中心にことばが動き、その聴覚を他の感覚が追いかけながら、「はざま」を独自のものにする。

文字と音声のはざまを震撼する
鉄路の響きのうわずみを
かさかさとめくりあげ。

 このとき、「文字と音声のはざま」という表現が象徴的だが、「意味」はほうりだされている。「文字」(視覚)「音声」(聴覚)から「響き」(聴覚)を優先させ(「響きのうわずみ」に、視覚と聴覚の拮抗が感じられるが、「かさかさ」という「音」に動いていくところに、私は「聴覚」の優先を感じる)、さらに「めくる」という肉体の動きへつながっていく。(まあ、ここから逆に、「うわずみ--沈殿」という項目を想定し、「視覚」を優先しているという「論理」も考えられるけれど、こういうのは、先に言った方が勝ち、というようなものだね。別の表現でいうと、どっちに肩入れするか。私は「音」に肩入れしたいというだけでのかもしれない。)

 で。(と、また飛躍する。)
 こうやってつくられた「聖域」のもう一つの特徴。

まるくなる、胎児のように
眼を閉ざしたまま。
私たちは閉ざされたまま。

 「閉ざしたまま」「閉ざされたまま」。主語、補語は違うのだけれど、(違えることで)、「閉ざした」-「閉ざされた」が向き合うことで「ひとつ」になる。世界が閉じられる。矛盾したことばを結びつけることで世界が完結する。それが八柳のことばの運動である。そして、その矛盾したことばのなかには、実は「はざま」がある。「はざま」のなかに八柳がいる--というのが八柳の詩であると感じた。




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八柳 李花
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