詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行『時刻の、いのり』

2011-11-09 23:59:59 | 詩集
今井義行『時刻の、いのり』(思潮社、2011年09月25日発行)

 今井義行『時刻(とき)の、いのり』は「ミクシィ」に発表したもの、という前書きがついている。そして、ひとつひとつの作品には、時刻が記入されている。2010年04月25日:00 「イギリスパンとマーマーレード」、2010年04月25日08:03 『額縁のなかの太平洋』という具合である。時間が隣接しているが、3分間あればオンラインで入力できる行数である。直接書いたものなのかもしれない。
 試しに、『額縁のなかの太平洋』を入力してみる。

そうして また 朝はやってきた
そうして また 食事の支度です

パンをトースターで焼きました
椅子から頂き物の絵が見えます

壁にかけられた額縁は右に傾いていました
そのなかの太平洋が
珈琲を飲む
わたしになだれこんでくるような気がして
わたしになだれこんでくるような気がして

こわかった

トーストに塗ったばらのジャムが
トーストの淵から
はみ出して人差し指がぬれるのも

こわかった

油絵の具の太平洋なので
わたしは 粘り気のある太平洋のしぶきに
まみれました

太平洋の粒子は
太陽に 照らされれて 青、赤、黄、

美しすぎて
からだの奥まで少しずつ浸透していくことも
こわかった

 3分10秒で入力できる。私は目が非情に悪いので、何度かモニターと詩集を往復してしまったが、3分あれば書き込みが可能な量ではある。一気に書いたものであると仮定して読み進むことにする。(ちなみに私はオンラインで書き込んでいるわけではないが、1回40分以内と限って書いている。--ときどきオーバーするが、たいてい40分以内で書くのをやめる。それ以上は目に負担が大きすぎる。)
 一気に書いた詩には、一気に書いたスピードの美しさがある。
 3連目の「珈琲を飲む」の「主語」が直前の「そのなかの太平洋が」なのか。そう思った瞬間、「わたしになだれこんでくるような気がして」によって、「珈琲を飲む」が「述語」ではなく修飾節にかわる。そのときの、一瞬の、飛躍というか、ずれのような感じは、狙って書くというより、勢いで書いたときの方が「正しく」動くように思える。念を押すようにもう一度「わたしになだれこんでくのような気がして」と繰り返すのもおもしろいし、そのあとの1行あき、そして「こわかった」と1行が独立するのもおもしろい。「こわかった」という1行自体は、おもしろくもなんともないのだが、その行が独立するところが、「即興」のおもしろさである。
 「こわかった」の対象が「変質」していくのも、即興ならではだと思う。太平洋がわたしのなかになだれこんでくるのは溺れてしまうからこわかいもしれないが、ジャムで手がよごれるのは、同じように「こわかった」とは言えない。(はずである。)けれど、その「違い」を一気に取り払って「こわかった」でひとつにしてしまうとき、そこに今井独自の「肉体」が見えてくる。あ、そうなんだ。今井はよごれるのが「こわい」のである。「きらい」を「こわい」と感じるのである--と私は思うのである。
 そして、そのあと、

油絵の具の太平洋なので
わたしは 粘り気のある太平洋のしぶきに
まみれました

 と太平洋の絵に引き返し、そして絵から絵の具、それから絵ではなく(?)、太平洋そのものの輝きにまみれていくところがおもしろい。
 「こわい」という感情が、世界の枠をくずしてしまう。「こわい」のなかで、「意味」というのだろうか、いわゆる「概念」の枠がくずれていく。破壊されていく。「美しい」が「こわい」になる。
 こういう動きは、冷静に、じっくり考えると、とても変である。
 そのふつうなら変なことも、即興では変ではない。
 即興というのは、言い換えると、電気のショートみたいなものである。
 むき出しの、ただ、そこに存在するのものが、一気に噴出してくる。そして、ぶつかって、火花を散らす。その輝きが詩になる。
 なかには、2-3分で書けないような行数(ことばの数)の作品もあるけれど、目が健康なら書けるかもしれないとも思う。私の健康状態と比較して判断するのはやめることにする。

 即興には即興独自の美しさ--推敲しない美しさ(?)、ことばをあとからととのえ直さない美しさがある。

あじさいは 直接話法である

 という「浮上する教室--来るべき日々へ」という1行はとても印象に残る。
 一方、あ、変な行と思うものもある。
 「ひるがえる様々な布」というのは、私はとても気に入っているのだが……。

洗濯された
いろいろな衣類は
素直です
はたはたと揺れ

風の最中に
まっすぐな布へ還り
乾いて
畳まれる前に
何かを
伝えようとしている
みたいです

それらは--

いろいろな
内容の
何通もの手紙のようで
開封して
読んでみたい
と想うのです

その日は
陽射しがよく透って
彼らは
いくぶん
はやく乾きました
読まれる前に
部屋の内に
とりこまれて
しまったのです

 4連目の「内容の」という1行。これに、私はちょっとつまずく。つまずくけれど、そのつまずきがまた楽しい。そうか。やっぱり詩には「意味」が必要なのか。「意味」がことばを動かす力なのか--と思わす思う。
 全体としては、ふと木坂涼のような雰囲気がするのだけれど、木坂と違うのは「それらは--」という1行の独立した呼吸と、その呼吸を受け継いでの「内容の」という1行だろうなあ。
 どちらがいいというのは、好みの問題だから、どっちでもいい。
 2連目が、あまりにも自然に、完璧な詩になってしまったので、今井ことばが逆につまずいて、「それらは--」という呼吸になり、それから「内容の」という不思議な1行を生み出してしまったのかもしれない。
 それをそのまま残してしまう--というのも即興の楽しさだ。

     (きょうの「日記」は25分で書きました。私の感想は「即興感想」です。)
時刻(とき)の、いのり
今井 義行
思潮社
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中井ひさ子『思い出してはいけない』

2011-11-08 23:59:59 | 詩集
中井ひさ子『思い出してはいけない』(土曜美術社出版販売、2011年10月28日発行)
 中井ひさ子『思い出してはいけない』は「童話」と交錯しながらことばが動く詩集である。すでに、そこに「物語」がある。それと、どう交わるか。すでにある「物語」の「時間」をどう突き抜けるか。--なかなか難しい。
 こういうときは、説明が少ないほどおもしろい。「物語」とは無関係の、中井の「現実」が硬質のまま、いいかえると輪郭をもったまま輝くからである。
 「ねえ」「またなの」は、そういう作品である。ともに、私にはどの「童話」を題材にしているかわからない。「童話」は題材ではないかもしれない。「童話」の構造を借りて、そこに中井の「現実」を挿入しているのかもしれない。まあ、こんなことはどっちでもいいのだが……。「ねえ」をひいてみる。

公園の石段で
イグアナと出会っても
黙って横に座る

見なれない風だって
吹く

せっかくだから
ねえ

関わりあい方の
練習してみる?

ずい分ながい間
確かめること
忘れていた

身をよじって降りてくる
空を
他人事のように
見上げる

並べて置いてきた
いくつもの
語らない耳

泣かせるね
乾いた
その目

 3、4連目が、とてもおもしろい。だれか、知っているけれど知らない人になってしまった人。怒りか、悲しみか、絶望か。まあ、なんでもいいというと申し訳ないけれど、自分の「殻」にとじこもってしまった人。
 その人のそばに座る。そうして、ちょっと話しかけてみる。いや、話しかけないかもしれない。多々、そばにいるよ、という気持ちだけ。でも、そのとき話しかけなくても、こころは動いている。「ねえ」と声にならない声で呼びかけている。
 ひとはひとはどんなふにふうに接近していくのだっけ。「練習してみる?」--これは、自問。同時に、相手に対する呼びかけかもしれない。

並べて置いてきた
いくつもの
語らない耳

 いいなあ。「耳」はほんとうは語りたい。何か聞いたら語りたい。それは「口」ではなく、たぶん「耳」の欲望である。でも、それを、どこかに置いてきた。その置いてきたものを感じながら、そこに座っている。
 矛盾が、きっと、私とだれかを受け止め、つなぎとめる。その矛盾のありかとして「肉体」がある。
 「乾いた/その目」も同じだ。目は、ある意味では涙を流す(濡れる)ためにある。その目が「乾いている」。「乾いている」と実感できるのは、泣いた人だけである。

 「またなの」は「肉体」になってしまったことば(口癖)を詩に取り込んでいる。

昨日言ってしまった
ひと言が
からだのすき間から
聞こえてきて
ちりちり 痛いよ

またなの と

ラクダが
けむたげな目をして
通りすぎていく

 ひとは言ってはいけないことばを言ってしまうものである。してはいけないことをしてしまうものである。わかっていても。
 「からだのすき間から」と、「からだ」が出てくるところに、「現実」がある。「暮らし」がある。
 こういう詩に出会うと、私はとても落ち着く。



 詩集の前半にある詩は、たぶん、「童話」の世界そのものを強く意識して、それに拮抗しようとしている。その対抗心(?)が色濃く出てしまった。「童話」のことばに中井が生きている「現実」のことば鍛え上げた上で向き合わせようとしている。最初は、その「力」がいい具合に動くが、無理は長くはつづかない。そして、ことばが乱れる。そういう印象が強い。

如雨露で水を撒きたくなるような
砂利道が真っ直ぐに続いていた

両側に濡れた青田の中から
舞い出てくる光が
わなわな
空中に消えていく                        (「降る」)

 最初の2行はとてもリアルである。でも2連目の「わなわな」が無防備すぎる。

三日月が雲の穴に落ちた夜は

垂れ下がった軒下から
がま蛙が這い出してきて啼きはじめる

群れているどくだみは
白い口を互いに盗みあっている

息を殺した塀の飢えを
繊細に歩いていく黒猫                     (「蒼い夜」)

 1-3連はとてもいい。「童話」になっている。特に「どくだみ」の描写がすばらしく、思わず「盗作」したくなる。いつか、この表現を少し変化させて、自分のものとしてつかってみたい、とひそかに思う。こんな気持ちにさせてくれるものが、詩、であると私は思っている。
 ところが4連目がとてもつまらない。ことばが抽象に走ってしまう。「繊細に」が気持ちが悪い。もっと「猫」の「肉体」そのものになって歩かないと。爪とか肉球とか、あるいはヒゲとか耳とか--肉体の描写を欠いたまま「繊細」と言われても、困ってしまう。「童話」ではなくなってしまう。






詩集 思い出してはいけない
中井 ひさ子
土曜美術社出版販売
コメント (1)
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野村喜和夫『ヌードな日』

2011-11-07 23:59:59 | 詩集
野村喜和夫『ヌードな日』(思潮社、2011年10月20日発行)

 野村喜和夫『ヌードな日』は、「パレード1」から始まる。詩集は「パレード」の部分と「防柵」(どう読むの? どういう意味?)から成り立っていて、活字の組み方が違うのだが、そういう面倒なことをネットでは再現できないので、形式を無視して引用すると……。

ヌードな日、

そぎ落とされたのだ、

 何のことかわからないね。「ヌードな日、」ということばもわからない。「ヌード」は知っている。「日」も知っている。けれど、その二つのことばが「な」で結びつく形を私は知らない。
 知らないけれども、「な」はたとえば「きれいな花」のように形容詞とは名詞を結びつける形でつかわれることを知っているので、あ、「ヌード」を「形容詞」としてつかっているのかな?と思う。また、「な」は「の」でもあったな。(例が思いつかない。)だから「ヌードの日」という意味かもしれないな、とも思う。
 まあ、私の考えることはいいかげんである。
 で、1行あいて「そぎ落とされたのだ、」というのは、「補語」がないので何がそぎ落とされたのかわからない。また句点「。」で終わっていないので、この作品が完結しているのかどうか、判断しかける。もっとも、詩なのだから(詩でなくてもそうかもしれないが)、完結することが大切なことかどうか、よくわからないから、これはこれでいいんだろう。
 私の考えることは、いいかげんである。
 で。
 この2行--悪い気がしないのである。気に入った--とまではいかないが、ふっとさそわれる。何かがそぎ落とされた日、それがヌード「な」日。隠しているものが、見える日。あるいは、見せたいと思っていたものが見せる日。隠す-見せる(隠さない)、どっち? どっちの欲望が動くとヌード「な」日になる?
 こういうことは、決めない方がいい。限定しない方がいいだろう。反対のことがらは、どこかで絡み合っていて、どっちにでも説明がつくものである。
 こういうときは、何も決めないで、ただ動いていけばいい。そのうち、どちらであるかがわかるし、その「どちら」をも超えた何かがふいに動きだすかもしれない。不安定というのは、たぶんいままであったものを揺さぶるという効果がある。揺さぶられると、「液状化」ではないけれど、何か、それまで「安定」のなかに隠れていたものが、必然のようにして姿をあらわすことがある。
 --か、どうか、断定してしまうことはできない。
 でも、まあ、野村は、そういうことをめざしてことばを動かしているのだと思う。ことばの「地殻変動」というと、まあ、かっこいいね。やっていることが。
 「パレード」は番号が進むに従って動いていく。

ヌードな日、

知らない肉のゆくえを追え、
でなければ追われるハメになるだろうから、

そぎ落とされたのだ、                      (パレード2)

そぎ落とされたのだ、

ヌードな日、

誰もそこから逃れられない、
そのくせ逃亡が、逃亡だけが、いたるところでリアルなのだ     (パレード3)

 「でなければ」「そのくせ」ということば、それをはさんがことばがおもしろい。
 「追え/追われる」「逃げられない/逃亡(する)」。矛盾している。どっちなのだ。どちらでもあるのだ。
 この野村のいいかげんさと、私のいいかげんさが、まあ似ている。いやいや、私はいいかげんではないのだ。野村のいいかげんさに染まって、いいかげんなことを書いているだけなのであり、他人のいいかげんさにそまるというのは、私が真面目だからである。いいかげんを真剣に引き受けるといいかげんになってしまうのだ、と自己弁護しようかなあ。どうしようかなあ。
 野村は、いや、そうではない。私は真面目である。谷内がいいかげんに読み、いいかげんなことを感想に書くから野村がいいかげんにみえるのだ、許せない。そう批判するかもしれない。
 あらら。水掛け論。
 まあ、どっちでも同じなのだ--と、ここでもいいかんげなことを書いておく。

 で、いいかげんついでに書いてしまうと。
 野村の詩は、「意味」などどうでもいいのだ。「意味」というのは誰でもがもっている。そして自分の「意味」と他人の「意味」が通い合わないとき「意味がわからない」というだけなのであり、他人の「意味」にいちいちつきあっていたら、他人のいうことはすべて「正しい(意味)」になってしまうから、そんなことをしても「無意味」なのだ。
 ことばには「意味」はない。野村のことばには「意味」はない。
 そこから、私は出発するのである。
 「意味」がなくて、では、何があるのか。
 スピードがある。
 「防柵5(ゾーン)」の前半。

ゾーン、
ぼくは沈める、
きみを、ぼくの脳を、
奥底の、冷やかな水に、
水銀のような水に、

    血まみれの頭が、水蜜桃のような頭が、
    女の股から、出ようとしている、
    俺はそれを押さえ、

  私の、はや、デスマスクの、
  その右の顎のあたりから、
  いびつな赤ん坊の顔が、泣きわめきながら、
  せ、せりあがってくる、

 出産と嬰児殺し? それを裏切って生きる嬰児、生き延びた嬰児の逆襲?
 ね、「意味」は適当にどうとでもなるでしょ?
 だから、「意味」には触れない。
 なんだかあやしげなことを書いたあと、この詩は一気に変化する。

愛とは、息から息へと枯れがれの実存(ゾーン)を運ぶ飢えと乾きのトルネードであり、また
そのトルネードをよぎる乳暈(ゾーン)めく鳥の取扱注意である、

 おーい、いったい、何を書いているんだ。これは何語だ? 日本語なのか? 「乳暈」はいったいなんと読むんだ。「にゅうき」と入力して変換キーを押しても漢字が出てこないぞ。「乳」(母乳?それともおっぱい?)の眩しいような輝きのことかなあと思うけれど--ねえ、そんなことを思ってしまうと、その思いのなかに、野村の気持ちではなく、私のすけべごころが混じる。だから、いやなんだよなあ。こういう作品の感想を書くのは。谷内はすけべだと思われてしまう。(もう、思われてしまっているから、まあ、いいか。)
 で、ね。
 いま書いたことを繰り返してしまうのだけれど、何がなんだかわからないことばが猛スピードで動いていく。そうすると、そこに野村の「思想」ではなく、私の知っていること(つまり肉体にひそんでいる思想)が浮かびあがってきてしまう。野村の思想を追いかけようとすると、追いつけないので、私は私の「地」で野村のことばをねじまげる、ねじふせる、ということが起きる。スケベな私(谷内)が出てきてしまう。
 このスケベな私(谷内)を覆い隠すように、ほらほら、野村は正真正銘のすけべだから、こんなところで「乳暈」というようなことばをでっちあげ、「ゾーン」なんてルビをふって、あたかも何か哲学的なことを装っている。
 実存(ゾーン)は乳暈(ゾーン)である、おっぱいはまばゆい実存(ゾーン)である、と、ことばの暴走にまかせて言ってしまう。
 あ、でも。
 これ、私はとっても好きなんです。
 ことばが暴走する--それを「肉体」の暴走に置き換えてみる。暴走しすぎて、自分のスピードのために転びそうになる。そのとき、肉体は、制御できない動きのなかに乱れていく。その一回限りの乱れ、そして、その乱れを復元しようとする不思議な抵抗。
 美しいとか醜い、ではなく、あ、あ、あ、あ、転ぶ……と思うときの、何とも言えない他者との「一体感」。自分が転ぶわけではないのに、思ってしまうでしょ? このときの不思議な一体感。
 これは運がいいと、「転ぶ」ではなく、「飛ぶ」になる。浮き上がる。浮遊する。俗なことばで言うと「ハイ」になる。これもいいよねえ。あ、あ、あ、もうすぐぶっ飛んでしまう。まるでセックスだねえ。

 また、すけべ、と言われそう。--でも、念を押しておきますが、私(谷内)がすけべなんじゃないんですよ。野村がすけべなんですよ。私は、野村がいかにすけべであるかということを報告しているだけなんですよ。誤解しないでくださいね。

ZOLO
野村 喜和夫
思潮社
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デブラ・グラニック監督「ウィンターズ・ボーン」(★★★★)

2011-11-07 22:10:10 | 映画
監督 デブラ・グラニック 出演 ジェニファー・ローレンス、ジョン・ホークス

 ここはいったいどこなのだろうか。アメリカの地方とはわかるが、まったく知らない世界がそこにある。荒涼とした山。生きている動物。動物のように「掟」にしたがって生きている男たち。耐えている女たち。
 その耐えている女のひとり--主人公の少女がすごい。
 父親が家や土地を担保に保釈金をつくり、そのまま疾走する。そのために家を追われそうになる。家には精神を病んだ母と弟、妹がいる。少女がなんとかしなければ一家は生きていけない。
 で、ふつうなら挫けそうになるところなのだけれど、その山の中で生きてきた「一族」の精神(あるいは山の中で生きてきた男たちの精神)を父親以上に具現化し、懸命に生きる。たとえば、食料がなくなったとき、リスを殺し、シチューにする。--その前に、リスを捌く。その、捌き方を弟にしっかり教える。皮を剥ぎ、内臓を素手で取り除く。これを覚えなければ生きていけない。生きるとはどういうことかを、教える。たぶん少女自身が、そういう生き方を父や一族から習ってきたのだ。そのことが、強い力でつたわってくるのだが、そのときの「手」の強調がとてもいい。生きるとは食べることであるけれど、生きるとは「手」を使うことなのである。人間は「手」を使う生き物なのである。
 だから、これに先立つシーン。リスを銃で射止めるシーン。少女は6歳の妹に、銃の引き金をひかせている。「ここに指をかけて」と。
 この「手」が、この映画のキーワードで、クライマックスにもう一度登場する。それは、まあ、ここでは書かないでおく。

 「手」には日本語の場合「手を汚す」という表現がある。英語にも同じものがあるかどうか知らないが、たぶんあるだろう。
 少女の父は麻薬密造に関係している。「手を汚している」。「手を染める」ともいうかもしれない。
 そして、男たちは「手」で相手を殴る。(女も、手で殴る。)このとき、たとえばほかの道具を使っていても、その道具(たとえば棒、鎖など)を使い、動かしているのは手である。「手」を動かして、ひとはひとを傷つける。
 その一方「手を差し伸べる」という表現もある。少女の困窮を見かねた近所のひとが料理に使う材料をもってくる。
 「手を組む」という表現もある。少女の父は、「手を組む」べき相手を間違えて(裏切って)、殺される。
 一方、「手を洗う」ではなく、「足を洗う」という表現もある。この映画では、そういう「足」は出てこない。「足をいれる」(踏み込む)は、「手を出すな」と同じように「禁止」としてつかわれている。
 どういうつもりで撮っているのかよくわからないが、少女のクロゼットにはブーツがきちんと揃えられている。その数に、何か、とても不思議なものを感じる。その印象が強くて、映画から「手」が浮かび上がってくるのかもしれない。
 「足が地についている」ということばを、いま、ふいに思い出した。そうか、少女は、この山野生活に、「一族」の生活に「足が地についている」状態なのだ。だから、そこを離れない。離れようとはしない。「足を地につけて」「手を自由に動かして」生きる。
 ということが、まるでドキュメンタリーのような、厳しい映像、遊びのない映像でつたわってくる。遊びがない--とはいっても、それは映像自体のことであって、どういう暮らしにも「遊び」はある。12歳の弟、6歳の妹がトランポリンで遊び、また干し草の山で遊ぶシーンは、こどもは「遊ぶ人間」であることを教えてくれる。そういう姿をきちんと映像化し、他方で自分の「手」で人生を切り開いていく少女がしっかりと描かれる。

 厳しい生活、厳しい人間関係のなかで、一か所、胸にずしんと落ちてくる静かなシーンもある。少女は金に困って軍隊に入ろうとする。軍隊に入れば4万ドル手に入る。その金で弟、妹を救える--そう思い、入隊を申し込む。
 このとき、担当官が少女に質問する。なぜ金かいるのか。そして、厳しいかもしれないけれど、弟・妹のところへもどって生きるのがあなたにとって必要なことだ。弟・妹もそれを必要としている、とこことばで説得する。
 そのことばを少女は受け入れる。
 とても短いシーンだが、私はうなってしまった。
 まるで「論理」を超越して、荒々しく、野生のように生きているように見えて、実は少女は「ことば」を生きている。自分の「暮らし」をことばにしている。最初の方に、隣の家の人が鹿を捌いているのを弟と見るシーンがある。弟が「もらいにいったら」と提案する。少女は「もらうのはいいが、物乞いはだめだ」という。結果が同じではなく、その過程を「ことば」でどう表現できるか。それを、少女は問題にしている。
 少女は、ただ生きているのではない。一瞬一瞬を「ことば」にしながら、そのことばの「論理」を点検しながら生きている。その生き方が、この映画の強い「芯」になっている。最初に書いたリスの皮を接ぐシーン。そこでは少女は「私はこっちからひっぱるから、おまえはそっちをひっぱれ」と弟に語る。ことばで説明する。「内臓も食べるのか」ととう弟に「いずれは」とちゃんとことばにしている。妹に銃の引き金をひかせるときも「ここに指をかけて」ときちんとことばにしている。
 映画とは基本的に「ことば」がなくても成立するものだが、この映画では、そういう細部の「ことば」が、映画そのものの「芯」になっている。

 「ウィンターズ・ボーン」というのは、いったい何のことだろうか、と途中までまったくわからなかった。最後に「意味」がわかるのだが、その「ウィンターズ・ボーン」ということばのつかい方そのものが、この映画を象徴しているとも思った。
 そして、その問題の「ウィンターズ・ボーン」のシーン。水面に浮いた電動ノコギリの油(油幕)の映像が、深く、冷たく、そしてとても美しいのに、私は息をのんだ。

 強烈な少女を演じた ジェニファー・ローレンスは「あの日、欲望の大地で」で、絶望を演じた少女だった。映画を見終わったあと、どこかで見た顔--と思いながら、なかなか思い出せなかった。役柄が離れすぎていてだれかわからないということはよくあるが、近すぎるのにわからないというのは、近いようでいて、それぞれまったく別個な人間として感じきっているからだろうとも思った。


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林嗣夫『あなたの前に』

2011-11-06 23:59:59 | 詩集
林嗣夫『あなたの前に』(ふたば工房、2011年09月20日発行)

 林嗣夫『あなたの前に』は「ことば」をテーマに書かれた詩が多い。「あなたの前に」は、その「総括」のような作品である。

一般的な「グラス」そのもの、というようなものは
この世のどこにもない
と、ものの本に書いてある
仕事のあとのそれにビールをついでぐいぐいと飲む時
初めてそれは「グラス」として立ち現われるのだ、と
飲む前から「グラス」だったのではない、と
もしぱんと割って破片で人に切りつけたら
その時「グラス」ではなく「凶器」として立ち現われる
水を少し注いで箸でぴんとたたいたら
それは小さな「楽器」として立ち現われる
そのような行為(関係)から離れて
一般的な「グラス」そのものなんてどこにもない、と

 この場合「ことば」は「名前」である。--と、書いた瞬間、私は、いままで書こうとしていたこととまったく別なことを思いついてしまったのだが、それはあとにして、とりあえず書こうと思っていたことを先に書いておく。
 林がここで紹介しているのはだれの考えかよくわからないけれど、林はそれを自分にあてはめて点検しようとしている。そこに、不思議な、林の正直があらわれている。
 もし、「グラス」そのものというものがこの世にないのだとしたら、「林嗣夫」はどうか。

「林嗣夫」なんてこの世のどこにもない
と、ものの本に書いてある
(略)
一つ一つの行為(関係)に先立つ「林嗣夫」なんて
ほんとうはどこにもないんだ、と
では
水を飲む前のわたしは
何だったのだろう
無辺に散らばる水素の類か
うっすらとこの世をさまよう千の風、
だったのか

まあそれはそれでいいとして
でも……
とつぶやく声がどこからか聞こえてくる
か細い声が聞こえてくる
ある日
ほかでもないあなたの目の前に
くっきりとしたわたしの姿で
わたしの新しい名で
立ち現われたい、と
これはものの本には書いてない

 だれかのいったことを否定はしない。そこに書かれていることを受け入れる。そのうえで、異義をとなえる。
 林は、行為(関係)で「林嗣夫」になるのだとしても、「あなた」の目の前に立つ時と、そういう「一般的(?)」な行為・関係によって「意味」づけられた林ではなく、まだ「意味」づけられていないひとりの人間でありたい--と願っている。その願いは、本には書いてはない。
 「新しい名」とは、それまでの行為(関係)とは、別の行為(関係)である。だからこそ、「新しい名」が必要になる。「あなた」だけにとっての「名」が必要になる。そういう「名」でありたい。
 この「名」は行為(関係)を含む。したがって「新しい名」とは、「新しい行為(関係)」に他ならない。
 まだ、だれも行為していない行為、関係をつくっていない関係--それを文学の用語では「詩」という。それは「新しいことば」でもある。それまでの「意味(行為/関係を説明するもの)」を超えた「ことば」。
 --こんなふうに、あくまで、他人の論理に従いながら、その論理をところまで、ことばを動かしていく。そして、それを「詩」にする。
 論理を守ることで、論理を超越する。そうして、その「超越」を「詩」の運動とする。超越するまで、ていねいにていねいにことばを追う--その正直さが、とても美しい形で結晶している作品である。

 林の詩が、美しく、しかも落ち着いて感じられるのは、たぶん、この論理をきちんと守ることばの運動に負うところが大きい。論理は、美しいし、その論理を超える運動はなお美しい。
 --ということを、私は、林の詩集を読みながら書きたいと思っていた。(ほんとうはもっとていねいに書きたいと思っていた。)そして、実際に、そんなふうに大急ぎで書いたのだが……。

 この場合「ことば」は「名前」である。--こう書いた時、つまり、林の詩の感想を書きはじめた時、私は、実は書き間違えている。ふと思いついたことに黄をとられて、ことばが走ってしまい、大切な何かをいくつも落としている。
 ほんとうは、この詩の場合、林がテーマととしている「ことば」とは「ものの名前」のことである。--と書かないと、「グラス」というある「ものの名前」のことへと論理はつながっていかない。
 「もの」には「名前」がある。たとえば「グラス」という「名前」がある。けれど、その「名前(ことば)」は行為(関係)によってかわるというのが「本」に書かれていることである。その論理をあてはめると「林嗣夫」という「ひとの名前」はどうなるか……と林は考え、その論理を超えてみせた--というのが、きっと正しい(?)書き方である。それは

この場合「ことば」は「名前」である。

 と書いた瞬間に気がついたのだが、どうしても直せなかった。直していると、ことばがぐずぐずして進まないからである。で、間違えたまま、私はことばを動かした。
 --と、ことわって、これからほんとうに書きたかったことを書く。たぶん林のことばの運動を離れてしまう。いきなり林のことばの運動を離れてことばをうごかせば、林の詩の感想にはならない。だから、私は、あえて間違いを知っていて、そう書いたのだ。(と、同じことを、私はくりかえしているね。)

 私が書きたかったこと。

 林はなぜ「ものの名前」(グラス)について書かれていることを信じてしまったのだろうか。
 「ものの名前(ことば)」が行為(関係)よって変化する、流動的なものである、というはたしかに正しいかもしれない。けれど、この論理には、ひとつ、とても変なところがある。いや、論理に変なところがある、のではなく、その論理を点検するにあたって、林が「グラス」のかわりに「林嗣夫」をもってきたところが変であるというべきか……。
 「ことば」には大きくわけて種類が二つある--と国語の先生(たしか林は国語の先生だったと思う)に私がいうようなことではないのだが……。
 その二つとは「体言」と「用言」。簡単に言いなおすと、ことばには「主語」と「述語」があり、その二つが組み合わさって文になる。
 で、そのとき、つまり林がだれかの論を点検するとき、林は「主語(体言)」を入れ換えて点検しているが、なぜ「述語」を入れ換えて点検しなかったのか、という疑問が、私を突然襲ってきたのである。
 
 これは、林を責めているのではない。

 不思議なことだが、私たちは、おうおうにして「主語」を入れ換えることで「詩」をつくっている。「主語」を「比喩」によって入れ換えることで「詩」をつくっている。
 たとえば「石灰」という詩では、石灰を「女性の肌」という「比喩」によって「詩」にしている。畑仕事をしていて、石灰をまこうとして、袋の中に手を入れた瞬間、石灰ではなく「女性の肌」に触れた--そう書くことから、詩が始まっている。
 「主語」を「比喩」によって入れ換える。そのあとで、「述語(用言)」をととのえ直していく。

なんとういなめらかな存在だろう
つかみ直しても指から流れ去っていく軽やかさ
さらに押さえると物質の重い密度
空(くう)であり 色(しき)であるもの

 「主語」はさらに「物質の重い密度」にかわり、「空」にかわり、「色」にかわる。それにあわせて「述語(用言)」がかわっていくのだが、そうして、こういうことばの運動を私たちは(私は、と限定すべきか)、詩と感じているのだが……。

 もしかすると、私たち/私は、たいへんな「罠」に陥っていないだろうか。
 「主語」を変えて点検するのではなく、「述語」を変えて点検し、「述語」の変化を「主語」に反映させない時、ことばはどうなるか--それを点検しないといけないのではないか。
 もっと言うなら、
 行為(関係)がかわるとき、「ものの名前」は変わる。つまり、あのときは「グラス」、あるときは「凶器」というふうに、「ものの名前」は変わる。
 という「述語」のありよう、そのものを点検しないといけないのではないだろうか。
 
 言いなおすと。

 私たち/私は、なぜ、その「述語」を信じてしまったのだろうか。
 「述語」の運動、「用言」の運動には、何か、私たち/私が見落としているおそろしいものがないだろうか。
 ある「述語」の運動、「用言」の運動を私たち/私が正しいと信じるとき、その「正しい」の根拠は何なのか。
 林の詩の向こう側から、その暗い声が聞こえてくる。考えよ、と迫ってくる。

 --これは、林の作品に対する直接的な感想ではない。けれど、直接的な感想以上に、林のことばが私に強く影響して動いていることばかもしれない。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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小柳玲子『さんま夕焼け』

2011-11-05 23:59:59 | 詩集
小柳玲子『さんま夕焼け』(花神社、2011年10月24日発行)

 小柳玲子『さんま夕焼け』は非常におもしろい詩集である。「過去」が説明なしに出てくるのである。「過去」が「いま」を突き破って、平然としているのである。
 「三月 雨」には、わけのわからない「過去」が「もの」となって、三つ出てくる。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった
「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった
父の部屋はとても遠い
長い廊下を走っていったが どの夕方にも間に合わない
裏木戸にはむらさきのおおきなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い
不意に電話ボックス 廊下に電話ボックスも変だが
在るのだからしかたがない
「や おまえ サンマは届いたか」
受話器の中から父がいう
「旬の過ぎたサンマだが まあ我慢しなさい
 山住まいのおまえにはご馳走だろう
 雨はどうかね からから天気と聞いたが
 山火事には気をつけなさい
 アメフラシの親子を送っておいたよ
 むらさき色のおかしな奴さ」
父の部屋はとても遠い
海が近いらしい
波打ちぎわにはアメフラシの家族が住むらしい
そこにはまだ行きついたことがない
三月 山間(やまあい) 夜半より雨

 「サンマ」「電話ボックス」「アメフラシ」。ほかにも、まあ、変といえば変なものが出てくる。たとえば「遠い」「父の部屋」なんかもそうだが、とりあえず(?)、とっても変なのがサンマ、電話ボックス、アメフラシである。なかでも特別に変なのがサンマである。電話ボックスやアメフラシはサンマにつられてでてきただけである。

夕方
窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった

 このとき、「サンマ」は「比喩」である。サンマのような顔をした人--と読むことができる。鳥の顔をした人、犬の顔をした人--といえば顔を見れば鳥を思い出す、犬を思い出すということになる。サンマの顔もサンマを思い浮かべる顔、ということができるだろう。
 ところが、

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった

 と言ったとき、もうそれは「比喩」ではなくなっている。サンマそのもの。「サンマの顔をしたもの」という「比喩の現実」を突き破って、サンマそのものがあらわれた。サンマしか見えない。どこかに、あるひとの顔がサンマに見える理由(根拠-過去)があるはずなのだが、それがまったく説明されずに、それどころか、「比喩」であることさえやめてしまって、「現実」としてそこに存在する。
 「お父さん サンマが」と途中で切れてしまっていることばが、とても効果的だ。
 サンマがどうしたというのだ。
 小柳には言うことができない。現実がサンマに乗っ取られてしまって、それをどう言っていいかわからない。動詞がみつからない。「サンマが……」言いたいのだが、言えない。その言えないことを「お父さん」に言ってもらいたくて「お父さん サンマが」ということばになるのかもしれない。--まあ、これは、どうでもいい。
 なにもかもが、どうでもいい。ただ、サンマなのである。サンマの根拠、過去--いまとのつながりを説明することを拒否して、ただ、あったはずの過去をただ、そこに出現させる。
 「電話ボックス」も「アメフラシ」も同じである。電話ボックスには「廊下に電話ボックスも変だが/在るのだからしかたがない」という開き直り(?)のことばがつけくわえられているが、あらゆる「過去」というのは、もう、しかたがない。起きてしまったことなのだ。「いま/ここ」になにかあるとしたら、それはたしかに「過去」に原因(理由)があるはずだが、そういうものはつきつめても仕方がない。「いま/ここ」にあるものが変わるわけではない。ああ、こんなところに、こんな「過去」がこんなかたちであらわれてしまうのか、と思うだけである。

 でも、まあ、こんなことも、どうでもいい。
 「過去」が三つ出てくる--などと書いたのは、きのう書いた山之内まつ子の『徒花』のことを私がまだ引きずっているからである。山之内の「過去」は全部説明されている。「いま」と「過去」が結びついて、きちんと説明されている。説明されすぎていて、「散文」になっている。
 一方、小柳の「過去」は説明されない。「過去」があります、というだけで、何の説明もしない。
 そして、何の説明もしないことによって、そのまわりが微妙に変化する。生身の人間に出会ったとき、ふいに気がつくわけのわからない「過去」のにおいに影響されて、何もいっていないのに変なことを感じるようなものである。
 芝居で、ある役者が出てくると、それだけで時間が複雑化するのに似ている。だれでも「過去」をもっている。その「過去」がにおって、それに影響される。「いま」が不安定になる。そして、動きだす--というのに、似ているかなあ。

 サンマ--何か、わからない。何の「象徴」なのか、「意味」がわからない。でも、私はサンマを知っている。だから、「窓の外をサンマの顔をしたものが歩いていった」という1行を読んだとき、「意味」はわからないが、サンマ(の肉体)が見える。この「意味」はわからないが、「肉体」が見える--というのが「過去」が「いま」を突き破ってあらわれるということである。
 私が感じているのと同じことを小柳は感じたのだろう。だからこそ、思わず、「お父さん サンマが」と言ってしまった。こういったとき、小柳は、近くに父がいると思ってそう言っている。父が近くにいるという「過去」が「いま」まであったから、思わずそういう反応をしてしまったのだが、

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった
父の部屋はとても遠い

 父が近くにいない、ということに気がつく。これも「いま」に気がつくというより「過去」に気がつくということかもしれない。
 「父の過去」。たとえば、父は死んでしまって、いまはない、と気づく。それは「いま/ここ」に父はいないと気づくことというより、父は死んだときづくことである。「いま」に気づくのではなく、「過去」をあらためて発見するのだ。
 一方に「サンマ」というわけのわからない「過去」があり、他方に「父が死んだ」という小柳にとっては自明の「過去」がある。
 この不明の過去と自明の過去の衝突が、詩を生き生きとさせている。

「お父さん サンマが」といったが父には聞こえなかった

 というが、どうして「父には聞こえなかった」とわかるのだろう。聞こえたか聞こえなかったかは父にしかわからない--というのは、嘘である。だれだって、こういうことは経験している。だれかに何かをいう。でも、返事がない。聞こえないは、ほんとうに聞こえいなということもあるが、何かに夢中になっていて「聞いていない」ということもある。そういう「経験」(過去)を小柳は、父とのあいだでもっている。(もっていた。)そういう「過去」もここに噴出してきている。さらに、父の部屋が遠いところにあった--たとえば離れとか。そういう「過去」も知らず知らずに噴出してきている。
 もちろん、いまは、父は死んでしまっているから、父のいる部屋は「とても遠い」。これは、比喩であるが、現実である。
 --これは比喩であるが、現実である、と、私はいま、とてもあいまいなこと、矛盾したことを書いたが、たぶん、これが小柳の今回の詩集の特徴である。
 どのことばも比喩なのだが、現実である。比喩ということばを使うと便利なのは、その比喩が実は「過去」だからである。これは「過去」だが「現実」である、というと、そこに「時制」の矛盾がでてきてしまう。「過去」と「いま」は同時に存在しえないという「科学的論理(?)」が思考を邪魔してしまう。比喩と現実ならば、「時制」は問題にならない。
 で、このことから、私は逆に、小柳の詩には「過去」が噴出してきている、「いま」のなかに「過去」が顔を出して平然としている、というのだが……。

 少し抽象的に書きすぎたかもしれない。私のことばは急ぎすぎているかもしれない。詩に、もどる。

長い廊下を走っていったが どの夕方にも間に合わない

 この1行も、実に、変。そして、実によくわかる。
 たどりつくべきは「父の部屋」。でも、何かにたどりつこうとしてたどりつけないとき、気になるのは「時間」だねえ。「どの夕方にも間に合わない」。「意味」はいろいろい考えられる。「夕方」が終わってしまって、夜になってしまう。
 「サンマ」のことより、時間のことが気になってしまう。意識が、なぜか、変化してしまう。
 だから、見えるものまで違ってくる。そして、言いたいことまで違ってくる。

裏木戸にはむらさきのおおきなものと
むらさきの小さなものが来ていた
「お父さん むらさきの」
叫びながら走ったが 父の部屋は遠い

 サンマは、どこへ消えた? 「むらさきのもの」って、サンマ? サンマは、紫かなあ。青く光るから、夕暮れには紫にも見えるかなあ。でも、違うよね。
 小柳のことば自体「お父さん さんまが」から「お父さん むらさきの」に変わっている。
 遠い父の部屋--遠い過去へ向かっている内に、過去の時間がごちゃ混ぜになって、別の「過去」が噴出してきているのだ。夢のなかでのように、ある「運動」は持続しているのだが、あることがらは脈絡をなくしていく--というように「過去」がずれながら噴出する。
 ここまでずれてしまえば、電話ボックスくらいは平気である。ぜんぜん、変ではない。電話ボックスがなくて、そのまま小柳が走りつづけて父の部屋にたどりついてしまう方が変である。たどりつけない。たどりつけないだけではなく、また何かに邪魔されるというのが当然のことである。必然である。「過去」はごちゃまぜなのだから。

「や おまえ サンマは届いたか」

 ふいに、小柳が忘れてしまっていたサンマを父の方が引っぱりだす。
 このねじれ、ずれも、とてもリアルだ。
 現実はいつでもねじれながら重なり合う。一人が忘れ、別の人が思い出し、「過去」を甦らせ、「いま」を突き動かす。
 同じ会話をした「過去」が小柳にはあって、それが、「いま/ここ」に噴出してきているのだ。

 結局、と、私は、突然「結論」を書いてしまうのだが(私は目が悪いので--と弁解をしておく。一回に書ける分量が決まっていて、時間が来たら書くのをやめるのである。時間制限で「日記」を書いている)、ここに書かれているのは、「過去」には私(小柳)には父がいました。父と私の関係はこういうことでした、ということなのだ。ふと思い出した「過去」、「いま」へあらわれてきた「過去」--それをそのまま書いている。
 サンマはきっかけに過ぎない。
 思い浮かべるとき「過去」は「いま」になる。「過去」は「いま」に噴出しながらいつまでも「生きている」。

 そして、この「生きている過去」(生きている父・母)との関係がとてもあたたかい。父の浮気(?)、母の不倫(?)のようなものも、父と母の小柳に対する不満の声もすべて受け入れて、ことばにしている。そこに、しずかな、おだやかな、「愛」がある。
 「過去」は「過去」ではなく、「生きているいのち」そのものなのである。
 「いま/ここ」へあらわれる「生きているいのち」との新しい出会い、現実にはけっして会えないからこそ、繰り返すことのできる出会いがある。実際に出会ってしまえば、わかれが現実に噴出してくるけれど、小柳が書いているのは別れのない出会いである。
 その出会いによって、小柳は父になり、母になる。小柳自身にもなる。--この自在な変化の美しさ、おもしろさが、この詩集にはあふれている。
 「箒売り」には父と母が登場して、なかなかいい感じなのだが、ここでは「父」を転写しておこう。しみじみとしたさみしさが、とてもなつかいし気持ちを呼び覚ます。

とつぜんいなくなって悪かったけど
といった
しばらくあの国で数学を教えることになったので
急に旅に出てしまった
みんな元気か それはよかった
いや もう戻ることはないだろうよ
あの国の数式はすばらしく美しいんだ ずっと昔
一度だけ夢の中で出会った式なのさ 朝がくると
消えてしまって それきり思い出せなかった あれなんだ

きのう 霧は
黒板の前の数学者に似た形で
私の町を通っていったが
六丁目の角で しばらく
私の窓を覗いて 帰っていった





雲ヶ丘伝説
小柳 玲子
思潮社
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山之内まつ子『徒花』

2011-11-04 23:59:59 | 詩集
山之内まつ子『徒花』(思潮社、2011年09月25日発行)

 山之内まつ子『徒花』を開いて、巻頭の作品を読んだとき、瞬間的に詩のことばではないのではないか、と思った。

わたしを素描し損ねた
あまたのペン先が
あやめあいながら
地上に刺さったかのようだ
穿たれた土が呻き声をあげ
痛みをわけあう雑草との
抱擁が谺するとき
コーヒーの苦みに
より多くの野性が
注がれる

 ここには比喩がある。「あまたのペン先が/あやめあいながら」というのは小説にはない比喩かもしれない。ことばとしては、ない、かもしれない。けれど、ことばの運動の形としてはありそうな気がする。
 「コーヒーの苦みに/より多くの野性が/注がれる」になると、私には小説の文体そのものに見える。ここに書かれているのは「いま」ではなく、「過去」の説明である。「いま」を「過去」によって説明する文体である。--つまり、コーヒーが苦いのは、多くの野性が注がれているから(注がれたから)という具合に、私には読めるのだが、こんな具合に「過去」に原因があり、その結果として「いま」があるということばの動き方は、私には小説(散文)の文体に感じられるのである。
 「意味」が「過去」によって、つまり「時間」の蓄積によってつくられる。

 小説にもいろいろなスタイルがあるから一概には言えないのだけれど、山之内の「散文体」は、「いま」を動かすに当たって、何かが必要になったら、実は「過去」にこういうことがあったと補うような形で進む文体に見える。一般的な小説は、「過去」をととのえることによって、「いま」の時間をスムーズに流れさせる。
 でも、「小説」と違って、山之内の時間、というか、ことばは先へは動いていかない。そういう意味では、山之内の書いているのは小説とは違うのかもしれないが、どうも「過去」と「いま」の関係が小説っぽいのである。

 書き直してみる。

 山之内は「いま」を明確にするために「過去」を描く。そのとき、山之内は「過去」を複数化する。「過去」をととのえて、時間を押す、押し進める--のではなく、「いま」を「過去」へ誘い込み、「いま」があるのは、こういう「過去」があるためだと、逆に「過去」へ進んでゆく感じがする。
 「いま」を「過去」による因果関係でとらえるという点では「小説」っぽいのだが、因果関係に夢中になってしまって、「いま」を「未来」へ押し進めるのではなく、逆に「過去」へ引きずり込む。よく言えば「過去」を耕す--ということになるのかもしれないが……。
 うーん。
 そうでもない。
 「過去」は耕せば耕すほど「未来」へとトンネルを掘るみたいに、変な具合に時間を突き抜けるものだが、山之内は「過去」にとどまる。「過去」が「いま」のように、ことばとして踊りだす。そういう印象がある。
 「ピアス」とか「マスカラ」とか「アイライン」とか、アクセサリーや化粧を題材とした作品には、そういう印象が非常に強い。
 「囲い」という作品。

 アイラインとは一死をとまどう苦笑である

る、る、と心があそぶとき 男はことばの根をうえたがる それら
はうす曇りの湿地帯に ふぞろいの切り株のように 青く匂いたつ
 湿地帯が初期化されると 根こそぎことばは伐られ やがて晴れ
間をついて うっすらと女の貌があらわれる その眼のほとりに全
き線を描くことはできない 太古より女は湿地帯を詰問する

 「アイラインとは一死をとまどう苦笑である」が「いま」。その「いま」の「過去」はどうなっているか--男がいる。男がいて、女の存在がはっきりする。「湿地帯」というのは「眼」の比喩なのかもしれない。睫毛はきっと湿地帯にはえている草である。まあ、そんな比喩はどうでもよくて--その湿地帯は「初期化」によって、さらに「過去」へとすすむ。このことばの動きが「過去」へ、「過去」へと進む山之内の性質である。「太古」ということばが出てくるのは、山之内にとっては必然である。「過去」はどんどん追いかけていけば「太古」になる。
 このあと、詩は、「いま」を

 アイラインは 古文書の眩しさにも適う

 と再定義して、また

エジプト文明と日本は時代を漉かして 恋の文字を交換し合う

 という具合に「過去」が「複数化」されていく。「複数化」の集合体として「囲い」という詩は成立する。

 「化骨」には、もっと端的に「過去」ということばがつかわれている。

 ペンダントとは思慕の重力である

殴るのなら男の眦を そこは嘘にうずくまられた過去か
らの 進化/退化から延びる歪線 殴りつけられて変容
するふるえから 昇りくる太陽の義肢を抜き出す

 この文体の確立--というか、「方法」はわからないわけではないが。
 でも……このことばの動き、「過去」の描き方は、なんとも「図式的」な感じがする。そこに「肉体」を感じることができない。山之内の「肉体」の「過去」ではなく、そこには、なんといえばいいのだろうか、「歴史」として書かれた「過去」(教科書の過去)しかないような気がする。

 どうも、私には納得しかねるものがある。だから詩ではなく小説の文体--などと、言いがかりをつけているのかもしれない。
 アクセサリーや化粧について書いているときは、そんなものかもしれないなあ、と思わないこともないけれど、「徒花」のように、「主役」が「男」になると、その欠点が如実になる。

猫の肉球を押し広げ その深淵に溺れてから 男ははじめて立ちあ
がる 濡れて乾かぬ杭として 社会の不安の地下にもぐり 地固め
をするのが仕事だ

 ここには、まず男の「いま」が描かれる。社会の底辺となって働いている男。「いま」、猫の肉球のあいだで一瞬のやすらぎを感じている男の「過去」とは、ようするに底辺で働くということである。
 これが 2連目になると、

管理下の男には家もなく その低体温ゆえに 抱き合った蛇ですら
も凍りつくだろう

 男は、資本の「管理下」に生きている。それが男の「過去」。冷たく管理された組織で働いている。

 3連目。

男の仕事場は広い と同時に狭小でもある それは地下を覗く刮眼
の 冷淡さが決めることだ

 「仕事場」ということばが生な形ででてきてしまう。それをどうとらえるかという「精神」の「過去」まで登場してしまう。「刮眼の 冷淡さが決めることだ」なんて、非人間的な、私から言わせれば「資本の思想」さえ出てくる。
 あ、「男」の「過去」は、こんな風に「図式化」されるのか、とげんなりする。

 4連目。

何千回も何万回も 地下は徒花のようにむごくなり 肉球という蜜
をたたえた深淵は とても乾きたがって寒気だつ 杭からは木目の
裂ける音だけが 愉しげにひびいてくる

 「何千回も何万回も」などと簡単に言われたくないなあ。男の私は、そう思う。だいたい「何千回」と「何万回」の違いを、山之内は「肉体」で知っているのだろうか。「何千回」が「何万回」になるまでの「時間」について「肉体」で何か知っているのだろうか。「木目の裂ける音だけが 愉しげにひびいてくる」とは、何の「逆説」だろう。

 最後の 1行。

ゆえに世界はいつも 訓戒をあくびする

 「ゆえに」か。「過去」と「いま」の因果が「ゆえに」でくくられるのだけれど、この「頭脳」の論理には、いやあなものがある。
 山之内のことばは、詩のことばというより小説のことば--といってしまったが、小説に悪いことをしてしまった気がするなあ。
 小説は、こんなふうに「頭」では書かれてはいない。ことばを動かしつづけるには、どうしても「肉体」で書かないと、行き詰まる。
 山之内は「小説」の書き方から、「過去」のつかい方を巧みに消化しているだけなのかもしれない。



徒花
山之内 まつ子
思潮社
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ダンカン・ジョーンズ監督「ミッション8ミニッツ」(★)

2011-11-04 19:10:37 | 映画
監督 ダンカン・ジョーンズ 出演 ジェイク・ギレンホール、 ミシェル・モナハン

 映画になっていない。SFは装置に驚きがあるか、人の動きに驚きがあるのが基本。
 装置でいえば、「マイノリティーリポート」のコンピュータ。これに人の動きも加わっているけれど、モニターに複数のウィンドウがあり、それを手で動かす。(iPadが追いついてしまった。)人の動きでは「マトリックス」。イナバウアーじゃないけれど、体をそらしての弾丸除け、ワイヤーアクションなど。
 この映画の「装置」はちゃっちい。連絡がテレビ電話の域を出ない。詰めているスタッフも人数が少なすぎて、とても高度な装置を作ったとは思えない。「アポロ13」なんかの地上スタッフなんか、実にリアル。それに、テロ対策のスタッフがこの計画にコミットしていないのも不自然。詳しい人の情報を吸収しながら対処するべきでは?
 まあ、簡単にいうと、リアルじゃない、というだけなんだけれど。

 たぶん、これは「舞台」でやるとおもしろい。舞台の場合、装置はもともと「簡略」が基本。つかこうへいのように、ことばが「装置」とばかりに、装置がないものも舞台なら「見える」。舞台は「想像力」で見るものだからね。
 同じアクションが少しずつ変わっていく――というのは、舞台では、「笑い」も呼び起こし、きっと観客の反応がそれ自体、ひとつのストーリーになって、舞台を動かしてゆく。映画は、観客の反応がスクリーンを動かすということはないからね。

 この映画のオチ――主人公の「絶対的な死」、それ自体が主人公の「夢」というか、「装置」のなかの現実なんて、「小説」なら「哲学」になるけれど、映画では「ばかみたい」という感想しか生まれない。
 映画は、映像が「哲学」。映像以外で語る衝撃なんて、面白くない。
 「マイノリティーリポート」では、新しいコンピュータとその動かし方が「哲学」。それまで、だれもそんな映像を見たことがないでしょ? 「マトリックス」ではキアヌ・リーブスの肉体の動きが「哲学」。あんなふうにして弾丸をよけてみたい、真似してみたいとおもうでしょ? あれがほしい、あんなふうにしたい、と肉体に働きかけてくる映像があって、初めて映画になるということを、この監督は知らなすぎる。




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渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』(2)

2011-11-03 23:59:59 | 詩集
渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』(2)(思潮社、2011年10月25日発行)

 抒情にどんな「質」をつけくわえることができるか。これはなかなか難しい。
 「ガラスの破片」の1連目。

いまはガラスの破片になろうとして
このようにおびただしく破片がこぼれている
風景に出会ったとき
きみが現れたなら
たとえば写真を撮ったとき
きみは消えてしまう(だろう
そこだけ空のように切り取られて(なにもなくて
辺りのくだけ散った何かがやがて輝きだす(ムスーに
痛みは失われたきみの姿をして痛んでいたきみは消えて
風景はキズを負った
ゼンマイ仕掛けの
夕闇はそこからおとずれる

 傷つく青春。ガラスのように繊細な青春。さらに切り取られた空--空白。--破片、痛み、キズ、空白。それでもなおかつ、それを「輝き」ということばで肯定する。その青春の抒情。
 「傷」と書かずに「キズ」と書くことで渡辺は何かをつたえようとする。「無数」ではなく「ムスー」と書くことで、いままでの抒情ではないことを書こうとしている。

 何が、どう違う? 

 漢字をカタカナ(しかも、音そのものとして書く--ムスウではなくムスーのように)で書くことにくわえて、渡辺はかっこ ( を使うことで、いままで存在しなかった抒情浮かび上がらせる。

きみは消えてしまう

 だけなら、いままでの抒情。それを

きみは消えてしまう(だろう

 と、(だろう、を重ねる。意識を重ねながら、最初の意識から離れる。二重化する。どっぷりと感情におぼれない。
 最初の意識を引き剥がし、軽いものにして、疾走する。表層を駆け抜ける。

 しかし、そうなのだろうか。

 意識というのは「軽く」なるものだろうか。どんな方向に向かおうと、そこに「持続」があるかぎり、意識は「重く」なるのではないだろうか。
 その「重さ」を実感しながら、なおかつ、渡辺は「軽さ」と「スピード」を装うのだろうか。
 偽装の悲しみ、偽装の青春--あ、ここから必然のようにして生まれてくる抒情が、なんだか私にはときどき面倒くさくなる。
 私はとても気分屋なので、別な機会に渡辺の詩を読めば、その繊細な感覚に共感できるのかもしれないけれど、きょうはなぜか面倒くさく感じてしまう。
 で、きょうは(きょうも?)、否定的なことを書いてしまう。

ゼンマイ仕掛けの
夕闇はそこからおとずれる

 これはいったい何? 「時計仕掛けのオレンジ」からの発想? いまどき「ゼンマイ」なんて、どこで見るのかなあ? 
 ふいに、軽いはずの抒情も重くなってしまって、私は、そこでつまずいた--ということは、まあ、どうでもいいことで……。(批判のついでに書いただけのことで、ほんとうに書きたいのは……。)

(失踪したあとの繃帯(の白

 2連目の1行目。とても美しい。繃帯から、繃帯の「白」そのものへ動いていく視線。その逃避(?)のスピードと距離が、お、青春の輝き、という感じだなあ。
 でも、それが変質していく。(変質自体はいいことだと思うときもあるのだけれど。)

うすいカミソリ刃に指を滑らせて
いまは壊れたほうがいいから
ぼくらわたしらは壊れて(いる
たとえ近くても こんなにも
セカイは遠ざかってしまって(しまった(から
い(いったい折られたカミソリの刃に(こんなに
薄く削られて(いる(いない

 ( で重ねる、剥がすように動いていく意識が、やっぱり、なんとも重い。重苦しい。結局、軽いのは ( を使うことによって生まれる軽さに過ぎないのではないのか。傷を「キズ」と書き、無数を「ムスウ」と書き、世界を「セカイ」と書くことによって、軽さを装っているだけなのではないだろうか。
 表記もことばの問題ではあるのだけれど、渡辺は「表現」を「表記」に頼ってはいないだろうか。
 特にそれをつよく感じるのは ( である。渡辺のかっこ ( は、最初があって、それを閉じる )がない。それは、たぶん、いつでも追加できるように、ということなのだと思う。意識を閉じない。完結させない。未完の、軽さ。
 その未完の軽さは軽さでもいいと思うのだが……。
 記号って、もともと「軽さ」あるいはスピードのために考え出された思考の数学、思考の経済学だねえ。そんなものによりかかっていいのか--と私は思うのである。
 現実の世界では、渡辺の書いている ( は、「間合い」だね。人間は肉体があり、こどばを発する。肉体が動いてから、ことばがうごく--そういうときの「間合い」、呼吸。それは、生身の人間と向き合っているときに、肉体とことばの「ずれ」として見えてくる。(森繁久弥の芝居は、この間合いがとても人間っぽい。)
 それを記号に置き換えしてしまうと、ことばから「肉体」がなくなる。
 いや、それが21世紀の「ことばの肉体」という反論がどこかから聞こえてきそうな気がしないでもないのだけれど、どうも「ずる」をしていない?
 傷と書いて「キズ」と感じさせる「肉体」を放棄していない?
 世界と書いて「セカイ」を感じさせる「肉体」を放棄していない?

ぼくがきみに触れようとするのは
それだけが遠い記憶につながっているから(かもしれなくて
絶対に不可能なものだけがぼくをささえている(気がする(のです
                              「反復する(街の」

 この「反復」は、「文体」ではなく、私から見ると、「書体」、つまり「書きことば」でのみ成立する表現にしか思えない。
 私は「黙読」しかしない。ことばを「読む」ことしかしないし、そのとき「読む」のは「書かれたことば(書きことば)」なのだが、どうもひっかかる。
 私はことばを読むとき、声に出さないけれど、でも、喉や耳が疲れる。書くときも同じだ。その読むだけ、書くだけのときも喉や口蓋や舌を使う感じが、渡辺の「反復」を読むとき、私の肉体にはまったくない。そのかわりに、目だけに何かが残る。
 私は目が悪いせいか、それがとても「いや」な感じとして体にたまりつづける。--その調子がいいときは、そうではないのかもしれないが。きょうは調子が悪くて、私のことばは渡辺のことばにやつあたりしているのかもしれないが……。 

 ことばを複製する、あるいは反復する。そのとき、ことばとともにある精神・意識が変質する。複製・反復の瞬間に、ことばの重量が軽くなる。その軽みを利用してことばを疾走させる。そうやって、表層を生きる。表層を生きるしかない「青春」の「悲しみ」。それが、きょうの私にはしっくりこない。
 渡辺は「視覚」そのものを生きる詩人で、「視覚」で世界をとらえるだけではなく、「視覚」でことばを動かす。渡辺が詩に持ち込んだ新しい「抒情」(あるいは精神の運動)は、ことばを「視覚」でとらえるときにのみ実感できる性質のものである。
 現代は「視覚情報」が氾濫する時代だし、「視覚」が「脳」の重要な要素なのだから、渡辺のことばはたしかに最先端を走っているのだと言うことができるけれど、うーん、私はついていくことができないなあ。

 (きょうは、ほんとうは「視覚言語」の魅力について書くつもりだった。渡辺の詩は、「視覚言語」というところから見つめると、きっとおもしろくなる--という予感が私にはあるのだけれど、書きはじめると、ことばがそんな具合に動かなかった。どうも、きょうはほんとうに目の具合が悪いようだ。いつか、目の調子がいいときに、きょう書いたことを、裏側?から書き直してみたい。)




破れた世界と啼くカナリア
渡辺 玄英
思潮社
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池井昌樹「若葉頃」再読

2011-11-02 23:59:59 | 現代詩講座
池井昌樹「若葉頃」再読(よみうりFBS文化センター「現代詩講座」2011年10月31日)

 きょうは池井昌樹の詩を読みます。私は池井昌樹の詩を中学生のころから読んでいます。旺文社の主催で「学芸コンクール」というものがあり、池井の詩はその一席に選ばれていました。中学2年のときです。たしか「雨の日の畳」という作品で、とても古くさい感じのする詩です。朔太郎とか、白秋の匂いがする。選者は山本太郎でした。その後も、池井は山本太郎が選をしている「高一時代」とか「詩学」に投稿していました。先週名前が出た秋亜綺羅は寺山修司が選をしていた「高三コース」に投稿していました。同じ年代で、ユリイカに投稿していたのが本庄ひろしです。飯島耕一が選者をしていました。私が10代のころの詩のというか、同じ年代で詩を書いている仲間のあいだでは、スーパースターというのは、この3人です。
 私は池井に教えられて「詩学」「現代詩手帖」という雑誌を知り、そこへ投稿しはじめました。4人いっしょに飲み食いしたり、遊んだりしたことはないけれど、3人というのは何度かあります。いちばん親しかったのは池井です。池井の家へ遊びに行ったり、アパートに泊り込んだりしたことがあります。すっごく汚い部屋で、夏の暑い日、「いま、匂い消すから」といってフマキラーをシューっとやる、そういうむちゃくちゃな生活ですね。池井は大学ノートにびっしり、詩をきれいに清書していました。書いた日にち、時間を克明に書き込んでいる。そういう詩人です。
 私は詩人とはほとんどつきあいがないので、まあ、いちばん親しい詩人といえば、池井になります。で、いつか、この講座で池井を取り上げたいと思っていたけれど、いざ取り上げるために読んでいると、なかなか厳しい。前回読んだ柴田基典と同じように、親しみすぎていて客観視できない。「好き」と言ってしまうと、あとは言うことがない。その「言うことがない」作品について言うわけですから、きっと話が進んでいかないと思う。
 だから、いろいろ質問してください。質問に答える形で、少しずつみなさんといっしょに池井の詩の世界へ入って行ってみたいと思います。

 まず、いつものように作品を読むことから始めたいと思います。「若葉頃」。これは「投壜通信」02、2011年09月10日発行に書かれている詩です。)若葉のころの、ある朝の光景を描いている。ひらがなばっかりの詩なので、ちょっと読みづらいかもしれない。まず、黙読してください。そのあと、○○さんに読んでもらいたいと思います。

ちょっとでかけてくるよといって
あなたはこどものてをひいて
それっきりもどってこないのです
わかばのきれいなあさのこと
はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました
だんだんはなれていったきり
もうもどらないあのこども
あなたはいまもまちながら
わかばのきなれいあさのこと
つとめへむかうばすのまどから
あのいしだんがゆきすぎて
はちまんさまのけいだいが
あとへあとへとゆきすぎて
ものみなははやゆきすぎて
もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 一回読んだだけで、なかなか感想はいいにくいと思いますが、どんなことを感じましたか? どこかわかりにくいところがありませんか? わかりにくいのは、どの部分ですか?

「ひらがなで書かれていて、童話的な感じ。宮沢賢治風な感じもするのだけれど、宮沢賢治と違って地に足がついている感じ。物悲しいのに、どこかに希望も感じる。どっちとも受け止めることができる世界。」
「風景が浮かんでくる。はちまんさまのけいだいが/あとへあとへとゆきすぎて、というのはそのまま風景が見える。」
「あなたはいまもまちながら、という行のあなたというのは自分のことなのかなあ。」 「最初に、あなたとこどもとふたりがもどってこない--消えてしまうのに、そのあとまたあなた、こどもが出てくる。主体がずれていく。人が死んだあとも日常がつづいている感じ。」

 あ、たくさんの感想が出てきて、ちょっとまとめきれないですね。
 まとめるのはやめて、私が感じたことをいいます。
 私は、いつも、池井の書いていることが「ぼんやり」とほどけていく感じがする。焦点がない--という印象を持ってしまう。
 池井はいまはやせているけれど、昔はぶよーんと太っていました。そのぶよーんと太った体そのままの、ぶよーん、を感じてしまう。
 まあ、こんなことを言ってもどうしようもないので、少しずつ読んでいきます。みなさんの感想のなかで、掘り下げてみたいなあと思うことがたくさんあるので、そのことも少しずつ触れていけたらいいかなあと思います。

 「あなたはいまもまちながら」は「自分(池井)」ではないかという意見が出ました。それから主体がずれていくという感想も出ました。
 この詩に書かれているのは、何人かな? 誰とだれかな? ということから考えてみましょうか。

質問 ここにいるのは、何人ですか? だれがいますか?
「あなたと、こども、それからこの詩を書いている池井--その 3人がいます。」


質問 そのとき「あなた」というのは誰になりますか?
「詩を書いているのが池井なので、あなたは母か妻。あなたが母の場合、こどもは自分・池井になると思う。いまという時間が含まれていると思う。」
「私も、○○さんが言ったように、あなたと、こどもと、作者がいると思います。」


質問 あなたは、女性?
「女性。池井が男性なので、やはり、母か妻か、どちらかになると思います。」

 みなさん全員(今回の受講生は5人)、「あなた」は「女性」と読むんですか?
 (最初の感想で、「あなた」は「自分」かもしれない、「主体がかわっている」という意見があったのだけれど、登場人物と作者の関係を質問したときの最初の受講生の答えがあまりにも論理的だったので、みんな、それに引きずられて、無意識的に感想を路線変更?したような感じ--これは、この文章を書きながら思っていることで、そのときは私も論理的な意見に引きずられ、別な感想があったことを忘れていました。あなたが女性という読み方にも仰天してしまって、それ以前の発言を忘れてしまっていた。--反省。)
 びっくりしました。私は「あなた」とは池井自身のことだと思って読みました。「こども」も池井自身のことだと思って読みました。池井が池井をつれてというのは論理的に変だけれど、論理が変なのが詩なので、まあ、私はいいかげんに考えています。それから作者(池井)がいるのかなあ。
 「あなた」が母とか妻というのは、ちょっと思いつかなかった。
 どうやって今回の詩を読みつづければいいのか、わからなくなるくらいびっくりしました。
 でも、ちょっと整理しなおして、私の考えを説明したいと思います。
 詩のなかの登場人物と作者の関係。まず、この詩のなかには「3人」が登場するというのは、どうやら間違いなさそうですね。「あなた」「こども」それから「作者」。
 そしてその「あなた」「こども」「作者」がだれかが、読み方で変わってくる。

(1)あなた=妻(母)、こども=こども(母のときは、こども時代の池井かも)、作者(池井)--これは、みなさんの読み方で、とっても論理的ですね。
 あなた=妻の場合、こどもは池井と妻とのあいだのこどもですね。実際、池井にはふたりこどもがいるので、これは理に適っていますね。
 あなた=母とすると、こども=池井になる。これは、ちょっと論理的に難しいものを含むけれど、詩だから、そういうこともあっていいと思う。
(2)あなた=池井、こども=池井、作者=池井--これは私の読み方です。池井が自分のことをわざと「あなた」と呼んで、一種の虚構のなかで何かを書いている。虚構なので、こども=池井とも考えるのだけれど、このままだと変ですね。あとで少しずつ説明したいと思います。
(3)あなた=池井、こども=こども、作者=妻--これも考えられますね。池井が妻になって、妻の気持ちを詩にしている。そういう読み方もできますね。

受講生「もうひとつ、(4)として、あなた=他人というのもあると思います。」

 あ、ほんとうだ。気がつかなかった。どうも、難しくなってきたなあ。
 いろんな読み方がある--それを全部点検してみることは難しいので、ちょっと私の「読み方」に付き合ってください。私の読み方に沿う形で話を進めていきますね。
 
 (1)の読み方は、とっても論理的。だから、説得力があるのだけれど、私は、その読み方は何か論理的すぎて、直感的に信じることができない。いいかげんな言い方だけれど、論理的すぎて変な感じがします。池井を知っているから、なお、そう感じるのかもしれない。
 私は、そういうふうに読むことに抵抗を感じてしまう。
 (3)の「妻」になりかわって、「あなた(妻からみると池井になる)」を書いているというのも、ピンとこない。
 私は、直感的に、池井は「あなた」であり、自分のことを「あなた」という形で書いている、と思ってしまう。池井は自分のことを「あなた」と呼びながら書いている。「私(池井)」と「あなた」はほんとうはひとり(一体になった人間)である、と感じている。
 こういう感じ、直感というのは説明できないし、説明しようとすると矛盾だらけになるのだけれど、詩というのは、こういうわけのわからない直感の方へ進んで行った方がおもしろくなる。
 きっと詩を書いているひとも、わけのわからない直感に突き動かされて書いているので、そういうことが起きるのだと思う。直感と直感が触れあう。まあ、ある人を見て、直感的に「あ、この人が運命の人」と思うようなものですね。
 その感じていることへむけて少しずつ読みつづけたいと思うので、付き合ってくださいね。

 私がこの詩で最初に注目したのが「登場人物」と「もどってこない」の関係です。「主語」がかわります。最初の感想に、主体が変わっている、という意見がありましたね。それから「あなたはいまもまちながら」の「あなた」は自分ではないかという感想もありました。その意見とつながるかな?

あなたはこどものてをひいて/それっきりもどってこないのです

あなたをはなれてゆきました/もうもどらないあのこども

もうもどらないあのふたり

 最初の「もどってこない」は「あなた」と「こども」かもしれないけれど、「こども」は補語ですね。文法的には「もどってこない」の主語は「あなた」。
 その次は「あのこども」。
 そして最後が「あのふたり」。
 「主語」がかわっている。これが不思議。

 いや、この不思議は「事実」を考えると不思議ではないかもしれない。「あなた」が「こども」を連れて行ってもどってこないのだから、「あなた」は当然もどってこない、「こども」も当然もどってこない、結局「ふたり」はもどってこない。とても論理的な数学。
 でも、私はどうしても違和感を覚えてしまう。
 「あのこども」「あのふたり」の「あの」がとても気にかかる。
 なぜ、「あの」ということばがついているのだろう。「あの」がないとすると、池井のことばはどんな感じになるのだろう。

質問 「あの」があるとないのでは、どう違いますか? 「あの」というのは、なんですか?
「特定のひとをさすためのことば、強調。」
「英語の、a 不特定多数の、どれでもいい何かとは違う感じ。the という感じ」
「thatかな」

 私も「あの」は、英語で言う「定冠詞 the 」だと思います。一度でてきたことば。そのことばがつかわれるとき、前につかわれたことばを思い出す。ほかの「こども」ではなく、「あの」こども。意識が明確に、思い浮かべるこどもに集中している。自分との関係が強い。意識が呼び寄せて、浮かび上がらせる「あの」こども。「あの」ふたり。たしかに強調にもつながります。

 それで。
 不思議なのは「あなた」には「あの」がついていないですねえ。
 「あの」こども、「あの」ふたりとは書いているのに、「あの」あなたとは書いていない。
 ここが大切だと思います。
 「こども」を思い浮かべるとき「あの」こどもと意識を集中する。集中してしまう。集中して、呼び寄せる。
 でも「あなた」というとき、意識を集中する必要がない。意識を強調する必要がない。それは「あなた」と「私」にが密着しているから。つまり、はなれていない。「一体」になっている。
 ここから「あなた」と「私」は一体(ひとり)だと、私は考えます。「あなた=私=池井」と感じるのです。
 もし、「あなた」が母や妻だったら、「あの」あなた、ということばが書かれてもいいのでは、と思うのです。

 「あの」にもう少しこだわってみます。「こども」にも「こども」と書かれものと、「あの」こどもがある。二種類ある。
 「あの」は一回だけつかわれる。

こどもはなにかをみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにはおはなししては
あなたをはなれてゆきました
もうもどらないあのこども

 最初は「あの」こどもではなく、ただ「こども」ですね。
 これは、やはりこども=池井だからだと思うのです。池井と一体になっている。
 あなた=池井、こども=池井では、池井が池井に話をして離れていくという、ちょっと変な世界になってしまうのだけれど、変なところはまた別の形で考え直せばいいかなあ、と思っています。
 あなた=池井という感じであなたと池井が一体になっていたように、あなたとこどもも一体になっている。一体になりながら、ときどきわかれてはくっついている--そういう感じかなあ。(童話的という感想があったけれど、こういうあいまいな?ところは童話につながるかもしれない。)
  そして、このあと「あの」ふたりということばが、もどらないといっしょに出てくる。「あの」ふたり、というのは、「あなた」と「こども」が「一体」になっている姿--ほんとうは「ひとり」ですね。その幸せな「一体感」がもうもどらない--そういうふうに池井は書いているのだと思う。

 で、話はちょっと前にもどるのだけれど、登場人物ともどってこないという動詞の関係に目を配ったときまで、もどってみます。
 私は何度か、詩人は同じことを繰り返し書く。ひとは大切なことをことばを変えて何度も書く。その何度も繰り返しかいている部分の、少しずつ違っているところを重ねるように見ていくと、その人の書いていることがだんだんわかってくる--というようなことをいいました。
 書いている人が何度も繰り返すのは、書いても書いても書き漏らしたものがあると感じるから繰り返すんですね。
 で、この詩の場合、「もどってこない」が何度も繰り返される。そして、その「もどってこない」の主語がそのたびにかわる。
 これは、実は、主語が変わったのではなく、池井のなかでは主語は「ひとつ」なのだけれど、何か書きたいことがあって、たまたま別な形になってあらわれているだけのことなんです。いいたいことを明確にするために、別な表現をつかっている。そういう類のひとつだと思う。
 田村隆一の詩を読んだとき、空から墜ちてくる取り、窓から聞こえる叫び--そういうものが結局一つの何かを象徴しているということを見ました。同じように「あなた」「あのこども」「あのふたり」は何かを象徴しているのです。そして象徴されているものは「ひとつ」なのです。その「ひとつ」がもどってこない、と池井は書いているのかなあと私は思います。

 その「ひとつ」は何なのかなあ、ということを考えてみたいと思います。
 また最初の方にもどります。

はちまんさまのいしだんで
あなたはこどもをあそばせながら
めをしばたいておりました
こどもはなにかみつけては
あなたのもとへかけもどり
なにかしきりにおはなししては
あなたをはなれてゆきました

 これは、現実に池井がこどもと遊んでいる風景にもとれるけれど、(池井には実際に二人の息子がいます)、そうではなくて、池井自身がかつてそんなふうにして遊んだという記憶を思い出しているとも受け取れる。「こども」になって、何か見つけては、それを「父」のところへ報告しに行った、そうしてまた離れて行った、そういうことを思い出している。そのときの幸せを思い出している。
 そうすると、ここでは「こども」が「私(池井)」になり、「あなた」は「池井の父」ということになる。そして、「父」であることによって、池井は「父」と重なる。「父」が幼い池井を見つめていたときの「気持ち」を池井はここで想像している。「父」の気持ちになっている。「父」そのものになっている。こどものしあわせ、よろこびは、父のしあわせ、よろこびでもある。
 池井は、父のよろこびも、こどものよろこびもいっしょに感じている。「ひとつ」と感じている。
 「あなた」を母とか妻とか女性と考えると、ここでの「一体感」はつかみにくいのだけれど、「父」と考えると「男」が「父」と「池井」を繋ぐ共通項になって、そこに「ひとつ」が生まれてくる。その「ひとつ」によって、しあわせ、よろこびも「ひとつ」にかさなりあってしまう。
 そんなややこしいことではなくて、まあ、父親になって、父の気持ちを知ったということなのかもしれないけれど。
 池井が「こども」になることは、変な言い方だけれど、池井が「父」になることと、切り離せない。こども=池井、父=池井は、そんなふうに重なり合う。
 変ですね。論理的ではないかもしれないですね。
 これは、まあ、厳密に考えると変なのだけれど、詩なのだから、こういう変な部分は変なままにしておくと、いいのです。(いいかげんで、ごめんなさい。)
 池井はようするに、神社の境内でこどもを遊ばせながら、そしてこどもを見ながら、自分のこども時代を思い出し、同時に自分がこどもだったときの父を思い出し、いわば父-池井-こどもという命の連続のなかに自分を置いて、その3人が結局「ひとり」だと実感している。3人を「ひとり」にする「よろこび、しあわせ」に触れている。このよろこびは「ひとつ」。
 そのとき、そこで何が起きているか。これはあとで触れるけれど、説明しようとするとどうも説明できないけれど、「こと」ということが起きている。父と子が遊んでいる、その「こと」。「こと」のなかで、父と子が一体になり、その一体が、いまの池井とも重なる。父と子という肉体が「ひとつ」になるのではなく、話をすること話を聞くことの「こと」が「ひとつ」になっている。
 そうして3人は、意識というか感情的には「ひとり」というつながりをもつけれども、現実の肉体は3人なので離れていく。
 そして、離れていくけれど、また、離れる前のことを思い出しもする。思い出して、また「ひとり」になろうとする。こういう意識の動きを、池井は

まちながら

 ということばにこめている。池井はいつでも積極的に何かを切り開いていくというよりも、待っている。動かずに、自分自身をほどいてゆき、その広がりが何かと重なり一つになるのをまっている、という印象が私にはあります。(これは長くなるので、省略。)
 で、この「まちながら」ということばといっしょに書かれている「いま」、あなたはいまもまちながら、の「いま」。
 これが、また、不思議ですね。

質問 「いま」というのはいつ? そして、その「いま」の「場所」はどこ? どこで、待っている?
「神社の石段、あなたとこどもが話したとき」

 そうですね。「いま」というけれど、たとえば2011年ではないですね。「ここ」でもないですね。
 「あの」場所、「あの」とき(時間)を「いま」と池井はいっている。
 「いま」ここにない、「あの」とき、「あの」場所が、「いま」ということばといっしょに、詩のなかに呼び出されている。「過去」が「いま」と呼ばれている。
 そして、その「過去」は過ぎ去っていかない。むしろ、「いま」へ向かって進んでくる。
 「過去」が「いま」へ向かって進んできて、重なって「ひとつ」になっている。
 思い出すというのは、「過去」が「いま」に重なることなんですね。
 「過去」--その過ぎ去って、ここにはない「時間」を「あの」ときとして呼び出す。「いま」の意識のなかに呼び出す。「あの」ときは「あの」ときなのだけれど、思い出すという意識そのものの運動は「いま」起きている。「この」ときに起きている。だから「いま(このとき)」といってしまう。
 「あの」石段の「あの」時間と、池井がいる「いま」(このとき)が重なる。
 ここでも、別々なもの「あの時間」と「この時間」が重なる。一つになる。
 この重なり、「ひとつ」というものを池井はいつでも書いている。

 最初の方に池井の詩を読むと、ぶよーんとした体を思い出すといいました。このぶよーんは、何か余分なものが重なっているということとつながる。「ひとつ」ではない何かがかさなって「ひとつ」になっている。どうしたって、二人がひとりになれば太ります。

 「時間」にもどります。
 「時間」はふつうは、過去-現在-未来という具合に流れる(進んで行く)というふうに考えられているけれど、池井がえがいている時間は違いますね。
 「あの」ときと「いま」が重なる。きっと未来も重なるのだと思う。

質問 過去-現在-未来、という時間が流れるのではなく、「ひとつ」になってしまう。この「過去-現在-未来」が一つになった時間というのは別なことばで言い表せないだろうか。なんというのだろうか。
「宗教の世界。なんだか宗教的な感じがする。」
「永遠?」

 私もそう思います。「永遠」というのは時間の流れを超越している。時間は過去-現在-未来と流れるのではなく、流れるのをやめて流れとは違った方向へ広がっていく。
 この広がりを、ぶよーんというと、若いころの池井の肥満体そのもののぶよーんになる。池井は肉体がもう「永遠」とひとつになってぶよーんとしている。
 「永遠」は流れない、すすまない代わりにどうなるか。広がります。ぶよーんと広がり、そのひろがりのなかに人間をのみこんでゆく。

 こどもが何かをみつけ、うれしそうに父に報告する。父はそれをしっかりと聞いて受け止める。そういう至福の時間。幸せが広がる。それは、たしかに永遠だと思う。
 その「永遠」の光景が存在する場所が、「はちまんさまのいしだん」ですね。
 そして、その「いしだん」は、いま--この詩を書いているほんとうのいま、「あの」いしだんになっている。

 若葉のきれいな朝、バスに乗って勤め先へ向かう。そのとき神社の石段が見える。それを見た瞬間、池井は「あの」石段を思い出した。それはいま見えている東京の神社の石段ではなく、ふるさとの香川県坂出市のどこかにある石段。かけ離れたものが、神社の石段という共通なものをとおして、ぴったり重なり、重なることで、過去といまを重ねあわせる。その重なりを利用して、池井は、「あの」石段の時間へ還って行った。
 そこにはこどもがいて、こどもは父親に何かを語り、父はそれをしっかり聞いていた。そういう時間がたしかにあった。
 これは、望郷かも知れませんね。なつかしい思い出かもしれない。
 それは、「あとへあとへとゆきすぎて」ゆく。あらゆるものが過去へとゆきすぎていく。
 それでも池井は、まだ思い出すことができる。
 「あの」ふたりは、ほんとうは帰って行ったのだ。どこへか。

もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ
わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 太陽の光、おひさまのひかりと言った方がいいかな、が降り注ぎ、御馳走を支度をととのえた家。なつかしい家へ。これは「過去」のことを書いているのかなあ? ちょっと違う感じがする。それはまた、あとできっと話すことになるのと思うので、ちょっとわきに置いておいて……。
 池井は、いま、遠い昔の、幸福な「家」を思い浮かべている。「家」というのは、家族ですね。父と子、母と子、さらには祖父母がいる。そして、その「一家」の血は遠く遠くどこまでもつながっている。
 そこには区別はあるけれど、同時に区別がない。「あの」父がいて、「あの」母がいて、「あの」こどもがいる。さらに「あの」祖父母がいる。「あの」のなかで、それは「一体」になっている。
 この「一体感」を、池井は、放心して眺めている。放心して、その世界へ溶け込んでゆく。それが「いま」。過去であると同時に、「いま」であり、またそれは「未来」でもある。これから先にやってくる「時間」でもある。「時間」の区別がない--だから、それを「永遠」と言うことができる。

 もう少し、追加します。
 この詩には、繰り返しあらわれる行がある。

わかばのきれいなあさのこと

 3回でてきます。この3回を「過去」「現在」「未来」と言い換えてもいいけれど、あとでまた触れます。
 気をつけて読んでもらいたいのは、ここで池井が「あさのこと」と「こと」ということばをつかっている点。
 ついさっき、過去・現在・未来という時間のことをいい、また何度も「いま」ということばで時間に触れたけれど、池井は「朝」という時間をあらわすことばで行をおわらずに「こと」ということばをつけくわえている。
 「いま」というのは「朝」という「時間(とき)」ではなく「こと」なんですね。池井は「あの」ときを思い出しているのではなく、「あのこと」を思っている。

 「こと」とは何か。

質問 「こと」って、なんだろう。
「できごと、かな。」

 あ、すごいなあ。
 「こと」を何と言い換えていいのか、わからなかったのだけれど、そうですね「できごと」ですね。ありがとう。
 人間が動いて、その動きが広がりをもつ。「広がり」をもった「できごと」。
 「いま」というのは「一瞬」、広がりをもたない「時間」だけれど、「こと」はそうではなくてあくまで「広がり」をもった何かですね。「こと」のなかには、いろいろなものが含まれている。矛盾した感情も含まれている。そしてそれは分離できない形でつながっている。影響し合っている。
 ほんとうは「こと」がいくつも重なっている。
 「こと」というのは、いくつもの何かが重なって起きる「ひとつのできごと」。「こと」は「ひとつ」。そして、この「ひとつ」のなかには、この詩でいうと「あなた」と「こども」の重なりがある。人さえも重なり合う。人さえも、それぞれのひとでありながら「ひとり」。「ひとり」と「ひとつのこと」が重なる。
 「こと」というのは、別なことばで言えば「関係」かもしれない。重なり合った、関係。切り離せない「関係」。
 その重なり合った「関係」、重なり合った「こと」がなつかしさを誘う。そのとき「永遠」という「こと」があらわれる。
 「永遠」というのは「こと」である。

 その「こと」のなかで、いま、池井が感じている大事なこと--、それは「まつ」、待っていることですね。
 「まつ」もこの詩のなかでは繰り返されている。

もうもどらないあのこども
いまもあなたはまちながら

もうもどらないあのふたり
まちわびているとおいいえ

 「もうもどらない」とわかっていても「まっている」。むしろ、もうもどらないからこそ「まっている」。もどらないとわかっていてまっているというのは無駄なことだけれど、その無駄のなかに美しいものがある。
 ひとはだれでも、もどらないものだけを待っているものかもしれない。
 どこかで経験した美しい瞬間--それは、私は仏教徒ではないのだけれど、仏教で言う「輪廻」のような感じかなあ。私が生まれる前に経験した美しい何か。それを待っている。さっき宗教的ということばがでたけれど、こういう感覚が詩に含まれて入鹿らかもしれませんね。
 生まれる前に経験した何か--というのは、論理的には矛盾なのだけれど。
 でも、感じることがありませんか?
 父がいて、母がいて、暮らしがある。その暮らしのなかにいると、父と母の姿をとおして、自分の知らなかった何か、ほんとうは経験した何かがふと見えるというようなことが。その父と母の向こうには祖父母がいる。そういう「家族」、あるいは家系だけではなく、人間の生き方そのものがふっと見える。「いのち」のあり方が見える。
 あるいは、だれかが自分を愛してくれていて、自分のすることを見ていてくれ。そういう感じをとおして、自分が生まれる前に体験したことをぼーっと思い出す。そのだれかは、私が(これは池井という意味だけれど)、つまり池井がその生まれる前に体験した「こと」のなかへもどってくるのを待っている。その「まつ」力を池井は全身で感じている。

わかばのきれいなあさのこと
とおいいえにはひがあたり
おやすみのひのごちそうの
したくもすっかりととのって

 これは、美しい情景ですね。「おやすみのひのごちそう」と池井は書いている。よく似たことばを池井はときどき書きます。そのことばを利用して言い換えるとこれは「まつりのひのごちそう」。
 もどってこない人がもどってくる。そこで賑やかに何かを語り合う。祝祭。おまつり。おまつりの幸せ。--その準備を、だれかがいつもしている。「おまつりのごちそうの/したく」は「すっかりととのって」いる。
 そして、これは言おうとして言えなかったことなのだけれど、「過去」あるいは「いま」のことではなく、「未来」のことですね。
 最初の「わかばのきれいなあさのこと」は「過去」。そのことばといっしょに神社で遊んだ記憶が語られる。2回目の「わかばのきれいなあさのこと」は「つとめにむかうばすのまどから」と「いま(現在)」といっしょに書かれている。最後は、遠い記憶の風景にも見えるけれど、それを「過去」としてではなく、「未来」として池井はあこがれのように、ぼんやりと眺めている。味わっている。
 いつか、「あなた」「こども」、そしてその「いのち」のつながりが、お祭りのようなあたたかい賑やかさのなかで復活する(もどってくる)を池井は待っている。そこに、希望のようなものがある。悲しいことを書いているようで何か希望があるという感じがするのは、そこに「未来」が「いま」と結びつけられて書いているからだと思います。

 それは、実は、もうもどることができない「どこか」である。けれど、もうもどってこない「あなた」「こども」同時に「わたし」が思い起こすとき、それは「あのとき」ではなく、「いま」として輝きだす。その輝きを池井は思い起こしている。
 「未来」のこととして、いのりをこめて眺めている。放心して、待っている。



 このあと、雑談。
 「若い人は、やっぱりいいなあ。私くらいの年になると、もう希望というものが書かれているというふうには思いつかなかった。」
 「私は、あなたは、一瞬おじいちゃんかなあと思った。」
 「なぜ、おじいちゃん?」
 「神社というと男性的。女性はこどもをつれて神社へ遊びにゆくというのはないのじゃないのかなあ。」



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池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』

2011-11-01 23:59:59 | 詩集
渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』(思潮社、2011年10月25日発行)

 渡辺玄英『破れた世界と啼くカナリア』を読みながら考えたことは、渡辺のことば、表現は「意味」を持っているのか、あるいは持っているとみせかけているのか。そのことをつきつめて考える必要があるのか、ないのか、ということである。こんなことを考えるのは、渡辺のことばは、「意味」を持っているのか、いないのかを決定しないまま動いていくように感じられるからである。なにごとかを決定しないでことばを動かしていく--そのときのスピードそのものが渡辺の詩である。
 言いなおすと。
 渡辺の詩を読みながら、何が書いてあったか、私は思い出せない。そして、私は、思い出せなくていいのだと開き直ってしまう。
 ことばは「ひとつ」を(あることばの「意味」を、といってもいいのかもしれない)決定せずに複数化し、その複数を表層として滑っていく--そのスピード、これが渡辺の詩である。
 あ、これでは、何もいっていないか。渡辺のことばのスピードにつられて、私のことばも勝手に動いてしまうのかもしれない。

 「破れた世界と啼くカナリア」(ユリイカばーじょん)という作品を読み直してみる。ことばを追いかけずに、ことばを私の方に引き寄せてみる。つまり、できる限り「誤読」してみる。

4Hのエンピツでセカイを描いて
消しては描くことを繰り返している
(セカイはキズのようだ
こんなにもうすく鋭く
空気はひりひりと流れ
(洪水の(跡のように
リンカクが微かに(残っている

 「4H」ということばが持っている「意味」が、「キズ」「うすく」「鋭く」「ひりひり」「跡」「リンカク」「微かに」と繰り返し、「意味」が重ねられる。ほんとうは「ひとつ」でいい。硬質の鉛筆が描く線、の傷のような線に読みとられた「抒情」は、こんなに繰り返されなくてもいい。繊細を強調しなくてもいい。こんなに強調してしまうと、「情緒」(繊細)は上滑りして、先へ先へと進んでゆくだけで、いっこうに「いま/ここ」に踏みとどまらない。根を下ろさない。
 「いま/ここ」が何か、そこにある情緒・抒情(あると仮定してだが)とは何か--それを渡辺は探してはいない。むしろ「いま/ここ」にあらゆる「繊細」という「抒情」をまき散らして「いま/ここ」を捨て去ろうとしているように見える。「いま/ここ」を棄てることで、「いま/ここ」に、書いたばかりの抒情を捨て去ろうとしているようにも感じられる。
 --それならそれでいいのだろうけれど。
 と、思わず私は書いてしまう。書いてしまって、ほんとうにそうかなあ、と考え直してみたりするが、渡辺のことばのスピードに抵抗して「いま/ここ」に踏みとどまるのは、なかなか難しい。
 と、思っていると、とんでもないことになる。
 詩のつづきである。

キズの上にキズが重なり
風景は震えがとまらない
(ここはどこなのか誰にもわからない(だから

一人でたたずむあなたのために
遠くの夜空にほそい三日月を描いてあげよう

 「キズの上にキズ」「震え」「ほそい」「三日月」。それは「4H」につながる「抒情」なのか。それを狙って書いているのか。どうも、「重さ」が違う。「遠くの夜空」「三日月」。この重たさは何なのだろうか。
 「キズの上にキズが重なり」のこの「重なり」からして奇妙である。だいたいが違うものが重なってこそ、「表層」になるのだ。あるものから、それではないものが浮かびあがり、剥がれるようにして滑空するとき、不思議なスピードが加速する--はずである。
 ところが、表層を滑りはじめたと思ったときに、渡辺は急ブレーキをかける。渡辺はブレーキをかけたつもりはないかもしれないが、私は、ここでつまずく。
 で、そういうことがあるので、最初に書いたような、変なことを感じてしまう。ほんとうに渡辺のことばのスピードに乗って、どこまでもどこまでも滑っていくなら、私が書いたようなことを私は思いつかないはずである。滑りつづけて、滑っていることに気がつかないはずである。
 でも、気づいてしまうのだ。
 そして、あ、つまずく前、つまりブレーキがかかる前がよかったなあ、そのスピードに乗って、なんとかもう一度上滑りをしたいなあ、というようことを思うのだ。

 まあ、これは、私がことばに期待しているものとは違うものを渡辺は書いているというだけのことである。(裏側から見れば。)
 そして、といっていいのかどうかわからないのだが、ここでちょっと疑問に思うことがあるのだ。
 私はいま九州に住んでいるが、九州の生まれではない。九州のことばは私のことばとは何か相いれないものをもっている。すっきりとは読めないのである。それは、渡辺のことばに対してもそうなのだ。その奇妙なつまずきの感じが、いま、ここであらわれているのだと思う。
 すこし逆戻り(?)する形でいうと。
 たとえばタイトルの「破れた世界と啼くカナリア」。これは、どういうことだろう。「破れた世界」と「啼くカナリア」なのか。それとも「破れた世界と啼く」「カナリア」なのか。
 確かめる術はないのだが、渡辺は「と」を並列の助詞としてつかっているように思える。その並列の感じが、詩の前半にもある。次々に繰り出される「4H」の抒情をあらわすことば--その並列、並列の加速。そこには書かれていない「と」が次々に駆け抜けている。
 で、その駆け抜けるスピードが「啼くカナリア」ということばに出会うと、ぐぐぐっとブレーキがかかる。私の印象では。そして、つまずく。カナリアには鳴く、飛ぶが含まれているから、そこにわざわざ「啼く」があると、とても重たいのだ。
 その「重たさ」というか、どうしてここにこういうことばがあるのかわからない--ということが、私は九州のひとのことばを読むと感じるときがあるのだ。
 私は「破れた世界と啼く/カナリア」は理解できるけれど、「破れた世界/と/啼くカナリア」は想像できない。「破れた世界」と並列するなら、単に「カナリア」、つまり「破れた世界/と/カナリア」ということばになる。「啼く」はない。「啼く」はなくてもカナリアは鳴く。そして飛ぶ。
 --そういう違いというが、ずれのようなものが、どうも、私と渡辺のあいだに入り込む。これは私の一方的な「誤解」であって、渡辺は「壊れた世界と啼く/カナリア」と書いていると主張するかもしれないけれど……。

 あ、変なことを書いてしまったね。
 まあ、これからどう私のことばが動いていくか私にはわからないけれど、先に、渡辺のことばに対する「違和感」を言ってしまっておきたかった--というのが私の本音。
 言っておかないと、ことばが動いてくれない。
 表層を滑っているようで、渡辺は、ほんとうは「重たい」ものが好きなのかもしれない、と私は思うのだ。表層を滑って見せるのが、ほんとうの渡辺なのか、それはみせかけだけなのか、それをつきつめて考える必要があるのか、ないのか。
 まあ、そんなことがちらちら頭をよぎるのだが……。

芯(ココロが微細に(折れていって
(世界なんてどこにもなくって
ここが広がっているのは
花火が逝ったあとの夜空のセカイです。

 「4H」の「芯」「繊細」「折れる」と、ことばは必死になって「抒情」を上滑りさせようとするけれど。
 「世界」と「セカイ」が並列する。それは並列というより「対峙」かな? 何かとってもつらい感じがする。私のようにノーテンキな人間には、その「対峙」が苦しい。滑っていってほしいのに滑っていかない「表層」のありようが苦しい。
 ねばねばしている。

だれもいなくて(きみもいなくて

 ほら、出た。幽霊じゃないけれど、私はそう思ってしまう。思わず声が出てしまう。
 「だれもいない」のではなく、「きみがいない」。だから「だれもいない」。「きみがいない」から「だれもいない」。「きみ」さえいれば、「すべて(だれもが)」いるのだ。
 こんなべたーっとした情緒の動き方--これに私はつまずいてしまう。

たくさんのことが省略されて(狂いつづけて
コピーするほど劣化するコピーのように
くりかえし現われるぼくたちは
しだいに違う人になっていく(返事はない

 「ぼくたち」か。「だれもいない」「きみもいない」はずなのに、こころはいつでも「ぼくたち」と「きみ」を含んで「セカイ」を考えてしまう。「きみ」を拒絶して「セカイ」を滑っていくことができない。
 これが、ほんとうは渡辺の本質、本能、かな、と私は思うのだが……。
 複数が重なる--そのとき磁石の同極どうしだと反発し、リニアカーのように滑空する。けれど、それが同極をよそおった反対の極(ぼくときみ)だったら、どうなる? 動きが突然ストップするね。

すこし笑います(笑ってみます(笑ってみるために
笑っているように見えますか?
(歪んでうつくしい(麻痺した複製の明日(そして明日
はじまりの姿なんて誰にもわからないから
(ただキズのように硬くひきつれて

 これは、もう先へ先へと上滑りするではなく、まったく逆に、「明日」ではなく「昨日」へ、それよりさらに「過去」へ沈んでいく。「笑います(笑ってみます(笑ってみるために」というのは、ことばの「複製」ではなく、むしろことばを引き剥がし、「こころ」へ沈んでいく意識だなあ。
 だから「明日」ということばのあとに「おわり(明日が行き着く果て)」ではなく、まったく逆の「はじまり」ということばが出てくる。

 どんなに軽快に装っていても、詩は、重い「真実」(真理)へむけて動いている--と言っていいなら、そう言えばいいのかもしれないけれど。
 ちょっと重いたことを書きすぎたかなあ。

破れた世界と啼くカナリア
渡辺 玄英
思潮社
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