詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井明大『島ぬ恋』

2012-06-15 10:54:31 | 詩集
白井明大『島ぬ恋』(私家版、2012年04月20日発行)

 白井明大『島ぬ恋』は珍しいつくりの本である。奥付(?)に、

この詩集は、内外文字印刷の職人が活版組版、活版印刷し、
美篶堂の職人が一冊一冊手仕事で製本しています。

百五十部を雁垂れ、百五十部をフランス荘とし、少部数、
安慶名清(蕉紙菴)の琉球和紙を用いた別装があります。

 と書いてある。
 とてもていねいに、こころをこめてつくった詩集なのだ。

 申し訳ないが、私は、こういうことには一瞬は感心はするけれど、それは長続きはしない。でもまあ、こういうことを書いているのは、そこに白井の「気持ち」があるということをつたえておく必要があると思ったからである。

 装丁とは関係なく、私は、ただことばがどう動いているかにしか関心がない。というか、引用し、そのことばについて書きはじめるとき、私は装丁を離れてしまっている。装丁とことばをどう結びつけていいかわからない。いつものように書くしかないのである。
 「島ぬ恋」には琉球のことばの動きが影響しているのだろうか。私にはつかみきれない動きがある。

目つむって
君みてては
吐く一褪せた息の
首すじかすめる位近くてて

 「みてて」「近くてて」。この「て+て」という構文。あとの方の「て」は「……の状態にあるので」という感じなのだろうか。「いま/ここ」という一点が、何といえばいいのだろうか、「一点」ではなく「広がり」を含んでいるように動く。
 「君みてて」は目をつむって、いまいっしょにいる君のけはいを見ているめのとき、気配のなかに自分もいて、その気配がふたりをつつみこむ--そのつつみこむ気配の広がりをしっかり引き寄せるというか、放さない感じがある。
 君は背後にいて、その息が首筋にかかる--かかるくらい君は近くにいて、その近さが「距離(二人の隔たり)」をつつみこんで動く。首すじから君の息を吐く口までの距離ではなく、ふたりの肉体のすべてをつつんでいる空気、実際の距離を越える広がりを感じさせる。
 それが肉体全部を引き寄せるから、そのほんとうの「距離」のなかで、広がりは感情そのものとなって、透明に、美しく動く。

後ろへ手差し出すとたん
淡い胸に当たってか
手引っ込め背すじ張って
も一度背中澄ませてく

 息をのんでしまうなあ。こんな恋をいつしただろうか。「初恋」をとおりこした何かだねえ。「背中澄ませてく」--これは、背中ではないね。いや、背中なのだけれど、背中は背中だけではなく、肌であり、こころであり、心臓、鼓動そのものだ。
 だから、

後ろ隣りのすぐのところに熱もって誰か
いるいて
鼓動がテニスコートのボールの弾み音みたくて鳴る
足踏み出してく

 自然に、体が動いていく。体が反応し、こころになる。

 で。
 「も一度背中澄ませてく」の「く」。これが、また不思議だなあ。「足踏み出してく」の「く」も同じつかい方。「澄ませていく」「踏み出していく」と同じ意味だろうけれど、ことばは意味じゃないからねえ。
 ここにもさっきの「て+て」と同じような何か、同じようなのだけれど、実は反対の何かがある。
 「て+て」が広がりをとらえるのに対して「連用形+く」は広がりのあるものを凝縮、あるいは濃密にする言えばいいのか。掘り下げるといえばいいのか。物理的(空間的)な「距離」は実際はかわらないのだけれど、こころとこころの距離が「い」がない分だけ縮まった感じがする。
 なるほど、恋というのは、二人独自の「空間」の広がりと狭さなのだと、はっきりわかる。
 白井はこういう「距離」感覚がとても独特だと思う。そこに引き込まれる。

 「葉と空 道と」は、以前感想を書いた気がする。どんな感想か覚えていないが、そのことばにも不思議な距離感がある。そのときとまったく違う感想になるのか、同じ感想を書いてしまうのか、よくわからないが……。まあ、書いてみると。

曲がるほどではなく境に沿う道を
右に左にゆるやかに辿りながらいき

 1行目の「境」。これが白井独特の「空間(距離)」感覚である。この「境」とは何か。まあ、「公園」と道路の「境」などを考えてみればいいのだろうけれど、こういうときふつうは「境」とは言わない。公園に沿う道を、あるいは川に沿う道を。けれど、白井はその「境」を構成している道以外のものを省略し、「境」と書く。このとき、「距離感」が揺らぐでしょ?
 「いき」は「行き」なのだが、「境」がありもしない「距離(空間)」を浮かび上がらせるせいだろうか(ありもしない空間--というのは、公園に沿って、川に沿って歩くとき、そこには「境」というものはだれも書き記していないでしょ? フェンスとか具体的な「もの」がないでしょ?)、その「空間」のようなものに誘われて「息」がもれるような、そしてそのもれた息がそのまま「空間」になるような感じがする。

みあげたら樹上に生い茂る葉が黄赤く
雲のない空の青さがとおくかさならないで
色と色とが葉のかたちをこまかくしるしあっている

 「空間」がだれもみたことがない(だれも書いたことがない)空間にかわっていく。樹木があり、空があり、色づいた葉があるだけなのだが、「とおくかさならないで」、つまり空間を広げながら、「こまかくしるしあっている」、つまり空間内部を綿密に区切りはじめている。
 拡大と細分。--遠心と求心、とは違う何か。違うのだけれど、これが白井の遠心・求心なのかもしれない。
 この感覚を、白井は、人間に、つまりいっしょに「いま/ここ」に生きているひとにあてはめて暮らしている。--と書けば、前の詩集につながるのかな? この詩集の装丁へのこだわり、職人さんへのこだわりになるのかな?


白井 明大
思潮社
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池井昌樹「初恋」

2012-06-14 08:19:09 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「初恋」(「歴程」579 、2012年05月15日発行)

 池井昌樹「初恋」。書くことは何もない。ただ読んでもらえればいい。長い間いっしょに暮らすことの美しさが満ちている。

わたしこと
はずかしながら
としがいもなく
このたびはじめてこいにおち
こいにまどいこいにくるうて
あさましきことかぎりなし
こころにひめたこのおもい
うちあけられないそのひとは
けさもごはんのしたくして
せんたくものをとりこんで
わたしをおくただしたひと
こんどいつまたあえるやら
いてもたってもいられない
みちならぬこい
もちろんのこと
つまなんかははなせない
あのねがおのこと
あのねいきのこと
あたたかなあのひとのこと
こんどかおみたときだって
いつものようにブッキラボーに
いまかえったぞ
おかえんなさい
ろくにはなしも
ないくせに

 そうだねえ、長年連れ添った妻に恋心を抱くなんて、「みちならぬこい」だよなあ。うちあけられるわけがない。「こんどいつまたあえるやら」は、そのひとに、というよりもそういう恋をする自分自身にでもあるかもしれない--と書いてしまうと、池井の場合に、違ってしまうね。

けさもごはんのしたくして
せんたくものをとりこんで

 この繰り返し。繰り返せることの、美しいよろこび。

いつものようにブッキラボーに
いまかえったぞ
おかえんなさい
ろくにはなしも
ないくせに

 繰り返しとは、「いつものように」ということだ。
 この詩には「いつものように」がすべての行に隠されている。

「いつものように」けさもごはんのしたくして
「いつものように」せんたくものをとりこんで

「いつものように」あのねがお(のこと)
「いつものように」あのねいき(のこと)

 「いつも」だからこそ「こんど」かおみたときだった、と「こんど」といわなくてはいけないのだ。
 「いつも」なら「こんど」ではないのだが(学校文法では)、「いつも」だからこそ「こんど」なのだ。「いつも」だからこそ、「こんど」がいちばん新しい。
 「初恋」は「初めての恋」ではなく、「いまいちばん新しい恋」のことである。

 いいなあ。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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高橋順子「3・11あれから」

2012-06-13 09:07:36 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋順子「3・11あれから」(「歴程」579 、2012年05月15日発行)

 高橋順子「3・11あれから」を読むと、東日本大震災が高橋のなかで詩のことばになるまで時間がかかったことがわかる。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いていたように、すべては遅れてやってくる。--すぎてしまってから、わかるようになる。

古里の家の柱の上のほうに
黒い波が来たしるしがあったから
ゆめではなかった
けれどさめないわるいゆめのようだった
ゆめは海が見るゆめ
海のための

 1連目の最後の、

ゆめは海が見るゆめ
海のための

 を私は何度も何度も繰り返し読んだ。
 私は震災の被害者ではないし、また親族に被害者がいるわけではないので、実感が高橋の感じていることとは違うかもしれないが--違うからこそ、感想を書いて置きたい。
 津波--その瞬間、海は何を感じていたのか。
 こういうことは、考えなくてもいいことかもしれない。けれど、高橋の詩を読むと、考えてしまう。それは私は海が好きだからだ。私は体質の問題もあって、いまは夏の海へは近づかないことにしているが、海が好きでたまらない。
 人が夢を見るなら、海も夢を見る。
 どんな夢?
 そう考えたとき、私は海の夢について考えてこなかったことがわかる。
 海の夢というタイトルで詩を書いたとする。そのとき私が書くのは「海の夢」ではなく、海に託した「私の夢」だ。「私のための海の夢」だ。
 でも、高橋は、

海のための

 と書いている。
 ああ、そうなんだ。
 海だって、自分のための夢を見たいのだ。
 津波となって、高橋の古里の家の柱の上の方まで押し寄せてきた。それはいったい何のためだったのか。海がしたかったのは、どういうことだったのだろう。もし津波がなかったら、海はどんな夢を見ていただろうか。
 わからない。
 けれど、そのわからないものがある--ということが、いま、やっとはわかった。
 そのことを高橋は書いている。

 海の夢はわからない。わからないけれど、「黒い波が来たしるしがあった」から、海はそこまで来たことを覚えているはずだ。そのことは、これから先の海の夢にどんなふうに影響するだろうか。海は夢のなかで高橋の家の柱を思い出すだろうか。
 高橋は、きっと海に思い出して夢を見てもらいたいと思っていると思う。海がそのとき感じたことが、ずーっと海のなかで残っていればいいと願っていると思う。そこまでやってきた海と、記憶を、そして夢を共有したいのだ。
 ひとつのことがら。そのことについて、思うことはそれぞれにある。高橋には高橋の思いがある。海には海の思いがある。それは違っていてもいい。けれど、そこまで来たという事実から、いっしょに何かを感じたい。感じることが違っていてもいい。違っていても、そのとき「思う」という時間のなかで、「ここまで来た」という事実が事実になる。
 海の夢、海のための海の夢。
 たしかな「他者」とそのときに触れあうのだ。

 海は、新しく海になる。

気流が悪くなって録音テープが途切れる
ザーッと通信不可能の音
不可能の音 あれこそが
海の音
海の音はわたしの頭の中で海馬となって嘶いている
 *
実家の庭を海がのぞいていた
海にはのぞかれないようにしなければ

 これは、新しく出会った海。「海のための」夢を見ているはずの海。「不可能」とは、私とはまったく違うということだ。「他人」ということだ。だから「海にはのぞかれないようにしなければ」という生々しい感覚となって、そこに存在する。
 でも、これはあくまで高橋の海。高橋が「他人」と感じる海。
 海は、ほんとうは違うかもしれない。海は違うことを見ているかもしれない。
 たとえば、

海は人の居住区なんて知らない
魚は魚の居住区もべつに定めてなんかいない
定めるとは日と月の仕事である
と海は考えている

 でも、これも海の考えではなく、「高橋が考えた海」の考え。
 どこまでいっても、これはかわらない。
 かわらないから、そこに「海」がある。

しばらく鳴らなかった近所の電子オルガンが聞こえる
「会わなきゃよかった」と弾いて 同じところで間違える
繰り返しがこんなに新鮮だとは思わなかった

 ふいにあらわれる、この「日常」が美しい。「繰り返し」とは「繰り返せる」ということなのかもしれない。ようやく「日常」を繰り返せるところまでもどってきた。そうして、繰り返してみると、実は自分とは違うところに「海」がある、ということに気がついたということかもしれない。
 「海」がこれから高橋の中でどう変わっていくかわからない。けれど、高橋は「他人」としての海に出合いながら、やはり変わっていくのだと思う。
 「遅れて」変わっていく。そこに私は「真実」を感じる。真実としか呼べない見知らぬものを感じる。


 私は間違えたかもしれない。いや、完全に間違えた。
 感想を書いているうちに、知らず知らずに違う道を歩いていた。最初に書いたことが、なぜか、遠くなる。

海のための

 海のために、だれかが海の夢をことばにしなくてはならない。「他人」の夢をことばにしなくてはならない。
 そこまで高橋のことばは動いたが、やはりそれから先は難しかった。どうしても高橋の夢、高橋の記憶になってしまう。海のための記憶でも、海のための夢--つまり海自身の記憶や夢ではない。
 それはあたりまえのことなのだが。
 あたりまえのことなのだが、そのあたりまえのことの前で、高橋はたたずんでいる。たちどまっている。
 その瞬間の、不思議な「自己離脱(エクスタシー)」。
 それが、それ以後の高橋のことばを揺さぶっている--そのことを書くべきだったのだと思う。
 書き直すべきか。
 でも、書き直せないだろう。書き直すとまたちがった感想になる。きっと。ことばとはそういうものだと思う。



あさって歯医者さんに行こう
高橋 順子
デコ
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泣いているのは

2012-06-12 07:14:37 | 
泣いているのは    谷内修三


泣いているのはほっぺの円い小さなこども、泣きたいのはこどもの手の中の縫いぐるみ
おかあさんが言った。手が汚れるよ、きれいなお洋服も汚れるよ、早く捨てなさい。
「だって、大好きなんだもの」「同じものを買ってあげるから」「だって大好きなんだもの」
泣いているのはほっぺの円いこども、同じことしかいえない。ほかにことばを知らない
泣きたいのは汚れてしまった縫いぐるみ、ほんとうは真っ白な犬の縫いぐるみ
だって、ことばがしゃべれない。「ぼくもきみが大好きだよ。」
でもどんなにこころのなかで叫んでもおかあさんには聞こえない。
大好きなきみだって、おかあさんに泣きじゃくるばかり。ぼくの声を聞いていない。
ねえ、聞いてよ。聞いてよ。泣きたいのは、泣きたくてしようがないのは汚れた縫いぐるみ

泣いているのはおかあさん、泣きたいのは縫いぐるみを掴んでいる小さなこども、涙のかれてしまったこども
涙の傷がほっぺに残るぼくにおかあさんが言った。「汚れたものにはバイ菌があるの。病気になるの。」
ぼくが一番大切だから言っているのよ。なぜ、わからないの?
「なぜ、わからないの? 小犬の目は汚れていないよ。ぴかぴか光っているよ」
泣いているのはおかあさん、こどものことばでしゃべれない。
「なぜ、わからないの?」この子はすぐに真似をして私と同じことを言う。
何もかも知っているのに、知らないふりをして「なぜ、わからないの?」
泣きたいのはこどもの涙で汚れる縫いぐるみ、ぼくには流す涙がない、ぼくの涙はこころのなかにしか流れない
「なぜ、わからないの?」「なぜ、わからないの?」「なぜ、わからないの?」
ぼくも言ってみたい、泣きじゃくりながら、だれかのこころを傷つけてみたい

泣いているのは50年後の皺の増えた男、泣きたいのは50年前の縫いぐるみ
妻が泣きながら言うんだ「そんな汚れたものをどこに隠していたの。なぜ大事なの?」
泣いている男は泣きながら50年前のこどもにもどって手足をばたばたさせて暴れたい
なぜ探したの? 何を探しているの? なぜ隠していてはいけないの?
「わかっているくせに、知っているくせに、こころの声を聞いているくせに」
泣いているのは50年後の男、母に泣かれて何もいえない50年前のこども、
そして泣きたいのは汚れたままの縫いぐるみ「だれか聞いてよ」
さらに泣きたいのは縫いぐるみの、その汚れのなかにかたまっている50年。その時間。
「隠れたまま、なくなればよかった? ぼくが消えてしまえば苦しみもなくなるの?」
だれにもことばが通じない。だれも聞いてはくれない。「50年前、目のなかに
顔がきらきら映っていると言った声」--聞こえてる?


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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タル・ベーラ監督「ニーチェの馬」(★★)

2012-06-11 08:48:42 | 映画
監督 タル・ベーラ 出演 ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ

 この映画には嫌いなところがたくさんある。台詞が多すぎる。そのために映画に映画になっていない。
 映画は6日間、同じことを繰り返し、繰り返しながら違っていくのだが、その違いの部分を台詞に頼っている。特に序盤がそうである。一日目の終わり、「風がおさまらず、屋根の瓦が落ちて割れた」というような台詞がナレーションで入る。どうして、それを映像で見せない? 映画でしょ?
 2日目(3日目だったかな、忘れた)、男が焼酎をわけてくれと言ってくる。それはいいのだが、その男が終末思想?を延々と語る。おーい、私は字幕を読みに来たんじゃないんだぞ。飲んでいる缶コーヒーの缶をスクリーンに投げつけたくなったなあ。男の言っていることがどんなに「正しい哲学」であろうと、それをふいに現われた男に語らせて何になるのだろうか。どんな哲学も、いま、ここにある日常の映像(そこにあるものの形と時間)をとおして具体化しないと哲学にはならない。哲学は「ことば」ではなく、ものの存在感そのものなのだ。
 せっかく茹でたじゃがいもを、その熱さにもかかわらず素手で皮をむき、塩をかけて手だけで食べるという「暮らし」を描きながら、ことばを持ち込んでどうなるのだ。朝は焼酎(父親は2杯、娘は1杯)、夜はじゃがいも1個という美しい哲学を具体的に描きながら、台詞で全部叩き壊してしまう。
 カメラが映し出すじゃがいも、焼酎、テーブル、皿、窓、あらゆるものが象徴でも意味でもなく、一回かぎりの具体物なのに、一回かぎりなのに繰り返すしかない具体物なのに、それをことばが壊していく。
 無残だなあ。

 台詞がなかったものとして、この映画を見てみる。
 そうすると、おもしろい部分がたくさんある。
 じゃがいもだけの食事がとりわけ、すばらしい。一日たった一回の食事だ。その食べ方が強烈なのだが、それをいったん強烈に見せた後は、繰り返しのなかでだんだん虚無的にしていく。一日目、父親の夢中な手つきが飢えを鮮烈につたえるが、二日目、反対側から映し出される娘の仕方がないという手つき、食べ方、三日目(ここからは、適当に書いている)二人を左右に映し出し、その二人の間の空間、虚無を完璧にとらえるカメラ。その変化。四日目は父と娘の位置が違っている--のは、実はカメラが移動したのであって、二人はおなじ位置にいる--という日常の不思議。虚無はおなじ。おなじであっても、それを表現的には逆にできるという世界の謎。いやあ、おもしろいなあ。繰り返しに見えるものも、繰り返すことで違いを表現でき、違うように表現しながらおなじところへ帰っていくという暮らしの不思議さ。
 右手が不自由な父親の着替え。これもいいなあ。外に出かけるときと、家にいるときでは服が違うのだが、それを着替えるとき、あたりまえだが手順はおなじである。娘がそれを手伝うのだが、それおなじ手順である。繰り返されることでできあがる美しい何かがある。美しいけれど、同時にいやらしいなにかがある。うんざりするものがある。そして、それに耐えるものがある。その濃密さのなかに、うごめいているどうしようもないのもがいい。「どうしようもない」と書いたけれど、これはどうことばにしていいかわからないもの、とおなじことだ。ことばにできないから、それが真実なのだ。台詞なんか、嘘にきまっている。
 さらに。
 ていねいだなあと思うのが、娘が井戸から水を汲むシーン。一日目に比べると二日目は汲み上げのロープをひっぱっている時間が長い。水が減っているのだ。それは最後にはかれることを暗示している。このあたりが、映画ならではだねえ。おもしろいなあ。

 逆に、いやな部分。
 これは私の見間違い(?)かもしれないが、最初に出てくる馬と二日目からの馬が違う。冒頭の馬は、いかにも農耕馬という感じの、足も不細工に太い馬なのだが、二日目以後の馬はどちらかというとサラブレッドに近い。足が細い。三日目以降も、毎日馬が違って見える。馬も変わっていく--ということを表現しているのかもしれないが、その感じがよくわからない--というか、最初の馬と二日目の馬が違いすぎて、違和感が残る。
 娘が本を読むのもいやだなあ。そこにも、ことばの過剰がある。
 いったん家を出ていこうとするときの馬の描写も嫌いだなあ。食べるのを拒否している馬。動かない馬。それが引っ越しのとき、馬車をひかないからといって、いっしょについてくる? ご都合主義だなあ。あそこは、馬はやっぱり動かず、娘と父と二人で荷車をひいて峠をこえる、けれどどこにも行くところがなくて、家へ、ではなく、馬のところへ帰ってくるという感じになると人間味が出ると思うなあ。
 馬が最後に、顔にロープをつけいてるというもの嫌だなあ。ことばではないけれど、ことばに匹敵する意味の過剰がある。

 で、元にもどるのだが、そのことばの過剰、意味の過剰が、せっかくじゃがいもを食べる、服を帰る、井戸から水をくむというような肉体の動きで、観客を肉体の方へ引き込むのに、ことばがそれを切り離す。
 変だなあ。



 私の見た回のあと、公開記念トークというのがあった。西南学院大学の森田団(かな?資料の字がよく見えない)教授が「終末のヴィジョンと馬」というタイトルで話したのだが、これがまたまたことばが過剰で、映画をさらに台無しにしてしまった。
 唯一納得できたのは、ふつうの終末思想は洪水、火事(火山の爆発?)、地震などものが人間の暮らしを破壊することで表現されるが、この映画では逆。ものがなくなる。油がなくなり明かりがともせない。じゃがいももやがて尽きる。(その前に、茹でていたものをなまで齧るのだけれど--これは、私の追加。)そこにこの映画の終末思想の特徴があるという指摘である。
 あとは情報が過剰すぎた。森田がいろいろなことを知っている(学者だからね)というのはわかるけれど、知っていることと感じとれることは別じゃない? 映画から何を感じたのかなあ。それが、さっぱりわからない。いくらいろいろ知っていても、それを自分の肉体をとおして表現できなければ、単なる「文献の紹介」。
 それにね、と、あえて書くのだが、「文献の紹介」は森田の考えとは何の関係もないでしょ? それはだれかが考えたこと。森田が考えたことではない。そんな他人の考えたことを、だれそれがこう言っています、ということが学者のすること? 学者というのは、自分で考えることじゃないのかなあ。自分のことばを動かして、何かを明らかにする。たにんのことばを紹介して、私はこれだけ知っています--だなんて。
 大学でどういう講義をしているのかしらないけれど、聞きたくないなあ。こういう講義を聞かされているのなら、学生はかわいそうだなあ、と思った。




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高岡淳四「三月、私は前任校の卒業式に行った」

2012-06-10 11:15:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「三月、私は前任校の卒業式に行った」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 高岡淳四は、彼が現代詩手帖に投稿していたころから大好きな詩人である。ことばのリズムが自然で、あ、正直な人間はこんなふうにしてことばを動かすのか、といつも感心していた。一時期、高岡は私の住んでいるところにわりと近いところに住んでいた。そして、私は高岡の教えていた大学病院に入院したことがある。(いまも通院している。)一度会ってみたいと思っていたけれど、ついに会わずじまいである。とても残念だなあ。
 --ということは、詩の感想とは無関係なようで、そうではないかもしれない。
 「三月、私は前任校の卒業式に行った」は、そのタイトル通り、高岡が前に教えていた大学の卒業式に行ったときのことを書いている。なぜ、前の大学の卒業式に? 「ゼミを持つ筈だった学生が卒業するので」、ということらしい。ふーん、大学というのは、というか、教授と学生というのはそんなふうに濃密な関係なのか、と私はちょっと驚いてしまった。こういう関係をていねいに生きるところに、たぶん高岡の正直の基本があるんだな、とも思った。
 ということよりも。
 この詩では、私にはわからないことがあった。わからないことばがあった。

東京への異動に先立って、足下にあることで
さまざまな誤解、さまざまな無関心、
さまざまな行き違い、さまざまな開き直りがあった
足下にあることを理由に話しを元には戻せない、と
自分を納得させてことを進め、引っ越しの寸前に震災が起きた

 この「足下」がわからない。「あしもと?」「あしした?」読み方もわからない。
 「足下にあることで」「足下であることを理由に」は同じ意味だろう。「足下にあることで」の「で」は「理由に」と同じになると思う。
 で、わからないのは「足下にある」の「ある」だね。
 主語は? 「私」、つまり高岡? そうするとそこに書かれている「足」はだれの足?省略されているものがわからない。いったい、何?

 私は高岡の詩で、はじめて「不正直」に出合ったと思った。とても驚いた。
 わからないことばに出合い「不正直」と言われても、たぶん高岡は困惑するだろうけれど、1連目と比較すると、私の書いている「不正直」がわかるかもしれない。

上空からは、富士山の火口がよく見えた
撮影して後でツイッターに投稿したら
フジツボのような富士山ですね、というコメントがついた

 主語は書かれていないが、富士山の火口を見たのは「私(高岡)」である。ツイッターに投稿したのも高岡である。コメントを寄せたのはフォロアー(で、よかったかな?)である。省略されていてもわかるのは、そこに「隠されたもの」がないからである。
 でも2連目の「足下」には隠されていることが「ある」ね。
 で、この「隠し事」を高岡は、ちょっと不思議なことばで描いている。

これで良かったのだろうか、という感情、
自分は賭をして、無理をして、失敗したのではないか、という思い、
これは永劫に回帰する一点だ、その一点を抱えて一年を過ごしてきた
それを、クダラナイ、という人たちの声や
もっと苦しい思いをしている人が黙っているのだからお前は黙れ、という声には
耳を塞いで過ごしてきた
いいから、私にも、私の歌を歌わせろ

 「感情」「思い」--こういうものを「これで良かったのだろうか」とか「自分は賭をして、無理をして、失敗したのではないか」という形で、高岡は、いわば「正直」に書いているのだが。
 うーん。
 この「正直」が、私のなじんできた「正直」とはかなり違っている。
 人とのあいだ、他人とのあいだで動いてない。
 高岡のなか(こころのなか?)だけで動いている。
 おかしいなあ。

 高岡の「正直」は他人と出会い、他人と私が違うということをはっきりさせた上で、他人はこう動くけれど、私はこう動く、という具体的なものだった。それをきちんと書ける「正直」だった。そこには自分に対する尊敬(?)と同時に他人に対する尊敬があった。1連目にもどっていえば、「フジツボのような富士山ですね」とコメントを寄せる人への尊敬というか、そのひとを自分と同じ人間なのだという思いがつないでいる。
 それが「これで良かったのだろうか、という感情、」からはじまる行では、何かが違う。うまくいえないけれど、

足下

 そのことばの「下」という文字がもっている「意味」が正直を縛っている。正直を動かせないようにしている。
 私の考えすぎかもしれないけれど。

 と、書きながら、それでも私はここにも高岡の「正直」を別の形で感じている。

足下

 その「足」に。ここに、こういう肉体をあわらすことばを動かすところに高岡の「正直」がある。人間はみな肉体を持っている。なによりも肉体でつながっている。そういう人間に対する信頼関係のようなものがここにある。

足下

 は、したがって、何かしら矛盾したものを含んでいる。矛盾している。だから、そこに今回の高岡の詩の「思想」そのものが動いているといえるのだが--ちょっと、私には、その「ほんとうのところ」がつかみきれない。たどりきれない。
 で、ああ、一度会いたかったなあ、とまた思うのである。
 私は実際にあったことのある詩人というのは非常に少ないのだが、会うと、そのひとの肉体の記憶が残る。池井昌樹はデブだ、ラーメンを食べると腹が丼鉢のように膨らむというような、どうでもいいことだけれど、その記憶が私の肉体の何かを動かす。こんなにデブだったら、ぼーっと動かずにいるしかないよなあ、というようなところから、池井の「放心」に対する接近がはじまったりする。--そういうことは、詩にとって、幸福か不幸かわからないけれど、何か接近の材料になる。詩はことばだけれど、ことばだけではないのかもしれないなあ。

 脱線した。

 何かしら、不透明で「不正直」なところがある。人間だれでも「正直」だけでは生きてはいけない。そういう意味では、高岡は、非常に人間らしくなったのかもしれない。これまで私にとって高岡は「正直」のかたまりで、会いたいけれど、会うとどきどきしてしまうだろうな、という、不思議な人だった。

 で、またまた余分なことを書いたが……。

十一時半頃にはいつもの先生たちと学食で落ち合い食事をするのを楽しみにしていた
同僚の一人と一年間口をきかなっかた折には
話詩を聞いてくれる人とは、どの話しをしてもその話しになって、
金太郎飴みたい、と考えたこともある

 あ、この部分いいなあ。「正直」が復活している。高岡はどうしたって「正直」にもどるしかないのだね。
 他人がいて、自分がいて、その関係のなかで動いているもの--それを「金太郎飴」と具体的なものにして見つめなおす瞬間。他人とは私が、とてもすっきりするね。そして、そこに「笑い」が生まれる。「笑い」とは客観的なものなのだ。人間は客観的に見れば、滑稽で、笑うしかない生き物なのだ。
 真剣なセックス、なんて、傍から見ればおかしなことだよねえ。笑いだしちゃうよね。そのあとの失恋騒ぎなんて、もっとおかしいかもしれないなあ。ばかみたいなことかもしれないなあ。でも、人間は客観的にはなれない。そこにおもしろさがあるのだけれど。
 
 また脱線した。

 で、このあと、文体が変わります。不思議なおだやかさがことばに広がる。この変化--ああ、変わるために、高岡は東京からもどってきた。そして、変わって、東京へ帰っていくのだということがよくわかる。
 とても安心した。「足下」という、私の知らないことばをつかっていた高岡は、そのことばから「卒業した」と感じた。

父兄席に向かうつもりだった。どうぞ前へ、と促されて
壇上の席に近づくと
話しを聞いていた人たちは頷き、知らなかったひとは驚いた様子でした
みなさんのお顔のほころびが嬉しかったのです
あの人も、この人も、みなさんが私を見る目がやさしかったのです
心配してくれていたのだ、と感じ入りました
私は、東京で努力して、幸せにならないといけないのだと思いました
ようやく、そう思えました







おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社
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NODA・MAP番外公演「THE BEE」

2012-06-09 08:54:11 | その他(音楽、小説etc)
NODA・MAP番外公演「THE BEE」(2012年06月08日、北九州芸術劇場)

演出 野田秀樹 出演 野田秀樹、宮沢りえ

 シンプルな舞台構成と演劇の特権が巧みに溶け合った刺激的な舞台である。
 演劇の特権--と私が呼ぶのは、演劇は本物ではなく嘘である、ということである。本物はどこか別のところにあり、それを演じる(真似て見せる)というのが演劇である。芝居である。
 たとえばある事件が起きたとする。その事件をコピーして舞台で演じる。そのとき演じるひとたちは事件の当事者そのものではない。だれかがだれかのふりをしている。どうしても、そこには嘘が入る。そして、その嘘こそ事件の本質でもある。省略できないものである。
 その本質、省略できないものを、想像力でつかみ取る。想像力へ向けて投げつける。
 その嘘と本質を役者が肉体で表現するというのが演劇の特権である、ともいえる。これを、この芝居では登場人物よりも役者が少ないという手法で見せる。一種の早変わり。ある人物が、次の瞬間別の人物になるが役者は同じ。想像力のなかで、ストーリーは動きはじめる。
 この芝居では、具体的には野田秀樹の妻とこどもを人質に取っている犯人の家(宮沢りえ)へ、警官が野田秀樹を届ける。警官はそこで野田秀樹によって殴られ、外へ放り出される。その瞬間から警官は宮沢りえの息子を演じはじめる。--という具合である。そして、その息子は、あるときは野田秀樹の家族を人質に取った犯人も演じる。被害者と加害者、加害者と被害者をひとつの肉体で演じる。
 野田秀樹も、宮沢りえも同じである。最初は被害者であったのに加害者になり、被害者なのに加害者に同情したりする。
 そのとき観客のなかで動く想像力--それが演劇なのだ。観客の想像力を刺激しながら、いま起きている関係をリアルに感じさせるのが演劇なのだ。
 しかし、ただ関係を浮き彫りにする--現実(世界)の構造の謎解きをするというだけなら、演劇である必要はない。小説でも評論でもいい。それが演劇であるというときには、そこに役者の肉体がからんでこなくてはいけないのだが。
 うまいなあ。
 野田秀樹がうまいなあ。宮沢りえも、警官→こども→犯人を演じた役者(だれ?)もうまいが、野田がうまい。早変わりだとか、被害者・加害者の入れ代わりによる世界の構造というようなことをぶっとばして、そこに肉体がある。観客の視線を惹きつける。ときにはスローな動きで開脚開き(バレエダンサーみたいだ)をやったり激しく踊ったり、蜂の羽根音に苦しみ動けなくなったり--ストーリーを逸脱(?)しているような部分で、しっかりと存在をみせつける。演じられている役者の過去を噴出される。野田の肉体訓練の過去を噴出させる。そこに、演じられている「役」以上のものが溢れてくる。
 つまり(言い換えると?)、ストーリーを肉体がなぞり、想像力が世界の真実にふれる瞬間を演じながら、そのストーリーや真実と思われるものまで、肉体で破壊して見せる。私たちが真実と思い込んでいるものは単なる想像力の名残である。現実の本質は想像力ではない、と否定して見せる。こにあるのは肉体である、ここに生きているのは不透明な人間であると宣言する。
 まあ、それも演劇の特権。役者の特権、役者の肉体の特権というものだろうけれど。
 それにしても野田秀樹は立ち姿が美しいなあ。無駄がない。余分な力が入っていない。いや、こんなに美しく見えるのは、どこかに無理をしているからなのだろうけれど、そう感じさせない。だから小さい体なのに、小さく見えない。
 宮沢りえも、後半の台詞のない部分が美しかったなあ。「下谷万年町」のヒロインのときほどの魅力はないが、今回は受けの演技でむずかしい面があるのかもしれない。

 と、その野田の特権的な肉体に非常に感心した上でのことなのだが。
 この芝居には、しかし、不満がある。ほんとうは、これを書きたくて、私は感想を書いている。
 北九州芸術劇場の「中劇場」でやったのだが、その劇場に役者の肉体がなじんでいない。野田の肉体でさえ、この劇場を支配しているとはいえない。
 なぜ、こんなことが起きるのか。それは単純に言ってしまえば、中劇場でさえ、この芝居には広すぎるということになるのだが、それとは別の問題もあると思う。それは、この芝居が「地方巡回興行」だからという点だ。北九州芸術劇場の「中劇場」で何度も練習し、何度も上演し、観客の反応を見ながら声の出し方、体の動かし方を調整するという時間が、役者の肉体のなかに蓄積されていない。よその場所で練習してきて、本番前に実際に劇場をつかってリハーサルはしたかもしれないが、それだけでは不十分なのが演劇だと思う。劇場の空気と役者の肉体がなじみ、劇場のなかに役者の肉体のなごりが漂っていないと、役者の肉体は自然な動きにはならない。劇場のなかに残っている過去の役者の肉体の時間が、そのはるかな遠くから舞台の上の役者の肉体を、「ほら、こっちのほうへ動いて」と自然に誘う感じになると、劇場全体が非常に濃密な空間になる。
 声にその問題がいちばん大きく影響する。役者の声が劇場の空間そのものをつかみきっていない。野田秀樹にしても、そういう問題をここではかかえていたように私には感じられる。どこかに隙間ができる。静かな声も大声もきちんと聞こえるのだが、耳のなかから肉体に入ってくるときに、余分な空隙のようなものを抱き込んでしまう。そうすると、ぎすぎす--という感じが残る。こういうとき、どうしても観客の意識は役者の肉体から離れてしまう。ストーリーのほうにひっぱられてしまう。肉体がストーリーを動かしているはずなのに、逆に見えてしまう。
 舞台のうえにではなく、劇場内に、隙間を感じてしまう。舞台の上ではあんなに濃密なのに、それを劇場の空間が薄めてしまう。
 せめて月単位で劇場をつかいこなさないと、役者の肉体は空間になじまないのかもしれない。観客の方も、たぶんなじみの劇場でないと、芝居を正確には受け止めることがむずかしいのかもしれない。イギリスであった初演(りえちゃんは、その芝居に通いつめたということだけれど)を見たかったなあ、と思う。あるいは、せめてここではなく野田が本拠地にしている劇場で見たかったなあ、と思った。
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田中清光「草」

2012-06-08 10:29:49 | 詩(雑誌・同人誌)
田中清光「草」(「午前」創刊号、2012年06月05日発行)

 私は私自身を意地悪な人間だなあと感じるときがある。気に食わないものは知らん顔をすればいいのだが、なんとなくここが気に食わないといわないと気がすまないときがある。まあ、体調とか、いろんなことが関係しているのだと思うが、きょうのように雨が降るでもなく降っていて、目の調子も変だなあと感じるときは、そういういらいらが出てきてしまう。
 これから書くことはそういうことなので、まあ、……。

 田中清光「草」は、いわゆる「詩の感性と美しい言葉の表現」を目指したものらしい。「午前」の「創刊の辞」にそういうことが書いてあって、その巻頭の詩なのだから、そういうことなのだろうと思って読んだ。

草が何かを語ろうとしている
一晩じゅう沈黙していた草が
朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを

 草はもちろん語れない。ことばをもたない。したがって、もし語るとすれば、その声を聞き取ったひとが代弁するしかない。こういうやさしこころ、ことばをもたない何かのために自分のことばをつかうということが「詩の感性」の「定義」になるかもしれない。
 田中は、何を聞いたのか。「一晩じゅう沈黙していた」とまず、ことばから遠い世界を描く。この「遠い世界」が、いわゆる抒情の出発点である。遠いところから、はるばるとやってくる。だれかのために。「語ろうとしている」と「沈黙」のあいだに、ひとつの宇宙がある。それを田中は自分の宇宙として受け止める。
 で、そのあと。

朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを

 「一刻だけの固有の」という繰り返される強調が、私にはうるさく感じられる。「固有」ということばも、なんだか苦しい。「草」にはそぐわない感じがする。草って、「固有」であることを思うのかなあ。草って、たいてい群がってはえている。その群がってはえていることが草の性質だと思うけれど、群がっているからこそ「固有」にあこがれるのかなあ。
 それはそれで田中の生き方と重なるのかもしれないけれど、そのあこがれが「一刻だけ」「固有」と二回個別性が強調されると、過剰な感じがするのである。繊細な感じがしない。いや、詩は別に繊細でなくてもいいし、美しいことばが繊細である必要もないのかもしれないけれど、私は、まずここでつまずいてしまった。

秘められた草の生涯
ほとんど語られたことのない節から節へ
内部からあふれようとしている断片 断片を
語り尽くせるはずもなかろうが

 「ほとんど語られたことのない」ということは、逆に言えば、少しは語られたことがあるということになる。 そうなの?
 まあ、いいけれど。
 わからないのは、1連目の「一刻だけの固有の」が2連目では、どうも違っている感じがすることだ。「一刻だけの固有の」というのなら、ていねいに語れば語りきれるのではないだろうか。「複数の時間の複数の」こと、あふれだしてくる様々なことだから「語り尽くせない」ということが生じるのではないのか。
 いや、たとえ「一刻だけの固有」であっても、その内容が多いのだということもあるんだろうけれど、そうなら「一刻だけの固有の」とはいわない方が、と思う。
 「一刻だけの固有の」何かに、すべてを象徴させる--というのが1連目の意識だと思うが、そういう行為を2連目で「内部から溢れようとしている断片 断片を」と複数化し、「語り尽くせるはずもない」と言われてもねえ。
 1連目と「方法論」が違っていない?
 詩だから、語り方の方法論は違ってきてもいいのかな?

草は表情を
たやすく読みとらせることもなく
天上の一つの眼

朝露を通りぬけ 闇という混濁を抜けてきた
まぶしい一つの眼に
静かにゆだねている

 語ろうとしているが、語り尽くせるはずもないので、沈黙を守っている。--という「意味」になるのかなあ。そういう生き方に田中は自分を重ねているということだろう。草を描写する形で自分自身を語っている、ということなのだと思う。
 何かを語りたい、でも語り尽くせない--これは共感をよびやすい感覚だなあ。

 で。
 そういうことは、わかるのだけれど。
 わかりすぎるのだけれど。(もし、私の読み方でいいのなら。)

 「天上の一つの眼」「まぶしい一つの眼」って何? 太陽? たぶん太陽なのだと想像するのだが。
 変じゃない?

一晩じゅう沈黙していた草が
朝の光のなかから
この一刻だけの固有の語りかけを

 ここに書かれている「朝」というのは、明けたばかりの朝だ。「朝の光」が生きているのは「一晩中」があるからただ。暗い夜、その沈黙をこえて、いま朝の光が射している。このとき太陽って、どこにある?
 空は空だけれど、天上?
 天上にもいろいろな位置があるから、低くても天上は天上と言えるだろうけれど、うーん、私は「真上」を思い浮かべてしまう。「天上」の「太陽」--それは真昼だ。

 なぜ、こんなことになったのかな?

 たぶんことばを無意識に「美しい」とか「詩的」という枠でくくっているから、こうなってしまったんだね。詩の感性、美しいことばという意識が先にあり、それにひっぱられて「天上」ということばが動いてしまった。「空」という単純なことばでは「詩の感性」とはいえないと思ったのかもしれない。
 こういうことばが、この詩には「溢れている」と私には感じられる。
 「一刻だけの固有の」もそうだし、「ほとんど語られたことのない」「たやすく読みとらせることもなく」「闇という闇の混濁」「静かにゆだねている」--これらは、「詩の感性」というより「詩の感性としての流通言語」だと私は思う。
 「草が何かを語ろうとしている」という1行目は美しいと思うが、そのあとが「流通言語」の洪水という感じがする。







田中清光詩集 (Shichosha現代詩文庫)
田中 清光
思潮社
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三浦優子「Vanilla 」

2012-06-07 10:56:42 | 詩(雑誌・同人誌)
三浦優子「Vanilla 」(「現代詩手帖」2012年06月号)

三浦優子「Vanilla 」は書き出しの2連が、私には気持ちがいい。

柔らかいものが固いものと不意に
適切とはいいがたい出会い方をすると
独特の音がするのです
指先とボールでも
熟れた苺と銀色の匙でも
わたしとあなたの一部でも

たいてい鈍い痛みをともなったりするので
とっさに自分をかばおうとしてしまうけれど
すっかり春が来た花壇のように
ああもう自分にはなにもできることはないのだ、と
とろりと悲しく安らかになる瞬間も知っている

 わざわざ「わたしとあなたの一部でも」とことわって、それらしく書いているのだけれど、私はそれを「肉体」と受け取らなかった。肉体ではないものの方がより切実であると思った。
 ひとの体のなかで、固い部分があったり、柔らかい部分があったりというのは目に見える肉体だけのことではない。もっと奥底に何かがあり、その何かが、たとえば肉体の固い部分、柔らかい部分ということばになるだけだ。
 ほんとうはほかのことばになりたかったかもしれない。
 けれど、そのことばがみつからない。
 だから知っていることば、なじんでいることばについつい動いていってしまう。そのとき、ほんとうに動きたかったことばは、どうすることもできなくなって、

ああもう自分にはなにもできることはないのだ、と
とろりと悲しく安らかになる瞬間も知っている

 と、放心する。
 この放心、そしてそれを「とろり」と呼ぶときの不思議さ。
 この「とろり」を別のことば--つまり、私自身のことばで言いなおすことはむずかしい。三浦の書いている「とろり」にのみこまれ、そこでしばらくたゆたっている。
 「瞬間も知っている」か。
 ここにも、諦めがあるなあ。
 「知る」ということは、あきらめるということなのか。

 うーん、なんだか女になった気持ち。
 と書くと、女を一方的に枠にあてはめていると叱られるかもしれないが。

 3連目の終わり、

金雀児の茂みの向こうを
背の高い人が歩いていきます
時々姿が見えなくなったり透けて見えたりします
でも背が高いから歩いていることだけはわかるのです

 この「わかる」もいい感じだ。「知っている」は「わたし」のなかだけで完結する。けれど、この「わかる」はその背の高い人に向かって、こころが肉体のなかから飛び出していって、触っている感じがする。
 見ることは三浦にとって触ることなのだ。
 だからこそ、

シャツを木漏れ日の模様に染めて
金雀児の茂みの向こうから
あの人がやってくるところです
見失うことはありません
手には白いケーキの箱を持っています
目は、あまりよくありません
耳は、いい方です
触ってみるのは、少しこわい

 「見失うことはない」は触っているから。「触ってみるのは、少しこわい」はすでに触っているのだから、それを超越して「触る」とき、それはもう「肉体」ではない、「肉体以上」のなにかになる。
 そのとき「わたし」の肉体だって、肉体ではなくなる。
 でもね、触るんですねえ。そうして、

ただひたすらに香りたつものを信じるだけなのです

 そうか、「信じる」とはこういうときにつかうのか、と驚いた。


詩集 lyrics
三浦 優子
思潮社
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小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」

2012-06-06 10:09:55 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 小笠原鳥類「落馬ではない。なぜか知らないが気絶して倒れた……」は「意識の流れ」と言っていいのか、あるいは意識の分断(切断)と言っていいのかわからないが、切断しても切断してもつながってしまうのが意識なんだろうなあ。「気絶」の「気」は「意識」でもあるのだが。

ハトの小屋は少なくない
と思うが、その
道 その道で、ニワトリを
見たことがあった。ニワトリの
小屋が、あったんだろうか。私は
左側を見てたんだろうか
すべてが紫色になる。その以前
(数分前まで)右に、左に
いろいろな
暗い人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた(これは違う日だったかもしれないな。)--それから数年前
近くで、歩いている人が
地面の中に
消えるのを
見ていた。地面に、ストンと消えるんだな

 小笠原にとって「見る」ということが「意識(気)」と緊密につながっている。見えるものと、見えないもの(そこに存在しないもの)の不思議な出合いがあって、そこから意識の切断(分断)が広がっていく。
 「その道で、ニワトリを見たことがあった」は、「いまはそこにニワトリはいないが」ということを前提としている。その前提のさらに前に「ハトの小屋は少なくない」という意識がある。そこには、ニワトリではなくハトこそそこにいるべきだったという意識がある。ハトならいてもいいが、そんなところにニワトリを見たことがあった。どこかにニワトリ小屋があったんだろうか。
 あ、この「あったんだろうか」が、すごいなあ、と感じる。
 何が、と言われると、ちょっと困るけれど、「時制の意識」がすごい。
 「ニワトリを見たことがあった」(過去形)、だから「ニワトリの小屋が、あったんだろうか」(過去推量形)と時制が一致するのだが、うーん、日本語はどちらかというと時制なんて気にしないのにねえ。時制を突き破って感覚が「現在形」として動いていくところに日本語のおもしろい部分があるのだけれど。
 つまり。
 あ、つまり、はまずいかな。あくまで私の「時制」、「感覚の時制」でいうと、
 「ニワトリを見たことがあった」が過去形であっても、つぎにくることばは「ニワトリ小屋があるんだろうか」と現在形になる。現象としての事実は「過去形」でも、意識は常に現在でしかないから、もし厳密に過去形の文章にしなければならないのだとしたら、「ニワトリ小屋があるんだろうか、と思った」き「思った」の方で「過去」であることをつけくわえる。
 そうではなくて、小笠原の場合は、「ニワトリの/小屋があったんだろう」と推量そのものを過去形にする。
 この時制に対する意識の強さ(?)と関係するのかどうかよくわからないが、

暗いい人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた

 この「見る」ことに対する意識の強さも印象的だ。「現れて、消える」はたいてい見ることによって認識する。何かが現われるのを見る。何かが消えるのを見る。消えるとは、視界から消えるということだろう。そのとき、そこには「見る」は必然的に含まれている。
 でも、小笠原は、それでは満足しない。

暗い人の姿が次々に現れて、消える
のを見ていた

 あくまで「見ていた」を言わずにはいられない。それも「暗い人の姿が次々に現れて、消えるのを見ていた」ではなく、見ていたものを「現在形」として「現れては、消える」と書いた上で、「見ていた」とつけくわえる。「現れては、消える」と「見ていた」の間に「時制」の違いを持ち込む。
 この時制の持ち込み方、排除の仕方に、不思議な振幅がある。大きな振幅がある。
 「暗い人の姿が次々に現れて、消えた」なら、単なる過去形なのだが、そうではなくそれが現在形であるということは、さっきのニワトリ小屋と比較するとおもしろいのだが、「現れては、消える」はあくまで「現在形」のなまなましい感覚とともにあるということだね。
 どんな過去でも、なまなましいものは「現在」である。つまり、現在と過去とのあいだに、時間が割り込まない。何年前とか何日前という具合に、ひとは言うけれど、それを思い浮かべるとき「何年前」と「何日前」では、区別がある? つまり、そのあいだに、明確な「時間の隔たり」を認識することができる?
 私はできない。「いま-何年前」「いま-何日前」の「-」の部分は同じ「時間のへだたり」である。これは、自分の感覚にとって、という意味だけれど。
 これは、私と小笠原に共通する感覚だと思う--というか、そのつぎに書かれていることばが、私にはとてもよく実感できる、ということなのだけれど。

のを見ていた(これは違う日だったかもしれないな。)--それから数年前

 「のを見ていた」日、それとは「違う日」、さらに「数年前」が「いま-あのとき」の「-」であらわした分断/接続のなかで区別を失くしてしまう。
 小笠原の書きたいのは、これなんだね。「いま-過去」の「-」の分断/接続に区別はない。いつでも融合する。そして、その融合のなかで時間は空間をもって増殖する。意識は次々に何かにじゃまされながら、そのじゃまを吸収し増殖する。
 そときの意識は、流れている? 分断している? わからないね。そこには「乱調」しかないのかもしれないけれど、それが乱調であっても、なぜか、それを「接続」させ、全体にしてしまう「意識」がある。
 小笠原の中に? 読者の中に? 区別がなくなる。小笠原がそのように書き、私がそのように誤読する。その瞬間、何かが融合して、別なものになる。

 何か、わけのわからないことを書きはじめてしまった。きょうは、このまま中断する。


テレビ (新しい詩人)
小笠原 鳥類
思潮社
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依田冬派「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」

2012-06-05 09:31:48 | 詩(雑誌・同人誌)
依田冬派「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 依田冬派は第50回現代詩手帖賞の受賞者。「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」は、とてもかっこいい作品である。

 白い波の音をききつづけていると、輪郭がさらわれ、その変化に敏感なものだけ
が生き残る場所で、放牧された馬たち。無関心をよそおいながら藻に服している。
草をはむ歯は健康そのものだ。たてがみには方位を見わける力があり、真昼の月の
なかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか、むこうから楽団がやってくるとか。いつ
でもかれらはせなかを用意している。

 意味はわからないけれど、かっいいなあ、とまず思う。このかっこよさは、意味はわからないけれど一瞬一瞬イメージが鮮明に浮かぶからだ。
 白い波--海、海の近く。放牧された馬。緑の草。健康な歯。たてがみ。
 一方に、喪があり、他方に光あふれる健康な馬がいる。
 そしてその馬には不思議な能力がある。方位を見わける。
 そこにどんな関係があるのか、それもわからない。むしろ、あらゆる関係を断ち切って、ただイメージとしてそこにある。ことばがある。そういうことが、かっこいいのだと思う。
 ことばはすぐに「意味」につかまってしまう。依田のことばは意味を逃れて、イメージとして純粋性を保っている。
 これが、かっこいい、という印象を呼ぶのだと思う。
 これは、逆に言えば、意味を飛び越えて、そこにただ存在していることば--それが、詩、ということになる。
 かっいこいいなあ、こういう詩を書きたいなあ、と心底思う。

 どんなふうに書かれているのかな。ゆっくり読み直してみようかな。
 で、ここから、私の印象は少しずつ変わっていく。

 白い波の音をききつづけていると、

 書き出しからかっこいい。それは「白い波」が視覚的なのに対し、すぐ視覚を飛び越えて「音をききつづけ」と聴覚がやってくるからだ。「白い波をみつづけていると」を考えると違いがわかる。後者は「白い」(視覚)「みつづける」(視覚)と繋がり、そこに粘着力が生まれる。重たくなる。

輪郭がさらわれ、

 「輪郭」は視覚だね。音を聞いていると、白い波という視覚でとらえたものの輪郭(視覚)が「さらわれる」。白い波の形が見えなくなる--というより、これは肉眼の問題ではなく、肉体のなかの感じだね。視覚と聴覚が出合い、視覚が視覚のまま存在しえなくなる。融合し、何か違ったものが見えはじめる。それが「輪郭がさらわれ」た何か。形ではなく、色とか、光の反射とか。--まあ、このあたりを厳密にいわないところが「みそ」。詩だね。
 で、そのあと、

その変化に敏感なものだけが生き残る場所で、

 「その変化」とは視覚の変化、見えていたものが輪郭を失くし、融合する。それに「敏感なものだけが」。
 あ、敏感か。
 そうだねえ、これが鈍感だったら、それまで書いてきた微妙な感覚の融合の感じがくずれる。「敏感」でなくてはならない。--と思うけれど、ここがちょっと「流通言語」的かもしれない。つまり、何かしら古い印象を呼び起こす。
 依田の詩はかっこいい。いま、こういう詩を書くひとは少ない。けれど、どこか何かなつかしい。それは、この「敏感」ということばのつかい方が、独特のものではなく、文学の流通言語--定型を踏まえているからだね。
 「生き残る場所」の「生き残る」は、前にでてきた「さらわれ(る)」に対応する。さらわれて、なくなるという一種の否定的な感じ、無の感じに「生き残る」ということばが対峙する。そうすると、そこに感覚の拮抗が生まれる。
 そのあと「馬」が出てくる。なぜ、犬ではないのか。猫ではないのか。なぜ虎ではないのか。--まあ、馬が一番しずかな感じがするねえ。りこうそうな感じもあって、納得できるねえ。というのは、これも、もしかすると文学の定型かもしれない。

無関心をよそおいながら喪に服している。

 だれの喪かは書かれていない。その省略が、馬を象徴的に感じさせる。馬のなかに、馬いがいのものがまじりこんでくる。さらに「無関心をよそおいながら」と嘘(よそおう)で増幅する。馬が、いわば人間のように見えてくる。
 しかし、すぐにそれを

草をはむ歯は健康そのものだ。

 と馬のイメージで分断する。ここが、この詩の一番いいところだなあ。馬がいきいきする。それまでのことはすっかり忘れる。光あふれる海辺の草原。そこで馬が草を食べている。しかもその馬を歯の美しさでつかみ取る。
 それまで書かれてきた微妙なことがら、白い波の音をきく、変化に敏感、無関心をよそおう--というようなことがふっきれてしまう。
 ここから飛躍する。

たてがみには方位を見わける力があり、

 健康な馬の健康なたてがみ。それが何か特別な能力を持っているのというのは納得できるなあ。説得力があるなあ。それまでに書かれていたことが一種の不健康(微妙なことにこだわるのは不健康でしょ?)であるだけに、この健康が増殖する感じが美しい。かっこいい。
 でも、

真昼の月のなかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか、むこうから楽団がやってくるとか。

 これは、どうかなあ。「方位」の言い直しが「真昼の月のなかで鼻筋のとおった少女が笑ったとか」や「むこうから楽団がやってくるとか」。うーん、古い映画を見ている感じ。映画の一シーンのような感じ。
 この1行のために、それ以前のすべてが一気に古くさくなってしまう感じを私は受けてしまう。
 ここに書かれているのは、いつの時代? 現代?

いつでもかれらはせなかを用意している。

 この1連目の締めの行も、意味ありげで、なんとなくいやだなあ。馬に乗って、どこへでも行ける。馬はどこへでも連れて行ってくれる。でも、それは現代? どの街?
 それが感じられない。
 まあ、象徴的に書いているといわれれば、そうなんだけれど。

 と、わけのわからない不満を書いたけれど、かっこいいよ。依田の詩は。真似して書いてみたいなあ。そう気持ちになる。真似したいという気持ちを呼び起こすものは、どういうものでも、私は大好きだ。
 真似するというのは、自分が自分から脱出する一番の近道だからね。
 自分が自分ではなくなることほど、おもしろいことはない。








現代詩手帖 2012年 06月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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ペドロ・アルモドバル監督「私が、生きる肌」

2012-06-04 11:27:43 | 映画
監督 ペドロ・アルモドバル 出演 アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス

 なぜ、そうなるの? なぜ?
 と、思わず問いかけたくなる展開。予想外の展開。予想外なのだけれど、終わってみれば予想通りの展開。そうだった、これはアルモドバルの映画なのだった。
 変なところにこだわりがある。一番笑ってしまうのは、人工膣の手術後のこと。そのままにしておくと膣が癒着する。癒着を防ぐためには、それを押し広げなくてはならない。で、何をつかって? もちろん「張り型」というか、模造ペニスだね。でもさあ、それって自分で望んで人工膣をつけたときのことでしょ? 望んでしたものじゃないのに、なぜ? おかしいでしょ? 変でしょ? そんなことをしたら、自分はそうなることを望んでいた、ってことにならない? 男ではなく、女として愛されたい--そう思っていた、ということにならない?
 ここが、たぶんアルモドバルの「人生観」の一番奇妙で美しいところ。何か起きる。そのことによって自分がかわっていく。その変化のすべてを人間は受け入れて、乗り切るしかない。それは、バンデラスが演じる人工皮膚の権威、外科医(?)。妻が交通事故で大やけどをした。一時は回復したが、自殺した。娘は男に強姦された。そして精神に異状を来し、死んでしまった。バンデラスは娘を不幸に追いやった男を見つけ出す。そして復讐を試みるのだが。
 で、これが最初に書いた「変なこだわり」へとつながる。男に無理矢理人工膣をつけさせ、整形をくりかえして妻そっくりにする。そして性交する。これはこれで、バンデラスの演じる外科医の「人生の受け入れ方」なのである。
 こんなことって、許されていい?
 倫理的には許されるはずもないことなのだけれど。
 ひとは許してしまう。特に、母というものは、息子が何をしようが、どうなってしまおうが、それを受け入れる。そのシーンが、なぜか、涙を誘う。よかったね、と思ってしまう。よかったことなんか何もない。それでも、よかったと思う。生きているからだねえ。「おまえ、おまえなのかい、息子よ」「そうだよ」。いやあ、びっくり。

 --という世界を、まあ、異常とはまったく感じさせずに演じてしまう(演じさせてしまう)スペイン人の性格って何なのだろう。精神(意識?)よりも感情(血?)が濃密なのか。殺しのシーンには血がべったりと出てくる。アメリカ映画のように「ほんもの」っぽくない。偽物の、真っ赤な血なのだが、この偽物さ加減が、いやあ濃密そのもの。偽物が、本物を超越してしまう。
 全部片づけたはずのベッドが、そのあともまだ赤い、赤く汚れている。あ、バカじゃない。ちゃんと片づけなよ。ではなく、この汚れが「現実」。この「過剰」が現実ということなんだなあ。
 途中、結婚式で歌手が歌を歌う。で、その歌手がいわゆる「すきっ歯」。上の前歯の間が空いている。これって、みっともない。みっともないのに、そのみっともないままの姿で女が出てくる。そのみっともない部分があって、歌の奥行きが出てくる。外見は問題にならない--ではなく、外見を乗り越える「内部」を見せるために、アルモドバルは外見の異常さを利用する。
 これと逆なのが手術のシーン。手術が要ではあるのだけれど、手術そのものではなく、手袋をはめるシーンを手袋が紙につつまれているところ、それを開いて手につけるところから映画にしてしまう。手術の手続きとして、とても正常だねえ。外科医の仲間が手術前に、この男のナニのおおきさは?とカバーをめくってみるところなんていうのも、あまりにも正常(と私は思うのだが……)すぎて、笑える。そういう「正常」を隠れ蓑にして、異常(復讐)がおこなわれる。
 まあ、正常も異常も、それを見せるというより、逆なものによりリアリティーを持たせるための「方便」というところか。
 どうでもいいか、こういうことは。
 あれれ、あれれ、と思う、その不思議な世界にただのみこまれればいい。




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クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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水無田気流「ニセモノガエリ」

2012-06-03 09:54:41 | 詩(雑誌・同人誌)
水無田気流「ニセモノガエリ」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 水無田気流「ニセモノガエリ」はことばのリズムがおもしろい。

ソラノオト
からかみつづりの夏至線を
たどるは はかなき相克花

マダ トオカラズ タダ カゲナラズ
マダ ミエモセズ デモ ホカナラズ

にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします

 何を書いてあるのかな? 意味は? ということは、関係ないなあ。「にせもの」をめぐるあれこれを書いているのだと思う。タイトルに「ニセモノ」ということばがあるし、詩のなかにも出てくる。
 にせもの、というのは、変な言い方だけれど、何かほんものに似ているんだね。ほんものに似ていないとにせものにならないね。
 その、「似る」の微妙な感じが、音のなかにある。「オオカラズ」「カゲナラズ」「ホカナラズ」。で、この音の「ずれ(?)」の締め(?)が「ホカナラズ」が、なぜか、不思議に納得がいく--というのは奇妙な言い方だが、「にせもの」にぴったり。
 「にせもの」は「にせものにホカナラズ」ということばが、ふいに浮かんでくる。「ホカ」は「他」「外」、どっちだろう。どっちでもいいが、そこには「ふたつ」が存在する。ふたつの存在が、一方が「ほんもの」、他方が「にせもの」という関係をつくる。
 対のおもしろさ。

にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します

 これは、対であるからこそ、非常におもしろい。「カタリ」「マイリ」のなかにある音、「流行します」「通行します」のなかにある音と文字の対。対であることによって、どちらかがほんもの、他方がにせものになる--のかどうかわからないが、そうか、対がなければこういう感覚は生まれないのか、と思う。

にせものにもにたはかなきとしを

 この早口ことばのような音の揺らぎ。意味ではなく、そのことばの音、そしてそれを声にするときの肉体の動き(私は音読はしないが、自然に喉や口、舌が動いてしまう)。そこに反復が生み出す快感がある。
 反復が生み出す快感というのは、セックスに似ている、と思う。--というのは、余分なことなのか。大切なことなのか。きっと大切なことなのだと思う。

ゆきさきつげぬはなみちを
びんらんしゃんとはこびます
こえをひそめてさけぶこどもら
あっさくきかいのながいかげから
とびだすひとかげ すぐさらいます

 ここには対の代わりに、呼吸がある。しだいに1行の長さが長くなっていくのだが、最後の「とびだすひとかげ すぐさらいます」は、1字あきの呼吸によって長さを調整している。
 あ、すごいなあ。
 この呼吸の巧みさによって、それまでの対そのものが、意味ではなく呼吸、つまり肉体の反応であることがとても強く実感できる。

にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します

 これは音をあわせているではない。いや、音もあっている。音によってリズムが印象づけられてはいるのだが、それよりも呼吸があわせられているのだ。

にせものカタリが流行します
にせものマイリが通行します

 でも音はあっているのだが、何かが違う。

にせもの(呼吸)カタリが(呼吸)流行します
にせもの(呼吸)マイリが(呼吸)通行します

 呼吸をあわせるために、音があわせられている。呼吸があってこそ、音はスムーズに動きはじめる。

にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします

 途中で呼吸しちゃダメだよ。改行さえ1字あきよりすばやく移行した方がおもしろい。「としを/としととしとを」。うーん、英語のm とn とr を筆記体で書くと、でこぼこの山になって、どれがm n r かわからなくなるが、それに似ているね。どれが「とし」の「と」、どれが助詞の「と」? どれだっていいや。
 音の変化であると同時に、呼吸の変化というものがあるね。それが、ことばを意味ではなく肉体の反応として動かしていく。

ご先祖がえりのふりをした 偽物がえりがはやります

 ここには意味もあるけれど、意味なんか気にしないなあ。おもしろいことばを、意味もなくくりかえして遊ぶ。
 ちっとうまい例が思いつかないのだけれど。
 「岩波文庫」を、唇の両側を指でひっぱって声にするとと「いわなみうんこ」になる。頭のなかでは「岩波文庫」なのに、声は「うんこ」になって飛び散る。このときの、耳の裏切られたよろこび。いや、耳はびっくりし、脳がよろこぶのかな? ということは、どうでもいいのだが、何かしら肉体の刺激になる。快感になる。
 思いもかけないものが接近し、そこから快感がはじまる。それが肉体の、内部の変化となって、わけのわからない広がりをする。
 これって、セックスだよね。--と、私は、またいいかげんなことを書いてしまう。





音速平和
水無田 気流
思潮社
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三角みず紀「啓示」

2012-06-02 10:34:34 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みず紀「啓示」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 三角みず紀「啓示」は具体的に状況としては母の死を描いているのだと思う。

とっくに絶えましたと
まだ生きている母を
ゆびさし告げられる
まだ生きているでしょうと
わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

とっくに絶えた母はまだ生きたまま
三日に一度、電話をよこす
いつかは忘れるのだから安心なさい
そう言う
母の顔を忘れ
私は満ち引きを無視したまま
毛布にくるまり
ほの明るい部屋にて
静止している

さも暴力かのように
忘れた母の顔が拡大して宇宙になる
水晶体をつらぬいて
これは壁か

 母が死ぬ。それを認めたくない気持ち。その気持ちのなかでつながっている生きている母。「三日に一度、電話をよこす」。これは、とてもよくわかる感覚である。かってに、私がわかると思うだけかもしれないけれど。

 3連目の「さも暴力かのように」。私は、ここで立ち止まってしまった。「暴力」? 「かのように」? このことばを動かしているのは何?
 そして、ふいに、その直前に読んだ最果タヒ「夏」にも「暴力」が出てきたことを思い出した。

きみを、私が知らないことはひとつの暴力だ。

 知らないこと、とは存在を存在として成立させないこと、くらいの「意味」になるかもしれない。きみを私が知らないとき、きみは存在しない。私のなかでは存在しない。そういう存在の拒否の仕方は暴力である。
 何かしら三角と最果のことばには共通性かある。実際、私はうっかりしていて、二人の死を取り違えることもあるのだが、その親密性(近似性)は、存在をどうやって存在させるか--存在と私の「接続」のあり方、あるいは「断絶」のあり方と関係しているかもしれない。
 でも、これは簡単には言えないなあ。
 きょうは、ちょっと違った感想を書く。三角の詩についてだけ、書く。

 3連の短い詩だが、ことばの動きが連語とによって微妙に違っている。その違いから「暴力」にまでことばを動かしたいのだが、動いてくれるかどうかわからない。

とっくに絶えましたと
まだ生きている母を
ゆびさし告げられる
まだ生きているでしょうと
わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

 ここでは、私は1行目と4行目の「と」がかわっているなあ、と感じた。かわっているなあ、というのは--うーん、もったりしているなあというか。非常に散文的である。「と」によって、それ以前のことばと「話者」が緊密に結びつく。
 「とっくに絶えました」と言ったのは医師だろう。医師が「(あなたのおかあさんは)息絶えました」と言った。「まだ生きているでしょう」と叫ぶのは「私」。そこでは「息絶えた」「生きている」ということが主題として語られながら、実は、「主語」の違いが明確にされているのである。「話者」が問題にされているである。
 「話者」が対象(冷たいことばでごめんなさい)である「母」とどうつながるか。その強い接続が「と」で強調され、接続を強調することで「話者」を浮かび上がらせる。
 作品から「と」を取ってみるとわかる。意味は変わらない。そして、「と」がない方が「息絶えた」のか「生きているのか」で争っていることがわかる。「と」があると、テーマが「客観的」になって、感情が見えない。変な言い方だが、感情よりも、それを言っている「ひと(話者)」が見えてしまう。

わたしが叫ぶも
そのまま隙間からこぼれる

 この2行もとても奇妙である。つまり、独特である。思想というものがあるとすれば、たぶん、このあたりに根深く存在している。
 「わたしが叫ぶも」の「も」。これは何? 「私は叫んだ」+「けれども」の「けれど」が省略された形だろうか。そこには、私がそういうことばで何かをつなぎとめようとしたのだけれど、それができなかった、という気持ちがにじむ。いや、そうではなくて……。「けれど」ということばを省略したい強い気持ちが浮かび上がる。私が叫んだならば、それはそのまま現実になるべきだ、という強い気持ち。
 母はまだ生きている--そう言えば、母は生き返るのだ。
 でも、ことばはむなしい。「気持ち」にこめたことばの力は、「私」と「ことば」の隙間からこぼれ落ちる。ことばは母をつなぎとめられない。
 そうして「わたし」が取り残される。

 母と私の「接続」がなくなる。そうすると、ことばと主語の関係も揺らいでくる。

いつかは忘れるのだから安心なさい
そう言う
母の顔を忘れ

 1連目の「文法」に従うなら、ここは

いつかは忘れるのだから安心なさいと
言う母の顔を忘れ

 になるだろう。
 「と」によることばの接続は、電気で言うと「直列」の接続である。「そう」という指示代名詞をつかったことばの接続は「並列」である。並列からは、パワーの増幅は起きない。そうして、その瞬間から、つまり「並列」になった瞬間から、「接続」は「隙間」そのものになる。
 
 この「並列」が「暴力」である。「並列」がつくりだす「隙間」--それが「わたし」を襲ってくる。不在が、「わたし」を襲ってくる。
 その瞬間を「暴力」と三角は呼んでいるように感じられる。

さも暴力かのように
忘れた母の顔が拡大して宇宙になる
水晶体をつらぬいて
これは壁か

 「水晶体」とは目の水晶体のことだろう。目から入り込み、肉体のなかで宇宙全体のように母の顔が拡大する。「わたし」のなかには母の顔しかない。そのとき、「わたし」は否定される。
 --ここにも強い「暴力」がある。
 けれど、この「暴力」が引き起こす苦痛は、苦痛であって、苦痛ではない。母が私のなかで生きる、甦るということだから。
 三角の「暴力」には、何か、不在になったものが、自分のなかで肉体として甦るときの苦痛と官能がある。それによりかかってはいけないのかもしれないが、よりかかってしまう。
 

オウバアキル
三角 みづ紀
思潮社
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廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」

2012-06-01 10:08:24 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」(「現代詩手帖」2012年06月号)

 廿楽順治・詩、宇田川新聞・版画「うしろの電人」は「鉄塔王国の恐怖」の4回目。タイトルがこれでいいのかどうか、ちょっとよくわからないけれど、まあ、私の思ったままに、そうしておく。
 前半。

あんなにいっぱいたべたのに
この時間になるとふしぎとまたお腹がへる
でんきください
ソースをたっぷりかけてね
どうして生まれてきたのですかと聞かれたら
円盤にのってやってきました
正直にいうしかない
でも電人だからかなしくならない
泣くのにもちょっとしたでんきがいるのである
もったいないもったいない

 廿楽が書こうとしていることが何であるのかわからないけれど、そこに書かれていることばが違った意味にも受け取れる。でも、正しい意味かもしれない。--と書くと何のことかわからなくなるけれど。
 たとえば、

泣くのにもちょっとしたでんきがいるのである
もったいないもったいない

 は、なんだか「節電」を想像させるねえ。いま、日本をおおいつくしている節電ブーム。使え、使えの大合掌は消えて、節電節電。それを「もったいない」ということばですくいとっているところが、なんだかレトロっぽくて不思議。レトロといっていいのかどうかわからないけれど--節約はたしかに「もったいない」が基本なのだろうけれど、いまの日本の節電は「もったいない」とは無関係なところから発想されている。というか、「もったいない」の反対のところから発想されているよね。大切だがら大事に--ではなく、足りないから大事に。でもさあ、なぜ、足りないの?
 何か違うよ。
 私の場合、生まれが百姓なので「もったいない」はたとえばご飯をこぼして食べれなくなること。もったいない。なぜって、そのご飯、米は、自分たち(両親)が田んぼを耕し、苗を植え、他の草を取り、刈り取って、干して、精米して、やっとご飯になったもの。ご飯の中には働いた肉体がある。仕事の汗がある。それを粗末にするのは「もったいない」。そこには、まあ、働いた人への感謝、働くことができることへの感謝のようなものがある。「ありがとう」とは言わないけれど、いっしょに働いた肉体の記憶(田植えをしたり、稲の刈り取りを手伝わされたり……)があって、「肉体」が「ありがとう」と感じている。
 電気は違うなあ。というと、電力会社で働いている人に申し訳ないような気もするが、いや、しないなあ。国や電力会社が間違えて、いまの状況がある。以前はつかわないことが「もったいない」だったのに、(だから夜間湯沸器なんていうものがある)、いまはつかうことが「もったいない」。
 こりゃあ、変だね。
 で、この奇妙さが、

どうして生まれてきたのですかと聞かれたら
円盤にのってやってきました
正直にいうしかない
でも電人だからかなしくならない

 の、不思議な行のなかにすーっと吸収されていく。(行の展開は逆なのだけれど。)
 「電人」って何? 電気をつかって(食って)生きている人。そういうひとは「かなしくならない」は、わかったようでわからないけれど、まあ、悲しみというのは「肉体」と密接なもの。その密接であるべき「肉体」がどこか普通と違うというようなことが、ここから読みとれるかもしれないし、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
 だいたいが廿楽の詩は、こう読みとれるかもしれないけれど、そうでもないかもしれない。適当に、自分の感じたいように感じればそれでいいんじゃない? というようなものである。これはいいかげんなようであって、その「いいかげん」が廿楽の明確な「思想」なのだ。
 「いいかげん」だと、ひとは、そのひとを信用しない。ちょっと変な言い方になるが、たとえば廿楽が「いいかげん」だとする。そうすると、私は廿楽を信用しない。で、どうするか。自分を信用して、自分で考えはじめる。廿楽はこんなことを言っているが、そのままでは信用できない。これはきっとこういうことなんだ、と考えはじめる。
 そのことをちょっと反省して見つめなおすと……。(逆の言い方をすると、ともいえるのだが。)
 廿楽のことばは、私のことばを鍛え直させる。私のなかのあいまいなものを明確な方向にむけさせる。これは、あくまで「むけさせる」であって、結論がでるわけではないのだが。
 で。
 ようするに。(私は、ちょっとことばにつまっている……。)
 こんなふうに他人のことばに作用し、何かを考えさせるもの--それこそ「思想」(他人の肉体)の魅力なんだなあ。わけがわからない。でも、好き。ということが、人間の、実際に生きているときにはしょっちゅう起きる。そして、何かを好きになったひとは、好きになることで自分が変わっていく。
 これって、すごいことでしょ?
 廿楽は、それを「これが哲学です、思想です」という感じではなく、なまな、芯だけがある肉体のようにして動かす。
 うーん、おもしろい。

 宇田川の版画もおもしろい。一連目の「円盤にのって」に刺激された版画が1連目と2連目の間にある。映画「マーズ・アタック」の円盤のようなチープな円盤。それが白で描かれ、まわりは取り囲むような形で、三つ。それが三つ並ぶと、目と口に見える。顔に見える。--変だねえ。宇田川は円盤を描いたの? 顔を描いたの?
 ここにも「いいかげん」の魅力がある。
 見た人が判断すればいい。「いいかげん」は見た人の判断で「確定」する。いわば「共同作業」だね。
 で、ね。
 この「共同作業」は、やっぱり「もったいない」という思想につながるんだと思うなあ。自分の労力だけではなく、いっしょに仕事をしている人の時間も「無駄」にしてしまう。それって「もったいない」、つまり「申し訳ない」。
 まあ、こんなことをいうとうるさいよね。

なんだか日本ってうす暗いよね
ひまだからあの自動車をおってやりませう
それから
ゆっくり踏みつぶす
どんなにあたたかい汁がでるのか
電人にはわからない
後のことはどうでもいい
動いていよう
電人のくせに「われわれは」とか
「現実は」とか言っている
なんだか嫌味で
電圧的ですね

 まあ、私の「読み方」も、うるさいひとつのことにはいるのだけれど。
 だから、ここではうるさいとこは言わずに。

どんなにあたたかい汁がでるのか

 ここが好き。しかも、「ゆっくり踏みつぶす」のあとに「どんなにあたたかい汁がでるのか」ということばの動きが好き。何か乱暴なこと、暴力的なことがしたいよねえ。その結果何が起きるのか。
 「あたたかい汁」か。
 暴力(踏みつぶす)の対極にあるものなんだろうなあ。それは踏みつぶすという肉体の力によって、相手から生じる反応。このあたりの「呼吸」のつかみ方、あらわした(手放し方)が、廿楽の魅力だなあ。「いいかげん」なのだけれど、「肉体」の呼吸をもっている。
 この「肉体の呼吸」の対極にあるのが「われわれは」とか「現実は」ということばとともにあるものだね。それを廿楽は高圧的、じゃなかった「電圧的」と言っている。

 と、まあ、「時事詩」ふうに今回は読んでみました。




化車
廿楽 順治
思潮社
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