詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)

2014-09-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)2014年09月25日(木曜日)

 「海戦」には中井久夫の注釈がある。「前四八〇年、ペルシャ遠征艦隊はサラミス島沖でギリシャ艦隊に撃滅された。エクバタナ以下はペルシャの都市。」

あのサラミスで撃滅された我ら。
挙げる声はただ、わわわわわわわあああああぁっ。
我がエクバタナ、スサ、ペルセポリスが
世に類なき所なのに、
あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、
艦隊を率いて海で闘うて?
さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、
行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。

 二行目の「わわわわわわわあああああぁっ。」という意味にならない叫び、その「声」が非常に印象に残る。「意味」を言うことができない。けれど感情があふれてくる。肉体の奥から何かを吐き出したい。
 そういうの「音」(声)を出した後に、「肉体」のなかで、余分なものを捨て去った「声」が静かに動きだす。「あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、」という反省も動く。そして、「さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、/行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。」という行の不思議な不思議な美しさ。余分なものが何もない。
 そして「意味」を語ってしまうと、また、そのあとを感情がおいかけて、あふれてくる。それがまた「意味」にならない「音」になって、それから再び「意味」をととのえる。繰り返しだ。

ああ、ああ、この海戦を
起こさねば、しようとしなければ--。
ああ、ああ、なぜ 身を起こして
すべてを捨てて
海でみじめな戦いをしに行ったのか?

 「ああ、ああ、」の繰り返し。「意味」をととのえればととのえるほど、逆に、「意味」にならない「音(声)」が感情をあおる。

ああ、そうだ、それしかない。言える言葉はただ一つ、
ああ、ああ、ああ、だ。
そう、そのとおり。他にいう言葉があるか、
わわわわわわわわあああああぁぁぁぁぁ。

 「主観」は「意味」がなくてもつたわる。「声」(口語の音)が感情なのだ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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アレハンドロ・ホドロフスキー監督「リアリティのダンス」(★★★)

2014-09-24 22:56:24 | 映画
監督 アレハンドロ・ホドロフスキー 出演 ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコビッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー



 軍事政権下のチリの田舎町が舞台。子どもの視線と大人の視線、幻想(?)と現実がいりまじっていて、なんとも奇妙な映画である。
 「寓意」を感じる。
 で、この「寓意」を印象づけるののひとつが強靱な色である。
 ポスターにもなっている幼少期のアレハンドロ・ホドロフスキーと現在のアレハンドロ・ホドロフスキー監督が一緒に映っているサーカス小屋のシーン。少年は水色の服に金髪、監督は黒い服に白髪、背景は赤いテント。どの色にも濁りがない。汚れをはねつける強さがある。純粋がそのまま持続して結晶したような色だ。
 その色を見ていると、「寓意」とは結局、純粋化された「虚構」であることがわかる。現実の存在は、それ自身の色を持ちつづけようとしても他のなにかと接触することで汚れてしまう。色の輪郭があいまいになってしまう。そういう汚れを排除して、現実を純粋化して動かすと「虚構」になる。世界を動かしているものの「運動」そのものが浮かび上がる。「現実」の「ほんとう」の姿が「虚構」のなかに浮き彫りになる。
 もうひとつ、「寓意/虚構」を強調するものがある。
 母親の歌。母親の台詞は全部、歌になっている。ミュージカルのよう。現実にはそんなふうに歌う人間などいない。だから、これは「嘘(虚構)」なのだとわかるのだが、この歌もまた「色」と同じように、世間の汚れを拒み、純粋を守り通したひとつの形である。感情の純粋さ、一途さが歌になっている。
 象徴的なのが夫(少年の父親)が感染症(チフス?)に倒れたシーン。母親は夫に水をのませる。水は、尿。彼女自身の肉体で濾過した水。水を飲ませ、水で体を洗い、裸で夫を抱きしめる。そのときも彼女は歌いつづける。あらゆるものを受け入れ、あらゆるものを与える。そのとき、彼女の声が美しく響く。
 さらに、もうひとつ不思議なことがある。「寓意」につながるのかどうか、よくわからないのだが……。
 最初に幼年期の監督と、現在の監督が出てきて、少年に向かってものの見方を説明する。それを見ると、この映画の主人公は少年であり、監督の自伝映画のように見える。しかし、映画が進むと、主人公はいつのまにか少年ではなく、父親になっている。そして、その父親は、少年の知らないところで大統領暗殺をもくろんでいる。未遂に終わるが、実際に射殺しようとする。そして、その後、指が動かなくなり、少年とも妻とも違う場所で生きることになる。強かったはずの父は、そこでは弱い人間になっている。弱い人間になって苦悩している。あるいは、苦悩にめざめ、苦悩を受け入れていると言えばいいのか。
 それは軍事政権下のチリの「現実」だったのだろうと思う。その「現実」が少年の視点の「枠」から離れて、独立して動いている。少年の視点とは無関係のところで、父親の視点だけで動いている。
 これはなんとも奇妙な映画のつくり方だが、その奇妙なところが、逆にリアリティーになっている。ひとつの視点ではとらえられないものがある。そのことを語っている。ひとつの視点だ語ろうとすると矛盾する。だから、ひとつの視点を捨てて、父親の苦悩は苦悩として純粋に描くという方法をとっているのだ。
 この変な構造の世界をしっかりとつなぎとめるのが母親というのも、またおもしろい。夫は妻のもとへ、少年のもとへ戻る。その弱くなった夫を妻はそのまま受け入れる。--これは、チリの激変を受け止め、しっかり支えたのは、女性たちであるということを暗示しているのかもしれない。男は、理想のために(?)苦悩し、傷つき、敗北しながら勝利した。(最後に軍事政権が倒される。)女性たちは、その敗北し、勝利し、つまり傷ついた男を支え、新しい方向へ動きだすのを支えた。--こういうことは具体的には描かれているわけではないが、妻の描き方を見ると、そういう気がする。台詞を全部歌で歌ってしまう女。その「現実離れ」した姿が、結局「現実」を全部受け入れる方法だった。
 そして、その「現実離れ」した生き方があるために、映画で描かれるすべてが「リアリティー」あふれるものになる。炭鉱事故で身体障害になってしまった人に暴力と差別で向き合うということさえ、目を背けてはならない現実としてそこに描かれる。映画はリアルな人間の「本能」だけを鮮烈に描き、そのためにとった方法(たとえば障害者への差別や暴力)さえもエピソードに変える。
 強靱な精神力がつくりあげた、強靱な感覚の世界だと感じた。
                      (2014年09月24日、KBCシネマ2)

******************************

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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(8)

2014-09-24 09:19:15 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(8)(花神社、2014年08月10日発行)

 「妄執 1」は「作家故梅崎光生氏に」というサブタイトルがついている。私は梅崎光生の作品は読んだことがない。知らないことには触れずに、「妄執 1」を読むと、気になることがある。
 最初に蔓と木のことが書いてある。

 妄執は人を殺す。たとえば熱帯のある種の蔓は、恰好の巨木の幹
に凭りながらそれを巻き、巻き攀じて成長し、身をひねり、ねじり
にねじって遂に宿主の巨木を悶死させるという。
 腐ったまま菌類の餌食と変り果てた巨木の骸の洞から、どうかす
ると当の蔓の新芽の葉先が、木洩れ日を浴びてくねくねと体をくね
らせながら、なおも新たに身を委ねるに適わしい頃合の樹幹を探る
姿勢を見ると、それはもはや妄執としかいいようがない。

 これは大変美しい描写だ。美しいというのは、そこに書かれていることを超えて、それ以上のことを思うからだ。巨木と蔓のことが書いてあるだけなのだが、それが人間の姿に見えてしまう--人間の姿が見えたとき、そしてそれが「裸」の人間の姿だと、私は美しいと思ってしまう。「裸」というのは本能むき出しということである。ただ本能のままに生きている無防備の強さを私は美しいと感じる。
 だから、このあと詩が、

 見るがいい、新芽の葉先はまるでどこそこの女の光る舌のようだ。
もしかすると巻かれ巻かれて巨木は愉悦のうちに倒壊したのではあ
るまいか……。

 とつづくとき、いままで読んできたことが男と女の愉悦の行為のように思える。果てた後もなあ、さらなる愉悦を求めてうごめく本能、愉悦によってめざめた愉悦を見るような感じになる。こんな本能なら知らなければよかった、知ってしまったらもっと追い求めたくなる本能ならば。いや、まだ知り尽くしてはいない、知り尽くすまで追い求めなければ本能を生きたということにはならない。
 で、私はその先、どうしても男と女のことが書いてあるのだと思ってしまう。書いてあってほしいと思うのだが、ここから先が違うのである。
 一行空きのあと、詩は一転してルソン島をさまよう兵士のことを書きはじめる。彼は歯ブラシを大事にしている。いつでも歯を磨かずにはいられない。食べるものがなくなり、人肉を食う。食うが、体のなかの何かがそれを吐き出させる。吐いた後、男はさらに歯を磨く。
 そうやっているうちに、男は捕虜になる。缶詰の空き缶を差し出して米軍の給仕を受ける捕虜たち。それを自分の姿として見るようになる。
 その最後の段落。

 月夜だった。鎌の形の月の下で男は歯を磨かねばと思った。男は
上衣の内ポケットから歯ブラシを取り出そうと幾分身をかがめ、手
間どりながらも歯ブラシを引き出そうとした--がその時、俘虜監
視の米兵が、男が拳銃を取り出す仕草と見てとった。彼の銃が鳴り、
男の手の中のうす青い歯ブラシの柄は粉砕した。弾丸は男の胸を貫
き、男は血反吐を吐いて死んだ。米兵が来て男の屍を見下ろしてか
ら靴先で男を転がした--歯は磨けずじまいだった。

 男は歯を磨くことに固執した。そのために米兵から銃殺された。--このことと、最初に書いてあった蔓と巨木、巨木と蔓の関係がうまく重ならない。私のなかでは、何かがすれ違ってしまう。
 男にとって歯ブラシとはなんだったのか。蔓だったのか、巨木だったのか。男が巨木で歯ブラシが蔓だったのか。あるいは男が蔓で、歯ブラシが巨木だったのか。たぶん、こういう区別は無用なのだろう。区別がなくなっているのだ。
 セックスも、愉悦の瞬間、誰が誰であるかわからない。エクスタシーは自分からでてしまうこと。もう自分ではないのだから、それが誰であるか問うてもはじまらない。
 男が歯ブラシであり、歯ブラシが男なのだ。ほかには何もない。男と歯ブラシは、蔓と巨木を区別のできない「一体」とした、役割分担をしないまま「演じている」。「寓意」を生きている。
 引用しなかったが、ルソン島をさまよう途中に、

       男は歯を磨いた--というより口中でカチカチと歯
列をたたく歯ブラシの健気さに己の位相を確かめた。

という文が出てくるが「健気さ」と「己の位相」が「ひとつ」であるように、「寓意」のなかで「男」と「歯ブラシ」が区別のできないものになっているのだ。
 ルソン島をさまよっているとき、男は「愉悦」を生きているわけではない。けれど、男と歯ブラシは「愉悦」と同じものを生きていたのだ。「一体感」を生きてきた。--一体であることによって、互いを支えあって生きてきた。「片方」だけでは生きていけないのだ。

 読み返し、自分のなかでことばを動かし、考えると、そういうことがわかる。そして、これはすごい詩だと思うのだが、私は何かが怖くて、その「すごさ」の中へすーっと入っていくことができない。
 粒来が抱え込んでいる「怨念」のようなものに身がすくんでしまう。
 これを、私は受け止めなければいけないのだろうか。
 うーん、わからない。

 最後の一文、「歯は磨けずじまいだった。」も、すごいなあ。
 「男は」歯を磨けずじまいだった、のか。あるいは「歯ブラシは」歯を磨けずじまいだった、のか。
 常識的な「意味(文法)」にしたがえば、「男は」かもしれないが、「男」はすでに「歯ブラシ」と一体になっている(区別できない存在なのだから)、「歯ブラシは」とする方が、「妄執」に近いだろう。その「歯ブラシ」は、倒れた巨木から新しく芽生えた歯先のように、別な「男」を探しはじめる。
 そして、その探し当てられた「男」が粒来なのだ。
 だから、こうして詩を書いているのだが--と感想を書けば書くほど、何か、怖くなる。こんなすごい詩、こんなほんとうのことを書かれては困る、と臆病な私は思ってしまう。歯を磨くことがこわくなる。歯を磨くことが自分を生きる唯一の生き方になってしまうのは、こわいことだ。
 だが、極限では、そういう生き方しかできないのか。
 --これだな。私が「怨念」と感じてしまうのは。そういう「極限」を強いたものへの激しい怒り。怒りと読んでしまうと「既成の、流通の感情」になってしまってこわくないので、私は「怨念」と呼ぶ。粒来の書いているものを。

蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)(未刊・補遺12)

2014-09-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)

 「将軍の死」には複数の「声」があるように思える。

死は手を伸ばして
名将の眉に触れた。
夕刊が記事を載せた。
見舞い客が家に満ちた。

 この一連目はリズムがあって、省略と飛躍が各行を刺戟し合って、とても生き生きしている。特に「夕刊が記事を載せた。」が刺戟的だ。感傷を「事実」が洗っていく。「夕刊」という即物的なもの、俗物的なものが名将とぶつかる瞬間が、斬新で気持ちがいい。追いかけるようにやってくる「見舞い客が家に満ちた。」も乱暴でにぎやかだ。現代の詩であることを強く印象づける。

そと見は--沈黙と不動が彼をおおう。
内側は--生への羨望、死への脅え、愛欲のしがらみ、
愚かなしがみつき、腹立ち、畜生の思いの膿みただれた魂。

 これはあまりにも「現代詩」ふうのことばだが、動きが停滞していて、歯切れが悪い。カヴァフィスの特徴である世界を叩ききったような鮮やかさがない。
 最終連も、カヴァフィスらしくない。

重々しくうめいた。最後の息を吐いた。市民は口々に嘆いた。
「将軍去って市に何が残るか。
ああ、徳は将軍の死とともに絶えた」と。

 説明になってしまって、「主観」が動いていない。「市民は口々に嘆いた。」はカヴァフィスの「声」好みをあらわしているが、ことばが「声」になっていない。主観になっていない。「意味」になってしまっている。
 未刊詩篇の、補遺の作品は、習作という印象が強い。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』

2014-09-23 09:49:24 | 詩集
岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』(南日本新聞開発センター、2014年08月28日発行)

 岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』はサブタイトルがついている。「薩摩焼酎讃歌」。その通りの内容である。
 「鰯と焼酎」という作品を読んでみる。

モンペ姿の棒手振りのおばさんが
無塩の鰯を持ってきた夜は
鰯のナマスや煮付けが 食卓をにぎわせた

父は七輪を横座のかたわらに置き
それに鰯をのせ
焼酎をちびりちびりとやった

片ひらを食べると裏がえす
その時わたしは父の膝にあがりこみ
あああん と口をあける
すると父はわたしに鰯の身を あてがうのだった

コイツ ウマイコト ヤリヤガッテ
その時の兄たちの燠火のような眼差しが
今でもわたしを火照らせるときがある

 昔の思い出、昔の光景を書いている。いまは、こういう家族の食卓は見ることができないだろうと思う。父が家長として存在していた時代だ。父の贅沢も、自分だけのために鰯を焼き、焼酎を飲む。妻が魚をあぶってくれるわけではない。手酌ならぬ手料理(?)である。
 この詩のおもしろいところは、

片ひらを食べると裏がえす

 この一行。それまでも具体的な描写ではあるが、「流通光景」という感じがする。「肉体」の動きが紋切り型である。想像がつく。けれど、この一行は違う。なんというか、ものを食べるときの「呼吸」がある。
 で、その「呼吸」があるからこそ、そのタイミングをみはからって「わたし(岡田)」は父の膝の上に上がり込む。あぐらをかいた膝、その窪みに入り込む。最初の半身を食べている間は入り込めない。邪魔になるから。それに、父親が「特権」を利用している最中だからである。魚をひっくりかえす一瞬は、食べるのも飲むのも一瞬途切れる。魚の世話をする(?)、不思議な間合いだ。ちょっと食べるのを忘れる瞬間といっていい。もちろん、残りを食べるために裏返すのだが、食べるときの橋の動きとは違う。
 「わたし」はそれをしっかり見ていて、その「間合い」を逃さない。そして、ぱっと行動し、「間合い」を自分の方に引き寄せてしまう。口をあけて、声を出して、鰯をせがむ。それに父がつられる。「呼吸」があってしまうのだ。

コイツ ウマイコト ヤリヤガッテ

 というのは、ひとりだけ鰯を貰いやがって、食べやがって、ということもそうなのだけれど、「間合いを盗む」その感覚を悔しがっているのだ。

 岡田は、こんな具合に他人と「呼吸をあわせる」(間合いを盗み取る)のがうまい人間なのだと思う。
 この詩集にはいろいろな人が登場するが、その人たちが、妙に近しい。岡田と不思議な一体感を持っている。それは岡田が彼らと「呼吸をあわせている」からである。岡田は誰も批判・非難しない。「呼吸をあわせて」いっしょに生きる。「間合い」を盗み、他人との「間」を消してしまうのである。

この世は おかげさまがお天道様で おたがいさまがお月様
だから 四の五の悩むな 地団駄ふむな
裏目が出ようと なるがまま                 (「新酒のころ」)

 これは、岡田の「発明」したことばではなく、岡田のまわりで言われていたことなのだろう。自分で何かをするのではなく、その場にあわせて、「なるがまま」。「なるがまま」に「呼吸する」。どんなことがおきても「間合い」があっていれば、呼吸が苦しくなることはない。生きて行ける。
 この三行は、次のようにも言いかえられもする。

この世は おかげさまがお天道様で おたがいさまがお月様
だから 星屑になろうと 腰抜かそうと
酔いがさめたら あるがまま

 「なるがまま」は「あるがまま」。
 岡田は「あるがまま」を肯定している。「あるがまま」を批判したり、ととのえようとはしない。「あるがまま」に「呼吸をあわせる」。
 それでいい。それがいい。
酔えば逢いたい人ばかり―薩摩焼酎讃歌
岡田 哲也
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

2014-09-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

 カヴァフィスは「ローエングリン」がよほど好きだったらしい。「疑惑」というタイトルで、もっ一篇詩を書いている。それが「疑惑」である。(中井久夫の訳は書き出しが二字下げになっている部分があるのだが、行頭をそろえた形で引用する。)

して最悪のことを語らむ者は誰ぞ。
(言わざれらば良きものを)。
告げ来るは誰ぞ(耳貸さぬぞ。
聴かぬ。奴はだまされたるに相違ない)
不当な告発。して、次に
呼ばう声、呼び出し係の繰り返し呼ばう声。
ローエンリングの栄光の到来--
白鳥、魔剣、聖杯--
してついにその決闘、
テルラムント ローエンリングを倒しぬ。

 最後の一行は、ワーグナーの歌劇とは趣が違う。歌劇ではローエンリングがテルムラントを倒し、エルザの弟にかけられていた魔法も解くのだが、……これはカヴァフィスの別の見方かもしれない。
 テルムラントは決闘でローエンリングに負けるが、最後、「身元」を明かしたローエンリングはエルザのもとを去っていく。結局、テルラムントが勝ったのだ、とカヴァフィスは見るのかもしれない。

 ローエンリングが「身元」を隠していたように、カヴァフィスも「身元」を隠して恋をしたのだろうか。いくつもの恋をしながら、結局、カヴァフィスはその恋を「世間」に認められなかった。受け入れなれなかった。(か、どうかは、私は知らないのだが、たぶん「男色」は、世間に受け入れられる情況ではなかったと思う。)
 「身元」を追求する(その人が誰であるかを知りたい)というのは人間の欲望だろうけれど、本音(主観)が必ず幸福を連れてくるとはかぎらない。

 詩人としての名声を得たカヴァフィス。けれど、彼は「名声」よりも恋の成就をもめていたかもしれない。「身元」を詮索せずに生きる恋。
 「身元」を隠すという行為、ローエンリングに自分自身を重ね合わせているのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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ビレ・アウグスト監督「リスボンに誘われて」(★★★★)

2014-09-22 10:28:39 | 映画
監督 ビレ・アウグスト 出演 ジェレミー・アイアンズ、メラニー・ロラン、ジャック・ヒューストン、マルティナ・ゲデック、シャーロット・ランプリング

 高校の教師が一冊の本に出会い、作者に会いたくなり、本を片手にリスボンをさまよう。本の一部が朗読され(ことばで説明され)、それを追いかけるようにして本の内容が実写で回想される。私は、こういう「文学臭」の強い作品は好きではない。
 だが。
 うーん、引き込まれた。予想していた「文学臭」を感じなかった。
 いちばんの魅力はジェレミー・アイアンズの声。彼が読む本(小説)の断片が、作者がしゃべっているように、「肉声」として響いてくる。内容は、人が出会ったとき、その出会いは互いの内部に何かを残す。それはなくならない。人はいつかそれを探しに来る。そうやって自分を見つける--というような、非常に抽象的、哲学的なことがらなのだが、それがわざとらしくない。アナウンサーのように輪郭のしっかりした声だとわざとらしくなるのだが、ジェレミー・アイアンズの声はソフトに荒れている。(変な表現だが)。すらすらと読むというよりも、考えていることをことばを選びながら思い出しているという感じがする。「考えていることを思い出す」というのも奇妙な言い方だが、一度「肉体」のなかで反芻して確かめて、それから思っていることを息に載せて声にするという感じ。
 そして、この一度「肉体」で反芻するということと、他人の(小説の中の登場人物たちの)肉体が静かに重なる。他人の物語を読んでいるのに、どこかで自分の体験と重なる部分を探している。自分もそうすればよかったのに……という感じ、「一体感」が、声のなかで出合って、重なって、ゆれる感じが、ああ、いいなあ、と思う。
 映画で声に引き込まれるとは思いもしなかったのでびっくりした。
 で、ジェレミー・アイアンズの役は、本を読みはじめて衝動的にスイスからリスボンへ行ってしまう、作者を突然訪ねる、作者の知人を探し回るという行動的なものなのだが、それは表面的な行動であって、実際は彼は彼の内部を旅している。哲学的に思索を深めている--という一種の「矛盾」を抱えた映画なのだが。
 この映画を成功させているもののひとつにジェレミー・アイアンズの「眼鏡」がある。途中で自転車とぶつかりレンズが割れ、新しい眼鏡を買うというようなことがある。それは新しい「視線」で世界をもう一度見つめなおすという「比喩」(寓意)にもなっているのだけれど、それよりも眼鏡によって他の役者と違う存在になっているところがおもしろい。
 眼鏡というのは外の世界をよりよく見るための道具である。一方で、眼鏡をかけている人の目は他人からはあまりはっきりとはしない。レンズという障害物がある。透明だけれど、外の世界が反射して、眼鏡をかけていない人の目ほどははっきりは見えない。ジェレミー・アイアンズは大きい目をしているし、表情もあるのだが、それをレンズで控え目に隠している感じがする。それがジェレミー・アイアンズの内省的な心の旅を象徴するのだけれど。
 一方。
 他の主要な登場人物はみんな眼鏡をかけていない。そして、目で演技をする。
 メラニー・ロラン。もともと目がとても印象的だが、彼女の場合、演技をしているのは目だけと言っていいくらい強烈な印象を残す。ジャック・ヒューストンと逃避行に出る寸前、路地でキスをする。それを恋人が見て、去っていく。その去っていく恋人の姿を見たときの目の動き。彼女だけがすべてを知っていて、すべてを引き受けているのだが、その瞬間の「決意」のような強さがとてもいい。
 ジャック・ヒューストンの目は、他の人物に比較すると内省的(ジェレミー・アイアンズの内省と重なる感じ)なのだが、それは「理性」のあらわれでもある。彼は情熱で行動するのではなく、理性で行動している。理性で、ポルトガルのカーネーション革命、その抵抗運動に参加している。そのことを、明確に語る目をしている。
 
 一方に書かれたことばを読むジェレミー・アイアンズがいて、他方に実際に「肉眼」で現実をみつめ闘う若者がいる。その対比が、眼鏡で本を読む、肉眼で現実を見るという対比になって映画が動いていく。それを眼鏡という小道具と役者の肉眼の力で影像に置き換える。
 これはビレ・アウグストの「力業」といってもいい。ビレ・アウグストの作品は、いつもゆるぎのない影像に圧倒されるが、今回も、そこにリスボンという街があるとはっきりわかる強い影像である。ジェレミー・アイアンズが眼鏡の処方をした眼科医に送られてホテルへ帰ってくるシーンが何回かある。同じ場所、同じ坂道が映し出されるのだから同じ場所という印象があって当然なのだが、なんというのだろう、「馴染みの場所」へ帰ってきた、「ここは知っている」という感じ、「あ、ホテルに着いた」という感じが、一種の「感情の落ち着き」が坂の角度や建物の影像でつたわってくる。
 シャルロット・ランプリングを尋ねるシーンも同じ。同じ場所を尋ねているのだから同じなのは当たり前なのは当然なのだが、ただ同じであるだけでなく、「また来た」という感じ、「ここは知っている」という感じの影像としてそこにある。
 これも、なんともいえずすごい。「これは知っている」という感じがこの映画のテーマなのだから。ジェレミー・アイアンズは小説の登場人物(若いとき)には実際にあっていない。同じ行動をしていない。けれど、ジェレミー・アイアンズは彼らを「知っている」、そういう青春時代を「知っている」、青春は自分と重なると「知っている」からこそ、小説の作者、登場人物を訪ね、そうすることで自分自身を尋ねているのだから。 
                      (KBCシネマ1、2014年09月21日)

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)

2014-09-22 10:25:18 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)2014年09月22日(月曜日)

 「ローエングリン」はワーグナーの歌劇を題材にしているのだろう。

良き王はエルザを憐れみ、
宮廷の呼び出し係を呼んだ。

呼び出し係が呼ばわり、ラッパが鳴った。

ああ、殿下、乞う、今一度、
今一度 呼び出し係をして呼ばしめよ。

呼び出し係が再び呼ばわる。

 私はワーグナーの歌劇を見ていないので知らないのだが、エルザが息絶えたとき、ローエングリンを呼び戻そうとした。そして呼び出し係が呼ばれ、ローエングリンを呼ぶラッパが鳴る。けれども、彼は戻ってこない。それで、もう一度、呼び出し係を呼ぶ。ローエングリンを呼び戻せと告げる。

呼び出し人は呼ばわり ラッパは鳴り、
呼び呼ばわり ラッパ鳴りて、
さらに呼び ラッパ鳴らせど、
ローエングリンはついに来らず。

 この繰り返しが、悲しみをあおる。リフレインは感情を強調するというよりも、あおることで、いまそこにある感情を、その感情以上のものにする。感情はそのひと固有のものであるが、繰り返され、あおるうちに、それが他人のものではなく自分のものになってしまう。
 カヴァフィスはワーグナーのストーリーだけではなく、オペラの感情のつくり方を詩で再現しているのかもしれない。最初に引用した詩の書き出しの部分だけで詩は完結している。晩年のカヴァフィスなら、そこで詩を終えただろう。しかし、つづけて書いている。もう一度形をかえて呼び返すシーンを書いている。この繰り返しは大音響で響きわたるワーグナーの歌劇そのものである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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藤井晴美『おもちゃの映画』

2014-09-21 22:53:43 | 詩集
藤井晴美『おもちゃの映画』(七月堂、2014年07月10日発行)

 藤井晴美『おもちゃの映画』はタイトルからそう思ってしまうのかもしれないが、映画の一シーンを見るような感じがある。
 「S印刷所」という作品。

 門のある家だった。門柱を捜していた、S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。

 この書き出しは、とてもおもしろい。映画のカメラが街の中を動いていく。家が並んでいる。カメラは門柱を捜している。

門柱を捜していた、

 この読点「、」が門柱を追いかけるように動くカメラのる感じを強く印象づける。「この門柱も違う、これも違う、また違う」と探しながらいらだってくる感じが「、」の切断と持続の緊迫したつながりを伝える。

門柱を捜していた。

 と句点「。」で終わってしまうと、カメラが移動しながら門柱を写しているときのいらいらするような持続感がしなくなる。「持続」がなく「切断」した感じ。いくつもの門柱をずるずるずると舐めるように追っていく感じがしない。
 その後の、

S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。

 も、とてもおもしろい。「S印刷所」と文字を読む。探しているものを発見する。探しているものには「印」がついている。それを見つけて、そのあとの「縦書き」が特にいい。もし映画なら、このシーンだけで、私は飛び上がって手をたたきたくなる。「わっ」と声を出して、つぎに笑いだしただろう。うれしいと、私は笑ってしまうのだ。監督の狙い、カメラの狙いがリアルにつたわってくる。共感して「やったね、監督」と言いたくなる感じだな。
 視線はずるずるずるっと横に移動してきた。それが文字を見つけて、それを縦に上から下へと読む。視線は止まるだけではなく、水平から垂直へと方向を変える。
 実際のスクリーンでは門柱と看板が映し出され、アップになるだけかもしれないが、そうであっても接近するカメラを通して、カメラのかわりに観客が演技をする。視線が文字を追って、縦に動く。観客を誘い込むのだ。その縦書きを読んだ瞬間から、カメラと観客の視線は「ひとつ」になる。カメラが文字を追って上から下へと縦に動けば、カメラを追いかけながら、カメラの視線と観客の視線が、いっそう強烈に「ひとつ」になる。
 こういう一体感を「文字」で再現しているのは、とてもおもしろい。

中に入っていくと、最初、一軒の家かと思ったが、一つの町並みのように次から次に家が建て込んでいた。そのどれがS印刷所なのか判断がつきかねた。聞いてみた。
 夜になると、各々の家の窓に灯りがついた。そして、夜のカフェが石畳に開けた。

 どんな「迷路」が広がろうと、それはもう映画(カメラ)の迷路ではなく、観客の迷路である。観客はスクリーンを見ながら、自分の「迷路(肉体)」のなかへ帰っていく。カメラが「S印刷所」を探しているのか、観客(自分)が探しているのかわからなくなる。そして、ある場所を探してあるいたことが「肉体」のなかによみがえる。
 夜になって、家の窓に灯がつくと、それはますます見分けがつかなくなる。「S印刷所」は見つからずに、石畳が記憶されることになる。
 うーん、映画のファーストシーン、完璧なファーストシーンだと思う。

 「岩窟の聖母」も書き出しがすばらしい。

 枕元の敷布団の下に、財布を挟んで眠る母。長い間、入浴していない垢くさい、生暖かさが、冷え冷えとした、冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。

 ここには、文学(ことば)と映画(影像)の、うっとりするような混沌がある。映画(カメラ)では「垢くさい」という「臭い(嗅覚)」、「生暖かさ」「冷え冷え」という皮膚感覚(触覚)は正確には表現できない。布団の薄汚れた感じ、水分を吸って膨らみを失い固くなった形(影像)で、嗅覚や触覚を刺戟するだけである。(影像に刺戟されて、つまり視覚に刺戟されて、肉体のなかで嗅覚や触覚が動きだす様に仕向けることしかできない。)
 これを藤井は、ことばで再現するのだが、いやあ、「垢くさい」か。映画、つまり影像(視覚)だと思いこんでいたので、びっくりした。打ちのめされた。引き込まれた。「生暖かい」と「冷え冷え」という矛盾したことが「垢くさい」のなかで一つになる。
 そこから、もう一度「視覚」へと動く。その部分が、映画だなあ。映画でしかありえないなあ。

冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。

 正確に(論理的に?)読み解こうとすると、何が書いてあるのかわからないのだけれど、「冷やご飯」と「散らばる」が結びついて、なんとも暗くしめった感じが「視覚」として迫ってくる。
 これは映画のクライマックスに入る寸前の、なんといえばいいのか、それまでの影像のリズムを断ち切る一瞬の影像のようなものだ。

 「小津的日常の真相としての犯罪」の次の部分もおもしろい。

 節子の、顔を両手で覆って泣くしぐさ。昔はこんな風に泣いたのか。それにしても泣き顔がまったく見えない不自然さ。泣いているところを見せたくないシーンでもないのに。 笠が、次女の遺影の前で語りかけるようにつぶやく念仏のような声。何を言っているのか全くわからない。何か卑猥なことを言っているようにも思える。

 これはカメラの演技が中断しているところ。役者の演技も、まあ、半分中断している。(クリント・イーストウッドなら大絶賛するところだな。)観客は、ここでちょっと息をととのえる。ストーリーが動くのを待っている。ストーリーを動かすことだけを狙った、さらりとした部分。
 石川淳が参加している「歌仙」の石川淳の句のような部分だ。場全体をしっかりとととのえ、次のシーンに花をもたせる。
 そうか、映画のこういう部分は、こういう風に「感想」を書けばいいのか、と藤井から教えてもらっている感じ。
おもちゃの映画
藤井晴美
七月堂

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デビッド・リーン監督「旅情」(★★★★)

2014-09-21 01:27:31 | 映画
監督 デビッド・リーン 出演 キャサリン・ヘプバーン、ロッサノ・ブラッツィ


 キャサリン・ヘプバーンはうまい、というようなことはいまさら言っても感想にもなんにもならないだろうが、やっぱりうまい。恋愛とセックスを求めているのに、それをすなおに言い表すことができず、強引に自己主張してしまう。いやな女だ。だが、いやな女と思わせる前に、さびしいという感じを伝えてくる。「さびしい」にこころが動いて、「いやな女」と思っている暇がない。
 ただあまりに人間造形がくっきりしているために、映画というよりも舞台の演技を見ている感じになってしまう。そこにある「肉体」という感じ。
 これをデビッド・リーンがベネチアの空間に引き出すのだが、なかなかむずかしい。完璧な美(「ライアンの娘」の海岸、「アラビアのローレンス」の砂漠)と「さびしい」を向き合わせてしまっては、非情になってしまう。(と、私は思う。)
 でも、やっぱりすごい、デビッド・リーンはすごいなあ、と思うのは、くちなしのシーン。
 キャサリン・ヘプバーがくちなしを橋の上から運河に落としてしまう。くちなしが流れていく。ロッサノ・ブラッツィがそれを拾おうとする。それを水に映った二人の影像の中をくちなしが横切っていくという形で表現する。
 このとき、ふたりのこころのなかを一つのもの(一つのこと)が貫く。それは結局、手の中に取り戻すことはできないのだが、その取り戻すことのできないものが二人を横切り、二人をつなぐ--という象徴的なシーンが、とても美しい。
 この映画、ラストシーン、キャサリン・ヘプバーンが列車の窓から手をふるシーンがあまりにも有名だけれど、私は、運河のくちなしを拾おうとして拾えないシーンが好きだ。ほかのシーンは舞台でも見ることができるが、水に映った二人の肉体の中をくちなしが流れていくというのはカメラで見せることしかできない。映画でしか見ることができない。台詞はキャサリン・ヘプバーンが男の名前を呼ぶだけである。それも、とても映画的だ。影像がすべてであり、台詞(意味のあることば)は必要ない。

              (午前十時の映画祭、天神東宝2、2014年09月19日)

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)

2014-09-21 00:55:23 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)2014年09月21日(日曜日)

 「花束」は「サロメ」「カルデアのイメージ」に通い合うものをもっている。ことばに不機嫌な刺がある。

チョウセンアサガオ、ニガヨモギ、インゲン、
トリカブト、ドクゼリ、ドクニンジン--
すべて苦く毒を含めるを贈りて
その薬 そのおそろしき花もて
大き花束を作りて
かがやける祭壇に捧げん--
おそろしくもなつかしき情念を祭る
緑の毒石マラカイトの荘厳なる祭壇よ。

 毒が何度も出てくる。それは詩のなかにあることばのように「恐ろしい」ものである。しかしカヴァフィスは同時に「なつかしき」とも書いている。毒がなつかしい。単なる毒ではなく「情念」の毒がなつかしい。

おそろしくもなつかしき情念を祭る

 なぜおそろしいものが同時に「なつかしい」のか。
 この説明はむずかしい。たぶん、だれもが知っているがゆえにむずかしい。他人に対する怒り、怒りの暴走の果てに「殺したい」という思いがある。それはだれもが体験することなのかもしれない。
 カヴァフィスは、こういう「闇のこころ」(情念)をいちいち説明せず、ことばをぱっとほうりだす。わかる人がわかればいい、わかっている仲間うちに向けてことばを動かす。
 しかし人は「思い(情念)」は体験するが、実際には「殺す」というところまではゆかない。

 「情念」には「嘘」がない。「情念」は「純粋な主観」だ。「情念」は「ほんとう」だ。「ほんとう」だから、なつかしい。そして、その「情念」をそのまま「行動」に移しかえることは、ときに禁じられている。
 「禁止」はもしかしたら救いかもしれない。「禁止」がなかったら、殺してしまうだろう。そういう意味では「情念」は「毒」より恐ろしい。毒は動かない。けれど「情念」は動いていく。
 この不気味なものと祭壇との組み合わせがおもしろい。不気味なものによって祭壇は「かがやける」ものになるし、「荘厳」なものにもなる。何かを「禁止」することが「神」の仕事であり、その「禁止」の前で苦悩するのが人間の仕事なのかもしれない。

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北川透『現代詩論集成1』(9)

2014-09-20 09:12:26 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(9)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 八 俗なる市民の行方 黒田三郎覚書

 北川の黒田三郎批判はどのようなところから生じているのか。

彼は、中原中也を批判するときに、《文明批評家としての詩人》というような概念に拠っている。それはまた、ニーチェやキルケゴールなどの知の集積を背景にした《非民衆的な、反民衆的とさえみられる生き方》という論理とも重なっている。しかし、このモティーフが、エッセイにおける、ある一面での強調にもかかわらず、実際の作品ではほとんど力をもっていないのはなぜか、ということにも考えを及ばせておかねばならない。その理由をわたしは、戦後における黒田の詩の磁場が、<民衆→市民><生活><日常言語>の、あまりに揺るぎない関数として成立してしまったところに見ている。(188 - 189ページ)

 「概念」「知の集積」か。「知の集積」は「非民衆的、反民衆的」か。「概念」もきっと、そうなのだろう。そのとき「知/概念」とは何か。ニーチェやキルケゴール。ようするに西洋の哲学(あるいは哲学言語)のことだ。
 北川は『黒田三郎日記』<戦後篇>を読み、黒田がキルケゴールやニーチェ、さらにカフカ、サルトルなどを読んでいることを知った。こういう西洋の哲学のことばを「思想的な蓄積」( 182ページ)と呼んでいる。
 うーん、そうなのだろうか。
 それは、「思想的蓄積」ではなく、「知の蓄積」なのではないだろうか。黒田はそこに書いてあることを読み、知っている。けれども、それは黒田の「思想」ではなかったということなのではないのか、と私は思ってしまう。
 読んで知ってはいるけれど、黒田の「思想」にはなりえなかったのではないだろうか。(だから、詩としては書くことができなかった。詩の方が黒田のほんとうの「思想」をあらわしているのではないのか。)
 北川は、また、こう書いている。(引用は前後するが……。)

黒田の戦後とは、いわば資質としての体験的発想が、まさしく<生活><民衆>、そして<実用性>ということばで語られた<話体的言語>との関数においてこそ、出現したところに見定められねばならない。( 187ページ)

 「話体的言語」とは日常的に話されていることば、民衆の口語に近いことばということか。この対極にあるのがきっと「知の集積としての言語」(西洋の哲学書のなかにあることば)ということなるだろう。
 黒田は、批評では「知の集積」としての「西洋哲学の言語(概念)」をつかって「思想」を語っていたが、詩はそのときの「理念」ではなくて、「日常のことば(庶民的、生活的なことば)」になっている。「理念」から離れてしまっている。
 そういうことを北川は批判しているように見える。

 北川は、「荒地」に「理念」のことばの運動の可能性を見ている。
 そういう「可能性」からみると、黒田は逸脱している。「荒地」的ではない。鮎川信夫的ではない、ということになる。
 でも、これは批判されることなのだろうか。
 北川の文章を読みながら、私が感じた疑問は、そこにある。

黒田が<荒地>の共同理念に、論理として一方で加担しながら、しかし、感受性の領域で《俗なる市民》に固執したのは、もとより、そこに原型的、あるいは資質的な発想があったからである。( 191ページ)

 「感受性」「資質」と北川が呼んでいるもの--それは「知の集積」ではないように見えるが、「智恵の集積(暮らしのなかで引き継がれてきて生き方/日々のしのぎ方)」かもしれない。そして、それは「西洋哲学の概念」とは違うかもしれないが、やはり「思想(哲学)」ではないのだろうか。日本で暮らしている黒田が、その暮らしのなかで自然に身に着けた「智恵」(生き方)も、「思想」ではないのか。

 私は、たぶん読み違えているのだと思う。
 「荒地」があらわれてきたときの「戦争/戦後」の時代、彼らの肉体が潜り抜けてきた現実、そしてその現実を批判的に切り抜けていくために必要としたものを見落としているのだと思うが、それでも何か違和感が残る。
 「俗なる市民」の「俗」が気になるのかもしれない。
 この「俗なる市民」の「俗」の反対のことばは何だろうか。「知の集積」の「知」かもしれない。「概念」かもしれない。あるいは「理念」かもしれないなあ。北川はそういうものを「聖」(俗の反対)とは呼んでいないが、そう呼んでいないだけに(無意識なだけに)、それが少し怖い。
 私の考えでは「無意識」とは「肉体になじんでしまっているもの/肉体になってしまっているもの」、つまり「思想」だからだ。自分が信じる「聖」とは違うもの、「聖」の範疇に入らないものを、「俗」と呼び捨てることにならないだろうか--それが不安だ。
 北川は書いてはいないのだが(私は北川の忠実な読者ではないので、読み落としているかもしれないが)、北川は「理念/知/論理」を「聖なるもの(人間のめざすべきもの)」という視点で世界を見ていないだろうか。そして、「理念/知/論理」を指向しないものを「俗」と呼んでいないだろうか。
 私の見方は、戦争の中心を形作っている「死」を見落としている(「荒地」の詩人たちが「死」と向き合っている、「死」と向き合って、それをどう自己に引き受けるかということを問題を見落としている)のかもしれないが、とても気になる。
 「死」の前で「聖」「俗」の区別はあるか。
 たぶん、「死」を浄化するものが「聖」であり、人間の「思想」は「死」を浄化するものでなければならない--という考え方は、うーん、ことばの上では、わからないわけではないが、私は積極的に与するという気持ちになれない。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)

2014-09-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)2014年09月20日(土曜日)

 「カルデアのイメージ」は神が人間をつくる前の地上のことから書きはじめている。「カオス」の状態。

その時 戦士は禿鷹の身体を持ちて、
 人々は人の身体と
大鴉の頭を持てり。人の頭を持てる
 大きく背高き雄牛のたぐいもありき。
日も夜も吠えやまぬ犬は四つの身体を持ち、
 尾は魚の尾なりき。神エアとその他の神は
これらの物を掃滅したまいてから
 楽園に人を置きたまえり。
(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後の一行はアダムとイブのことを書いているのだろうけれど、私は、まったく違う読み方をしてみたくなる。この詩に書かれていることばをまったく違う意味に読み取りたい気持ちになる。
 楽園に「人」を置く前の「カオス(混沌)」の時代の方が「楽園」のように見えないだろうか。「楽園」の定義はむずかしいが、「禿鷹の身体」を持っていたり、「大鴉の頭」を持っていたりする「異形」の「人々」、あるいは「四つの身体」と「魚の尾」を持つ犬という不思議な生き物。その整頓されない形の方が、とてもエネルギーに満ちていて楽しそうではないか。
 人は、その世界で、いろいろな形の生き物に接触し、そこから「生きる」ことを吸収した方がおもしろかったのではないだろうか。可能性がいろいろあったのではないのだろうか。それらの「生き物」を「掃滅」したあとに置かれたのではなんだかつまらない。
 もし、それらが生きていたら、その不思議な生き物といっしょに生きていたなら、イブはヘビにそそのかされなかったかもしれない。ヘビくらいの単純な生き物のことばに耳を傾けなかったかもしれない。

(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後に、括弧の中に隠されるように洩らされる「本音/主観」。それまでの文体が「文語」風なのに対して、この一行は「ことよな」と「口語」的である。「口調」が聞こえる。その口調は、なにかしら「悪」というか、ととのえられる前の「混沌」の方をなつかしがっているような気がする。

 私の読み方は間違っているかもしれない。
 間違いを誘う魅力が、この詩にはある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(7)

2014-09-19 09:37:48 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(7)(花神社、2014年08月10日発行)

 「玩具考」にはしっぽが「ガラガラ」と鳴る動物が主人公(話者)として登場する。具体的な動物が何かわからない。粒来がこの詩を「寓話」として書いたのかどうかもわからないのだが、「寓話」を感じてしまう。つまり、そこに書かれていることがらを、そのことばの世界だけで完結させることはできずに、どうしても「現実の人間社会」と重なるものを感じ、そこに目を奪われてしまう。
 「私」の息子には友達がいなかった。玩具をもたなかったからだ。私は息子のために玩具をつくってやった。しっぽをガラガラと鳴るようにしたのだ。息子は友達の仲間に入ることができた。

 しかし問題がおきてしまった。私の息子のそれにクレームをつけ
る輩がいたのだった。音がうるさいというのだ。形状が醜いという
のだ。当たり前だ。作者の私はずぶの素人にすぎない。不器用は昔
からだ。それがどうしたと息まいてはみたが、どうにもならなかっ
た。多くの目は、なによ貧乏人のくせに--といっていた。私と息
子の尻尾のガラガラは野風に吹かれて、空疎な音をたてるだけだっ
た。

 「人間社会」を感じてしまうのは、「多くの目は、なによ貧乏人のくせに--といっていた。」という文章があるからだ。この「なによ貧乏人のくせに」ということばは、詩の最初の方にも出てくる。息子は、女の子に、そうののしられていた。そして何もできずに立ちすくんでいた。
 この本人の「人間性」とは無関係の属性による「差別」は、はたして動物の世界にあるのかどうかわからない。あるかどうかを考える以前に、どうしても「人間世界」の「差別」を感じる。こども(女の子)は平気で口にする。それは大人がどこかで口にしていることばの受け売りである。そして大人はことばでは直接いわず「目」で言うのだが、こうした「発言(言い方)」の構図そのものが「人間社会」であると感じてしまう。
 粒来の書いていることばが、私の「肉体」が覚えていることを思い出させる。そのために、「寓話」と感じる。
 そして、それを「寓話」と感じるとき、実は、私は「架空の動物(実在の動物かもしれないけれど)」を忘れて、自分自身の生活を思い出してしまう。「貧乏人」とののしられた過去を思い出してしまう。悔しさを思い出してしまう。私の「肉体」が、ここに書かれていることを「寓話」ではなく「現実」だと主張する。つまり、そのとき私は「動物」を見ていない。「動物」の「肉体」のなかに動いている「感情」を見てしまい、その「感情」が「肉体」をとなって動くのを「肉体」で感じてしまう、ということがおきる。

  凶事はこの後おきてしまった。わが子が他者からの侮蔑に耐え
きれず、相手を噛んでしまったのだ。大した傷ではなかったはずだ
が、侮蔑に耐えて耐えてきた私らの種族の意地が、息子の血となり
毒となって誹謗者を再起不能におちいらせて了った。息子は激昂し
た者たちに打ちのめされ頭をたたき割られて、地に長々とのびてし
まった。私はわが子の名を呼んだが答えるはずがなかった。わずか
に立てたか細い尻尾の先の小さな玩具が、あのガラガラが風に鳴っ
た。

 侮蔑されたものの反撃。それは「噛ませ犬」の「母犬」のように反撃する。その反撃のなかには「侮蔑に耐えて耐えてきた私らの種族の意地」がある。「動物」にも「意地」があるだろうけれど、このことばが「人間」を感じさせる。「耐えて耐えて」という繰り返しが作り上げた「意地」。「繰り返し」を覚えている「肉体」が育てる「意地」である。こういうことばが「人間の肉体」を感じさせる。
 「寓話」を「現実」の根底にある「いのちのあり方(未生のいのち)」にまで引き戻す。架空の物語として受け止めるのではなく、いつでも生まれてくる現実の物語、ストーリーになる瞬間のような「場」へ私をつれていく。「肉体」そのものへと私を引き戻す。
 その後の、誹謗者の攻撃の手ごころの加減なさ、暴走は「人間」だけがする暴走のようにも思える。

 この詩には、さらにこの「寓話」を「神話」にまで昇華する強いことばが動く部分がある。

 息子よ。父は玩具を作った。お前はそれを悦んだ。それが何故大
方の気色を暗処へと押しやったのか。蔑まれ罵しられ耐えに耐えて
耐えかねてお前は他者に牙をむいた。われらの種族は窮地に在って
口を開け、真紅の喉を見せる時は、己れの死を予感する時だと知っ
ていたか。だから世の大方の良識人に歯を向けた時お前は半ば死ん
でいたのだ。何の昂奮があっただろう。その口も喉も心臓さえも冷
えきっていて、ただ目だけが眼前の敵に向かって種族の意地を貫き
通すべく冴えかえっていたに違いない。

 「死の予感」が「神話」を感じさせる。「物語」は「死」で完結する。「神話」も「死」で完結するのだが、その「死」が予感されたものであることが重要なのだ。感じるものへ向かって「肉体」が動く。感じることは、やめることができない。そして「予感」は「死」が完結した後も、生き続ける。「死」を思い出しつづける。「予感」はまだ存在しないものを感じることだが、死後は「死」が存在したことを思い出しつづけるのである。「死」があると、思い出しつづけるというのは--これは一種の矛盾で。
 矛盾と書いてしまうのは。
 「死」は、絶対に体験できないというか、「死」を体験して、それを書くことはできないという意味なのだが。「死」は常に予感でしかありえない。他人の「死」を思い出し、自分の「死」を予感する。自分の「死」の予感なかに、「人間の死」(本文にしたがえば「種族の死」)を予感し、その予感の緊張感が「人間(種族)」を「現実」から別の「場」(神話)へと高める。
 この「神話」を「悲しみ」という激情で統一する時、それは「悲劇」になる。「怨念」と「悲しみ」がからみあって世界を作る。

 息子よ。打ちのめされ、長々と地に腹這って動ないわが子よ。父
は玩具作りを諦めまい。貧しさから脱け出せる日まで(そんな日は
決して来ないが--)父は子にも孫にも尻尾にガラガラを付けて貰
う。食足りて安寧を貪る良識ある人々に、われらは尻尾を鳴らしな
がらこういおう。日の当たる場所で鼻毛を抜いている幸福人よ。私
たちはいつも君の踵の裏の冷たい影の中で、牙をむき、毒嚢をふく
らませ、そして飛びかかる一瞬ためらうふりをしながら尻尾を一閃
させてガラガラを奏でるだろう。聞きたまえ、貧しき者たちの安ら
ぎの唄を--と。
 息子よ。これでいいか。いいといってくれ--。よかったら幻の
尻尾を振ってガラガラを鳴らしてくれ--。



粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉)
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(182)(未刊・補遺07)

2014-09-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(182)(未刊・補遺07)

 「サロメ」は「サロメ」のその後を描いた作品である。ヨハネの首を皿に乗せてあらわれたサロメに、

「サロメよ」と若きソフィストは答う。
  「われは汝のこうべを望みしが」
   と戯れに言うに、
翌朝 サロメの侍女 足早に来たる。

ソフィストの愛人の亜麻色髪のこうべを
 黄金の皿に載せて持ち来たる。
  されど思案中のソフィスト
昨日の望みを忘却し果ており。

 中井久夫は、この詩では「口語」をつかわずに「文語」風の表現をつかって訳している。口語のなまなましさ、主観の強さが消え、それがソフィストの「詭弁のことば」、実感のとぼしい上っ面だけのことばを強調する。
 「戯れ」ということばで中井は念を押しているが(本文もそうなのかもしれないが)、この「戯れ」と「文語」風のことばが響きあう。「本気(主観)」ではないものを表現するには、「文語」の方が似合っているのかもしれない。「主観」ではない、だから「戯れ」、だから「嘘」。
 「戯れ」とは知らずに、サロメは、ほんとうに自分の首を差し出す。
 「ソフィストの愛人」はサロメのことであろう。--と中井は注釈しているが、私もその方がおもしいと思う。激情型のサロメは、その激情(本心/主観)そのままに、詩をかけてまでソフィストに迫る。
 サロメにとっては「行為」が「口語」なのである。「主観」を明確にする方法なのである。しかし、この「口語(肉声)」としての「行為」はソフィストにはつたわらない。ソフィストは「行動(肉体)」の人ではなく、「観念」の人だからである。そして、その「観念」は「論理」で動く。

血の滴りおつるを汚らしく思いて
 かれはこの血塗れの物を
  目の前より持ち去れと命じ
プラトンの対話篇を読み続ける。

 ソフィストは「ことば」しか読まない。サロメのこころなど読まない。
 ソフィストとサロメの生き方(思想/肉体)が厳しく比較されている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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