詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(6)

2014-09-18 10:15:07 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(6)(花神社、2014年08月10日発行)

 「哺育」は「天道虫」のことを書いているのか。そういう虫がいると聞いたことがあるような、ないような。背中にくぼみがあって、そこに別の虫が寄生している。それを背負ったまま大きくなった天道虫の「おれ」。そこに寄生している虫もだんだん大きくなって、やがて「おれ」の背の底部を割ってかじり始めた。

 突然おれの背の凹みから這い出た名も知らぬ漆黒の虫の巨大な頭
部が、カチカチと打ち鳴らす●み歯がおれの目一杯にひろがった。
何のことはない。おれは自らの死をもたらすものをいとおしみ、情
を注いてはぐくんで来たのだった。奴の両顎がおれの胴を絞めにか
かった。おれの背にある日凹みをうがち、それへ死を産みつけた奴
の顔が、おぼろげながら判って来た。おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。と、--奴の歯牙がおれの両眼を突き刺した。
    (谷内注=「●み歯」の●は「金」偏に「交」のつくり)

 寄生と、それを育てるときの気持ちがていねいに書かれてきて、最後に、食われてしまうようすになるのだが、この部分がおかしくて、かなしい。

                 おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。

 この部分が、特に印象に残る。「優しさ律儀さ」を自分自身で笑う。それがなかったら「おれ」は寄生されたままではななかっただろう。虫を振り落とし、自由に生きたかもしれない。まさか自分が「餌」になってしまうとは知らずに生きてきた--その「優しさと律儀さ」。
 これは現代の「格差社会」の寓話になるかもしれない。寓話として読むことができるかもしれない。やがて食いつぶされるだけなのに、律儀にはたらきつづけるしかない「非正規雇用」という名の酷い労働形態。いつでも廃棄されてしまう存在。自分が生きるのではなく、他者が生きる。他者が生きるために、その犠牲になる存在。
 ここにも「怨念」のようなものを感じる。「おれは笑った」に「怨念」を感じる。「怒った」よりも激しい「怨念」を感じる。
 なぜだろう。
 「絶対的な絶望」がある。

 「絶対的な絶望」というものを私はしたことがない。「 死をかけた絶望」を私はしたことがない。生きているのだから。
 粕谷も生きている。しかし、生きながら、その「絶対的絶望」をことばとして出現させてしまう。
 今回の詩集には、何か、粕谷が書いている以上のものがある。それは「書いている」ではなく「書かされている」という感じがする。私が「書かされている」のではないのだが、不思議な力が粕谷に憑依している。
 こんな書き方は(感想)は私の好みではないのだが、そう思う。

 いままで書いて来なかったもの、書いてきたけれど、そのことばからすりぬけてしまったものが(すりぬけされてしまったものが)、粕谷に逆襲してきて、乗り移っている感じがする。
 そして、その憑依してきたものに乗っ取られるだけではなく、粕谷はそれを鍛え上げてきた「文体」をつかって闘っている。負けまいとしている。その厳しい「闘争」も感じる。「闘争」の奥にたぎるエネルギーの美しさを感じる。「美しさ」と思わず書いてしまうのは「文体」の推進力がとぎすまされているというか、むだがないからだろう。
 とても不思議な詩集だ。

儀式―粒来哲蔵詩集 (1975年) (天山文庫〈5〉)
粒来 哲蔵
文学書林 落合書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)

2014-09-18 09:23:28 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)2014年09月18日(木曜日)

 「忘却」は四行の短いスケッチである。

  温室に閉じ込められた
ガラス・ケースの中の花たちは
  陽の輝かしさを忘れ
露けき涼風の吹き過ぎ行く心地を忘れている。

 「花」は何の花だろうか。カヴァフィスは明示せず、一般名詞のままにしている。これはカヴァフィスの「修飾語」の排除を好む気質のあらわれかもしれない。表面的な「個別性」よりも、その内部を支配している「普遍的」な運動を書きたいのかもしれない。
 花は、内部で何が起きたときに花になるのか。
 この詩では、逆説的に書かれている。
 太陽の輝かしさ、涼風の心地よさを「忘れる」ときに、花になる。温室の、しかもガラスケースに納められた花になる。
 自然の花はそれとは逆に、太陽の輝かしさを「覚え」、涼風の心地よさを「覚える」ときに花になる。花自身の「肉体」で「覚える」。外部にあるものを内部に取り込み、「覚える」。そして、花になる。

 この詩のことばのなかを動いているものにあわせて、「混乱」を読み直すとどうなるだろうか。
 「魂」が「肉体」の内部にあって、「肉体」の外にあるものを取り込んだとき「魂」は「魂」になるのではないだろうか。「魂」が「肉体」の外側にさまよい出るのではなく、内部にとどまり、「魂」の手には届かないものを「肉体」の手を借りて、「肉体」の内部に取り込んだとき、「魂」が「ほんとうの魂」に生まれ変わる--そういうことを書きたかったのかもしれない。
 「魂」は「肉体」からはじき出され、「魂」の欲するものを探している。しかし、それは「やっては来ない」。そして夢をかなえられなかった「魂」は「肉体」に返っていくだけである。「肉体」に返った「魂」は、やがて求めて手に入れることのできなかったものを「忘れる」。そうし、「ガラス・ケース」のなかの「魂」になってしまう。
 ほんとうは違う動き方、生き方があるのだ。けれどカヴァフィスはまだそれを手に入れるための方法を知らない。詩は、そのどうやってことばを動かせば必要なものが手に入るのか、わからないまま、さまよっている。

 あるいは自然のやさしさと暴力から隔離されている花を見て、その花はまだほんとうの美しさに達していない。本能を生きる美しさを手に入れていないよ--とささやきかけているのかもしれない。出ておいで、と誘っている、あるいはそそのかしているのかもしれない。そうならば、この詩は、触れることのできない相手をうたった男色の詩になる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パオロ・ソレンティーノ監督「グレート・ビューティー 追憶のローマ」(★★★★)

2014-09-18 00:41:22 | 映画
監督 パオロ・ソレンティーノ 出演 トニ・セルビッロ、カルロ・ベルドーネ、サブリナ・フェリッリ


 どうしてもフェリーニの「甘い生活」を思い出してしまう。畸型(と言っていいのかどうかわからないが、巨大に太った女、小人の女)や、ふつうはありえない場所での目立つ動物(雪の中の孔雀や廃墟の中のキリン)の影像。世界をサーカス(あるいはカーニバル)として見る視線が共通するからだろう。ただし、「グレート・ビューティー 追憶のローマ」の方が倦怠感が強い。それだけ時代が経過しているということか。フェリーニのころは、まだ倦怠も新しかったということか。
 それにしてもローマには倦怠が似合うなあ。ローマ帝国というのは、いまも生きているという感じがする。あまりにも偉大すぎる。もう、ローマにはすることがない。
 ということが、かつて偉大な小説「人間装置」を書いた主人公の姿と重なる。彼自身が偉大な遺産にあえいでいる。食いつくそうにも(食いつぶそうにも)、なぜか、食いつくせない。小説一作で、主人公のような生活ができるのかどうか、日本では不可能だろうけれど、ローマなら可能なのかもしれない。まわりの貴族(大金持ち)が主人公のパトロンになるからだ。貴族は金を使うことしかすることがないから、主人公にも金を注ぐ。つまり、それなりの仕事を与える。具体的にはジャーナリストの仕事を与える出版社が描かれているだけだが、主人公とまわりの人間の描写を見ていると、ほかにもそういうパトロンがいるのだろうという匂いが伝わってくる。一方で、金を失った落ちぶれていく貴族もいるが、主人公のまわりは、つかってもつかっても使い切れない金に飽き飽きしている。その浪費に、主人公はまきこまれて、やっぱりうんざりしている。
 まあ、こういうことは、どうでもいいな。
 この映画は、影像がともかく美しい。そしてその美しさは、カメラの視点で美しく見せる美しさではない。カメラは演技をしていない。--というと、カメラ(撮影者)に叱られそうだが、ローマという存在そのものが美しいのだ。どうとっても美しくしか撮れない。--というようなことはないのだが、そう感じさせるくらいに美しい。そこが、すばらしい。そこにある遺跡、建物、都会のすべてが、どのようにして美になってきたかを知っていて、その「時間」に共鳴するようにカメラを動かしている。「ローマ(都市)」の「時間」が演技するのを、カメラはそのまま「時間」の演技に任せている。
 冒頭に日本人の観光客が出てくるが(どう見ても中国人だが)、その観光客がカメラを持っている。その観光客が写した写真と比較してみるといい。映画には出て来ないから、自分がローマに行ったときに撮った写真と見比べてみるといい。明らかに違うはずだ。
あるいは、自分の記憶にあるローマと比較してみるとわかるはずだ。明らかに違うはずだ。
 日本からローマへ行ってローマの写真を撮ると、それはローマの「表面」しか映らない。「歴史(時間)」が映らない。ローマ帝国の時代から同じ建物を見つづけた人間の「視力」にはかなわない。ローマ人は、「時間」を見ている。時間を潜り抜けてきて存在するものを見ている。
 あ、これでは抽象的すぎるか。
 映画に即して言えば、主人公は、現実を生きながら「過去」をときどき思い出す。過去の「時間」を見る。たとえば、こどもたちが庭で鬼ごっこをする。そこに主人公は自分がこどもだったときの姿を見ているのだが、それは説明されない。主人公にとって、そしてローマ人にとって、現実を見ながら「過去」の「時間」を見るというのは、あたりまえのことなのだ。主人公が遊び回った庭が、いま、こどもたちが遊び回った庭である。その庭は「同じもの」ではないが、遊び回るこどもを受け入れる(こどもを遊ばせる)という「時間」のなかで「ひとつ」になる。主人公は、いまのこどもだけではなく、また自分のこども時代の姿だけではなく、もっと昔のこども(こどもという永遠)をそのまま見ている。
 こういうことのハイライトは、主人公がキャリアウーマン風の女と口論するシーンに象徴的に描かれている。女は、「母親と女の両方をこなしてきた」と自慢するが、主人公は女の「正体」をあばいて見せる。それは主人公が実際に見聞きした女の正体であるというよりも、永遠に変わらない「既成事実」としての正体なのである。言いかえると、主人公はその女の「過去」を知っているのではなく、いま目の前にいるような女になるためにはどういう「過去」が「ある」かを知っている。どういう「過去」が女をこんな女に作り上げるかを、「歴史(時間)」として知っている。それは主人公だけではなく、その場にいたすべての人間が知っている。知らないのは、「自分は特別である」と錯覚している女だけである。
 「時間」が「人間」をつくる。「時間」が「人間」を美しくする。その「時間」というものを主人公は知っている。この映画は知っている。
 そして、この倦怠に満ちた映画を、倦怠だけに終わらせていないのは、主人公の「過去の特別な時間」である。これは映画のオチのようなものであって、あまりおもしろくないのだが……。彼には忘れられない恋がある。実らなかった恋が、主人公を絶対的な倦怠からすくっている。主人公が天井に見る青い海がその象徴だが、これが非常に美しい。(ここから書きはじめると、また別の感想になるのだが、今回は書かずにおいておくことにする。)
                      (2014年09月17日、KBCシネマ2)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子『はじめに闇があった』(3)

2014-09-17 13:25:31 | 詩集
長嶋南子『はじめに闇があった』(3)(思潮社、2014年08月06日発行)

 長嶋の詩のどこが好きか--なかなか言うのがむずかしい。書かれている対象についての「愛」が複雑なのだ。愛していながら、どこか相手をばかにしている。ばかにしないことにはやっていけないくらい愛している。嫌いだ、好きにしろ、と言って突き放さないことには自分の身が持たない。相手としっかりからみあってしまっている。だから「嫌いだ、好きにしろ」といって突き放しているのは、ほんとうは相手が好きという自分のなかの自分なのである。その複雑さがおもしろい。
 「しっぽ」には、手に余る息子が、また登場する。

息子が犬を買ってきた
足の短いチョコマカ動き回るミニチュアダックスフント
生まれたばかりなのにもうしっぽを振っている
犬って狼が先祖なのにどこでどう間違えて
しっぽを振るようになったのでしょう
どこでどう間違えて息子は空っぽ頭なのでしょう

 犬を見ていて、尻尾を振るから(こびる?)犬批判のことばが動く。そして、それが突然、犬を買ってきた息子批判に変わる。この変化、怒りの対象が犬から息子に突然変わってしまうところがおもしろい。
 だが、これは変わったのではないのかもしれない。変わったのではなく、混同した。いや、いっしょになってしまった。融合したのだ。犬と息子は区別がつかない。同じものなのだ。
 しっぽを一生懸命振って、かわいいわねえ。ばかねえ、こんな小さいときからしっぽを振って。--その「気持ち」は区別がつけられない。どっちもほんとうなのだ。そして、その気持ちをほんとうにかえるのが「息子」なのだ。ばかねえ、犬なんか買ってきちゃって。かわいいわねえ、犬に夢中になるこども(息子)は。すなおで、いいわあ。でも、どうやって育てるつもり? いやになるわあ、なんにも考えていない、頭が空っぽなのだから。
 こういう感情のごちゃごちゃを長嶋は整理しようとしない。かわいい、とだけ言うわけではない。ばか、というだけでもない。どちらかに傾いて、一方を排除するわけではない。両方を、そのまま「ほんとう」として受け入れて生きる。

息子は犬を世話するために仕事に行かれなくなった
抱いて寝ている
短足 胴長 大顔 犬によく似ている
きっと前世では親子だったのでしょう
息子は女の人に飼われて
しっぽを振っていればいいものを

 「犬の世話をしなければいけないから仕事にいけない」というのは口実。「そんなこと言って……」と長嶋はぶつぶつ言う。ぶつぶつ言うが、息子を仕事に追い出すわけではない。批判はするが、息子が犬の世話をするように、長嶋は息子の世話をする。きっと前世では親子だったのでしょう。あ、間違えた。「いま」が親子だから、息子の世話をする。同じ「短足 胴長 大顔」が「似ている」。それが、かわいい。憎たらしい。そうであるなら、長嶋と息子もまた「短足 胴長 大顔」が「似ている」に違いなく、あれはまるで自分が子育てして添い寝していたときの姿だろうか、なんて思うのかもしれない。
 でも息子なんだから、はやく他の女の所へいって、女にせわされて、しっぽを振るようになってもらわないと困る。でも、息子が知らない女(?)にしっぽを振っているのは、しゃくかも。憎たらしいかも。
 書いてある以外のことばが、いつも長嶋のことばから聞こえてくる。
 これは長嶋の書いている「意味」を読むというよりも、きっと、私が長嶋の「肉体」を見ているからだ。「声」を聞いているからだ。--あ、私は長嶋にあったことがないし、写真すら見た記憶がないのだが、まるで知っているおばさんのように、その「肉体」ごと感じてしまう。口調を思い出す。
 ていねいな口調で、気をつかうふりをして、「ばかみたいなことして」とあざわらっているような矛盾した言動をそのまま存在させてしまうおばさんの「肉体」。「大丈夫?」と声をかけながら、「ざまあみろ(いい気味)」「これくらいで泣くなんて、ほんとうにばか」「せいせいしたわ」と口元が笑っている。(あ、私のおばさん批評は残酷?)
 で、そんなふうにしながらも……。

わたしにしっぽを振ってくる人はもういない
友だちもいない
誰もいませんからどうぞ家へ遊びにきてください
本当はきてほしくないのに
ついお世辞をいってしまう
わたしもしっぽを振っている

 ちょっとさびしい。「誰もいませんからどうぞ家へ遊びにきてください/本当はきてほしくない」と矛盾するしかないこころ。
 息子を冷淡に批判し、あざわらったように、長嶋は自分自身を対象化し、批判し、笑う。ユーモア。おかしいことろが、ある。そうわかって、それを受け入れる。息子を受け入れるように、自分の奇妙なところ、矛盾したところを受け入れる。
 すべて自分の「肉体」といっしょにあることなのだから、受け入れるしかないのだけれど。

 矛盾にであったとき、どうするか。--と、私は、また「飛躍」する。
 男は矛盾を追及する。私がここで書いているように、こことここは矛盾している、と指定して得意になる。まるで自分に矛盾がないみたいに。そして、一方を修正しろ、矛盾を解消しろ、と迫る。批判する。他人に対しては。
 自分に対しては、どうするか。むりやり「論理」をでっちあげて、これは矛盾ではないといいはるか、あるいは「矛」と「盾」のどちらかを否定する形で、矛盾を解消する。「論理」をととのえる。
 でも、おばさんは、私の知っている「長嶋南子おばさん」は、そういうことをしない。矛盾がどうした、と開き直る。どっちも「肉体」で受け止めてしまえば、そこに長嶋南子という「肉体」があるだけ。どんな気持ちも、どんな論理も、その場その場でうごきまわるだけ。「肉体」がある、「生きている」ということを否定できる「論理」(ことばの運動)なんてないからだ。

ついきのうまで家族をしてました
甘い玉子焼きがありました
ポテトコロッケがありました
鳩時計がありました
夕方になると灯がともり
しっぽを振って帰ってくるものがいました
家族写真が色あせて菓子箱のなかにあふれています
しっぽを振らなくなった犬は 息子は
山に捨てにいかねばなりません
それから川に洗たくにいきます
桃が流れてきても決して拾ってはいけません

 この最後の「飛躍」がおもしろい。「桃太郎」が、ふいに登場してくるところがおもしろい。まあ、そのまえの「うば捨て」に似た「犬捨て(息子捨て?)」があるから、その連想で「桃太郎」が出てきたのだろうけれど……。
 この「ふいの出現」、記憶の奥からぱっと「桃太郎」が出てくること。
 これは、とても重要な問題を持っている。
 「桃太郎」はだれもが知っている。小さいときに、繰り返し聞かされる、あるいは読んでいる。それが「肉体」のなかに、ずーっと残っている。ことばが「肉体」そのものになっている。それが、あるとき、ふいに出てくる。なぜ、このときに「桃太郎」なのか、そんなことはわからないが、何かが「肉体」の奥から、「意識」の運動とは無関係にふっと意識を突き破ってあらわれる。
 私たちは、何か、そういうものをかかえている。そういうものに動かされている。
 で、思うのだが。(これが、第二の「飛躍」だな。)
 長嶋が書いている「しっぽを振る」からはじまることばの動き、それは長嶋が「発明」したものではなく、「桃太郎」のように、「肉体」で語り継がれてきた何かなのだ。「桃太郎」のストーリー全部を正確に暗唱できるひとは少ないだろうけれど、なんとなくストーリーを知っている。その「なんとなく知っている」という感じで、「肉体」がかかえている「人間」の記憶、「母親」の記憶、「女」の記憶--というものが、あるとき、「肉体」の奥からよみがえる。
 長嶋が書いていることは長嶋独自の「世界」である。けれど、その世界は「おとぎ話」のように、誰の「肉体」の奥にも動いている。女だけではなく、男の私の肉体にも似たようなものがある。だから、長嶋のことばに共振してしまう。
 どんな新しいことも、「肉体」がいつか体験したことなのだ。「肉体」の奥から、体験した「過去」だけがあらわれてきては、「肉体」を動かしていく。そうして、私たちは「過去」へ帰る。「人間の原点」へ帰る。未来へ進めば進むほど「人間の原点(いのちの原点)」へ帰る。
 詩を読むとは、そういう練習、「人間の原点へ帰る」練習なのかもしれない。

はじめに闇があった
長嶋南子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(180)(未刊・補遺05)

2014-09-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(180)(未刊・補遺05)2014年09月17日(水曜日)

 「混乱」という作品は、私にはよくわからない。詩のためのメモのようにも思える。

わが魂は真夜中になると
混乱し麻痺する。その上、
   魂の生命は生命の外側で生きさせられる。

 三行目は「魂の生命は(肉体の)生命の外側で生きさせられる。」という意味だろうか。「魂の生命」と「肉体の生命」とが対比させられている。「生きさせられる」と書いているのはどうしてだろう。「肉体」は「魂」を拒んでいるのか。「魂」が「肉体」から離れて自由に生きようともがいていることを逆説的に書いているのだろうか。

そしておそらく来ないだろう暁を待つ。
待ち、駄目になり、退屈の余り死にそうになって、ようやく
   私の生命の中に取りこまれ、生命とともにあるようになる。

 「私の生命」と「私の(肉体の)生命」だろうか。「私」は「肉体」であり、「魂」は「私」ではないのかもしれない。いや、そんなことはない。一行目「わが魂」と書いている。「私」と「わ」という、ふたつの「主語」がこの詩では動いている。「魂の生命」と「魂ではないものの生命」が。

 どう読み進めていけばいいだろうか。

 二行目の「混乱し」「麻痺する」ということばを手がかりにすれば、「魂」ではない「生命」は混乱したり麻痺したりしないことになる。「魂」はまた、待つことが苦手であり、退屈すると死にそうになる。「魂」ではない「生命」は退屈したり、麻痺したりしないということか。
 わかりにくい「二元論」である。
 わかりにくいのは、もしかするとカヴァフィスが「二元論」を信じていないからかもしれない。
 あるいは、この「魂」は「魂」ではないものを、「魂」があこがれているものの方へつれていきたいのかもしれない。けれど、「魂」ではないものの方が頑固で(?)粘り強く(?)、「魂」が屈するのを見届けている。
 「魂」は、敗北しながら「魂」ではないもの(肉体)の内部を生きるしかなくなる。内部で生きることを拒まれ、外側で生きることを強制されていたのに、その外側で自由に生きるのではなく、外の「周辺」をうろうろしながら生きるように求められている--そういう「矛盾」したことが書かれているのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイフン・ピルセリムオウル監督「私は彼ではない」(★★)

2014-09-16 12:24:40 | 映画

 そっくりな人間を「瓜ふたつ」というが、この映画は、「そっくり」をめぐって物語がはじまる。しかし、おもしろいのは最初だけである。
 中年の男が朝起きて鏡をのぞく。自分の顔をしげしげと見つめたあと鏡を立ち去ると、当然、その鏡からも顔は消える。--そのあと、鏡のなかだけに顔があらわれる。この影像がこの映画のすべて。
 鏡のなかに自分の影像がある(あった)ことを知っているのは男だけである。鏡のなかの影像は「意識/記憶」を象徴している。記憶が、男自身を確かめる。そうすると世界はどうなるか。
 意識が現実の「反芻(反復)」だとすれば、その「反芻」から現実をみつめるとき、また反芻(反復)が起きる--か、どうかは知らないが、この映画監督はそう考えて、影像とストーリーを構成する。
 男は職場で女と出会う。女の夫は服役中である。男は夫の「代用」として生きることになる。映画では夫は男そっくりという想定だが、これは男の意識(鏡のなかの男)が男を夫そっくりに仕立てるのである。男はだんだん夫になる。そして夫になって、女に誘われて海に行くが、夫が女を殺そうとしたように、男は女を溺死させる。事故か殺人かわからないように映画は描いているが、意識にとっては「事実」など、どうでもいい。意識は(脳は)現実を自分のつごうのよいように解釈してしまう。書き換えてしまう。女の死は、女が「夫に溺死させられそうになったことがある」という台詞の反芻(反復)にすぎない。女が溺死するとしたら、そのとき男はどんな行動をとるだろうか。もし、夫が女を殺したとして、女が死んだあとどうするか。女を溺死にみせかけるだろう。そうしないと殺人でつかまってしまう。
 このあと、男は「夫」になって、逃亡する。逃亡先に女そっくりの女に出会う。海辺でのデートは、男が女の家を最初に尋ねたときの、「鏡像」になっている。家では男がスクリーンの左側、女が右側に座っている。海辺では女が左側、男が右側。家では女が右手を男の手の上に重ねる。海辺では男が右手を女の手の上に重ねる。これは、男の意識が女を反芻(反復)しはじめた証拠である。男は、もう男ではない。女になっている。女の側から世界が見つめなおされる。
 男は眠っているときに、刑務所から逃亡した夫と勘違いされ逮捕されるが、夫が逮捕され、夫から自由になるというのが女の夢(意識)である。夫の方は女が死んで、自分が自由になる夢を見ていた。
 そのあと、どうなるか。
 映画の最初のころのシーンが反芻される。男は仲間といっしょに売春をしていた。仲間は逃げ、男だけが警察につかまる。留置場で男は見知らぬ男に会う。その男は靴で鉄格子を叩いて刑務官に殴られるが、朝起きると靴を片方残して消えている。そのシーンが反復される。
 男はふたたび留置場に入れられる。そこに見知らぬ男がいる。その男も最初の男のように靴を脱いでいる。鉄格子を叩くのか。ラストシーンは鉄格子を叩く音でおわるが、これは主人公が鉄格子を叩いているのである。最初に見た男を反芻しているのである。抗議の鉄格子を叩く音が弱々しいが、これは「反芻」だからである。(もし男がほんとうに脱獄した犯人(夫)と間違えられたのなら、逮捕されたとき、他のだれかといっしょの留置所などに留置されるのではなく、もっと厳重な管理のもとにおかれるはずである。)
 こういう「意識」をテーマにした映画は、私は嫌いである。とてもつまらない。「意識」というのはどんなに違っているようであっても、だれの非常に似通っている。それこそ「瓜ふたつ」である。男が思うこと、女が考えることは大差ない。いっしょになりたい(セックスしたい)、殺してでもわかれたい……。
 この映画は、まあ、こういう映画をつくってしまう監督だからそうなるのだろうが、小道具に「意味」をばらまく。最初の「鏡(鏡像)」がそうだが、ほかに靴(スリッパ)が重要な役割を果たしている。主人公は女の家で夫のスリッパを履く。夫の車から夫の吐いていた靴を見つける。履いてみると自分にぴったり。これを巧くできた伏線と見るか、あざとい作為と見るか。私は、あざとい、と見る。ほんとうに「偽物」になりたいなら、ひとは「違い」乗り越えて動く。靴なんか合わなくても、あわせてしまう。ぶかぶかでも履いてしまう。あるいは、小さすぎるときは同じ形、色の靴を探し出して履くという具合に。そういう「ズレ」があってこそ人間は動く。座る位置の左右を入れ換えることだけというのは「意識」の動きであって肉体の動きではない。鏡に映せば、それだけで左右は違うのだから。
 (アジアフォーカス福岡国際映画祭、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13、2014年09月15日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』

2014-09-16 11:26:02 | 詩集
谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』(ナナロク社、2014年08月25日発行)

 谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』は『ごめんね』という詩集の他に、「絵日記+封筒」「絵はがき五枚」「旗(絵・和田誠)」「お面」「DVD」などが箱に入ったもの。

詩と詩的な素敵なものを、箱に入れて読者にプレゼントするという長年の夢が実現しました。値段がついているのが、玉にキズですが、買って下さってありがとう! 俊

 という「おたより」がついている。「おたより」は紙飛行機にできるように、裏側に折れ線が書いてある。
 うわーっ、うれしいな。
 でも、困ったなあ。紙飛行機にして折ったら、「おたより」を読むときに紙飛行機を伸ばさないといけない。折ったり伸ばしていたらぼろぼろにならない?
 絵はがきも、出してしまったら手元に残らない。絵日記も応募したら(何点か「谷川さんとの宴」で披露されるらしい)手元に残らない。
 セットの商品が、だんだん「欠陥商品」になってしまうよ。大事なものなのに、だんだんなくなってしまうよ。

 と、書いて気づく。

 そうか、詩というのは大事なものをだれかに届けること、プレゼントすることなのだ。大事なことば、大好きなものを、だれかに手渡すということが詩そのものなのだ。手渡したことば(もの)がその人にとどき、その人がまただれかに手渡す。そうしてだんだん広がっていく--そういうことが詩なのだ。書かれたことば、大好きなもの以上に。

 さて、絵はがき。だれに出そうか。絵日記に何を書こうか。紙飛行機、どこで飛ばして迷子にしようか。わくわく、どきどきするね。



 詩集の感想を書いておこう。(奥付には、昔懐かしい「検印紙」がはってある!)好きな詩が多くて困るが、タイトルになっている「ごめんね」。

ごめんねって言ったら
君が小さくうなずいてくれたので
もう一度ごめんねって言った
初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に

昨夜は一晩中夢の中で
僕は悪くないと思っていた
僕には僕の理由があるって
でも今朝目が覚めたら
もう夢は覚えていなかった

夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた
手紙でも電話でもダメだと思って 朝
君の部屋まで四キロ走ってノックした

 いいなあ、この感じ。こんなふうにしたかったけれど、できなかったなあ。あのとき、こんなふうにすればよかったのにと思い出しながら、いいなあ、好きだなあ、この詩。そう思う。
 でも、私は詩を読むだけではなく、自分でも詩を書いているし、詩の感想も書いているので「いいなあ、いいなあ」と言ったあと、どこがよかったのだろうと考えたりもする。谷川さん、この詩は、谷川さんのいまを書いているわけじやないでしょ、と意地悪も言いたくなってくる。
 最初に読んだとき、ぱっと思い浮かんだのは思春期の少年のこころ。中学生のころを思い出した。好きな女子がいて、なにかの行き違いでけんかする。ひどいことも言ってしまう。「ごめんね」と言いたいけれど、言えずに我をはる。その少年が次の日、「ごめんね」と言いたくなって君を尋ねる。
 でも、「君の部屋」? 中学生の女子も「部屋」を持っているかもしれないけれど、それは「部屋」というより、家族といっしょに住んでいる家だね。中学生なら「君の家」を尋ねる。「部屋」じゃなくてね。
 そうだとしたら、私が「少年」と思ったのはだれ? 青年? 相手はアパートかどこかに住む若い女性? そうかもしれないなあ。
 「走って」というのは、どういうことかな?
 私は自分の「体験(記憶)」から言うと、中学生ならば「走って」は「自転車で走って」。自分の足でそのまま走って、とはならないなあ。
 もし青年なら? 走っては車かもしれない。手も車で走ってでは、四キロは微妙な距離だなあ。少年が自転車で走るような「緊張感」、どきどき感がない。
 そういうことを考えると、この詩は、何か変。

夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた

 わかるけれど、こんな「比喩」をわざわざ考えたりしないね。真剣に「ごめんね」と言いたいときは。早く会いたい、早く「ごめんね」と言いたい気持ちだけがある。--この三行は、あのときのことを思い出して、ことばをととのえている。いまではなく「過去」を書いている。
 一連目の、

初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に

 こういう分析(?)も、実際に「ごめんね」と言っているときは思いつかない。あとで思い出していることである。ことばをととのえている。ことばは、そのときの「こころ」のまま動いているのではなく、ととのえられたことばが「こころ」を動かしている。
 2連目はまるごと、ととのえられたことばであって、こころは、ことばを置き去りにして走り出している。こころが走っていくので、肉体がそれを追いかけていく--そういう感じなのに、書かれていることばは、その順序が逆になっている。

 でも、これが詩なのだ。
 こころが動いて、何かして、それをことばで書きあらわしたとき、そのことばは詩なのだけれど、ことばはいつでも遅れてやってくる。何かしているときは肉体の方が夢中になって動いていて、ことばはまだ生まれていない。あとになって、まだ肉体が覚えていることをことばでととのえなおして、あのときのことを思い出す。思い出すためには、ことばはととのえなければならないのだ。人間の「頭」はとっても悪くて、ごちゃごちゃしたままでは何かを思い出せない。ととのえられたものでないと、ついていけない。こころは、何が起きているかわからなくても肉体を動かしてしまうけれどね。
 ととのえられたことば、ことばをととのえる工夫が詩である。
 「ポエメールの箱」に戻って言うと……。
 だれかに何かを届けるときは、形をととのえる。手紙を書くときは、文字をととのえる。形がととのっていようがいまいが、こころはこころなのだけれど、そしてととのえる暇のないときの方が生のこころなのかもしれないけれど、それをととのえる。ととのえるという行為のなかに、相手に対する「思いやり」のようなものがにじむ。
 私たちは、そういうものとも触れ合っている。ととのえることのなかに、何か、その人独自の人間性があらわれていて、それに触れる。ただ「裸のこころ」にだけ触れるのではなく、配慮というものにも触れる。成長に触れるのかもしれない。生なむき出しのこころから、それをととのえるまでに必要だった時間--その間の成長というものに触れるのかもしれない。

 不思議なことに、この配慮、工夫、ことばのととのえ方があってはじめて、私は、この詩の主人公を「中学生の少年」と思う。「初めのごめんねは昨日の君に/あとのごめんねは今の君に」という中学生の私には思いもつかない時間の感覚をとおって、あのときは「初め」と「あと」という区別もできなかったから「ごめんね」が言えなかったのかもしれないと思う。「初め」と「あと」が書かれているから、それよりも前の「ごめんね」ということばが生まれてくる前のところまで帰ることができる。
 谷川の詩はいつでもそうだが、そのことばが「生まれる前」まで私を運んで行ってくれる。そして、そこから私は「生まれ変わる」。
 新しく生まれる。
 私はこんな純粋な、そしてこんな正直な少年なんかではなかった。
 けれど、谷川の詩を読むと、私は純粋で正直な中学生の少年として、この詩の中で動くことができる。自分が経験してきたこと(経験したかったこと)なのに、いま、ここで経験しているみたいにこころがさわぐ。
 そこには青年時代のこともまぎれこむ。詩の中で、1連目、2連目、3連目と進むに従って、自分自身が成長している。(あ、「成長」ということば、「ととのえる」ということばについて考えたときもでてきたなあ。何かが、つながっている。)
 「ごめんね」と言いたかったあらゆることがまぎれこむ。「君」とけんかしたときのことだけではなく、ほかの人とけんかしたときのこともまぎれこむ。「ごめんね」と言えばよかったのに、言えなかったすべてのことが紛れ込む。
 つぎに「ごめんね」と言いたくなったら、こうしようと思う。
 「時間」を忘れてしまう。

 「時間」と「当時」が違う--そう文句を書きながら、その「違い」があるからこそ「当時」へ返っていくことができると気づく。
 詩は不思議だ。
 谷川の詩は、どこかに矛盾のようなもの(いま指摘した「中学生が思うはずのないこと」のようなもの)が書かれているけれど、それが「いま」の私を濾過する。余分なゴミを流し去り、気持ちの源流へと誘う。
 谷川の詩のなかで、私は新しく生まれ、新しく成長する。



谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』

2014-09-16 09:42:36 | その他(音楽、小説etc)
伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』(岩波書店、2014年07月30日発行)

 伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』はタイトル通りの本である。
 安倍の経済政策がどんなふうに間違っているかということを、数値やさまざまな分析(伊東以外の人の分析を含む)を整理して、とてもわかりやすく書いている。経済政策だけではなく、外交、さらには本人の「資質」そのものをも批判している。
 その文章のなかに、経済だけではなく、ことばの問題(人間の生き方の問題)がすばやく差し挟まれているところがあり、それが「知識(頭)」をととのえてくれると同時に、なにか、「肉体」になじむ。「そのとおり」と言いたくなる。私は伊東の文章が大好きだが、それは鋭い分析と同時に、人間の生き方を感じさせるものがあるからだ。
 たとえば、「労働政策」を批判した文章。「非正規雇用」について触れた部分。

 怒りをおぼえるのは、社会が多様化し”多様な生き方を求める”時代になったと言い、そのことが非正規に働く人がふえている原因だと言う厚生労働省の人がいることである。( 107ページ)

 ものの見方、社会のとらえ方はさまざまである。しかし、それは最初から「さまざま」ではない。どんな「言い方」をするかで「さまざま」が違ってくる。
 たとえば非正規雇用労働者がふえているのは、賃金を安く抑え経営負担を軽くするためであるという「言い方」ができる。一方、そういう経営者の狙いを隠して、逆に「会社に勤務時間をしばられて働くことよりも、時には残業をしなければならないというような仕事を嫌い、自分で労働する時間をフレキシブルに決定して自由時間を活用することを好む若者が増えているからだ」ということもできる。
 「言う」(ことばにすること)で、社会の見え方が違ってくる。
 こういうことを伊東は「厚生労働省の人」が「言っている(本文は「言う」)」と書くことで明確にしている。これはとても大事なことだ。ひとは、ことばによって、なにかを隠す。「意味」をつたえるとともに、なにかを隠す。
 それが問題だ。
 ここでは伊東は「怒りをおぼえるのは」と感情を率直に語っているが、この「怒り」が随所に見える。伊東は「怒り」ながら、「アベノミクス」が、その「美しいことば」で何を隠しているかを具体的に、つまり事実を指摘するだけではなく、同時に、「ことばの問題(どんなふうに嘘をついているか)」としても取り上げている。正しいことばの動き方とはどうあるべきか、という問題を取り上げている。
 昔のことばで言えば「道」の問題である。「どの道」を歩くか。どう歩くか。
 そこが重要である。
 先の「非正規雇用」についての文章の前には、次の文章もある。人が、何を、どう言うか(何を隠し、何を伝えるか)の具体例である。「道」の具体例である。

 ある地方の話である。経済団体の会合で、東京から招かれた経済同友会系の実業家が講演し、派遣社員を活用したことにより、不況での対応が可能になった等の話をし、別の経営者が、学校に申し込んで新卒者をとるのではなく、いったん派遣会社を通じて大学卒を雇うことの利点を述べたという。そこにいた公立大学の学長が、たまらず発言を求めた。こうしたことが、新卒者の地位を下げ、若年者の非正規雇用の比率を高めているのである。( 106ページ)

 実業家は「非正規雇用」を活用し人件費を抑えることができたと語り、別の経営者は「非正規雇用」を推進する方法を披露している。大学に求人情報を出すのではなく、派遣会社に求人情報を出す。「正規雇用」を最初から除外するのである。
 こういう「事実」(ことばの操作、情報の操作)を、大学の新卒者はどれだけ知っているだろうか。知らされているだろうか。
 情報はいつでも「公開」されると同時に「隠される(操作される)」ものなのだ。

 「ことば」とは「考え方(思想/生き方)」の問題でもある。「安倍政権が狙うもの」という章のなかでは、次のように書く。

 安倍内閣はグローバル時代に即した人材をつくるための教育振興を推し進めるという。国際化のための教育は英語の重視だけではない。何をどのように考える人間なのか、それが最も重要であり、領土教育で互いに口論し殴り合う若者をつくるのが国際化に即する教育であるはずがない。( 125ページ)

 「何をどのように考える人間なのか」。これは、そのままこの本(伊東)の姿勢でもある。安倍政策の何をどのように考えるか。それは「知識」ではない。ことばを動かし、確かめることである。「道」であり、「実践」である。
 --と、ここまで書いてきて、私は、なぜ伊東の文章が好きなのか、わかった。「どのように考えるか」ということがいつも明確に書かれているからだ。何をどのように実践するか、が明確に書かれている。実践は常に「肉体」によって具体化される。「肉体」が動くのが「実践」である。
 そして、この「どのように」に眼を向けるとき、伊東の「思想(肉体)」を特徴づけることばがあることにも気づく。「道」のつくり方を特徴づけることばがあることに気がつく。「思想」の根本を明確にすることばがあることに気づく。
 「領土問題」に触れた部分。

橋本内閣の池田外務大臣が(尖閣列島を)日本の領土であると言っても矛盾はないかもしれないと外務省は主張するだろう。しかし、中国側の主張を並べ二四年前の決着に言及しないのは、公平ではない。( 133ページ)

 「公平」。これが伊東の「思想」の中心にあると思う。経済に関しては、人が働き、金を稼ぎ、日々を暮らす。そのとき、富はどのように分配されるのが「公平」なのか。その「公平」のためには何をすればいいのか。何を「どのように」考えていけば、「公平」が実現されるのか。安倍のやろうとしていることは「公平」からどれだけ遠いことなのか--そういう指摘を伊東はしている。また外交については、他者の主張をどれだけ聞き入れ、自分の考えと共存させるか、共存のためにはどんなふうに考えをととのえるべきなのか--そういう問題を、歴史を踏まえながら(先人の「道」のつけ方を辿りながら語っている。
 伊東の文章には、私はいつも目を開かれるが、それは「公平」をめざす姿勢にゆるぎがないからだ。

 (私のきょうの「日記」は本の「内容(概要)」の紹介にはなっていないが、伊東のしている分析の紹介はすでに多くの人がしていると思うので、あえて書かなかった。伊東の何を私が信頼しているか、ということを書いてみた。)




アベノミクス批判――四本の矢を折る
クリエーター情報なし
岩波書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

2014-09-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

 「永遠」は古代インドの叙事詩「バガヴァッド・ギーター」に題材をとっていると中井久夫は注釈に書いている。

インドのアルジュナは、人々の側に立つ優しい王、
殺戮を憎む王だった。一度も戦争を仕掛けなかった。
そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。
(神の栄光は目減りし、神殿には人が寄らなくなった。)

 一行目と二行目は「事実」の描写になるのだろうか。そのあとの展開がおもしろい。「そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。」はやはり「事実」の描写なのかもしれないが、「主観」を「ご機嫌斜め」という具合に「俗語」で語るのが愉快だ。「神」がとても人間臭くなる。「そこで」というつなぎことばもおもしろい。理由を受けるのだから、「それで」(戦争を仕掛けなかったので)ということばが自然なのだろうが、「それで」では「心情(心理)」になりすぎるかもしれない。「心理」をあたかも「事実」のように、外から描写しているのが、また「神話的」な感じで、さっぱりしている。
 四行目の「目減り」ということばもリアルな感じがする。経済活動、取り引きという感じだ。神と人間は「信仰」というより「取り引き」なのか。生々しく、俗っぽく、人間っぽい。神が神ではなく人間と対等になっている。
 だから、つづく五行目。

怒りにあふれて神はアルジュナの宮殿に足を踏み入れた。

 この「怒り」ということばがいきいきしてくる。まるで人間の反応である。そして、人間そっくりに、宮殿に「足を踏み入れた」。天から下りてくるというよりも、地上を歩いて、門を開ける、ドアを開ける感じがする。

王はおののいて神に言上。「大神さま、
お許し下さい。私には一人のいのちも奪えませぬ」
神は叱りつけた。「おまえはわしよりも正しいと思いおるのか。言葉に迷わされるな。
いのちなど奪わぬ。生まれた者がそもそもなく、
死ぬ者も全然おらぬ。わかったか」。

 「言葉に迷わされるな」とは「間違うな」という意味だろう。「迷って、違った言葉をいうな」。なぜなら、ことば(世界のあり方)は神がつくるものであって、人間が判断することではないということなのだろう。
 人間は何もしない。するのは神である。人間にすることがあるとすれば、神を理解すること。最後の「わかったか」は、その念押しだ。
 神の「主観」がいきいきと描写されている。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子『はじめに闇があった』(2)

2014-09-15 19:01:24 | 詩集
長嶋南子『はじめに闇があった』(2)(思潮社、2014年08月06日発行)

 「創世記」。前回はちょっと端折って書き急いだかもしれない。この詩は「聖書」の「創世記」を利用している。パロディである。--と言っていいのかどうか、実は、聖書を読んだことがない私にはわからない。私は聖書を読んだことはないが、それでも神が一週間で世界をつくったということを伝え聞いている。世の中の大事なことはたいてい伝え聞くことができる。で、私は世間から伝わってくることをだいたい信じている。本や何かに書いてあることよりも。なぜかというと、世間からつたわることばというのは、世間の「肉体」を一度潜り抜けている。世間の「肉体」が、そのことばを「これでいい」(こんなものでいい)と肯定しているからであり、そこには「肉体」が存在する。「不定形」だけれど(あいまいだけれど、いいかげんだけれど)、生きている「肉体」がある。
 その伝え聞いていることと、長嶋南子の書いている「創世記」は重なることがある。第一日からはじまり、第七日でおわる。その第七日が「休日」である、というのも重なる。一連目に書いてある、第一日に神が「光あれ」と言ったことも、聖書は読んだことがないけれど、知っている。それから世界が神が何かを欲して(何かを願った)、その欲した通りになった、ということもなんとなく知っている(つもりでいる)。だから、この作品を「創世記」のパロディであると思って私は読んでしまう。
 前回、部分部分の引用だったので、今回は全行を引用してみる。

初めに部屋には鍵がつけられた
部屋のなかには大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転され
こうして夜があり朝があり 第一日

ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日

この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日

ついで水の生きものが群がるように
メダカ どじょう 金魚
生めよふえよ 水に満ちよ
こうして夜があり朝があり 第四日

ついで野の獣をと思う
その通りになった
白猫とミニチュアダックスフントがきた
こうして夜があり朝があり 第五日

部屋には犬と猫 文鳥 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日

部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日

鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわして満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからたからは
あばら骨は取り出せなかった
したがった女はつくられなかった

 聖書の創世記の第一日、第二日、第三日……と長嶋のそれぞれがぴったり重なるかどうか、私は知らないが、知らなくてもぜんぜん気にならない。
 そういうことよりも、私がたいたい知っていると思っていることと、長嶋の書いていることが重なるということが大事だ。知っていること、わかっていることに似ていることが書かれていると、それを信じてしまう。そして、そのことばが一定のリズムを持っていると、その「信頼」がさらに高まってしまう。繰り返されると、最初は「嘘」だったことも「ほんとう」になる。「ほんとう」と思い込んでしまう。「洗脳」というのは、こういうことかもしれないなあ。繰り返し繰り返し、同じことを言う。
 「こうして夜があり 朝があり 第○日」ということばから、「こうして夜があり 朝があり」ということばを省略してしまっても、「第○日」に何かがあったということが変わるわけではない。それなのに、繰り返すのはなぜだろう。
 同じことばがあることによって、「違い」が浮き彫りになる。「第一日」と「第二日」のちがいがはっきりする。そして、「違い」がはっきりするのに、同じことばでくくると、そこに「共通性」もあらわれる。「違い」をどんどん増やしながら、それを「共通」のなかに入れてしまう(共通)にしてしまうという変なことが起きる。
 これはおもしろいなあ。
 こんなことを書くとキリスト教徒から叱られるかもしれないが、そうか、ペテンというのはこんな具合に「同じことば」をどこかで繰り返しながら「違い」を「違い」ではなく、「必然」にしてしまうんだな。「偶然」を「必然」にかえ、「必然」を「自然」にしてしまうんだなあ、と思う。
 「光」のかわりに「電灯」、何のかわりかわからないが、飛ぶものとして「文鳥」、それから「アロエ」「メダカ」「金魚」「白猫」「ミニチュアダックスフント」と、なんというか「俗物」(だれでも知っているもの)のたぐいが集められるのもいいなあ。神がつくったもの(選んだもの)はもっと「高尚」なものかもしれないけれど、「俗物」という感じが、庶民的(?)で、うん、これなら信じてもいいなあと思う。それに、全部、目に見えるようにわかる。全部知っているものばかり、さわったことのあるものばかりというのがいいなあ。ここに書かれていることが嘘だって、だまされたって、大した被害(?)にはならない。この安心感も、この詩の魅力だ。

 最後の「あばら骨」はアダムとイブのことを書いているのだけれど、これは前回書いたので省略。こういう笑い(息子をバカにしている感じ)も、愛情があっていいなあ。受け入れている感じがいいなあ。

 --というのは、長い長い前置きだったかなあ。
 きょう書きたかったのは別なことだったのだが、書いているうちに、どんどん脇へ脇へとことばが動いていってしまった。
 最初に書こうとしていたことは、もう半分以上忘れてしまっているが、なんとか思い出すと……。
 この聖書の「創世記」と長嶋の息子の「創世記」が通い合うというところが、実は、とんでもなく「哲学的」であると思う。
 「現代詩手帖」09月号で野村喜和夫が四元康祐の谷川俊太郎論を評価しておもしろいことを書いていた。(以前に「日記」に書いた。)井筒俊彦の言語論を援用しながら、谷川の詩を「はじめて世界的視野へと解き放つ」と書いていた。
 それを読みながら私が思ったのは、すぐれた哲学ならどんなことばにも援用できるということである。井筒の言語哲学は、なんといっても哲学だから「普遍」を含んでいる。「普遍」というのは、いろんな個別の世界を支えているのだから、どんな個別も「普遍」を援用できる。でも、それは、その個別を世界的視野に解放するというようなものではないのじゃないだろうか。
 たとえば、と私は、飛躍する。むちゃくちゃな「暴論」を書く。
 たとえばキリスト教の「創世記」。それはすぐれた「文学」(叙述の形式)である。だから、長嶋南子はその形式を借りながら、彼女自身の「日常」(もう、いやになっちゃうよ)を描写する。
 その長嶋の「創世記」を、だれかがキリスト教の「創世記」を援用しながら分析したら、それは長嶋の詩をキリスト教的な真実へと解放した(昇華した?)ということになるのだろうか。長嶋のことばはキリスト教の「創世記」の水準に達したといえるのだろうか。そんなことを言って、いったい何になるのだろう、と私は思う。
 論理的に成り立つかどうかわからないのだが、(私は井筒俊彦の言語哲学にくわしいわけでもないのでいいかげんに書くのだが)、長嶋の引きこもりの息子を書いたこの詩のことばもまた、分節化が不可能な絶対無分節(母親の息子への愛情は、どんなに憎んでも愛しているという「分節」できないものを含んでいる)を日常のことばで分節化する、日常のことばへと言語化するすばらしい作品であると言えるではないだろうか。
 だいたいが、詩というものは「分節化が不可能な絶対無分節」を「分節」し、「言語化」しているから詩なのではないのか。「あ、これこそ私が言いたかったこと(これは私が感じていたこと、言いたかったけれど言えなかったこと)」と思うのが詩ではないのか。
 だから、とここでまた私は飛躍する。
 この長嶋の詩を、私はキリスト教の「創世記」を想像しながら読んだけれど、だからといって長嶋のことばをキリスト教の「哲学(宗教)」そのものと結びつけて、評価したり、批判したりはしない。この詩に対して、キリスト教徒が「創世記を侮辱している、許せない」と批判したとしたら、ただ笑うだけだろう。また逆に日常をキリスト教の「創世記」にまで高めたという人があらわれても、ただ笑うだけだろう。
 長嶋は、ただ知っている「創世記」のをあれこれを借りて、自分のことばを動かしてみただけ。動かすのに都合がよかったから借りてみただけ。もし長嶋に「哲学」があるとすれば、あるものは何でも利用すればそれでいい、という「かしこさ/ずるさ/智恵」である。おばさんの「実践哲学」である。「実践」というのは「真剣/手抜き/遊び」が「分節不能」の状態で入り乱れた世界である。

 あ、きょうも何だか書きたいこととは違うことを書いてしまったなあ。
 もっと楽しいことを書きたかったはずなんだけれどなあ。
 「高尚」とか「理念」とかいうものから遠く、だれもが知っていることだけを土台にしてことばを動かしていくのは、いつでも「対話」へ向けてことばが開かれているようで、楽しい。そして、そんなふうに他者に対して開かれていることばの方が、「高尚」な「理念」のことばよりも、私には「哲学的」に感じられる。

はじめに闇があった
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)

2014-09-15 08:35:45 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)2014年09月15日(月曜日)

 「長所」はユリアノスの秘書だったヒメリオスのことばを踏まえてアテネ人の長所を書いている。二連構成の詩だが、詩の行頭が二行目だけ飛び出るような形。引用は、行頭をそろえた。

どの土地にもその特産がある。
馬と騎手はテッサリアにかなわず、
いくさの時はスパルタ人がすぐれる。
ペルシャはその

立派なご馳走が有名。
頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。
だがアテネのすぐれた標徴は
その言語と人である。

 カヴァフィスは史実を題材にした詩をたくさん書いている。この詩も、「テッセリア人」と「アテネ」については、ヒメリオスの「論理」(意味)とまったくかわらない。意味が同じなのに、なぜ、カヴァフィスは、そういうことを書くのだろう。
 はっきりとはわからないが、同じ「論理/意味」を書いているということから、ふたつのことが推測できる。
 ひとつは、その「論理/意味」に同意している。だから、そのまま書く。別につけくわえることはない。
 もうひとつは「論理/意味」はどうでもいいと思っている。反対意見があるわけではないが、その「論理」を絶対的に正しいとも信じていない。同じことをことばのリズム、音の響きをかえていうとどうなるのか、それを確かめたい。
 カヴァフィスは、たぶん後者だ。
 別の言い方、別の音で、「論理」はどんな具合に「肉体的」(主観的)になるか。「意味」ではなく、そのことばを語っている人そのものになるか。ことばは「意味」ではなく、その「人」なのである。「人」を感じさせないことばはことばではない。
 アテネのすぐれたものは「言語と人」と一セットで語られるのは、そういうことを意味していると思う。ソクラテスを想像するといいかもしれない。ソクラテスの「ことば」はソクラテスといっしょに動く。「哲学」は「意味」だけで動いているように見えるかもしれないが、「意味」により「人間」そのものが動いている。「ことば」を通して「意味」以上に「人間」が見えてしまう。
 カヴァフィスは「人間」が見える詩を書きたいとここでは静かに語っているのかもしれない。中井久夫は詩人の意図を口語、「頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。」の「……となると」「……じゃ」という口調で伝えている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川透『現代詩論集成1』(8)

2014-09-14 12:09:37 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(8)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 七 終末観の行方 中桐雅夫覚書

 中桐雅夫の作品を引用しながら、北川は書いている。「霊の年」の場合は桜木富雄のエッセイも引用し、桜木と北川の評価の違いも書いている。桜木は、「霊の年」を「悲壮美に連関して当時は読まれもした」と書いているのを踏まえて、

わたしの現在の眼には、この作品は<悲壮美>として移らない。戦死の意味を、石に刻まれた眼に比喩する知的で硬質な表出意識は、情緒的あるいは感傷的な感情を抑制しており、その意味では、戦死者をうたうという、もっとも戦争詩・愛国詩になりやすいところで、作者はモダニズムにとどまっている。言いかえれば、戦争のイデオロギイよりも、彼自身の固有なことばの感覚を優位において書いている。( 165ページ)

 ここで私は、「あっ」と叫んで、つまずいた。「戦争のイデオロギイ」というとき、北川はきっと「社会的に制約を受けた」という意味を含めている。つまり「社会的に制約を受けた戦争に対する考え方、意識」という意味で書いているのだと気付いた。それに対応させているのが「彼自身の固有なことばな感覚」なのだから。「社会的」に対して「個人的」という意味が北川の考えていることなのだろう。
 私は「社会的に制約を受けたイデオロギイ」とは思わず、「中桐自身の戦争イデオロギイ(戦争に対する考え方)」と思って読んで、うーん、意味が通じないと悩んだのだが、そうではなく「社会的」に対して「個人的」か。「イデオロギイ」に対して「固有な感覚(知的で硬質な表出意識)」か。
 「戦争体験」というのも、北川は「社会的」体験という意味で書いていたのか。私は「個人的」体験だとばかり思っていた。(これまで書いてきたことは、だから「誤読」なのだが、書き直してもしようがないので、そのままにしておく。)
 北川のことばは「社会」と「個人」を往復しながら動いているのか。
 ぼんやりと、わかったような気持ちになったが、実は、私にはよくはわかっていないのだろう。いろいろ気になることばにぶつかりつづけるから……。

 中桐について書いたことばのなかで、気になるのが「内在化」ということばである。「個人的経験」、「経験に高める理念化」というようなことなのかな?

Mの記憶は中桐の戦後の生を不安にする、あるいは解体する戦争の傷であるけれど、M の意思は内在化されないのだ。( 165ページ)

M(戦死者)の内在化のことを、もっと一般的に戦争体験の思想化の契機と言ってもよいが、それがなぜ中桐に稀薄なのか、長い間、わたしにはよくわからなかった。( 166ページ)

 これはMの意思(意識/思想)は中桐によって引き継がれ、より明確な理念(ことば)として結晶化されていないということなのだろうか。
 だが、このとき北川は「戦争体験」をどう定義しているのか。よくわからない。やはり「社会的な体験」と考えているのだろうか。個人の戦争の体験(友人を戦争で失った)ということを、「社会的な戦争の意味」と向き合わせながら、「社会的な戦争」に対する批判(理念、主義)にまで高めていないと言っているのか。つまり、中桐の書いていることは、「戦争に対する社会的批判」「戦争を引き起こした社会に対する批判」にまでなっていない、「思想」としては不十分ということなのか。
 でも、「思想」は「社会的」でなければいけないのだろうか--たぶん、この「思想」に対する考え方の違いが、私と北川の間には「障害」のように存在していて私は北川のことばを追いきれないのかもしれない。私には北川のつかう「思想」ということばはは、「社会的」という修飾語をあまりにも必要としすぎているように感じられる。それも理想の社会、理念が到達する社会としての「社会的」。北川の想定している理念から逸脱した社会は、そこからは排除されている。
 北川は、中桐の「思想化」の不徹底を、中桐の個人的体験、『海軍の父 山本五十六元帥』という国策評伝を書いたこと、それを自己批判しなかったことに見ている。自分の過去を批判しないので「戦後そのものを思想化する契機は失われた」( 168ページ)と言っている。
 それはそうなのかもしれないけれど。
 それは北川の求めている「思想」(戦争を批判し、戦後を理念的にリードすることば)と中桐の書こうとしている「思想」が違うということではないのか、と私は思ってしまう。過去の過失は隠したままにしておきたい、というのも「思想」であると思う。北川はそういう「思想」に与したくないということかもしれないけれど、だからといってそれが「思想」ではないとは言えないし、「思想化」されたことばではないとも言えないと私は思う。
 鮎川信夫とつきあうときと、中桐とつきあうときと、同じつきあい方をする必要はないだろうとも思う。人と人との関係は「個人的」なもの。「社会的」な基準(?)で整理しなくても……と私は思ってしまう。
 あ、だんだん脱線してきたなあ。

 この詩人が生き残った戦後という現実、そこでの経験が媒介された《全的な経験》からきているのではなく、終末的な現代という知識--それも知的な経験にはちがいないが--という場からきているように思う。( 170ページ)

 この《全的な経験》の「全的」というのも「社会的」ということなのかもしれない。個人的経験に対して「社会的経験」。
 この「社会的(全的)」経験に対して、「個人的」経験(しかも「知的な経験」)は「終末的」と呼ばれているように感じる。「社会的(全的)」経験は、きっと「未来的(建設的)」ということかもしれない。
 こういう対比に、私は、どうもひるんでしまう。
 建設的、未来的でなくても「思想」はあるのじゃないかと思う。それが好きな人もいる。暗くたっていい、とも思う。
 あ、また脱線しそう。

 よくわからないまま書くのだが、北川は「中桐雅夫の沢山の詩作品のうち、わたしがいちばん好きなのは「海」である。」と書く。( 160ページ)
 そうであるなら、その「好き」にとどまって中桐の「思想」について書いてくれればいいのになあ、と思う。北川はとどまって書いているつもりかもしれないけれど、私には好きといいつづけているようには感じられない。「終末論」と結びつけて批判しようとしているように思える。

 『会社の人事』については、北川はこう書いている。

世相の移り変わり、風俗、社会的な事件、底の浅い文化……などに対する直接的な反応、時にあらわに示された怒りの相貌に読者は驚いたが、それは思想的な根底をもった批評精神に発しているというより、彼の観念性を脱色した理想主義的な気質に発している、と考えた方が自然だ。( 178ページ)

 北川にとっては「思想」と「批評精神」は通い合うもののようである。「観念性」とも通い合うかもしれない。けれど「思想」は「気質」とは相いれない。うーむ。「観念性を脱色した理想主義的な気質」と北川は書いているが、「観念性を脱色する」というよりも「観念」が生まれてきていない状態の「気質」なのかも、と私は思う。そして、そういう「観念性」にまで達していない「気質」の方が、一人の人間(個人)にとっては「思想」なのではないかな、とも思う。変更できない本能、思考の本質ではないかな、と思う。「ことば」になっていない(共通言語かされていない)けれど、「肉体」でつよく感じているもの、そうするしかないもの、という気がする。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
クリエーター情報なし
思潮社
谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)

2014-09-14 09:41:39 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)2014年09月14日(日曜日)

 「雨」は長い作品である。途中から女がでてきて、誘われるように子ども、老人も登場するのだが、人間が出てくる前の部分が美しい。

小さな中庭。
やせた木が二本。
そこに水は
田園風景のパロディをつくる--。
水はふるえる枝にしたたり、
枝は地肌を露わにし、
水は根にしみとおる、
樹液の涸れかけた根に。
水は葉にながれ
雫が糸とつらなる。

 「田園風景のパロディをつくる--。」は中庭を小さな田園風景に変えるということなのかもしれない。「パロディ」のことばが、「田園」そのものを否定しているようで、何かちぐはぐな印象を与える。(ちぐはぐなものを私は感じてしまう。)
 けれど、この「パロディ」という観念性が強いことばを取り除くと、雨と自然の交流は美しい。リッツオスの刈り込まれた描写を思い出すし、俳句も思い出してしまう。
 「いま/ここ」にあるものが、あるがままに共存して生きている。
 この美しい書き出しをさらに際立たせているのが「やせた木が二本」の「二」という数字だろうと思う。「二本」あることで、そこに「対話」がはじまる。
 水は雨になって、上から下へと動いていく。一方、実際に下までたどりついてしまうと、雨はさらに地中にまではいりこむ。そしてこの水は地中までしみ込んでしまうと、こんどは根に吸い上げられ、木の導管をとおって枝のすみずみにまでひろがる。そういう対話が自然に動いている。動きが対話になっている。
 この「二」が最後で「一」に変化していくところもおもしろい。「対話」が自分一人の思考に変わっていく感じ、思考を深めていく、感覚を研ぎ澄ましていくという感じに似ている。

窓の表面のあちこちに
雫が流れ
ほそい流れがひろがって
上るかに見えてたれ下がり行き、
一つ一つがしみとなり、
一つ一つが曇りをつくる。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長嶋南子『はじめに闇があった』

2014-09-13 12:09:10 | 詩集
長嶋南子『はじめに闇があった』(思潮社、2014年08月06日発行)

 長嶋南子『はじめに闇があった』は傑作である。私はいつか『おばさんパレード』というタイトルで女性の書いた詩の感想をまとめたいと思っている。その「おばさん」の一人が長嶋南子だ。
 「おばさん」と呼ばれた女性は怒るかもしれないが、私は人を怒らせることが大好きなので(怒ると、そのひとの「ほんとう」がむき出しになってきらきら輝くから美しい)、平気で怒らせる。怒らせないとおもしろくない。
 「おばさん」は、強い。ともかく、強い。男の詩人は「おばさん」には勝てない。だいたいが「おじさん詩人」というジャンルがない。谷川俊太郎でさえ「おじさん詩」を書いていない。「おじさん詩(おやじ詩?)」というジャンルがないという、それだけでも、女性に負けている。詩に勝ち負けはない--かもしれないという人がいるかもしれないけれど、あるな、きっと。
 「おばさん」のどこが強いかというと、開き直りだ。
 男はばかだから、どうしても「論理」になろうとする。開き直れずに、つじつまをつけようとする。「論理的」なら他人に自分の意見(ことば)が通じると思っている。そうして、どんどん「論理」の矛盾に落ち込んで行く。
 でも「おばさん」はそういうことはしない。ことばをほうりだしてしまう。つじつまが合わなくても言い。存在するものは存在する。そこに存在するという「力」だけで世の中をわたっていく。存在するものを取りのけることはなかなかできない。そういうことを知っているのだと思う。だいだい世の中は矛盾でできていると悟っているので「論理」は適当に利用するけれど、それで身を守ろうとはしない。
 こういう抽象的なことは言いつづけても仕方がない。具体的に読んでいく。「創世記」。キリスト教の「創世記」をもじっている。(かどうかは、私は知らない。キリスト教徒ではないので、聖書も読んだことはない。でも、「世間」から聞こえてくる聖書のことばの感じに似ているので、これは聖書のパロディでもあるんだな、と思って読む。)

初めに部屋には鍵がつけられた
部屋のなかには大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転され
こうして夜があり朝があり 第一日

 長嶋の詩を何篇か読んだ人なら、これは「息子」のことを書いているんだな、と思う。読んでいない人も、この詩の主人公部屋に鍵をかけ、昼夜逆転の暮らしをしているんだな、いわゆるひきこもりという人間だな、と見当がつく。「世間」にあふれていることばが、そういう人間を想像させる。
 「光あれといって電灯をつけた」というのはキリスト教の「神」と関係があるか、ないか。まあ、どうでもいいが、そう言って電灯をつけたときから、そのひとは「神」になったのだ。絶対者になったのだ。もう、長嶋のいうことは聞かない。「神」なのだから。
 あ、この「神」の「意味」はキリスト教でいう「神」の意味とはちがうね。
 --という具合に、「非論理的」なのだが。
 つまり、この詩の中で「創世記」とか「光あれ」ということばを頼りに、何かキリスト教徒結びつけて「論理」を正しく動かそうとすると、奇妙にズレていくのだが。そして、男の詩人は、こういうズレをそのまま動かしていくというのがなかなかできないのだが。(唐十郎なら、できるかも。あ、唐は「おじさん」詩人、「おじさん」劇作家かもしれないなあ。)「おばさん」は平気。平気で動かしていく。「論理的」でなくてもいい。言いたいのは「これ」。言ったことがキリスト教の「論理」とあっているかどうかは関係ない。つごうの言い部分だけを、これでいいんじゃない? とほっぽりだして見せる。
 第一日は「光あれ」と言ったんだから、それだけで充分。
 あとは第二日、第三日と一週間つづけていけば「創世記」になる。一日が七回つづけば一週間になるという「論理」だけ、かっぱらってきて利用する。それで充分。

ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日

この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日

 だんだん「世界」が充実してくる。部屋の中はごちゃごちゃしてくる。すべてが「思った通り」になる。「その通りになった」。「神」の思う通りに。
 でも、この「世界」のでき方が(誕生の仕方が)聖書どおりであるか(神の思う通りであるか)、わからない。そんなことは、どうでもいいのだ。「おばさん」は、どんな「世界」だって、だれかの「思い」を反映して「その通り」になっていくということを知っている。それは自分の思いどおりとはかぎらない。あたりまえである。だれも「おばさん」の言うことなんか聞きはしない。だから「おばさん」だって適当に世界と向き合う。

部屋には犬と猫 文鳥 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日

部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日

 できあがった「世界」に向き合う--つまり、受け入れる。
 あ、そうなんだ。「おばさん」はなんだかんだといって「受け入れる」。拒まない。「論理」というのは人を説得するときにつかわれるが、排除するときにもつかわれる。他人を動かし、支配するのに都合がいいように、適当にねじまげてつかわれるのが「論理」というものであって、それは「排除」のときもっとも有効である。たとえば、ひきこもりは非生産的な行動であり、社会の役に立たないから、社会の落伍者である--という具合にして人間をあっというまに「排除」する。
 「おばさん」は排除しない。いやなものも、嫌いなものも、いやだ、嫌いだと言ってはみても、それが存在していることは「許す」。好き嫌いの「感情(主観)」は主張するが、それを「客観」を装った「論理」にはしない。そして、あらゆる存在を許す。なぜなら、それは生まれてしまったからだ。生まれたからには、それはもう「おばさん」とは違う存在なのだから、別存在を自分の「論理」で制御することなんかできない。「肉体」からこどもを産んだ「実感」だな。
 なるようになる。させたいようにさせておく。
 でも、それだけでは癪だから、そういう奴は笑ってやる。

鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわして満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからだからは
あばら骨は取り出せなかった
したがって女はつくられなかった

 太って醜くなって、当然女にはもてない。女はいない。バカな、息子。--この笑いは、豪快だけれど、かなしい。
 ここが、「おばさん」の微妙なところ。
 「びみょうな」とワープロで打とうとしたら、指がすべって「美味な」となって、あわてて変換しなおしたが、そのまま「美味な」ところとしてもよかった。
 ここが「おばさん」のおいしいところ。
 笑っても笑ってもかなしい。一度関係ができたものを捨てきれない。受け入れてしまう。「感情」がかかわってしまう。「肉体」がかかわってしまう。ほうりだしたいのに、そして実際にほうりだしたのに、見捨てない。ごちゃごちゃにしてしまう。「論理」の「整合性」をほうりだして、そこに「ある」ものを優先してしまう。

 さてさて。

 こんな、ごちゃごちゃ。こんな、めんどうくさいものを、どうやって世話していけばいいのだろう。どうやっていっしょに生きていけばいいのだろう。
 詩に則して言えば、どうやって「ことば」にしていけばいのだろう。
 生まれることができずに、うごめいている「ごちゃごちゃ」(混沌)をどうやって、ことばは「姿」にしていけばいいのか。
 ここから私は「大飛躍」をして、「感覚の意見」として「大嘘」を書いておく。
 「意味としての論理」ではなく、「こと」のリズム(音楽)で、世界を動かして見せる。この詩で言えば、「第一日」「第二日」「第三日」というような「論理」を偽装したリズムを利用する。繰り返せば、そこに「一週間」という「論理」ができあがるのだが、それはほんとうは「一週間」なんかではない。ただの「リズム」だ。
 さらに「その通りになった」「こうして夜があり朝があり」ということばを繰り返すことでリズムをつくる。リズムは自然に「時間」をつくる。「意味」とは無関係に、ひとつの存在形式ができあがる。「ある」ということが誕生する。
 「おばさん」は、こういうとき、ややこしい「概念」をつかわない。どこかから、変なことばを借りて来ない。知っていることばだけをつかって、「リズム」と「時間」をつくる。それにあう「ことば(音の響き)」を選びとる。「肉体」が覚えているものだけを、思い出して、つかう。そうすると、それが自然に「和音」になる。
 と、きょうのところは書いておく。
はじめに闇があった
クリエーター情報なし
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)

2014-09-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)2014年09月13日(土曜日)

 「恐怖」は1894年に書かれている。カヴァフィスが三十一歳のとき。詩の形は行頭がそろっていない。引用では揃えて引用する。

主キリストさま。夜中の
私のこころを 魂を 護ってくださいまし。
名も知らぬ怪物と物の怪が
まわりを徘徊しはじめ、
その血の通わない足が私の部屋に忍び入って
私の寝台をまわり、私を覗き込むのです。
私を凝視するのです。私に見覚えがあるかのようです。
私を震え上がらせるように声を出さずに大笑いするのです。

 この一連目では最後の行がおもしろい。「声を出さずに大笑いする」顔だけを「見ている」。その前の「覗き込む」「凝視」「見覚え」という「視覚」の連続。視覚が過敏になっている。視覚が聴覚を封じたのか。
 この視覚は、後半では、逆に動いている。

濃い暗闇の中には私をじっと見つめている眼が
いくつもございます。わかります。……
神さま、あいつらの眼から私の身を隠してくださいまし。

 目は目を呼び寄せる。--これを読むと、敏感な視力のせいで、聴覚がまひしていることがわかる。
 もし、声が聞こえたら、怖くはないか。そんなことはないだろうが、聞こえた方が自然なものが聞こえないと、その不自然さが恐怖をあおる。不気味な声で大笑いして、「私」を震え上がらせるよりも、聞こえない方が怖い。ひとは想像してしまうからである。聞こえないのに、その「声」を聞いてしまうのだ。
 「声」は後半で「耳」という形であらわれる。

あいつらが叫んでも話しかけても、そのいまわしい言葉が
耳にはいってきませんようになさってくださいませ。
魂の中まではいってきませんように。

 眼に(視覚に)過剰反応している、聴覚も突き動かされているのだが、「耳」が登場しない方が私は怖いと思うが、カヴァフィスはどうしても「声」と「耳」を書きたかったのかもしれない。聴覚、口語嗜好のカヴァフィスが、少し顔を出しているのかもしれない、この最後の部分は。「声」は魂のなかまで入って来る強いものだ、「声」が魂を動かすのだというカヴァフィスの嗜好が。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする