粒来哲蔵『侮蔑の時代』(6)(花神社、2014年08月10日発行)
「哺育」は「天道虫」のことを書いているのか。そういう虫がいると聞いたことがあるような、ないような。背中にくぼみがあって、そこに別の虫が寄生している。それを背負ったまま大きくなった天道虫の「おれ」。そこに寄生している虫もだんだん大きくなって、やがて「おれ」の背の底部を割ってかじり始めた。
寄生と、それを育てるときの気持ちがていねいに書かれてきて、最後に、食われてしまうようすになるのだが、この部分がおかしくて、かなしい。
この部分が、特に印象に残る。「優しさ律儀さ」を自分自身で笑う。それがなかったら「おれ」は寄生されたままではななかっただろう。虫を振り落とし、自由に生きたかもしれない。まさか自分が「餌」になってしまうとは知らずに生きてきた--その「優しさと律儀さ」。
これは現代の「格差社会」の寓話になるかもしれない。寓話として読むことができるかもしれない。やがて食いつぶされるだけなのに、律儀にはたらきつづけるしかない「非正規雇用」という名の酷い労働形態。いつでも廃棄されてしまう存在。自分が生きるのではなく、他者が生きる。他者が生きるために、その犠牲になる存在。
ここにも「怨念」のようなものを感じる。「おれは笑った」に「怨念」を感じる。「怒った」よりも激しい「怨念」を感じる。
なぜだろう。
「絶対的な絶望」がある。
「絶対的な絶望」というものを私はしたことがない。「 死をかけた絶望」を私はしたことがない。生きているのだから。
粕谷も生きている。しかし、生きながら、その「絶対的絶望」をことばとして出現させてしまう。
今回の詩集には、何か、粕谷が書いている以上のものがある。それは「書いている」ではなく「書かされている」という感じがする。私が「書かされている」のではないのだが、不思議な力が粕谷に憑依している。
こんな書き方は(感想)は私の好みではないのだが、そう思う。
いままで書いて来なかったもの、書いてきたけれど、そのことばからすりぬけてしまったものが(すりぬけされてしまったものが)、粕谷に逆襲してきて、乗り移っている感じがする。
そして、その憑依してきたものに乗っ取られるだけではなく、粕谷はそれを鍛え上げてきた「文体」をつかって闘っている。負けまいとしている。その厳しい「闘争」も感じる。「闘争」の奥にたぎるエネルギーの美しさを感じる。「美しさ」と思わず書いてしまうのは「文体」の推進力がとぎすまされているというか、むだがないからだろう。
とても不思議な詩集だ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「哺育」は「天道虫」のことを書いているのか。そういう虫がいると聞いたことがあるような、ないような。背中にくぼみがあって、そこに別の虫が寄生している。それを背負ったまま大きくなった天道虫の「おれ」。そこに寄生している虫もだんだん大きくなって、やがて「おれ」の背の底部を割ってかじり始めた。
突然おれの背の凹みから這い出た名も知らぬ漆黒の虫の巨大な頭
部が、カチカチと打ち鳴らす●み歯がおれの目一杯にひろがった。
何のことはない。おれは自らの死をもたらすものをいとおしみ、情
を注いてはぐくんで来たのだった。奴の両顎がおれの胴を絞めにか
かった。おれの背にある日凹みをうがち、それへ死を産みつけた奴
の顔が、おぼろげながら判って来た。おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。と、--奴の歯牙がおれの両眼を突き刺した。
(谷内注=「●み歯」の●は「金」偏に「交」のつくり)
寄生と、それを育てるときの気持ちがていねいに書かれてきて、最後に、食われてしまうようすになるのだが、この部分がおかしくて、かなしい。
おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。
この部分が、特に印象に残る。「優しさ律儀さ」を自分自身で笑う。それがなかったら「おれ」は寄生されたままではななかっただろう。虫を振り落とし、自由に生きたかもしれない。まさか自分が「餌」になってしまうとは知らずに生きてきた--その「優しさと律儀さ」。
これは現代の「格差社会」の寓話になるかもしれない。寓話として読むことができるかもしれない。やがて食いつぶされるだけなのに、律儀にはたらきつづけるしかない「非正規雇用」という名の酷い労働形態。いつでも廃棄されてしまう存在。自分が生きるのではなく、他者が生きる。他者が生きるために、その犠牲になる存在。
ここにも「怨念」のようなものを感じる。「おれは笑った」に「怨念」を感じる。「怒った」よりも激しい「怨念」を感じる。
なぜだろう。
「絶対的な絶望」がある。
「絶対的な絶望」というものを私はしたことがない。「 死をかけた絶望」を私はしたことがない。生きているのだから。
粕谷も生きている。しかし、生きながら、その「絶対的絶望」をことばとして出現させてしまう。
今回の詩集には、何か、粕谷が書いている以上のものがある。それは「書いている」ではなく「書かされている」という感じがする。私が「書かされている」のではないのだが、不思議な力が粕谷に憑依している。
こんな書き方は(感想)は私の好みではないのだが、そう思う。
いままで書いて来なかったもの、書いてきたけれど、そのことばからすりぬけてしまったものが(すりぬけされてしまったものが)、粕谷に逆襲してきて、乗り移っている感じがする。
そして、その憑依してきたものに乗っ取られるだけではなく、粕谷はそれを鍛え上げてきた「文体」をつかって闘っている。負けまいとしている。その厳しい「闘争」も感じる。「闘争」の奥にたぎるエネルギーの美しさを感じる。「美しさ」と思わず書いてしまうのは「文体」の推進力がとぎすまされているというか、むだがないからだろう。
とても不思議な詩集だ。
儀式―粒来哲蔵詩集 (1975年) (天山文庫〈5〉) | |
粒来 哲蔵 | |
文学書林 落合書店 |
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。