和田まさ子「名前を知らなくてもいい」(「地上十センチ」8、2014年10月15日発行)
和田まさ子の詩は、ふたつの種類のことばでできている。ひとつは、ことばになる前の不定形のものが未整理の手近にあることばを掻き集めて動くことば。もっと整理のしようがあるのになあ、ふつうだったらもっとととのえられたことばで書くのになあ、というようなもの。部屋でひとりだけでいるときの、気を抜いただらしない(?)ことば、といえるかもしれない。もうひとつは、きちんと整理されたことば。いわゆる「詩」らしい、よそ行きのことば。きちんと服を着て化粧もしたよそ行きのことば。
「名前を知らなくてもいい」を読む。
となりの家に
赤ん坊が生まれたので
見に行く
たくさんの人が見にきていて
お祭り騒ぎになっている
赤ん坊のところまで
行くのがむずかしい
ずるずると前に動いている人々
そのなかにわたしも入り込み
ずるずるする
そうやって人をかき分けて
やっと前から三列目になった
赤ん坊は
足をバタつかせて
踊っているらしい
顔が笑っているので
みんなが来たなら
一丁
胎内ダンスでも披露して
観客を喜ばせよう
というところか
赤ん坊を見に行く。なかなか近くまでたどりつけない--現実には何人かがいて正面からなかなか対面できないくらいのことなんだけれど、そのなかなか正面から向き合えないときの「いらいら(?)」のようなものを拡大しているのが前半。
そのときの、
ずるずると前に動いている人々
そのなかにわたしも入り込み
ずるずるする
そうやって人をかき分けて
やっと前から三列目になった
このあたりが、「ふつうだったらもっとととのえられたことばで書く」という部分。友達が4人きていて、順番に対面するのだが、私の番がなかなかやってこなくて、横から見ながら待っている、というようなことなのだろうけれど。
「ずるずる」が、おもしろいなあ。
「ずるずる」を言いかえると何になるだろう。
私は詩の講座で詩を読むとき、受講生によく聞くのである。「この、ずるずる、を別のことばで言うとどうなる?」
赤ちゃんのいる部屋が畳の部屋で、人がすわりながらずるずる動いていく感じ。
さっさと動かない。動けない。時間がかかる。
なんでもいいのだけれど、そのとき自分の「肉体」が動く。意味はわからないが「肉体」が「ずるずる」を思い出して動く。
こういう「肉体」に直接響いてくることばが、和田の詩にはある。
それはそのまま「わかる」のだけれど、そのときの「わかり方」が「頭」ではなく、「肉体」で「わかる」感じ。整理されたことば(意味)というよりも、意味を考えずに「肉体」がそのことばの「動き」をそのままなぞる感じ。
「肉体」を思い出す、思い出させることばだ。
「やっと前から三列目になった」というのも、いいなあ。こういうことは、実際には赤ん坊を見にいったときには起きない。けれど、経験したことがあるでしょ? 美術館か、何か。目当ての絵に向かって進むのだけれどなかなか進まない。あと三列。そうすれば一番前にたどりつける。そのときの「感じ」を「肉体」が覚えている。そのときの「感じ」に「意味」はない。ただ「感じ」がある。「肉体」がある。
もっと言いようがあるのかもしれないが、自分の「肉体」が覚えている何か、それを思い出すままにひっぱりだしてつかっている。この「なま」な感じ、ことばがととのえられる前の感じが、私にはとてもおもしろい。
「比喩」というと、ちょっとよそ行きの、きどったことばなのだけれど、これから化粧をして、服を着てという前の状態を「比喩」にしてしまう。「文学」にしてしまう。「肉体」そのものを「比喩」にしてしまう。「ずるずる(する)」は一種の「比喩」なのだ。
これは、すごいなあ。
こういう感じのことばの動かし方を、男は知らない。男はできない。男は、どうしても気取ってしまう。「肉体」見せないのが男だと思っている。「肉体」ではなく「精神」の運動を見せるのが「文学」であると思い込んでいる。
和田は、いわば「文学」になる前、ことばがととのえられて「精神」になる前の動きをていねいに追うことができるのだ。「肉体」で。
その一方で、
胎内ダンスでも披露して
観客を喜ばせよう
ということばも書く。これは「肉体」が覚えていることというよりも、「頭」でわかっていること。赤ん坊が胎内にいるとき手足をばたつかせる。動く、というのはもし和田がこどもを産んだことがあるなら「肉体」でも「覚えている」ことかもしれないが、それは私のような妊娠/出産を「肉体」で経験したことがない人間でも「知識」として知っている。その「知識」が「胎内ダンス」という「比喩」になっている。つまり、これは一般的な「比喩」である。「よそ行き」のことば。
「ずるずる(する)」とは、違うでしょ? それを読んだときの、ことばが動いている部分、ことばをつかみ取っている「私の中の部分」というものが。
和田の詩は、こういう「頭」の部分と「肉体」の部分が、とても自然に入り乱れる。とけあう。
「頭」の部分を「肉体」がきちんと支えている。
最近「体幹筋肉(インナーマッスル)」ということばをよく聞くが、和田のことばは、その「インナーマッスル」のようなものが非常に強くて、「頭」で理解する「比喩」も「肉体」に引き戻すようなところがある。
「胎内ダンス」の部分でいえば、そのまえの「一丁」ということば。何かをするとき、ちょっと自分を励ますような感じ。「一丁……するか」の「一丁」の「意味」を言えといわれたら、困ってしまうが、だれもが「肉体」でわかっている。こういうときに、「一丁」と言うなあということを覚えていて、「肉体」がそのときの「調子」を思い出し、「わかる」のである。
そういう視点から見ると「一丁」は「ずるずる(する)」に似ている。そういうことばで「胎内ダンス」というような、「意味(比喩)」を「肉体」に引き戻す。和田の基本は、あくまで「化粧前/着替え前」の、「よそ行き以前」のことばの動きにある。
(この「化粧前/着替え前」を「未生」と言いかえると、男の書いている詩についても応用が利くが、「未生」と「化粧前/着替え前」では「肉体」の見え方、動き方が違うね。「未生」は、なんといっても気取っている。「未生」なんて、日常はつかわないからね。)
詩はさらにつづいていて、後半もとてもおもしろい。
なにがうれしいのか
と思って見ていると
泣きだした
おっぱいだ
と観客からいっせいに
声があがった
かといって帰る人はいない
赤ん坊が何をするのか
もっと
もっと
見ていたいのだ
人のはじまりはおもしろい
笑っていた赤ん坊が突然泣きだした。なぜ? どこか痛い? 病気? それともうんちかおしっこをしておむつが気持ち悪い? そうじゃない。この泣き方は「おっぱいが呑みたい(腹が減った)」だ。
で、「おっぱいだ」。
そこにいる人が、みんな、わかった。「肉体」で「わかった」。「耳」が覚えているのである。そして、それと同時に「声」が出る。のどが動く。「肉体」が反応する。ここでは、その場に居合わせた全員が「化粧前/着替え前」である。化粧していて、晴れ着を着ていても、すっぴんになり、無防備の裸になって、「肉体」が動いている。
その、「おっぱいだ」--ここには動詞がない。動詞がないけれど、「おっぱいが呑みたいのだ」ということが「わかる」。「肉体」がかってに「動詞」を補って、「意味」をつかみ取る。誰も「おっぱいを呑みすぎて気持ち悪くなって泣いているのだ」とは思わない。「肉体」で「わかっている」ことは、ことばにしなくてもいいのだ。「肉体」はことばの経済学を「肉体」で処理してしまう。
だれも、「授乳の時間だ」などという面倒くさいことは言わない。「授乳の時間」の方が正確だが、そんなことを言わないと「意味」がわからないのは、ばかである。「ばか」とは「頭が悪い」ではなく、「肉体が悪い」のだ。(最近は「頭はいいけれど、肉体が悪い」という人間が増えすぎた---あ、余分なことを書いた。)
そして、その次。
かといって帰る人はいない
わっ。
私はうれしくて笑いだしてしまった。赤ん坊がおっぱいを飲むところが見たいのだ。最近はなかなかおっぱいを飲むところを直にみる機会が少なくなったからねえ。どうやって、のむんだろう。それは「知っている」ことだけれど、「知りたい」。確かめたい。「肉体」で思い出したい。もう、自分ではできないことを、赤ん坊はやる。それも、初めてのようにして、自分の肉体を動かして、母親の肉体をも動かす。
なにか、おもしろい。「人のはじまりはおもしろい」。おもしろいとしか、いいようがない。わからないことがおもしろい。
*
感想/批評というものは、どうしても「頭」で読んだものを追いかける、そこにある動きを再現するということになってしまう。それは、詩の味を壊すことになってしまう。何もつけくわえずに、「この詩がおもしろいよ、読んでみて」というのが感想/批評の理想だとはわかっているのだけれど、私は書いてしまう。
だから。
私の感想などは読まなかったことにして、直に、和田の詩を読んでください。どんなに和田の詩がおもしろいかがわかるはずです。
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