詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

だれの一日が、

2014-10-24 00:39:44 | 
だれの一日が、

裁判所のわきの道にヤブランが咲いている。
緑の細長い葉が乱れるなかから立ち上がって、
無造作ということばになっている。
紫を美しく見せるためだろうか、
葉っぱには白い輪郭があるものもある。
葉っぱの方が配慮を生きている。

学校へ行くこどもらの間を自転車を走らせると、
どの路地をまがったときか、左に入り込んだ路地の突き当たり、
ヤブランの花の色を窓のカーテンのなかに見た。
赤茶色のレンガと白い窓枠に非常に似合っている。
もう一度見に戻ろうか
あしたまた見ればいいか、そう思ったが

だれの一日が割り込んだのだろう。
私のあした、どの路地を走っても見当たらない。
あれは、カーテンの奥のカーテンだったのか、
部屋の奥の鏡が記憶のヤブランの色を映していただけなのか。
窓はひさしの影からのがれた場所で、
閉じたガラスが朝の太陽を斜めに滑らせている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社


*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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カリン・ペーター・ネッツアー監督「私の、息子」(★★★★)

2014-10-23 09:55:05 | 映画
監督 カリン・ペーター・ネッツアー 出演 ルミニツァ・ゲオルギウ、ボグダン・ドゥミトラケ、イリンカ・ゴヤ


 最初の、女二人の対話のシーンをはっきりと思い出すことができないのだが、妙に空気がべったりしている感じがする。その印象は最後までつづいていく。「絵」(映像)として一つ一つが独立していない、カメラのフレームによって現実が切り取られ、そのフレームの中で世界が完結していないという感じがする。視線がまわり(フレームの外)を感じてしまう。役者の表情は、あ、うまい、と思わず声をもらしてしまうくらいにリアルなのに、その顔の情報以外のものが、視界のまわりに動いている感じがする。
 なぜだろう。
 何度か対話(あるいは会話)のシーンが繰り返されるうちに、カメラの切り替えがふつうの映画と違うことに気がつく。カメラが切り替わらない。ひとりの人物を写したあとカメラはずるーっという感じで次の発言者の方へ動いていく。二人の間にある空間を視線のように移動していく。二人の表情以外の、家(室内)の匂いのようなものを、そのときに引きずり込んでしまう。長廻しといえば長廻しなのだが、この話している登場人物のことば以外のものをカメラが映像として引き込む感じ、「ずるーっ」とした感じが、見ていて「肉体」にべったりからみついてくる。言いかえると、そこにいる感じになる。映画を見ているというよりも、登場人物がいる「部屋」の匂いのなかにいる感じ。役者が演技をするだけではなく、カメラは観客となって無言の演技、目撃者の演技をしている。役者を感じ取るだけではなく、役者の背後を匂いのように知らず知らずに呼吸している。
 うーん、こんなこと、別に目撃者になりたくはないのに。絶対に見たいというものではないのに。こんな、べったりした感じの空気は吸いたくないのに。
 子離れ(息子離れ)できない母親と、その愛情に苦しんでいる息子。その息子が交通事死亡事故を起こす。なんとかして息子を「無罪」にしたいと思い、あれこれ手を焼く母親……息子はもう30歳を超えている(40歳以上に見える)のに、なんだかうんざりしてしまう関係である。父親(母親の夫)も、少々妻に手を焼いている。母親は建築家(設計士?)で、すべてを自分のコントロール下に置きたいと思っているらしい。すべてをコントロールすることが愛情だと思っているのだろう。
 そういうことを「意味」ではなく、「ずるーっ」としたカメラの動きで、観客に伝える。母親のまわりのすべてを、母親が思いどおりに「ずるーっ」と支配している。そこにあるすべてのものの上に母親が「ずるーっ」と引き延ばされている感じ。こういう人間といっしょにいると、全部がずるーっとつながっていて、独立というものがない、という感じ。いやだなあ、そんなものにおおわれたくないなあ。
 警察の息子への聴取(供述調書作り)にまで口をはさんでくる。注意・助言する警官にも自分の思いのままに動かそうとする。目撃者の調書も、目撃者を買収することで書き換えさせようとする。だんだん母親が暴走するのだけれど、その暴走をカメラは暴走として表現しない。あくまで「ずるーっ」という感じ、周りを引き込みつづける感じ、「体温」がのりうつったものに変えてしまう。「体温」というのは、まあ、気持ちがいいときもあるが、逆のときもあるね。嫌いな人間だと、体温が感じられると、ぎょっとするということもあるかもしれない。このぎょっとする感じ、つながり恐怖症(つながり拒絶願望)のようなものが息子の人格にも影響して……というのがこの映画の不気味な強さになっているのだが、それを書くと「意味」になりすぎて映画を見ているというより、精神分析の実際に向き合っているようでおもしろくないので省略。
 で、映像にもどって。
 この「ずるーっ」とした映像が、最後にとてもいい感じに収斂する。母親が息子と息子の恋人(妻?)といっしょに被害者の遺族を訪ねる。息子はこわくて遺族両親に会うことができない。母親があれこれ話をして、家を出てくる。母親が車に乗り込むと、遺族の父が家から出てくる。それを見て、息子が車を降りて、父親に謝罪に行く。謝罪して、握手して、車にもどってくる。これをカメラが長廻しで「ずるーっ」という感じで映し出す。車の中から、後ろをふりかえり、あるいはバックミラーで息子と父親の対話を映し出す。このとき対話は聞こえない。無言である。けれど、カメラは「肉体」の動きで、そこに一種の和解(謝罪と、その受け入れ)があったことがわかる。カメラになって、そのことを体験するのだが。
 この体験が、実は、観客だけではなく、母親の体験ともなっているところが、とても劇的なのだ。クライマックスなのだ。特に、バックミラーのなかの小さな映像が、とても印象的だ。母親はその小さな映像で、はじめて息子を客観的にみる。鏡に映っている姿に触れるけれど、息子には触れない。直接肉眼そのもので見るのではなく、鏡の中に姿を見る。--そこに「距離」がある。「ずるーっ」なのだけれど、「ずるーっ」にも距離を生み出す方法があるというか、「距離」を母親はやっと手に入れるのだ。それは息子も同じかもしれない。
 そして、この「ずるーっ」でありながら客観的(?)というか「距離」がある、離れて見る、離れてみることでわかる何かというのは、途中で書くのを省略した息子の人格(秘密)の部分とつながる。母親は息子からその事実(秘密)を知らされるのではなく、恋人から知らされる。恋人とという鏡に映った息子は、母親が直接見ている姿とは違うのだ。人のあり方(ひとの本質)は見る人によって違う。人(他人)はみんな自分と同じように息子を見てるわけではない。彼女のとらえている息子像を他人も受け入れているわけではない。あたりまえのことだが、息子を溺愛している母にはそれがわからなかった。
 「ずるーっ」した視線と、それを切断するもうひとつの視線。その交錯をこの映画は描いている。それを長廻しのカメラと鏡をつかって、最後にあざやかに印象づける。ミケランジェロ・アントニオーニ「さすらいの二人」(ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー出演)のラストの格子窓をすりぬけるカメラ(映像)に匹敵する、忘れられないシーンである。どこがつながって、どこが切断しているか--「主人公(母親)」になれば、それがわかるという、生々しい映像だ。ここへたどりつくために、それまでの「ずるーっ」とした映像が必要だったのだ。最後にこのシーンだけ長廻しで撮られても、長廻しであることの必然に気がつかない。それまでのシーンがあるから、その長廻しが必然になる。
 とても緊密感のある映像作品だ。
                      (2014年10月22日、KBCシネマ2)


 


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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雨がやんだ夕方、

2014-10-23 01:03:14 | 
雨がやんだ夕方、

雨がやんだ夕方、映画を見るためにバスに乗る。
ケヤキ通りでは信号のたびに、
前の方にたまる赤いテールランプがにじみ、
反対車線をまぶしいヘッドライトが散らばるように走ってくる。
あれはバスのフロントガラスが雨に濡れているためにそう見えるのか、
空気の中にまだ雨が残っていて揺れるのか、
詩に書いて確かめてみたい気持ちになる。
舗道を歩く人はウインドーの明かりのために黒いシャドーとなって、
重なったり離れたりすることも。

きのう、詩の雑誌から戦後七十年企画のアンケートはがきが来た。
戦後の一冊の詩集を求められて、
「旅人かへらず」と書こうかどうしようか、迷った。
みんなが選びそうなので岡井隆「注釈する者」と書いたが
谷川俊太郎「世間知ラズ」がよかったかもしれない。
後ろの席では女子高校生の声がやかましい。
まだ降りないらしい。

いっそう、西脇になって「新・旅人かへらず」書いてみようか。
「ねえ、ねえ、たかはしくんの足、長くない?」
女子高校生のように
意味を書かずに、意味になる前のことを書くのだ。
コンビニエンスストアでボールペンを買って、
映画館の扉の前に列を作って、思い出しながら。
持ってきた文庫本、ヴァレリー「テスト氏」のカバーの裏に、
地下街へ降りる階段を三回曲がった、と。
女子高校生の靴は追いかけてこない、と。
「あきこは、たかはしくんのことばかり話すね」
地下の道は自然石とタイルと二本平行につづいているが、
自然石の方が足裏にひっついてくる。
あれは石の密度の間に空気があるからだ、
ときょう二度目の空気ということばを書く。
でも、くうきという音は妙に頼りないなあ。




*



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和田まさ子「名前を知らなくてもいい」

2014-10-22 10:36:58 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「名前を知らなくてもいい」(「地上十センチ」8、2014年10月15日発行)

 和田まさ子の詩は、ふたつの種類のことばでできている。ひとつは、ことばになる前の不定形のものが未整理の手近にあることばを掻き集めて動くことば。もっと整理のしようがあるのになあ、ふつうだったらもっとととのえられたことばで書くのになあ、というようなもの。部屋でひとりだけでいるときの、気を抜いただらしない(?)ことば、といえるかもしれない。もうひとつは、きちんと整理されたことば。いわゆる「詩」らしい、よそ行きのことば。きちんと服を着て化粧もしたよそ行きのことば。
 「名前を知らなくてもいい」を読む。

となりの家に
赤ん坊が生まれたので
見に行く
たくさんの人が見にきていて
お祭り騒ぎになっている
赤ん坊のところまで
行くのがむずかしい
ずるずると前に動いている人々
そのなかにわたしも入り込み
ずるずるする
そうやって人をかき分けて
やっと前から三列目になった
赤ん坊は
足をバタつかせて
踊っているらしい
顔が笑っているので
みんなが来たなら
一丁
胎内ダンスでも披露して
観客を喜ばせよう
というところか

 赤ん坊を見に行く。なかなか近くまでたどりつけない--現実には何人かがいて正面からなかなか対面できないくらいのことなんだけれど、そのなかなか正面から向き合えないときの「いらいら(?)」のようなものを拡大しているのが前半。
 そのときの、

ずるずると前に動いている人々
そのなかにわたしも入り込み
ずるずるする
そうやって人をかき分けて
やっと前から三列目になった

 このあたりが、「ふつうだったらもっとととのえられたことばで書く」という部分。友達が4人きていて、順番に対面するのだが、私の番がなかなかやってこなくて、横から見ながら待っている、というようなことなのだろうけれど。
 「ずるずる」が、おもしろいなあ。
 「ずるずる」を言いかえると何になるだろう。
 私は詩の講座で詩を読むとき、受講生によく聞くのである。「この、ずるずる、を別のことばで言うとどうなる?」
 赤ちゃんのいる部屋が畳の部屋で、人がすわりながらずるずる動いていく感じ。
 さっさと動かない。動けない。時間がかかる。
 なんでもいいのだけれど、そのとき自分の「肉体」が動く。意味はわからないが「肉体」が「ずるずる」を思い出して動く。
 こういう「肉体」に直接響いてくることばが、和田の詩にはある。
 それはそのまま「わかる」のだけれど、そのときの「わかり方」が「頭」ではなく、「肉体」で「わかる」感じ。整理されたことば(意味)というよりも、意味を考えずに「肉体」がそのことばの「動き」をそのままなぞる感じ。
 「肉体」を思い出す、思い出させることばだ。
 「やっと前から三列目になった」というのも、いいなあ。こういうことは、実際には赤ん坊を見にいったときには起きない。けれど、経験したことがあるでしょ? 美術館か、何か。目当ての絵に向かって進むのだけれどなかなか進まない。あと三列。そうすれば一番前にたどりつける。そのときの「感じ」を「肉体」が覚えている。そのときの「感じ」に「意味」はない。ただ「感じ」がある。「肉体」がある。
 もっと言いようがあるのかもしれないが、自分の「肉体」が覚えている何か、それを思い出すままにひっぱりだしてつかっている。この「なま」な感じ、ことばがととのえられる前の感じが、私にはとてもおもしろい。
 「比喩」というと、ちょっとよそ行きの、きどったことばなのだけれど、これから化粧をして、服を着てという前の状態を「比喩」にしてしまう。「文学」にしてしまう。「肉体」そのものを「比喩」にしてしまう。「ずるずる(する)」は一種の「比喩」なのだ。
 これは、すごいなあ。
 こういう感じのことばの動かし方を、男は知らない。男はできない。男は、どうしても気取ってしまう。「肉体」見せないのが男だと思っている。「肉体」ではなく「精神」の運動を見せるのが「文学」であると思い込んでいる。
 和田は、いわば「文学」になる前、ことばがととのえられて「精神」になる前の動きをていねいに追うことができるのだ。「肉体」で。

 その一方で、

胎内ダンスでも披露して
観客を喜ばせよう

 ということばも書く。これは「肉体」が覚えていることというよりも、「頭」でわかっていること。赤ん坊が胎内にいるとき手足をばたつかせる。動く、というのはもし和田がこどもを産んだことがあるなら「肉体」でも「覚えている」ことかもしれないが、それは私のような妊娠/出産を「肉体」で経験したことがない人間でも「知識」として知っている。その「知識」が「胎内ダンス」という「比喩」になっている。つまり、これは一般的な「比喩」である。「よそ行き」のことば。
 「ずるずる(する)」とは、違うでしょ? それを読んだときの、ことばが動いている部分、ことばをつかみ取っている「私の中の部分」というものが。
 和田の詩は、こういう「頭」の部分と「肉体」の部分が、とても自然に入り乱れる。とけあう。
 「頭」の部分を「肉体」がきちんと支えている。
 最近「体幹筋肉(インナーマッスル)」ということばをよく聞くが、和田のことばは、その「インナーマッスル」のようなものが非常に強くて、「頭」で理解する「比喩」も「肉体」に引き戻すようなところがある。
 「胎内ダンス」の部分でいえば、そのまえの「一丁」ということば。何かをするとき、ちょっと自分を励ますような感じ。「一丁……するか」の「一丁」の「意味」を言えといわれたら、困ってしまうが、だれもが「肉体」でわかっている。こういうときに、「一丁」と言うなあということを覚えていて、「肉体」がそのときの「調子」を思い出し、「わかる」のである。
 そういう視点から見ると「一丁」は「ずるずる(する)」に似ている。そういうことばで「胎内ダンス」というような、「意味(比喩)」を「肉体」に引き戻す。和田の基本は、あくまで「化粧前/着替え前」の、「よそ行き以前」のことばの動きにある。
 (この「化粧前/着替え前」を「未生」と言いかえると、男の書いている詩についても応用が利くが、「未生」と「化粧前/着替え前」では「肉体」の見え方、動き方が違うね。「未生」は、なんといっても気取っている。「未生」なんて、日常はつかわないからね。)

 詩はさらにつづいていて、後半もとてもおもしろい。

なにがうれしいのか
と思って見ていると
泣きだした
おっぱいだ
と観客からいっせいに
声があがった
かといって帰る人はいない
赤ん坊が何をするのか
もっと
もっと
見ていたいのだ
人のはじまりはおもしろい

 笑っていた赤ん坊が突然泣きだした。なぜ? どこか痛い? 病気? それともうんちかおしっこをしておむつが気持ち悪い? そうじゃない。この泣き方は「おっぱいが呑みたい(腹が減った)」だ。
 で、「おっぱいだ」。
 そこにいる人が、みんな、わかった。「肉体」で「わかった」。「耳」が覚えているのである。そして、それと同時に「声」が出る。のどが動く。「肉体」が反応する。ここでは、その場に居合わせた全員が「化粧前/着替え前」である。化粧していて、晴れ着を着ていても、すっぴんになり、無防備の裸になって、「肉体」が動いている。
 その、「おっぱいだ」--ここには動詞がない。動詞がないけれど、「おっぱいが呑みたいのだ」ということが「わかる」。「肉体」がかってに「動詞」を補って、「意味」をつかみ取る。誰も「おっぱいを呑みすぎて気持ち悪くなって泣いているのだ」とは思わない。「肉体」で「わかっている」ことは、ことばにしなくてもいいのだ。「肉体」はことばの経済学を「肉体」で処理してしまう。
 だれも、「授乳の時間だ」などという面倒くさいことは言わない。「授乳の時間」の方が正確だが、そんなことを言わないと「意味」がわからないのは、ばかである。「ばか」とは「頭が悪い」ではなく、「肉体が悪い」のだ。(最近は「頭はいいけれど、肉体が悪い」という人間が増えすぎた---あ、余分なことを書いた。)
 そして、その次。

かといって帰る人はいない

 わっ。
 私はうれしくて笑いだしてしまった。赤ん坊がおっぱいを飲むところが見たいのだ。最近はなかなかおっぱいを飲むところを直にみる機会が少なくなったからねえ。どうやって、のむんだろう。それは「知っている」ことだけれど、「知りたい」。確かめたい。「肉体」で思い出したい。もう、自分ではできないことを、赤ん坊はやる。それも、初めてのようにして、自分の肉体を動かして、母親の肉体をも動かす。
 なにか、おもしろい。「人のはじまりはおもしろい」。おもしろいとしか、いいようがない。わからないことがおもしろい。



 感想/批評というものは、どうしても「頭」で読んだものを追いかける、そこにある動きを再現するということになってしまう。それは、詩の味を壊すことになってしまう。何もつけくわえずに、「この詩がおもしろいよ、読んでみて」というのが感想/批評の理想だとはわかっているのだけれど、私は書いてしまう。
 だから。
 私の感想などは読まなかったことにして、直に、和田の詩を読んでください。どんなに和田の詩がおもしろいかがわかるはずです。

なりたいわたし
クリエーター情報なし
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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女が、

2014-10-22 00:47:20 | 
女が、

女が頸と頭の付け根に手をおいてうつむき、
それからその手の指を頭と頸ではさんでしまうかのように後ろへそらしたとき、
こっそりと私の中に忍び込んだもの。

見られていることを知らずに、
あれは、目の奥にある神経に頸の中にある細い道をたどらせ、
目からもっとも遠いところへ行こうとして、
酔ったように苦しんでいる

あれは、
読みかけの書類の文字が架空の肉体とからみあって、
細部になろうとしたり、できごとになろうとしてたわむれる

頸から離れた場所で左手がボールペンをまわしている。
感情をつくりだすように



*



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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(20)

2014-10-21 12:13:42 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(20)(花神社、2014年08月10日発行)

 「乳の川・乳の海」を読むと、どうしても「水子」ということばが浮かんでくる。こどもを抱いて育てることのかなわなかった女の姿を思い浮かべてしまう。あるいは出産はしたが、何らかの事情でこどもを亡くしてしまった女の姿を思い浮かべる。

 女は張った乳房を押さえていたが、いくら押さえても乳は洩れか
かっていた。女は怺え切れず乳首を圧す手を放したから、乳は奔る
ようにして砂に吹きこぼれた。こぼれた乳はすぐには砂に吸われず、
幾分かはささやかな流れとなって一時は砂を割ったがやがて消えた。

 妊娠した(出産した)証が、乳房に残っている。肉体は、「現実」にはすぐには追いつけない。乳を飲むこどもがいないのなら乳はいらない。乳房の中の乳はいらない。けれど、「現実」がそうであったとしても、乳房(乳)は、それが必要とされるということを「覚えている」。それは個人的な「覚え」なのか、女の「覚え」なのか、自然の「覚え」なのか、よくわからないが、きっと区別はできない。そして「肉体」で「覚えている」ことというのは、忘れることができない。ついつい(?)、覚えていることにしたがって動いてしまう。
 そして、その覚えていることが、「現実」を「違うもの」にかえていく。現実が肉体に変更を迫る前に(時間の経過が女の乳房から張りを奪い、乳を奪い去る前に)、女の肉体が現実に、こんなふうに変わってしまえ、と迫る。そして、それを「女の現実」に変えてしまうのだ。自分の欲している現実はこれだと現実に要求をつきつける。
 たとえば、ほとばしった乳が地面にこぼれる。そのとき、その地面はほんとうに「砂」であったかもしれないが、こぼれた乳によって「砂」であることが、より強く見えてくる。一瞬、乳は流れるが、砂に消えてしまう。女の現実を、まるで存在しないかのように消してしまう「砂」。
 これがアスファルトだったら、こういう具合にはいかない。
 女の無念さが「砂」を欲望する。砂によって女の「無念」が浮かび上がる、より鮮明になることを必要とするのだ。
 女は乳をほとばしらせ、地面にこぼしたくはない。けれど、もし、こぼすとするならば、それは一時はささやかな流れとなって流れるが、その流れを吸い取ってしまう「砂」の上でなければならない。そうでなければ、女の肉体が覚えている無念のようなものを伝えられない。
 「覚えていること/覚えているもの」は、使うことができる。使える。そして、それを使うというのは、現実を「使う(動かす)」ということであり、乳をこぼす女は、いま「大地」を「砂」に動かして使っているのである。

 ひとりの女が、そんなふうに「大地」の「現実」を「砂」にかえる。それを見て、別な女たちが集まってくる。集まって、乳をこぼす。そうすると、砂に吸い込まれて消えたはずの乳が、乳を吸い込んでしまったはずの砂の現実が、また変わっていく。

 砂上の乳はやがて細い流れとなり、砂を割って海に入った。乳の
流れは浜辺に沈んだ漁船の舳に当って少し淀んでから細流となり、
浜潮を白く濁してから拡散していった。

 女たちは「現実」をそんなふうに変えてしまう。乳は流れ、海にまでたどりつかなければならない。海にたどりついたら、沈んでいる漁船の舳にぶつからなければならない。その漁船は、女の男がのっていた船かもしれない。男は赤ん坊の父親だったかもしれない。そういう男の記憶に触れて、それからいくつもの細い流れになって、海の中へ広がっていかなければならない。
 この現実は、女にとっては「必然」である。その「必然」の欲望にしたがって、現実の海は姿を変える。それが女には「見える」。女の「肉体」はその「見える」を「覚えている」。「覚えている」から、「見える」ように動かすのである。ほとばしる乳をつかって。女がいま自在に使える「肉体」である乳を使って、現実を動かしていく。
 これが自分の欲している現実だとうめく。

 この強い本能(肉体が覚えている真実)が「現実」をさらに変えていく。

 砂浜の上を夕雲の翳が行き来し始めた。女達の集合体は霞んでも
う見えにくくなっていたが、それでも乳の川は更に流れて沖にまで
達していた。乳の川の白い流れは拡散して海に入り、そのあえかな
甘い香りが波頭を包んでいた。--と、海の底から一本のか細い手
が伸びて乳に触れた。すると後から後からわれもわれもという恰好
で桃色の小さな爪をつけた数本の指が、手が、乳の流れを手繰り寄
せた。

 これは女の「肉体」が「覚えている」ことだ。こどもが乳を求めている。その「桃色の小さな爪」。「水子」の場合、その爪を女が見ることはないかもしれない。見なくても「肉体」は「覚えている」。「水子」は実際には女の乳を求めるという「現実」を生きなかった。けれど、女の「肉体」は「覚えている」。「覚えている」から、いま、そこに「ある」ものとして「ことば」つかって、「現実」にする。

   --赤子達だった。どこの誰のでもない、それでいてどこの
誰のでもある赤子の手が、乳の水を掬い始めた。唇をすぽめて吸い
取る者、手に受けてまず鼻をつけ唇をつけ、ぴしゃぴしゃと己れが
頬をうつ者など様々だった。あまたの赤子が一斉に唇をとがらせて
乳を吸った。

 「赤子」が「どこの誰のでもない、それでいてどこの誰のでもある」とき、女もまた「誰でもなく、同時に誰でもある。乳をこどもにのませる、こどもが乳を飲むのを見る「女」になっている。それは「肉体」が「覚えている」女である。実際に、乳を飲ませたこととがなくても、妊娠したときから「肉体」が「覚えている」女の生き方であり、こどもとの関係である。
 「覚えている」からこそ、現実をその「覚えている」ことへ向けて作り替えるのだ。作り替えるしか、生きる実感が持てない。

      もはや失われた記憶の中では再生不可能と見えた女達
の乳房は、赤子の口から洩れた甘美なため息の靄に包まれて甦りつ
つあった。砂上の女達はその声を聞いていた。そして微笑みながら
小さく吾が子の名を呼んだ。

 乳は最初からあまっていて、ほとばしり出たのではない。赤子もを思うとき、乳房がみなぎり、乳がほとばしり出たのだ。そして、それが赤子呼び出し、赤子に乳をのませ、そのことがさらに女の乳房の力をみなぎらせる。
 女と赤子の、切断不能のつながりが、本能のように動く。本能が現実を変えていく。本能が変えていく現実をことばで追うとき、そこに詩が生まれる。

蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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黄色い薔薇

2014-10-21 01:05:55 | 
黄色い薔薇

恥ずかしいことだが、
黄色い薔薇の詩を頼まれたとき、私は
壁に立て掛けてある絵はがきの絵を剽窃した。
三年前の秋のことである、
あるいは五年後の冬のことかもしれない。

背景は灰色っぽい青。
黄色い花びらのペンで縁取りしてあるのだが、
線が花びらから離れるときがある。
色が線をはみ出すときもある。
恥ずかしいことだが、

輪郭の破れ目が、
そのときの私の不調和とぴったりあっていた。
気持ちを装飾にするのがいやになってしまった、
という気持ちさえありきたり比喩のよう。
恥ずかしいことだが、
だれも気づかなかった。


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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(19)

2014-10-20 10:57:17 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(19)(花神社、2014年08月10日発行)

 「石の声」は死ぬときは方解石が割れるようにきちんとした形で終わりたい、というようなことから書きはじめて、途中で「石」が消える。

 --ひとはどうも身の内に湖を蔵しているのではあるまいか。近
頃少し傾けばその湖、つまりわが内在湖の水が鳴り、水が何処そこ
から洩れ出て来るように思われる。まず転倒すれば膝裏でごほごぼ
と水音がする。かがめば背胸骨の中でちりちりと水音がして、耳孔
から鼻孔から水がこぼれ出す。女を抱けば当然迸るものが、●の
落葉の下水程にやわやわと哀しくこぼれ出る……。身の内ばかりで
はない。心情の傾斜にも内在湖はいちいち波立ち、静まって、果て
は温い靄さえ吐き散らす。
                    (谷内注=●はブナ、木偏に無のつくり)

 あれ、「石」は消えて、かわりに「水」が出てきた。その水は湖の大きさだったのに、「靄」という小さな水分になってしまっている。
 これは、どういうわけだろう。何が起きているのだろう。

 内在湖の水際に母といた。私は母の背に負われていて、その母の
踝は水に浸っていた。母の脛の影が湖にのびていて、その小揺ら
ぎが私の目に眩しかった。負われたまま私は二三歩進み、母の背か
らずるずると水に落ちる気配だった。

 あ、母子心中--と、私は突然思う。粒来はこの詩を書いているから、母子心中未遂というべきなのか。何か、不吉な感じがする。
 「内在湖」という「非在」のもの(比喩)が、不吉なものを呼び寄せる。存在しないものをことばで呼び出し、存在させると、そこに存在しないはずのものがついてまわってくる。存在しないもののいちばん目立つものが「死」である。人が生きているとき「死」は非在であるけれど、非在なのにとても身近に感じられる。そういう瞬間が、不吉。
 石がどこかに消えてしまったが、死が突然、こんな形で復讐してくる。思い出されてくる。湖に深く沈んでいく石を思う。でも、そのとき石は「方解石」ではない。
 何かが奇妙に捩じれて、切断され、接続されている。

                 -と母は両手で抱えあげて私
を元の背に戻してくれた。私はいやいやをしたようだった。抱え上
げる母の手を拒んでやや乱暴に湖に降り立ったと思う。私が手で水
を掬い砂粒を掻き集めていた間、母はゆったりと靄につつまれ、湖
面を撫でるようにして遠去かって行った。私の手からひとりでに砂
がこぼれた。

 母は幼い粒来を残して、ひとりだけ入水自殺した。そのことを粒来は思い出している。前の段落で出てきた「靄」が、いま、ここで甦る。湖は一瞬「波立ち、静まって」、「果ては温い靄」を吐く--というのは、湖が石をのみこみ、その波紋を広げ、波紋を広げ終わると前よりも静かになるのだが、石を飲み込んだ分だけ湖面からはみ出す水を「靄」にしているような感じ。石となって沈んでゆく母の、最後の息が、その温みが水を「靄」にかえたのか。「靄」のなかに母がいて、取り残された粒来は「砂」を手にしている。
 砂は石が砕けたもの?
 そんなことを考えていると……。

 母の死は私の知らぬうちにやって来た。母は庭先で猫と戯れなが
ら死んだのだ。不意に猫が奇妙な声をはりあげたから、猫は母の死
の到来を知っていたのだ。母が自らの死を認識する前に、死の方は
猫に予告し、伝達さえしていた。

 あれ、母は入水自殺じゃなかった?
 突然の、気づかない内の死。それを思うとき、その「知らない」(不明な感じ)が「靄にくるまれ、湖面を撫でるようにして遠去かっていった」母になるのか。
 前段落の「夢」のようなものは、粒来が「猫」になって予感したものとも言えるのか。夢の中で、粒来は、その瞬間を予告されていたのか。
 あ、これは時系列的に奇妙だね。
 前段落の「内在湖の水際に母といた。」は、たぶん、いまの粒来から見た記憶。思い出。このとき、すでに母は死んでしまっているだろう。だから、「靄」といっしょに見たのは「予告」ではない。いや「予告」なのだが、それは、思い返すと「予告」だったということであって、そのときは「予告」ではなかった。
 「意味」は後からやってくる。何でもなかったことが、あとから見ると「予告」という「意味」として読むことができる。
 時間が逆流し、まざりあって、ありえなかったことがあるように見える。「予告」ではなかったものが「予告」になる。
 というのも、なんだか「事実」とは違うなあ。
 その「内在湖の水際に母といた。」という夢さえ、母が死んでから見た夢なのだから、それは「予告」ではない。もう死んでいるのに、「母の死は私の知らないうちにやって来た。」ということはありえない。「予告」ではなく、「過去」を粒来はつくりかえている。夢の中で過去へ行き、その夢の中の過去で「予告」を受け止める。そして、納得する。
 うーん、変だなあ。変だけれど、これが人間なのだ。人間はなんでもつくってしまう。過去を自分の都合のいいように作り替えるのはごくふつうのことだが、それだけではなくその過去に「予告」さえつくりあげしてまって、今度は「予告」を基本にして過去の「意味」(真実)さえもそれにあわせて変更する。
 何のことか、わからない?
 あ、私にもよくわからないのだけれど、夢とか過去とか予告とかをことばにすると、それはそれにあわせて、きれいに整いはじめる。ほんとうは違うのに、それがあたかもあるかのように美しい形にとって、ばらばらに(?)動く。ばらばらに考えると、それは美しい哀しみ(結晶)になるが、つづけてしまうと「嘘」(ありえないこと)になる。
 うーん。
 ここで、こんな飛躍をするのは私だけなのか、それとも同じことがこの詩を書いた粒来に起きたのかどうかわからないが、哀しみの結晶と嘘(ありえない)の関係は、なんだか「方解石」の壊れ方に似ている。叩くときれいな方形になって割れる。
 何かが内部で「方形」という「意味」をつくっている。
 同じように、何かが哀しみが美しくなるように、人間の内部で「意味」をつくっている。そういうことを考えてしまう。
 で、そうか、この母の死の記憶が粒来にとっては「方解石」なのか、と思っていると……。
 そのあと、最終連がある。

 父は変哲もない小石を一つ、真綿にくるんでマッチの空箱の中に
収い置いたのを私に遺した。遺したくて遺したものでもあるまいが、
どう叩いても割れる代物ではなかった。私は時折その石を耳に当て
がうことがある。

 あ、突然、父が出てきた。
 この父と粒来との関係は、この詩では「方解石」になっていない。内部から「意味」が統制して、それを結晶にしていない。
 まだまだ書かなければならないことがある。そう思っているのだろう。



 ところで……。
 きょうの「感想」、これはいったい何なのだろう。この詩を、私はいいとも、悪いとも書いていない。つまり、位置づけていない。批評の多くは、大抵の場合、その作品がどういう意味をもっているかを指摘し、それが他の詩とどういう関係にあるのかという位置づけを指摘する。
 私は、そういうことをほとんどしない。
 私はそこに書かれていることばを読み、そのとき自分のことばがどう動いたかしか書けない。きょう書いたことは、あすは別なものになる。読む度に何かが違う。そういう違いを違いとして確かめるために書いているのかもしれない。
 ただ考えたことを書いておきたい。
 きょうここで考えたことは、いつかこの詩をもう一度読んだときに、別なことばとして甦るかもしれない。あるいは、まったく違う誰かのことばにふれて、この詩を思い出し、何かが動くかもしれない。
 詩は、そんなふうにして甦り、生きていく。だから、この詩の感想の中には、実は粒来の詩を読んだときだけの何かではなく、ほかの何かを読んだときの思いもうごめいている。「方解石」のような結晶にはなれずに。
 何を書いても、そこにただことばとしてあって、次のことばを誘い出してくれるもの--それが詩なんだろうなあ、と思う。

 と書いて、あ、間違えたと思う。
 この詩にはストーリーがあるようでないような、奇妙な飛躍と接続がある。「方解石」のきれいな割れ方(死)と母の死、父の死が語られる。死ということで三つはつながっているが、こういう読み方は「錯覚」かもしれない。「意味」を追うから、そういうつながりになる。
 「意味」を追って、そこでつじつまがあう(納得できる?)となんなくそこに書かれていることがわかったような気持ちになるが、きっと勘違いだ。「意味」よりも前に、私は粒来の「文体」を読んでいる。ことばの動かし方を読んでいる。動かし方に強いものがあるので、(方解石の比喩を借りて言えば、動かし方に結晶のような整然とした力かがあるので)、そこに書かれていることを信じてしまう。
 信じたあとで、「意味」を考えている。
 そこに「何かある」と信じさせてくれる「文体」こそが詩なのである、と書けばよかったのだろう。
 母の思い出が哀しい結晶となって割れて輝く--そのことについて書いたとき、そこに粒来の「文体」がある、と書けばよかったのかもしれない。

蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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思潮社

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夜のダリア

2014-10-20 00:19:22 | 
夜のダリア

夜、光がめざめる。
闇を内部に閉じ込めるように、

という比喩のようにして活けられているダリア。
ガラスの花瓶に一本だけ、

まわりの本やカレンダーを無視したような、
冷やかな茎の長さと静かな傾き。

白い壁との間に、絶対的な意味のようなものが感じられるが、
意味をことばにしようとすると美しさをなくしてしまう。

苦悩したいという欲望が、
無数の花びらとなって密集する頂点。

色、濃厚になる色の内奥をえぐる、
夜の水の、透明。



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内田吐夢監督「飢餓海峡」(★★★★)

2014-10-19 10:49:58 | 映画
内田吐夢監督「飢餓海峡」(★★★★)

監督 内田吐夢 出演 三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、高倉健

 タイトルが連想させるように、この映画のテーマは「貧困」である。貧困が引き起こす飢餓。いまの日本は格差社会が拡大し、再び貧困と飢餓(食べられない)が問題になりつつあるが、この映画が公開された当時(1962年)のように、貧困(飢餓)がくっきりとは見えにくいので、ちょっと語りにくい。現代の格差社会のいちばんの問題は、貧困を隠すようにして「高級志向」が宣伝されているところである。食品にしろ、オーディオにしろ、いままでなかった贅沢(高級)が宣伝されている。
 というようなことを書いてもはじまらないので……。

 この映画で、私がいちばん好きなのは、左幸子が三國連太郎の爪を取り出して、セックスを思い出すシーンである。最初に見たときもびっくりしたが、何度見てもおもしろい。爪を取り出し、その爪で顔に触る。触覚が男を覚えている。まだ若い左幸子の肌がはりつめていて、そこに爪が食い込む。やわらかな触覚というのではなく、どこかで刺すような痛みのある触覚。血につながる触覚である。
 これより前に、出会いのセックスがあり、そこでは爪が喉にくいこんで傷がつく。血が出ている。それを痛がるというよりも、セックスをした証のように思い出す左幸子。さらに男の爪を切ってやり、そのあと畳に落ちていた爪で掌を傷つけるシーンがある。このときも血が滲む。(左幸子はこの爪を大事に持っている。)
 左幸子は自分の血を流しながら、その血を流させてくれた(?)男を思うのである。自分のなかに血が流れているのをはっきり自覚する。同時に、自分の血を見ながら、男の肉体のなかに流れている血を感じる。外からは見えない、温かいものを感じ取る。左幸子は男の「やさしさ」を直感的に見抜いている。
 左幸子は「やさしさ」に触れ、その「やさしさ」を守り通したいと思う。それは自分自身のなかにある「やさしさ」、貧困者の「いのち」のよりどころのようなものである。
 もうひとつ、好きなシーンがある。伴淳三郎の家庭が描かれる。刑事なのだが、とても貧しい。子供が二人いて、食事のときの芋雑炊の芋を取り合って喧嘩をする。母親がなんとかとりなす。伴淳三郎が家を出ていく。それを母親が玄関へ見送る。そのとき、ふたりは争うようにして鍋から芋をすくい取る。この貧しさ、このこどもの切実さが、とてもいい。母親は母親で、「うちはよそと違ってずるができない(警察官なので違法行為ができない)」というようなことを、ぽろりと口走ったりする。その貧しさのなかで、捜査の失敗から伴淳三郎の家庭はさらに貧困に落ちてゆく。
 落ちてゆくのだけれど、最後の辺り、父親がもう一度事件を追いはじめるとき、貧困の原因である父を憎みながらも、その父の生き生きとした姿にこころを揺さぶられてしまう子供(成長している)の対応が泣かせる。どんなに貧しくても、信じていることにすべてをかける。そういう「いのち」のありかたも、ていねいに描かれている。
 貧困をめぐっては、三國連太郎の「証言(供述)」も鋭い。三國連太郎は観客が知っている通りのことを言うのだが(殺人の部分は観客が知っているわけではないから、嘘かもしれないが、強盗と火事の部分は知っている通り、映画で見てきた通りである)、高倉健は信じない。そのとき「貧乏人がどれだけほんとうのことを言ってもだれも信じない」と言う。これが、重たい。とても重たい。(格差社会が進んでゆくと、こういうことがこれから起きるだろう。)
 三國連太郎はだれにも信じてもらえないということを知っているというより、信じている。そして信じてもらえないと信じ込んでしまっているために、左幸子を殺すということもするのだが、この三國連太郎のことばによって、映画の主役の三人のなかで「信じる」ということが交錯していることが明確になる。貧乏人のこころのなかにある「信じる」の形がぶつかりあい、からみあって「事件」になってしまったことがわかる。--この辺りは「映画的」というよりも「小説的」な展開で、ストーリーとして「必然(必要)」なのだけれど、映画的にはちょっとつらい。映像を見ているというよりも、ことばでこころを見つめなおす感じがするからねえ……。
 あ、もうひとつ重要なテーマ(?)があった。この映画に恐山の巫女が出てくる。彼女は「一度来た道は引き返せないぞ」というようなことを言う。左幸子は、そういうことばは巫女が適当に言っているのだと直観でわかっているので(ことばは聞いた人間が満足すればそれでいいだけのものとわかっているので)、三國連太郎とセックスをするとき、遊びのようにして口走り、三國連太郎をこわがらせる。そしてそれが巫女のご都合主義的なことばであるとはわかっているけれど、それを実行してしまう。引き返さない。男を愛しつづける。そのために嘘をつきつづける。一方の三國連太郎の方は、そのことばにしばられつづける。戻りたいと願いつづける。まだ「無実」だった北海道へ戻ってそこからやりなおしたいと願う。これが、最後の最後、「北海道へ連れて行ってくれ」ということばになる。もう一人の主役、伴淳三郎は、そういう「引き返せない道」を客観的に言語化するという立場(ストーリーを完結させる立場)にある。貧困のなかを生き抜いた男と女がどういう人間であったかを客観的に語る。二人はたまたま同じ道をいっしょに歩いたことがある。同行したことがある。そして、愛し合った。そして、引き返さなくなった……。
 ことばにしてしまうと(ことばにしてしまうからだが)、これもやっぱり「小説的」な構造だね。原作が小説だから、そうなってしまうのかもしれないけれど。

 格差社会と貧困が大問題になったとき、思い出してもらいたい映画ではあるなあ、と貧しい田舎で育った私は、ふと、思う。いまはもう「限界集落」となってしまっていて、引き返すも何もない、たいへんな状況があちこちで起きているのだけれど……。

 あ、余分なことを書いたかな?
 この映画は、映像の処理がちょっと変わっていて、いまならサイケデリック(?)な感じで描くかもしれない「記憶」(想像)のシーンが斬新だ。ネガのままのような、陰影が反転した感じの映像が、何と言えばいいのか、本能に直接働きかけてくる。目というより、三國連太郎や伴淳三郎の「本能」が目を通さずに見ている「現実(真実)」という感じがしておもしろい。この不思議な形で処理された映像は、左幸子にはつかわれていないので、ここから三人の主役のありかた(男と女の違い)というようなものを語っていくのもおもしろいと思うが、時間がなくなった。(私は網膜剥離の手術以後、40分以上書きつづけると、目がおかしくなる。)また機会があったら書くことにする。
               (2014年10月19日、天神東宝4「午前十時の映画祭)


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そうじゃない、

2014-10-19 00:45:40 | 
そうじゃない、

読みかけの本のところどころに透明な隙間があいてる。
壁と窓が破られた部屋にいるみたい。

それは夏休みのことで、
一ページ向こう側の窓にことばが腰かけて庭の木を見ていた。
木の上から光が降って、ことばの影を部屋のなかに揺らした。

そうじゃない、
そうじゃない、と。

ことばはいつか読んだ詩を思い出そうとしているか、
あるいは詩に書こうとして、
まだ準備がととのっていないと気づく。



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北川透『現代詩論集成1』(12)

2014-10-18 09:11:23 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(12)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十一 蒼ざめたvie と自然回帰 三好豊一郎覚書

 「希望」という作品を取り上げて、北川は「なぜ、陽の照る麦畑の農夫や、リボンの少女や、快活な若者など、いかにも新体詩的なレベルの修辞よる希望を語らなければならなかったのか」と書いている。そして、また「おそらくここにあるのは宗教的文脈である」とも書いている。ここでいう「宗教的文脈」というのは「政治的文脈」に対しての発言である。
 「荒地」の詩人は北川には「政治的文脈」のことばを語った詩人であり、そのなかにあって三好豊一郎は異質である--というのが北川の論点のポイントであると思って読んだ。そうか、宗教的か……。たしかに、

《老いたる農夫》とか《貧しい清純な少女》とか《勤勉なる若者》というような、いささか素朴すぎる修辞がでてくる理由は理解できない。《無辜の犠牲(いけにえ)》とか《地上の苦役》、《萬人の苦悩》、《悲惨と哀訴の涙》というようなことばも、キリスト教やカソリックのようなものを、背景に置いてみて、はじめて意味をもつものであろう。( 243ページ)

 そういう気はするが、肝心のキリスト教、カソリックというものについて私は考えたことがないので、ほんとうかどうかよくわからない。
 そういう「宗教的文脈」とは別に、北川はたいへん興味深い指摘をしている。一九五二年版の『荒地詩集』に掲載されている作品(「春の祭り」)について触れている部分。

ここから受ける印象は、何よりも漢字の圧倒的な洪水ということである。そして、そのようにあふれ出ててくる漢字とは、詩人の内面などをもはや通過せず、どこか別のところを出自としていることばであろう。( 247ページ)

しかし、これは漢字の洪水なのだろうか。ここで用いられている漢字が、具体的な実在物を支持することばであることが少なく、そのほとんどが観念語であることに注意すべきだであろう。漢字の洪水と見えたものは、観念語の洪水であったのである。( 248ページ)

 あ、と私は声を上げてしまう。傍線を引いて何度も読み直してしまったのだが、そうか「観念語」か。
 もし、その視点に立つのなら、先に北川のあげている「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」は、どうだろうか。「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」は「実在」するように見える。特に「老いたる農夫」はどこにでもいるように見える。しかし、そのあとの「清純な少女」「勤勉なる若者」の「清純」や「勤勉」は「実在物」というよりも「観念」の世界にいる存在のように思える。「清純」「勤勉」というのは「もの」ではなく「価値判断」だからである。「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」も「観念」が浮き彫りにする「事実」であるように思える。つまり「観念語」という具合に。
 言いかえると、三好には「宗教的文脈」はなく、最初から「観念的文脈」だけがあったということにならないか。観念が「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」というような「実在物」を持ち出してくるとき、その「観念」は「宗教」と似通ってくるに過ぎないのではないのか。ほんとうは「宗教的」ではなかったのではないのか。
 「詩人の内面などをもはや通過せず」というのなら、それは「宗教的」ではないだろう。内面を欠いた宗教はないと、私は思う。「出自」を「宗教」と結びつけるのは、何か、三好の「観念」を、鮎川の「理念」とは区別するための方便のようにも感じられる。
 北川はまた、こう書いている。

それにしても、これらの個別に取り出してみれば、かなり過激なことばも、どういうわけか田村隆一のような観念の屹立性を感じさせない。漢字の字面が威嚇しているだけで、衝撃力を欠いているのである。それが洪水の印象ともなっているのであるが、その理由は、ことばが作者の内面的な根底を欠いて、ただ、平面的に自己増殖していくところにあるだろう。漢字による観念語の連想で次なる観念語が生まれており、その無限のような連鎖が作品行為なのだ。( 248ページ)

 とてもおもしろいなあ。
 「ことばが作者の内面的な根底を欠いて」いると、北川は再び「内面」ということばを用い、それを「欠いて」いると繰り返している。そうであるなら、そのことばは「宗教的」ではありえない、と私も再び書いておこう。
 「宗教」には「外形」もあるだろうけれど、もっぱら「内面」の問題である。三好の詩は、彼がどんな「宗教」を信仰していようが「宗教的文脈」とは関係がないのだと思う。「観念的」ではあっても、「宗教的」とは私には思えない。
 北川の指摘したいことと、私が感じ取ったことは違うかもしれないが、北川の文章を読みながら、私はそう考えた。
 そもそも三好は「観念語」はつかっているが、「観念」というものとも無関係なのかもしれない。
 そういうことよりも、

漢字による観念語の連想で次なる観念語が生まれており、その無限のような連鎖が作品行為なのだ。

 これが、「荒地以後」のひとつの「ことばの状況」を語っているように思える。--というようなあいまいなことではなく、私自身の「体験」に即して言えば。
 私が「荒地」の詩(あるいは「現代詩」)を書きはじめ、読みはじめたたのは1970年代である。その当時の「現代詩」(あるいは、過去の「荒地」の詩)を読み、そこに出てくる「漢字熟語」の多さにびっくりした。知らないことばなのに、表意文字の力なのだろう、「漢字」の「意味」がところどころわかる。そのところどころわかるものが「連想」でかってに「意味」を捏造する。(まあ、簡単に言うと、意味を調べずに「誤読」して、勝手に、「意味」を納得する。)漢字には不思議な力があるなあ、と感じ、それをそのままつないでいって、自分でもわけのわからない詩をでっちあげる。漢字熟語がとびまわると過激な感じがして、あ、「現代詩」と思い込むことができた。
 こういうとき、その観念語の「出自」は、あちこちの哲学書(?)だったり、辞書だったり、誰かの作品だったりする。そして、それを暴走させるのは「宗教」ではなく、たとえば熟語の音のなかにあるリズム、音楽というようなものであると私は思う。なんといっても「意味」もわからずに、このことばはなんとなくかっこいい、見栄えがする、この漢字熟語とこの漢字をぶつけると、いままでとは違ったものがでてきそう。そういう「カン」(感性?)のようなものが、ことばを動かす。
 それは「観念」ですらない。
 へええ、三好もそういう具合に詩を書いていたのか。
 北川の指摘していることは私の書いていることとは違うかもしれないけれど、私はそんなふうに思ってしまった。

 で、それと関係がないような、あるような。

 詩には「実感」とは無関係に動くものがある。あることばに触れて、そこから「連想」が暴走し、次々にことばを増殖させていく。そのことばの運動、そのときのリズム、音の響き(広がり)、そういうものを頼りに詩を書くことがある。それを頼りに書かれた詩があると思うことがある。 
 音に対する直感的な好みが、ことばを動かすことがある。
 詩は、「実感」ではなく、むしろ「でたらめ」なものでもある、とも思うのだ。現実をどこかで破壊していく、不埒なことばの運動であるとも思う。「意味」なんて、最初から考えているわけではない。書いているうちに、適当に生まれてくるものだと思う。

 問題は、そういう「でたらめ」を詩であると言ってしまったとき、ひとつ困る(?)ことがある。
 詩は「真実」を語るもの、という「定義」と折り合いがつかない。
 このことを強引に「荒地」の問題と結びつけていうと、「荒地」を統一している(?)「理念」と折り合いがつかなくなる。「荒地の理念」に合致するもの、「理念」で社会の問題を切り開いていく、「理念」で人間の可能性をつかみ取るということを「詩の本質」ととらえる視点と折り合いがつきにくい。どうしても「理念」を掲げて、それにそった作品を高く評価し、「理念」を掲げない作品を傍流に位置づけるというヒエラルキーのようなものができてしまう。ヒエラルキーの導入で、「折り合い」をつけてしまうということがおきるように思う。
 これは私の印象であって、不適切な表現かもしれないが、北川は鮎川信夫を頂点として「荒地」の詩人の「分布図」を書いているように感じてしまう。私は三好の詩よりも鮎川の詩、田村の詩をおもしろいと思うけれど、その私の感じている印象が、北川の描いている(?)ヒエラルキーのなかに組み込まれることには、何か、抵抗したいなあ、という気持ちがする。
 どう説明していいのかわからないのだけれど。
 北川が三好のつかっていることばに触れながら「宗教的」と呼んだものと、鮎川のことばに触れて「理念」と呼んだものの関係について、結論を急がないで、と注文をつけたくなる。
 私が北川の文章を読みきれていないだけなのだろうけれど。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

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2014-10-18 01:39:49 | 


坂を子供が駆け降りる音を聞いた。
窓からのぞくと、加速した足が乱れている。
乱れた影が光っている、ふたりの。
空から透明な輝きが降ってきて、何も邪魔するものがない午後。

見上げなくても空の色がひとつだとわかる。
それはいつのことだったのか。
きょうは坂を軽快な自転車が走ってくるのを見た。
音は、風が入って丸くなった背中のシャツの中に閉じ込められている。

あの車輪のように丸いシャツに枯葉の影が映るとしたらどんな形だろう。
見てみたかったが、見えなかった。
自転車の向うに塀の色、下には坂の傾斜。

こんなとき古い本を読んで読み慣れたとことばのなかへ帰って行きたくなるが、
だんだん効果が薄れてきてしまった。
子どもの靴裏の波形を説明することばが見つからない。








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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(18)

2014-10-17 10:17:43 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(18)(花神社、2014年08月10日発行)

 「静かな木々」はとても美しい詩だ。タイトルに誘われて書くと、静けさが美しい。

 北国の子供達は、独楽の回りが頂点に達し、一瞬静止したかのよ
うな様相を示すと、独楽が澄んだ--といってはしゃぐ。すると澄
む前の回転、或いは澄んだ後の崩れに至る袴の乱れた舞い姿にも似
た回転は、子供達は何と呼んだのか、私に記憶はない。
 子供達は澄んだという形姿以外の独楽の在り様を、何とも名付け
ていなかったのではないか。

 と、独楽遊びのことから書きはじめられている。この「澄んだ」という表現は、とても美しい。何か精神性が感じられる。精神性と思わず書いてしまうが、それは何と言えばいいのか、子供が一人で「発見」する精神ではなくて、ほかの子供と遊ぶ、あるいはほかの遊びをする、さらには大人の姿をかいま見るというようなことから無意識に吸収し、そのまま「事実」としてつかみとってしまう何かだ。大人が口にしたことばなのか、あるいはたまたま先輩(?)子供、つまり昔の子供が言い習わしてきたのか。
 そこにはきっと複数の「こと」が反映されている。複数のことが「澄む」という動詞とともに語られ、それが自然に「肉体」にしみ込んできて、納得してしまう。
 独楽遊びだけではなく、みんなで歌を歌っていたらあるとき「声」の重なりが「澄む」とか、泣き叫ぶだけ泣き叫んだら気持ちがすっきりした(澄んだ)とか。いろいろな「澄む」という動詞のあり方を目撃し、(しかも一人で目撃するのではなく、暮らしのなかで何人かで目撃し)、「澄む」という「動詞」そのものを「肉体」で覚えるとき、複数の「こと」「ひと」が「澄む」を「精神」にまで高めるのだろう。
 で、そういうことを、粒来は言いなおしている。
 「蜻蛉釣り」。銀やんまをつかまえるにはこつがある。雌つかまえる。それから糸で胴体をしばり、ふりまわしながら雄を誘う。雄が交尾したところで糸をたぐりよせる。そうしてつかまえる。

                         彼らは実に
静かにつかまる。手にしてからもこちらの指を噛むこともせず、不
意に飛び立って逃げることもない。彼らは交尾以外の些事にかまけ
ることはない。おそらく彼らにとって人の手に捕われ死を目前にし
ても、その死もまた些事と観じているかのようだ。彼らは静寂の時
を知っている。

 独楽の「澄んだ」が蜻蛉では「静寂」ということばに変わっている。「澄んだ静寂」と言いなおしたい感じだ。その「静寂」について、粒来は「死」と結びつけているが、私は「交尾」と結びつけて読みたい。蜻蛉にとって「交尾」は独楽が回転の頂点に達したときのように、命の頂点のときなのだろう。激しく動いている。その動きの頂点。それは「澄んでいる」。蜻蛉は自分のなかにある「本能」の声だけを聞いている。ほかの何も聞いていない。蜻蛉にとって、そのとき「外界」(蜻蛉をつかまえようとしている子供たちの世界)の音(子供たちの歓声)は聞こえない。存在しない。「下界」が「静寂」なのだ。
 「澄む」は混じり気がない。不純物がない、ということでもある。
 蜻蛉は「死」を目前にしているのではなく、ただ「交尾」の頂点にいる。「命」の頂点にいるということだろう。それ以外が存在しない。「静寂」は「無」でもある。この「無」を「雑念がない」と言いなおすと、それはこころが「澄む」ということにもなる。
 「独楽」の部分で、先に引用しなかった行に、「独楽の静止状態にも似た一瞬の、動きながらも而も外形は静止していると思える回転」ということばがあったが、蜻蛉の場合、雄と雌が交尾して、体をしっかりと固定して、「外形」は動かないように見えても、その体の内部では、つながっている部分の奥では、命が激しく動いている。命を動かすのに一生懸命で、「外形」を動かす暇がない。逃げる、というような行動で、命を動きを乱すわけにはいかないのだろう。またそのとき蜻蛉にとって「世界(外界)」は「静止」している。どんなふうに動いていても、蜻蛉の「本能」とは無関係である。独楽の回転が頂点にあるとき、子供たちがどんなふうにはしゃいでいようと独楽にとっては無関係なのに似ている。--というふうに、鏡合わせのように、ふたつのことを見つめ、言いなおすことができる。
 動きのなかに静止があり、静止のなかに動きがある。そうであるなら、命のなかに死があり、死のなかに命がある。死は、それ一個のものでありつながりがないが、命は引き継がれていく。連続性がある。
 蜻蛉にとって「静寂」とは死ではなく、命を引き継いでゆく行為、交尾の絶対性のことなのだろう。
 「絶対性」は「頂点」と通い合う。頂点に達したとき、それはその運動の「絶対性」とともにある。
 独楽の回転の頂点を「澄んだ」と呼び、そう呼ぶ精神(こころの動き)が引き継がれていくように、蜻蛉のなかでは死をかけた命の連続が引き継がれていく。「独楽が澄んだ」は独楽遊びのなかで引き継がれていく、独楽遊びをする子供のなかで引き継がれていく「ことばの命」(ことばの動かし方の思想)であるが、それは子供の一生を超えて引き継がれていくものである。

 このことは、人間の性愛と死の形で、最後にもう一度言いなおされている。

 母に蜻蛉の話をしたら、母は遠い森の木々の木肌を撫でるような
目で私を見やっただけだった。人と人との間にも独楽に似た蜻蛉に
似た静寂の時間は創り得るのか、と実は尋ねたかったのだが、止め
にした。母の瞳の中で木々の肌が互いに寄り合い擦り合い、玄妙な
微音を奏でているのが感得されたからだった。全ての葉の落ちた木々
の木肌の風に寄り添って触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音
が深まるにつれいや増しに増していく森の静寂--。若い母の内の
ほとばしるものの一瞬の静止、静寂。

 ここには「性愛」というものが直接的に書かれているわけではないが、「(木)肌を撫でる」「肌が互いに寄り合い擦り合い」ということばが、それを感じさせる。木の描写なのだが、それが「木」なのは、幼い粒来が人間の「性愛」を実際には知らないから、「木」の比喩になってあらわれているのだ。母の目つきのなかに、木々のふれあい(性愛)を見る目を見ている。そして、その性愛の頂点では、森は「静寂」する。「触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音が深まる」のに比例するように「静寂」がやってくる。
 独楽が回転の頂点で止まっているかのように見える、動いていないかのように見えるように、「矛盾」の形であらわれる「頂点(絶対性)」。
 「絶対性」というものは「矛盾」のなかにある。
 「矛盾」というのは「混沌」と似ている。それは、そこに存在しなかったものを生み出す運動である。激しい運動だけが「静止」という「絶対性」を生み出す。

 人間にとって、「絶対性」とはなんだろうか。「精神」か。そうかもしれないが、その「精神」が「絶対」になるためには動きつづけること、動きの頂点に達することが必要だ。

詩集 望楼
粒来哲蔵
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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大通りから路地に入るときの、

2014-10-17 00:42:11 | 
大通りから路地に入るときの、

大通りから路地に入るときの匂いが好きだ。
雨が上がって、光がケヤキの葉っぱに集まってきて、
輝きながら落ちていくとき空気の中の静けさが匂う。

大好きな本の、何度も何度も傍線を引いて読んだことばを、
また思い出すために読むときのよう。






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新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
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