詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(95) 

2015-06-21 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(95) 

146 自裁

船は
暗い波の上を
魂の上を

 「暗い波」は「魂」と言い換えられている。そのことによって「船」が現実の船ではなく「比喩」であることがわかる。
 この「比喩」から始まる「旅」は、しかし、よくわからない。「野にかかる虹」という章に収められている作品は、私にはよくわからないものが多いが、この作品もそうだ。詩の終わり、

そして火花散る闇の中に浮かぶぼくの顔を槍で刺せ
蛙の真赤な泣き顔を正面からおもいきり槍で貫らぬけ

 この二行は書き出しの短いリズムとも違いすぎている。「蛙」の比喩が唐突すぎる。

147 某日

落日の血を浴びているぼくの拳
そそくさとたちさる税吏
すぐそこで風を切る烈しい矢羽の音
ぼくは鳥籠の十姉妹にやる葉を刻みはじめる
ぼくの手はしだいにやわらかになつて
いつのまにか小さく小さく刻みはじめている

 この詩も前半と後半がさまがわりする。前半は「現実」の厳しさを書いたものか。後半は小鳥を世話する個人的な暮らしを書いている。小鳥のための葉をきざみながら、

ぼくの手はしだいにやわらかになつて

 いく。そのときの「やわらかに」がとても「肉体的」だ。葉を刻むという規則的な動きによって気持ちがととのえられていく。日常の仕事の大切さが、そこにある。平凡を繰り返すときの、しずかさがある。
嵯峨信之全詩集
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思潮社

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嵯峨信之を読む(94) 

2015-06-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(94) 

145 薊の花

真夜中
どんな星がすべてから離れて遠くへ飛散した

 魅力的な書き出しだ。星が星から遠く離れていく。「すべてから」が「ひとつ」を逆に強調する。孤独の美しさ。
 しかし、

その一すじの軌跡が残るのは詩人の心のなかだけだ

 こうつけくわえられるとき、その「孤独」は「論理的」になりすぎて、すこし窮屈な感じになる。ここまで書かない方が読者のころのなかに星の軌跡が動くかもしれない。書かれてしまうと、それは読者のこころのなかで起きたことではなく、詩人(嵯峨)のこころのなかだけで起きたことのようになってしまう。
 嵯峨のこころのなかで起きたことなのだから、それでいいのかもしれないけれど、それでは詩人(嵯峨)を特権化してしまっているようにも感じるのである。
 この詩は、いま見たように「真夜中」から始まるのだが、十二行のあいだに朝がきて、夕方になるとかなり忙しい。その最後に薊が出てくる。

その行手を薊の花で飾れ
散らばる悔恨の薊の花で飾れ

 「悔恨」ということばが、そこに描かれている詩人に「意味」を与えすぎているように思う。書き出しの「飛散」は「散らばる」と言い直されている。そのことによって、飛散した星が薊の花となって咲いているという「比喩」が完結するのだが、「悔恨」ということばに意味がありすぎて、なんとはなしに詩が重くなっていると感じる。

146 牧場(まきば)への道

 「約束を忘れたら/大きな重い氷冠をかぶつて思い出せ」と始まる。「氷冠」の「比喩」がわからない。最後の一行、

しかし誰もまだその真中の道を帰つてきたものはない

 の「真中」という指示の仕方が、書かれていることの「真剣さ」を暗示している。
嵯峨信之全詩集
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嵯峨信之を読む(93)

2015-06-19 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(93) 

144 擬盲人

 嵯峨は破壊とか否定、あるいは負の要素をそのまま受けいれない。破壊、否定、負を押し進め、「いま/ここ」をまったく異質なものにするということばの運動を、いつも回避する。
 そういう視点からみると、この作品は「野にかかる虹」の「ことばの動き」を引き継いでいる。

ぼくは盲目につよく憧れる
なにもかも見えなくなると他の領域がひろがってくるだろう

 盲目になると何も見えなくなる。しかし人間の肉体は、そういう負の要素を一瞬のうちに逆転させる。見えなくなった分だけほかの感覚が目覚める。聴覚が鋭く反応する。触覚が敏感になる。そういうことはたしかにあるだろう。
 盲目になると「視覚の領域」は狭くなる。しかし「聴覚の領域」は広くなるということがおきる。
 ただし、嵯峨は、私が想像したような具合に「領域」を広げてはゆかない。

水平線がいつもぼくの頭のなかにあるようにしよう
一列にならんだ帆船が遠い海上をぼくの心のなかへ帰つてくるようにしよう
そしてぼくの不在の港の方へ向つて
ぼくはぼくの暗い内側からその重い窓かけをひらくだろう

 「重い」ということばに「視覚」以外の感覚が動いているが、嵯峨の動かしているはもっぱら「想像力の視覚」である。「盲目」になったら、想像力の視力で世界を視覚化するのである。現実の眼ではなく、想像力の眼。「頭のなか」に眼に見えるように「視覚の世界」をつくりだす。「帆船」「遠い海上」を嵯峨は想像力の視覚でとらえている。
 この作品を読むと、嵯峨は、視覚優先の詩人だということがわかる。
嵯峨信之全詩集
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嵯峨信之を読む(92) 

2015-06-18 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(92) 

143 野にかかる虹

 この作品から「野にかかる虹」という章になる。

極貧の木魂がぼくを貫ぬく
眠れ眠れ
夜明けまで狂つた麦の野で眠れ

 ことばが意味よりも、意味を超える過激さを求めている。「極貧」や「狂つた」という修飾語は、尋常を突き破るためのもの。「美しい」という概念を破った向うに詩を見つけ出したいのだと思う。だからこそ、そのことばは「美しい」存在と結びついてみせるのである。

バクテリヤの花咲く空よ

 この一行は、そうした精神のありようを象徴的にあらわしている。美しくないものが美しいはずの花と結びつくことで、いま/ここを破壊する。それは、しかし「いま/ここ」ではなく、「いま/ここ」へとつながっている「過去」をこそ破壊する。「美の定型」(美の伝統)を破壊しようとしている
 おもしろいのは、それをただ破壊するだけではなく、ことばが次のようにつづくところだ。

バクテリヤの花咲く空よ
ぼくの大きな傷口を一夜で縫い合わせよ

 破壊によって生じた「傷口」を嵯峨はすぐに修復する。「傷口」をさらに破壊してしまうおうとはしないところである。破壊から引き返してしまうのだ。

蔓ばらのおびただしい数字よ
ぼくをその刺から解き放せ

 これも同じ「構文」といえるだろう。一方で「数字」という「抽象」によって精神を傷つけ、それからすぐに「抽象の刺」からの解放を夢見る。
 抒情は、嵯峨においては、つねに修復され、生き延びる。「野にかかる虹」ということば、その美しさは、破壊のときも追い求められている。
嵯峨信之全詩集
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嵯峨信之を読む(91)

2015-06-17 06:13:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(91)

141 死者頌

 古戦場がいまは田んぼになっている。その実りを見ながら、戦いで死んでいった武士を忍んでいる。死によってひとは偉大になる。

そして豊熟した稲田によつてお前の屍は飾られ
夜は星のひかりで
お前の名は暗い野川にふかく記される

 天(星)と地(川)を結ぶときにできる「広がり」はその「広がり」をこえて「宇宙」になる。「瞬間」は「歴史」と結びつき「永遠」になる。そういう祈りのようなものを感じる。
 ただし、前半に出てくる「雷撃は一インチのくるいもなくお前の頭上に打ちおろされたのだ」の「一インチ」が日本の風景(稲田)にそぐわない。武士を忍ぶという精神の運動が「インチ」によって「空想」になってしまったという印象が残る。

142 暁

昨日一羽の大きな鳥がすべるように越えていつた
だれもその鳥について知つていない
わたしはその鳥の行方をいつまでも眼で追つた
わたしが最後に見たその自由をただの鳥だというものがあろうか
鳥ははや鳥の上を越えて遠くへ消えていつた

 丘を越えて飛んでいく鳥。それを「自由」だと呼ぶのではない。丘を越えて飛んでいく「精神(魂)」を自由と呼び、また「鳥」という比喩で呼ぶ。
 比喩とは何かを別の何かで言い直すことだけではない。言い直すとき、その二つは交錯し、入れ代わる。
 「わたしが最後に見た……」は、そういう詩の特徴をあらわした一行である。
 このあと、作品は、鳥が帰って来ることを想像する。「血の地平線」ということばも出てくる。これはしかし、詩情を壊していると思う。「死者頌」の「一インチ」と同じように、「現実」を「空想」にしてしまっている。

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嵯峨信之を読む(90)

2015-06-16 06:12:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(90)

139 来者--Mよ

誰も知らぬ北の海よ
砂丘よ
冬の太陽と塩の愛で薊を勁くそだてる日々よ
大きな楯のかげでぼくが深い眠りにはいると
ぼくは夢のなかではげしい雷鳴に教育されるだろう

 最初の三行は架空のことばである。現実を踏まえていない。「薊」は砂丘の花ではないし、冬の太陽とも縁がない。かけ離れたことばを強引につないでイメージをかき乱している。
 それにつづく二行には「ぼく」が二度出てくる。この繰り返しが青春の自意識のようでおもしろい。「激情」に酔っている感じをあおる。現実に「雷鳴に教育される」のではなく「夢のなかで」というのが、青春らしい。
 架空のことばのなかで、過激な青春の血を流そうとしている嵯峨がいる。

140 青麦の上の男

槍でさぐつても
炎の奥はわからない

 この書き出しは魅力的だ。「激情」がどこからやってくるのか。なんの為にやってくるのか、わからない。しかし、「激情」になってしまいたい。自分を超えたい、という欲望を感じる。

死をこえる勇気はいつか実るだろう

 この「死をこえる」が「自分をこえる」ということ。「いまの自分」は死に、そのあとで「新しい自分」が生まれる。

峡谷に曙の光りがさしはじめると
その向うにひろがる広大な麦ばたけで
青い穂がいつせいに揺れだすだろう
太陽よ云え
もう間もなくその男がそこを横切つて行く時刻だ

 「新しい自分」(再生した自分)だからこそ、その麦畑はまだ青い。黄金に輝く実りの麦畑ではない。太陽もまた頂点に達していない。

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嵯峨信之を読む(89)

2015-06-15 09:41:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(89)

137 アルジェリアの歌

 この作品から「アルジェリアの歌」という章になる。「アルジェリアの歌」は奴隷になっている男へ向けた詩である。

夜ごとに
そこの壁に首をまげた奴隷の大きな影がゆれる
いつか大声で唄うために
彼は心のなかでじつと血を押し殺している

 「血を押し殺す」がなまなましい。

彼の舌はいま咽喉に縫いつけられ
彼の口は闇に釘づけされている

「舌」「咽喉」「口」と個別に語られることで、それと「心」を結ぶ「血」の動きが見えてくる。押し殺されない血が、舌や咽喉や口で暴れている。暴れているけれど、「こころ」がそれを押し殺そうともがいている。いや、もがいているのは舌、咽喉、口か。区別ができない。そこに苦しみがある。

138 会議は踊る

 搾取されるものと搾取するものが出会う「農場」を描いているのか。「農場」は実りの場であると同時に、戦いの場でもある。「アルジェリアの歌」のつづきで、そんなふうに読んだ。

世界中
いたるところが血漿を吐く季節の苺畑だ
殺し屋どもが
その苺畑の縄張り争いにいま血眼になつている
すぐ近くの高い絞首台を真夏の太陽がはげしく照りつけている

 苺の赤が真夏の太陽でさらに赤くなる。あるいは苺の赤が真夏の白い光をより濃いものにするのか。赤い色は、しかし、「殺し屋」と「絞首台」によって、逆になまなましさを弱めているように感じられる。
 「物語」に依存している詩は、嵯峨の場合、あまりおもしろくない。
 嵯峨はやはり「抒情」の詩人なのだろう。



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ダニエル・アルフレッドソン監督「ハイネ軒誘拐の代償」(★★)

2015-06-14 20:03:36 | 映画
監督 ダニエル・アルフレッドソン 出演 アンソニー・ホプキンス、ジム・スタージェス、サム・ワーシントン

 実際にあったハイネケン誘拐を映画化したもの。予告編で見たアンソニー・ホプキンスの演技に余裕があっておもしろかったので、見たのだが……。
 予告編で十分の映画だった。「大金と多くの友人を同時に手に入れることはできない。どちらかしか手にできない」というハイネケンのことば通りになるだけの映画。犯人がハイネケンを苦しめるというよりも、落ち着きはらったハイネケンによって、犯人側が動揺する。その変化を描いている。固い友情がだんだん乱れてくる。そのストーリーは手際よく処理されているが、肝心のハイネケンと犯人たちのかかわりが意外と少ない。
 見どころは一か所。
 誘拐されてもなお威厳を保っているハイネケン(アンソニー・ホプキンス)が生きている証拠の写真を撮る。ハイネケンは「髪が乱れている。櫛が必要だ」と要求する。で、犯人側のひとりが「落ち着きすぎている」と言う。ハイネケンが驚怖でおびえている顔でないと、誘拐の証拠の写真としては切実さがない。それを聞いた瞬間、もうひとりがハイネケンの髪を手でクシャクシャにする。ハイネケンが思わず手をはらいのける。その感情がむき出しになった瞬間を写真に撮る。「しまった」とハイネケンの顔がかわる。感情が出た顔をとられてしまった。犯人の思うつぼだ……。
 ここがなぜおもしろいかというと。
 やっぱり、役者はすごい。うまいなあ、とうならされるのである。実際にアンソニー・ホプキンスは突然髪をクシャクシャにされるわけではない。ストーリーではそうだが、アンソニー・ホプキンスは「脚本」を読んでいて、そうなることを知っている。で、「何をするんだ」と怒るだけではなく、怒った瞬間「しまった」と思う。この感情のはげしい変化を1秒もないうちにやってのける。役者の集中力のすごさを感じるなあ。
 このシーン、この演技に★1個を追加した。
                  (t-joy 博多スクリーン5、2015年06月14日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
最終目的地 [DVD]
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嵯峨信之を読む(88)

2015-06-14 09:40:49 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(88)

135 哀れな妻

妻はいない
妻はいる
妻はいつまでも木を揺すつている
木の中へ消えていつた自分をとりもどすために

 妻との行き違い。そして傷ついた妻。傷つけた自分。妻はいるけれど、いつもの妻ではない。
 それはわかるのだが、「木を揺すつている/木の中へ消えていつた自分をとりもどすために」という行が私にはわからない。「揺する」という動詞と、私の感覚ではつながらない。木は揺するものではない。木はただ手をあててみるのものだ、という思いがある。
 木を揺するのは、実った果実を振り落とすときくらい。
 わからないままだが、そのあとの二行は好きだ。

向う岸はいつもとおなじ岸だ
大きな鳥がななめに重く飛んでいつた

 「いつもとおなじ」が妻との行き違いを印象づける。妻の「いつまでも」が「いつもとおなじ」であるかのように見えてくる。何度も何度もそれを見ている。
 「大きな鳥」は妻の気持ちかもしれない。「ななめに重く」が、そんなことを感じさせる。その鳥は、「木」から飛び立ったのか。
 そうであるなら、なお、木を揺するがわからない。

136 背徳の日々

 「哀れな妻」とつづけて読むと、「哀れな妻」の「いない/いる」は嵯峨の「背徳」が原因という気もするが、よくわからない。あるいは妻が「背徳」しているのかもしれない。
 「哀れな妻」は嵯峨の「背徳」に対して「怒り」、悲しみにかえて木を揺さぶっていたのか。あるいは自分自身の「背徳」を妻は嘆いていたのか。「木」のなかには楽しい日々の妻がいるのか。「木」には何かの思い出があるのかもしれない。その木と大きな鳥を一緒にみた記憶があるのかもしれない。
 この詩では

ぼくは胡桃のように収縮した

 という行と、

振出しはいくつもいくつもあるが
結末はつねにたつた一つだ

 という行が印象に残る。「胡桃」は唐突な比喩だが、唐突だからこそ、嵯峨は胡桃というものになれ親しんでいるのだという感じが伝わってくる。自然を知っている、という感じがする。
 「振出し」の二行は、嵯峨の詩が「論理」を踏まえて動いていることを印象づける。「論理」があるから、比喩に流されていくということがない。
 また「論理」がことばを支配していると思うからこそ、「哀れな妻」の非論理的(?)な行動が気にかかる。

嵯峨信之全詩集
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柿沼徹「初七日」

2015-06-13 09:13:31 | 詩(雑誌・同人誌)
柿沼徹「初七日」(「ici」12、2015年05月15日発行)

 柿沼徹「初七日」は自己(対象)とことばの距離がおもしろい。

はじめのうちは
にぶい痛みだった

 この書き出しは何のことがわからない。主語がない。「にぶい痛み」を主語と考えることもできるが、どこが痛いのかわからない。「私」の「どこ」が痛いのか。それを書かないのは、そのことが「私(柿沼)」にとって自明のことだからである。
 自明のことは書かない。そのときの「自明」こそが、私は「思想(肉体)」であると考えている。ひとは誰でも他人の「思想(肉体)」はわからないが、自分の「思想(肉体)」はわかりすぎていて、ことばにできない。ことばにする必然性を感じない。
 この「必然」の感覚を、どこまで「ことば」のなかに維持できるか。

小雨のなか
四、五人の他人が連れ添うような
アジサイが咲いていた

そのなかに
ひとつ底意地が悪いのが
縁側の私を睨んでいる

 二連目の「主語」は文法上は「アジサイ」である。そうすると、直前の「他人」は比喩なのか。違うなあ。まず「私は」「他人が連れ添うよう」に集まっている、歩いているのを見たのだ。その集まり方が「アジサイ」のようだったのだ。「他人」が一連目の「痛み」のように、「私」の「肉体」と出会っている。それは言う必要がない。いや、わかりすぎていて、言えない。言えないから「アジサイが咲いていた」という「情景」で代弁してしまう。「アジサイ」の方が比喩なのだ。
 だから三連目の「睨んでいる」は「アジサイ」ではなく、「他人」が「睨んでいる」のである。「他人」のなかの「ひとり(つ)」は「底意地が悪い」。というのは、もちろん「私」の主観であって、客観的事実ではない。
 「主観」は「痛み」のように「実感」である。「実感」であるから、説明できない。「私」にはわかっているが、「他人」にはわからないかもしれない。けれど、そういうことは「私」にわかってさえいればいいことである。「他人」を指差して「あのひとは底意地が悪い、私を睨んでいる」とことばに出してしまえば、きっといざこざがおきる。だまって、「実感」を「主観」にとどめておく。
 この「主観」にとどめておくときの「滞留/停留感」が、四連目でつぎのように変わっていく。

そのころになると
扁桃腺が熱気をはらんで
膨らんでいくのがわかった
靴紐を結ぶことができなくなった

 ここまで読んで「痛み」が扁桃腺の痛みだったこと、風邪の引きはじめだったことがわかる。「私」にはわかっているから「扁桃腺」と書かなかった。けれど、いまは書いている。もう「主観」にとどめておくわけにはいかないのだ。いままでは「私」が「主語」だったが、いまは「扁桃腺」が「主語」になって「私」を動かしている。この「主語/主役」の交代を「膨らんでいく」という肉体の動きでとらえているのが、とてもおもしろい。
 「膨らんで」、その結果として「私」をのみこんでしまった。扁桃腺は肉体の一部であるが、いまは扁桃腺が「主役」で肉体のすべてを支配している。
 熱が出て、関節が痛み、靴紐を結ぶこともできない。
 「主語」は「私」ではなく、たとえば「他人」、そして「扁桃腺」。それが「私」を動かしている--という一定の関係(「私」とは一定の距離をたもって離れている感じ)でことばが動いている。
 この「一定の関係」が最後までつづく。

そんなことがあって、別の日
叔母から葉書が届いた
一行目、時候の挨拶が
のんきに吊り下がっている

梅雨があけても
扁桃腺の痛みは
焼け残った

 叔母からの葉書というのは会葬への御礼の葉書かなにかだろう。主題よりも「一行目、時候の挨拶」の方が目に止まってしまうのは、葬儀に参列したことは「私」には自明のことであり、またそこに書かれているのが「会葬への御礼」であることが自明だからだろう。
 実際にあったことから離れてみると、「自明のこと」はどうでもいい。わかりすぎている。「自明」ではないことがふいにあらわれて、「私」の「自明」を揺さぶるのである。揺さぶられて、「扁桃腺の痛み」に少しだけもどっていく。
 終わり方も自然でいいなあ。

 小説の技法のひとつは、対象との距離を一定にたもって世界を描写することにある。詩は、むしろ逆で、対象との距離を瞬間瞬間にねじまげる。そういう意味では、この詩は小説の技巧で書かれた詩なのだが、こんなふうにきちんとした技巧でことばを動かす作品は珍しいので、とても印象に残る。

もんしろちょうの道順
柿沼 徹
思潮社

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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嵯峨信之を読む(87)

2015-06-13 09:11:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(87)

134雄鶏

 女と別れたあとの自分の姿を雄鶏に託している。

ぼくは白い雄鶏がひろげる
太陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしく逞しい六月鶏を

 「白い」「かがやいている」「みずみずしい」という形容詞には嵯峨の願いがこめられている。女と別れたことは「こころ」に影響してきている。この三行の前に「あれから幾日たつたろう/あの契約がきれた日から女はやつてこない」という行があるのだが、その「契約」ということばの冷たさ、人間関係とは無縁の美しさ、健康さが雄鶏の描写にある。「こころ」が一種の倦怠のなかにあるからこそ、「肉体」だけでも健康でありたいと願っているのだと思う。
 「そして砂上には鶏のあし跡ばかりが点々と/ぼくのけがれのようを洗う呪文のようにつづいている」という行の「けがれ」は、女との契約の日々を嵯峨は不健康なものとみていたということを示している。この不健康は「肉体」にとってというより「こころ」にとっての不健康だろうけれど、それを「肉体」の力で回復したいのだ。
 だから、詩の最後は次のようになる。

ぼくはなにもかも忘れて眠りたい
眠りの外にあるぼくの肉体を
たれかが来て遠くへ運び去るまで

 眠って何もかも忘れる。それは「ぼくのこころ(精神)」が何もかもを忘れるのである。そうやって浄化された「肉体」が「眠りの外」にある。その力を回復したい。
 「たれかが来て遠くへ運び去る」とは、「ぼく」がその誰かとともに「いま/ここ」にある不健康を捨てて、健康のなかへ甦るということだろう。
 「こころを」ではなく「肉体を」と書いているところに、「こころ(精神)」の傷の深みがうかがえる。

嵯峨信之全詩集
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池井昌樹「頓と」

2015-06-12 08:49:11 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「頓と」(「臣福」101、2015年06月発行)

 池井昌樹「頓と」。いままで読んできた池井の詩とどこが違うのか。よくわからない。全行引用する。

いつもみかけたあのおとこ
ちかごろとんとみかけない
いつものこしたさけのかお
いつもいごこちわるそうで
かたすぼませてうつむいて
ばすまっていたあのおとこ
どこかへよっていたのやら
なにをおもっていたのやら
しったことではないけれど
ちかごろとんとみかけない
いつもみかけたあのおとこ
こんなところでひとりきり
ひとりごちたりわらったり
だれにもであわなくていい
なんにもおもわなくていい
どこにもいないあのおとこ

 いつものように、何回か繰り返される行が出てくる。その行の特徴は「いつも」ということばが象徴するように「かわらない」ということである。「いつもみかけたあのおとこ/ちかごろとんとみかけない」は意味としては「いつもと違っている」だが、違っていることから何かが始まるのではなく「いつもはこうだった」を思い出すがゆえに「かわらない」になってしまう。「いつもかわらない」何かを池井は思い出しているのである。
 そして、きっと「いつもとかわらない」まま「どこか」で「いつも」を繰り返しているに違いないと思うのである。そう思いながら、池井自身がその「いつもかわらない」になって「いま/ここ」で、それを繰り返している。
 「いつものこしたさけのかお/いつもいごこちわるそうで/かたすぼませてうつむいて/ばすまっていたあのおとこ」は池井自身である。その男になって「こんなところでひとりきり/ひとりごちたりわらったり/だれにもであわなくていい/なんにもおもわなくていい」と思っている。あのときだって、「いつも」の「おとこ」はそう思っていたに違いない。
 こんな変わりもしないことを書いて何になるのか。そういう批判があるかもしれない。あるとき、ある集いで何人かと話したとき「私は池井の詩がいちばん好き。池井がいるから詩を書いている」というようなことを言ったら、その何人かから口をそろえて「昔の池井の詩はよかったが、最近はマンネリだ」ということばが帰ってきた。
 うーん、きっとこの詩も、そんなふうに言われるんだろうなあ。
 でも、私は逆に考えているのである。何も変わらないのがいい。ほんとうのことは変わらない。いつまでも繰り返す。その繰り返すことのできるものだけを、ひたすら何度でも繰り返す。そうすることで「定型」になっていく。
 池井は「定型」をつくってきたのだ。「定型」へ向けて「生きる」。「生きる」ことを「定型」にととのえてきたのである。

手から、手へ
池井 昌樹
集英社
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嵯峨信之を読む(86)

2015-06-12 08:47:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(86)

133 ユーカリの木

本当にすばらしいじやないか
ぼくたちが別れた湖のところに一本のユーカリの木が立つていたのは
日記より
アルバムより
どこにいてもその香りは別れた日を思い出させる

 嵯峨はとても視覚的な詩人である。二行目のさっと描いた湖と木の関係にもその視覚の強さを感じさせる。ほかにも木はあったかもしれない。しかし「一本の」と書くことで、水平の湖の線と、垂直の一本の木が鮮烈に浮かび上がる。
 「アルバム」ということばが「写真」の視覚をひっぱる。
 嵯峨はこれに「香り」という嗅覚を結びつける。嗅覚は人間にとっといちばん原始的、それゆえに最後まで生き残る感覚だと言われるが、たかしにそれは「肉体」の奥を揺さぶる。「肉体」の奥を揺さぶられて、別れた遠い日が、いま、ここにそのままの姿であらわれてくる。
 視覚に嗅覚を融合させることで、人間の「肉体」がリアリティーをつかんだ。

日によつて
風のぐあいで
木の匂いとユーカリの香りとほのかに混じりあう
そんな夜はことに快く熟睡することができる
ぼくはその幸福のために湖のほとりを離れたがらない

 嵯峨の詩を読むと「精神的」な詩人であるとついつい思ってしまうが、こんなふうに「肉体」的でもあるのだ。幸福を「木の匂いとユーカリの香りとほのかに混じりあう」のを肉体(嗅覚)でしっかりつかみとり、それゆえに「熟睡できる」というのは、同じ快い眠りに誘われる感じだ。その湖へゆき、ユーカリの香りを嗅ぎたくなる。
 「ぼくは」「離れたくない」ではなく「ぼくは」「離れたがらない」と「ぼく」を客観的に見ている(突き放して見ている)のも、そこに「肉体」が「ある」という印象を強くしている。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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麻生有里「無音の揺りかご」

2015-06-11 09:46:32 | 詩(雑誌・同人誌)
麻生有里「無音の揺りかご」(「現代詩手帖」2015年06月号)

 「現代詩手帖新人作品/6月の作品」の、文月悠光の選んだ作品がいずれもおもしろかった。みずみずしい感覚の選を待っていたかのように、ことばが動いている。そうか、新しい詩は、新しい選者、新しい読まれ方を待っていたのか、と考えさせられた。
 そのうちから一篇、麻生有里「無音の揺りかご」。文月が新しい感覚で見つけ出したことばを、私のような古い人間が読むと、新しいものを古いものにしてしまうかもしれないが……。

屋根の近くをコウモリが飛び始めるころ
夜の 子がうまれる
わたしと夜とのあいだの 子が
部屋の真ん中に置かれた揺りかごに
かたちのない 子が眠っている
わたしは肉体を諦めることなく
弛めた手足を取り戻していく

 「夜の子がうまれる」ではなく、「夜の」でいったん切断されて「子がうまれる」とつづく。その「空白」の切断のなかに「肉体」が入り込んでくる。「空白の切断」と書いたが「空白の接続」かもしれない。
 「うまれる」ということは「うむ」主体があってのことなのだが、それは「夜」なのか「わたし」なのか。「夜の肉体」がうんだのか、「わたしの肉体」がうんだのか。筆者の「麻生有里」は女性だろう。女性だと思うと、無意識に「わたし(麻生)」が「夜」とセックスをして、その「子(夜の子)」をうんだと読みそうになるが、これは私が男で、古い人間だからである。
 麻生はあくまで「うまれる」と書いている。「うむ」ということばを遠ざけて「うまれた」子をみつめている。「うまれた」けれど、まだ「かたち」が「ない」。その「ない」ものに向けて、その「子」が「肉体」をもつために、何ができるかをみつめている。
 あ、「うむ」とは、若い女性は、こんなふうにみつめているのか。抽象からはじめて、それを具体化していく、抽象を肉体化していくことが、「うむ」なのか。自分の「肉体」の一部を「分離」するというのではなく、自分の「おぼえていること」で「抽象」を具体化していくと、そこに「子」という存在が「うまれる」と感じているのか。「うまれる」子を「具体化」することで、麻生は自分の失われた「肉体」を取り戻そうとしているのか。「肉体」がおぼえている「肉体」をもう一度取り戻すということが「うむ/うまれる」というこことなのか。
 私は子どもを産んだことはもちろん、ない。したがって「生む(産む)」ということを「観念」でしかみつめてこなかった。そのため、ここに書かれている「うまれる(うむ)」ということばと「肉体」ということばの関係にびっくりしてしまったのだろうか。
 文月の「選」のことばを引用する。

 麻生有里「無音の揺りかご」は、子を介した身体の獲得が描かれている。対象と少し距離を取った五連目の詩句が良かった。<短針と長針/子の周辺には/そういうものを置いていたい/治りかけたラジオや/泣きかけの受話器や/回りかけているレコードや/そういうものを置いてあげたい>

 こういう選を読むと、私は麻生のことを忘れて、文月は「短針・長針/ラジオ/受話器/レコード(プレーヤー、かな)」のような「機械」に属するものに憧れていたのかと思う。「少年」の「好み」に憧れていたのか、と余分なことを感じてしまう。自分にない「少年」の「肉体(思想/世界のつかみ方)」というものに、憧れのようなものを感じていたのかと思ってしまう。また、その「もの」の存在が「……かけ(て)」という途中であることに、「肉体」の「本質」を感じていたのかとも思ってしまう。
 これはもちろん麻生の「肉体」感覚でもあって、それに文月が共鳴しているということなのだろうけれど。
 麻生と文月は幸福な「出会い」をしている、とも思った。少なくとも、朝吹亮二だけの選では麻生の作品は活字になることはなかった。

 脱線したが……。

 私は文月が「良かった」といっている後の部分の方が好きである。文月が取り上げている部分は、男の私の、因習的な感覚からすると少年ぽい。そこには「肉体」というよりも「好奇心」のようなもの、「精神」のようなものが主導的に動いている。「肉体」が欠けている。「機械」は少年にとって精神運動が獲得した自由な肉体である。自分の肉体を超越した特権的な肉体であり、そこでは精神が肉体を離れて自由に動き回る。少女にとっては、その「異質な肉体」への飛躍(飛翔)がまぶしく感じられるということだろうか。そういう「特権的肉体」をもってみたいと憧れるということだろうか。--という感想も、また因習的かもししれないが……。
 私は、6連目からの方がおもしろかった。

夜は半透明で
子はもっと半透明なので
わたしはどうしようもなく
ただ肉体であるようにふるまう
雑誌にそう書いてあった
確か 肉体の彩度についても
かたちは多分要らないのだ
肢体の輪郭も中身も
半分はわたしたちをすり抜けて
夜がそれを大事そうにしまってくれる

 「半透明」に対して「透明」とは何か。きっと「短針と長針」、さらには「ラジオ」「受話器」「レコード(プレーヤー)」などの「肉体」から離れた「物質(と、それが動く構造)」が「透明」なのである。
 一方、人間の「肉体」は「不透明」。
 「子」は、「透明」と「不透明」のあいだに「うまれる」ので「半透明」。とはいっても、それは「わたしの肉体」が「不透明」であり、「夜の肉体」が「透明」というのとも少し違うだろうと思う。「わたしの肉体とその肉体がおぼえているもの」、「夜の肉体と夜の肉体とわたしが考えているもの」と「不透明」と「透明」を併せ持っている。それが複雑に結合して「半透明」の存在として「子」が「うまれる」。
 「半透明」の「半」は、「半分はわたしをすり抜けて」の「半分」になって言い直されているのを読むと、そう感じてしまう。
 途中に出てくる「ふるまう」という動詞。ここに私は「女性」を強く感じてしまう。「ふるまう」は私の感覚の意見では「半透明」。「少年」は「ふるまう」ということはできない。「少年」は「ふりをする」。「ふり」を意識し、嘘(虚構)をつくりあげるが、「少女」はやっていることの「半分」を信じながら肉体と嘘を融合させる。それが嘘であっても、そこで動いている「肉体」はほんもの、という感じ。
 ここには、私のように古い人間がもっている「因習的な感覚」を揺さぶってくる新鮮で輝かしく、また生々しい「肉体」が描かれているだ。

夜が終われば
次の闇を待てばいい
夜は子に無数のかげをあたえて佇む
しまいには きっと
肢体に整っていくに違いないことを
密かに気づきながら
今はただ無音のままに
わたしの手足がそのように動くことを
確かめるように子をあやす

 「ふるまう」は、この連では「(肉体が)整っていく」と言い直されているように思える。「ふりをする」では、整っていくのは「嘘という論理」であって「肉体」ではない。そういう違いがある。
 「密かに気づきながら」の「密かに」は「半分」だろう。つまり「半分気づきながら」ということだろう。「半分」気づけば、ひとは自分の「肉体(手足)」を動かすことができる。すべてを理解して「手足」を動かすのではなく、「半分」わかれば「手足」を動かしながら、あとの半分は動いた「肉体」が「肉体」自身の力でつかみとってくるもの、「本能」でつかみとってくるものに、その行方をまかせる。整うにまかせる。これが女性の生き方(思想/肉体)なのだろう。

 マーサ・ナカムラ「石橋」(特に4連目)もおもしろかった。
 文月がこれからどんな作品を取り上げていくのか。文月の選によって、詩の状況がどんなふうに変わっていくのか、「新人作品」を読むのが楽しみだ。

現代詩手帖 2015年 06 月号 [雑誌]
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嵯峨信之を読む(85)

2015-06-11 09:44:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(85)

132 余白のある手紙

 別れたひとの手紙を読んでいる「あなた」。「ぼく」ではなく「あなた」になって書かれた詩。

それを書いたひとのおもかげはもう跡かたもなく消えている
ふたりのあいだには匂うような日があつたのだろう

 「あつたのだろう」は対象を突き放したような感じがする。「ふたり」と客観的に書いていることも、何か冷たい印象を与える。詩というよりも「物語」を読んでいるような感じだ。しかし、

言葉すくなく語られている幸福が
いまあなたの顔をしずかにあげさせる

 この「顔をしずかにあげ」るという具体的な動きが、「物語」を「詩」にかえる。ストーリーではなく、一瞬の時間に視線を引きつける。「あげさせる」ではなく「あげる」だったらもっと感情が濃密になると思うが、「主語」を「あなた」ではなく「幸福」にすることで、感情を抑制している。「あなた」の感情を、それこそ「しずかに」表現している。
 「しずかに」というのは、単に「あなた」の動きではなく、嵯峨が詩を書くときの基本姿勢のようなものかもしれない。
 具体的でありながら、少し離れている感じ。距離をおいて客観的であろうとしている様子は、次の行にもあらわれている。

あなたはもつと空が明るくなればいいとおもつているようだ

 「顔をあげ」るという「肉体」が消え「おもつている」という「こころ」の動きが書かれる。それを「ようだ」としずかに書くのだが、この「ようだ」は不思議だ。単に想像(空想)を書いているのではなく、読者をそういう「想像」へと動かす。「ようだ」と感じたのは嵯峨なのに、詩を読んでいると、その「ようだ」が知らず知らずに自分自身のものになって、私は知らない「あなた」を思い描いてしまう。
 これは、やはりその前の「顔をしずかにあげ」るという肉体の動きが私の肉体に響いてきたためだ。つられて、私は「あなた」のように「顔をあげて」遠い空を見つめ、さらにその「あなた」を想像している嵯峨になってしまう。嵯峨になって「あなた」を思ってしまう。「顔をあげ」るという肉体の動きは、それだけ強い力を持っている。


嵯峨信之全詩集
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