詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリバー・ヒルシュビーゲル監督「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(★★★)

2015-10-18 22:40:49 | 映画
監督 オリバー・ヒルシュビーゲル 出演 クリスティアン・フリーデル、カタリーナ・シュトラー、ブルクハルト・クラウスナー

 「ヒトラー暗殺、13分の誤算」というタイトルから推測すると、なぜ13分の誤差が生じたのか、という謎解きを期待してしまうのだが……。まあ、ヒトラーは暗殺されなかったのだから、その理由(原因)を知ったところでおもしろくはない。それよりも、そうかヒトラー暗殺計画があったのか、ということに驚く。さらに驚くのは、その計画を立て、実行したのが組織に属さない「ひとり」ということである。
 音楽が好きで、女が好きで、「全体主義(ナチス)」は嫌いという青年。
 最初の方に「女好き」が、ていねいに描かれる。恋人がいるのに、ほかの女に目移りする。人妻にもこころが動く。からだも動く。二人目の恋人に「だれそれ(一人目の女)は恋人じゃないの?」と問われて「自由が好きなんだ」と答えているが、この「自由」が彼の行動のキーワードだ。
 最初の方に青年は時計職人として出てくる。そのあと家具職人として出てくる。時計職人(時計の修理)も家具職人(家具作り)も、ひとりでできる仕事である。ひとりで全体を見渡しながらものをつくる。そこにも他人から支配されないという「自由」がある。音楽は共同作業だけれど、彼のやっている音楽には指揮者はいない。互いの音を聞きながら、自分の音を出す。自分のパーツの楽器は自分で弾く。他人に手伝ってもらうわけではない。自分の仕事をていねいにやれば、他人と共同して楽しい音楽ができあがる。ここにも「個人主義」と「自由主義」がある。
 共産党には投票するが、共産党員ではない。共産党員の仲間から助けを求められれば助ける。しかし、「組織」には属さず、あくまで「ひとり」として行動する。「自由」な「ひとり」というのが、青年の生き方であるということが、さりげなく描かれている。
 暗殺計画よりも、「全体主義(ナチス)」がドイツを覆っていくとき、こういう人間がいたということが、とても興味深い。ドイツ人のすべてがナチスだったわけではない。そして、そういう人間を作り上げるのが「仕事」であるというのも、興味深い。時計職人、家具職人という仕事が彼を「ひとり」で生きることを育てる。共同で何かをするとしても、それは「音楽」のように、互いの存在を認め合いながらのことであって、だれかに指揮されて動くわけではない。
 互いの存在を認め合いながら--ということについては、とてもおもしろいシーンがある。青年の最終的な恋人となる人妻との出会い。タンゴを踊るシーン。女の方が青年を挑発してくるのだが、それを受け止めながら肉体が互いに反応して動く。そこではセックスはおこなわれないが、セックスよりも濃密な「関係」がそこに生まれてくる。「一対一」が互いを育てるのである。
 青年が求めているのは、あくまで「一対一」の関係である。
 ヒトラー暗殺も、彼にとっては「一対一」のことなのである。ヒトラーを殺す。そして「自由」になる。それが青年の目的だ。
 「誤算」があるとしたら「13分」ではなく、ヒトラーを暗殺できず、他人を殺してしまったことである。恋人だけではなく、家族など、他人を巻き込んでしまったことである。「一対一」でやろうとしても、社会が「一対一」を許さない。
 これはヒトラー側からの、暗殺計画の取り調べについても言える。青年がひとりでやった、と主張しても、「ひとり」を認めない。背後に組織があるはずだ、と考え、問いつめる。「ナチス対共産党」という構図の中で暗殺計画をとらえようとする。ひとりでできるはずがないと考えるのではなく、そういうことをする人間が「ひとり」であることを許さない、という感じ。どんな人間も「組織」に属している。ナチスに反対する人間は共産党に属しているはず、と考える。
 これはユダヤ人に対する態度そのものとも言える。「ひとり」を認めない。ユダヤ人という組織(?)は認めるが、個人は存在を認めない。「ひとり」が何をするかは問題ではない。「組織」が問題なのだ。「全体主義者」は他者をも「全体」として見てしまう。
 ここに青年の「視点」とナチスの視点の違いがある。
 ここから奇妙な歪みが起きる。
 青年は暗殺計画をひとりで実行する。その「事実」を将校のひとりが認めてしまう。組織的犯罪ではなく、個人的犯罪であると、青年の言い分を認めてしまう。そうすると、こんどはナチスがその将校を追い詰めていく。具体的には描かれていないが、その将校は処刑されてしまう。彼の事実認識(青年の行動に対する認識は)間違っていない。将校が侵した間違いは、ナチス(ヒトラー)が求めていた「答え」を読み違えたことである。ヒトラーは、暗殺計画が「組織」によっておこなわれた、という答えを求めていた。ヒトラーに歯向かう人間を「組織」ごと壊滅したい。「組織」を壊滅したいのであって、「個人」を殺したいのではない。「組織」を破壊するのなら一回でできるが、「個人」を殺すためには「ひとりずつ」殺さなければならない。これは、きりがない。
 ユダヤ人虐殺を思い浮かべるといい。ひとりずつ殺していては厖大な時間と人手がいる。ガス室で一気に殺してしまえば、ひとりひとりと向き合うこともない。「個人」の尊厳というものが「頭」から抜け落ちてしまう。「個人」を忘れてしまうと、ひとは平気で暴力的になれるということかもしれない。
 映画に即して言い直すと、青年を取り調べるときナチスは拷問をするが、それは青年の肉体を痛めつけているのではない。青年を人間ではなく、「組織」と見ているから平気で暴力を振るえるのである。また青年は拷問が彼ひとりに対しておこなわれているときは耐えられるが、それが恋人という別のひとりに広がっていくことには耐えられず、自白をはじめる。すべてを「ひとり」で受け止めるために自白するのである。だれかに、自分のしたことを波及させない。
 と、考えてくると。
 この映画は、私たちに「個人」であれ、「ひとり」であれ、と呼びかけているのかもしれない。「組織」に身を隠すな。「ひとり」として行動しろ、と呼びかけているようにもみえる。日本のいまの政治状況を思うとき、特にそういう見方をしたくなる。「ひとり」が自由に集まり、また「ひとり」にもどっていく。そういう「闘い方」が必要な時代なのだと思う。

 ストーリーに沿ったことばかり書いてしまったが。
 青年が取り調べの過程で思い出す「故郷」の風景が美しい。そこで暮らすひとの暮らしが、酔っ払いを含めて美しい。人間的だ。特に一瞬描写された森と雨の風景、雨が木々のあいだを立ち上り白く空気が濁るシーンにうなってしまった。そういう美しい暮らしにまで侵入してきて人間を破壊するのが「全体主義」(一億なんとか主義)である。
                       (2015年10月18日、天神東宝4)





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小川三郎『フィラメント』

2015-10-18 14:30:11 | 詩集
小川三郎『フィラメント』(港の人、2015年09月22日発行)

 小川三郎『フィラメント』の「黄金色の海」で、私は立ち止まった。

あたり一面
黄金色の海だ。

そのなかに
ひまわりが
ただ一輪だけ
咲いている。

ひまわりだけが
ただしいかたちをしている。

手を伸ばして触れてみると
ひまわりは
風に吹かれて
ふるふるとした。

それはまるで
私のことでは
ないようなのだ。

 この五連目の「それ」とはなんのことだろう。「ひまわり」だと思って私は読んだ。あるいは、ひまわりが「風に吹かれて/ふるふるとした」(ふるふると震えた/ふるふると揺れた)という「こと」を指しているとも読むことはできる。どちらにしろ、それは「私」ではない。「ひまわり」は「私ではない」。
 これは自明のことなのに、小川は「私のことでは/ないようなのだ。」と書いている。
 このことは、逆に言えば、小川は「ひまわり」、あるいはひまわりが「風に吹かれて/ふるふるした」ということを「私のこと」として感じている、感じることを欲望している、ということでもある。ほんとうは、「私はひまわりだ」と信じている。それなのに「わたしのことでは/ないようなのだ」。
 「比喩」が二重になっている。
 「私はひまわりだ」というのが最初の「比喩」だ。それは二連目の「ただ一輪」のことである。三連目で「ただしいかたち」と言い直されている。それは「ただ一輪」であるために、風を正面から受ける。そのことを知らせたくて「ふるふる」と動く。
 ただし、この三連目の言い直しは微妙である。比喩としての「ひまわり」に、比喩ではない「私の手」が触れる。「私」が「ひまわり」なら、「私」は「ひまわり」に触れることはできない。でも、触れる。
 このとき「私」は、やはり比喩なのだ。現実というより「ひまわり」にとっての比喩。言い直すと「私はひまわり」という比喩ではなく、「ひまわりは私だ」という比喩がここにある。「ひまわり」が主語。
 比喩の中で「ひまわり」と「私」が交錯し、見分けがつかなくなる。そこにある(いる)のは「ひまわり」か「私」か、わからなくなる。「比喩がある」ということだけが、わかる。
 「比喩がある」とは、どういうことだろうか。
 「比喩」として、何かを語りたいという欲望が、そこにある、ということだ。その語りたい欲望以外は、何もない。語りたいという欲望は、「ことば」となって、そこに噴出してきている。そして、そこに「ことば」が存在する。存在することになる。「私」でも「ひまわり」でもなく、「ことば」であること。
 その一瞬。
 それを次のように、

それはまるで
「ことば」では
ないようなのだ。

それはまるで
「論理」では
ないようなのだ。

 「私」を「ことば」「論理」と置き換えて読むといいのかもしれない。「比喩」そのものと。置き換えてもいいかもしれない。
 比喩にもどって見る。
 「ひまわりは私ではない」「私はひまわりではない」というのは、「論理(ことば)」としては正しい。けれど、「私はひまわりではない」という論理が正しいからこそ、その正しさを裏切って「私はひまわりである」というときに比喩が成立する。
 比喩とは「嘘」であり、間違ったものである。「論理」ではない。「論理」を超越したことばである。比喩は、そうやって詩そのものになる。

それはまるで
ことばでは
ないようなのだ。

 は、

それはまるで
「ふつうの」ことばでは
ないようなのだ。

 であり、それは「論理を超越した論理(ことば)」、つまり詩である。

それままるで
比喩で
あるようなのだ

 ということになる。
 私ではない「ひまわり」を「私ではない」というときに噴出してくるのは、「正しい論理」ではなく、「論理を超越したことば=詩」であり、その「論理」自体が比喩であることによって、この五連目は詩になる。
世界そのものになる。

 「私」が「ひまわり」であるとき、すでに「私は私ではない」。それなのに、それが間違いであるかのように「わたしのことでは/ないようなのだ」と感じる矛盾。そこに詩があり、また、その詩を支えているのが「ようなのだ」という表現、比喩の形で語られるのがおもしろい。
 あ、この「ようなのだ」というは比喩ではなく、推測と呼ばれるものだが、その推測のなかに「ようなのだ」という比喩の表現が含まれることが、この詩の比喩を活性化させているとも言える。
 「私はひまわりだ」と言えば「暗喩」。「私はひまわりのようだ」と言えば直喩になる。「ないようなのだ」の「よう」は推測であると同時に直喩であると読むことができる。そのことが、この作品をおもしろくさせている。

 比喩の中で比喩が動く。それはこの詩全体の構造でもある。
 「黄金の海」は「現実の海(黄金色の海)」、たとえば朝焼けの海、あるいは夕焼けの海のことではない。(真昼の海なら、黄金ではなく白銀、真夜中の月に輝く海も白銀の海、ということになるかな?)
 「あたり一面」ということばを手がかりにすれば、「私」は「海」のなかにいる。「海」のなかに「ひまわり」があるというのは不自然で、「あたり一面のひまわり」を小川は「黄金色の海」と呼んだのだと推測できる。
 「黄金色の海」自体が、すでに比喩なのである。
 「あたり一面」ひまわりなのだけれど、そのなかの一本(一輪)を小川は識別している。一輪に目をとめている。その一輪だけが「ただしいかたち」に見える。それが「私」。「ただしい私」。
 こういう比喩が生まれるとき、小川は「私の正しさ」は孤立していると感じているのかもしれない。正しいのに孤立してしまう。震えてしまう。そういうあり方は「私」なのだけれど「私ではない」という思いもある。正しいのなら孤立しないはず、という「論理」がそう思わせるのかもしれない。
 しかし、こういう苦悩は、他者にはつたわらない。
 そういうことが、詩の後半で語られる。

黄金色の海では
すべてが輝いている。

ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。

 「ひとにまつわる痛み」とは「私(小川)にまつわる痛み」である。そういうものを「世間」は気にしない。どうでもいい。だれだって自分の痛みだけで十分であり、他人(小川)の痛みなど気にしていられない。
 そういう「世間」が「比喩」の「ひまわり畑(一面のひまわり)」として動いている。このとき「ひまわり」は比喩であると同時に、比喩を突き破って現実でもある。植物は人事(人情)などに配慮をしない。「非情」の美しさをもってい輝いている。そして、それが「非情の美」として認識されるとき、それは「世間」という比喩と交錯し、そのなかに溶け込んで行く。

 どのことばが「比喩」で、どのことばが「事実」か。
 それはいちいち分析してもおもしろくない。比喩と事実が混じりあうというのは、「現実(事実)」と「私の思い」が混じりあうというのに似ている。それは相互に影響し合いながら動いていく。混じりあったものが「現実」であり、その「現実」がことばでととのえられたものが詩なのだ。

黄金色の海が
私の背中に
ざんぶと波を
押し寄せる。

それで私も
私の心も
いちだんとまた
ふるふるとした。

 もう、ここでは、「ひまわり」という比喩は消え、かわりに「私」と「私のこころ」が前面に出ている。

もうこれ以上
光はいらない。
私はじゅうぶん
透明であり
じゅうぶん
価値が
うしなわれていた。

 私は大きな海のなかに飲み込まれている。ひまわりの海に飲み込まれている。どの一本が私であるか、それを知っているのは私だけである。他のひとにとっては識別ができない一本、価値のない一本、いわば透明な存在にすぎない。
 けれど、その透明、無価値の一本を、私は識別する。

ただひまわりだけが
ただしいかたちを

ただかたちだけをしている。

あたり一面
黄金色の海だ。

 比喩にして語るしかないこころがある。比喩の中でしか動けないころがある。

フィラメント
小川 三郎
港の人


*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
panchan@mars.dti.ne.jp
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。

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詩集「注釈」発売中

2015-10-17 10:19:19 | 詩集
読売新聞(西部版)文化面に、渡辺玄英さんが『注釈』への批評を書いてくれています。
同時に批評されている陶山エリさんは、この日記で何度か作品を紹介したことのある詩人です。
月一回の「現代詩講座@リードカフェ」で一緒に詩を学んでいる人です。
今月の講座は、10月21日(水曜日)午後6時から、福岡市中央区薬院(西鉄バス「薬院大通り」、福岡市営地下鉄「南薬院」の近く)。
講座への参加もお待ちしています。(panchan@mars.dti.ne.jp)




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カニエ・ハナ『用意された食卓』(2)

2015-10-17 10:16:56 | 詩集
カニエ・ハナ『用意された食卓』(2)(私家版、2015年09月30日発行)

 カニエ・ハナ『用意された食卓』から、もう一篇、読んでみる。「狐」。「毬」と同様、なぜ「狐」なのかわからないが気にしない。

イチジクの木立を継続し
丘陵はまだ、
秋の日差しの中で
輝いていた、両手を広げて、
残す、しかし、描ききれない、
新たに、昨日と同じ場所に座って、
薄い筆圧に
この圧倒的な
空気を描写する
ことができない、

 これは前半。
 私がこの詩を気にいっているのは「薄い筆圧に」という一行があるからなのだが、末尾の「に」が曲者である。ここで、つまずく。この「に」は何?
 「薄い筆圧」とは「弱い筆圧」のことだろうか。筆圧が弱いために書かれた「線」が「薄い」から「薄い筆圧」というのか。この「薄い筆圧」ということば自体に、何か「常套句(なじみのあることば)」をつまずかせるものがある。つまずきながら、「薄い」ということばがもっている、「弱い、小さい、はかない」というような「領域」を思う。
 そして、まず、その「薄い筆圧の領域(世界)」に、つまり、そういう世界の中「に」圧倒的な空気を「描写することができない」と読む。「圧倒的」は「薄い」と対極にあることばだろう。「圧倒的」なものは「薄い」ものを破ってしまう。破壊してしまう。だから、そこに何かを「描くことができない」。
 このとき「に」は「場所」をあらわす。
 また別なことも思う。「薄い筆圧に」のあとに「は」を補って読んでみる。「薄い筆圧」が「描かれる場所(領域/世界)」ではなく「主語」になる。「濃密な筆圧(強い筆圧/高い筆圧)」なら強い線で「描くことができる」かもしれない。けれど弱々しい筆圧(薄い筆圧)では、圧倒的なものを描くことができない。
 このとき「に」は主語を「限定」する。あるいは「手段」をあらわす。「で」と言い換えることもできる。

 どっちが正しい? 「に」は何?

 これは、しかし、あまり「意味」のない「問い」である。「答え」を出してみても、それは「正解」とは言えないし、また「間違い」とも言えない。
 それよりも、そういうことを考える瞬間、ことばが動く。ことばが動きながら、そこに「ある」ということ。あるいは、ことばが「生まれてくる」ということが「詩」なのである。
 これが「正解」、これは「間違い」ということにこだわっていては、ことばは動かない。「正解」かどうかは、それを読んだ瞬間の、その人の「あり方」そのものとかかわってくることであり、そのひとの「あり方」というのは、書かれていることばの側からは限定できないことである。書いたひと(カニエ)には書いたひとの「正解」があるかもしれないが、その「正解」にしたって、読んだひとが「違った」読み方をした瞬間には、一種の「訂正」を求められる。「正解」にこだわるとき、それを「言い直す」必要が出てくる。「いや、これは、こうこうこういう意味です」と言い直さないと、それから先に「対話(ことばのやりとり)」が不可能になる。

 脱線したかな?

 「薄い筆圧」の「薄い」ということば。この「なじみ」のない表現のなかに動いているのは何だろう。「に」について考えたあと(考えると同時に?)、そういうことも思う。「薄い」は「弱い/あいまい」という具合に読み直すことができるし、「圧倒的な」ということばの対比とも読むことができる。
 そして、この「圧倒的」ということばに目を向けると、

この圧倒的な

 「圧倒的」に「この」という「指示詞」がついていることに気がつく。「この」とは、直前に書かれた何かを指している。
 「この」は何?
 「圧倒的な」にいちばん結びつきやすいのは「輝いていた」という動詞。その「主語」は「秋の日差し」か、「イチジクの木立」か、あるいは「丘陵か」。さらには「名詞(存在)」ではなく「継続し(継続する)」という「動詞」かもしれない。
 目の前にある「世界」そのものが、からみあい、濃密(濃厚)になりながら押し寄せてくる。「そのようにしてある」という状態そのものが「この」であり、それが「圧倒的」である。つまり、「継続し」ということが「圧倒的」なのだ。世界は「継続し(連続し)」ている。そして、この一行目の「継続する」は二行目では「まだ」ということばで引き継がれてもいるのだから、「この圧倒的な」の「この」は「継続がそのようにしてある」ということを指していると読んでもいいだろうと思う。
 「そのようにしてある」「この圧倒的な/空気」。それは「描ききれない」。だから、描き「残す」。そして、その残したものと「継続する」ようにして、「新たに、(きょうも)昨日と同じ場所に座って」描こうとするのだが、「描写する/ことができない」。
 そう読むと、「薄い」と「圧倒的」ということばが向き合いながら、そこに「世界」を出現させていることが、なんとなく「わかる」。
 この「わかる」は、まあ、私の「誤読」なのだが。
 言い直すと、私は「薄い」と「圧倒的」ということばのあいだにあって、そこから秋の日差しのなかに見えているイチジクの木立だの、そのつらなりだの、丘だの、あるいは日差しそのものだのの「確かさ(強さ)」は「私の筆力(筆圧?)の弱さ(薄さ)」によって、さらに「圧倒的」になっている、というようなことを「肉体」で感じる。その「秋の光景」を自分の力では描ききれないということを、自分が覚えていることを思い出すように納得する、ということである。
 カニエの表現していることを「正確に」理解するというのではない。私は私の覚えていることを、カニエのことばをつかって動かしている。そして、そのことばにそって自分の「肉体」が動くということが「わかる」のである。

 詩はこのあと「夕暮れ(日差しの残り)」から夜へと動いていく。

光の強度によって異なる
イメージを修正する
月が消えるとき、
火を保持し
水を含浸させることにより
合成される
水の水脈
明るく、暗く、
呼ばれる
後にあるものの
すべての始まり

 カニエのことばにそって私の「肉体」が動きはじめた後なので、この後半は私には非常になじみのなる風景に見える。カニエ「狐」になって、日暮れから夜への世界の変化を見ている、のかもしれない。(タイトルに意味があるとすれば、そんなところだろう。)私は「狐」になった体験はないが、夜、月が出て、それまで隠れていた川(水)が遠くで光って流れるのを見たことがある。そんな風景を思い出した。
 ここでは「圧倒的」が「強度」と言い直されている。「薄い」と「圧倒的」は「異なる」「修正する」という「動詞」で言い直され、「消える」「保持する」と言い直され、「含浸される」「合成される」ととも言い直される。それらは「個別」の「意味」を追いかけても複雑になるだけだ。「強度の異なる」ものが向き合いながら、「そのようにしてある」ということである。それはどちらかに「統一」できない。
 「明るく」と「暗く」、「後(終わり/終わる)」と「始まり(始まる)」という対比も同じ。対極にあるものが出会い、出会うことでそこにひとつの「世界」が噴出する。
 「イメージ」ということばをカニエはつかっているが、私は「イメージ」というよりも、そこに「出会う」という「運動/動詞」を感じる。そこにある世界が動いている、その動きにカニエの肉体の鼓動が共鳴しているのを感じる。
 
*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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カニエ・ハナ『用意された食卓』

2015-10-16 09:35:31 | 詩集
カニエ・ハナ『用意された食卓』(私家版、2015年09月30日発行)

 カニエ・ハナ『用意された食卓』に「毬」という作品がある。なぜ「毬」というタイトルなのかわからないが、わからないことはわからないままにして、勝手に「誤読」することにする。

犬の)鎖につながれて
地下室で窒息する私が
生まれるずっと前から
眠っていたひとの
傷ついた脳は
彼女に夢を見せたか(わからないが)
四十余年の長きにわたり
私たちに受動的な
仮死を
与えて、
たましいはせわしなく
日毎に入れ替わり
かろうじて「私」を保つからだは
ことあるごとに
裏切りつづける
にんげんの)鎖につながれて
犬のからだが波うつ
人間の地下室に
たった一枚の肉が
怒りのように押し寄せる

 「犬」と「私」と「眠っていたひと(彼女)」の三人(?)が出てくる。その三人の区別はかなりむずかしい。

犬の)鎖につながれて
地下室で窒息する私が

 この書き出しの二行は「犬」が「比喩」であることを語っている。この場合の「比喩」とは「いま/ここに不在」という意味である。犬の鎖につながれて「私は犬になって」地下室にいる。「犬=私」「私=犬」であり、その「比喩」を支えるのは「鎖」という「名詞」と「つなぐ」という「動詞」である。「鎖」の方がイメージしやすいかもしれないが、「つなぐ」という「動詞」の方が「肉体」に迫ってくる。
 「つながれる」は「窒息する」という「動詞」と密接に関係してくる。「つながれる」は「窒息する」へと「肉体」の状況を言い直し、拡大する。その拡大(延長)の先に「眠っていた(眠る)」「傷ついた(傷つく)」という「動詞」がつらなる。「つながれる」ことは「窒息する(閉じ込められて苦しくなる)」ことであり、そこではあらゆる「動詞」は制限され「眠った状態(動けない/動かない)」にある。動けないことによって(制限されることによって)、「傷つく」部分もある。動かず/動けず、傷つくことを「仮死」という「名詞」で言い直しているが、これは「仮姿として死ぬ」(半分死ぬ)という「動詞」、あるいは「半分生きる」という「動詞」としてとらえなおすことができる。「動詞」にしてとらえなおすとき、そこに「肉体」が共通のあり方として見えてきて……。
 「動詞」のつながりのなかで、「私」と「眠っていたひと(彼女)」の区別が、さらにあいまいになる。「私」を「彼女」と客観的(?)に言い換えたように感じられる。それは「私」を「犬」という「比喩」でとらえたことと同じである。「彼女」は「私」の「比喩」である。
 こうやって、「犬」「私」「彼女」は「私たち」になる。「私たち」という「呼び方」は「動詞」によって補強される。「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「動詞」を通って、あるときは「犬」、あるときは「私」、あるときは「彼女」に「分節」される。
 この「私たち」の関係をカニエは

入れ替わり

 ということばで表現している。
 カニエは「たましいはせわしなく/日毎に入れ替わり」と書いているのだが、「たましい」というものの存在を私は見たことがないし、感じたこともないので、これを「肉体」と読み替える。(誤読する)。
 あるときは「犬」として自分をとらえ、あるときは「私」そのものとしてとらえ、あるときは「彼女」ととらえなおす。「犬」と「彼女」は「比喩」あるいは「別称」というものかもしれないが、単なる「名詞」の「ずれ」である。「たましい」とカニエが呼んでいるものは、私の直観の意見では、「分節の仕方(認識のあり方)」をことばでととのえる作法をもっているもののことである。ひとが「精神/意識」と呼んでいるものと似ていると思う。(私は「精神/意識」というものも、信頼していない、存在しているとは考えていないので、ちょっといいかげんな言い方になってしまうが……。)
 この「入れ替わる」という「動詞」と拮抗する(矛盾する)形で、「保つ」という「動詞」がある。「入れ替わる」は「変化」、「保つ」は「維持」である。「矛盾」である。だが、それは「矛盾」するからこそ、しっかりと結びつく。

かろうじて「私」を保つからだ

 「からだ」は「ひとつ」に「保たれている」。その「保たれたからだ」のなかで「入れ替わり」がおきる。何かが(カニエは「たましいが」と書いている)入れ替わる。入れ替わることができるのは、そこに「からだ」が「保たれている」からである。
 「犬」「私」「彼女」という「比喩」のように、「保つ/入れ替わる」は切り離せない関係にある。
 この「入れ替わり(入れ替わる)」を別な「動詞」で言い直すと「裏切る」である。「人間」なのに「犬」という「比喩」を「肉体化」するのは、人間の肉体にとっては「裏切り」である。「私」なのに「彼女」というのも「裏切り」である。(論理の「矛盾」、あるいは論理の「齟齬」である。)また「犬」にしても、「人間」になってしまうのは、「裏切り」である。自分のなかで何かを否定している。傷つけている。眠らせている。(という「動詞」が、ここでよみがえってくる。)
 こういう「入り乱れ(交錯)」をカニエはさらに言い直して、

波うつ

 という。「からだが波うつ」。「意識が」あるいは「精神が」「たましいが」と言わず「からだが」と書いているので、私はなんだか「味方」を得たような気持ちになるが、そうなのだ、「いま/ここ」にあるのは「からだ(肉体)」というものだけであり、それがさまざまな「動詞」をとおって「動く」とき、それは波のようにつながったまま変化するのである。それが「生きる」ということなのである、と思う。
 そういう状況が「からだ(肉体)」が「人間の地下室」であるという「比喩」に結晶する。
 この状況に対して、最後の二行は、カニエが「怒っている」ということ、真剣に向き合い、その状況をなんとかしたいと模索していることを表明していると思う。「怒りのように押し寄せる」とカニエは「怒り」という「名詞」の形でことばを書いているが、「肉体」に還元すると(名詞を動詞に活用させて言い直すと)、「波が押し寄せるように/怒る」ということだろう。「押し寄せる波」という「形(肉体)」になって、「肉体」が「怒る」。--そう「誤読」した。

*

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中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』

2015-10-15 09:45:21 | 詩集
中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』(思潮社、2015年09月15日発行)

 中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』は「植生体系遺聞」と「失われた土地」というふたつの作品群から構成されている。私には前者がとてもおもしろかった。いわゆる「ウィルス」を「主役(主体)」にして書いている。「私」が主語ではない。だから、これは「私詩」ではない。
 「扉(ドア)をあけて」には「細菌(バイキン)」ということばが出てくる。
 
トントントン
扉をあけてくださいな

細菌(バイキン)ちゃんははいれません
ニッケルさんもはいれません
汗かきかんもはいれません
でも お忘れですか
ひらけ ごま! の呪文は
創口さんが知っています
みんながそろったら さあ呪文
扉があけばしめたもの
仲良くみんなではいりましょう
中は広いし
柔らかい
白い兵隊さんがやってくる
さあ 戦いのはじまりだ
乱闘死闘が繰り返され

湿疹かぶれただれ水泡(みずぶくれ)
かゆいかゆい 痛い痛い
開け放たれた扉はなかなか閉まらない

 「私詩ではない」と書いたが、しかし、そこには「人間」が見える。どうしてだろう。

 「創口」は「傷口」、「白い兵隊さん」は「白血球」だろう。「細菌」は生きるために傷口から「肉体」の内部へ侵入する。内部は「細菌」にとって住みやすい。というか、内部には細菌のための「養分」のようなものがいっぱいにある。そのことを、

中は広いし
柔らかい

 と、一種の「比喩」で書いている。「広い」「柔らかい」は「用言」である。それは基本的には「状態」をあらわしている。「広く+ある」「柔らかく+ある」。「ある」はbe動詞のようなものである。でも、私は、これを「広く+する」「柔らかく+する」、あるいは「広く+なる」「柔らかく+なる」のような形で読んでしまう。「する」とか「なる」ということばを補って「動詞」にして読んでしまう。そうした方が「細菌」の動きに合致するように思えるからだ。
 最近は傷口から人間のからだの中に入り、その「領土」を「広く+する」、拡大する。その「領土」はもともと柔らかいかもしれないが、さらに「柔らかく+する」。そうやってできた「やわらかい/新しい領土」が「湿疹かぶれただれ水泡」である。それは「細菌」がはいりこみ、つくりだしたものである。
 そこには「細菌」が「生きている」。人間が地球に生きているみたいに、「肉体」のなかで「生きている」。
 と、書いてくると(考えてくると/ことばを動かしてくると)。
 「人間」が地球に寄生する「細菌」のようにも思えてくる。私たちは地球に寄生し、地球に傷をつくり、それを勝手気ままに押し広げ、変形させている。
 地球はそのとき、人間のように「かゆいかゆい 痛い痛い」と言っているだろうか。

 どの詩でもいいのだが、どの詩でも同じことがいえる。書かれている「細菌」、あるいは「ウィルス」がまるで「人間」のようにみえる。あるときは「人間」という「総称」ではなく、ある「個人」に見えたりもする。
 どうしてだろう。

おやおや 入口がふたつある
あっちの入口毛むくじゃら
邪魔が多くて通りにくそう
こっちの入口は楽々入れそう
でも 時々しか開かない
チャンスを見計らって
それ!

 これは「とおりゃんせとおりゃんせ」の最初の方の部分だが、「細菌」と「人間」の区別を超えて、ここでは「動詞」が「共通している」。「動詞」こそが「比喩」のように動いている。「通りにくそう」「楽々入れそう」。「通る」「入る」という動詞が「細菌」の動きを表現するときにつかうかどうかわからないが、人間には、まあ、つかうな。で、そういう「動詞」に触れたとき、私の場合、私の「肉体」が動く。反応する。どこかを通る/どこかに入るときの「動き」を思い出す。「肉体」をどんなふうに動かして、通った/入ったか、を思い出す。そして、その動きに「細菌」を重ねてみる。「細菌」が人間のように手足を動かすわけではないだろうが、動かしているように感じる。
 「細菌」と「人間」は重ならないが、「動詞」が重なる。この「重なる動詞(共通する動詞)」が「細菌」を「人間」の「比喩」に変える。あるいは「人間」を「細菌」という「比喩」に変える。
 私の場合、「菌が人間になる」というよりも、「私が菌になって動く」という感じ。「肉体」を通して「菌とはこういう具合に動くものか」と納得するといえばいいだろうか。「こんなふうに動きながら菌は認識する、世界をつくる」ということを納得する。
 このとき大切なのは「動詞」である。「細菌」という「名詞/主語」ではなく、「動詞」こそが「比喩」を支えていると思う。
 「比喩」というのは、いま/ここに存在しないものを通して、いま/ここにあるものをより明確にする働きを持つが、そういうことが可能なのは「動詞」がいま/ここに存在するものと、いま/ここに存在しないものを「つなぐ」からである。
 「細菌」という「比喩」も「動詞」の使い方次第では違うものになる。どんな「動詞」をつかって人間とつなぐかということが、詩の重要な問題となる。
 このことを「流行の用語」をつかっていえば、どういう「動詞」をつかって世界を「分節」するかが、言語のいちばんの問題点である。「分節」ということばは、どうしても分節された存在(名詞)という形で目の前にあらわれるが、「名詞」よりも「動詞」が世界にとって重要である。人間は自分の「肉体」を動かせる範囲で世界を認識する。「肉体の動かし方(動詞)」が世界を「分節」するのである。
 「比喩」を支える「動詞」の使い方が、中塚の詩では、とてもしっかりしている。「動詞」がしっかり動いているので、「比喩」がつくりあげる「世界」が「現実」として見えてくる。

天使のラッパは鳴り響く
中塚鞠子
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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ナンシー・マイヤーズ監督「マイ・インターン」(★★+★★)

2015-10-14 22:02:38 | 映画
ナンシー・マイヤーズ監督「マイ・インターン」(★★+★★)

監督 ナンシー・マイヤーズ 出演 ロバート・デ・ニーロ、アン・ハサウェイ

 隣の席の女性(ひとりで見に来ていて、ポップコーンを食べながら見ている)が途中ですすり泣きをはじめた。アン・ハサウェイが夫の浮気に苦悩し、ロバート・デ・ニーロに訴えるシーン。えっ、でも、この映画って、そういう映画? 泣くための映画?
 びっくりしたなあ。
 そのあともアン・ハサウェイの感情の起伏に合わせて泣いている。
 うーん、この映画はキャリアを築いた女性の恋愛苦悩映画だったのか、と私は考え込んでしまった。
 もし、そうなのだとすると、これはかなり手の込んだ「恋愛」である。アン・ハサウェイは結婚していて、こども(娘)がいる。彼女自身は誰か新しい男を好きになる、というわけではない。専業主夫(育メン?)をやっている夫が浮気をする。そのことに苦しむのであって、彼女自身が誰かを好きになって苦悩するのではない。自分のなかの、抑えきれないときめき(感情)に、自分を見失うわけではない。
 こういうときでも、やはり「恋愛」なのだろうか。女の恋愛は、いま、好きな男を獲得するということがテーマではなく、好きな男をどこまで自分につなぎとめておくか、ということがテーマになったのか。
 ほおおっ、と思った。
 で、これが「仕事」とパラレルになっている。
 アン・ハサウェイは自分でアパレルの仕事をはじめ、企業にまで育てた。拡大のスピードが速すぎて、もう彼女だけでは経営を把握しきれない。そこでCEOを雇い入れることにする。雇い入れるといってもCEOがくれば、彼女がその指揮下に入ってしまう。簡単に言うと「部下」になってしまう。これは、ようするに好きな仕事(恋人)を他人に奪われること、「失恋」に似ている。夫の浮気は、夫が恋をしたのか、相手の女が夫を奪ったのか、まあ、どっちでもいいが、夫が他人のものになるという点で、CEOとアン・ハサウェイが築き上げた会社の関係に似ている。
 こういうこと、つまり、自分が築いてきた会社をだれかに乗っ取られる(?)という苦悩は、これまでは男社会のものであった。それが女の起業家の問題になるくらいにまで女性の社会進出が進んだということを、この映画は「恋愛」と重ね合わせる形で描いているのである。
 隣の女が泣かなかったら、このことに私は気がつかなかっただろうなあ。単なるコメディーと思って映画を見つづけただろうなあ。
 ロバート・デ・ニーロがもういちど会社で働いてみる気持ちになる。自分よりはるかに若い世代といっしょに働き、とまどい、そこに「笑い」が生まれる。その「笑い」をロバート・デ・ニーロがさまざまな表情で彩って見せる。そこにもし恋愛がからんでくるとしても、ロバート・デ・ニーロをアン・ハサウェイが好きになる、というようなことだと想像していた。
 ところがねえ。映画はもっともっと「現実的」。70歳(ほんとうはもっと年を取っている?)のアン・ハサウェイに30代のアン・ハサウェイは恋などしない。ロバート・デ・ニーロにはレネ・ルッソという、それなりに年をとった女が恋をする。レネ・ルッソを登場させ(しかもセックスまで匂わせ)、アン・ハサウェイの「恋」なんか、最初から封じ込めている。
 これは、これは……。
 ロバート・デ・ニーロが出るから「古くさい」映画だとばかり思っていたが、(実際、ロバート・デ・ニーロの見せる表情の百変化は「古い」のだが)、これはこれまでのハリウッド映画の「定型」を壊したところで動いている。
 まったく新しい映画なのだ。
 マンハッタンではなく、いま急激に変化しているブルックリンを舞台にしているのも、「新しさ」を描くには重要なことなのだろう。

 それにしても。
 もし、映画館で見なかったら、つまり隣に若い女が座り、その女がアン・ハサウェイの感情の動きに合わせて泣かなかったら、このことに私は気がつかなかっただろうなあ。アン・ハサウェイはわたしの好きな女優ではないし、ロバート・デ・ニーロは嬉々として演じているが、その表情には新しいものがあるわけではないし、せいぜいが★2個の映画である。
 でも、映画館で見て、あ、そうなのか、と気づかされた。他人の見方に反応して、私自身の見方が変わってしまった。映画館で映画を見る楽しみは、こんなところにもある。
               (t-joy博多・スクリーン8、2015年10月14日)






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山本和子「扉の言葉」ほか

2015-10-14 00:39:11 | 詩(雑誌・同人誌)
山本和子「扉の言葉」ほか(「扉」5、2015年08月10日発行)

 山本和子「扉の言葉」が掲載されている「扉」には「金井教室作品集」と書かれている。山本は、金井雄二の教室で詩を学んでいるのだろう。
 その作品。

巨樹巨木を見に行く
わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに
感謝
詩を書き続ける仲間に
大感謝
なにより元気な自分に感謝
巨樹巨木にお礼まいりと
やさしいわたしになりますように
願かけをしてきます
そして怖い詩が書けますようにと

 最後の「怖い詩」がおもしろい。その二行前には「やさしいわたし」ということばがある。「やさしい」と「怖い」は反対のことばではないが、反対に近いと思う。一種の相反するものが「わたし」を中心にしてつながっている。その振幅の大きさのようなものが、きっと詩の「手がかり」というか「入り口」のようなものなんだろうなあ、と思う。
 「やさしい詩が書けますようにと」だったら、きっとおもしろくない。「やさしいわたし」が「やさしい詩」を書くと、嘘っぽい。この嘘っぽいは、ちょっと説明がむずかしい。わかりきっていて、どきっとしない、ということかもしれない。わかりきっているので、わかりきっていることを言われると、逆に警戒してしまう。身構えてしまう。それは、もしかすると「書いたひと」ではなく「読むひと」の問題かもしれないのだけれど。あ、私の問題なのかもしれないけれど。書いたひとのことばのなかに「嘘」があるというよりも、「身構える」私の何かが「嘘」を呼び寄せるのかもしない。「怖い」と、この「身構え」ができない。「身構える」前にやってくるから、「怖い」のだ。
 「怖い詩」というのは、読者が「身構える」前に、読者にとどくことば、と言い換えることができるかもしれない。そうだね、そういうことばが書きたい。私も。
 この最終行の前にも、耳を澄ますと聞こえる「声」がある。「怖い」声がある。

わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに

 この三行のうちの「扉が開く」というのは「比喩」。それは「好奇心」と言い直されている。年を重ねるごとに「好奇心が生まれ」、「わたしの扉が開く」。どこに向かって? 「知らない世界」へ向かってである。その「知らない世界」というのは「知らない」がゆえに、「怖い世界」である。
 「好奇心」とは「怖いもの見たさ」のことである。
 詩を書いていると(仲間と詩を書いていると)、だんだん、「知らない世界」が見えてくる。わっ、怖い。どきどきする。でも、不思議と楽しい。わたしも他人を(仲間を)びっくりさせてやりたい。怖がらせてみたい。
 それは「巨樹巨木」の「巨」のようなものかな? 「怖い」というのは。いままで見たことがない何か。「樹/木」を超える「巨」のようなものかな? そういものがあるのは、わかっている。けれど、まだ「肉眼」では見たことがない何か、あるいは「肉眼」でしか見ることのできない何か、かもしれない。
 読みながら、ことばが互いに呼び掛け合っている--その声が聞こえる詩である。

 「いいこと」という作品は、足を骨折したときの一日を書いている。どこにでもありそうな「一日」である。

足を骨折して
いいことがあったのか

娘が来てくれたこと
一日が長いこと
夫が食事を作ってくれること
そんなことでは
ストレスは発散しきれないが
食事制限はなし
ギブスを付けてれば痛くもなし
と 一生懸命に自分に言い聞かす

ベランダから隣の双子の赤ちゃんの
泣き声が聞こえる
窓の向こうの夕空は
丹沢の山並をくっきりと画き
赤色の残るしっとりとした中に
一個、星が見える

めしが出来たぞ

 一、二連目は「散文」的である。「詩」の要素(?)は見当たらない。三連目も、書き出しは「散文」っぽい。
 ところが、

赤色の残るしっとりとした中に

 この一行は、どう? 「しっとり」は、どう?
 「しっとり」というのは「しっとり」濡れる、ということば(慣用句)があるくらいだから、「水分」となじみやすい。「しっとり」した肌といえば、水分が保たれた肌のことだ。
 でも、夕焼けの赤の「しっとり」は、どうだろう。「水分」を含んでいるのか。たぶん違うだろう。
 なぜ、「しっとり」と山本は書いたのだろう。「しっとり」とは、どういうことを指しているのか。
 「しっとり」水分を含んだ肌、水分を保った肌、ということばにもどってみようか。「しっとり」は「保つ」ということばとつながっている。「保つ」は「安定している」であり、「落ち着いている」でもある。「保つ」は「たくさん持つ」であり、「たくさん持つ」は「充実」でもある。「充実」は「濃密」でもある。落ち着いて充実している、静かな、濃密な、赤。
 たぶん、そういうことだろなあ、と私は想像する。
 で、それではなぜ、山本には「夕焼けの赤」が、その日「しっとり/充実/濃密」としたものに見えたのか。空がたまたまそういう状態だった、と言えばそれまでだが、きっと違う。
 「娘が来てくれた」「夫が食事をつくってくれる」というのは、「家族」が「家族」としての関係を「保つ」ということかもしれない。そんなことをしなくても「家族」ではあるのだけれど、なんとなくすごしていた「家族」がいつもよりも「近く」に集まって、「家族」という関係を「濃密」にしている。この「濃密(家族の充実)」が、「しっとり」とつながっている。
 こんなことがことばになるのは、山本が「やさしい」ひとだからである。「家族」というものに、非常に敏感なひとだからである。そして、その「敏感」がそのまま「しっとり」に深い陰影を与えるのだが、この陰影の与え方は、「怖い」と言えば「怖い」。そんな言い方を私は知らなかった。そんなときに「しっとり」ということばをつかうことを知らなかった。気づかなかった。そのくせ、そういわれると、その通りと思ってしまう。ぐい、っと引き込まれた。それ以外のことばはない、と思った。そこからぬけ出せなくなってしまった。あ、怖い。

 「正直」をもって、ことばと向き合っているひとだと思った。山本の書いている作品を「現代詩」と呼ぶひとはいないかもしれない。けれど「現代詩」である必要はない。そこにはたしかな「詩」がある。それをどこまでも「正直」に動かしていけば、それでいいと思う。

朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社

*

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J ・C ・チャンダー監督「アメリカン・ドリーマー 理想の代償」(★★)

2015-10-13 09:51:55 | 映画
監督 J ・C ・チャンダー 出演 オスカー・アイザック、ジェシカ・チャステイン、デビッド・オイェロウォ

 暗い映像がつづく。冬のニューヨークが舞台だから光が少ないのか。たしかにそうかもしれないが、そうではない。
 あれは買おうとしている土地でのシーンだったか。屋外。車が止まっている。その前で、主人公が顧問弁護士と話している。沈んだ冷たい空気がそのまま暗い色彩になっている。冬だから光がないのだ、と思っていたら、一瞬カメラが左側へすーっと動く。そうすると、そこにやわらかな光がある。地面に指すオレンジ色の光、光のために明るくなる地面が見える。
 ふたりは、「わざと」日影で話していたのである。というか、監督は二人を「わざと」日影で話させていたのである。なぜ? 光のなかの方が主人公の着ているコートのしなやかな美しさがわかる。二人の表情がわかる。感情の動きがわかる。これは、「わざと」わかりにくくさせているのである。「わざと」影のなかで人間を動かしているのである。
 どのシーンも、「表情」をわかりにくくさせている。
 わかるのは主人公がとても高級な服を着ているということ。(妻も、何か場違いとでもいえるような、しなやかな美しい服を着ている。妻は、セックスのこと、快楽のことを、いつもいつも考えているという感じで動いている。会計計算というか、粉飾の決算書をつくるときでさえ、セックスをしているような感じ--というのは、ちょっと脱線した感想か……。この奇妙なシーンは、妻の表情が「わかりにくい」ということの裏返しの証明でもある。観客は妻のその姿をみるとき、一瞬、ストーリーから脱線するのだから。)
 脱線してしまったが……。
 主人公にもどると、主人公の目が大きいということが、はっきりわかる。「表情」はわかりにくいのに、なぜか主人公の「目」だけはくっきりと見えるのである。実際の目の大きさ以上に、その目が強調されて見える。
 途中に営業マンにセールスのこつを教えるシーンがある。そこで「相手の目を見ろ。必要以上に長く見ろ」という台詞が出てくるが、まさにそれがこの映画で実践されている。主人公は観客(私)を見つめているわけではないが、主人公がスクリーンに映るたびに私は主人公の目と向き合ってしまう。微笑まない目だ。セールスのこつを教えているとき、新入社員が思わず微笑んでしまうが、主人公は「笑っている場合ではない」と叱る。それはしかし、叱るのではなく、自分に言い聞かせているのだ。「笑っている場合ではない、いつも真剣だ」。「コーヒーか紅茶、どちらをのみます? と問われたら紅茶と答えろ。紅茶の方が高級だからだ」。そういうことを考えている目である。相手が自分をどう見ているか、それをいつも真剣に考えている。別な言い方をすると、他人に対して「開かれていない/閉じこもった目」である。そういう目がスクリーンを支配している。
 この目を、少し離れてみるとどうなるだろう。その目で見ている世界は、他人が見ている世界と同じだろうか。主人公はクリーンに、正直一徹で業績を上げてきた。そしてそのままさらに事業を拡大しようとしている。彼には、他人の不正が見える。見えるけれど、そのまねをしようとはしない。あくまで自分の見ている「世界」へ向かって動いていく。薄暗い世界にあって、その「闇」には足を向けず、そこから「光」の方へ動いていこうとしているのだが、ほかのひとはそうではない。
 ほかのひとには、映画の色彩と同様、その世界は「日影」のあいまいさのなかに揺れ動いている。「光」と「闇」はまじりあって動いている。「光」を強調されると、困る。「影」が「闇」になってしまう。一徹な「正直」で世界を見ていない。むしろ「闇」を利用している。「闇」に隠れて、「光」を盗み取っている。それが、たがいをぼんやりとうかひ上がらせている。
 それだけではない。この映画には最後にどんでん返しがある。主人公の追い求めてきた「光」は幻である。それが「光」でありつづけるためには、背後に「闇」が必要だった。妻が「闇」を一手に引き受けて、「闇」を隠しつづけた。その結果として主人公の「光」があるにすぎない。そのブラックホール(?)へ主人公は落ちていくのだが、これは転落? 転落したのだとして、何が転落した? 事業の方は拡大する。成功する。だが、主人公は「明るい光」にはなりきれない。
 最後。主人公の目の前で運転手が自殺する。運転手の頭を貫いた銃弾が、背後の石油タンクに穴を開ける。そこから石油がどぼどぼとこぼれる。まるで主人公の「血」のように見える。「血」が流れるタンクの穴を、主人公はハンカチで塞ぐ。
 うーん、きちんと塞げたのか。それで塞いだことになるのか。
 このあと、私たちは主人公の大きな目を再びスクリーンで見ることはない。そのあとにつづくのは、「正直一徹な目」で見た世界ではない、そういう世界は失われてしまったということだろうか。そういう意味では、この映画は、過去を描きながら現在を告発しているのかもしれない。ニューヨークの地下鉄はきれいになった。殺人も減った。だが、その「美しい」表面の世界の奥で、何が動いているか。その「闇」を睨む目はどこへいってしまったか……。

 計算された色彩、しっかりした構図のなかにきっちりと収まった映画だが、収まりすぎている感じが窮屈である。「意味」の強さに反する、このスクリーンの「ぼんやりした暗さ」は私の好みではない。抑えきれない色彩や映像の暴走がある映画が私は好きなのだと、あらためて思った。
                     (KBCシネマ2、2015年10月12日)






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鍋山ふみえ「蝶の未知」

2015-10-12 09:35:55 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「蝶の未知」(現代詩講座@リードカフェ、2015年09月30日)

 鍋山ふみえ「蝶の未知」はイメージの変化におもしろいものがある。

いつもの通り道
わたしの目の前を
蝶が飛ぶ

上へ上へ
蝶は昇っていく
すこし翅が傷んでいるのか
ゆっくりと

さっきまで
たましいを乗せていた
小刻みに震えるうすい翅

上界には
生まれようとしている
光のアスパラガス
芒の穂ほどける
ルリ色の芯
しんしん雪降る遠方 

でも 
ほんとうのところ
蝶は
下へと降りていたのかもしれない

沈みくだると
ぽつぽつ地下茎 
渓流の聞こえ
壊死した根っこ
焦げた虫の翅

足を踏み入れる
湿ったふかみどりの苔
内側を撫でる
天蓋は暗がりの中

わたしは草をかき分ける
靴を脱ぐ
露に濡れる足の裏
足もとから背を輝かせて 
バッタが飛び出す

 受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1>蝶の羽が光に透きとおる感じ。
      四連目は最初に読んだときは緑のイメージ。
      二度目はいのちのことかなと思って読んだ。
      いのちが循環する。
      ことばの展開の仕方がおもしろい。
<受講者2>タイトルの「未知」は「未知数」。未来の不安な感じ。
      三連目は、「いまは魂を乗せていない」と読んだ。
<受講者3>最後に「わたし」が出てくるのがおもしろい。蝶がいなくなる。
      書き方が不思議。
      でもタイトルが気に入らない。「未知」は「道」という感じが……。
<受講者4>四連目の「光のアスパラガス」が好き。
      「上界」と「下界」の対比、生と死の対比がある。
      「未知」は死後のこと。蝶はそれを知らない。

 ことばを読むというのは、「意味」を読むこと。
 これは、ある「常識」になっているかもしれない。詩を読むときも、どうしても「意味」を読んでしまう。
 「蝶」「昇る」「傷」「魂」は、どうしても「死」を連想させる。「未知」はしらない、わからない世界。そして、それはたしかに「死」につながる。
 これを「蝶は/下へと降りていたのかもしれない」とつないでゆくとき、そこに受講生のひとりが言った「いのちの循環」が見えてくる。「下へ」というのは「生まれ変わる」ためにくぐりぬける「場」を指し示している。
 そういう「意味」とは別に四連目の「光のアスパラガス」以下の展開を、私も非常におもしろいと思った。六連目の「ぽつぽつ地下茎」以下も飛躍があっておもしろい。
 これを受講者は、どう読んだか。筆者の鍋山には、途中で「意見を言わないで、最後に聞くから」と言って、みんなの読み方を聞いてみた。

<受講者1>北海道のイメージ。
<受講者2>緑とルリ色が美しい。
<受講者3>「地下」「壊死」「焦げた」が死のイメージ。
<受講者4>光のイメージ。

 何度か「イメージ」ということばが出てきた。みんな、ことばを映像にして把握し直している。もっとほかの読み方はないだろうか。

<質  問>耳をすましてみて。何か聞こえない?
<受講者1>?

 実は、四連目と六連目は「しりとり」でできている。ことばが飛躍するとき、末尾の音を次の行の頭で繰り返している。なかに「芯(しん)/しんしん」「茎(けい)/渓(けい)流」という二音の「しりとり」も含まれる。
 鍋山に口止めしたのは途中で「しりとり」という種明かしをされると全員の反応を聞けなくなるからである。
 ことばは「意味」(イメージのゲシュタルト?)をめざして動くが、その動きを「しりとり」を入れることで、かき乱している。「しりとり」だと、どうしてもことばの選択が限定される。その「限定」を通ることで、無理が生まれる。その無理が「飛躍」につながる。飛躍がイメージを活性化させる。

 蝶が死に(夏がおわり)、バッタに生まれ変わる(秋がはじまる)。その季節の変化、いのちの変化を「意味」だけではなく、途中に「音遊び」を取り入れることで、ことばをかきまぜている。その部分だけ、別の「音楽」にして楽しんでいる。
 詩を読むとき(聞くとき)、少し耳をすますとおもしろい「音楽」が聞こえるときがある。

*

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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中上哲夫『中上哲夫詩集』(現代詩文庫214 )

2015-10-11 11:21:47 | 詩集
中上哲夫『中上哲夫詩集』(現代詩文庫214 )(思潮社、2015年06月30日発行)

 日曜の朝、『中上哲夫詩集』を決めてページをめくる。福岡は夜明け前に雨が降ったのか、犬と散歩していたらアスファルトが濡れていた。で、雨が降る詩を思い出す。雨の降る詩があったはずだ。「旅へ!」という詩。

霧のダブリンを歩きまわるセバスチャン・デンジャーフィールドよ
アフリカの奥地でスコールを浴びているバルダミュよ
世界はいつも雨だ
アメリカもアフリカもアラスカもモスクワも雨だ
やさしい黒い冷たい雨だ
雨にぬれてあなたの下着はひえる
雨のなかであなたの下腹は青ざめる
あなたの細い踝から膝までの硬い線
ああ、あなたの下着はどんなだろう!

 読みながら、詩とは、「意味」ではなく「音楽」なのだと思う。
 私は「雨」に誘われて「雨」を探したのだが、この詩でいちばん印象に残るのは「セバスチャン・デンジャーフィールド」である。その聞き慣れない「音」である。「霧」というセンチメンタルと「ダブリン」という聞いたことがある土地の名が「セバスチャン・デンジャーフィールド」という知らない「音」で叩かれる。そこから、「アフリカの奥地でスコールを浴びているバルダミュよ」というまた知らない「バルダミュ」という「音」が出てくる。
 この「音」は、中上にとっては(そして多くの読者にとっては)知っている「誰か」だを指し示していると思う。しかし、私はそれを知らない。私にとっては単なる「音」だ。「わからない」何かだ。そのことが私を刺激する。「音」の向こう側に、私の知らないものが動いている。知らない「存在」が動いている。
 この感覚、世界に知らない何かがある、そしてそれは「音」をもっている。「音」となって出現してきている。「実在」「明確な存在」ではなく、まだ形になっていないものが出現している。その「予感」のようなもの、これが私にとっての詩なのだ。「未知の音」は「予感」そのものなのだ。
 三行目は「世界はいつも雨だ」という知っていることばだけでできているのだが、知らない「音」を通ってきたあとなので、知っていることばなのに、何か知らないものがそこにあるように感じられる。「世界はいつも雨だ」ということは「事実」としてはありえないのに、ことばの動き(運動)のなかでは、それが「ほんとう」としてあらわれてくる。「未知の音」が、それを「ほんとう」にしてしまう。
 三行目の「世界」は「アメリカ」「アフリカ」「アラスカ」「モスクワ」と言い換えられる。最初の三つの音は「ア」から始まっている。そこに「音」のつらなり、「音楽」を感じる。「モスクワ」は「ア」から始まるのではないのだが、アメリカ「も」アフリカ「も」アラスカ「も」と「も」がつづいてきたので、それを引き継いで「モスクワ」になる。この「音」の変化、「音楽」になって動く存在、隠れていた「音」を拾いあげて、それまでの流れ(響き)を逆転させる瞬間に、何か世界がかきまぜられるような感じがして楽しい。
 「意味」はあるのだろう。「意味」は、どこにでも存在するというよりも、どこにでもつけくわえることができるものだろう。つけくわえられるたびに、「世界」はちがった風に見えてくる。最初から存在しているはずのものなのに、つけくわえられたものによって、新しく生まれてくる。その新しい生まれ方が「音楽」だ。

雨にぬれてあなたの下着はひえる
雨のなかであなたの下腹は青ざめる

 「雨にぬれる」というのはあたりまえ。しかし、「雨にぬれる」と「下着」までぬれるか。これは、ちょっとむずかしい。ぬれることもあるだろう。ずーっと雨のなかにいれば、雨がしみ通ってくる。「雨にぬれた下着」はたしかに「ひえる」。ここでは書かれている「事実」のために必要な時間を、ことばが追い越している。ことばのスピードが速い。描写が猛烈なスピードで進む。
 それは次の「下腹は青ざめる」につながる。これは「下着はひえる」を言い直したものだが、「下着」から「肉体(下腹)」への変化には、「音」の繰り返しがつくりだすスピードが加担している。「雨にぬれてあなたの」「雨のなかであなたの」という類似の「音」、「下着」「下腹」という「下」という「頭韻」、「ひえる」「青ざめる」の「脚韻」が響きあって、「音楽」のなかで「世界」を凝縮させる。
 中上の詩には、「音」による「攪拌」と「凝縮(結晶化)」が同居している。そのために、ことばがいきいきして感じられる。この「いきいき」という「音楽」が詩なのだと思う。

 雨にぬれて、下着までぬれて、そのために下腹が青ざめる(病気になる? 下痢しそうな感じ?)というのは「楽しい」状況ではない。自分がそんな目にあったらきっと憂鬱だろう。しかし、そういう「陰鬱」な状況であっても、そのことを語る語り方次第では「いきいき」と感じられる。ことばが「いきいき」と動いているので、なんだか楽しくなる。ことばが、ことばのなかを突っ走り、勝手に動いていく。暴走する。「意味」はそれに輪郭を与えるだけだ。そして、その与えられた輪郭をさらに「音楽」が勝手に破っていく。
 あ、中上は「勝手に」ではなく、きちんと「意味」があるというかもしれないが、私は「意味」を気にしない。「論理的な意味」ではなく、「暴走するエネルギー」そのものに「生きている意味」があると思う。

あなたの細い踝から膝までの硬い線
ああ、あなたの下着はどんなだろう!

 「下腹」という「肉体」が「踝」「膝」へと動いていく。「細い踝」の「細い」は「青ざめる」に通じる。「膝までの硬い線」の「硬い」は「ひえる」に通じる。「意味」の「連想」は違う「音」になって広がり、また「下着」にもどる。
 入り乱れた「しりとり」のよう。あるいはジグザグの登り道のよう。急な坂を猛スピードで上るのはむずかしい。けれどジグザグにならスピードを落とさずにのぼれる。距離は長くなるが、スピードで乗り切ってしまう。ジグザグを遠回りとは思わないエネルギーの横溢。「音」があふれてきてしまう。「音」があふれて、勝手に「和音」と「リズム」をつくり「音楽」になってしまうのか。

愛やスカートや猿の砂漠をいくつ越えても雨だ
そこはやはり臭い立つ世界だ
おれのたびは旗とハンカチの旅行ではなく逃亡の影だ
おれのテーマは逃亡である
リチャード・キンブルのドラもなくバルダミュの愛もない逃亡だ
逃亡には強い心臓と胃腸が必要だ
そしてリチャード・キンブルの性的魅力!

 「臭い立つ世界」というのはセリーヌのことばであり、ここに中上の書いている詩の「テーマ」があるのだけれど、私は「テーマ」にはあまり関心がない。「テーマ」よりも、「リチャード・キンブル」という「音」の闖入によるイメージの活性化がおもしろいと感じる。「愛」に対して「性的魅力」ということばが向き合うスピード、その暴走の速さがおもしろいと感じる。
 「臭い立つ世界」を「哲学」にして語るのではなく、ことばの暴走というエネルギーのなかで実践してみせるときの「音」の楽しさ、「音楽の喜び」を感じる。
 ことばを元気にしてくれる詩だ。

中上哲夫詩集 (現代詩文庫)
中上哲夫
思潮社


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谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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ヤン・ドマジュ監督「ベルファスト71」(★★★+★)

2015-10-10 10:20:40 | 映画
ヤン・ドマジュ監督「ベルファスト71」(★★★+★)

監督 ヤン・ドマジュ 出演 ジャック・オコンネル

 1971年のベルファストを描いている。プロテスタントとカトリックの対立が劇化している。IRAのテロもある。その紛争解決(仲介?)のために送り込まれたイギリス軍。その新兵が主人公。奪われた取り返すために少年を追っていて、ただひとり状況のわからない街にさまよいこむ。誰が敵で、誰が味方か。
 見どころは、その敵か味方かわからない状況をどう生き抜くか、というよりも、どういう状況でも「新人」がいて、「ベテラン」がいて、また「退役」したひとがいる、ということである。
 サバイバルものの映画なので、どうしても目は主人公のイギリスと「新兵」に集中してしまうが、「敵」の側にも「新兵」がいる。「新兵」未満がいる。まだひとを殺したことがない。この少年が、この映画に深みを与えている。
 敵であるイギリス兵を殺せ、と「教え込まれている」。憎しみの目でイギリス兵を見ている。「前線」には加わったことはないが、銃の準備をしたりしている。(母親は、はっきりとはそれを知らないが、息子が紛争に巻き込まれていくこと、その活動のなかで「兵士」になっていくことを心配している。)その少年がクライマックスで主人公の新兵を「射殺しろ」と銃を渡される。銃をかまえる。しかし、なかなか引き金がひけない。頭では「殺す」ということを教えられているが、「からだ(肉体)」が動かない。新兵は無防備。自分が殺されることは絶対にない。いわば少年の安全は保証されている。だが、「安心して」銃の引き金をひくということができない。
 「安心」は、別のところにあるのだ。言い換えると、「不安」は別の形になって、少年をつかんでいるのだ。
 「殺す」ということを少年は「概念」で知っている。仲間が殺された(死んだ)ということも知っている。実際に、殺される瞬間を見たかどうかはわからないが、そういうことがあることを知っている。しかし、実際にひとを「殺す」ということ、「肉体」は知らない。こころは知らない。そのとき何がおきるのか、わからない。目の前で肉体が死んで行くというのはどういうことなのか、わからない。ひとを殺したら自分がどんなふうになってしまうのか、それがわからない。それが少年の「不安」である。相手の変化(死ぬ)と同時に自分の変化が「不安」なのである。自分のことが「安心」できない。それは「不安」というよりも「驚怖」に近いかもしれない。「殺す」というのは「怖い」ことなのだ。相手を殺す前に、自分の「驚怖/不安」を殺さなければならない。
 これはきっとあらゆる「新兵」に起きる。だからこそ兵隊になったら「殺す」ということができるように「肉体」を変えていく。キューブリックの「フルメタルジャケット」がこの過程を克明に描いているが、銃を自分の「肉体」にする、罵詈雑言を「頭」ではなく「肉体」で反復できるようにする。なじませる。「憎しみ」をつくり出す。
 射殺される寸前の新兵(主人公)は殺さないでくれ、と頼む。そして、そのときためらう少年の姿を見る。ためらっているのがわかる。殺されるという「驚怖/不安」と同時に、少年の「不安/驚怖」もわかってしまう。
 そのじりじりする「時間」。そこへ新兵を救いに来た男があらわれる。銃をかまえている少年を見て、即座に射殺する。彼は「ベテラン」である。銃を見ると、即座に「肉体」が反応する。銃をもっている少年が「不安/驚怖」で動けないでいるとは考えない。先に殺さなければ自分も殺される。これは戦場ではだれもが教えられる「鉄則」であり、それを男は実践している。
 うーん、と私はうなってしまう。
 「新兵」(新兵未満)から「ベテラン」へかわるまで、ひとの「肉体/こころ」はどう変化するのか。何を乗り越えるのか。何を乗り越えないといけないのか。そして、それは誰にでもできることなのか。
 もうひとりの重要な人物、「退役」してしまったひとは、「殺す(死ぬ)」ということに対して、どう動くか。新兵が負傷しながら逃げる。道に倒れている。それを退役した兵士(衛生兵)と娘が見つける。娘の方が先にイギリス兵だと気づく。かかわってはいけないと、不安になる。かかわれば自分たちが攻撃される。だが父親は傷ついた人間をそのままにしておけない。「衛生兵」として働いたときの「肉体」が、そうさせる。「こころ(倫理)」の問題としてではなく、「肉体」がそう反応してしまう。そのあとを「こころ/倫理」が追いかけている。この「肉体」と「こころ」の関係が、たぶん、私たちが考えなければならないことなのだと思う。
 少年が射殺をためらう。それは「こころ」が「肉体」に追いついていない。「こころ」が「肉体」よりも大きな存在になっていない。「こころ」が「肉体」をリード(支配)していない。「こころ」はいつでも「肉体」のあとを追いかけるものなのだ。「肉体」が動いて、そのあとに「こころ」は遅れてあらわれる。遅れてしかあらわれることができない。
 ひとを殺したあと、「こころ」はどうなるか。平気なひともいるようだが、「こころ」が傷つくひともいる。「肉体」は傷ついていないが、「こころ」に「肉体」の動きが深い傷を残す。どんな傷になるか、それは体験してみないとわからない。遅れてしか、わからない。それが「戦争」というものなのだろう。「肉体」は死ななくても「こころ」が死ぬということがあると、「軍隊(のベテラン)」はわかっている。だからこそ、訓練で「人間性」を剥奪する。「こころ」をたたき壊してしまう。先に「こころ」を殺しておいて、「こころ」が傷つかないようにするのだ。

 戦争が人間に何を引き起こすのか。私はその「現実」を「肉体」では知らない。わかっていない。
 戦争を語るとき、好戦派(?)は「敵の脅威」を問題にする。その人たちは、自分が戦いの前面に立ち相手を殺すとき、自分のなかに起きる変化を考えたことがあるのか。私はもちろんだれかに殺されたくはない。しかし殺すというのも簡単にはできないと思う。殺されるのは一瞬だが、殺すのはきっと一瞬ではない。そのあと、生きている間中「殺した」ということがついてまわる。その「自分のなかの不安/脅威」にどう向き合っていけばいいのか、見当がつかない。「殺される」ということについて、「死ぬ」ということについて見当がつかないのと同じだ。
 九月一九日、国会で「戦争法」が成立したが、賛成した議員はこの問題をどう考えるだろうか。「個人の問題など知らない。個人よりも国家のことを考える」と言うだろうか。だが、戦場で戦い、死んで行くのは「国家」ではなく、「個人」である。「ひと」である。「私」である。「誰か」ではなく、それはいつでも「私」なのである。
 映画にもどって言えば、クライマックスのシーン。イギリスの新兵は射殺されなかった。「肉体」は生き残った。けれど、彼の「こころ」はどうか。彼を殺そうかどうしようか迷っていた少年の「こころ/不安/驚怖」、その少年への「共感」は少年といっしょに殺されてしまった。そして殺されてしまったにもかかわらず、その「こころ」は主人公の「肉体」に住みついて、生きている。生と死の「矛盾」のようなものが、主人公を絶望させる。生きているのに、希望ではなく、絶望するしかない。
 ここから、どうサバイバルするか。だれも答えを出せない。そのひとにしか「答え」の出しようがない。「戦争」に「結論/決着」はない。そういうことを考えるために、この映画を見てほしい。そう願って★一個を追加した。
                      (KBCシネマ2、2015年09月30日)






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小笠原茂介『雪灯籠』

2015-10-09 10:02:19 | 詩集
小笠原茂介『雪灯籠』(思潮社、2015年08月31日発行)

 小笠原茂介『雪灯籠』の全編に「朝子」が登場する。亡くなった小笠原の妻だと思う。亡くなってしまったが、いまでもそばにいる。そのなかの「母の形見」という作品。

和室の襖があいている
覗いてみると朝子がいた
自分の母の形見を
欄間いちめんに掛けている
おそるおそる声をかけると
---土用干しよ どうせあなたはしてくれないでしょう
これは銘仙 これは大島 名を挙げながら
--どうせ あなたには分からないわね
いって笑う
二枚のあいだに立ち 両方を引き寄せて顔だけを出す
---みんな いっぺんは袖を通しておくんだったわ

いったときには 笑いは消えていた

 最後の一行は「どうせあなたはしてくれないでしょう」「どうせ あなたには分からないわね」と言ったときは笑っていたのに、という意味を含んでいる。「どうせあなたは……しない(できない)」と愚痴をこぼしながら妻がいろいろなことをやっている。それを小笠原は見ている--そういう暮らしをしてきたのだろう。愚痴をこぼしながらも、同時に微笑みもし、妻はそういう暮らしを受けいれてきた。
 でも、その軽い愚痴の背後には、何かが隠されていた。妻は何もかもを受けいれていたわけではない。妻には妻のしたいことがあったはずである。

---みんな いっぺんは袖を通しておくんだったわ

 母の形見の和服、それを一度は着てみるべきだった。このことばは、実際に朝子が言ったのか。
 小笠原が書いている情景は、記憶の情景とも、幻想の情景とも受け取れる。
 記憶の情景なら、そう言ったあと、妻がその願いを実現する機会があったかもしれない。あるいは、記憶の情景であっても、すでに体調を崩したあとのことであり、実際にその着物を着て出かけるということは不可能な時期だったかもしれない。その不可能を思い、小笠原は妻を哀れんでいるのだろうか。
 たぶん、そう読むのがいちばん「現実的」だろうと思う。
 私は少し違う風に読んでみたい。
 妻が母親の形見の和服を土用干ししている。ここまでは実際にあった情景だが、「いっぺんは袖を通しておくんだったわ」は妻が実際にいったことばではなく、小笠原が想像したことばであると読んでみたい。
 あのとき妻は、こころのなかで、そんなふうに願っていたのではないのか。
 それは、小笠原のこころのなかに生きている朝子が、「いま」、そう声に出しているのである。小笠原が朝子になって、朝子のこころを代弁しているのである。

---どうせ あなたわたしのこころなんかわからないわね
---いや、いまならわかるよ

 それは小笠原の「真剣」である。
 「土用干しよ どうせあなたはしてくれないでしょう」と朝子が笑いながら言ったとき、小笠原は微笑み返すことができた。「どうせ あなたには分からないわね」と笑われたときも、小笠原は微笑むことができただろう。なせなら、それは、「いつか」はやるかもしれないし、「いつか」はわかるかもしれないことだからだ。「いま」しない、「いま」分からなくても、困らないことだからだ。そしてそれはまた、そのことばを言った瞬間の(いまの)朝子にも言えることだ。「いま」言いながら、「いま」を意識していない。もっと長い時間を思っている。「いつか」することがあるかもしれないと、ゆったりと思い描いている。
 しかし、その「いつか」がもうなくなってしまった。何かをするとしたら「いま」しかない。そして、その「いま」はもう手遅れになっている。間に合わない。
 それが「いまなら」わかる、ということだ。

 最終行の「いったときには 笑いは消えていた」の主語というか、「笑い」の持ち主は、朝子であり、また小笠原である。ひとり朝子の顔から「笑いは消えていた」のではない。小笠原の顔からも「笑いは消えていた」。区別はない。ふたりは「ひとり」になっていた。
 そういうことが伝わってくる。

 さらにここから「誤読」を押し進め、私は小笠原が朝子になって、朝子の母の形見の和服をはおってみる姿まで思った。鏡の前で、「ほら、これが袖を通した姿だよ」と言い聞かせている小笠原を思った。ふたりが「ひとり」になり、その「ひとり」の「肉体」で小笠原は朝子の気持ちを「いま」生きるのである。「いま」のなかで、「過去」がいきいきと動くのである。母の「肉体」を感じている朝子(の「肉体」)が動く。
 亡くなった妻を思い出しているというより、亡くなった妻を「いま」小笠原が生きている、ということを感じさせる詩集だ。
雪灯籠
小笠原 茂介
思潮社
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バラン・ボー・オダー監督「ピエロがお前を嘲笑う」(★)

2015-10-08 08:44:36 | 映画
バラン・ボー・オダー監督「ピエロがお前を嘲笑う」(★)

監督 バラン・ボー・オダー 出演 トム・シリング

 最後のどんでん返しが話題になり、「本国ドイツで大ヒットを記録し、早くもハリウッドでのリメイクが決定した話題のクライム・サスペンス」というのだけれど、どんでん返しが話題ということは、それまでがつまらないということの証拠。映画じゃないね。こんなものをリメイクするというのはハリウッドの衰退を決定づけるだけ。
 ハッカー集団が、サイバーマフィアと警察(国家権力?)の両方から追われる、というのが基本のストーリーだが「ハッカー」も「サイバーマフィア」も「警察」も、まったく描かれていない。
 犯罪とは無縁の(無縁だから?)の「フェイスブック」の誕生を描いた映画でさえ、どうやってハッキングするか、最初のプログラムのつくり方をていねいに描いている。プログラム言語なんて私は知らないが、プログラムの変化の過程が描かれていた。この映画では、そういう「基本」が省略されている。ビルに侵入し、サーバーに直接接触するなんて、まるで銀行強盗。メールを送りつけ、クリックすると情報を盗み取るなんて、ありふれた手口。途中に、「プログラミング言語」が出てくるのだが、あれってほんもの? 観客はわかりっこないと思って、テキトウにつくったもの? 偽物でかまわないのだけれど、偽物であったとしても、そこで行なわれていることを「プログラミング言語」以外で視覚化しないと(あるいは言語化しないと)、「深み」が出てこない。ハプニングで答えというか、ハッキングのカギが見つかるというような要素がないと、あまりにも単純すぎておもしろみがない。
 ハッカー集団の頭の中を地下鉄車内(?)の乗客のように描いてみせるのだが、パソコンに向かっている人の「バーチャル」って、あんなもの? ちゃちだねえ。
 警察の方も「組織」がぜんぜん見えてこない。失職に追い込まれた女が活躍するなんて、アメリカの刑事ものそっくり。どこからアクセスしているか、ネットで監視しながら突き止めるというのは、結果だけをみせるのでは電話の逆探知とかわりがない。拳銃をもってハッカー集団を追いかけるなんて、ギャングをつかまえるのと同じ。頭脳作戦を放棄しているのが笑える。
 ネットマフィアも動いている感じがしない。ひとり、たしかにハッキングをしている男が殺されるが、ひとりしか殺せないマフィアなんてつまらない。おそろしさが感じられない。
 これは「ハッカー」とは無関係の、単なる「トリック」映画。それも、主人公がこどものときに祖母にしてみせたトランプ手品の次元のトリック。わざわざ「ひとは見えるものを見るのではなく、見たいものを見るのだ」とことばで解説している。この「ことば」が最後のどんでん返しのカギになる。主人公を聴取する女をだましたときの「手口」につながっていく。学生時代に流産し、こどもを産むことができなくなった女と、わざわざトラウマをことばで説明して、伏線をつくる。どんでん返しが「心理作戦」の結果であることをあらかじめ説明する。
 いちばんのトリックの見せどころは、主人公の手のケガ。釘が手のひらを貫いたときの傷跡なのだが、それに先立つ下水道のシーンがあまりにもいいかげん。下水道を歩きながら建物への侵入口を探している。そのとき男が手に釘が刺さる、という伏線があるのだが、足で釘を踏み抜くということはあっても、手のひらを釘がつらぬくなんて、ふつうはありえない。全体重を手で支えるようなシーンは描かれていない。突然、「手を釘がつらぬいた」なんて、おいおい、ありえんだろう。こんな見え透いた「嘘」をトリックの材料にするなんて、あまりにもばかばかしい。
 だいたいね、取調官に犯人が「告白」するということ、そのスタイル自体が、「心理劇」であり、「どんでん返し」のありふれた構図。「どんでん返し」しか見せ場がない、というつまらない作品になるしかない。これで成功しているのは「ユージュアル・サスペクツ」ぐらい。あの映画では「嘘」の構図を、最初から練られた嘘ではなく、その場で思いついた嘘、まわりにあるものをヒントにして嘘を生み出していくという手法がなまなましかった。変化して行く「嘘」が、変化するという「真実」をもって動いていた。
 こんな映画をリメイクしたら、誰が監督で、誰が出演しようが駄作になるしかない。
               (2015年10月07日、t-joy博多、スクリーン6)




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高橋千尋「植物の部屋」

2015-10-07 21:24:01 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋千尋「植物の部屋」(「一個」5、2015年秋発行)

 高橋千尋「植物の部屋」は、絵つきの詩。「祖父母の家の前に大きな原っぱがあって奥へどんどん入って行くと家具が沢山捨てられていた。」そういう原っぱのことを書いている。

家具は原っぱの植物のように移り変わって、増えていることもあったし、消えていることもあった。なじみの引き出しを行くたび行くたび開けた。突然出現した引き出しを初めて開けるときは高揚した。

 文字だけ読んでいると、「どこがおもしろい?」と言われそうだ。実際、ことばにむだかなく充実した手触りがあるというような、抽象的な言い方でしかおもしろさを表現できないのだが……。また、私は「詩」よりも、そこに書かれている「絵」がおもしろいなあ、と思ってしまう。原っぱの草花はリアルというわけでも、抽象的というわけでもない。何か、あ、こういう植物を見たことがあるぞ、これはタンポポかな、これはナントカカントカ(私は植物の名前を知らない)かな、と思いながら見る。名前は知らなくても見たことがあるような気がする。記憶を刺激する(誘い出す)ていねいな描写がなつかしいのである。
 そして、そこに引き出し。あ、タンスという方が正確かもしれないが、古い金具の把手のついた引き出しのタンス。そのひとつひとつが、伏せた目、すました鼻、少し微笑んで唇の端をあげた口もとに見える。「顔」に見える。言い換えると「人間」に見える。「なつかしい」表情に見える。
 そうだなあ、捨てられた家具というのは、それまでだれかといっしょに生きてきたわけだから、その人の「顔」がどこかに反映しているかもしれない。すましながら、笑っているのは、きっと高橋が近づいてきてくれたことがうれしいのだろう。タンスも高橋をなつかしがっているのだろう。
 そういうどうでもいいこと(?)をぼんやりと思ったりする。真剣に考えるわけではないが、なんとなく何かを思う。そういう詩だ。
 だが、油断はできないぞ。

成人男性用官能雑誌が落ちていた。
どろ雨を吸ってぺきぺきに固まったそれを
棒でつついてめくって、
そっと見た。
何度もそっと見た。

 この最後の二行を、どう読むか。
 それを見つけた日、「そっと見た」を繰り返したのか。何日にもわたって「何度もそっと見た」のか。私は何日にもわたって(つづけてではないかもしれないが)、繰り返し見たということが「何度も」のなかに隠れているように思う。
 高橋は原っぱへ「何日も(何度も)」行っている。引き出しを「何度も(何日も)」開けている。繰り返しても何も変わらない。でも繰り返す。なぜだろう。ほんとうは何かが変わるのである。
 「エロ雑誌」「ヌード雑誌」は、繰り返しそっと見ているうちに「成人男性用官能雑誌」に変わる。「成人男性用官能雑誌」という奇妙な「言い方」を私はしたことがないが、読んだ瞬間に女の裸やわいせつな写真を売り物にした雑誌だとわかる。ふつうはそういう雑誌は「すけべ」とか「いやらしい」とか「えろじじいの読むもの」ということばで批判されるのだが、そういうものがあふれてくると、「エロ雑誌」「すけべ」「いやらしい」では批判にならなくなる。また、そういうことばには「批判」的な意味があるはずなのに、平凡すぎて(簡単すぎて?)、ありふれた「親近感(?)」のようなものがある。「批判」にしつこさ(ほんとうに批判したいという欲望)のようなものがない。もっと突き放したい。そういう思いが、「成人」「男性」「官能」という「漢語(漢字熟語)」にかわり、ことばにととのえたのだ。「成人」「男性」「官能」には「エロ雑誌」と呼ぶときの「共感」はない。「共感/主観」を排除すること(「客観」を迂回すること)で、存在を批判している。そこには「エロ雑誌」と呼ぶときよりも強い「批判」が隠されている。
 迂回を経たことばの強さは、もしかすると「ていねい」ということと関係しているかもしれない。この「ていねい」を中心に高橋のことばをとらえなおせば、高橋のおもしろさが明確になるかもしれない。
 「成人男性用官能雑誌」は「エロ雑誌」を別のことばで「ていねい」に言い直したもの、「ていねい」なことばで繰り返したものである。「エロ雑誌」ということばを高橋は書いていないので「繰り返し」に見えないが、「言い直し」とは「繰り返し」のことである。その「繰り返し/言い直し」のなかに「ていねい」が入ってくるのが高橋のことばの特徴である。「ていねい」にことばの「形」をととのえているのである。そこにおもしろさかある。
 ことばをととのえるときのおもしろさ、ととのえられた「ていねい」のおもしろさは、捨てられた雑誌、雨に濡れてページがくっついた雑誌に、「形」になっている。

どろ雨を吸ってぺきぺきに固まった

 簡単そうに書いてあるが、これもまた「成人男性用官能雑誌」ということばと同様に、繰り返し言い直すことでととのえられたことばなのだ。雨が泥をたたき、跳ね上がった泥が雨といっしょに紙にしみこんで、それが再び乾いて「ぺきぺき」折れるくらいに固まった。そこには乾いていた紙が濡れ、再び乾くという「繰り返し」があるのだが、繰り返しを省略して、さっと書いている。「繰り返し」が省略されている。(「成人男性用官能雑誌」の場合も、「エロ雑誌」は省略された形で繰り返されていた。)
 「繰り返し」と「ていねい(に)」を補って、詩を読み直してみようか。

成人男性用官能雑誌が落ちていた。
どろ雨を吸ってぺきぺきに固まったそれを
「ていねいに」棒でつついて「ていねいに」めくって、
「ていねいに」そっと見た。
何度も「繰り返し」そっと「ていねいに」見た。

 「棒でつついて」と「ていねい」は矛盾しているように見えるが、「破れないように(ていねいに)」と読むことができる。手で触りたくないから「棒で」めくっているのだが、その動作自体はゆっくりしたものだ。だから「ていねい」と言うことができる。
 「そっと見た」の「ていねい」はすばやくではなく、ゆっくりと、時間をかけてでもある。「何度も」は「繰り返し」そのものである。そして「繰り返す」のは「ていねい」と同義語である。「エロ雑誌」ではなく、たとえば「哲学書」を「繰り返し」読むというのは、一字一句「ていねいに」読むということでもある。
 「繰り返し」と「ていねい」は、存在を自分の「肉体」そのもので受け止めることでもある。ていねいに繰り返していると、自分が対象に近づいていくというよりも、自分が対象になってしまうということがある。自分は遠く安全な場所にいて、それを「知る」のではなく、「知る」ことが「わかる」に変わるような変化がおきる。
 原っぱの草花がそれを端的にあらわしている。高橋は草花を「ていねいに/繰り返し」描くことで、その草花そのもの、そして原っぱそのものになって、世界をとらえている。
 「成人男性用官能雑誌」を繰り返していねいに見ることで、高橋がその雑誌になると書くと、とんでもないことになるが、それはたぶん、雑誌を見ながら高橋が男とはこういうものを好むのかという感じを自分自身の「肉体」にしみこませるということなのだと思う。自分なりに、そういう雑誌のもっている力を掴み取ると言い直せばいいのだろう。「エロ雑誌」と簡単に書き捨てたときとは違う「肉体」がそこにある。「成人男性用官能雑誌」と書くことで、新しく生まれ直した高橋がそこにいる。

 なんだか、ごちゃごちゃと繰り返してしまったが、高橋のことばと絵には「繰り返し」の「ていねいさ」がある。それが美しい。

*

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