詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「回転」

2015-10-06 10:06:57 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「回転」(「一個」5、2015年秋発行)

 井坂洋子「回転」は、ことばが速い。軽快である。そして明確だ。

40番のカードをおもちのお客さま5番の窓口におこしください
内野さまぁ
と銀行の窓口がよんでいる
内野さまぁ
と病院の受付け窓口がよんでいる

よばれるまでは
ソファーにすわって待っているあの感じ

焼きつくされれば遺族がよばれ
私が消失したことをたしかめることになり
社会はそうやって回転を保っている

感情の袋、袋のなかの水位の上下動も関係なく
よばれれば立ちあがり窓口まで行くしかない
行くしかない

 一連目は、銀行や病院の情景。そうと、すぐにわかる。銀行、病院と書いてあるし。で、二連目、突然「場」が変わるのだが、その「場」については説明されない。ただ、その「場」にあって、「あの場」である、銀行や病院を思い出した。いや、そうではなくて、「あの感じ」を思い出した。
 一連目で「場」や「状況」を書きながら、二連目では「感じ」に変わっている。
 「場」は「ソファー」によって引き継がれるが、ぱっと、捨てられ、「感情」に変わる。このスピードがとてもいい。
 「感情」を前面に出しながら、三連目で、「場」にもどる。。
 「焼きつくされた」と「遺族」が、そこが火葬場であることを告げる。そうだねえ、火葬場でも呼ぶねえ。「内野さまぁ」か。
 そういう「状況/場」を銀行、病院と結びつけるのは、「不謹慎」かもしれないが、そういう「不謹慎」をしてしまうのが、人間である。「状況」にどっぷりとつかるだけが人間ではない。
 この「裏切り」のスピードも、とても速い。速すぎて、「裏切り」に対して怒るよりも、なんだか「おかしい」気持ち、笑いたいような気持ちになる。「生きているなあ」という感じがするのである。
 最終連の「感情の袋」は「涙(袋)」を思いおこさせる。「水位の上下」も「涙」を連想させる。でも、涙にくれるわけではない。泣いていればいいというものでもない。いや、泣く前にすることがある。
 呼ばれれば、お骨を拾いに行かなければならない。「行くしかない/行くしかない」の繰り返しのなかに、ことばにならない「感じ」がある。「無」の感じがある。
 銀行で呼ばれるときの「現実」そのもの感じ、それから火葬場で呼ばれるときの「無」の感じ。その激しい変化。そして、その中央で、どん、と居座っている「あの感じ」ということば。
 うーん。
 それらは、すべて「あの」と言い換えることができる。
 「あの」というのは、知っている、かつて体験したことがある、ということを思い出すから、「あの」になる。
 知っている、わかっている、でも、ことばにならない。ついつい「あの(とか、あれ、とか……)」という。そういうときの「あの」の「芽生え」のようなもの。
 この詩は「あの」を書いたのだ。書いているのだ。「あの」を、井坂は発見したのだ。それが、この詩を「産んでいる」。形にしている。その「産む」スピードが速い、と言い換えることもできる。
 速すぎて、「肉体」のどの部分が刺激されたのか、よくわからない。「あ、もう一度」と言ってみたい快感がある。もう一度「あの」に刺激されると、いってしまいそう……。そういうセックスの感じ。「ことばの肉体」がセックスしている気持ちになる。

 あ、私の感想は、なんだか抽象的すぎるかなあ。「分節/未分節」ということばをつかわずに書くと、こうなってしまう。

詩はあなたの隣にいる (単行本)
井坂 洋子
筑摩書房

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山本テオ『尻尾笑傅』

2015-10-05 08:12:39 | 詩集
山本テオ『尻尾笑傅』(私家版、2015年10月28日発行)

 山本テオ『尻尾笑傅』はタイトルにある通り、「尻尾」をテーマにした詩集。巻頭は「夢のしっぽ」。

つかみそこね 壁の隙間に
消え て いっ た 七色の
先っ


 こういう短い詩。ことばが、途中から、とぎれとぎれになる。うーん、夢のなかで起きていることを再現しようとすると、思い出せる部分が断片になってしまう。それが、このぽつりぽつりというリズムかな? 「先っぽ」というひとつのことばが「先っ/ぽ」と分断されると、それまで見てきたものが全部消える感じ、夢から覚める感じ。しかも「ぽ」という無意味な「音」だけになって終わるところが、とてもいいなあ。
 一か所、その「分断」のなかに「七色の」というひとつながりのことばがある。ここから何を思う? 私は猫を思った。「七回生まれ変わる」と言われているせいかな?
 で、私は「尻尾」の持ち主が猫だとばかり思って読んでいって、詩集の最後、「はじまり」で、ぎゃっと叫んでしまった。

昨日は空き缶が落ちていた場所に
今日は一本の尻尾が落ちていた
白い毛は汚れているが猟奇的な感じはしない
猿のものか犬のものか聞かれたら犬だが
ちぎれてしまった以上もはや何者でもないだろう
こうして旅は始まるものだ
やがて
アスファルトから立ち上がり
飛び跳ねるのか転がるのか知らないが
それなりにどこかへ行くだろう
都会の舗道にはあらゆるものが落ちている

 えっ、犬?
 私は犬が好きで、実際に飼ってもいるのだが、好きすぎて「犬」と思わなくなっているのか、犬に尻尾があると意識したことがなかった。意識が消えてしまっている。人間を見るみたいに「顔」しか見ていないということなのかもしれない。
 犬だったのか、と、それこそ「最後」を「はじまり」として元にもどって読み直す。そうすると「テイルはんの告白」の最後の方、

着るもんにええあんばいの穴を開けまして、穴から出しまして、こないな具合にちょろちょろ動かして見てもらいますとな、たいてたいていのお人は歯ぁだしてえらい喜びはりますねん、

 とある。「洋服」を来ている犬は見かけるが、猫は見かけない。だから、ここで犬と気づくべきなのかもしれないが、「テイル」が語っているのだから、それはもう動物ではなく「人間」。「テイル」が比喩なのだから「着るもん(洋服)」も比喩。だから、この「テイル」が猫であってもかまわないと、私は思う。
 だいたい、

いやぁ、かなわんわぁ、あれほどいうたのにそんなにびっくりしはってからに、

 という書き出しの「関西弁」。犬が関西弁を話す? 関西弁を話すなら猫だな。犬はちゃんとした標準語を話す。
 と、思うのは、私だけだろうか。
 犬は意思の疎通ができる。だから標準語。
 関西弁というのは「わがまま」で「自分、自分、自分」というばっかりで、何を言っているかわからない。猫そっくり。
 と思うのは、私が猫が嫌いだからだろうか。

 うーん、変なところで、私の「好み」が出てしまったなあ。「地」が出てしまったなあ、と思った。私の「地」なんか、感想を書かなければ、そのまま隠しておけるのだけれど、隠すほどのこともないし、むしろ「猫嫌い」を知ってもらった方が助かるので、こうやって書いているのだが……。
 そうか、詩を読む(ことばを読む)ということは、作者のことがわかるというよりも、自分の何か(「地」、つまり奥底にあるもの)を確かめることなんだなあ、と改めて思った。

 でもねえ。たとえば「テイルさんの告白」。尻尾を「三本目の手」と書いたあと、

例えば両手で煮えたぎった鍋を持ちながら、さらにもう一本の手で豆腐をすくったりできることが自慢といえばそうですが、

 と書かれると「猫の手も借りたい」という慣用句を思い出さない?
 どうしたって、「テイルさん」は猫だなあ。

 で、ちょっと、あっちへ行ったりこっちへ来たり。「地」が出るというか、自分が出てしまう、自分を出してしまうということについて。同じ「テイルさんの告白」の最後の方、

私がきっぱりとこれは手ですと申し上げましても納得していただけず、たいていは尻尾だ、いや手だ、尾だ、手だ、手尾だ、と押し問答になるのが辛いものですから、

 ここに山本テオの「テオ」が出てくる。軽いだじゃれ、笑い話のようだが、これがこの詩集の「性質」なのだろう。
 互いに「地」を出し合って、そうだったんだ、と笑えばいいのだろう。


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エドワード・ベルガー監督「ぼくらの家路」(★★★★)

2015-10-04 20:00:30 | 映画
監督 エドワード・ベルガー 出演 イボ・ピッツカー、ゲオルグ・アームズ、ルイーズ・ヘイヤー

 育児を放棄した母親と二人のこどものストーリーだが、兄の行動をカメラはひたすら追っている。弟の世話をし、母親のことを気にかけている。幼いときから、弟の世話をするんだよ、と言い聞かされてきたのだろう。世話をしつづける過程で身につけてきた「暮らし方(生き方)」の強さがある。何もできない弟を助けないことには、弟は生きていけないということを知って、そう知った分だけ強くなっている。そして、ここで身につけた「強さ」が、いわば「あだ」のように働いている。母親さえも、彼にとっては「弱者」なのである。少年が支えなければ生きていけない。
 あ、つらいねえ。
 なんといっても、こども。母親に甘えたい。どんなにつらくても、母親が大好き。そして、母親も自分のことを大好きと信じ込んでいる。
 その少年が、預けられた施設をぬけ出し、弟といっしょに母親を探し回る。幼い弟を世話しながら、必死に街をさまよう。母の友だちは誰だったか、母の愛人は誰だったか、どこで働いていたか、覚えていることを思い出しながら訪ね歩く。その「肉体」の動きに、ひっぱりこまれる。「全身」で考え、「全身」で動く。その「真剣」に引きずり込まれる。ほかのものが見えなくなる。
 あ、逆だ。その「真剣」が照らし出す「社会」が見えてきて、ぞっとして、思わず少年になってしまうと言えばいいかもしれない。少年から見た「社会」の「絶望的な奇妙さ」が見えてくる。
 誰一人、少年たちに「親身」にならない。母親の昔の愛人(レンタカーの経営者)が少し親切なくらい。ほかの人たちは「自分のこどもではない」から関係ない、と冷たく突き放している。夜の街をさまよっている、駐車場の壊れた車のなかで眠っている、その姿を見かけても、だれも「どうしたのか」とは問わない。何か手助けできることはないのか、とは問わない。母のアパートの住人たちも、まるで少年がいないかのように振る舞っている、というか、まったく姿をあらわさない。
 うーん。
 「こどもは地域の宝」ということばが昔は日本にあったが、(最近では地域でこどもを見守る、という温かさは日本からも消えてしまったが)、ヨーロッパではどうなんだろう。そういう「地域の力」というものは、世界から消えてしまったのか。
 そんなことはないだろう、と思う。
 この映画は、少年の目から見た「世界」に限定しているのである。
 少年は、すでに、なんというか「自立」している。他人と接するとき「垣根」を持っている。それは少年が施設に入ったときに「いじめ」にあうシーンに象徴されている。「自立」が「すました」感じ、ひとりだけ「いい子」の感じになってあらわれる。それが嫌われる。みんな、だれかに甘えたい。その欲望を抱えて苦しんでいる。少年だけが「甘え」から「自立」しているように見える。幼い弟を世話しつづけてきた過程で身につけた「自立」である。
 それが、ある意味で、「おとな(地域)」を遠ざける。少年が「遠ざけた」街が、少年のまわりでくりひろげられる。それが、この映画だね。
 で、その少年が、どういう「目」で街を見ていたか。
 これは映画の途中はなかなかわからなかった。母親を探す「真剣」しか見えなかったから。
 ところが、ラスト。母親がアパートに帰っている。再会する。電話の話をする。そのとき、少年は母親が嘘をついていることを知る。それからの「目つき」の変化がすごい。「甘え」が消え「信頼」が消える。「自立」に拍車がかかる。母親が信頼に足る人間なのかどうかを見据える。顔が、がらりと変わるのである。
 そうか、少年は、母親以外の人間(社会)を、こういう目で見ていたのか。「おとな」の目をして、社会を見ていたのか。相手を見ながら、相手がどういう人間であるかを「判断」する。そういう目をしていたのか。だからこそ、大人たちは少年に声をかけられなかったのかもしれない。
 弟といっしょのシーン、弟を世話するときの目しかこころに残っていないかったが、これがほんとうの少年の目だったのだ。(施設でけんかするとき、施設のひとと話すとき、あるいは母親の友だちを訪ね歩くとき、そういえば、こういう目をしていた、と少しずつ思い出すのだが……。)
 最後、少年は、母を棄てる。母からも「自立」する。そして施設へもどることを決意する。弟をいっしょにつれていく。施設は嫌い。そこには「愛情」がない。しかし、そこには「嘘」もない。母親のように「嘘」をつかない。その「嘘のなさ」に少年は「自立」のすべてをかける。
 とても厳しい映画だ。
                      (2015年10月04日、KBCシネマ1)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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光冨郁埜「光る鱗」

2015-10-04 11:49:16 | 詩(雑誌・同人誌)
光冨郁埜「光る鱗」(「狼」26、2015年09月発行)

 光冨郁埜「光る鱗」を読みながら「わかる」と「わからない」の違いについて考えた。光冨の詩は行のはじまり、行のおわりがふぞろい。一行の中央がそろうように書かれているように見える。その形を再現するのは手数がいるので、ここでは行頭をそろえた形(ふつうの詩の形)で引用する。
 一連目。

一枚ずつわたくしの鱗を剥がしていくように
分かってもらえないならばと ひとつひとつ壊していくように
東の地に七月の風が 見えない海から吹かれて
北の玄関に吊り下げた 手首のように
鉄琴の音が生まれたときと同じ波として聞こえてきます

 冒頭の二行は印象的で、もっと「読みたい」という気持ちになる。しかし、それにつづく三行は、読む気持ちがそがれてしまう。文体が最初の二行と次の三行では違いすぎているように私には思える。
 冒頭の二行には、粘着質のものがある。「剥がしていく」が「壊していく」という動詞で引き継がれるので、「鱗を剥がす」ことが「わたくしを壊す」ことだと「わかる」。この「わかる」は、そういう読み方が「正しい(光冨の書こうとしていることを正確に把握している)」というよりも、私の気持ちが「そう読みたい」と言っているということである。「誤読」が暴走する、ということだ。
 「わたしくし」が「魚」だと仮定して、何かの理由で自分の「うろこ」を一枚ずつはがしている。なぜそんなことをするかというと、「あいて(男?)」が「わたくし」を理解してくれないからだ。「ほんとうのわたくし(鱗の下の、わたくしの内部)」をわかってもらうために、「わたくしの外側(外部)」を剥がしていく。それは「わたくし」を「壊す」ことになるのだが、たとえ「わたくしの外形(外部)」が壊れてとしても「内部」をわかってもらいたいという気持ちが、「剥がす」から「壊す」への、動詞の変化のなかにある。
 そのつづき。「外部」が壊れたあと、「内部」はどのように存在しつづけることができるか、ということを、同じ粘着力のある文体で「読みたい」。
 ところが「文体」がまったく違ってしまって、「読みたい」という気持ちが消える。
 一行目の「鱗」は「海」に、さらにそれが「波」へと変化しながら「わたくし」の存在を少しずつととのえる。「鱗」から私は「魚」を思った。それは「わたくし」の「比喩」である。その「比喩」が「海」「波」と呼応することで、より「魚」を明確にする……はずなのだが、明確になったという「実感」がぜんぜん感じられない。「魚」「海」「波」をつないでいるのは「頭」であって「肉体」ではないからだ。
 このことを「比喩」の別な形から見ていくと。
 冒頭の「比喩」は「剥がしていくように」「壊していくように」。これは「動詞+ように」という一種の「直喩」である。四行目の「手首のように」は「名詞+ように」というかたちの「直喩」である。どこが違うかというと「ように」ということばが「動詞」とつながっているか「名詞」とつながっているか、ということ。「動詞」とつながっているときは、「肉体」がその「比喩」にしたがって動く。けれど「名詞」とつながっているときは「肉体」が動かない。「手首」という「肉体」をあらわすことばがそこにあるのだけれど、「動詞」ではないので「肉体」がどう動いていいか、わからない。「目」で「名詞」があるということを確認するだけだ。(そこには「目」は書かれていないが、次の行の「聞こえてきます」が「耳」を刺激するので、私はここでは「目」が書かれているのだと確信する。つまり、「手首」が見える。)
 この「手首のように」から「手首を切る」(自殺の試み)を読むとき、最初に読んだ「壊していく」が重なる。そして、「わたくし」が「鱗(魚)」「海」「波」なのに対して、「わかってもらいたいひと(?)」が「東の地」の「地」であることも想像できるのだが、これはあくまで「頭」で「考えた」ことであって、「肉体」を動かして感じることではない。そこからは「肉体」が「覚えている」ことが動かない。「頭」が一生懸命、「事実/事件」を「婉曲的」に語ろうとしているということが「わかる」だけである。この「わかる」は「頭が疲れる」という形で「わかる」。あ、「頭」をつかって、ことばをうごかしている。「頭」で詩を書いているということが「わかる」のである。「手首」が「鉄琴」「音」という具合に、視覚が聴覚へと動いていくということがおきる。しかし、これは「肉体」の深いところでおきる感覚の融合ではなく 、「頭」でつくりあげた変化(目くらまし)である。
 二連目。

家具があるのに 収める場がないように
散らかった部屋の中央に
あなたのいないダブルベッドがかたむき
あなたを呼ぶわたくしの声なのか
ベッドのクッションに手鏡を寝かし
その弾力は生地のものなのか あなたのものなのか
聞こえない悲鳴の 夢からさめると
鏡にうつるあなたが赤子として眠っていました

 一行目に「収める場がないように」という「比喩」がある。「収める」「ない」という「動詞/用言」が「肉体」を刺激する。最終行に「赤子として」という「比喩」がある。これは一連目の「手首のように」と同じように「名詞」なので「肉体」を刺激して来ない。
 ここにいない「あなた」に何かをわかってもらいたい。そのために「わたくし」は「わたくし」を「壊す」ことさえしているのに……という「思い」は「頭」では「わかる」が、私は「肉体」では「わかる」ことができない。
 「声/悲鳴」(のど、口/耳)と「鏡」が「聞こえない(否定)」「うつる(/うつるのが見える肯定)」と「耳」「目」という形で反復されるとき、そこに「肉体」はたしかに存在はするのだが、「肉体」を動かす「動詞」が弱い。「剥がす」「壊す」というような「強さ」、能動がない。「頭部(目/耳)」を開くことで世界を受けいれるという受動しかない。
 この「比喩」の分裂が、私にはなんだか気持ちが悪い。「読みたい」という気持ちをそいでしまう。
 三連目。

あなたは頸骨を痛め
筋肉をねじらせ
わたくしは白い脚をからめます

 ここには「動詞」がある。「動詞」があると、「肉体」が動くので、おもしろい。ここに書かれているのは「記憶」なのだろうけれど、それを一連目の書き出しのように「比喩」にすると、世界はもっと生々しくなる。「比喩」というのは「事実」を隠すけれど、隠すことでよりあからさまになるものもある。
 おもしろくなるはずの詩を、光冨は「頭」で台無しにしている、と思った。未練(愛憎)というものは、粘っこいものである。もっともっと粘着力を強くして、粘着力のなかで身動きできずにもがいて死んでしまうというようなところまで「文体」が動いていくとおもしろいのに、ちょっともがいてみせては「頭」で息継ぎをしている。
 最初の二行がおもしろいだけに、読んでいてとても残念な気持ちになる。傑作になるはずの詩なのに、と悔しくなる。


豺(ヤマイヌ) 狼叢書0
光冨郁埜
狼編集室 販売:密林社


谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
panchan@mars.dti.ne.jp
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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陶山エリ「はなことば」

2015-10-03 11:29:02 | 現代詩講座
陶山エリ「はなことば」(現代詩講座@リードカフェ、2015年09月30日)

 陶山エリ「はなことば」は、いままでの陶山の作品とは少し変わっている。接続不明の切断/切断不明の接続のうねりに迷い込む感じがしない。しかし、やはりどこかに迷い込むような感覚は残っている。その全行。

中上健次の『鳳仙花』に出てきそうなおばばの手のひらに
白いまんじゅうを座らせ
花言葉を授けてみる
わたしを破かないで

磁器に似て薄い皮の下
こしあんなのかつぶあんなのか
まだ知らずに手のひらに
わたしを破かないで
つぶやいてみたりして白いまんじゅう

座らされてかなしいか
いまならテロリストにだってなれるだろうに
白い光が危うく透ける
手のひらにもう咲いてしまいそうに白いまんじゅう

アリくるぞ
うつむくな
ひんむくぞ
てのひらの
てろりすと

わらべ歌くちずさめば
風が吹くのを待たずに
字のない少女の朱色の
くちびる
むしり去る

破かないでといっているのにといっているのに

濁ったおばばの瞳は
くず桜の半透明みたいだ
半透明の目を盗んで半透明からこしあんが
見えそうで見えない
もういいよ
くず桜のはなことばはもういいよ
おばば、もういいよ

おうよ喰わんいうなんだらもうええさか

 まず受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1> 「白いまんじゅう」という詩に書かないことばをもってきている。
       それがおもしろい。
<受講者2> まんじゅうが透けるのがおもしろい。わらべ唄のような感じもある。
       笑ってしまうユーモアがある。
<受講者3> まんじゅうは買うけれど、こんなことを考えたことがない。
<受講者4> 「濁ったおばばの瞳は/くず桜の半透明」がなまなましい。
       なまぐささもある。
<受講者5> 日本昔話みたい。発想がおもしろい。
       花言葉をまんじゅうにつないでいるのが独特。
       半透明がおばばの瞳はなまなましいけれどきれい。

 受講生は、まず「題材」に注目している。「まんじゅう」というのは詩には書かないことば、という意見があったが、これは「詩」というものの考え方が少し堅苦しいかもしれない。題材ではなく、書き方に目を向け、そこから詩をつかみなおすことが必要かもしれない。
 詩は、「美しいもの」を書くのではなく、書くことによって、その存在を変えてしまうことである。書かれたもの(対象)に詩があるのではなく、その対象をどう書くか、ということろに詩があるからだ。
 この詩のおもしろさは「まんじゅう」という題材よりも、ほかの部分に目を向けた方がくっきりするかもしれない。
 五連目に「字のない少女」というのが出てくる。これは、どういうことだろう。

<質  問> 詩のなかに「おばば」「わたし」「字のない少女」がでてくる。
       この三人の関係は? 「字のない少女」って、だれ?
<受講者4> のっぺらぼうの感じ。小さな女の子。
<受講者1> 話せるけれど、字の読めない少女。

 冒頭に中上健次、「おばば」が出てきたので、私も「読む」ということばを補って字を読めない少女、と受け止めた。「おばば」の小さいころだと思った。そう思うと、この詩のなかには三人ではなく、「おばば」と「わたし」の二人がいることになるのだが、そんな簡単にわりきることもできない。
 その次の行がおもしろい。

<質  問> 「破かないでといっているのにといっているのに」は言ったのはだれ?
<受講者1> まんじゅう。

 「まんじゅう」は話せない。ものだから。でも、「まんじゅう」が「破かないで」と言っている。とても変である。
 で、一連目にもどってみると。

わたしを破かないで

 この「わたし」は「まんじゅう」。作者ではない。「わたし」ということばはあるが、それは「まんじゅう」。作者は「まんじゅう」に「わたし」と言わせている。
 このとき、陶山は、「半分」まんじゅうになっている。まんじゅうと作者のあいだを行き来して、あいまいなままことばを動かしている。
 「おばば」も、実はあいまいだ。実際に「おばば」がいるのかもしれないが、「中上健次の『鳳仙花』に出てきそうな」ということばを書いた瞬間から、そこには作者(陶山)の視線が紛れ込む。その「おばば」は「半分」は陶山である。
 陶山は、ここに書かれていることばのなかでは「わたし」ということばでは明確には出てこない。作者は隠れている。

中上健次の『鳳仙花』に出てきそうなおばばの手のひらに
白いまんじゅうを座らせ
花言葉を授けてみる

 この書き出しに「主語」を補ってみる。「陶山は」まんじゅうを「座らせ」、花言葉を「授ける」。
 二連目の後半の二行は、どうなるか。

わたしを破かないで
つぶやいてみたりして白いまんじゅう

 これは、倒置法。「白いまんじゅう」が「主語」で「白いまんじゅう」が「わたしを破かないで/とつぶやいて」いる、と読むことができる。
 ただし、まんじゅうは、つぶやかない。
 だから、これは、「陶山が」まんじゅうに「わたしを破かないで」と「つぶやかせている」のである。「わたしを破かないで」という「言葉を授け」「つぶやかせている」。使役の「主語」として、陶山が隠れている。
 その隠れている陶山が、隠れたまま陶山自身の声を発している部分がある。それが三連目。

座らされてかなしいか
いまならテロリストにだってなれるだろうに

 こう思っているのは「おばば」でも「白いまんじゅう」でもない。それに続く二行は陶山がまんじゅうを客観的(?)に描写していることになる。
 で、その陶山自身の思いのなかにあることば「テロリスト」が次のわらべ唄のなかに復活してくるとき、ちょっとややこしくなる。そのわらべ唄は陶山が書いたのか。もちろん、陶山が書いたのだが、それは形式的なことであって、詩のなかではだれが書いたことになっているか。「字のない少女=おばば」が歌っている。しかし、そこに「テロリスト」ということばが出てくる限り、それは陶山の声が反映している。「テロリスト/てろりすと」という表記の違いが、それがそのまま「陶山の声」というよりも「陶山の反映」であることをあらわしているのだが……。
 登場してくる「ひと」も「もの(まんじゅう)」も、ことばの奥底でつながって「ひとつ」になっている。あらわれるたびに「まんじゅう」「おばば」「少女」と違っているのに、奥底では「ひとつ」。
 「未分節」のところで動いていることばが、形を変えながら「分節」してきている。
 それが「見えそうで見えない」という感じで動いている。「見える」のだけれど、その「見える」を客観的に(論理的に)言おうとすると、うまく言えない。つまり「見えそう」に見えたのに、「見えない」ということになる。
 これを「白いまんじゅう」から「くず桜」に変えて、言い直している。それまで書いた「世界」を別な「もの」で「比喩」にして隠しながら、「比喩」のなかで「比喩」を剥がすようにして「陶山の世界」を言い直している。
 「濁った」と「半透明」が「ひとつ」になって、「見えそうで見えない」という世界は、そこに「作者」と「おばば」と「菓子(白いまんじゅう/くず桜/こしあん/つぶあん)」が区別なく動いているからである。存在しているというよりも、動くことで存在になっているからである。
 「くず桜」は菓子だから、「くず桜」に「はなことば」はない。あるとすれば「菓子ことば」ということになるが、それを陶山は「はなことば」と言い換えて「もういいよ」と声にしている。「くず桜(菓子)」のなかには「桜」という「花」があるために(半分まじっているために)、「はなことば」と言われても違和感がない。
 よく読むと「違和感」がある。つまり「論理的ではない」という印象があるのに、ぱっと読むと「半分」まじりあうのもののなかに「論理」につながる何かがあるために、違和感を覚えない。「おもしろい」と引き込まれる。
 「もういいよ」は隠れている陶山が「くず桜」に授けた「はなことば」なのだが、それが最後に「おばば」の声になってしめくくられる。このことも陶山は「半分」は「おばば」であることの証拠になるのだが、

おうよ喰わんいうなんだらもうええさか

 これを標準語で言い直したらどうなる?と質問したとき、作者の陶山からちょっとおもしろいことばが「ぽろり」とこぼれた。

(白いまんじゅう/くず桜を)蹂躙したいような、いじめたいような気持ちがあって、そう書いた。

 「白いまんじゅう」の花ことばは「わたしを破かないで」なのに、だからこそ「破りたい」(蹂躙したい)という。「破かないで」が「食べないというなら、もう食べないでかまわない。もう食べないでもいいよ」と言いながら、そういうことばで「白いまんじゅう」をいじめている。まんじゅうは食べられてこそまんじゅうなのだから、「食べない」というのは「いじめ」である。
 あらゆることばは、どこかで正反対の意味になる。それは逆に言えば、どんなことばも奥深いところでは「ひとつ」になっている。それが「あらわれる」ときの「あらわれ方」で「ひとつ」が「ふたつ」(正反対)になったりする。
 こういう「世界」を「小説」や「評論」で書くのはなかなかむずかしい。「詩」のように、わかったようでわからないスタイルがとてもあっていると思う。ということは、詩とは、わかったようでわからないことを、わかったようでわからないまま書いてしまうといことなのかもしれない。
 対象ではなく、「書き方」が詩であるというのは、そういうことでもある。

*

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新川和江『続続・新川和江詩集』(2)

2015-10-02 10:35:51 | 詩集
新川和江『続続・新川和江詩集』(2)(現代詩文庫210 )(思潮社、2015年04月30日発行)

 『はね橋』から「路上」という作品。

おとうふを買いに行って
はからずも 母に会った
おとうふを買いに行かなければ
会えないおかあさんだった
陽がやや傾きかけた時刻
容れものを持って
西のおとうふ屋へ
おとうふを買いに行かなければ

 とうふを買いに行き、こんなふうにして母はとうふを買いに行っていたなあと思い出している。「肉体」で母親をなぞり(母親の形になり)、ことばで言い直している。とても自然な詩。
 私は、「肉体」が覚えていることだけが「ほんとう」のことだと思っている。「肉体」が思い出し、「肉体」でそれを繰り返す(つかう)。そうやって「いのち」は続いていると考えている。
 で、この「母」を反復する新川の「肉体」について書きたいことがたくさんあるのだけれど、それを「詩」というから見直すとき、ことばのなかに別なものが見える。

おかあさん

 このことばが、四行目に「突然」出てくる。二行目には「母」とある。ふつう、肉親のことを書く場合「母」と書く。「おかあさん」とは書かない。というのは、まあ、「日本語」の古いしきたりかもしれないが。新川も、そのしきたりにしたがって書いているのだが、四行目で「母」と書くことを忘れて、「おかあさん」と書く。
 この瞬間、新川は「書く」ということ、だれかに自分のことを語るということを忘れている。「母」にひっぱられて、「こども」にもどっている。「母」と新川しかいない。ふたりのときは「母」に対して、「母」とは言わない。「母は、きょうはおとうふを買いに行かないの」とは言わない。「おかあさん、きょうはおとうふを買いに行かないの」と言う。
 これは、「ことばの肉体」の動き。それも「口語」の「ことばの肉体」の動き。「肉体」になった「ことば」の動き。
 「おかあさん」ということばには、「母」というときとはちがった「距離感」がある。「近さ」や「つながり」がある。
 新川は単に母の姿を思い出しているのではない。その母の姿につながっている何か、あたたかいつながり、安心、というようなものを思い出している。それを「おかあさん」ということばであらわしている。

--わたしも 会いたいわ
この頃すこし老けた妹が
しおらしいことをいうので
ある午後誘って
おとうふを買いに行く
水を張ったボールに
一丁ずつ入れて買い
西陽を背にうけ 帰ってくる

路上に母がいる
アルマイトのボールを抱え
おとうふを買いに行った日の母が
そろりそろり 歩いている
--ほんとうだ
  まあ おかあさん--
それに今日は 二人も並んで
母が歩いている

 ここでも同じ。「母」ということばと「おかあさん」ということばが出てくるが、「おかあさん」と行った瞬間、そこには突然「こどもの時間」があふれてくる。母をみつけた喜びがあふれてくる。
 妹と新川は、「母」になって歩く。「母」は「二人」になる。「二人」になるのは「母」であって、「おかあさん」ではない。「おかあさん」は「肉体」では表現できない。繰り返せない。「おかあさん」ということばは、瞬間的にあふれてくる気持ちなのだ。

 こういう「ことばの肉体」を引き継いで行くのは難しい。それを難しいと感じさせないで、あたりまえのようにして書いている。この「おかあさん」ということばが、この詩のいちばん美しいところだ。

 と書いておいて、こういうことを書くのは……と少しためらいがあるのだけれど。

この頃すこし老けた妹が

 という一行に私は笑ってしまった。妹が「すこし老けた」なら、年齢的には「姉」である新川は「もっと老け」ているだろう。自分だけ年をとらず、他人だけが年をとっていくように見える。これは人間の奇妙な錯覚だ。いわば、「わがまま」な錯覚だ。そういう「わがまま」と「おかあさん」がいっしょにあらわれている。
 こういうことろに、何とも言えない「人間の幸福」のようなものが輝いている。
続続・新川和江詩集 (現代詩文庫)
新川 和江
思潮社


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新川和江『続続・新川和江詩集』

2015-10-01 08:55:48 | 詩集
新川和江『続続・新川和江詩集』(現代詩文庫210 )(思潮社、2015年04月30日発行)

 巻頭の「苦瓜を語るにも……」という作品。

苦瓜を語るにも 水盤をうたふにも
場合場合に釣り合つた重さのことばを量り分けようと
わたくしのなかの天秤は
終日 揺れやむことが無い

われわれもつねに量られてゐる
死とのあやふい均衡において
からうじて今日わたくしは
生かされた と思ふ

 一連目は詩を書くときの姿勢を書いている。対象と釣り合うことばの「重さ」。そうか、「重さ」か。どちらが先にでてきたのだろうか。「釣り合う」ということが先にあらわれて、それから「重さ」がやってきたのか。「重さ」が先で「釣り合う」があとか。無意識に、つながって出てきたのかもしれない。
 もしかすると、一連目を書いているときに、すでに二連目が予感として存在し、「いのちの重さ」ということばが動いているのかもしれない。
 その一連目から、二連目へ。
 「量る」から「量られる」へと「動詞」の形がかわる。「わたくし」が「量る」のではなく「わたしく」が量られる。だれから? こういうとき、ひとは、たいがい「主語」を書かない。「主語」がだれであるか、新川は「無意識」のうちに納得している。
 でも、だれ?
 「神」と考えるのが一般的かもしれない。このときの「神」は「人間」を超える存在をさして「神」というのであって、特定の宗教の「神」ではないだろう。
 「生かされている」ということばのなかにある「生」、そして「死」ということばを手がかりにすれば「いのち」そのものを支配している「運命」というものかもしれない。(こんなことはいちいち書かずに、ぱっと納得してしまうものかもしれない。しかし、私はこだわりたい。「神」というものを考えたことがないので、簡単に「神」といっていいかどうかわからない。)
 このとき、新川が「わたくし」という前に「われわれ」という複数形をつかっていることから考えると、その「神」とか「運命」というものは、新川個人のものではなく、「人間」に共通するものである。
 だから「いのちの重さ」も「わたくし」個人のものではなく、個人を超えるもののことである。個人は生きて、死ぬ。しかし「人間」は死なない。「他者」へとつながってゆく。広がっていく。拡大して行く。

 三連目。

夜更けに空を仰ぐと
南の天涯にもやはり秤があつて
をとめ座とさそり座の間
いづれかに傾がうとして幽かに揺れるのが見える

 「わたしく」という個人から人類へと広がった視線は「地球」から宇宙へと広がってゆく。このとき、「神」ということばが、私の「頭」からぱっと消える。
 ああ、さっぱりしたなあ。いいなあ、と思う。
 宇宙の均衡。まあ、それも「神」がつくったというひとがいるかもしれないが、宇宙は人の「生死」を超える。かぎられた時間を超えるものが宇宙にある。
 二連目の「生かされた」は、「人間」であることを思い出させることばだが、三連目には「人間」であることを忘れさせるものがある。人間とは無関係に動いている宇宙。その「摂理」。そのなかで、逆に、死んでいかなければならない「いのち」の小さな輝きがいとおしく思える。
 詩がほんとうに「釣り合う」必要があるものがあるとしたら、この「摂理(真理)」なのかもしれない。そういうことを新川のことばは考えさせてくれる。
 新川のことばは「苦瓜」のような具体的なものから動きはじめ、宇宙の摂理(真理)へまで、すばやく動いていく。そのすばやさを支える、ことばのむだのなさ、ととのえ方のなかに美しさがある。


続続・新川和江詩集 (現代詩文庫)
新川 和江
思潮社



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